2013年5月8日水曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(50) 「二十九  ある夜の女」(その1)

江戸城二の丸庭園 2013-05-08
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(50) 
「二十九  ある夜の女」(その1)

 昭和8年~9年、「日乗」に「黒澤きみ」という私娼の名が頻出する。
昭和8年、「夜芝浦に黒澤を訪ふ」、
昭和9年、「烏森の眞砂に往き黒澤に逢ふ」という形。

一説に、昭和9年8月「中央公論」に発表して好評を得た私娼小説「ひかげの花」のモデルともいう。
16人の女性リストの15人目の「本名中山しん、市内諸處の待合に出入する私娼、昭和八年暮より九年中毎月五十圓にて三四回出合ひ居たり明治四十二年生砲兵工廠職工の女」とある。

「この「黒澤きみ」と荷風の関係を見ていくと、昭和初期の次第に欄熟していくモダン都市東京の裏面が見えてくる。」(川本)

「日乗」に「黒澤きみ」がはじめて登場するのは、昭和7年12月18日。
「快晴なり。日の暮るゝころ竈(ヘツツイ)河岸の叶家に往き夕飯を食す。帳場に年の頃二十四五の美人煙草をふかしゐたるを見たれば、そつと女将を呼びて様子をきくに、去年頃まで高嶋屋呉服店の売児なりしが今は人の妾となり内々にて春をひさぐと云ふ。価を問ふに拾圓なりと云ふ」

叶家は、竈河岸(現在の日本橋蠣殻町あたり)にあった小待合。
昭和8年10月10日の「日乗」に、ここの二階の一室で「柳原子爵」なる人物が私娼を招んで戯れているのを覗き見たという記述があり、待合というよりも、むしろ連れ込み宿に近いところだったようだ。
水上勉『宇野浩二伝』(中央公論社、昭和48年)のなかで、大正5年ころ、宇野浩二は、伊沢きみ子という蠣殻町の銘酒屋の女と馴染むようになったと指摘し、そのころの蠣殻町を「三流以下」の遊び場だったとしている。
「この当時の蠣殻町の遊興街は、東京では三流以下であった」
「新橋、柳橋のような一流の芸妓はいなかった。芸妓のいる館はあるが待合風の家で、妓とは名だけの、軀をひさぐ女もいて、玉の井、洲崎といった純然たる遊廓とも違った三業地風の一角である」。

叶家はそういう「軀をひさぐ女」の出入りする「待合風の家」のひとつで、この叶家で荷風は「黒澤きみ」に会う。
「小待合に私娼が出入りして客を取る。芸者の時代から私娼の時代へと型が崩れてきている。デパートの売り子をしていたようないわば素人の娘が私娼をやっている。震災後の大衆化社会はこういう夜の遊びの世界にもはっきりとあらわれている。」(川本)

待合に私娼が出入りするようになっているのは、芸者の時代には考えられないことだが、昭和10年代には珍しいことではなくなっている。

荷風が当時行った待合に、人形町(芳町)の「里美」があるが、ここは、「お米」という私娼上がりの女が営んでいた待合である(昭和12年4月28日)。
この女はもともとは、松戸高等女学校の体育教師だったが、その後、私娼となり、貯金をなして昭和10年ころに人形町に待合を出したという。
彼女が荷風に語ったところによれば、「芳町組合に加入せる待合茶屋の中重に素人女を周旋する家およそ十四五軒ありし」(昭和14年11月15日)というから、この時代、いかに私娼が多かったかが想像出来る。
単に不況のためばかりともいい切れない。「ひかげの花」の私娼お千代のようにそこに安んじてしまう女も多かったのではないか。

「余のつくりたる小説日かげの花はこれ等私娼の生活の一面を描写せしもの」(同)とあるように、荷風はこうした待合に出入りしては私娼と付き合い、作品の題材を得ていた。

昭和8年10月18日、叶家の女将から聞いたという私娼の生態がこまかく書きとめられている。
それによると、私娼の値段は、震災後2、3年のあいだは世の中の景気がよかったので、一夜、2、30円ほどだったが、その後世の不景気の影響を受け下落し、いまは15円くらいが高いほうで、並みは6、7円から10円。このうち実際女の手に入るのはその半分くらい、という。
従って黒澤きみの値段(10円)は高いほうだったことになる。

