2013年5月11日土曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(71) 「第7章 新しいショック博士-独裁政権に取って代わった経済戦争-」(その3)

北の丸公園 2013-05-10
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(71) 
「第7章 新しいショック博士-独裁政権に取って代わった経済戦争-」(その3)

大統領は3週間後、閣僚たちに新政策を説明
大統領就任から3週間後、パス・エステンソロは閣僚たちを招集し、ついに秘密を明らかにする。彼は部屋のドアを閉め、「秘書に大臣たちへの電話はいっさい取り次がないように指示した」。
ベドレガルは60ページに及ぶプログラムを読み上げ、閣僚たちは呆然として聞き入った。
あまりの緊張から、「数分後には鼻血が出た」とベドレガルは打ち明ける。
大統領は閣僚たちに、この政令についての議論は行なわないこと、すでに別の密室交渉によってバンセルの所属する右派政党ADNの支持を取りつけていることを告げ、もし反対する者がいれば閣僚を辞任してもらう、と申し渡す。

2日後、大統領のテレビ演説
「私は反対です」産業相が発言した。
「それならここから出て行ってもらおう」。パス・エステンソロは答えた。
だが、産業相は出て行かなかった。インフレは依然として猛威を振るっていたし、ショック療法によるプログラムを実施すればアメリカ政府からかなりの財政援助が期待できる見通しが強く示唆されたことから、部屋を出て行こうとする者は一人もいなかった。
2日後、大統領は「ボリビアは瀕死の状態にある」と題するテレビ演説を行ない、何も知らない国民の上に原爆ならぬボリビア版”レンガ”を落とした。

すべての社会的コストをショック療法によって貧困層に押しつけようとする
物価を引き上げればハイパーインフレは終息するというサックスの予測は正しかった。
2年以内にインフレ率は10%にまで下がるという、いかなる基準からしても目覚ましい結果となった。
だがボリビアの新自由主義改革がもたらした、より広範な結果については、大きく議論が分かれる。
急速なインフレは極めて有害で持続不可能なものであり、コントロールしなければならないが、それには大きな痛みが伴う ー というのは、すべての経済学者の一致した見解だ。
問題はどうやって信頼できるプログラムを構築するか、そして、その痛みの矢面に立たされるのは誰なのか、という点にある。

トロントのヨーク大学経済学教授でラテンアメリカを専門にするリカルド・グリンスパンによれば、ケインズ主義あるいは開発主義の伝統においては、「政府、雇用主、農業従事者、組合など主要な利害関係者を含む人々による話し合い」を通じていかに支援を行ない、負担を分かち合うかが探られる。
「これによって当事者たちは賃金や物価などの所得政策についての合意に至り、同時にそうした安定化措置が実施される」。
だが、これとはきわだって対照的に、「正統理論では、すべての社会的コストをショック療法によって貧困層に押しつけようとするのです」。
ボリビアで行なわれたのはまさにそれだった、とグリンスパンは私に話した。

失業率の上昇
かつてフリードマンがチリで約束したように、自由貿易が実現すれば、職を失った人には新たな職が創出されるはずだった。
だが実際にはそうはならず、大統領選当時20%だった失業率は、2年後には25~30%に上昇した。
1950年代にパス・エステンソロが国有化した国営鉱山会社だけでも、従業員数は2万8千人から6千人へと削減された。

労働者、農民の没落
最低賃金は二度と元に戻らず、プログラム実施から2年後に実質賃金は40%減少し、一時的には70%まで減少した。
ショック療法が実施された1985年に845ドルだった一人当たり平均所得は、2年後には789ドルに落ち込んだ。
これらの数値はサックスやボリビア政府が使ったものだが、経済発展が見られないことを示してはいるものの、多くのボリビア人にとって日常生活がどれほど悪化したかは、ここからは読み取れない。
平均所得は国全体の総所得を人口で割って得られるが、これはポリビアにおけるショック療法が、他のラテンアメリカ諸国と同じ影響を及ぼした事実を覆い隠している。
すなわち、ごく少数のエリート階級がますます裕福になる一方、労働者階級に属していた国民の大部分が経済からつまはじきにされ、無用な存在と化してしまった。
1987年、カンペシーノスと呼ばれるボリビアの農民の年間所得は平均で僅か140ドルであり、この国の「平均所得」の五分の一にも満たなかった。
「平均」だけを算出することの問題はここにある - こうした明確な格差が見えなくなってしまうのだ。

農民組合のある指導者はこう訴える。
「政府の統計には、テント生活を強いられる家族が増加していることは表れない。一日パン一切れとお茶一杯しかもらえない何千人という栄養不良の子どものこせも、職を求めて首都にやってきたのに、結局路上で物乞いをしている何百人という農民のことも表れない」。
これが、ボリビアのショック療法の隠された物語だ。
何十方というフルタイム、年金つきの職が失われ、なんの保護もない不安定な職に取って代わられた。
1983年から88年の間に社会保障を受ける資格のある国民の数は61%も減少した。

医者が薬を使うのと同じ、過激な手段を使うことが必要。そうしなければ患者は死んでしまう
この転換のさなかに経済顧問として再度ボリビアに渡ったサックスは、食料やガソリン価格の上昇に合わせて貸金を上げることに反対し、代わりに大きな打撃を受けた者を助けるための緊急資金を創設すべきだと主張した。
大きく開いた傷口に絆創膏を貼ろうというのである。
サックスはパス・エステンソロの要請でボリビアに戻り、大統領直下で仕事をしていたが、その非妥協的な姿勢は突出していた。
ゴニ(彼はその後、ボリビア大統領に就任する)によれば、サックスはショック療法の人的代償に対する国民の反対が高まっても、政策立案者の決意が揺らぐことのないよう気合を入れたという。
「彼はやってくるたびにこう言っていた。「いいか、漸進主義的なやり方ではだめなんだ。事態がまったく手に負えなくなったら、是が非でもそれを阻止しなきゃだめだ。医者が薬を使うのと同じだよ。過激な手段を使うことが必要だ。そうしなければ患者は死んでしまうんだから」と」

コカ栽培に回帰
この揺るぎない姿勢がただちにもたらした結果のひとつが、コカ栽培の増加だった。
極貧にあえぐ農民たちが、通常の作物のほぼ10倍の収入になるコカ栽培へと追い込まれていった
(そもそも経済危機のきっかけが、コカ農家に対するアメリカ主導の攻撃だったことを考えれば皮肉なことではある)。
1989年には、労働者の10人に1人がコカあるいはコカイン産業になんらかの関わりをもっていたと推定される。
そうした労働者のなかには、やがて戦闘的なコカ栽培者組合の代表となり、2005五年にボリビア大統領に選出されるエボ・モラレスの一族も含まれていた。

今やポリビア経済はコカイン中毒になっている
コカ産業はボリビア経済を復興し、インフレを退治するのに重要な役割を果たした
(この事実を歴史学者は認めているが、サックス本人は彼の行なった改革がどのようにインフレを終息させたかについてはいっさい説明明していない)。
”原爆”投下から僅か2年後、違法薬物の輸出による収入は合法的な輸出の総額を上回り、なんらかの形で麻薬取引に関与して生計を立てる人は推定で35万人にも上った。
「今やポリビア経済はコカイン中毒になっている」と、ある外国銀行の役員は述べている。
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(つづく)

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