北の丸公園 2013-01-24
*昭和18年(1943)
1月1日
昭和十八年癸未正月起稿
荷風散人年六十五
正月一日。炭を惜しむがため正午になるを待ち起出で台所にて昆爐に火をおこす。焚付けは割箸の古きもの又は庭木の枯枝を用ゆ。曖き日に庭を歩み枯枝を拾ひ集むる事も仙人めきて興味なきに非らず。昆爐に炭火のおこるを待ち米一合とぎてかしぐなり。惣菜は芋もしくは大根蕪のたぐひのみなり。時には町にて買ひし茶漬澤庵漬を食ふこともあり。されど水にて洗ふがいかにも辛(つら)し。兎角して飯くひ終れば午後二時となり、室内を掃除して顔洗ふ時はいつか三時を過ぎ、煙草など呑みゐる中日は傾きで忽ち暗くなるなり。是去年十二月以後の生活。唯生きて居るといふのみなり。正月三ケ日は金兵衛の店も休みなれば今日は配給の餅をやきて夕飯の代りとなせり。夜七時頃菅原明朗永井智子相携へて來り話す。淺草苔を貰ふ。
町の噂
一 銀座尾張町西側の老舗二軒、その一は足袋屋、其一は大黒屋といふ盬物屋、いづれも去年十一月頃に店を閉したり。大黒屋は薬舗丸八と同じく銀座の大地主にて當代の主人は一時役者のやうな身なりをなしダイヤモンドの指環三四ツもはめ、純金の杖を携へ歩きし程なる気ざな男なりと云ふ。
一 去年横濱港桟橋へ横づけにせし獨逸軍艦二艘は支那人の仕掛たる爆弾のため破壊せられ獨逸より送り來りし軍用機械も亦破壊せられし由。
一 淺草公園の道化役者清水金一公園内の飲食店にて殴打せられ一時舞台を休みし由。猶又ヱノケン緑波などいふ道化役者の見物を笑せる芝居は不面目なれば藝風を改むべき由其筋より命令ありしと云。
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1月2日
正月二日。晴れて風なし。門を出でず。馬琴の羇旅漫録をよむ。編輯者の誌に曰く、
翁 馬琴 は會田氏を娶りて一男三女ありき。長女名はさき此時 享和二年戌年八月 九才。男鎮五郎後に名を興繼宗伯と称す。五歳。季女くわ。三才。季女は即ち幹等が生母なり。
(以下略)
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1月3日
正月三日。晴れて風静なれど寒忍びかたし。終日家に在りフロオペルが若き頃の作十一月Novembreをよむ。童貞の苦悩より初て娼婦に狎れたる事など書き綴りしものなり。文章の絢爛さながら錦繍のごとし。マダムボワリイの如き大成後の作品、その文章の平坦清楚なるは蓋し此くの如き絢爛より出で來りしものたる事を知る。此日日曜日。〔以下朱書〕気温室内華氏四十五度摂氏六七度
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1月4日
正月四日。昨日に比して寒気稍ゆるやかなり。三ケ日の間一足も外に出でざりし故、三時過地下鉄にて淺草に至り見るに、群集の雑沓すること今年は更に甚しく去年の比にあらず。雷門より東武駅の内外真に立錐の餘地もなし。仲店も人波に押返されて歩み難ければ観音堂にも詣ることを得ず、又玉の井にも行くよしなければ、上野行の市電に乗る。市電はいづこも思の外に雑沓せず。広小路の夜店を見歩き新橋を過ぎてかへる。
〇犬の聲
ふけわたる 闇の夜に
さびしさゆゑか
吠る犬。
消ゑかゝる ともし火に
われ唯ひとり
すゝり泣く。
犬なけば かなたより
その友聞きて
こたふるに。
われはそも 何ゆゑに
聲さわがしく
なかざるや
うたがひと さげすみの
この世を憂しと
知るゆゑに。
昨夜つくりし未是(ママ)草なり
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昭和18年正月
この年、荷風は数えで65歳、満年齢でゆくと63歳。
正月は新橋(芝口)の金兵衛もお休みなので外食もできず。
また寒くても、炭の節約のために布団に入ったままで過ごすことが多いようである。
4日になってようやく外出したが、どこへ入っても混雑の模様で、玉の井にも寄らずに帰宅した。
「犬の聲」には独身の侘しさと軍政下の閉塞感が漂っている。
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