2025年7月7日月曜日

大杉栄とその時代年表(548) 1904(明治37)年12月4日~10日 12月6日午前7時30分、203高地占領確認。 日本側戦傷16,936(内戦死5,052)。ロシア側戦傷4,576。第3軍累計戦傷48,788。

 

映画『二〇三高地』より

大杉栄とその時代年表(547) 1904(明治37)年11月30日~12月3日 「十一月末から十二月初旬の間(日不詳)、高浜虚子、「山会」に提出することを約束した原稿を受け取りに来る。家にあがり、朗読して貰う。聞きながら笑い興じる。気のついた欠点を云って欲しいというと、数か所を指摘するので改める。原稿紙二枚分を除いた箇所もある。高浜虚子、「山会」の時刻に大分遅れて出席する。」 「『ホトゝギス』第八巻第三号(明治三十七年十二月十日刊)には、『吾輩は猫である』(漱石)の次号予告として、と掲げられている。『吾輩は猫である』と題名が決定したのは、十二月十日(土)より一週間前後のことであり、それより数日溯った時に、「山会」が開かれたものと推定される。」(荒正人) より続く

1904(明治37)年

12月4日

第7師団長大迫尚敏中将、5日の攻撃を下命。

第14旅団長斉藤太郎少将に殆どの兵力を委ね「203高地攻撃隊」とする。第26連隊と工兵の一部は第13旅団長吉田清一少将指揮で「老虎溝山攻撃隊」として牽制任務を与え、第35連隊を予備にまわす。

12月4日

『平民新聞』第56号発行。

「日本平民新聞発行届出始末」

平民社は発行禁止判決の確定を予期して予め後図を策し、石川三四郎と斎藤兼次郎の名を以て11月25日、『日本平民新聞』発行届書を警視庁に提出した。警視庁は「取調べる事がある」と称してただちに受理することを拒み、その理由を追及する両人に対して「不法と思うなら訴訟するがよい」と、横暴極まる態度である。

両人はさらに警視庁の監督官庁たる内務省を訪い、大臣秘書官に面会して理由を質したが、要領を得ざること警視庁と少しも変らない。両人はふたたび警視庁におもむき、官房主事に対して届書不受理の理由を質問したが、その返答は「今その受理せざる事情を申上ることが出来ません、暫くの間待って下さい」というのみであった。さきには堺が、今はまた幸徳、西川が新聞条令違反として処罰せられ、60年前の古典にして現に世界公刊の『共産党宣言』すら同条令達反の廉で起訴されている。しかるにその政府は、同じ新聞条令に従える社会主義者の行動を拒否したのである。記者は本文の末尾に附記して曰く、「アゝ今の所謂立憲法治制とは実に漸の如し、諸君、此の如きも猶は正理と平和とを日本政府に向つて求むることを得るや。

「欧米社会党の非戦運動」

フランスでは首領のジャン・ジョーレス、ベルギーではジュール・ゲストリー、イタリアではアンドレ・コスタが、それぞれ議会に日露戦争反対の決議を通過させる手段をとったことを報道している。

12月5日

(漱石)

「十二月五日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Hamlet (『ハムレット』)を講義する。(Hamlet 最初の講義である) シェークスピアの四大悲劇で、最も哲学的なものと思うので、これまでとは違った角度から評釈したいと話す。(金子健二)

十二月六日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)

12月5日

午前7時、事前砲撃。

午前9時15分、第26連隊長村上正路大佐、工兵35と選抜隊(第25連隊30、第27・28連隊各90)の計245に突撃命令。ロシア軍銃火を浴びる。

午前10時、選抜隊と第27連隊集成第3中隊、西南部山頂到達。兵力は僅か40。

午前10時20分、西南部山頂に援軍増派し西南部奪取は確実となる。

午前10時30分、東北部山頂のロシア軍の銃火に衰えが見え、旅順口新市街へ退却する車輌を確認。

午後1時45分、第28連隊集成第1中隊長沼部大尉は、命令を受け歩兵30・工兵5を1組とする3班で突撃。東北部の西側を占領。ロシア兵は中央鞍部から抵抗。

午後2時、203高地西南部と砲兵隊の間で電話線が開通、28センチ砲4門が港内ロシア艦隊を砲撃。30分後には電話線は切断されるが、戦艦「ポルタワ」火薬庫に命中し沈没させる。

