仁安4/嘉応元(1169)年
この年
・義経(11)、鞍馬寺に預けられる
・熊谷次郎直実(29)長男「直家」誕生。この頃、叔父久下直光の代役として大番役を勤めるため、京都に向う。平知盛に仕え、直光と対立。直光は管理する熊谷郷の一部を奪い取る。
・藤原良経、誕生。
1月
・平重盛、正二位に叙せられる。清盛に続いて憲仁の東宮大夫を務めたことへの賞としてで、先任者3人を飛び越えての昇進。
1月5日
・平維盛(重盛長子、11)、従五位上に上る。
1月14日
・後白河院(43)、第12回目の熊野詣。2月9日、熊野より還御。
『梁塵秘抄口伝集』によれば、12度目の参詣は「出家の暇を申しに参」ったものという。
9日より精進を始め14日発つ。26日に幣を奉る。
いつものように王子社で今様、礼殿で音楽など度々ある。俗体では今回が最後の熊野詣になるので、一人で両所権現前で長床に横になる。かがり火の光があり、衝立・衾を少し隔て、身分の区別なく、傍らに成親・親信・業房(なりふさ)・能盛(よしもり)、前の方に康頼・親盛・資行、従者らが雑魚寝。こちらは暗くて、かがり火の御神体の鏡、十二所権現おのおのが光を輝かし、神々の姿が映るかのように見える。あれこれの奉幣の物音が次々に聞こえる。神仏を供養する般若心経、もしくは千手経・法華経、各自の意向に応じて尊い。経供養のついでに、長歌から始めて古柳「下がり藤」を歌う。次に十二所の心の今様(熊野十二所権現のことを歌った今様)を、その後、娑羅林・常の今様・片下・早歌、主だった歌を歌い尽くす。神歌などを歌い終え、大曲のような歌を歌い、足柄・黒鳥子・旧川を終えて、伊地古を歌う。明け方に人がみな静かになって、人の音もしないで、心澄ましてこの伊地古を特別に歌ったところ、両所権現のうちの西の御前(結の宮)のほうで、えもいわれぬ麝香(じゃこう)の香がする。
成親が親信にこの香りのことを言い、皆が不思議に思っていると、今度は神殿が鳴るような音響を立てる。また成親が驚いて言う。次に神殿の簾が、掲げて人が入るときのように動き、それに懸かっている御神体の鏡が鳴りあって、長いこと揺れる。私達は驚いてその場を立ち去る。寅の時(午前3時~5時)のこと。
2月5日
・叡山横川中堂、焼失。
修二会(しゆにえ)に使う松明が落ちたのが原因といわれ、不動や観音像などの本尊は取り出したものの、建物は全焼。驚いた上皇は各社寺に対して火事の対策を命じる宣旨を下すとともに、伊勢神宮の造営のために朝廷の力が注がれているので、横川の中堂の再建は院の私力によって行うと約束。
3月
・「梁塵秘抄」編纂。後白河(43)自身は「梁塵秘抄口伝集」執筆。
後白河院撰の歌謡集成。今様歌謡の集成「梁塵秘抄」と今様歌謡の口伝「梁塵秘抄口伝集」(今様の伝授・歌謡史・音楽批評の書として、「私の芸能人生」的な自叙伝をベースに、後白河院自身が執筆)から成る。
現存は歌謡集巻1(抄出)第2と口伝集巻1(巻首抄写)巻10の4本。法文歌と四句神歌には、仏・法・僧という仏教の根本分類が適用されており前者には法華経歌を中心に仏典翻訳の歌が集められ、後者には神祇関係の歌・庶民の日常生活、心情を率直に歌った歌が集められる。
「そのかみ十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事なし。遅々たる春の日は、枝にひらけ庭にちる花を見、鶯の鳴き郭公(ほととぎす)の語らふ聲にも其の心を得、蕭々たる秋夜、月をもてあそび、虫の声々に哀をそへ、夏は暑く冬は寒きを顧みず、四季につけて折を嫌はず、昼はひねもす歌ひくらし夜はよもすがら歌ひ明さぬ夜はなかりき。夜は明れど戸蔀をあげずして、日出るを忘れ日高くなるをしらず、其声をやまず。おほかた夜昼を分かず、日を過ごし月を送りき。その間、人あまた集めて、舞ひ遊びて歌ふ時もありき。四五人、七八人、男女ありて、今様ばかりなる時もあり、常にありしものを番におりて、我は夜昼あひ具して歌ひし時もあり。又我ひとり雑芸集をひろげて、四季の今様、法文、はやうた早歌に至るまで書きたる次第を歌ひ尽くすをりもありき。声を割る事三箇度なり。二度は法の如く歌ひかはして、声の出づるまで歌ひ出したりき。あまり責めしかば、喉腫れて、湯水通ひしもずち術なかりしかど、かまへてうたひ出しき。あるいは七、八、五十日、もしは百日の歌など始めて後、千日の歌も歌ひ通してき。昼は歌はぬ時もありしかど、よるは歌を歌ひ明さぬ夜はなかりき。」(「梁塵秘抄口伝集」巻第10)。
今様:
平安時代後期に流行した歌謡。和讃(わさん、民衆的な仏教歌謡)、神歌(神楽歌の通俗化したもの)などを含み、催馬楽(さいばら、民謡などを歌曲化したもの)、朗詠(中国、日本の漢詩、漢文を日本読みにして歌うもの)の系統をひく歌曲など幅広い性格を持つ。
