2024年7月9日火曜日

大杉栄とその時代年表(186) 1896(明治29)年5月1日~2日 与謝野晶子(18)、堺敷島会に入会 禿木と秋骨が一葉を訪問、鴎外の「たけくらべ」激賞を喜ぶ 「われはたとへ世の人に、一葉崇拝のあざけりを受けんまでも、此人にまことの詩人といふ名を送る事を惜しまざるべし」(鴎外) 一葉自身は、「そは槿花の一日の栄え」に過ぎず、「たヾ女子なりといふを喜びてもの珍しさ」に騒いでいるのだと冷ややか   

 

『めさまし草』(明治29年1月創刊)

大杉栄とその時代年表(185) 1896(明治29)年4月7日~25日 一葉『たけくらべ』(『文藝倶楽部』)一括掲載 子規・露伴・鴎外が激賞 一葉の評価不動のものになる 南方熊楠、ロンドンにて母の訃音を受け取る 政府・自由党提携(板垣内相) 漱石、熊本の五高の赴任 子規「松蘿玉液」(『日本』~12月31日) より続く

1896(明治29)年

5月1日

朝鮮、柳麟錫指揮反日義兵の拠点・忠清道堤川、政府軍に陥落

5月

島村抱月「朦朧体とは何ぞや」(早稲田文学)

5月

若山牧水(11)、延岡高等小学校第1学年に入学。宮崎師範卒業で優れた文章家であった日吉昇の受持となり影響を受ける。

5月

この頃、一葉、病床で原稿を書くようになって、来客がある時に起きて応対していたが、平田禿木はすでに「顔はもえほてりて眼は光り凄く身のみは疲れゆき給ふやうなる」と、病状の悪化に気づいていた。

この月初旬、春陽堂が一葉に専属作家になるように勧めてくる。

加藤孫平の手紙を最初として、読者からの手紙が続々と寄せられるようになる。

5月

与謝野晶子(18)の旧派和歌の時代。この月、堺敷島会に入会。「堺敷島会歌集」第3集「郭公」欄に1首発表

6月、同第4集「故郷橘」欄に1首発表。7月、同第5集「川蛍」欄に1首、「夏日」1首発表。8月、同第6集「浦納涼」欄に1首、「夕立」1首発表。9月、同第7集「夜虫」欄に1首、「寄月恋」1首発表。10月、同第8集「峯鹿」欄に1首、「晩鐘」1首発表。11月、同集「山時雨」欄に1首、「海辺松」欄に1首発表。

○関西文壇。

①堺敷島会。明治28年6月頃から渡辺春樹を中心に集まった会で、堺の新在家町にある真鍋台鎮(主事)の家に本部が置かれ、真鍋が駿河屋の近くで時計屋をしており、真鍋から晶子はこの会のとを知る。晶子の弟籌三郎もこの会に入会。後に「よしあし草」で活躍する中山梟庵や覚応寺の河野鉄南も会員。

②浪華青年文学会。明治30年4月、高須梅渓、小林天眠、中村吉蔵などが発起人となり結成。会員14名で同年7月機関誌「よしあし草」創刊。同31年12月河井酔茗が中心となり堺に支会を作り、会員41名となる。晶子の弟籌三郎も入会、晶子は同32年2月に入会、詩「春月」、5月詩「わがをひ」、8月から短歌を発表。同33年8月から「わか紫」と合同、「関西文学」となる。同誌は翌34年2月34冊をもって廃刊。

5月

川上眉山(27)の父栄三郎、没。義母・子供・負債が残る。

5月

ジェイムズ・コノリー、初の社会主義政党アイルランド社会共和党(ISRP)、結成。

5月

日本海軍練習艦金剛マニラに入港、カティプーナン代表が支援要請。

5月1日

台湾総督府法院条例(律令第1号)、公布。行政・立法権を持つ総督が司法権を持つとされる。

5月1日

郡是製糸㈱、設立(グンゼの前身)。

5月1日

カージャール朝ペルシャ国王ナーセッロディーン・シャー、パン・イスラム主義者に暗殺

5月2日

一葉日記、2月~この日まで中断。「通俗書簡文」執筆と健康悪化の時期と思われる。

この日より「ミつの上日記」始まる。~6月11日。署名「なつ」

この日の日記。禿木と秋骨が「めさまし草」の「たけくらぺ」評を持参し、「我々文士の身として、一度うけなば死すとも憾なかるまじき事ぞや」と、「狂せるやうに喜」んで帰ったと記す。

