江戸城清水門(北の丸公園) 2013-01-15
*1764年(宝暦14/明和元)
6月1日
・ロンドン、この日付の「パブリック・アドバタイザー」紙にモーツアルト姉弟のコンサートの予告。
「6月5日、火曜日12時からセント・ジェームス・パーク近くのスプリング・ガーデン大ホールにて11歳のモーツァルト嬢と7歳の神童、巨匠(マスター)モーツァルトのために声楽と器楽のグランド・コンサートが開催されます。この機会は、欧州のみならず人類が誇るべき偉大な天才を一般の方々にご紹介するために開かれるものであります。誰もが彼らの演奏、特に7歳の少年がハープシコードを絶妙に、完璧に弾くのを聴いて感動し、絶賛するでありましょう。それは我々の理解力を超え、想像力を凌駕するものであり、彼がハープシコードを初見で弾き、また、自分の作曲した曲を弾くというのはまさに驚異であります」。
同紙はコンサート当日の6月5日にも同じ予告を掲載、それに演奏者を付け加えている。
「歌手はクレモニーニ嬢とクレッチ氏、ソロの第1ヴァイオリンはバルテレモン氏、コンチェルトでチェロをチッリ氏が弾き、モーツァルト氏とモーツァルト嬢はハープシコードとオルガンを弾く」という顔ぶれ。
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6月2日
・「明和」に改元
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6月2日
・弁護士カルロ・ブオナパルテ、マリア・レティツァ・ラモリーノと結婚。
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6月5日
・モーツアルト姉弟の音楽会。
セント・ジェームズ・パークの近くのスプリング・ガーデンのホール。
3時間のコンサートで父レオポルトの年俸の8年分に相当する収入があったという。
レオボルトは「三時間で百ギニーの金貨を手にするという驚きを経験した」(6月8日付の手紙)。
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6月12日
・マサチューセッツ議会、通信委員会を設立
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6月26日
・ロンドン、この日の日付の「パブリック・アドバタイザー」紙にモーツアルト姉弟のコンサートの予告。
「最近当地に来訪、まだ7歳の子供である、祝福され、驚異のマエストロ・モーツァルトが自作の中から数曲の素晴らしい作品を選びハープシコードとオルガンで演奏する。モーツァルトの演奏はすでにイングランド、イタリアにおけるもっとも偉大な音楽評論家たちに、最高の楽しみと喜び、そして驚きを与えたものである。モーツァルトはもっとも比類なき神童、いかなる時代に出現した天才と比べても、もっとも驚嘆すべき天才であると正しく評価されている」
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6月29日
・モーツアルト姉弟の産院設立のための慈善演奏会。
ロンドン郊外チェルシーの近くのテムズ河畔ラネラ・ガーデンの円形奏楽堂。自作の曲をハープシコードとオルガンで演奏。
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7月8日
・モーツアルト父レオポルト、重病に罹る。
この日、子供2人を連れてある貴族を訪ねたレオボルトは、徒歩で急いだため汗をかき、これが原因となって「突然の重い病気」に罹った。
1ヶ月近く苦しんだ後、療養のため一家はロンドン郊外チェルシーのはずれにあるファイヴ・フィールズ・ロウのランドゥル家に移り住み、8月上旬~9月下旬、ここで過ごす。
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8月
・この頃の「士風の廃頽」
「明和元(一七六四〕年八月、書院番の木造七左衛門、京極伊兵衛、西の丸小姓宮城仁十朗、小姓組の杉原七十郎らが相伴うて墨田川に水練を稽古するというので、朝船を乗出して、そこへ芸者を呼入れて酒を飲んで夜遅くまで涼んでおった。その中に杉原七十郎酔払って溺死をしたのを外の三人は少しも知らないでそのまま過ごしておった。後になってその事は分ったけれども致し方もなくそのまま隠しておった。そうして番頭から尋ねられた時にも、詐(いつわり)を申立て評定所に呼出され調べられた時にも好い加減な事を申していた。ところがついに事露顕し十月七日に至って各々その士籍を没せられた。その時に落首が出来た。
船に酔い酒がすぎ原七十郎七百石を川へ進物
何事もなくすむ時はけいこ船おぼれる時は芸妓(げいこ)ぶねかな
