2013年5月26日日曜日

牧野和春『桜伝奇』を読む(9) 第8章 伊佐沢の久保桜(山形県)

第8章 伊佐沢の久保桜(山形県)

長井という土地の概観
 長井市は人口約三万三〇〇〇(平成二年)、世帯数約八七〇〇(同)、この二〇年間ほぼ微減といったところか。奥羽本線赤湯駅(南陽市)よりフラワー長井線が接続する、最上川流域に開けた古い町である。

 最上川は延長約二二四キロ、山形県にとっては母なる川であるが元禄年間、米沢藩御用商人によって最上川上流域への川船交通が開けると、宮(みや)船場(宮は地名)が米沢藩の表玄関となり、養蚕、製糸業を中心に大いに賑わった。

 物資の集散は当然、富の蓄積を生む。俳諧、川柳も盛んとなり、美術品も集まった。そういう文化的雰囲気も今日に残っている土地柄である。結城哀草果(歌人)もこの地の人。

 地形的には、東は出羽丘陵、西は朝日山系の山々に囲まれた盆地である。最上川はこの長井盆地で白川と松川とが合流することによって初めて最上川の名を得る。春夏秋冬の季節感もほぼ年の四分の一ずつという珍しい気候環境でもある。

 福島、山形両県は東北地方でも桜の老樹、名木が多い県であるが、こうした自然環境が桜の生育に大いに幸いしているのであろう。

久保桜の概観
 さて、久保桜であるが、想像していたとおり確かに迫力がある。
 周辺の山々は、雨模様であることも手伝って、いかにも黒々と妖気さえおびてみえる。そのなかに、ぼおーッと浮き立つ久保桜の白々とした満開の花のひとかたまりは、山あいの深い谷から迷い出た”幽霊”のようで、少々気味悪く感じられる。しかし、その分だけ、かえってぞくぞくするほどのリアリティを私はおぼえた。

 調査結果によると、この桜は根元の周囲十・八メートル、目通りの幹周八・一メートル。相当のスケールだ。枝張りは北に少なく、もっぱら東、西、南の三方向にのびる。東方へ十一・三メートル、ほかも数メートルから十メートル近い。樹高十六メートル

推定樹齢1200年、国の天然記念物
推定樹齢一二〇〇年といわれる。たしかに巨大な桜である。
わが国の桜の老樹のなかでも最大級の一本で、東北地方ではもっとも大きいとされる桜である。大正十三年、「伊佐沢の久保ザクラ」として国の天然記念物に指定された。

 種類はエドヒガン。
江戸時代、天保、弘化年間(一八三〇-一八四七)、この桜の枝は四反(約四〇アール)にもわたって広がっていたので、その美事さから”四反ざくら”と称された。昔、米沢の藩主が花見にこられ、樹下一反(約十アール)の土地は無税とし、そのことは明治維新まで続いたという。

 しかし、いま目の前にして眺めるこの桜はいかにも痛々しい。樹勢は徐々に弱まり、枝々を支える木の支柱はなんと約六〇本。人の手によって重装備され、かろうじて自力で立っている感じである。

桜の生育環境
 この谷の上流域に「洞雲寺の大石」(洞雲寺境内、長井市天然記念物)なる巨石がある。高さは左側三・三メートル、右側六・五メートルという巨石で、裏山に露出した自然石だ。「不伐の森」がある大石地区の地名も、この巨石によるものだが、石は花崗岩である。
つまり、こうした花崗岩質の土砂によって堆積、形成された土壌が「伊佐沢の久保桜」にとっても、水はけよく、根の発達を促すうえでも好条件として働いたものといえるだろう。

”伊佐沢”という地名の意味
 ”伊佐沢”という地名も何となく気になる。「伊佐」は「イサ」で「イ」は「斎」(イ)であろう。「イミ」(斉、忌)と同根。神聖であり、タブーであることを表わしているだろう。「サ」は「サ霧」「サ百合」「サ牡鹿」などの接頭語であろう。
つまり、地形としての「沢」を神聖視し、その神聖視をさらに強調しての表現と解釈される。

 会津盆地(福島県)に陸奥国二の宮として知られる伊佐須美神社(会津高田町宮林)がある。この場合の「伊佐」も「須美」(即ち、清らかに澄み切ったの意)に対するものである。そう考えると、「伊佐沢」は前記の如く、「沢」を「カミ」と見立てての民衆の心意を表わしていると解釈できよう。
「久保ザクラ」の名の如く、この一帯は窪地になっている。そして、わきを清らかな川が流れ、沢を形成している。

