江戸城(皇居)東御苑 2013-04-04 千里香
*寛仁4年(1020)
・この年、疱瘡が流行
例によって九州から始まる。大陸から持ち込まれたもので、折りしも大宰権帥藤原隆家が任を終えて入京したので、この疫病は隆家に従って九州からやって来たと評判された。
天然痘や麻疹の免疫性については、当時も気付かれており、『栄花物語』にも、先の流行から20余年も経過しているので、先年罹病しなかった者が多い世になっており、みな心配したとある。
『左経記』にも27、28歳以下の者、つまり前回流行後に出生した者の罹病が多いとある。
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2月
・この月の無量寿院の丈六阿弥陀仏安置の際に初めて定朝(じようちよう)の事績が知られる。
「御堂に居(す)ゑ並べられて後、御堂(道長)の仏子康尚(こうじよう)に仰せられて云はく、「直すべき事ありや」と。申して云はく、「直すべき事候ふ」と。麻柱(あなない)を構えて後、康尚の云はく、「早く罷り上れ」と云ひければ、廿許(はたちばか)りなる法師の薄色の指貫(さしきぬ)、桜のきうたい(裘代)に、裳は着して、袈裟は懸けざりつる、つち・のみを持ちて金色の仏の面をけづりけり。御堂の康尚に仰せて云はく、「彼は何(いか)なる者ぞ」と。康尚の申して云はく、「康尚の弟子、定朝なり」と。其の後、おぼえつきて世の一物に成りたり。」(『中外抄』の忠実の談)
この話がそのまま真実かは不明だが、定朝は、康尚の弟子(実子の可能性もある)であり、康尚の下で無量寿院造営に活躍したと考えられる。
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2月14日
・この日付け『左経記(さけいき)』(道長室倫子の甥、源経頼の日記)にみえる事件。
「或る人云はく、左衛門尉平致経(むねつね)、年来東宮(とうぐう)町に寄宿す。而して昨日夫(夫役)を出すべきの由、彼の宮(東宮)の下部(しもべ)等来たりて催す。而るに一下部を陵(りよう、陵辱)して夫を出さず、てへり。仍(よ)って宮の下部数十人来たり向かひて□□(私宅カ)を切り損ずと云々」
春宮坊から夫役を出せと言われた平致経は、言いに来た下部を陵辱して夫役を出さなかった。そこで、春宮坊の下部数十人が仕返しに来て切り損じたとある。
平致経は伊勢平氏の平致頼の子で、著名な武士。
『今昔物語集』(巻23第14話)によると、京中で30余人の郎党を率いており、「大箭(おおや)ノ左衛門尉」と呼ばれていた。
(尚、この事件は1年後、遺恨の殺人事件へと繋がる(別途記述)。)
■致経の京における居宅、東宮町と夫役
平致経のように地方から上京した春宮坊とは無関係な住民も東宮町に居住していた。
また、春宮坊は平致経のような人を含む東宮町の住人に対して夫役を課していた。
本来、東宮に仕える人たちの宿所であった東宮町はその姿を変え、春宮坊の一種の所領のようになっていた。
「年来東宮(とうぐう)町に寄宿す。」
平致経は東宮町の一角に「宅」を設け、京における活動の足場と定めていた。
居住はすでに「年来」にわたる。
東宮町は、中御門大路・堀河小路・春日小路・大宮大路に囲まれた東西に長い2町の町で、「諸司厨町」と総称される官衙町の一つ(『拾芥抄』)。
官衙町の本来的住人は、当該官衙の下級官人らである。
致経が長期居住していたとしても、彼はこの町の本来的住人ではない。
「東宮町に寄宿す」は、東宮坊の官人でない人間が、縁故をたよりに東宮町に居住しているという意味。
10世紀後半、左京四条以北の地域におこった居住形態の変動と流動、それに伴う人口の移動-転入-集住という現象が、官衙町にも波及していた。
■致経と頼光・維衝との違い
源頼光は、もとの「帯刀町」(『拾芥抄』)である左京北辺の二坊五町に宅を有していた。
全般的な官衙の縮小・停廃傾向の中で、官衙町の一つが廃絶し、そこに貴族(藤原倫寧)の邸宅が建てられ、やがて頼光によって購入されてゆく、という過程があった。
東宮町も、官衙町の性格を維持つつ、致経のような人物の寄住も拒まない町に変貌しつつあった。
寄宿者を含め官衙町居住の町住人には、それぞれの官衙が課する役に従う義務があった。
もし住人がこれを対捍(抵抗)すれば、居住権を否定され追放されてしまう。
致経は模範的な町住人ではなく、東宮町住人の義務である東宮夫役を拒否し、東宮坊の下部たちと紛争をおこした。
東宮坊の背後には道長がいたから、致経は年来の宅を破壊され、みじめな退却を体験することになる。
致経のこうした居住のあり方は、軍事貴族のそれと明白な違いがある。
源頼光の「一条邸」は、彼の女婿藤原道綱を同居させうる文字どおりの邸宅であった。
通例「一町家」といわれる宏壮な邸宅は、所役対捍によって破壊されてしまう官衙町内の「宅」とは質的な相異がある。
維衝の場合、住居は不明であるが、タイプとしては頼光のそれに属すると考えられる。
頼光や維衡の宅と大きな差が生じたのは、彼らが受領経験者であり、致経がそうでなかったから。
左京の四条大路以北で公卿にふさわしい宅地一町を購入しようと思えば、4千石近い支出を覚悟しなければならなかった。
■(一般的な説明)官衙町の変貌と織部町の特殊性