語義は、「当世風」の意で、前代からの神楽歌や催馬楽、風俗(ふぞく)などに対して「今めかしさ」を備えた新興歌謡。早くは「紫式部日記」「枕草子」などに「今様歌」の名がみえ、白河・堀川・鳥羽・崇徳の各朝に盛行、宮廷御遊の折に、朗詠とともに主要な声楽として、歌い興じたと「中右記」「台記」その他に見える。
院政期に最盛期を迎え、後白河院は「梁塵秘抄」を編纂、承安4年(1174)9月には15夜連続「今様合」(いまようあわせ)を開催。院は遊女・乙前(おとまえ)を師とし、今様は遊女・傀儡子(くぐつ)らの専門技芸として普及、宮廷の今様と庶民の今様とを媒介。
鎌倉時代、今様は「新しさ」を求めつづける力を失い、宮廷今様の歌詞は固定化、「今様伝授」として「継承」するものとなり、室町時代以降、各地の祭礼などに僅かな伝承を残すのみとなる。
・春、清盛、摂津福原に退く。
清盛の福原への退去にともなって、六波羅の泉殿も重盛が引き継いだ。清盛は六波羅では妻時子といっしょに住んでいたが、夫婦はともに泉殿を出て、かたや福原かたや西八条に居を移した。
西八条亭は平家の京都におけるもう一つの拠点であった。当時の市街地の南西隅にあたる。最盛期にはひかえめに見ても210m四方の街区(町)四つ分がまとまった空間に、大小五十余棟の建物が並んでいた。もともと時子の持ち物で、清盛が福原から上洛した時は、必ず古女房のいる西八条に入った。六波羅には徳子のお産見舞いの時以外、足を運んだ形跡がない。清盛夫妻は後継の氏長者重盛と、こういう形で完全に住み分けをしていた。
出家した後の清盛の動きについて、『愚管抄』は「平相国(しようこく)ハ世ノ事シオホセタリト思ヒテ出家シテ、摂津国ノ福原卜云所ニ常ニハアリケル」と語る。
清盛が福原に目をけたのはもっと早くから。応保2年(1162)、清盛の使者藤原能盛が摂津国八部(やたべ)郡の検注を実施して、小平野(こひらの)・井門・兵庫・福原の4つの平家領の荘園の領域を拡大させた事が鎌倉時代の史料に見える(『九条家文書』)。また清盛は永万の頃(1165-66)、八部郡の山田荘を越前国大蔵荘との交換によって獲得している(『平安遺文』)。平家領の荘園が八部郡内に生まれたのを契機にして、近くの荘園を知行する貴族たちに所領交換を働きかけ、また周辺の地主からの寄進を募って、近辺の荘園を平氏一門が知行するようになった。
そうした段階で、国司にも働きかけて一郡の支配権を獲得すると、さらに郡の検注を実施して、他の荘園との交換を積極的に行い、平家の所領を福原周辺に集中していった。応保2年(1162)の摂津守は院の近習の高階泰経(やすつね)であり、その次の国司は平氏家人(けにん)の平盛信であったので、こうした作業はスムーズに運んだと思われる。
福原に目がつけられたのは古代からの良港の輪田泊(のちの大輪田泊)が近くにあり、風光明媚な土地であったことが最大の理由であった。しかしそこが隠居の地に選ばれたのは、鳥羽院政の頃に摂関家の忠実が隠居していた宇治の別荘にならってのものであろう。宇治は京を出て大和の春日社に向かう途中に位置した水辺の土地である。それと同じく福原は京を出て平氏の氏社である厳島神社に向かう途中に位置していた。都を出て厳島に向かう船は淀川を下って瀬戸内海に入ると、最初に泊まるのが輪田泊であり、ここで用船から海船に乗り換えることになる。
摂関家は宇治に上皇を迎えて接待したが、同様に清盛は上皇を迎えようともくろんでいた。この年(仁安4年)3月20日には後白河上皇を福原に迎えて千僧供養を行い、また高倉天皇が譲位すると、治承4年(1180)3月に福原に迎えている。
二条天皇が亡くなって以後、清盛は摂関家に模して武家の存在を朝廷のなかに位置づけてきており、さらに出家の後も実権を保持しつつ、影響力を行使する方式を摂関家の忠実にならっていたので、福原の別荘もその線上で造営したのであろう。
3月13日
・後白河上皇、高野山参詣に出発。
3月20日
・後白河上皇、平清盛の福原別業(「入道大相国の福原御所」)に御幸。
翌21日、千部法華経の供養を千人の持経の僧によって行う(千僧供養)。
3月20日
・厳島神社造営日程が定まる。4月3日に開始、仮殿を12日に造り、18日に神体を移して正殿の造営を始め、6月18日・7月2日には神体を戻す、という日程が陰陽寮(おんみようりよう)から報告される(『兵範記』)。なお、「伊都岐島(いつくしま)神社」の額は園城寺の前大僧正の覚忠(かくちゆう)に依頼している(『玉葉』)。
つづく
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