2013年5月28日火曜日

1768年(明和5)11月~12月 モーツアルト、ウィーン孤児院聖堂献堂式で「ミサ曲ハ短調(孤児院ミサ)」(K139)演奏  【モーツアルト12歳】

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-05-23
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1768年(明和5)
11月
・福井藩、農民に「商を家業と致者」があり甚だよろしくない、田畑を荒し、村の衰微の基になるので今後は認めないとの触れを出す。
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・賀茂真淵、「万葉考」巻6までを著す。
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・モーツアルト、ウィーンで天然痘に罹った治療してくれたオルミッツの医師ヴォルフのために歌曲「歓喜に寄す ヘ長調」(K.47e(53))作曲。
最初の歌曲、フリーメーソンの歌詞による最初の曲。
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11月5日
・イギリスとイロコイ族インディアンとの間の国境協定、スタンウィックス砦条約締結。
この年、イギリスのウィリアム・ジョンソン卿とイロコイ6部族連合の酋長が、イインディアンと白人開拓者との国境線についてスタンウィックス砦で交渉。
この日、イロコイ6部族の夫々の代表、ニュージャージー・バージニア・ペンシルベニア各植民地代表、ジョンソン卿が署名して成立。
インディアンは英貨10,460ポンドを受け取った。この条約で1763年宣言の境界よりも西に国境線が引かれた。
イロコイ連邦は実質的にケンタッキーを白人に割譲したことになったが、実際にケンタッキーを領有していたインディアン(ショーニー族、デラウェア族、チェロキー族)は条約交渉に参加していなかった。
この条約は、オハイオ川周辺のインディアン部族から新たな敵対心をもたらすことになり、ダンモアの戦争を導くことになる。
また、この条約は、6部族連合とペンシルベニアの植民地経営者ペン一族の間の土地に関する所有権論争も決着させたが、現地の入植白人とインディアンの小競り合いのために、国境線が最終決定するまでには5年間を要した。
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11月16日
・フランス、サド候爵、釈放。
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11月18日
・ドイツ、カルル・マリア・フォン・ヴェーバー、北西地方に誕生
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12月
・新時代の予感
1768年(明和5)12月、米沢藩主上杉鷹山(治憲)の侍医藁科松伯(わらしなしようはく)は、米沢の小川尚興に書簡を送り、当時の状況を次のように記している。

当時は「太平」が続き、「奢り」を原因として「気むづかしく」「腹立気味の人情(わがまま)」が一般化したため、少しでも変わったことが起こると、人心が動揺し、「ぶうぶう」いうようになった。
そこで年貢増徴など農民に少しでも辛いことや変わったことがあった場合は、農民は毎年そこここで続けて一揆・徒党を組むありさまである。
藁科は、これら一連の騒動を「そろりそろりと天下のゆるる兆」として捉え、藩主らに対して、「御用心時に御座候」と警告を発した。

「爾(しか)し当時の勢ひは、最早太平打続き、四海静過ぎて、上下共奢りの病根ゆへ、次第に病症顕はれ申侯て、誰も彼も気むつかしく御座候間、(中略)少しも常に変り候事か御座候へば、人の心動き立候てふらふら仕る様に御座候。況(いわん)や年貢取立て百姓あたりの辛き事か、常に変り候仕形あれば、年々に打続き侯て、そこもここも一揆・徒党の沙汰にて、日光が済めば山県大弐が出現、大坂が騒げば佐渡ゆるる、伊勢路もめれば越路もかしましく、斯様(かよう)に百姓の心騒しく成行候も畢竟(ひつきよう)は、一度は治り、一度は乱れ候天道の事に御座候へば、そろりそろりと天下のゆるる兆も御座あるべく候」(『鷹山公世紀』)
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・幕府が、対馬藩主宗氏を通じた朝鮮からの鋳銭用銅50万斤の所望に対し、対馬藩は、銅産出量減少を理由に、5年間で総額20万斤と回答。
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12月5日
・備中、松山藩領の農民が藩の増税政策に反対して山田村などで打ち毀し。
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12月7日
・モーツアルト、「ミサ曲ハ短調(孤児院ミサ)」(K139)演奏(最近の研究では疑問説も浮上)。
レンヴェークのパルハーマー師のウィーン孤児院聖堂献堂式。
女帝マリア・テレジア臨席のもと自身の指揮によって初演。
13日、「交響曲第8番 ニ長調」(K.48)作曲。
28日、モーツアルト一家、ウィーン発、メルク修道院訪問。
29日、メルク修道院出発。

