東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-07
*天慶3年(940)
2月1日
・平将門は、兵を率い下野国に向かった。
将門軍の先鋒は、秀郷軍を発見できず、副将藤原玄茂(はるもち)の先鋒隊多治経明・坂上遂高の後陣が北方に秀郷軍4千を発見した。
多治経明たちは、将門に報告せずに秀郷軍と戦い、玄茂の軍勢は秀郷軍より追いまくられ散り散りになる。
生き残った者は少なく、死亡した者が多かったという。
同日、秀郷・貞盛は追跡し、川口村(水口村か)を襲った。
将門も自ら剣を振り上げて戦うが、日が傾くと、将門軍は劣勢となり撤退した。
秀郷・貞盛が率いた常陸国の兵士は笑い、将門が率いた下総国の兵士は怒り、恥じ入って退却したという。
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2月2日
・政府は、とりあえず東の将門に全力を注ぎ、純友を懐柔するために、五位を授けることとした(『貞信公記』天慶3年2月2日)。
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2月3日
・純友に五位の位記を届ける使者を派遣。
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2月3日
・純友位記使の出発と入れ違いに、甥の明方が「純友申状(もうしじよう)」を政府にもたらした。
同時に提出された「伊予解文」は、純友に好意的な伊予守淑人が作成した純友を讃える叙位推挙状であったと思われる。
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2月4日
・追捕山陽道使小野好古にしばらく進撃を停止するよう指示し、叙位に対する純友の反応を見守った。
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2月8日
・征東大将軍藤原忠文に節刀が下され、諸司の中で兵士にふさわしい人物を選んで同行させることとし(『貞信公記』『日本紀略』)、9日には、兵士を差発すべき国々が決定した(『貞信公記』)。
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2月13日
・貞盛と秀郷は、群集を集め甘い言葉で兵士を誘い集めて、兵の数を増やして、この日に、将門の本拠地下総国にやって来た。
将門は、合戦で疲れた敵を本拠深くに呼び込もうとして、猿島郡の「広江」に隠れた。『扶桑略記』では「嶋広山(しまのひろやま)」(茨城県坂東市)に隠れたとする。
貞盛は、将門の館から始め味方する家々を焼き払った。家はなくなり人もいなくなった。
残った人々は、家を捨てて山に逃げ入りった。
人々は、常陸国の兵(貞盛たちの兵士)が焼き討ちしたことを恨まず、将門の行いがよくなかったことを嘆いたという。
この日、貞盛は将門を見つけることができなかった。
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2月14日
・翌14日朝、将門は甲胃を着て出陣したが、兵士は400ほどしか集まらなかった。
将門が劣勢とみるや、伴類たちは集まらず、従類のみが従った。
将門は、しばらく猿島郡の北山を背にして、陣を張って貞盛・秀郷軍を待っていた。
そして、午後3時頃、将門の最期の戦いが始まる。
最初、将門は追い風を得て、秀郷・貞盛たちは風下に立った。
しかも、その日は、大風が吹き、砂埃が舞っていた。当時の合戦は、弓矢が重要であったから、風上に立つことは絶対的に有利であった。
将門軍の楯は前向きに倒れ、貞盛軍の楯は後ろ向きに倒れた。
楯が用をなさないので、両軍は楯を離れて戦った。
貞盛軍は劣勢に立ち、将門軍は馬を連ねて敵80人ほどを討ち取り、追撃して圧倒した。
将門軍が攻め寄せると、貞盛・秀郷・為憲の伴類2,900人は逃げ出した。
残った精兵300人ほどは、逃げ廻りながら、追い風を待った。
将門が本陣に引き上げると、突然風向きが変わった。
この時とばかり、貞盛と秀郷は身命も顧みず、力の限り戦った。
将門も甲冑を着て、駿馬を駆って自ら戦う。
戦いの中で、将門は矢に射られ落命した。
『扶桑略記』では:
貞盛が放った矢が将門に当たると、将門は落馬した。
秀郷が馳せ寄り将門の首を取り士卒に持たせると、貞盛も馬から下りて秀郷のもとに駆け寄った。
また、「合戦章」が引用され、将門の伴類197人が射殺され、平楯300枚、弓・胡籙(ころく)199具、太刀51本、「謀叛の書」が押収されたという。
「合戦章」は『将門記』の別称といわれるが、貞盛たち鎮圧軍の上申書(合戦日記)を参照したと考えられる。
軍防令によれば、武勲を申請するには、戦功を立てた人物名、殺傷した人数、押収した武器、日時、戦闘の模様を示した地図などを詳しく書いて太政官に送ることが規定されていた。
「合戦章」の出所もそのあたりか。
「謀叛の書」は、将門が忠平に送った書状の写しもしくは、太政官に送った「天位に預かるべき書」の写しと考えられる。
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