松月 北の丸公園 2013-04-15
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(48)
「二十八 私娼というひかげの花」(その2)
関東大震災は東京の町の外形を変えただけではない。内実もまた変えた。
東京のなかから江戸的なものが失なわれていき、従来のモラルにとらわれない新しい生活風俗が登場してきた。私娼はその震災後の新しい女である。
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芸者や吉原の公娼になるには、それなりの手続き、規律が必要だったが、私娼には誰でもなれる。
その点で、私娼は、新時代のアナーキーな存在だった。
彼女たちに興味を持った荷風は、だから新しい風俗を取材してみようとするモダニストでもあった。
大正14年10月8日。
荷風は、溜池あたりで偶然出会った旧知の「自働車運転手」から都内各所にある「隠売女(カクシバイヂヨ)の周旋宿」の話を聞いたと、その名前をいくつか列挙し、ひとりの私娼の名を挙げる。
「又赤阪新町の路地に野谷といふ女あり。年は三十あまりなれど二十四五にも見ゆる若づくりにて、下女もつかはず一人住ひをなし、自由に客を引込むなり。祝儀を過分に取らすれば閨中の秘戯をも窺ひ見せしむるといふ」。
4日後の10月12日、「赤阪新町の野中といふ女を伴ひ神楽阪田原屋に飲む」
この年12月には「お浪」
(のち「お富」)という私娼、「日乗」昭和11年1月30日の女性リストの「大竹とみ」とある女性=「大正十四年暮より翌年七月迄江戸見坂下に囲ひ置きたる私娼」)。
大正14年12月6日
「夜ひそかに氷川町なるかのお浪といへる怪しき女を訪ふ」
彼女のほうから偏奇館を訪ねることもある。
12月21日
「夜初更を過ぎし頃、忽然門扉を敲くものあり。出でゝ見るに、過日銀座にて偶然見たりし櫻川町の女にて、今宵は流行の洋装をなしたり。」
荷風は女を部屋に入れ、ともにワインを飲む。洋装の女が服を脱ぎ椅子の上に掛け、「靴足袋」を脱ぎすてようとする様子に「ドガ画中の景」に似たものを感じ思わずフランス遊学のころを思い出す。よほどこの女が気に入ったのだろう。「帰路の自働車代を合算して十五圓を與ふ。一刻の春夢寤むれば痕なしと雖、偶然二十年のむかしを回想し得たる事を思へば、其価亦廉なるかな」。
この夜以降、ふたりの仲は深まる。
「日暮谷病院の帰途櫻川町の女を訪ふ」(12月31日)、
「哺下虎の門にて三一葵山の二子に別れ、櫻川町の女を訪ふ。夜半家に帰る」(大正15年1月2日)、
「哺時假睡の後、虎の門の女を訪ふ」(1月6日)。
1月12日「相逢ふこと殆毎夜に及び、情緒纒綿として俄に離れがたき形勢」となる。
この年、荷風47歳。
お浪(お富)という私娼は美しい女だったらしい。
荷風は彼女を「椿姫」に見立てて賛美している。
「お富は年既に三十を越え、久しく淪落の淵に沈みて、其容色将に哀へむとする風情、不健全なる頽唐の詩趣をよろこぶ予が眼には、ダーム、オー、カメリヤもかくやとばかり思はるゝなり」
「鼻筋見事に通りし色白の細面、何となく凄艶なるさま、予が若かりし頃巴里の巷にて折々見たりし女に似たり」(1月12日)、
「夜初更のころお冨来りて門を敲く。出でゝ門扉を開くに、皎々たる寒月の中に立ちたる阿嬌の風姿、凄絶さながらに嫦娥(コウガ)の下界に来りしが如し。予恍惚殆自失せんとす」(1月23日)。
どこか秘密めいた私娼という存在、ドガや「椿姫」の見立て、加えて「凄艶」なる女の容姿。
それが荷風のなかのデカダンス、「不健全なる頽唐の詩趣をよろこぶ」退廃趣味をことさらにかきたてたのだろう。
ヴェルディの歌劇「椿姫」のヒロイン、ヴィオレッタも娼婦である。
大正15年1月12日の記述によれば、このお浪(お富)という女性は、18の時に結婚、子どもを作るが、離婚し、その後身を持ち崩し、「果ては自ら好んで私娼となり」、私娼の周旋宿をあちこち渡り歩くうちに、荷風と出会ったという。父親は一時下関に工場を持ち、「豪奢を極めたりし」が、いまは零落し、芝桜川町の路地に暮し、二階を人に貸している。
「この女父が豪奢を極めし頃不自由なく生立ちし故、様子気質ともどもに浅間しき濁江の女とは見えざるも、あながちわが慾目にはあらざるべし」。
性格もよかったらしい。
荷風は彼女を江戸見坂下明舟町の家に囲い、その仲は7月まで続く。
「昨夜よりお冨来り宿す」(1月19日)、
「薄暮お冨の家にいたり夕餉を食し」(1月21日)、
「お富を携へ夕餉の後銀座を歩む」(1月26日)、
「夜お冨と銀座を散歩す」(2月6日)。
荷風は、彼女の性格が気に入る。
無欲恬淡とし、新聞雑誌にも関心がない。
「是虚栄心と知識慾とに驕らるゝ當世の婦人とは全く別種の女なり」(1月19日)
荷風は彼女との生活に惑溺していくが、すぐに「見る人」となり、観察しつくし、彼女をモデルにして作品を書く。
大正15年発表「かし間の女」。
ヒロイン菊子は、お浪(お富)と同じように、男から男へと転々していく多淫な私娼。野口冨十男の言葉を借りれば「密淫売」といういかがわしい女。
にもかかわらず彼女は、基本的には善良な、憎めない女である。世間をはばかる〝ひかげの女″だが、上昇志向とは無縁の良さを持っている。単純で無自覚ではあるが、そのことがかえって彼女の美点になっている。だから荷風は、登場人物の口を借りて、売春で警察に逮捕された彼女を擁護する。
荷風の私娼への想いは強く、深い。
昭和に入ってからの「日乗」には実によく私娼が登場する。
お浪の他にも、荷風は何人もの私娼と交誼を結んでいる。一回だけの関係から囲い者まで形はさまざま。
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