東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-05-29
*天慶2年(939)12月15日 平将門の新皇即位式の情景
この日、将門は上野国に侵攻、国府を占拠。
その後、配下を坂東諸国の「守」に任命する「除目」を行い、
自らの新皇即位の式を行う。
親皇即位式の情景の中から、
①何故、菅原道真の霊魂が登場するのか、
までのところが前回の記事。
今回はその続き。
②何故、八幡大菩薩が登場したのか
即位場面に八幡大菩薩が出現する際、仏教音楽についての記載がある。
「今すべからく卅二相の音楽をもて、早くこれを迎え奉るべしといへり。」
三二相の音楽とは、如来が持つ32の徳を仏教音楽として表したもので、寺院で行われる法会には、こうした荘厳な仏教音楽が演奏された。
この時期、石清水八幡宮での法会のように八幡神と仏教音楽は深い関係にあった。
「天慶元年頃、平安京の北東部に、人々の絶大な信仰を集めた道場があった。そこには一人の尼僧が住み、先年から石清水八幡大菩薩像を安置していた。その像は霊験あらたかで、門前市をなすような賑わいであった。ところで、もともとの石清水八幡宮では、毎年八月十五日に、放生会という法会が行われ、参詣しない者がいないほどの賑わいをみせていた。ところが、同じ日に尼僧も放生会を設け、昼は楽人を招き妙なる音楽を演奏させ、夜は名のある僧を招いて八幡大菩薩の功徳について講演させたため、多くの布施が集まった。そのため、もとの石清水八幡宮の放生会が廃れてしまい、楽人も行くことがなくなった。」(『本朝世紀』天慶元年(938)8月12日条)
結局、新しい八幡宮は、もとの八幡宮の神人たちによって取り壊され、この尼僧と神像は連れ去られる。
将門の乱当時、都で八幡信仰が大いに高まっていた。
そして、
石清水八幡の放生会では、音楽が演奏されていた。
将門の即位場面は、この放生会を下敷きにしていたと考えられる。
八幡大菩薩が、即位場面に登場するのは、八幡神が皇祖神(こうそじん)と考えられていたからであった。
「朕が位を蔭子(おんし)平将門に授け奉る」とある。
八幡神は、奈良時代に既に王権と密接な関係を持っており、宇佐八幡に品位(ほんい、皇親のみに授けられる位)が授けられた。また、大仏造立や道鏡の即位事件に大きく関わった。
石清水八幡宮は、貞観2年(860)、行教(ぎようぎよう)によって、宇佐八幡から勧請され、以後王権護持の神となった(『類聚三代格』巻1)。
そして、新羅との関係悪化にともなって、「三韓征伐」の神話に登場する神功皇后を母に持つ、応神天皇と同体と考えられるようになった。
その結果、九世紀後半には「皇大神(すめのおおかみ)」と表記され、皇祖神に位置づけられるようになった。
同じ皇祖神でも、伊勢神宮と八幡神とは決定的に異なり、伊勢神宮に幣帛を捧げることができたのは天皇のみで、皇后や皇太子でも天皇の許可なしには参拝することが禁止されてい(『皇太神宮儀式帳』、『延書式』神祀四)。
ところが、八幡神への信仰は、あらゆる階層の人々の信仰を集め、国家もそれを容認していた。
それは「菩薩の広徳、普(あまね)く法界をはやい覃(おお)う」(八幡大菩薩の広い徳は、あまねく全宇宙を覆う)という言い回しからも(『本朝世紀』天慶元年8月12日条)窺える。
八幡神は神仏習合の影響を受けた神であったために、天皇から庶民まで、誰が信仰しようと差し支えなかった。
このような八幡神の自由な性格により、国家側は将門や藤原純友の乱の鎮圧を祈り、将門に皇位を授ける託宣を下し、反国家的な菅原道真の霊魂とともに登場することもできた。
天皇は「万世一系」と信じられ、天照大神という皇祖神の後盾を持っていた。
将門が新皇を称するにも同様の論理を必要としたはずであるが、天照を持ち出すことはできない。
その点を補うには、自分が桓武天皇の子孫であること、そして、都で大いに流行していた八幡大菩薩(皇祖神)から皇位を譲られ、新皇としての正統性を得る必要があった。
ここに、八幡大菩薩の神託が現れる必然性があった。
③「将門書状」の秘密
将門は新皇を称した後、関白太政大臣藤原忠平(宛名は「太政大殿の少将閣下」とあり、忠平の子、近衛少将師氏の可能性もある)に宛てて書状を送った。
