2024年7月8日月曜日

大杉栄とその時代年表(185) 1896(明治29)年4月7日~25日 一葉『たけくらべ』(『文藝倶楽部』)一括掲載 子規・露伴・鴎外が激賞 一葉の評価不動のものになる 南方熊楠、ロンドンにて母の訃音を受け取る 政府・自由党提携(板垣内相) 漱石、熊本の五高の赴任 子規「松蘿玉液」(『日本』~12月31日)     

 

「三人冗語」の(左より)鷗外、露伴、緑雨

大杉栄とその時代年表(184) 1896(明治29)年3月16日~4月6日 子規、腰痛はリュウマチではなく脊椎カリエスだと知る 第一回のカリエスの手術 漱石の第五高等学校転任発表 星亨、駐米公使に任命 より続く

1896(明治29)年

4月7日

朝鮮、徐載弼ら、初のハングル民間新聞「独立新聞」発行。300部→3千部。李承晩(22)もメンバ。

4月9日

新潟地方裁判所長高野盂矩、芳川顕正法相・清浦奎吾司法次官に懇望されて台湾の司法制度確立の任につく。この日、まず総督府民生局事務官の辞令。

5月13日、台湾総督府法院判官および高等法院長・法務部長の辞令が出る。

4月9日

午前9時、愛媛県尋常中学校講堂で漱石の告別式。嘱託教員として依願退職。

夕刻、宮本(久保)より江を連れて湊町の向井で、呉春・応挙・常信の画譜を買い与える。道後温泉に赴き、別れを惜しむ。三津浜の久保田回漕店に村上霽月が訪ねて来る。

4月10日

漱石、東上する虚子を伴って松山を出立(三津浜から乗船)。横地石太郎校長・村上霽月・宮本(久保)より江ら見送る。宮本(久保)より江(推定)に、「わかるゝや一鳥啼て雲に入る 愚陀佛」という句を与える。一等船客は高浜虚子と2人。快適な船旅を楽しむ。

虚子と共に宮島に一泊。虚子、「廻廊も鳥居も春の潮かな」と詠む。宮島から宇品に向う。広島で東京に向かう虚子と別れ、汽船で門司に赴く。11日博多泊。12日久留米泊。

4月10日

この日発売の『文藝倶楽部』第2巻第5編に一葉『たけくらべ』を一括掲載。『たけくらべ』は明治28年の1年間「文學界」(文学を志す青年たちの同人雑誌)に断続掲載されたが、無名の一葉は発表当初は無視されていた。『たけくらべ』が完結すると、博文館の大橋乙羽が掲載誌を集めて一葉に届け、『たけくらべ』の改訂整備を依頼した上で、「文藝倶楽部」に一括掲載することにする。3月中に改訂原稿は届けられる。

「日本新聞」で子規が、「目不酔(めざまし)草」で幸田露伴・森鴎外が、激賞。

4月12日

佐々城信子、国木田独歩のもとを去る。24日、離婚成立。翌明治30年1月、信子は女子を出産。

4月13日

漱石、熊本に到着、菅虎雄の家に旅装を解く。借家なく菅虎雄の許に同居する。第五高等学校の生徒3人が寄宿していた離れに住み、生徒たちは、玄関脇に移される。

4月13日

南方熊楠、ロンドンにて母の訃音を受け取る


「すみは、明治二九(一八九六)年二月、熊楠のロンドン滞在中に五八歳で亡くなっている。


小生ロンドンで面白おかしくやっておるうちにも、苦の種がすでに十分伏在しおつたので、ロンドンに着いて三年めに和歌山にあつた母また死せり。「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」。(中略)小生最初渡米のおり、亡父は五十六歳で、母は四十七歳ばかりと記臆す。父が涙出るをこらえる体(てい)、母が覚えず声を放ちしさま、今はみな死に失せし。兄姉妹と弟が瘖然(いんぜん)黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触(さわ)り得るように視(み)え申し候。(「履歴書」)


この年の四月一三日の熊楠の日記には、「朝父の尸(しかばね)を夢む。母も側にあり。已にして七時頃、国元より母の訃音申し来る状二道、及葬式写真六枚うけとる」とある。この写真は、左の一文にある「母の死骸の前に兄弟が並んだ」写真であろう。


