2022年6月4日土曜日

〈藤原定家の時代015〉仁安4/嘉応元(1169)年 後白河(43)出家して法皇となる 延暦寺の大衆の蜂起(山門強訴) 後白河の画策失敗

 



仁安4/嘉応元(1169)年

4月8日

・「嘉應」に改元。

4月12日

・皇太后宮平滋子(28)に建春門院の院号宣下。

後白河出家のための布石。

平時忠、女院庁の別当に就任。

女院は天皇の母や三后(太皇太后・皇大后・皇后(または中宮))・内親王などのうち、朝廷から院号を与えられた者を指す。そのなかで宮城の門名を付すものを門院といい、待遇は上皇に準じた。東山の法住寺御所における滋子と後白河の優雅な生活については、彼女に仕えた女房の中納言(藤原定家の同母姉)の日記『たまきはる』が生き生きと伝えている。(「平家の群像」)

4月23日

・平泉中尊寺に石造りの五輪搭が造られる(五輪搭の初見)。

4月26日

・高倉天皇、石清水八幡宮寺に行幸。

6月17日

・後白河上皇(43)、体制安定を見て出家。法皇となる。

法住寺御所の懺法堂(せんぽうどう)において出家の儀式。出家の戒師をはじめ8人の役僧はすべて三井寺の門徒が選ばれた。戒師は前大僧正の覚忠、唄師(ばいし)は法印の公舜(こうしゆん)・憲覚(けんかく)、剃髪は尊覚(そんかく)・公顕(こうけん)が勤めており、三井寺の僧への帰依の深さが知られる。出家にともなって大赦が発令され、左右の獄にあった93人と検非違使所にあった134人の囚人が解放され、流人となっていた悪僧15人(興福寺の恵信に与力した2人、延暦寺の悪僧7人、高野の僧3人、興福寺の悪僧3人)が召し返された。

以降も毎年、熊野行幸・厳島行幸をおこない、土地の巫女や遊女、傀儡などと交流、歌を集める。

10月12日

・叡山横川中堂ができる。

10月15日

・後白河院、出家後初めての熊野参詣に建春門院を帯同して出発。

11月25日

・平重盛(32)の妻経子(大納言典侍(ないしのすけ)、高倉天皇乳母)が八十嶋祭使を務める。

一族の人々20余人、家僕の諸大夫20余人が前駆を勤め、典侍の車のすぐ後ろに護衛の知盛が従い、公卿に大納言藤原隆季、右兵衛督花山院兼雅、中納言藤原成親、別当平時忠、宰相中将宗盛、参議教盛、大宰大弐藤原信隆が連なり、武士の左衛門尉平貞頼(さだより)が随兵70人を引率。そのありさまを法皇と建春門院が七条殿の桟敷で見物しており、そこには法皇と入道相国の連携になる政治がよく示されている。

12月11日

・覚性法親王崩御

11月23日

・延暦寺の大衆の蜂起(山門強訴)

出家した法皇・清盛の連携の政治はともかくも順調に進んでいったが、炎旱や疫病に、打ち続く朝廷の行事や院の仏事・行事の過重な負担など、諸国は疲弊し、紛争が起きつつあった。その発端がこの月の延暦寺の大衆(だいしゆ)の強訴である。

尾張守藤原家教(いえのり)の目代右衛門尉政友が、美濃国の平野荘の住人で比叡山の中堂に油を奉仕する日吉神人(ひえじにん)を陵礫する事件を起こし、それぞれに朝廷に訴えた結果、神人3人が禁獄に処された。怒った大衆が反撥して訴え、神人の解放を勝ち取るや、さらに尾張の知行国主の藤原成親(なりちか、32)の流罪を求めて訴えてきた。

23日、大衆が山を下りて京極寺に集まり洛中は大騒動。検非違使や武士は院の御所に集まって警護したが、大衆は、座主以下を押し立て大内に向かい、神輿を待賢門・陽明門の辺に据え置いて幼い天皇に訴えた。声を放ち、鼓を叩き、高声狼籍は極まりないものであった。法皇は院の殿上で太政大臣以下を集めて議定を行い、大衆に院の陣に来るように説得させたが、大衆は動かず、そこで内大臣源雅通の提案によって、重盛300騎、宗盛200騎、頼盛150騎らの武士を派遣して内裏から追い出すことについて審議した。しかし、夜中のことなので危ないという理由から出席者の賛同が得られず、ついに大衆の要求に折れて目代の解官と獄所への拘禁の処分を決めて伝えた。だがそれでも大衆は納得せず、ついに神輿(しんよ)を放置して分散してしまったことから、やむなく翌日に成親の備中国への流罪を伝えた。これによって大衆は喜んで山上に帰り、神輿も帰座した。

九条兼実はこの事態について、いっさい裁許しない方針が大衆がやって来るとすぐに捨ててしまうのは「朝政に似ぬ」ものであり、武士を派遣できなかったことも「有若亡の沙汰」である、と厳しく批判。

その批判に応えるかのように、27日、法皇は大衆の騒動によって成規を流罪に処したことを悔いて、騒動にくみしたという理由で座主明雲を護持僧から除き、さらに大衆の言い分のままに動いた(奏事不実の嫌疑)として、伝奏平時忠(43)と蔵人頭平信範(58)を解官・流罪となし、成親を召し返す措置をとる。

時忠・信範の処分は院側の面子を保つためのもので、両名は配所に至らず翌年1月に召喚。

12月30日、成親、還任(翌年2月再び解官)。

専制化が顕著になってくる後白河院と権勢を高めた清盛は、次第に政治上の対立者として互いに認識せざるを得なくなってくる。しかし、両者の対立の間に、第三の勢力として僧兵という軍事力を擁する寺院勢力が現れ、複雑な暗闘が繰返される。

平氏は清盛が天台座主明雲を導師として出家したほどの深い関係を維持していたため、裏から巧みに延暦寺勢力を操縦していた可能性が大きい。一方で、後白河(及び院近臣)は、平氏と延暦寺を離間させるために、延暦寺を挑発したとも考えられる。

しかし結果として、後白河による、成親解官と時忠・信範の流罪撤回(翌年2月)によって事件の落着を図らざるを得なかったということは、後白河側の様々な画策は失敗したということになる。


つづく

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