「将門がかしこまって申し上げます。お会いできないままに、多くの年月が過ぎてしまいました。
お会いしたいと思いながら、このような折に何を申し上げたらよいのでしょうか。私の心中をお察し下されば幸いです。
ところで、先年の源護の愁状(承平5年2月に将門を都に訴えたこと)により、将門は都に召されました。太政官符(将門の召還を命じた承平5年12月29日官符)を恐れたので、急いで上京し畏(かしこ)まっておりましたところ、検非違使庁で、「将門のことは、恩赦によって罪を問われなくなった。即刻、帰ってよい」との仰せを承り、故郷に帰り着きました。その後、戦いのことも忘れ、弓の弦(つる)も緩めました(軍備を解いた)。
ところが、前下総介平良兼は、数千の兵士を起こして、将門を襲い攻めてきました。背中を見せて逃げるわけにもいかず、防ぎましたところ、良兼のために味方の者を殺され、財物も奪われました。そこで、その旨をつぶさに下総国の解文(上申文書)に書き付けて太政官に申し上げました。
ここに朝廷は坂東諸国および将門に対して、力を合わせて良兼等を追捕すべき官符を下されました。ところが、また将門を都に召す使者を派遣しました。しかしながら、心安く思いませんでしたので上京せず、官使(太政官から将門を召還する命令を持ってきた使者)の英保純行(あほのともゆき)に詳細な理由を託して言上しました。
いまだにその御返事をいただかず、鬱々としている間、今年の夏、平貞盛が将門を都に召還する太政官符を持って、常陸国へ舞い戻ってきました。そこで、常陸介藤原維幾は、私に出頭するように頻りに牒を送って来ました。あの貞盛は、追捕官符を免れてこっそりと上京した者です。このような矛盾に満ちた対応は誠にうわべを飾り偽る行為です。また、右少弁源相職(すけもと)様は、あなた様の仰せを書いた書状(御教書)をお送り下さいました。そのお言葉によれば、武蔵介源経基の告発状によって、将門を推問する二度目の太政官符を定めたということでした。
私が詔使(推問使)の到来を待っている頃、常陸介藤原維幾の息子為憲は、公(父親の常陸介)の権威を笠に着て、法を曲げることを好んでいました(法外な徴税など)。ここに将門の従兵である藤原玄明の愁によって、将門はその事情を聞くために、常陸国に向かいました。ところが、為憲と貞盛等は一味同心して、三千ばかりの精兵を率いて、ほしいままに国府の武器庫の武器並びに楯等を持ち出して挑戦してきました。ここに将門は士卒を励まし意気をあげて、為憲の軍勢を打ち負かしました。
その時、常陸国を占領する間に、亡くなった者の数はどれ位なのかを知りません。まして、生きながらえた民衆は、ことごとく将門の捕虜となりました。常陸介藤原維幾は、自分の息子為憲を教え諭さずに兵乱を起こした旨を、過状(自分の過失を認める書き付け)にしたためました。将門は、本心ではないといっても常陸国一国を討ち滅ぼしてしまいました。罪科は軽くありません。これによって朝廷の議決を待っている間に、坂東諸国を占領してしまいました。
伏して、祖先を考えますと、将門は桓武天皇の五代の子孫です。たとえ日本の半分を占領したとしても、どうしてめぐり合わせがないといえるでしょうか。昔から軍事力によって天下を取った者は、皆歴史書にみえます。将門が天から与えられ才能は、武芸にあります。思い計ってみますに、同輩の誰が武力で将門に肩を並べられるでしょうか。ところが、朝廷からは、何の褒賞もなく、かえってしばしば過ちを替める太政官符(将門を召還する官符)を下されたのは、自分の身を顧みても恥かしく思います。面目をどうやって回復したらよいでしょうか。私の心中を推し量っていただければはなはだ幸いです。
そもそも将門は、少年時代に自分の名前を書き付けた名簿(みようぶ)を、太政大臣藤原忠平の大殿に捧げてから(主従関係を結んだこと)数十年経ち、今に至りました。相国(太政大臣の唐名)で摂政でもあるあなた様(藤原忠平)の世の中に生きて、思いがけずこのこと(謀反のこと)を企ててしまいました。嘆きの至りは、表現できません。将門が国家を傾けるはかりごとを起こしたといっても、どうして昔の主のことを忘れましょうか。私の心中を推し量ってくださるならば、はなはだ幸いです。将門謹言。
天慶二年十二月十五日
謹々上 太政大臣の少将(近衛少将藤原師氏か)閣下恩下」