パルハーマー師は、皇帝フランツ1世の聴罪司祭をつとめた聖職者で、1757年からヴィーンのレンヴェーク(現第3区)にある孤児院の院長をつとめていた。
この孤児院はマリア・テレジアの後援で大きくなり、700名の孤児を収容していた。
パルハーマー師は彼らに軍隊流の訓練を施していたほか、音楽教育も行なっていた。
1768年3月、新教会の建築が始まり、12月7日に献堂式がとり行なわれた。

「盛儀ミサに際しての孤児合唱団の音楽はすべて、ザルツブルク大司教に仕える楽長レーオボルト・モーツァルト氏の十二歳の幼い子息で、その非凡な才能によって知られたヴォルフガング・モーツァルトによって、このたびの祝典のために、まったく新たに書かれたもので、ひろく喝采を博し、かつ驚嘆の的となったが、彼自身によって演奏も行なわれ、このうえなく整然と指揮された。これとならびモテットもまた歌われた。」(12月10日付の『ヴィーン備忘録』)

「至聖なる聖マリアの無原罪の御孕(みごも)りの祝日(12月8日)には、パルハーマー師の孤児院の新しい教会の献納が行なわれます。ヴォルフガングほこの祝日のために、荘厳ミサ曲、奉献誦、それにこの孤児院の少年のために一曲のトランペット協奏曲を作曲しまして、師に敬意を表わしました。多分ヴォルフガングが自ら指揮することになるでしょう。なにごとにも理由があるものです」(11月12日付)。

レオボルト、この成功を誇らしげに語る。
「十二月七日に、パルハーマー師のところで、皇族の御列席をえて、ヴォルフガングが演奏をとり行ない、あの子自身指揮をいたしましたミサ曲は、敵どもがオペラを妨害することで台なしにしようとしましたものを再び取り戻しましたし、びっくりするほどの大入りでしたので、私どもの敵手たちの悪意を、宮廷にもまた聴衆にも確認させたものでした。・・・同じく皇太后陛下より素晴らしい贈り物を頂戴しました」(12月14日付)。

12月10日
・イングランド、王立美術アカデミーが創立
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12月14日
・福井藩領南条郡今泉浦などで打毀し。福井藩は厳罰で臨む。

この日暮、「蓑虫」共は同浦の北五右衛門家へ押し寄せて打毀し、次いで郡上藩・小浜藩相給の南条郡上中津原村吉助・与右衛門宅をも壊す。
理由は、旗本金森左京の白崎陣屋や郡上藩千福陣屋から、上中津原村や西尾藩領下中津原村等の米800俵を移出するよう、舟持ちの米屋浜野三郎右衛門と北五右衛門に依頼があり、時節柄白崎陣屋は福井藩へ相談、同藩はこれを受けて今泉浦の問屋・村役人へ積出しを命じたことによる。

20日、福井藩は河野浦から20余、24日には赤萩村の11を福井へ連行、厳しく吟味。
結果、赤萩村が出頭村と断定され、廻文に関わった4人が頭取として死罪、他に6人が追放、同村庄屋・長百姓3人が村追放。河野浦でも1人が蟄居、2人が13里外へ追放となる。
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12月23日
・尼崎藩、築地町の古地も惣町勘定のほとんどを他の城下7町なみに負担すべきと裁決。
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12月23日
・備中、庭瀬藩領の農民が綿問屋廃止を求めて矢掛宿などを打ち毀す。
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