江戸城(皇居)梅林坂 2013-01-30
*寛仁2年(1018)
4月1日
・この日夜、内裏で殿上人たちが道長の娘の尚侍威子の居間に集まって飲み始めたところ、何が原因か不明だが、右少将藤原兼房が、蔵人頭定頼に食ってかかり、定頼を罵倒し、定頼の前にあった菓子を足で蹴散らした。定頼が席を立とうとすると、今度は冠を奪おうとする。ようやく定頼が自分の控え室に逃げ込むと、兼房は石を戸に投げつけて威嚇した。
後でこの話を聞いた実資は、兼房の所行に驚き、断固たる態度を取らずに逃げた定頼を非難している。
翌日、兼房は道長に叱責され参内を止められた(20日後に許された)。
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4月28日
・長和4年(1015)11月に焼失した内裏(この内裏焼亡により三条天皇退位が確定した)は、翌年4月に新造着工、2年を経て完成し、種々の祈祷も終わり、道長・頼通以下の巡検も完了した。
この日、後一条天皇は生母太皇太后彰子と共に一条院より新造内裏に移り、清涼殿に入った。
東宮敦良親王も、この日正式に女御となった威子もこれに従う。
御座所は彰子が弘徽殿、東宮が凝花舎(梅壷)、威子が飛香舎(藤壷)と、いずれも清涼殿のすぐ北側に集まった。
全てが道長の娘と外孫である。
この行幸の際、近衛の将や少納言源経貞などが遅刻し、行幸が遅れた。そのため、吉時を選んで申の刻(午後4時頃)に行列が内裏に入る予定が遅れ、内裏到着が酉の刻(午後6時時頃)になる勘定になった。陰陽師のが酉の刻の到着は避けたほうがよいと言い、やむを得ず行幸を更に遅らせ、亥の刻(午後10時頃)に変更した。
天皇の行幸が遅れたから、その後から続いて移る東宮や威子の移転は更に遅くなり、やっと落ち着いたのは明け方に近い。
人々はすっかり参ってしまったが、道長は大いに立腹し、行幸遅延の責任は遅刻した連中にあるといい、遅刻者の少納言経貞の父、参議左大弁源道方を勘当してしまった。
勘当(勘事とも言う)は、目通りかなわぬ、謹慎を命ずることであり、道方は10日経っても許されていない。
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閏4月
・この月、道長は病いのために五壇法を修して法性寺五大堂に10日間以上参籠した。
この夏頃から、道長は時々、胸痛と眼病に罹る。
4月と閏4月にかけて胸痛を起こした。
何という病気かは不詳だが、発熱・胸痛を伴う発作的なもので、苦しいものらしく、道長自身も「心神不覚」と記している。『小右記』にも、苦悩の声が高く、叫ぶが如くであったとある。
怨霊も現われた。兄の道兼とも、三条天皇の霊だともいわれ、道長は法性寺に寛弘3年(1006)に建てた五大堂に2週間参籠したが、身体の衰弱ははげしかった。
胸痛の発作は6月にも起こり、これは小一条院を彼のの娘寛子に奪われた女御延子の呪詛による貴布禰明神の崇りとされている。
10月頃からは視力が衰え始め、陰陽道の祓や密教の仏眼法を修したが効なく、12月にはまたも胸病の発作に苦しんだ。
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・内裏内外での乱闘、闘争。
賀茂斎院の長官と次官の従者たちが斎院内で喧嘩。次官の従者が顔などに負傷。これを聞いた次官が手下を連れて斎院に仕返しに行き、長官の従者を死ぬばかりに痛めつけた。
閏4月2日、検非違使がこの事件を取り調べた。
9日には左馬頭藤原保昌の牛童(牛追いの下人)が上総介平維衝の草苅男と喧嘩を始めた。
この時、維衝側から検非違使左衛門尉の正輔という者が出て来て、部下を保昌の邸内に入れて事を大きくし、はては無関係の左馬允行方という者の従者を逮捕して責めたてた。
ところが、この従者が道長の土御門邸の庭番だったから、保昌から訴えが出て、検非違使が勝手に四位の宅を荒らしたのは越権であるとして、正輔が検非違使庁に呼び出されることになった。
しかし、正輔は1ヶ月半たっても病気と称して出頭せず、ついに検非違使別当から宣旨が出る。
22日には内裏で滝口同士が抜刀して乱闘。
同日夜、実資の牛童三郎丸・石童丸の2人が車で板を運搬中に、堀河の左大臣顕光邸の門前で暴漢に襲われて負傷した。
事情は不詳だが、左大臣邸の門前を乗車のまま通った無礼を咎められたらしい。
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5月
・内裏内外での乱闘、闘争。
5月3日、実資の牛童と僧都尋円の童子とが口論を始め杖を振り上げるところまでいったが大したことにはならないで済んだ。
闘争事件ではないが12日に内裏の天皇御座所すぐ近く、滝口の詰所で下女が頓死し、その前後、紫宸殿の東北方の化徳門のあたりで人の歌声が聞こえたり、内侍所に鬼が現われたりして女宮をこわがらせている。
21日には実資の随身3人が、参議資平の従者の頭を叩き割ってしまった。
実資は3人から始末書を取り、随身の職を奪って監禁したが、2日後に資平の申し出によって許した。
24日夜半、実資邸の西南隅の倉が焼けたが、これは火を容器に入れて倉の下に置いてあった形跡があり、放火らしい。幸いに無風で、倉も空だったし、すぐ近くの厩(うまや)の庇(ひさし)を破壊して延焼を防ぐことができて、被害は僅少であった。実資はこれを仁王講を修した功徳として喜んでいる。
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・この年、大旱魃。4月、閏4月、5月と、京都でも毎月1、2回しか降雨がなかった。
5月21日、大納言藤原実資は殿上であまりの暑さに堪えかねて、氷水を飲んでいる。
この時の旱害は例年のような簡単なものでなかったから、祈祷も大がかりで神祗官でも雨ごいのお祈りがあり、諸国に仁王経の転読を命じ、延暦寺や七大寺でも御読経が行なわれた。
5月24日、2社に祈雨奉幣使が立てられた。
26日、雲が出たが降雨に至らず、30日、再び2社に奉幣使が出された。
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