予も竜敦に在て母の訃に接し、例の方の咄しも五日程全廃した程力を落したが、幸ひに弟が気付て、母の死骸の前に兄弟が並んだ所を、故柴田杏堂翁に写させ送り呉れたので、聊か自ら慰むる便にもなったばかりか、今日迄も時々其写真を眺むると、不覚(そぞろ)涽然(さんぜん)涙下るを禁ぜず。(中瀬喜陽編著『南方熊楠、独白』)


熊楠の母への思いもまた深かった。」(『漱石と熊楠』)

4月14日

政府・自由党との提携、板垣内相就任。

この頃、「東京新聞」助成のほか、自由党に対して内閣機密費から板垣の2千円、自由党遊説費1500円などが支払われる。4、5月の機密費支出1万9878円中、自由党関係へは5790円(29%)となる。

自由党員三崎亀之助は内務省県治局長、同栗原亮一は内務大臣秘書官、星亨は駐米公使に就任。板垣の内相就任は、超然主義の重大な修正として正統派超然主義者を反撥させ、貴院の官僚出身勅選議員、衆院の品川弥二郎率いる国民協会、板垣の下に立つ地方長官の一部が「伊板内閣」出現に危機感を募らせる。これら正統派は伊藤や政党勢力に対決する指導者を山県有朋に求め、山県内閣実現に向って結束を固める。

政府内武闘派(特に県知事)の反撥強い。京都府知事や真だ信道・山口大浦兼武・熊本松平正直・大阪内海忠勝・静岡小松原英太郎ら、辞意表明。山縣有朋を中心に自由党との提携に反対するグループが形成。

「後の政党史を作る者、宜しく自由党の滅亡を紀して筆を板垣伯に絶つべき也」(「大阪朝日」)。

4月14日

漱石(29)、熊本県の第五高等学校講師として赴任。7年間在籍(うち2年余はロンドン留学)。

『フランスの革命』『ハムレット』『オセロ』を講義する。


「四月十四日(火)、第五高等学校教授(嘱託)に赴任する。担当は英語。校長は中川元、教頭は桜井房記、英語主任は佐久間信恭である。英語の教師には、浅井栄熈・大浦肇・荻村錦太・中川久知(博物を兼ねる)・賀来能次郎(ドイツ語・地学・史学を兼ねる)・杉山善三郎(数学・力学を兼ねる)篠本二郎(地学・鉱学を兼ねる)・外人教師国 Henry Fardell (ヘンリー・ファーデル。フランス語を兼ねる)がいる。(『五高五十年史』 昭和十四年三月三日) 

四月十四日(火)以後から、第五高等学校では、毎週八時間のバーク(Edmund Burke, 1729-1797)の『フランスの革命』 ""ReActions on the Revolution in France""(1790) のほか、毎日午前七時から八時まで、四キロの道を歩いて、Shakespeare (シェークスピア)の Hamlet (「ハムレット」)や Othello (「オセロ」)などを課外に講義する。」(荒正人、前掲書)

4月16日

鉄幹(23)、直文の招電により朝鮮より帰国。明治書院の編集部主任となり、「中等国文読本」等の編集を助ける。また、跡見女学校の国文科教師となる。

4月17日

朝鮮、朝鮮駐在公使小村寿太郎、朝鮮政府に対し米人モールスに京仁鉄道敷設権を与えることは暫定合同条款違反と抗議

4月20日

日本勧業銀行法・農工銀行法・農工銀行補助法、公布。

4月21日

子規「松蘿玉液(しようらぎよくえき)」(32回、『日本』~12月31日)。題名は中国産の墨の銘に由来する。

『墨汁一滴(ぼくじゅういってき)』『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』と並ぶ子規晩年の四大随筆の第一作。

4月25日

『めさまし草』まきの四の「三人冗語」は最高の表現で「たけくらべ」を称えた。『めさまし草』は森鴎外の主宰する雑誌で、森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨の「三人冗語」は、当時文壇の最高の権威とされる三人の紙上合評形式で行われた。一葉の評価不動のものになる

「ひいき」の露伴は、人間心理の機微に分けいった描写を具体的に挙げ、「多くの批評家多くの小説家に、此あたりの文字五六字づゝ、技倆上達の霊符として呑ませたさものなり」と言う。

「第二のひいき」の鴎外は、「われは作者が捕へ来りたる原材とその現じ出したる詩趣とを較べ見て、此人の筆の下には、灰を撤きて花を開かする手段あるを知り得たり。われは縦令世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ稱(しよう)を於(お)くることを惜しまざるなり。・・・まことに獲易からざる才女なるかな。」と賛辞を語る。


4月下旬

一党、「通俗書簡文」脱稿


つづく

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