北の丸公園 2013-01-24
*昭和18年(1943)
1月20日
正月二十日。市内の經師屋このごろ麩糊のよきものなくなりし為掛軸の注文は馴染の顧客にあらざれば引受けぬやうになりたる由。午後土州橋に行く。病院の門前に北千住行の電車あり。風静にて暖なれば今日もまた食ふものあさらむとて千住に行く。大橋のあたりには曾て軒並に名物の佃煮賣る店ありしが今は残らず戸を閉したり。葛餅賣る問屋のみ一軒もとの如く人々列をなしたり。歸途淺草を過る時満月の昇るを見る。
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1月21日
正月廿一日。晴。小堀四郎氏過日其夫人と共に来訪の際わが家炭火の乏しきを見て近き中炭俵を送るぺしと言はれしが、果してその如く、今日の午後豪徳寺畔の家より遠路をいとはず炭俵を自転車に積み訪ひ來れり。深情謝するに辞(ことば)なし。氏の親切にてことしの冬はこゞゑずに過すことを得べし。
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1月22日
・正月廿二日。くもりて風なく寒気甚しからず用水桶の氷も解け初めたり。薄暮淺草公園を歩む。オペラ館の踊子等と松竹座隣の喫茶店に集りて談笑す。歸宅後風吹出で雨ふる。
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1月23日
正月廿三日。晴。日本医事新報牡より森先生に関する評論の原稾を求め來れり。メーボン著今日の日本の一節を訳して郵送す。
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1月24日
正月廿四日 日曜日 晴。終日風歇まず。寒甚し。
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1月25日
正月廿五日。晴。昏暮淺草に行く。
街談録
○或人昭和十二年より今年まで日本政府の浪費せし戦費を合算し之を支部軍隊戦死者の頭数に割當て見たりしに一人あて約二千圓になりしと云。即支那人一人殺すに二千圓を費せし事になるなり。此度の戦争の愚劣なる事之を以て推察し得べし。
○昭和十一年二月軍人暴動の際その犠牲となりし兵卒の事につきては風説紛々其眞相を知ること容易ならず。此頃或人の語るをきくに其當時議事堂に立籠りて後歸順せし兵卒の一隊は直に武装を解除せられ戚布の聯隊に送られ、数日の後汽車に載せられしが車窓は密閉せられしまゝなればいづこへ送らるゝとも方角わからず。軈て船に載せられ上陸せし港朝鮮釜山らしく思はれたれど、そこより又もや行先知れぬ汽車に積載せられたり。最後に下車せし處はハルビンにて同僚八人こゝにて引分けられ、其中の一人は蒙古の名も知れぬ要塞の守備隊に編入せられ、去々年昭和十六年まで六年間勤務し去年漸く歸國除隊を命ぜられたり。六年間勤めて僅に上等兵になりしのみなり。其男は除隊の後現在は大森の或工場の職工となりゐる由。
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1月26日
正月廿六日。晴。
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1月27日
・正月廿七日。風寒し。夜金兵衛に飯す。凌霜子大正二年二月の三田文学を坊間に得たりとて示さる。海月の歌と題する余が新體詩あり。一讀するに恍としで前世を悟るの思あり。飯後向島に至る。
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1月28日
正月廿八日。晴。午後淺草散策。オペラ館踊子と楽屋外の喫茶店に憩ふ。夜寫眞現像。
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1月29日
正月廿九日。晴。日光街道の杉並木を伐りて軍事用材となすべき風説頻なり。またかの杉並木の杉はあまりに年経たるものなれば油気失せ用材には適せずと云ふものもあり。いづれにもせよ國家の窮状あはれむべきなり。
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1月30日
正月三十日。晴。午睡中突然臍のあたりに痒(かゆ)さをおぼゑしが夜に至り痒さ全身に渡り顔面も殊に眉毛のあたり手足の指先まで赤くなり悪寒を催すに至れり。されど體温は平常に異らず。曾て覚えしことなき奇病といふぺし。夜半に及び痒さ次第に去れり。
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1月31日
正月卅一日 日曜日。朝。鄰組の人に呼覚さる。起出でゝ見るに雪すこしつもりたる上に日の光まばゆく照輝きたり。晡時五叟幼児を伴ひ來り話す。共に出でゝ金兵衛に飯す。來合す人々の語るをきくに川崎の女郎屋玉川の丸子園と云ふ連込宿既に兵器工場職工の宿舎となりたり。大森品川邊の待合料理屋も亦近き中同じ悲運に陥るならむと云ふ。人心の不安日を追うて甚し(ママ)なり行くなり。歸宅後枕上フローベルの施行記をよむ。
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