東京 竹橋 2012-05-29
*天慶3年(940)
1月1日
・元日朝賀の儀式は取り止めとなり、音楽の演奏も行われなかった。
公卿たちは宮中に泊まり込み、善後策を練り、この日、将門および純友に対処するために、東海・東山・南海道に追捕使15人を派遣することに決した。
東海道は従四位上藤原忠舒(ただのぶ)、東山道は従五位下小野維幹(これもと)、山陽道は正五位下小野好古(よしふる)(『日本紀略』)。
14日、彼らは随兵100人を率いてそれぞれの任地に進発。
将門・純友の蜂起にともなって、宮中の警固は厳重になり、衛府の官人たちは弓矢を常に携帯することとし、内裏の四方の門には矢倉が建てられた(『師守記』)。
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1月3日
「聊(いささ)か除目有り。海賊の時軍功を申す人等也」(『貞信公記』天慶3年正月3日条)。
「海賊の時軍功を申す人」は、承平の海賊鎮圧に功績がありながら恩賞を与えられなかったのあった人々(純友・藤原文元ら、瀬戸内海沿岸諸国に土着していた者)のこと。彼らは、それに不満を持ち、文元と備前介藤原子高との紛争を契機として、反乱に立ち上がった、と考えられている。
純友の反乱の原因について、従来は、瀬戸内海の運輸業者であった海賊たちが、純友を担ぎ上げて集団を形成し、新たな社会的位置づけを得ようとして国家に対抗した、あるいは、王臣家に組織された交易業者の中心にあった純友が、承平年間の海賊を屈服させて自らの下僚として組織し、海運権や交易権の承認を政府に求めた、などと考えられてきた。
将門と純友の東西同時蜂起に直面した政府は、将門鎮圧に全力投入するために純友の要求を受諾し、唐突にも3年半も前の承平南海賊のときの勲功申請者の除目を行い、こともあろうに備前の反受領闘争の張本で子高リンチの下手人である文元らを任官し(官名不明)、純友を従五位下に叙した。
しかし政府は譲歩しただけではなく、18日、藤原文元らを征東軍の幕僚に任命し、将門鎮圧に利用しようとした。しかし文元は任官を拒否し、備前を制圧した。これに対し政府は、追捕山陽道使小野好古を任命したが、純友勢力に対する軍事行動には慎重であり、2月3日、純友に五位の位記を届ける使者を派遣すると、翌4日、小野好古にしばらく進撃を停止するよう指示し、叙位に対する純友の反応を見守った。
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1月3日
・延暦寺・東寺・四天王寺など八ヵ寺で修法が執り行われる(『貞信公記』、『阿婆縛抄(あさばしよう)』四天王合行)。
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1月6日
・全国の神位を一階上げ、さらに伊勢神宮に奉幣使を派遣することが定められる(『貞信公記』、『師守記』貞和3年(1347)12月17日裏書)。
伊勢神宮に対しては、天皇は行幸できないが、その代わりとして公卿勅使の制ができてくる。この公卿勅使の先例を開いたのが、この月の勅使派遣である。その後、一条天皇の2例があり、以降は多くの例があり、江戸時代まで続く。
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1月9日
・出発を延期していた推問使源俊らの官位が剥奪され、任も解かれた。
将門謀反を密告し、その審議のため左衛門府に禁固されていた源経基が、謀反を密告した功績によって従五位下に叙せられた(『貞信公記』『日本紀略』正月9日条、『園太暦(えんたいりやく)』延文5年(1360)正月1日条)。
この推問使の解任と経基の叙位が同時に行われたのは、すでに将門の謀反が確定した以上、推問使の派遣が必要なくなったこと、結果として経基の告発が正しいことが確認できたことによるものである。
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1月11日
・将門を殺した者には恩賞として五位以上を、副将を斬った者には勲功に応じて官爵を与えることを約束して、東海・東山両道諸国に将門追討官符を下した(『日本紀略』など)。
事書(ことがき)には、追討に特別な功績があった者に、大きな恩賞を与えるとあり、その後で、
「将門は、悪事を積み重ね、凶悪な群党を率い、国司を虐げて印鎰を奪い、国を占領し掠奪を行った。将門は自分の身分を顧みず、国法を忘れ、ついに「窺覦(きゆ)の謀(はかりごと)」を企てた。たとえ、武装した兵が何人いようと国家を犯すことはできない。本朝はじまって以来、このような謀反は例がない。たまたま謀反を起こそうとしても、空しく自滅してしまう。天は天誅を下し、神は神兵を遣わすだろう。」
とした上で、
「そもそも一天の下(もと)、寧(いずく)んぞ王土に非ざらん。九州(国土のこと)の内、誰か公民に非ざらん。官軍黠虜(かつりよ、悪賢い者)の間、豈に憂国の士無からんや。田夫・野叟(やそう)の内、豈に身を忘るるの民無からんや。」
と高らかに宣し、天下に王土でないところはなく、身命を賭して将門に対抗する勇敢な者を集めようとしている。
「窺覦の謀」とは、将門が明らかに天下を狙っていると政府が認識していたことを示す重要な言葉である。さらに、
「若し、魁帥(かんすい)を殺さば、募るに朱紫(しゆし)の品を以てし、賜うに田地の賞を以て、永く子孫に及ぼし、之を不朽に伝えん。又次将(じしよう)を斬る者は、その勲功に随(したが)いて、官爵を賜わらん。」
との恩賞を約束した。
首領を殺したならば、朱色や紫色の服を着ることができる位を授けて田地を賜り、収公することなく子孫に伝えることを許し(功田=こうでん)、次将を斬った者には、その勲功に応じて位を賜わることを約束したのであった。服の色は衣服令(えぶくりよう)に規定があり、五位が薄い緋色(朱色)、四位が濃い緋色、二・三位が薄い紫、一位が濃い紫であった。したがって、朱紫の品とは、五位以上の位階を約束したことになる。
国家は、なりふり構わず、将門を殺す者をかき集めようとした。
この官符の威力は絶大であった。
例えば、将門の乱から7年後、将門を討ち取った藤原秀郷は、「功田を給わるべき事等」を奏上しているが(『貞信公記』天暦元年(947)閏7月24日条)、これは明らかにこの官符を念頭に置いている。おそらく、他の者たちも同様であり、将門鎮圧の機運が一気に高まったに違いない。
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