嘉応2(1170)年
この年
・この年、『今鏡』成る
・この頃、若狭三方郡倉見荘の成立。領家は京都にある新日吉社。
・藤原雅経、誕生。
1月5日
・藤原成親、右兵衛督兼検非違使別当となる。
1月13日
・大衆の発向を抑止するために検非違使が西坂本に派遣され、再び緊迫した情勢が訪れる。
1月13日
・夜、平頼盛、延暦寺蜂起の話をする為、清盛在住の福原へ赴く。14日朝、平重盛、福原へ赴く。
1月14日
・地震あり。
1月17日
・平清盛(53)、山門強訴(前年12月23日)で入洛。六波羅辺りに武士が終結。
1月22日
・裁断は再び逆転。成親流罪と時忠・信範召し返しについて審議。
1月27日
・延暦寺僧徒、藤原成親(33)解官と平時忠(44)・信範(59)召還を求めて強訴。
2月6日、藤原成親を解官、平時忠・信範を召還。
「成親卿の事に依りて大衆参陣の時、左衛門の陣の方、頼政これを禦ぐ。大衆、陣を敗る能わず」(「玉葉」)。
これ以後、院政は大寺院の大衆の動きに翻弄される。そして清盛の存在なくしては、山門強訴などの事件も解決できないことが明らかになり、天下の大事と清盛の福原からの上洛とは密接不可分なものとなった。
平時忠、以後は順調で、承安2(1172)年2月、清盛と時子の娘徳子が高倉天皇の中宮に立つと、大夫(長官)の四条隆季と並んで権大夫になり、承安4年には先任者4人を越えて従二位に昇る。最終は正二位・権大納言。
2月12日
・山門の紛争解決。
2月16日
・伊勢神宮以下の七社に感謝の祈りがささげられ、法皇は熊野参詣に向かい、建春門院は高倉天皇の祈りのために宗盛と平親宗(ちかむね)の奉行によって佐伯景弘を使者に立て、神宝と奉幣を厳島神社に送る(「厳島神社文書」)。
4月
・この月と安元2年(1176)6月、土地売買に宋銭を使用した例が見える(『平安遺文』)。宋銭が重要な流通手段となっていった。早くは久安6年(1150)8月に見える。治承3年(1179)4月の疫病は「銭の病」と称される(『百錬抄』)。
4月19日
・後白河上皇(44)、東大寺で受戒のため南都に御幸。20日受戒。清盛も列席。戒師は、東寺長者権僧正禎喜。勅封蔵を開き宝物を御覧
4月21日
・臨時除目。平重盛(33)、権大納言に補任(返り咲き)。藤原成親、権中納言・右兵衛督兼検非違使別当に還任。平清盛、福原へ戻る。
4月23日
・故藤原基実の嫡男基通(11)、元服・叙爵。清盛、基通の元服を待って、娘完子を基通に嫁がせる。
4月下旬
・伊豆大島の流人源為朝(32)追討。狩野茂光・伊東・北条・宇佐美・加藤(景廉が為朝討取る)・澤・新田・藤内。
閏4
・延暦寺別当光明、末寺の平泉寺住僧らを殺害し阿波に配流(「百練抄」同年閏4月3日条、「玉葉」閏4月16日条)。
4月4日
・基通の拝賀の儀式
4月20日
・地震あり。
5月16日
・藤原信親(16、故藤原信頼の子)を伊豆へ配流とする。
5月25日
・奥州3代目藤原秀衡(49)、鎮守府将軍に任命、従五位下叙任。初めて中央政権が奥州藤原氏の存在を認める。日宋貿易拡大で需要が伸びた金の確保のため。
九条兼実は「夷狄(いてき)」の秀衡を将軍に任じたことについて「乱世の基」と指摘しているが、日宋貿易において宋の商人が求めていたのが金であることから考えれば、金の貢納と引き換えで秀衡を鎮守府将軍に任じたことが推測される。鎮守府将軍は陸奥国の産物を折半して収入としており長らく陸奥守の兼任とされていたが、秀衡を陸奥守と切り離して任じ、その産物の収入を保証しつつ、金の貢納を求めた。
兼実が「乱世の基」と記したのは、摂関家が常に奥州藤原氏を「夷狄」として警戒をしてきたことによるものであり、摂関家領が奥州に成立していても、その警戒を解いてこなかった。しかしさらにこの時期の兼実に乱世の思いを強くさせたのは、前年同様に天下に旱魃が起きたり、洪水に見舞われていたからでもある。
5月25日
・鳥羽院七宮覚快(37、生母美濃局)、親王の宣旨。
6月6日
・藤原忠雅、太政大臣辞職。
つづく
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