昭和10年、成瀬巳喜男監督の映画『妻よ薔薇のやうに』には千葉早智子扮する丸の内の一流オフィスガールが出てくるが、このおしゃれなモダンガールの月給は45円。
それに比べると一夜10円はかなり高い。なじみを重ねるようになってから荷風が黒澤きみに払う”月々のお手当”が50円というのもいい値段である(円本ブームのあとなのでこのころの荷風は以前にもまして余裕がある)。

「ひかげの花」は芝桜川町あたりに情夫と住む私娼お千代の生態を措いたものだが、このお千代は、西船堀の船宿の娘で、都会に憧れて家を出、屋敷の下働き、家政婦、カフェーの女給、などを経るうちにいつしか私娼になった
(黒澤きみだけがモデルというわけでなく、秋庭太郎がいうように「荷風の馴染みの私娼の誰彼をモデルにしたもの」)。
彼女は、近所にいる遣り手婆さんを通じて客を取る。

こんな説明がある。
「彼女自身も気のつかぬ中いつからと云ふ事もなく私娼の生活に馴らされて耻づべき事をも耻とは思はぬやうになったものであらう。折々は反省して他の職業に轉じやうと思ふ事もあるにちがひない。然しもともと小学校を出ただけの学歴では事務員や店員のやうな就職口さへなかなか見當らず、よし父見當つたところで、一度秘密の商売を知つた身には安い給料がいかにも馬鹿らしく思はれ、世間は廣くても其身に適する職業は、矢張馴れた賤業の外には無いやうな心になるのであらう」

荷風のリアリズム感覚から生まれた観察である。
ここでは私娼は、モラルの問題とは関係なく新しい職業として醒めた目でとらえられている。しかも、お千代のような”ひかげの花”にとっては、大勢の客とにぎやかに騒がなければならないカフェーの女給より、秘密めいた場所で客と一対一になれる私娼のほうがむしろ、資質にも合う。

竈河岸の小待合ではじめて会ったあと、荷風は偶然、新橋駅で黒澤きみに会う。
昭和8年1月10日、
「久しく六郷邊を歩まざる放鳥森停車場に至り切符を購はむとする時、偶然黒崎きみといふ私娼に逢ふ。立談してわかる」。
これをきっかけに、急速に彼女に接近する。
2月1日、「晴。午後叶家に往き帳場に居合せたる女と浅草寺に賽し、金田に飯す」
そして、芝浦の待合でなじみを重ねていく。
「夜芝浦に黒澤を訪ふ」(4月25日)、
「晩間銀座藻波に飯して後芝浦に黒澤を訪ふ」(4月28日)、
「夜芝浦に黒澤を訪ふ」(5月6日)、「夜黒澤を訪ふ」(5月19日)、
「夜芝浦に某女を訪ひ銀座に飯す」(5月30日)

「芝浦」は、昭和8年10月18日の記述によれば、私娼を斡旋したという芝浦の小待合のこと。
夜になると、50歳を過ぎた荷風が、市中から少しはずれた待合に出かけて行き、素姓の知れない若い女(年齢は荷風より30歳も下)とふたりきりになる。
荷風好みの、世をはばかる密会である。

私娼は違法行為であり、見つかれば司直の手にかかる。
「ひかげの花」には、待合が手入れされて、お千代が情夫とともにあわてて引越しをし、浅草裏に身を隠すくだりがある。この点では吉原などの公娼とは違う。

昭和9年2月27日の黒澤きみの記述に、「年は二十七八なるべし。本名は秘して語らず、中山きみ、小林しん、黒澤きみなど仮名さまざまあり。大地震前後高嶋屋又は三越の店員なりし由なり」とあり、彼女がいくつも仮名を持っていることがわかる。
これは、司直の手にかからぬ用心だろう。「ひかげの花」のお千代も、出入りの待合が手入れにあい、自分の身もあやうくなるとすぐに名前を変える。

昭和6年「三田文学」発表の小品「夜の車」。
ある夜、タクシーに乗ったら神田橋あたりの路地裏に連れて行かれ、そこで私娼を紹介される話。泊りの客は隣りの空家へ、隠し戸を通って連れて行かれる。空家には、「貸家の札」が張ってあるのでそれとは気づかれない。私娼の家ならではの都市の裏面である。
なかば呆れ、なかば感嘆し、こう書く
「思へば東京なる都会の暗黒面もいつの間にやら、巴里の裏町に変らぬ有様となりし進化のほど、恐入ったものなり」
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