2013年3月19日火曜日

明治36年(1903)10月13日~20日 堺利彦・幸徳秋水、新しい新聞発行を話し合う。 小林多喜二、秋田県に誕生。 

江戸城(皇居)東御苑 2013-03-19
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明治36年(1903)
10月13日
・この日、堺が麻布宮村町の秋水宅を訪問し今後のことを話し合う。
秋水は新しい雑誌を創刊しようと考え、堺は『家庭雑誌』を拡張する計画を持っていた。
しかし、別々に仕事をするのも面白くないので、共同事業をしようという結論に達する。
『萬朝報』を辞める時点では、2人は別々に活動することを考えていて、最初から平民社の構想があったわけではなかった。
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10月13日
・小林多喜二、誕生。秋田県秋田郡下田沿村(現大館市川口)、没落自作兼小作農の次男。
明治40年、一家は伯父を頼って北海道へ渡る。

小林家はもと旅館・農業を兼業していたが、多喜二の生まれる頃は農民。
父は小林兼松(38、1865年9月9日~1924年8月2日)、母はセキ(30、1873年8月22日~1961年5月10日)。
多喜二には8歳上の兄多喜郎(1895年~1907年)、姉チマ(1900年生)いた(チマの前に1899年生のヤエがいたがすぐ亡くなった。
家は、8反歩ばかりの自作に、僅かな小作を兼ねた農家で、貧農というほどではない。

父の兄慶義(1859年10月10日~1931年6月20日)は、小林家の跡継ぎで、秋田で宿屋を営んでいたが、相場か事業に失敗し多額の負債を負い、小林家没落の原因を作る。事業失敗を回復する為の裁判に負け、小林家の田畑の大部分を失い、農家を弟(多喜二の父)に任せ、1893年に小樽に出る。
伯父慶義は、潮見台で開墾百姓を始め、長男幸蔵を靴屋奉公に出すが、1901年幸蔵はそこを辞め、石原というパン屋の徒弟になる。
幸蔵は勤勉で、慶義と幸蔵は、小樽の稲穂町の石原の店を譲り受けて独立し、パン屋小林三ツ星堂を開業。
1904(明治37)年5月の小樽大火(小樽市内の中心地域・色内は全滅、2482戸が焼ける)で店は類焼。
彼ら父子はすぐに潮見台にパン工場を建て、これがうまくいき、新富町に移りパン工場と店を開く。
日露戦後の戦争景気や主に小樽の軍艦に食パンを大量に売ったことで、商売人として成功、30人も雇い、小樽で最も有名なパン屋となる。

成功した伯父は、弟夫婦に小樽へ来るように勧め、多喜二の兄多喜郎(成績も良く、秋田で小学校を終える)を上級学校へ入れようと勧める。
父もその気になり、1907年5月(多喜二3歳)多喜郎のみ、伯父と共にに小樽に行く。小樽で学校(私立小樽商業と推測)通っているうち、この年9月末、急性腹膜炎で危篤になり、両親が秋田から駆け付けた1週間後の10月5日没。
そうして、この年12月下旬、一家全員で秋田から引っ越すことになる(父、母、姉チマ、多喜二、生後1歳に満たない妹ツギの5人)。
一家が秋田を去る状況を、母セキは江口渙に、「立派に立ち振舞いもしたし、大ぜいの人が村はずれまで見送ってくれた」と語る。

北海道移住熱(北海道へ行けばなんとかなるという風潮)。
小樽は、明治40年頃は、人口9万、戸数1万4千、近代的港を持つ商業都市で。小樽を中心とする北海道が本州の農民を経済生活の点で引き付ける。
明治40年末の全道の人口は、139万0079人(25万9662戸)で、この年の北海道への移住人口は7万9737人(2万1142戸)。
北海道への移住者は、明治33年~42年(10年間)、富山県(1位)6233人、新潟県(2位)5540人、石川県(3位)5047人、青森県(4位)4608人、秋田県(5位)4327人。