 こうした地形に一本の巨桜を置くとすれば、それはこの場所にとっては、やはりなくてはならぬ象徴的な存在であるように感じられる。

坂上田村麻呂にまつわる伝承
 この桜にも伝承がある。
 それは桓武天皇の延暦年間、征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州の蝦夷平定のためこの地方にきて、土地の豪族久保氏の家に泊った。久保氏には美しい娘がいて、将軍を心からもてなした。将軍はしばらく滞在したが、蝦夷の反乱もおさまり軍をおさめて京に帰った。その後、娘は病気になり、将軍の面影を求めつつ死んだという。

 そのことを聞いた将軍は摂津麻耶山(まやさん)の桜の木をおくり、娘の墓に植えさせたところ、木はすくすくとのび、娘心の哀れを伝えるように今も春になると美しい花を咲かせるのだ、という。

本当の話は、・・・。
 ところが、これには異論があって、右の話は大正十三年、桜の巨樹を国の天然記念物指定にと上申するとき、桜の”由来”として地元が”創作”したものだというのである。
 では本当の話はどうなっているのか。
 土地の豪族桑島和泉守の妻「お玉」が若死したのを悲しんで、主人が墓所に植えた桜が生長したものだ、というのである。そういえば正確には、ここは「上伊佐沢蜂屋敷」といって、かつては誰かの屋敷跡であることを推察させるに十分である。

草岡の桜:樹齢、樹高ともに「久保桜」と同時期のもの
長井市草岡中里、横山家の裏庭に、やはりエドヒガンの巨樹がある。「草岡のサクラ」として昭四八年、長井市天然記念物に指定されている。
根元はすでに朽ちて二本のようにみえるが、もとの根の周囲は約十一・三メートル。現在の独立した根元は周囲八メートル、樹高十七・二メートル。伊達政宗が鮎貝氏との合戦の折、敗走の途中、この木の洞にかくれ、ために危うく難を逃れた。そのため、のち政宗がこの地方を領有したとき、この桜の保護を命じたと伝えるが、一見して、印象は「久保桜」に似ている。
 つまり樹齢、樹高ともに「久保桜」と同時期のものであることを感じさせるかなりの老樹なのである。
 地元では「種まき桜」として古来、春の田植どきの目安にされている。

薬師堂の桜
 もう一本「薬師堂のサクラ」というのがある。これは長井市に隣接する白鷹町蚕桑五十沢にあり、薬師堂と呼ばれる古びた小さなお堂があって、その前に咲いている。これもかなりの老樹である。
私は「久保桜」をみたあと、「草岡の桜」と「薬師堂の桜」の二本をたずねた。これら三本とも少なくとも八〇〇年以上の樹齢を感じさせるに十分であった(「久保桜」の一二〇〇年という推定樹齢の妥当性の吟味は置くとして)。ついでながら、以上三本とも、本来は「種まき桜」として、農耕のための自然暦の役目を果たしてきたものと私は解釈する。

坂上田村麻呂にまつわる伝承:薬師堂の桜 
 さて、「薬師堂の桜」であるが、蝦夷平定の折、坂上田村麻呂がこの地にきて、五十沢の娘、”お玉”と恋仲になった。田村麻呂は戦地へ出発、大任を果たして戻ってみると、”お玉”は病気がもとではや帰らぬ人となっていた。田村麻呂はこれを悲しみ、”お玉”の霊をとむらうため、桜の木を植えた。これが薬師堂の桜であり、又の名を”将軍桜”と呼ぶというのである。ここで「五十沢(いそざわ)」は「伊佐沢(いさざわ)」と同じ読み込みとなろうし、それは「五十鈴川」(伊勢)の本意とも通じよう。

坂上田村麻呂にまつわる伝承:草岡の桜
 「草岡の桜」の場合はどうか。
 これも坂上田村麻呂の「お手植え桜」の一本とされている。
 田村麻呂が蝦夷を平定したとき、その喜びの記念として植えた桜が「伊佐沢の久保桜」「草岡の横山庄三郎家の裏の桜」「勧進代平の桜」「高玉の薬師堂の桜」「鮎貝の深山の桜」で全部で五本あった、というのである。「草岡の桜」には悲恋の相手”お玉”は登場しない。戦勝記念という伝承である。
 しかし、共通するところはいずれも坂上田村麻呂が、その理由はいろいろあるにしても、直接”お手植え”された、というにある。

