仁安3(1168)年
4月
・栄西入宋
6月20日
・新田義重、新田庄の空閑の6郷をらいおう御前(得川義季か)に、19郷をらいおう母に譲る。
6月29日
・高倉天皇の外祖父故平時信に正一位左大臣を追贈。
7月
・平時忠(42、時子の弟)、検非違使別当に補任。以降、1177年11月迄、時忠と院寵臣で平氏の姻族藤原成親が別当を独占。摂関家領荘園や、院領として集積・統合されつつあった諸荘園の所職知行、したがってこれら諸荘園における私的武力と検断の面でも、平氏の大幅な関与が行なわれるにいたる。
8月4日
・平時忠(42、時子の弟)、正三位に叙任。10日、権中納言に任命。
8月4日
・平重衡(時子の三男)、従四位下に叙任。
8月10日
・平教盛(41、清盛弟)、参議に任命。12日、正三位に叙任。
養和元年権中納言、翌寿永元(1182)年従二位、同2年正中納言に進む。
10月
・藤原(花山院)忠雅、太政大臣。久我雅通、内大臣。
25日の慶賀の儀式には公卿・殿上人など一家の人々が付き従う以外に、平氏の宗盛や教盛、検非違使別当の時忠がおり、さらに信範の子左衛門佐信基も先駆を勤めた。それは「入道大相国の命」によるものであったという。
28日に清盛の娘は大嘗会の御禊(みそぎ)に派遣される女御代(にようごだい)に指名されたが、この娘は忠雅の子兼雅の妻となって「花山院大相国亭」から出立することになったという。『平家物語』「八人の娘達の事」の章によると、この清盛の娘は、当初は信西の子の桜町中納言成範(なりのり、もとは成憲)の北の方となったが、平治の乱によって破棄され、やがて兼雅の御台所(みだいどころ)となって数多の子を儲けたと見える。その長男の忠経が花山院家を継承することになる。
■清盛の8人の娘たちの行く末
『平家物語』に見える清盛の八人の娘たち。2人目の徳子は即位した天皇への入内へ話が進んでいた。のちの高倉の中宮、建礼門院。
次の摂関家の基実(もとざね)の北政所となった盛子は前年11月18日に准(じゆ)三宮となり、高倉天皇の母代(ははしろ)とされている。平治の乱前に藤原信頼の子信親と婚姻した娘は、信親の失脚後は大納言藤原隆季の子の隆房の北の方となって子を儲けた。他に基実の子基通(もとみち)の北政所となる娘や、七条修理大夫(しゆりだいぶ)藤原信隆の北の方となる娘、厳島の巫女の内侍(ないし)との間に生まれた娘、九条院の雑仕(ぞうし)常磐との間に生まれた娘などもおり、その処遇をめぐって心を砕くことになる。
9月
・栄西(平頼盛援助)・重源、宋より帰国。
9月5日
・後白河院、熊野に御幸。10月6日、熊野より還御
10月
・秋、藤原定家(7)、父と共に清涼殿に候し詠歌。
・備後尾道浦の倉敷免除の申請。
この月、備後国の大田荘の下司(げし)は、年貢米の運上のための倉敷にあてたいので、尾道(おのみち)村に五町分の地の官物などの免除を要求。この荘園は清盛が領家(りようけ)となって成立した院領であるが、内陸部に位置していたことから、その年貢米の運上の便宜と称して尾道の領有を求めたもの。この訴えは国司に認められ、その後、尾道は尾道浦として優秀な港湾へと発展していく。また、厳島までの航路の安全も確保されたことになる。
10月18日
・平頼盛(37、清盛弟)、参議に任命。
10月22日
・中宮藤原育子、出家。
11月
・厳島神社の神主佐伯景弘、朝廷に解状を提出し、厳島神社の造営のことを訴える。
厳島神社は推古天皇の時代に造られて以来、「鎮護国家の祠」「安芸国第一の霊社」として多くの人々の参詣と尊崇を受けてきており、神主貴弘は佐伯鞍職(くらもと)の子孫として、神の託宣によって神主となり、神主は神社が破壊した時には朝廷に上奏して造営を行うこととされているので、ここに造営を願い出た、という。
その際、私力では何ともなしがたいゆえ、安芸の国司の重任(ちようにん)の功により、華麗にして荘厳な社殿の造営を求めるとし、その先例として伊勢の多度社(たどしや)や駿河の浅間社(せんげんしや)、常陸の鹿島社などが国司の重任の功で造営された例をあげ、造営すべき建築物とその寸法を列挙している(「厳島神社文書」)。
景弘は清盛の家人(けにん)で、朝廷の官職を得るために便宜的に平姓に変えたこともあり、掃部允(かもんのじよう)・民部允(みんぶのじよう)を経て五位に任じられ、この頃には「佐伯民部大夫(みんぶたいぶ)」と称されている。安芸守も清盛の家人の藤原能盛(よしもり)であるから、清盛は安芸の国力をあげて厳島神社の造営を行おうとした。
11月14日
・大嘗会。
11月28日
・平頼盛、子の保盛とともに解官(げかん)。
理由は、五節(ごせち)の節会(せちえ)において舞姫の参入や御覧の儀式の勤めなどを毎度怠ったことにあり、上皇の逆鱗に触れたことによる。この年の舞姫は検非違使別当の平時忠、中納言藤原成親、左大弁源雅頼(まさより)、尾張守平保盛、能登守平通盛(みちもち)らが献上することになっていたが、保盛が何かにつけて勤めを怠って譴責され、父頼盛がとりなしの訴えをしたにもかかわらず、父子ともに解官となった。尾張は頼盛の知行国であって、頼盛が実質の責任者であった。
また、大嘗会の際の大極殿の御帳の敷物が不足し、錦が頼盛に課されていたが、頼盛は大宰大弐として鎮西を知行していたのに、大嘗会関係の課役をいっさい勤めなかったことも問題にされたらしい。
更に、後白河が怒ったのはそれ以前からの頼盛の行動にも由来していた。
頼盛が滋子の入内の時にも奉仕しておらず、何の音沙汰なしに厳島神社に赴いて、清盛の諷諌(ふうかん)によって慌てて上洛したこともあったという。「厳島神社文書」には10月18日付の頼盛の仏舎利奉納状があり、年来安置していた舎利を夢想によって大明神に寄せる旨を述べているが、これは無断で厳島神社に赴いたこの時のものと見られる。
12月13日の除目では、頼盛の家人6人も解官されており、後白河の怒りの激しさがうかがえる。
頼盛は翌嘉応元年(1169)12月に還任。
12月
・平重盛、病気で権大納言を辞す。
12月13日
・藤原俊成、右京大夫に任じられる。
12月21日
・伊勢神宮の正殿(しようでん)焼失。
権神主大中臣師朝(もろとも)の宿館から出た火が正殿に燃え移って全焼したが、正体(しようたい)は無事保護したという伊勢祭主大中臣親隆(ちかたか)からの書状が24日に京に届いた。国家鎮護の宗廟(そうびよう)の焼失により慌ただしく陣定が開かれ、徳政の行われるべきことなどが議されている。
0 件のコメント:
コメントを投稿