江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-05-29
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万寿5年/長元元年(1028)
5月
・将門の乱から1世紀近く経った。
この月、上総権介(かずさごんのすけ)平忠常(良文の孫)が安房守惟忠(これただ)(姓不詳)館を襲撃して惟忠を焼き殺し(『応徳元年皇代記』)、住国の上総国でも受領(介)県犬養為政(あがたいぬかいのためまさ)の館を占拠して受領を軟禁した。
事件後、上総の「国人」「州民」が受領妻子の帰京問題で反発を強めており、この事件が広範な在庁官人・田堵負名層が参加した凶党蜂起であったことがわかる。
忠常が任国上総を越えて反受領闘争を指導したのは、彼が上総・下総・安房など数ヶ国にまたがって私営田経営を展開する大名(だいみよう)田堵であり、在庁官人だったからであった(権介は在庁官人としての肩書き)。
蜂起は5月。
春から初夏は、負名たちが国衙から公田経営を請け負って田起こし・播種(ばしゆ)・田植えをする勧農の季節。
将門の乱以来、坂東諸国は荒廃した「亡弊(ぼうへい)」国とされており、受領たちの使命は亡弊を「興復」すること、耕作面積を増やして延喜の基準国図に定められた公田面積に戻すことにあった。
荒廃公田の再開発を強制する受領に対する在庁官人・田堵層の怒りが、忠常の乱の原因となった。
忠常は、かつて常陸介源頼信に屈伏したことがある。
しかし、それ以後も房総半島に大きな勢力を保持していた。
また一方で、かつての将門や、宿敵の平維幹(惟基)らと同様に、京の政界とも関係を有していた。
忠常は、頼通の同母弟、内大臣教通を私君と仰いでいた。
挙兵後も教通に取りなしを依頼しているほどで、相当緊密な関係であったと想像される。
こうしたことから、京の情勢にも明るい忠常は、道長が没した中央政界の混乱していた時期を選んで、国司襲撃に踏み切ったと考えられている。
11世紀に起こった三つの反乱(平忠常の乱、前九年の役、後三年の役)の鎮圧を通して、頼信(よりのぶ)・頼義(よりよし)・義家(よしいえ)の河内源氏三代は、王朝国家の軍事指揮権を媒介に東国武士との間に軍事的主従制を形成して王朝国家の軍事指揮官の地位を獲得し、「武家の棟梁」と仰がれるようになる。
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6月
・検非違使平直方・中原成通、追討使に任ぜられ、8月、坂東に下向。
忠常蜂起の報に、政府は直ちに平忠常とその子常昌を追討する宣旨を下し、追討使を派遣し追捕することに決した。
この月の陣定で右大臣藤原実資以下の公卿たちは、追討使の候補として伊勢前司(ぜんじ)源頼信、検非違使平直方、同中原成通、平正輔らの名を挙げて審議した。
直方、正輔はともに桓武平氏貞盛流の武将、成通は検非違使だが法律を担当する文官である。
公卿たちは頼信を「事に堪ふる」(追討侯を担当する能力がある)として推挙するに至った。
頼信には、これまでに華々しい活躍があったわけではないが、受領としての実績、武勇の名声、行動の慎重さによって、公卿たちから信頼を得ていたと考えられる。
こうして、最終決定は、関白頼通と後一条天皇に委ねられた。
ところが、滅多に覆されない陣定の決定が覆され、後一条天皇の勅定によって追討使に任じられたのは、検非違使平直方(なおかた、維時の子)であった。追討使次官には検非違使志(さかん、道官人どうかんじん)中原成道(なかはらのなりみち)が任じられたが、彼は勘糺(かんきゆう、捜査活動)担当であった。
天皇が公卿の多数意見を抑えて、直方を追討使にした理由には様々な説がある。
直方は貞盛流に属し、良文流平氏の忠常を先祖以来の仇敵としており、摂関家家人だった平維時・直方父子が、坂東での勢力を拡大するために関白藤原頼通に強く働きかけて追討使に任じられたという説が有力である。
しかし、摂関家との親密度は頼信の方がはるかに強く、公卿たちが頼信を推薦しているにも拘わらず、関白頼通が直方の希望を容れることは考えられないとの反論もある。
この時期、頼通は長老右大臣藤原実資(さねすけ)に意見を求めて意思決定することが多く、実資も頼通をよくサポートしていた。
このような協調関係のもとで、乱対策の責任者実資が天皇と頼通に直方を推し、頼通もそれに同意して天皇の勅定となったとも考えられる。
その場合の理由としては、以下が考えられる。
①直方は現職の検非違使であった。
9世紀以来、中央から追捕・追討のために追捕使(追討使)が派遣される場合、衛府官人から任用されるのが例であり、実資自身も、「今回の追討は、節刀を賜っていく将軍とは違い、検非違使を派遣する尋常の追捕である」と述べている。
②直方は相模国鎌倉に拠点を持っており、坂東諸国武士との交流が深かった。
実資は、直方と在地武士との関係を利用して、諸国を疲弊させることなく追討を成功させようとした。
③実資は摂関家家人として羽振りを利かす頼信の二人の兄、頼光・頼親に好感を持っていなかった。小野宮流に家人として仕えてきた平氏に勲功のチャンスを与えてやりたかったと思われる。
表向きの人選根拠はあくまで現職の検非違使ということであり、謹厳な実資の推挙に天皇・関白は納得し、公卿たちも異を唱えることはなかった。
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