ウコン(桜) 江戸城(皇居)東御苑 2013-04-04
*明治36年(1903)11月
この月
・政府は日銀に対して、開戦になった場合の戦費調達方法、海外からの軍需品購入のための正貨準備について調査するよう内密に指示。
高橋是清副総裁は早急に戦費と流出する正貨の推定を横浜正金銀行に指示。
これら戦時経済収支の推計は秘密裏に行われたが、この月から売為替や信用状の発行を控え目にする政策が取られたため、経済界は動揺し、日露開戦が公然と口にされるようになった。
特に大阪財界では戦争による経済危機の噂が広まった。
正金銀行の試算によると、開戦1年間に日本から流出する正貨高は約6,500万円で、この計算には開戦後に海外から購入する軍需品の代価は含まれていないため、現実にはもっと困難な財政状態になると推定された。
事態を憂慮した曾禰荒助大蔵大臣は、松尾臣善(しげよし)日銀総裁に事態の収拾を依頼。
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・古河力作、上京。滝野川の印東熊児経営康楽園入店。
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・漱石(36)、神経衰弱再発。翌年4~5月まで続く。
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・坪内逍遥(44)、尾崎紅葉の葬儀参列中に脳貧血で倒れ、12月、健康上の理由で早稲田中学校校長を辞任。
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・(露暦11月)ロシア、ゼムストヴォ議員立憲派グループ大会。
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・スペインの鉱山労働者、週給制を要求してストライキ。
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11月1日
・石川啄木(17)、正式に新詩社同人に推挙される。石川白蘋等を新詩社同人とするとの社告(『明星』卯歳第11号)。
この年2月27日、啄木は東京から戻り帰宅。故郷の禅房でしばらく病身を養う。
5月31日~6月10日、評論「ワグネルの思想」を「岩手日報」に連載(7回)。
また、帰郷後、与謝野鉄幹の知遇を得て白蘋の筆名で「明星」に短歌を発表し、11月1日発行の「明星」で新詩社同人とする旨が発表された。
啄木はこの月初旬より詩作に没頭、「愁調」と題する5篇の長詩を啄木の筆名で鉄幹の許に送る。
この年秋頃から翌37年2月上旬、アメリカの女流文学者Anna Lydia Ward(1850~1933)の編集した『Surf and Wave : the Sea as Sung by the Poets』の影響を受け、最初の詩稿ノート「EBB AND FLOW」(エプ・アンド・フロウ)を作る。
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11月2日
・川上音二郎一座、「ハムレット」初演。
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11月2日
・アメリカ、パナマ近海に軍艦3隻派遣。
翌11月3日、コロンビア共和国パナマ地方地主たちが反乱。
アメリカ擁護下でコロンビアから独立。パナマ共和国成立宣言。
11月6日、アメリカ、承認。
また、
11月3日には、アメリカ軍艦ナッシュビル号、コロンビアのコロンに到着。
セオドア・ルーズベルト大統領、コロンビアにパナマ運河建設許可を要求。拒絶。
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11月3日
・イタリア、第2次ジョリッティ内閣(~1905年3月4日)。
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11月4日
・黄興・宗教仁・陳天華ら、反満革命の団体華興会結成(長沙)。
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11月5日
・鴎外『大戦学理』(クラウゼヴィッツの兵書の訳本)発行。鴎外の卓越した学識や見識に山縣有朋が注目する。
鴎外は明治21年(1888)のドイツ留学時代にクラウゼヴィッツの兵書の研究をしており、第12師団軍医部長としての小倉赴任後もその「講筵」を開いていた。
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11月6日
・海軍工廠条例公布。従来の海軍造船廠と海軍造兵廠を統一し、横須賀・佐世保・呉に設置。
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11月6日
・今日出海、誕生。
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11月6日
・アメリカ、コロンビアからの独立を宣言したパナマ共和国を承認。
