北の丸公園のハナミズキ 2013-04-15
*1767年(明和4年)
9月11日
・モーツアルト、第2回ウィーンへの旅(1767年9月11日~1769年1月5日)
モーツアルト一家、ウィーン旅行へ出発。
→フェックラブルック→ランバッハ→リンツ→メルク。
(マリア・テレジア女帝9番め皇女ヨーゼファとナポリ・シチリア王フェルディナント1世の結婚のために催される祭典のために)
レオボルトと妻マリーア・アンナ、ナンネルルとヴォルフガングの姉弟、従僕ベルンハルトの5人
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9月12日
・モーツアルト一家、正午、ランバッハの修道院に到着。
夕方、リンツ到着。修道院でオルガンを弾く。
メルク修道院でオルガン演奏。音楽家マクシミーリアン・シュタードラー師(1784-1833,モーツアルト死後、未完成作品に筆を加え未亡人を助ける)と知合う
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9月15日
・モーツアルト一家、ウィーン到着。天然痘流行。
レオポルトの思惑通りにことが運ばない。
「中央税関については、万事骨の髄までくまなく検査され、しかも一時間以上も引き留められたことだけ申し上げれば十分でしょう」(9月22日付のウィーン初信)。
宮廷伺候もスムーズにはいかない。
皇帝フランツ1世歿後、皇太后マリア・テレジアは音楽などの慰楽を慎むようになっていた。
「私ども一同が幸いなことに元気だという以外なんにもお伝えすることはありません」(9月29日付)。
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9月21日
・松江藩、家老朝日丹波を中心とした御立派が、藩政改革に着手。
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9月30日
・江戸で地震。14~15軒余の潰家などの被害。
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閏9月
・明磐の私売する者多く、禁令出す。
「次は明礬会所、これは宝暦八(一七五八)年に江戸、京、大坂、堺四ヵ所において、私売を禁じ、一切会所を経なければ明礬の売買は出来ぬという事に定めた。明和四(一七六七)年の閏九月になって、その禁を犯す者が多いので、さらにその令を申ねた。天明二〔一七八二〕年八月には従来の発売所の外に、新たに薩摩産、およびシナ産のみを引受けるところの会所を江戸、京、大坂、堺に立てさした。自今はその総会所の外は私に売買することはならぬ。もしその産地より私に買出した者があったならば厳罰に処すという事を令した。」(辻善之助『田沼時代』)
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閏9月8日
・幕府、西国筋への触書で、「逃散いたし、他領江願出候儀も有之由、不届至極ニ候」と禁じる。
幕藩制下の逃散は、単に「村方立退」ではなく、他領・隣領(他の領主)に対する強訴ないし越訴である。
目標を持たない「村方立退」もあるにはあるが、この頃の逃散の基本的な性格ではない。
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閏9月15日
・前橋城が連年水害に悩まされるため、藩主松平氏が居城を川越城へ移す幕府の許可をえる。
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10月
・三浦梅園、「敢語」を著す。
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10月5日
・~'68/3/5、ポーランド、ラドム連盟議会
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10月12日
・幕府、常陸・下総で間引きを禁止する。
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10月7日
・この日付けレオポルトの手紙。
「花嫁の王女さまが土曜日の晩に具合がお悪くなり、昨日急に天然痘がおできになられましたことをお知らせしましょう」(10月7日付)。
宮廷で演奏できないことは、その他の貴族の邸でも演奏できないことを意味した。
こうしてレオボルトは大事に貯えていた金額から500フロリーンも引き出さざるをえなくなってしまう。
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10月15日
・結婚予定のマリア・テレジアの第9皇女マリーア・ヨゼーファ・ガーブリエーラ、天然痘で没。
モーツアルト、15日以降ウィーンで、王女ヨゼファのために K.43a (Anh.24a) 二重唱「ああ、なんたる知らせか」(断片)を作ろうとした。
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10月23日
・モーツアルト一家、天然痘を避けてウィーン出発。