摂関期、官衙町は宿所としての機能を停止し、諸司領(官衙領)に転化した。
官衙町は、本来、律令制下で諸国から上番(じようばん)した衛士・仕丁・織手・采女・工部(たくみべ)などの宿所のことで、平安京の町(40丈四方)を単位として、二条大路以北の平安宮周辺に設定されていた。
摂関期になると、律令制的な籍帳支配が崩壊して全国の農民が仕丁や衛士として京へ徴発されることがなくなってくる。
すると、官衙町は宿所としての機能を停止し、諸司領(官衙領)へと転化していった。
その官衙町に住む住人が身分や所属に関係なく、諸司(役所)に対して公事・夫役を出すようになる。
春宮坊は、東宮町の住人に対して夫役を課していた(春宮坊の一種の所領のようになっていた)。
しかし、織部町(おりべまち)の場合は、摂関期になっても織部司(おりべし)の織手たちの居住の場であった。
ただし、織手たちのあり方が律令制下の織部司織手町とは異なっていた。
律令制下の織部司織手町は単なる織手たちの宿所であったが、摂関期には、織手たちは織部町において織機を構え、機織りをして製品を織部司に提出することが「所役」「公役」「公事」と看做されていた。
中には、権門(官位が高く権勢ある家柄)に仕える織部となる者もいて、権門の威を借りて織部司の命令に従わない織手を織部司が訴えている例もある。
藤原実資も織手を召し使っていて、火災で宅が焼失した織手2人に手作布(てつくりぬの)を与えている。
院政期にはこのような例が一般化して、院織部(いんのおりべ)、女御殿織部などがみえる。
摂関期には、官衙町は織手のような手工業者を編成する場となったが、織部町は織部司にとって、製品である綾や錦を納めさせる所領のような性格を有していたと言える。
■左右京職(さゆうきようしき)と夫役
官衙町以外の左右京は、律令制下では、戸籍・計帳によって京に本貫(本籍地)をもつ者は「京戸」と把握され、調徭(調と徭役)などは戸を単位として課されていた。
しかし、10世紀後半になると戸は実質的な意味を失い、調徭などの課役体制も変化していった。
律令制下と同様に左右京職が夫役を徴発していたが、戸単位ではなく、官衙町と同じように「在家」(家の存在に注目した課役の賦課単位)が単位になっていたと考えられる。
例えば、造八省所が小安殿の瓦を葺く夫500人を左右京職が徴発している例がみえる(『小右記』長元4年8月27日条)。
また、「又右京の在家巳に少し。仍(より)て人夫も又乏し」(『春記』長暦4年2月8日条)とあって、在家と夫役との関係が示唆されている。
11世紀になると、左右京職以外に検非違使庁からも在家に対して夜行役(やぎようやく)が課されるようになる。
本来律令制下では京内の夜間巡回は衛府の担当であり、10世紀までは衛府が中心となって行われていた。
しかし、11世紀になると、京内の夜間巡回は検非違使によって行われるようになり、それに伴い、在家に実際に夜間巡回を行う夜行役を課すようになった。
早い例としては、「榎本吉武愁状(うれいじよう)」がある。
この文書は、「九条家本延喜式巻四裏文書」の一部で、内舎人(うどねり)清原某の従者榎本吉武が「夜行之役」を勤仕している時に、検非違使庁に捕禁されたので、主人の清原氏がその釈放を求めたものである。
この文書には年紀がないが、「九条家本延喜式巻四裏文書」には他にも検非違使庁宛の文書が収められており、長元8年(1035)の年紀をもつ文書があり、この清原氏の愁状も同年代のものと考えられる。
こうして、京中の住民には、左右京職からと検非違使庁からの両方から夫役が課されることになった。
また、夫役が課される単位となった在家については、建築史的にみると、11世紀に街路に面して立ち並ぶ「町屋」が積極的に造られるようになることと対応している。
庶民の住む「町屋」の登場に基づいて、在家に夫役が課されるようになった。
■「在地」の萌芽
律令制下では、左右京職の下に、坊令・坊長がいて各戸へ徴発などの命令が届く命令系統であった。
摂関期になると、左右京職だけではなく、検非違使庁からも在家に対して、徴発の命令等が届くようになり、その際、中間で左右京職や検非違使庁からの命令等を仲介する役割を果たしたのが、保長・保刀禰であった。
保長は10世紀に見え、五位以上の家司や諸院諸司の官人を任用するものだった。
11世紀になると、保刀禰が保長に代わって活躍する。保刀禰は官位や官職とは関係なく補任された在地の有力者で、博奕の取り締まりや犯人逮捕などの治安維持や、住民の掌握、課役の徴収などにも携わっていた。
このような保刀禰が掌握している範囲の住民たちは、摂関期に至って一定の社会集団を構成するようになる。
この社会集団は、「随近(ずいきん)」「近辺(きんぺん)」と呼ばれ、何か事件が起こると、この「随近」「近辺」の住民たちが事件の証言をしたり、犯人を拘束したりする(『権記』長保2年7月28日条、『高山寺本古往来』)。
こうして、京の住民は一種の共同体を形成するようになっていく。
院政期(12世紀以降)になると、平安京内に「在地」という地縁共同体が成立し、文書の作成にも「在地証判」が必要になる。
摂関期はそのような「在地」の萌芽期と言える。
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