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11月10日
・東京府下の新聞が聯合して「東京市内新聞雑誌通信諸社有志時局問題聯合懇話会」を帝国ホテルで開催し、新聞界は開戦論で統一する動きとなる。
「萬朝報」よりも長く反戦論を主張していた島田三郎の「毎日新聞」も翌11日より開戦論に変わる。
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11月12日
・黒岩涙香(41)・島田三郎(50)・田口卯吉(48)ら、横浜賑町・喜楽座での対露同志記者演説会で講演。
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11月12日
・姫路平野で陸軍大演習。3万余参加。
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11月15日
・週間『平民新聞』創刊号発行。
平民社:
幸徳秋水(33)・堺利彦(34)、現在の有楽町マリオンの斜め前あたりの東京市麹町区有楽町3丁目二番地の借家に「平民社」を設立(1階に秋水らが住み、2階が事務所として使われた)。
『平民新聞』編集発行人は堺利彦。
社員はほかに山根吾一、柿内武次郎の計4名。間もなく山根は、片山潜渡米の留守居役として『社会主義』の編集責任者となる。秋水の妻の千代子も実質的な会計役を務めている。
11月29日には朝報社を辞めた石川三四郎、翌明治37年1月3日には『二六新報』を辞めた西川光次郎が入社。事務は神崎順一、広告は熊谷千代三郎が担当。
①小島龍太郎が新聞保証金1千円寄附、
②加藤病院長加藤時次郎が当初の創業費750円を貸与、
③10月20日夜の社会主義協会主催非戦論大演説会(中央公会堂)収益金32円余寄附
④社会主義協会員岡千代彦・幸内久太郎・斎藤兼次郎らの事務応援。
小島龍太郎は中江兆民の古くからの友人で衆議院書記官などを務めていたが、兆民が1901年に没した後は、その愛弟子である幸徳秋水への支援を惜しまなかった。
週刊『平民新聞』の編集人と発行人を決める際、幸徳秋水は病弱な上、老母も抱えているという理由で、堺は自分が発行兼編集人として署名し、予想される弾圧の矢面に進んで立とうとした。
秋水は最初、堺の申し出に応じず、論説を執筆する立場上、自分が発行兼編集人になって責任を取ろうとしたが、堺が苦心して秋水を説得したという(師岡千代子の証言)。
堺は『平民新聞』の発行兼編集人になったが、予期した通り、秋水が書いた論説がもとで新聞紙条例違反に問われ、社会主義者として初めて入獄する。
堺利彦と幸徳秋水は10月27日に警視庁に届けを済ませ、月末には新聞広告を出し、すぐに週刊『平民新聞』編集に取りかかる。
11月15日発刊の創刊号は12ページ、第2号と第8号は10ページだが、それ以外の号は8ページ。サイズはほぼタブロイド判で5段組、発行日は毎週日曜日。
第1号1面トップには、たいまつのカットと「平民社同人」と署名した「宣言」が掲げられた。
一、自由、平等、博愛は人類世に在る所以の三大要義也。
一、吾人は人類の自由を完(まつた)からしめんがために平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。
一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す。故に人種の区別、政体の異同を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。
一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す。
伊藤銀月が、『平民新聞』創刊号に「枯川と秋水」という酒脱な人物評を書く。
事の経営に於ては枯川亭主役にして秋水女房役、一旦筆を執るに至れば秋水亭主役にして枯川女房役、語を換へしめよ、内に於ては枯川の旦那に秋水の細君、外に向つては秋水の主人粟枯川の夫人。此の配合は世を終る迄両者の相離るゝを許さず、或は切つても切れぬ腐れ縁の種類歟
枯川の社会主義は趣味七分に理論三分、秋水の社会主義は理論六分に趣味四分。此厳密なる数字的差異、恐らく両者自身も未だ算し到らじ
枯川の文を解剖すれば、洋文素四、和文素四、漢文素二、併せて十。秋水の文を解剖すれば、洋文素四、漢文素四、和文素二、併せて十
秋水の想を解剖すれば、科学素五、純文学素三、哲学素二、枯川の想を解剖すれば、純文学素六、科学素三、哲学素一、秋水を社会主義の団子を円める人にして枯川は其餡(あん)を煮る人也(中略)
秋水と共に人を殺し人を活かすことを謀るぺく、枯川と共に人を医し人を育することを謀るぺし、我れ幸に友あり
枯川は飽迄(あくまで)枯川たれ、秋水は何処迄(どこまで)も秋水たれ
寄稿者:
安部磯雄、木下尚江、片山潜、金子喜一(在米)、村井知至、斯波貞吉、田岡嶺雲、斎藤緑雨、細野猪太郎、久津見蕨村、杉松楚人冠、伊藤銀月、加藤汀月、小島三申、白柳秀湖、山口孤剣。
挿絵(平福百穂、間もなく小川芋銭)。
新宮の大石誠之助はや早い時期からの支援者で投稿も始める。
第3号から「予は如何にして社会主義者となりし乎」という記事が連載