「五月二日の夜、禿木・秋骨の二子来訪。ものがたることしばしにて、「今宵は君がもてなしをうけばやとてまうで来つる也。いかなるまうけをかせさせ給ふぞや。これは大かたのにては得うけ引がたし」と、ふたりながら笑ふ。「何事ぞ」と問へば、戸川ぬしふところより雑誌とり出でて、「朗読せんか」と平田ぬしをかへりみていふ。こは「めさまし草巻」の四成き。一昨日(をととひ)の発行にて、「わが「文芸倶楽部」に出したる「たけくらべ」の細評あるよし、新聞の広告にみけるが、それならんかし」と思ふに、あわたヾしうはとふ事もせず、打ゑみ居るに、いかでまうけさせ給へ。この巻よ、けふ大学の講堂に上田敏氏の持来て、「これみよ」と押開き、さしよせられぬ。「何ぞ何ぞ」と手に取りみれば、これ見給へ、かくかくしかじかの評、鴎外、露伴の手に成て、当時の妙作、これにとどめをさしぬ。うれしさは胸にみちて、物言はんひまもなく、これが朗読、大学の講堂にて高らかにはじめぬ。さても猶うれしさのやる方なきに、学校を出るより早く、はせて発兌(はつだ゙)の書林に走り、一冊あがなふより早く、禿木が下宿にまろび入り、「君々、これ見給へ」と投つけしに、取りて一目みるよりはやく、平田は顔をも得あげず、涙にかきくれぬ。「さらばとく見せて、此よろこびをものべ、ねたみをも聞えてん」とて、斯く二人相伴ひてはまうで来つる也。いかで読み給ひてよ、我れやよまん、平田や」と、詞(ことば)せはしく喜びおもてにあふれていふ。「今「文だんの神よ」といふ鴎外が言葉として、「われはたとへ世の人に、一葉崇拝のあざけりを受けんまでも、此人にまことの詩人といふ名を送る事を惜しまざるべし」といひ、「作中の文字五六字づつ、今の世の評家、作家に技倆(ぎりやう)上達の霊符として呑ませたきもの」といへるあたり、我々文士の身として、一度うけなば死すとも憾(うらみ)なかるまじき事ぞや。君が喜びいか計(ばかり)ぞとうらやまる。二人はただ狂せるやうに喜びてかへらりき。」

(五月二日の夜、禿木、秋骨の二人来訪。しばらく話していると、

「今夜はあなたから奢ってもらおうと思ってやって来たのですよ。どんなご馳走をして下さいますか。これは普通のものではとても承知出来ませんよ」

と言って二人ともにこにこしている。

「何の事ですか」

と問ぐと、戸川氏が懐から雑誌を取り出して、

「朗読しょうか」

と平田氏を振り返りながら言う。それは 「めざまし草」の第四巻でした。一昨日の発行で私が 「文芸倶楽部」に出した「たけくらべ」の詳しい批評があると新聞の広告で見ていたのでそれだろうと思われる。急いで聞こうともしないで笑っていると、

「是非ご馳走をして下さい。実はこの雑誌のことですが、今日大学の教室に上田敏氏が持って来て、これを見ろと言って、そこを開いてさし出したのです。何だ何だと言って手に取って見ると、どうです見てごらんなさい、この通りの批評が鴎外や露伴によって書かれており、現代の名作はこれに決定したとあるのです。嬉しさは胸に盗れ、何も言うことが出来ず、私達は大学の教室でこの朗読を始めたのです。それでもまだ嬉しさを表現出来ずに、今度は学校を出るや否や、発行所の本屋へ走り込んで一冊買うとすぐに、禿木の下宿に駆け込み、君々これ見給えと、投げつけるように出したのです。一目見ただけで、平田は顔もあげられないほど涙にくれたのでした。それではこれを早く一葉さんに見せて、喜びを言ったり妬みごとを言ったりしようと、こうして二人一緒にやって来たのです。さあ読んで下さい。私が読もうか、それとも平川に読ませようか」

と、言葉もせわしく喜びを顔に出して言うのです。

「今文壇の神といわれている鴎外の言葉として『私はたとえ世の人から一葉崇拝者だと悪口を言われても、この人に〝まことの詩人″という名を贈ることを惜しまないだろう』と言い、また 『作品の中の文字を五、六字ずつ今の評論家作家たちに技倆上達のお札として飲ませたいものだ』と言っているあたりは、我々文士の身としては、一度受けたなら死んでも恨みはない程の言葉ですよ。あなたの喜びはどんなに大きいものでしょう」

