2013年5月13日月曜日

1768年(明和5年)9月~10月 モーツアルト・オペラ上演妨害事件 北勢騒動 新潟湊騒動 【モーツアルト12歳】

江戸城(皇居)東御苑 2013-05-09
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1768年(明和5年)
9月
・幕府、役職にある旗本の俸禄について、所領を与える知行取りから現米・米切手を支給する蔵米取りへ切り替えるさいの条件を定める。
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・この頃、モーツアルト、パールハマー氏の依頼により「ミサ曲第4番 ハ短調(孤児院ミサ)」(K.47a(139))作曲。12月7日ウィーンのレンヴェークの孤児院の新教会献堂式のため。

・この月、モーツァルト、ドイツ語による一幕物のオペラ『バスティアンとバスティエンヌ』(K50=46b)をウィーンのフランツ・アントン・メスマー博士の邸宅で上演。
モーツァルト一家がウィーンで知り合ったメスマー博士は、「メスメリズム」(「動物磁気学」「動物磁気催眠術」)でその名を不朽なものとした医学者で、モーツァルトはのちのウィーン時代に『コシ・ファン・トゥッテ』(K588)の中に、この磁気療法に関する記念碑を持ち込んでいる。
博士から依頼された『バスティアンとバスティエンヌ』は、ジャン・ジャック・ルソーのオベラ『村の占師』のもじり劇であるファヴァール=アルニー共作『バスチアンとバスチエンヌの恋』のテキストのドイツ語訳にもとづくもの。
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9月1日
・モーツアルト(12)、「ヴァイオリンとバスのためのソナタ ハ長調」(K.46d)、「同 ヘ長調」(K.46e)作曲。
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9月4日
・フランス、詩人シャトーブリアン、誕生。
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9月13日
・北勢騒動。伊勢、亀山藩領の農民が、荒れ地検地と茶・桑年貢の廃止などを要求して一揆。
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9月16日
・フランス、ルネ・モープー、大法官に就任。
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9月21日
・モーツアルト父レオポルト、ヨーゼフ2世に謁見。
劇場興行主アッフリジョに対する訴状手渡す(上演妨害事件)。
この時点で、「ラ・フィンタ・センブリチェ(「見てくれの馬鹿娘」)」作曲は数週間前に完了し、写譜が始る。
結局、このオペラのウィーン上演はならず、初演は翌1769年ザルツブルク。

はじめ、アッフリジョとレオボルトは100ドゥカーテンの報酬で作曲し、指揮をする約束をした。
復活祭の上演が目論まれたが、台本作者マルコ・コルテッリーニがカルロ・ゴルドーニの作品『ラ・フィンタ・センプリチェ(みてくれの馬鹿娘)』に手を加えるのを遅らせ、この予定は不可能となった。
聖霊降臨祭に皇帝の帰京を待って上演という次の予定は、ウィーン中の作曲家たちの妨害によってくつがえされたとレオボルトは憶測している。
中心人物はグルックで、彼が歌手やオーケストラの団員たちをも巻き込んだと考えている。
アリアは歌えるものではなく、オーケストラも「小わっばなどに指揮されてたまるか」と言い、「この曲にはまったくなんの値打ちもない」と噂したり、「父親がこの曲を作ったのだ」という噂もあったという。

こうした上演阻止の動きの中で、レオボルトはザルツブルクに帰るに帰れなくなった。
こうした根も葉もない噂を立てられた以上、ウィーンでこそ、自分たちに与えられた汚名を返上し、名誉を救わなければならないと信じた。
「私はどんな犠牲を払ってでも私どもの名誉を当地で救わなければならないのです。私どものご主君様の名誉も同様にそれに結びついています。大司教猊下は、承知の上で猊下の御許可を頂戴して、よその土地に参り、手品師さながらに人々をだますような、そんな嘘つき、ほら吹き、詐欺師はお召し抱えではありません。いいえ、そうではなく、主君と故国の栄誉のために、神がザルツブルクに生ましめ給うた奇蹟を世界に告げ知らせる誠実な人たちをお召し抱えでおられます。私はこうした行為を全能の神に負っています。そうでなければ、私はこの上ない忘恩の徒でありましょう。それに世界にこの奇蹟を得心させる責任が私にあるとするなら、それは奇蹟としか呼べないものがすべて笑い物にされ、奇蹟という奇蹟が否定されている今こそまさにそうなのです。」