「将門書状」では、将門に良兼らを追捕する権限を与えた後、都から「将門を召すの使」が派遣されたことがみえるが、『将門記』にはみえないこと、将門が常陸国府に藤原玄明の助命嘆願を交渉しに行った際、そこに貞盛がいたことが「将門書状」によってはじめてわかることにより、『将門記』よりも「将門書状」の方が史料的価値が高いと考えられる。
「将門書状」の出所
①忠平のもとにあった書状から写した場合が考えられる。
②『扶桑略記』天慶3年2月8日条は、将門が殺されたことについて「合戦章」を引用し、戦死者や押収された武器などの数を詳細に記しているが、その中に「謀叛の書」がみえる。これは、『将門記』にはみられず、おそらく秀郷・貞盛らが、将門の死後、提出した実況検分書によったと推測される。この「謀叛の書」の中に、「将門書状」の原形が含まれていた可能性も考えられる。
④王城の建設
ついで将門は、王城(都)の建設を命じたという。
その地を、『将門記』は「下総国の亭南(ていなん)の地」とし、『扶桑略記』は「猿島郡石井(いわい)郷の亭南の地」とする。『扶桑略記』によれば、将門の本拠地(石井郷)の南ということになる。この地が具体的にどこなのか。古来から各種の説があるが、いずれも根拠に欠ける。
また、檥橋(うきはし)をもって京の山崎とし、相馬郡の大井の津をもって京の大津としたとの記載がある。檥橋の地名は不明であるが、この地域は河川や湖沼が広がる低湿地であったために、低湿地に船や板を並べて橋にした「ウキハシ」が設けられ、固有名詞化したと考えられる。京の山崎は、現在の京都市乙訓郡大山崎町にあった津のことで、淀川と山陽道の交差する水陸の交通の要衝であり、平安京への物資の荷揚げ地点として栄えた場所であった。
大井の津の所在地も諸説あって不祥であるが、『和名類聚抄』下総国相馬郡に「大井郷」があり、現在の千葉県柏市付近に比定される。京の大津は、現在の滋賀県大津市にあたり、琵琶湖の水上交通と陸上交通の要所であり、東山道や東海道から平安京へ物資を水上輸送する場合の陸揚げ港である。
王城の建設がもし史実だとすれば、将門は水上交通に注意を払っていたことになる。
⑤「坂東独立王国」を目指したのかどうか?
さらに将門は、左右大臣・納言・参議・文武百官・弁官・史などの百官人を任命し、内印(「天皇御璽」との印文をもつ天皇の印)、外印(太政官の印)の寸法や隷書(印文などに用いる書体)や文字を定めたが、暦日博士(暦を作成する専門家)のみは任命することができなかったという。暦の作成には高い技術が必要で、適任の人物がいなかったということか。
将門が構想した国家は、律令国家を模倣しただけのもので、とても新政権といえる代物ではなく、事前に計画を立てた形跡もほとんどない。
しかし、日本史上、天皇に対抗して新皇(新しい天皇)を称したのは、将門のみであり、例え彼の国家構想が律令国家の模倣で、貧弱なものであったとしても、東国政権の先駆けとして、評価すべきである。
坂東諸国の国司は、将門が新皇に即位したことを聞き、都に逃げ帰った。将門は、武蔵・相模国など残りの国を巡検して、印鑑を手中に収めた。このことは、将門が坂東全域を占領したことを意味する。そして、国司が不在となった国府の官人に、国務を行うべきことを命じ、自分が新皇に即位したことを認めることを要求した書状を太政官に伝え、相模国から本拠地の下総国へ帰っていった。これにより、都の官人たちは大いに驚き、宮中も大騒動に陥った。都の天皇(朱雀天皇)は、名のある僧に将門の調伏をさせ、また、多くの神社へも鎮圧を願い奉幣した。
『将門記』には、朱雀天皇が寺社に奉ったとする詔があり、将門調伏のために、天皇は玉座を降りて神仏に祈り、百官も潔斎して寺社に祈りを捧げたこと、また、延暦寺などの名僧や神祇官も調伏の祈祷を行ったことがみえる。また、祈祷に用いた芥子(けし)が七石に及び、祭料として捧げられた五色の御幣も莫大な料で、将門をかたどった人形を用いて陰陽道による呪(まじな)いが行われ、五大力菩薩法(ごだいりきぼさつほう、五大力菩薩による護国法)や陰陽道による神の鏑矢も放たれたという。
実際、古記録にも、実際に仏教による祈頑、神祀祭祀、陰陽道祭祀などが頻出している。
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