長井市宮の総宮(そうみや)神社にも坂上田村麻呂の伝承が
 ところで、長井市宮に「総宮(そうみや)神社」がある。この神社は延暦二一年、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐のためこの地にきたとき、蝦夷の勢威に手を焼き、昔、蝦夷征伐で功績をあげたヤマトタケルノミコトの神徳にあやかり、野川べりに祠を建て赤崩山(あかくずれやま)白鳥大明神として尊崇し、無事大業を果たした。その後荒廃していたが後冷泉天皇の康平六年(一〇六三)、源頼義が陸奥の乱平定を祈って再建したのだ、という。「赤崩」とは洪水による堤防決壊を連想させ、その防止を祈願したものと解釈できるが・・・。

 つまり、ここにも坂上田村麻呂が登場してくる。神社の創建をめぐっては、武神としての田村麻呂と、のち安部頼時、貞任親子と戦った源頼義、義家父子との創建伝説とが重複しているらしい。けれども、福島県中通りより、宮城県多賀城、北上して北上川沿いの岩手県南部にかけてはとくに坂上田村麻呂伝説が残されているという。

坂上田村麻呂なる人物について
 田村麻呂は史上、虚像、実像両面を負ってきた人物といえようが、その実像面を追求した一書に高橋崇氏の『坂上田村麻呂』(吉川弘文館刊、昭和六一年)がある。

 同書によれば、田村麻呂は淳仁天皇、天平宝字二年(七五八)、奈良京田村里(現在の奈良市尼辻町付近)に誕生。坂上氏は古来、渡来系氏族である東漢(やまとのあや)氏の一族。

 桓武天皇、延暦十年(七九一)、三四歳のとき、征東大使大伴弟麻呂の征東副使となり、同十三年、蝦夷を討つ。彼三七歳。この年、新都は平安京と名づけられた。
 同十六年、征夷大将軍に任命される。四〇歳のときである。
 これより先、胆沢地方(岩手県南部)を巡る蝦夷との攻防はすでに久しく続いている。
 ここに田村麻呂が登場、延暦二一年(八〇二)、二十数年を要してのこの大問題はようやく決着をみた。四五歳。彼はこの年、胆沢に築城、鎮守府をここに移し、蝦夷側の首長「大墓公阿弖流為」(アテルイ、アテリイ?)、「盤具公母礼」(モレ、モライ?)は五百余人を率いて降伏。田村麻呂は都に凱旋する。それらの経緯は『続日本紀』『日本後紀』『日本紀略』等に詳しい。

 かくて坂上田村麻呂は蝦夷平定に大きな功績を残し、その生涯は武将の模範とされてきた。
 延暦二五年(八〇六)桓武天皇崩ず(大同元年)。平城、嵯峨天皇と続き、弘仁二年(八一一)、平安京郊外粟田(現在の京都市左京区)別業で彼は波乱の生涯を閉ず。五四歳であった。

東北の人たちは、何故、征服者田村麻呂を称えるのか?
 先の高橋氏が著書の最後にこんなことを書いている。
「東北の、とくに宮城県北部以北の人々・蝦夷は、田村麻呂の襲来をうけ、戦い、そして、ついに征服されてしまった、いわば、田村麻呂は現地の蝦夷からすれば、侵略者・征服者であったことを否定するわけにはいかない。それなのに、後世に伝説が残るということは、被征服者の子孫が征服者を憎んだり、悪しざまに扱うのでほなく、いや、むしろ、称え、思慕するということになるが、それはどうしてか、という疑問である」と。

”文化”に対する”意識”の問題
 では自ら設問したこの疑問に、当の高橋氏はどう答えているのか。
やや、まわりくどい叙述を並べ、「東北の人々は、とくに北半の蝦夷の子孫たちは、本来、アイヌ(エゾ)、あるいはその要素が色濃かった被征服民の子孫であることを忘れ、田村麻呂を英雄として受け入れるのにさほど抵抗を覚えなかった、という事情があったように思われてならない」と記している。"
 これも少々、奥歯に物のはさまった言い回しであるが、このいい回しの奥、いや内面にひそむものは結局は”文化”の問題であり、かつ”文化”そのものというよりは、”文化”に対する”意識”の問題にかかわってくるのだと私は思う。

「蝦夷」という言葉
 ここで多少触れておきたいのは「蝦夷」という言葉である。
 これも未解決の問題を多く抱える言葉ではあるが、古代には「エミシ」(毛人)、「エビス」(夷)と呼んだ。
 それが大和政権の支配地域の拡大に伴い、平安時代には東北地方以北の住民を一般に「エゾ」(蝦夷)と呼んだ。
 近世(十六世紀)になると、「エゾ」とはアイヌ人を指すようになったことは知られているところだ。
 こうした深層意識には、大和朝廷の列島東部、北部原住民に対する蔑視が働いたことは否めない。更に大陸文化受容による夷狄観が、その背景にあるといえるだろう。

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