午後2時20分、第25連隊長渡辺水哉大佐の隊が東北部頂上に到達。中央部のロシア兵と接戦。

午後4時30分、ロシア側の銃火が急速に衰える。

午後8時30分、ロシア軍の増援隊が西南部・中央部に接近するが壊滅。

午後10時、残存ロシア兵が退却開始。

12月6日

203高地陥落

午前7時30分、203高地占領確認。

日本側戦傷16,936(内戦死5,052)。ロシア側戦傷4,576。第3軍累計戦傷48,788。


この月、鴎外の妹・喜美子の夫小金井良精(よしきよ)の弟・小金井寿慧造が203高地で戦死。寿意造と同時に出征した同郷の兵士27人のうち26人が戦死した。

鴎外はそれを弔う長歌と反歌を作った。

「あともひて 君が立たしし/ふる里の 越(こし)のくにびと/はたちあまり 七たりゆきて廿余り むたり返らず/ただひとり あともひゆきし/はたちあまり むたりと共に/かへり来ぬ 数にいりぬと/ねなきつつ 告げけんさまを/まのあたり 我も見るごと/おもはゆるかも

  二十あまりむつのあらをら君をもりて死出の山路を今か越ゆらん」

12月6日

午後2時、第3軍、旅順港内砲撃開始。戦艦「レトゥイザン」「ベレスヴェート」撃沈。造船所・工場破壊。

7日、巡洋艦「パルラーダ」・戦艦「ポビエタ」に命中、両艦は着底。8

8日、巡洋艦「バヤーン」が着底。

12月6日

三越呉服店(株)設立。本店東京。21日開業。

12月6日

ルーズベルト大統領,年次教書で「モンロー主義の系譜(コロラリー)」発表.「西半球の諸国の失政に対しては国際警察力として行動せざるをえない」と宣言,カリブ海諸国への干渉主張。ルーズベルト・コロラリーとよばれる

12月8日

政友会原敬、密かに桂首相と会見(第1回秘密交渉)。3時間。

桂は、戦後在職するなら政友会と連立、辞職すれば西園寺を後任推薦すると約束。「桂園時代」(桂・政友会提携し、桂・西園寺が交代して政権掌握)が始まる(「大正政変」迄)

第21議会での政府予算案に対する憲政本党の削減要求は政友会の3倍、桂は政友会と連携する考え。

原は、政友会の議席数が過半数を下回るため、政府との連携か憲政本党との連携かを冷静に判断する必要あり慎重な対応。

12月8日

東京電気鉄道お茶の水~土橋間開業。外濠線。

12月8日

(漱石)

「十二月八日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

十二月十日(土)頃、開成社から ""New Century Supplementary Readers"" (五巻、開成社刊)届けられる。「東京帝國大學文科大學英文學講師夏目金之助校訂」となっているのを見て、約束が違うと談じ込み詫証文を取る。」(荒正人、前掲書)

12月9日

旅順艦隊全滅。

戦艦「セヴァストポリ」、駆逐艦6隻、旅順港脱出。要塞近くに隠れる。

12月9日

総参謀長児玉源太郎、旅順発。総司令部に戻る。

12月9日

白仁武栃木県知事、谷中村買収案提出。

10日、栃木県会(秘密会)可決(賛成18、反対12)。谷中村滅亡の第一歩

12月9日

関西鉄道会社、南和鉄道会社を合併。

12月10日

ロシア、生理学者パブロフ、ノーベル生理学・医学賞を受賞。

12月10日

セルビア、ニコラ・パシッチが初めて首相に選出。第1次パシッチ内閣発足。反オーストリア的国粋主義政府。


つづく

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