と、羨ましがって言う。二人はただもう気も狂わんばかりに喜んで帰って行った。)


「批評よ、いたる所の新聞雑誌にかしましうもてさわがれぬ。「日本新聞」などには、「たヾ一行読みて驚き欺(たん)じ、二行読みては打うめきぬ」とか有ける由、国子のよそより聞来て、「いとあさましきまで立ぬる評かな」と喜びながら悲しがる。そは槿花(あさがほ)の一日の栄えを欺(なげ)けばなるべし。世の中をしなべて文学にはしりぬる比(ころ)とて、仮初(かりそめ)の一文、一章、遠国他郷までもひゞきわたり、聞えゆきて、立つ名さまざま、さてはよからぬ取沙汰もやうやうに増(まさ)り来たりぬ。此「たけくらべ」書つると同じ号に、我れと川上ぬしとの間のこと、あやしげに書きなしある雑報有き。千葉あたりより来たりたる投書なりとか。これをはやがてよき材にして、人ねたみもし、憎くみもす。ことなる事なき身どちには、さして何事のなげかはしさもおぼえねど、そもそものはじめより、うき世にけがれの名を取らじ、世の人なみにはあるまじのおもひなりしを、かくよからぬ評など立出くる、やましき事ならねど、我が不徳のする所かと、ものなげかしう思はれき。」

(この評はあちこちの新聞雑誌にうるさいほど騒ぎ立てられた。「日本新聞」などには、「ただ一行読んでは驚嘆し、二行読んでは打ちうめいた」とか書いてあったと、邦子がよそから聞いて来て、あきれる樫の批評だと喜びながら悲しがる。それは「槿花一日ノ栄」という諺のように栄華のはかなさを敷くからです。世間一般に文学がもてはやされる頃なので、ほんのかりそめに書いた文章でも、日本全国遠く離れた所までも伝わり、さまざまな噂や評判が立ち、果てには善からぬ評判までも次第に耳に入ってくるようになった。この「たけくらべ」が載った「文芸倶楽部」の同じ号に、私と川上眉山とが怪しい関係だなどと書いた記事があった。千葉あたりから来た投書だとかいう。早速これをよい材料として人々は私を妬んだり憎んだりするのです。何も変わったことのない私達としては欺くことは全くないのですが、私は最初から、世間から悪い評判は立てられたくない、またありふれた平凡な人では終わりたくないと考えていたのに、こんなつまらない噂が立ってくると、何も疾ましい後暗い事はないのですが、私の不徳のなせる所かと思うと、まことに歎かわしく悲しく思われるのでした。)


我れを訪ふ人十人に九人までは、たヾ女子(をなご)なりといふを喜びてもの珍しさに集ふ成けり。さればこそ、ことなる事なき反古紙を作り出ても、「今清少よ、むらさきよ」と、はやし立る。誠は心なしの、いかなる底意(そこい)ありてともしらず、我れをたゞ女子と計(ばかり)見るよりのすさび。されば其評のとり所なきこと、疵(きず)あれども見えず、よき所ありてもいひ顕はすことなく、たゞ「一葉はうまし」「上手なり」「余の女どもは更也、男も大かたはかうべを下ぐべきの技倆なり。たゞうまし、上手なり」といふ計。その外にはいふ詞(ことば)なきか、いふべき疵を見出さぬか。いとあやしき事ども」

(私を訪ねて来る人は十人中九人までは、私が女性であるということを喜んで、もの珍しさで集まって来るのです。だからこそ私が何の取り柄もないつまらない本などを書いても、すぐさま現代の清少納言よ紫式部よとはやし立てるのです。これは愚かな者たちが、私の考えがどんなものかということも知らずに、私をただ女の作家だということだけで、面白がっているのです。だから彼らの批評の収り柄のないことは、机の作品に欠点があっても発見出来ず、良い所があっても指摘できないのです。そしてただ、一葉はうまい、上手だ、他の女性作家は言うに及ばず大方の男性作家も負けるような技倆を持っていると言って、ただ、うまい、上手だを連発するばかりです。それ以外には批評の言葉を持っていないのだろうか、または、欠点を発見出来ないでいるのだろうか、まことに不思議な事です。)


5月2日

ブダペスト、フランツ・ヨーゼフとエリザベトを招いてハンガリー千年祝典。ブダペスト地下鉄初の区間が開通

6月8日、ブダ王宮でハンガリー議会による歓迎式典。式後、ルーマニアを訪問。軍事協定締結の準備協議。


つづく


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