英文欄は、斯波貞吉(創刊号~第10号)、安部磯雄(第11号~終刊号)が担当。
創刊号は斯波貞吉「ドイツ社会党大会」。9月10日ドレスデンの大会。ベーベルとベルンシュタインの闘いと改良派の敗北。
「創刊号の他のどの記事よりも興味と教訓に富んでいたのは、斯波貞吉「ドイツ社会党大会」の記事であった。斯波は『萬朝報』の堺や幸徳の同僚であったし、社会主義演説会にも出たことがあり、後に山路愛山と国家社会党を組織した。平民社の同情者の一人で、創刊号から第十号までの英文欄を担当した。」(荒畑)
「その期間の『平民新聞』の主要な記事は、創刊号から八回にわたって連載された安部の「社会主義の運命を決すべき問題」である。安部は経済界におけるトラストの趨勢、都市における市有事業の発達、ドイツにおける社会民主党の投票増加、ニュージーランドにおける社会政策の進歩等を引例して、これらがいずれも社会主義実現の大勢を示唆するものであると論証した。」(荒畑)
1部3銭5厘。創刊号は5千部売切れ3千部増刷(計8千部)。
通常の部数は、3,700~4,500部(この頃の新聞業界の部数から見てもそれほど少ないわけではない)。
「共産党宣言」の翻訳を載せた53号は初号と同じ8千部。
しかし罰金、発禁、発行人・印刷人・執筆者の投獄という続き、明治38年(1905)1月の第64号を赤刷りにして廃刊。
印刷部数は週平均で4,500、内3,000が売捌店に出され、1,500が直接購読分。
明治36年11月以降1年間で合計約20万部。「平民文庫」は8種1万5,270冊を販売。
「社会主義入門」(10銭)2,301冊、「百年後の新社会』(5銭)2,598冊、小説「火の柱」(35銭)3,469冊、『消費組合の話」(12銭)1,410冊、「瑞西(スイス)」(15銭)1,932冊、「ラサール」(15銭)1,613冊、「土地国有論」(10銭)1,116冊、「経済進化論』(15銭)831冊。また「平民絵葉書」(10銭)650組。
リーフレット「社会主義の檄」(3万2千枚)、「普通選挙の檄」(7千)、「普通選挙請願用紙」(3千)等を配布。
1年間に120回の集会。
内訳は、演説会が東京市内44回、地方17回。茶話会その他が市内16回、地方4回。社会主義研究会30回、婦人講演会13回。
地方遊説は平民社の堺、幸徳、石川、西川、社会主義協会の木下、野上啓之助・松崎源吉、山口孤剣等が静岡、茨城、群馬、埼玉、千葉、栃木、神奈川、東京府下、東海道沿線各地で40余回。
山口孤剣、小田頼造が東京・下関間を徒歩跋渉し、小野丑郎、西村伊作、権田保之助、野村某、阿南某、西島某等は千葉、長野、新潟ならびに近畿、関東、東海道、山陽道等にわたって社会主義書類の伝道行商旅行を行う。
『平民新聞』を中心とする読書会、研究会、社会主義宜伝を目的とする団体が全国各地にできる。
永井柳太郎、山田金市郎、松岡荒村、白柳秀湖、大亦墨水、菊池茂、小野有香、安成貞雄など早大学生を主とした早稲田社会学会。森近運平らの岡山いろはクラブ。荒畑寒村らの横浜平民結社(後の曙会)等。
他に、下関、神戸、大阪、京都、高知、丸亀、福岡、宮崎、佐賀、小倉、長崎、鹿児島、柳川、千葉、上州名和村、栃木県佐野、宇都宮、信州神川村、諏訪、長野、上田、陸前の遠田、秋田の象潟、茨城県の柿岡、川越、・横須賀、名古屋、静岡県吉原、紀州の新宮、串本、田辺、飛騨の高山、丹後の峰山、福井、高岡、出雲の安来、札幌、函館、夕張炭山、足尾銅山等。
堺は「予の半生」で、「予の家の生活は固より苦しくなったが、予の心の愉快と満足とは喩(たと)へるに物が無い程であった」と当時をふり返っている。
白柳秀湖の回想(1936年刊行『歴史と人間』)
当時、秀湖は早稲田の学生だったが、平民社に出入して堺を知り、大きな影響を受け、のちに売文社の社員になっている。戦争気分が高まるなかで、高らかに「非戦」を宣言した平民社は、社会に不満を抱く青年やインテリ層を惹きつけた。その惹きつける力は堺利彦によるものが多かった、と秀湖は分析している。
堺さんの平民社こそは、武者小路氏の『新しい村』が九州の一角に試みられるより十幾年も以前に、帝都の中心、日比谷公園の近くに建設された一種の『新しい村』であったのだ。(中略)
後年秋田雨雀君が或る席上で、著者(*秀湖)に『あの頃の社会主義運動は可なり空想的な、ユートピア的なものであったね』といひかけたことがある。その時著者は答へた。
『馬鹿をいつては困る。君は大正六年以後、社会運動の方に乗出して来た人だから平民社のことをさう観て居るのだ。平民社の社会主義といふものは全くユートピア時代の殻をぬいで、その基礎をしつかりとした科学的理論の上に置いて居た。「共産党宣言」はもちろんのこと、マルクス、エンゲルス、ベーベル、シヤイデマン、カウツキー、クロボトキンなどの基礎的文献は、すべて研究されてゐたし、アプトン・シンクレアーの「ジャングル」でも、ヴイルゼーの「小兵営」でも、今のプロ文学の種本となってゐるほどのものはすべて手がついてゐた。』秋田君には答がなかった。
しかし、平民社の本格的の仕事は仕事として、平民社に多量の理想郷的空気が漂つてゐたといふことは否めぬ事実だ。これは全く別問題である。
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