「ヴォルフガングのオペラに関しては、小わっばの技量を認めねばならぬのを妨げるべく、音楽地獄の鬼どもがみんないきり立っていること以外、今すぐにはなにも申し上げることはできません」(9月14日付)。

ヨーゼフ2世はこの訴状を受け取り、演劇長官シュポルク伯爵に処置を委ねた。
「皇帝ははなはだご寛大であられ、私どもに対してあらゆる公平な処置をおとりになると約束されました」(9月24日付)。
にもかかわらず、結局『ラ・フィンタ・センプリチェ』(K51=46a)は上演されず、事態はうやむやになってしまった。
モーツァルトがウィーンで「原譜で五百五十八ページにのぼる」(実際に現代まで残されているのは614ページ)このオペラ全曲は上演されずに徒労に終った。
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9月25日
・[露暦9月14日]第1次露土戦争勃発(~1774/7/21)
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9月26日
・新潟湊騒動。
新潟の町人、長岡藩の御用金賦課に反対して打ち毀しを行い、藩役人を追放して2ヶ月間町政を掌握。

前年(明和4年)、長岡藩は支配下にある新潟町に御用金1,500両を2年の分納で課した。
しかし、新潟町も、飢饉による米の流通の減少から新潟湊への入港量が減少しており不景気に苦み、新潟町民は2年目の750両を工面できなかった。
町民は涌井藤四郎らを中心に延納の嘆願書を出すべく寺に集まったが、八木屋市兵衛がこれを密告したため、涌井は町奉行所に出頭を命じられ投獄された。

これに激昂した町民は9月26日夜12時頃、早鐘を合図に一斉蜂起し、町役人宅や八木屋市兵衛宅、米屋などを打ち毀した。
新潟町奉行側は鉄砲隊で攻撃したが、町人側は薪を投げて応戦し町役人を敗走させた。

翌日、打ち毀しは続いていたが、事態の沈静化を図った町奉行側は涌井を釈放。
涌井は町奉行所打ち毀しに向かっていた町民等を説得し、事態は沈静化した。

そして、これにより涌井らが藩に代わって町政を掌握し約2ヶ月にわたる町民自治を行なった。
長岡藩は新潟への派兵を試みたが、町民側は新潟港での藩兵の荷降ろし作業を拒否。
結局、長岡藩は、町民側の結束に涌井を総代として承認せざるを得なかった。

その後、長岡藩は町民懐柔の為、米1,000俵の配給を実施。
さらに町役人等を取り調べる為と称し町人側の関係者を次々に召喚。
11月22日、長岡藩へ出頭した涌井らは、藩側の策略により捕らえられる。

明和7年8月25日、涌井は腹心の須藤佐次兵衛(岩船屋佐次兵衛)と共に市中引き回しの上斬首。
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10月
・10月か11月、モーツアルト、レンヴェークの孤児院の新教会献堂式のためK.47b (117) 奉献歌「主は讃美せられよかし」、K.47c トランペット協奏曲(紛失)作曲。同じ頃、K.47d (49) ミサ曲第1番(ミサ・ブレヴィス、ト長調)作曲。目的不明。
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・北米、ハリファックスの正規軍、ボストンに進駐。本国製品の不買運動が全国に広がる。
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・イギリス、チャタム(ピット)、辞任。
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10月5日
・士風の頽廃。
「明和五(一七六八〕年の十月五日、大番の下枝采女が遠流せられた。これは増田太市という者の家で、常に賤しい者どもを集めて博奕をやっている。養父の忠兵衛が戒むるのに聴かないで、或は芝居の真似をしたり、また三味線を引く者の姿に扮して涼み船に遊びに行ったり、或は御祭の時に練物の踊子と交わって、また途中で喧嘩をして人に創を付けられながら、病気と偽って家に籠っておりながら、なお、度々窃かに町へ遊びに出たことが知れたのである。これに連累して小普請の松崎善四郎という者も追放せられたのである。」(辻善之助『田沼時代』)
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10月23日
・ニューヨーク、米最初のメソディスト教会、ウェスリー教会設立
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