2013年1月26日土曜日

寛仁元年(1017)10月~12月 小一条院の妃、女御藤原延子の悲劇 「すぎにける年月何を思ひけん 今しも物のなげかしきかな」

江戸城(皇居)梅林坂 2013-01-24
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寛仁元年(1017)
10月16日
・皇太后宮に参上した大殿道長が摂政頼通や大納言斉信と共に新造内裏への遷宮延期を定めている(『左程記』)。
皇太后彰子は幼い後一条天皇の代理を行っているが、母后は摂政よりさらに近い立場で天皇の代理を務めている。
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11月
・この月、伊勢の百姓が上京し、摂政頼通の退出を路頭に群がって待ち受け、守藤原孝忠の重任を申請した。
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・東宮の地位を退いた敦明親王は小一条院の称号をうけ、待遇も厚遇をうけたが、ここから小一条院の妃、女御藤原延子の悲劇が始まる。
延子は左大臣顕光の娘で、その堀河邸に敦明親王を迎えていた。
道長は、小一条院の優遇に乗り出し、かつての噂通り、娘の寛子を小一条院と結婚させることにした。

10月8日、小一条院は、結婚式の為に、方角を考えて堀河邸を出て一条の僧侶の邸に移った。
11月22日、道長の娘寛子(19歳)の住む高松邸において、小一条院の婿入りの式が挙げられた。
寛子は、容姿うるわしく、精選された女房を従え、善美をつくして院を迎えた。
道長の配慮も深く、院の食事は自ら指図して世話し、運んだという。

こうなっては、小一条院の足は高松邸にとどまり、堀河邸の延子のもとには戻ってこない。
延子は湯水も喉を通らぬばかりに嘆き悲しんだ。
父顕光(74歳)も悶々の日を送った。
何も知らない王子敦貞王(4歳)が、力なく伏している顕光を馬にして、扇で打って戯れるのを見た延子は、目も眩むここちで打ち伏したという。
顕光はますます廷臣の嘲笑を浴び、逆上して延子の髪を切って庭に出て、御幣をささげて呪岨を行なった。

悲嘆に明け暮れた延子の歌は、『栄花物語』や『勅撰集』に幾つか収められている。
すぎにける年月何を思ひけん 今しも物のなげかしきかな
千歳経ん程をば知らず来ぬ人を 待つはなほこそ久しかりけれ

1年半後、寛仁3年(1019)4月10日夜、堀河女御延子は歿した。死因は『小右記』に「心労」と記されている。
報を受けてさすがに小一条院は堀河邸に急いだが間に合わなかった。
院は諸事を指示して再び高松邸に帰り、残された王子たちは外祖父顕光のもとで育てられる。
顕光に対して人々の同情は薄かったが、延子の悲しみは世人も察した。
この前後、道長が病気になったり、寛子が悩んだりしたとき、それらは延子の呪阻や亡霊の仕業と噂された。
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11月25日
・天皇の賀茂社行幸。
まず11月9日、伊勢の大神宮以下の7社に奉幣使が立てらる。
翌10日、石清水八幡以下の10社と、7大寺・延暦寺で仁王経の転読が行なわれる。
11日、行幸の日取りが内定通り25日と決定される。
22日、試楽(しがく、舞楽の予行演習)と召仰(めしおおせ、衛府に行幸の警固を命ずる式)が行なわれる。
そして25日。上卿を命ぜられている実資は早朝参内して準備を整え、吉時の巳の二刻(午前9時半)に天皇は紫宸殿に出て、母の皇太后彰子と共に葱花輦(そうかれん)に乗り、西門を出て正午ごろ、行列は賀茂下社に到着した。
そこで昼食後、御拝があり、神官に叙位の命が下り、上卿実資は神前に進み、宣命を読み上げた。つづいて幣帛(へいはく)・神宝の奉献があり、神馬を牽き、神楽・舞楽などが行なわれる。
こうして下社の儀は終わり、日暮に行列は動き出して上社に向かい、上社でもまったく同様の儀式が行なわれて無事還御となる。万事を終えて実資が内裏を退出したのは丑の一刻(午前1時)であった。
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12月4日
・前摂政道長が太政大臣となる
(翌年正月に後一条天皇が元服するので、その儀式の加冠役を太政大臣が務める慣例となっていたから)。
翌年2月9日、辞任、前太政大臣となる。

「母后令旨」によって道長を太政大臣に任じた。
『小右記』によると、誰を道長のもとに俺として遣わしたらいいだろうかという質問が実資のもとに届いている(寛仁元年11月21日)。
実資は頼通自身が行くことを提案し、『御堂関白記』には11月27日、摂政頼通が道長第に赴き、道長を太政大臣に任じるという「皇太后御消息」を伝えている。
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