24日、ブリュン到着。ザルツブルク大司教の兄弟フランツ・アントン・シュラッテンバッハ伯爵を訪問。
26日、モーツアルト一家、オルミュッツ(オロモウツ)到着。
30日、ヴォルフガング、天然痘の兆候が現れる(一時的に失明)。オルミュッツ司教座聖堂参事会員レオポルト・アントーン・ポトシュターツキー伯爵の侍医ヨーゼフ・ヴォルフ博士の看病。
皇室の婚儀は一転して葬儀となった。
そればかりではなく、ウィーン全市に天然痘が蔓延し多くの子供たちがその犠牲となった。
ナンネルルとヴォルフガングにも危険が迫っていた。
「ウィーン中、天然痘のことしか話題にのぼりませんでした。死者名簿に十人の子供が載っていれば、そのうち九人が天然痘で死んだものでした。私の気持がどんなだったかは容易に想像できましょう。幾晩寝ないで過ごしたことでしょう」(11月10日付)。
寄宿先の息子も天然痘に罹り、それを知った頃には、その弟たちも感染した。
皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルト父子のことをしばしば話題にしており、いつ参上しろとの命があるか分からなかったが、喪に服す宮廷での演奏の機会は困難であった。こうしてレオボルトはしばらくメーレン(モラヴィア)に赴き、危機を回避しようと決心した。
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11月
・12月15日までの間、モーツアルト、ウィーンかオルミュッツでK.43 交響曲第6番(ヘ長調)作曲。 その自筆譜の表紙に「1767年ウィーンにて」とあり、それが消されて父が「オルミュツにて」と書く。天然痘から回復してから作曲したものか。
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11月10日
・ヴォルフガング、天然痘から回復。
中旬、ナンネルル、天然痘罹病。29日、回復。
11月10日付け手紙の冒頭。
「テ・デウム・ラウダームス(神なる御身をわれらは讃う)! ヴォルフガンゲルルは幸運にも天然痘に打ち克ちました! で、どこで? - オルミュッツで! で、どこで? ポトシュターツキー伯爵閣下のお館で」
11月29日付け手紙の冒頭。
「ただ今貴信拝受、再三、再四、神なる御身をわれらは讃う! 娘は幸い天然痘に打ち克ちました!」
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11月26日
・ルソー「音楽辞典」発売。
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12月
・勝山藩、財政の行き詰まりから、京都商人高橋丈右衛門に藩勝手方を預ける。
高橋は、同6年2月、永平寺門前の鍛冶屋真柄清三郎に札元を一任、翌年、約束していた用捨米を5年間半減、
同8年、幕府地方役を招いて年貢増徴策を強行しようとするが、百姓方の抵抗により失敗。
安永3年(1774)4月24日、御用金を巡り勝山町の高橋借宅と富商7軒が打毀される。
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・幕府より尾張藩へ水害などのため金3万両が貸し与えられる。
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・モーツアルト、年末か翌年初ザルツブルクでの作と思われる3曲の教会ソナタ。
「教会ソナタ第1番 変ホ長調」(K.41h (67))、「教会ソナタ第2番 変ロ長調」(K.41i (68))、「教会ソナタ第3番 ニ長調」(K.41k (69))。
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12月2日
・北米、ディッキンソン、「ペンシルバニア農夫の手紙」、新聞発表。
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12月5日
・竹内式部、八丈島流刑の途中、三宅島で病没(56)。
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12月23日
・モーツアルト一家、オルミュッツ出発。
24日、ブリュン到着。フランツ・アントーン・シュラッテンバッハ伯爵(大司教ジークムントの弟)邸に宿泊。2週間滞在。
30日、ブリュンの音楽家と共にクラウトマルクトの「タヴェルナ(市役所)」で演奏会
オルミュッツ近傍のシュテルンベルク司教座聖堂首席司祭アウレーリウス・アウグスティーヌスの日誌。
「晩、州長官閣下に勧められ、<タヴェルナ>と呼ばれる市役所で音楽会に出席した。この音楽会では十一歳になるザルツブルクの少年とその十五歳の姉とが、ブリュンの住人たちによる種々の楽器の伴奏で、満堂の驚嘆を惹き起こした。ただこの子供はトランペットを伴奏できなかったが、それはトランペット奏者たちがお互いに調子のあった演奏ができなかったためである。」
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