江戸城 竹橋~平川橋辺り 2013-01-15
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(55)
「第4章 徹底的な浄化 - 効果を上げる国家テロ - 」(その4)
文化の浄化
チリ、アルゼンチン、ウルグアイの軍事政権は、大規模な思想浄化作戦を実施した。
フロイト、マルクス、ネルーダなどの著書を燃やし、何百もの新聞や雑誌を発行禁止にし、大学を占拠し、ストライキや政治集会を禁止にした。
大学教員(主に経済学者)の解雇・追放
なかでもきわめて悪意に富んだ攻撃は、クーデター以前にはシカゴ・ボーイズが論破することのできなかった「左翼がかった」経済学者に向けられた。シカゴ・ボーイズの拠点チリ・カトリック大学のライバルであるチリ大学では、何百人もの教授が「道徳的義務の不履行」を理由に解雇された(フリードマンの教えを受けながら反旗を翻し、かつてのシカゴ大学の教授たちに怒りに満ちた書簡を送ったアンドレ・グンダー・フランクもその一人だった)。
クーデターの際、グンダー・フランクは「経済学部の入口で六人の学生がいきなりその場で射殺された。他の学生に対する見せしめのためだった」と報告している。
アルゼンチンでは軍事政権が成立すると、バイアブランカにある南部国立大学の教員一七人が「破壊的指導」をしたかどで拘留されたが、ここでもその大半は経済学部所属の教員だった。
「破壊分子を育て、形成し、洗脳する源泉を破壊することが必要だ」と将軍の一人は記者会見で語っている。
アルゼンチンの「清浄化作戦」によって、総勢八〇〇〇人の「思想的に疑わしい」左翼教員が追放された。
高校ではグループ発表が禁止された。
潜在的な集団精神の表れであり、「個人の自由」にとって危険だというのがその理由だった。
ビクトル・ハラの虐殺
サンティアゴでチリ・スタジアムに連行された人々のなかには、伝説的な左翼フォーク歌手ビクトル・ハラがいた。
彼が受けた扱いには、一つの文化を圧殺しようとした猛烈なまでの決意が如実に表れている。
チリの真実和解委員会の報告書によれば、兵士たちはまずハラが二度とギターを弾けないように彼の両手を打ち砕き、それから銃で四四回も撃ったという。
死後も彼が人々に影響を与えるのを恐れた軍事政権は、彼の演奏のオリジナル録音をすべて破壊するよう命じた。
フォルクローレ歌手のメルセデス・ソサは亡命を余儀なくされ、革新的劇作家のアウグスト・ボアールは拷問を受けたあげくにブラジル国外へ追放された。
エドゥアルド・ガレアーノもウルグアイから追放され、ウォルシュはブエノスアイレスアイレスの路上で殺害された。
ひとつの文化が意図的に抹殺されようとしていた。
「やがて壁という壁は石鹸と水によってあの悪夢から解放され、光り輝くだろう」
その一方で、清浄化され、純化された文化がそれに取って代わろうとしていた。
チリ、アルゼンチン、ウルグアイの軍事政権下で唯一許可された公共の集会は、軍事力を誇示する催しかサッカーの試合だけだった。
チリではスラックスをはいた女性は逮捕されたし、長髪の男性も同様だった。
「共和国全土で徹底的な浄化が進んでいる」と、軍事政権の規制を受けたアルゼンチンの新聞の論説は書き、左翼の落書きを市民が力を合わせて洗浄するよう呼びかけた。
「やがて壁という壁は石鹸と水によってあの悪夢から解放され、光り輝くだろう」
チリではピノチェトが、何かと言えば街頭に出ようとする国民の習性を断回としてやめさせようと、ごく少人数の集会でも放水銃を使って解散させる作戦に出た。
軍事政権はこのピノチェトお気に入りの小型武器を何百台も保有し、歩道でビラを配る学生に向けて水をかけたり、あまりに騒がしいときには葬列に向けて発射することもあった。
唾を吐く習性のあるリャマの一種の名前を取って”グアナコス”の愛称で呼ばれた放水銃は、至るところに出現しては人間をまるでゴミのように追い払う。
そしてそのあとには洗い清められて無人となった道路だけが残るのだった。
「祖国の浄化に責献する」よう促す布告
クーデター後間もなく、チリの軍事政権は国民に向けて、「過激派」の外国人や「狂信的なチリ人」を当局に通告することで「祖国の浄化に責献する」よう促す布告を出した。
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