多喜二一家はまず伯父の家に落ち着き、伯父の隠居所である小樽区若竹町に住む。
その後工事のため二度引っ越し、若竹町18番地で父は伯父の三星パン店の支店(駄菓子屋に近く、パンと自家製の餅の類を売る店)を開く。
父は朝暗いうちから、小樽の中央寄りにある新富町の伯父の製パン工場に、パンの仕入れに行き、早朝までに帰って来て、出がけの労働者や学生に自分の店でそれを売り、昼には土工たちに浜までパンを売りに行く。
彼らの家は、小樽南端にあり、周りは貧民が多く、大きな商いにはならず、小林家は秋田から小樽に出てきたが、豊かにはならなかった。
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10月13日
・初のプロ野球ワールドシリーズ、ボストン・レッドソックス優勝。
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10月14日
・清国、鉄路簡明章程制定。
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10月14日
・小村・ローゼン第3回会談。露の対案への日本の修正案を提出。ローゼン公使、満州に関する協議拒否。
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10月14日
・伊藤銀月「枯川、秋水二兄を送る」(「万朝報」)。
「「かざりなくいえば、予は・・・中兄(枯川)には少しく敬服し、小兄(秋水)には較(やや)多く畏服しつつあるなり」。
節を全うするようにと送る。
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10月14日
・英仏、司法・条約上の問題はハーグの国際仲裁裁判所に持ち込む調停協約(英仏仲裁裁判条約)調印。
12月25日、仏伊も同様協約調印。
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10月15日
・社会主義協会メンバの幸徳・堺の同情会。
席上、加藤時次郎が新聞発行の創業費貸与を言明。
先に、保証金(1千円)については小島竜太郎(兆民の高弟、元内閣書記官長)が貸与を約束。
協会幹事改選の話題が出て、結果、片山潜が解任され、西川光二郎・斉藤兼次郎が選挙で幹事となる。また、新たに幸徳・堺・木下尚江が幹部となる。
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10月16日
・内相、東京各新聞社責任者に対し時局に関する訓示。
外交・陸海軍に関する重要事項の記載は関係機関の承認をうけるよう通達。
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10月16日
・海相山本権兵衛中将、舞鶴鎮守府司令長官東郷平八郎中将に極秘上京を命令。常備艦隊司令長官とする。
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10月16日
・利島・川辺両村合同村民大会、遊水化計画に対し堤防築く決議。相愛会指導。
12月27日、埼玉県知事木下周一、両村廃村計画断念。
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10月18日
・この頃の漱石の教室の雰囲気。英文科の学生金子健二『人間漱石』の10月18日の日記。

「此の日、英文科の大教室で盛に日露戟争の成りゆきに就いて議論を闘はしてゐた者があった。勿論是等の議論は日本軍の勝利に多大の歓喜を感じた者の大多数が戦争そのものゝ文化的効果をすら理論的に承認しようとするその態度に対して少数の、しかし、なかなか論鋒の鋭い一団の非戦論者が堂々舌戦の陣を張った事に其の原因を持つてゐた。」

「私は数箇月前迄日本の凡ゆるジャーナリズムが(戦争は文明に到達する楷梯なり)といふ一種の流行語をたゞしいものだと考へてゐた。しかし、現在に於て少なくとも私は此の合ひ言葉に疑義を挿んでゐる。自然科学に依りて教へられた万物進化の過程なるものは、さう簡単に此の合ひ言葉を合理化し得るものであるだらうか。私は此の事に就いて今後研究してみようと考へた。」
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10月19日
・ロシア、「極東特別委員会」発足。議長ニコライ2世。
メンバ:皇族、外相ラムスドルフ、蔵相プレスケ、内相プレーヴェ、陸相クロパトキン大将、海相アウエラン大将、極東総督アレキセーエフ大将、宮廷顧問官ベゾブラゾフ(クロパトキン以外はベゾブラゾフ派。ラムスドルフもウィッテ辞任後は無抵抗)。
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10月20日
・社会主義協会、非戦論大演説会。本郷、中央会堂。聴衆600余。
堺、幸徳、西川光次郎「トルストイの戦争論」(戦争の原因は財産の不平等、軍隊の存在、教育者・宗教家の忠君愛国思想の鼓舞にある)、木下尚江「吾人は戦争の義務ありや」、安部磯雄「利害論と社会主義」(永世中立国スイスの例により軍備撤廃説明)。収益金32円92銭は堺・幸徳にカンパ。臨監警察官の干渉なし。

安部「利害論と社会主義」:
永世中立国スイスの実例を述べ、「軍備を撤廃しても生存はできる。此方で軍備を廃すれば敵も安心する。どっちか一方が先にやめねば喧嘩・の収まる時はない」と説く。
日清戦役後の遼島半島還附に際し、尾崎行雄が「もし名分が正しければナゼ三国の干渉を拒絶しなかつたか、正義のためにはわが国が亡びてもかまわぬ」と唱えた例をひき、主戦と非戦の差こそあれその結論はわれわれの与する所である。
「もし平和が人道であるならば、平和を世界に宣言して、それがため一国が亡びてもかまわぬではないか」と述べる。

木下「吾人は戦争の義務ありや」:
「世にはー種の迷信があって一国存亡の場合には、万事を忘れて一国に殉ぜねはならぬというが、平生は世界の人道を信じながら一大事の時にはこれをなげうつのが果して人間最高の理想であるか。われわれはいま日本国本位の倫理を教えられているが、もしわれわれが人道を信ずるならば、この一国家的倫理主義を打破せねばならぬ」と論じる。
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10月20日
・社会主義協会を押し出された片山潜は、再度アメリカに渡る決心をして、その前に、社会主義演説をして歩く。この日、東京を発ち、福島、函館、根室、室蘭、夕張等をまわる。
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10月20日
・参謀本部次長児玉中将、各部長とで韓国武力制圧作戦計画立案。
同日、各師団から兵站要員52人を集め、陸軍大学校で韓国出兵を想定した「特訓」(~11月2日、参謀本部第4部長大島健一大佐が主任)。
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10月20日
・山本達雄、日銀総裁の任期満了。後任は松尾臣善。
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10月20日
・アメリカ・カナダ間、アラスカ国境に関する紛争、アメリカに有利な形で解決。
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