宮城仁十郎の事を
川風にふき折られしや宮城野のすすきはおぼれて浮きつ沈みつ
木造七左衛門の事を
木造りてたしなむべきに人までをさそう遊びの面(つら)くりけり」(辻善之助『田沼時代』)
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・北米植民地におけるイギリス「砂糖法」抗議運動。
マサチューセッツ人のサミュエル・アダムズとジェイムズ・オーティスらは、代表権の無い議会で制定された法律が今後も植民地の経営を脅かすものと訴えて、植民地人の支持を得る。
この月、ボストンの商人50人がイギリスの贅沢品の購入停止に合意、ボストンとニューヨーク双方で、植民地内生産量を上げる動きが起こった。
イギリス本国への強い抗議が始まるのは、翌年後半に印紙法が制定されてから。
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8月~11月
モーツアルト、翌年1月に英王妃シャーロットに「作品3」として贈る6曲のソナタ( K.10 変ロ長調、K.11 ト長調、K.12 イ長調、K.13 ヘ長調、K.14 ハ長調、K.15 変ロ長調)を作曲。
これら6曲は「ロンドン・ソナタ」と呼ばれる。
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8月6日
・~9月25日頃、モーツアルト父レオポルト重病。
レオポルトの療養のため一家でロンドン郊外チェルシーのファイヴ・フィールズ・ロー(現エバリー・ストリート180番地)、ランドゥル博士の家に移る(1ケ月半滞在)。
この間に「ロンドンの練習帳」(K.15a~15ss)作曲。
姉ナンネルの回想(1800年1月ライブツィヒ『アルゲマイネ・ムジカーリッシェ・ツァイトゥング〔一般音楽新聞〕』に掲載)。
「ロンドンで、私たちの父が危うく死にかけるほどの病気にかかった時、私たちはクラヴィーアに触れることが許されませんでした。そこで勉強のために、モーツァルトはあらゆる楽器 - とくにトランペットとティンパニを伴った最初の交響曲を作曲しました。私は彼の傍に坐って、この曲を書き写さなければなりませんでした。彼が作曲し、私が写譜をしているあいだ、彼は私にこう言ったものでした。『ヴァルトホルンにぴったりのことができるようぼくに注意してね!』」
ナンネルは「最初の交響曲」(おそらく第1番、変ホ長調(K16)というが、これは『ロンドン練習帳』と通称されている一連の作品(K15a--15ss、43曲)と考えられる。
このスケッチ・ブックは、モーツァルトが父親の指導から離れて、自由に創作を試みた貴重な資料を形づくっている。
8歳のモーツァルトがいかに自主的な努力を積み重ねていくタイプの芸術家であったかを雄弁に物語っている。
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8月7日
・幕府、品川・板橋・千住3宿に限り食売女(売春婦)の人数増加を認める。
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9月6日
・ポーランド、ワルシャワ近郊、国王選出議会、エカテリーナ2世愛人スタニスワフ・ポニャトフスキー(32)選出。ポーランド王スタニスワフ2世(~'95)即位。
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9月12日
・宇都宮藩領の村々が上納米の籾すり量増加による増税に反対して、宇都宮城下の豪商らの家を打ちこわす(籾すり騒動)。
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9月12日
・仏、「和声法」著者、音楽家ジャン・フィリップ・ラモー(81)、没。
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9月末
・モーツアルト一家、ロンドン中心に戻る。
ソーホーのスリフト・ストリート15番地(現フリス・ストリート20番地)の婦人胸衣製造業者トマス・ウィリアムスン宅に移る。
レオボルトの病気は、収入に甚大な影響を及ぼした。
「私はずっと財布のお金を減らして暮らしているのです
」「こうしたことすべてに加えて、私はわれらがヴォルフガング氏の六曲のソナタを版刻し、印刷してもらうという多大の出費をしました。これらのソナタは、大ブリテンの王妃ご自身のご所望によって、王妃に献呈されます。」(11月27日付手紙)
実際の出版は翌1765年1月半ば。
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