東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-07
*天慶3年(940)
2月26日
・将門、陸奥・出羽国への侵攻の報
「天慶三年(九四〇)二月廿六日、陸奥国言上せる飛駅奏状に云わく、平将門、一万三千人の兵を率いて、陸奥・出羽両国を襲撃せんと欲すと云々。<その事多端(たたん)。具(つぶさ)に言う能わず。)件の奏状、下官<げかん、藤原師輔>披見す。即ち外記をして持たしめ、御所に参詣し、奏聞せしむ。」(『九条殿記』飛駅事)
2月26日、将門が兵1万3千率いて、陸奥・出羽国を襲撃しようとしているとの情報が、陸奥国からの飛駅(早馬)により、都にもたらされたという。
『九条殿記』は、藤原師輔の日記『九暦』の部類記で、九条家に伝来した史料。『九暦』のもっとも信頼性の高い活字本として知られる大日本古記録本『九暦』には、この史料は収められていない。
他の資料では、「陸奥飛駅来る」(『貞信公記』天慶3年2月26日条に)とある。
天慶2年、出羽国で俘囚が反乱し、陸奥国の援助も借りながら鎮圧に当たっている。
両国の治安は悪く混乱していたし、奥羽地方には、馬をはじめとする豊富な物資や資源が存在した。
将門と陸奥・出羽国の繋がりを考えれば、将門が陸奥・出羽両国へ出兵しようとした可能性は、大いにあり得る。
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2月29日
・遠江・駿河・甲斐国が飛駅で将門敗死を報告(『師守記』『園太暦』『貞信公記』)。
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3月2日
・藤原純友、五位を授けられることになり「悦び状」が届く(『貞信公記』同年3月2日)。
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3月4日
・将門の死を契機に、純友に対してのみ戦力を投入することが可能となり強硬手段を打ち出す。
この日、追捕南海凶賊使が任命される(『日本紀略』)。
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3月5日
・常陸・甲斐・信濃国の解(げ)、藤原秀郷の申文が届く(『貞信公記』『日本紀略』)。
常陸国府が占領されて以来、坂東から直接発信されていなかった情報が、久しぶりに当事国から発せられた。
また、それまで飛駅を用いていた情報伝達が、「解文」という通常の上申方法に戻った。坂東諸国の国衙機能が少しずつ平静さを取り戻してきた。
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3月7日
・将門の残党掃討。
この日(7日)、伊豆国を本拠にしていた平将武が甲斐国で殺され(『貞信公記』)、18日には、興世(おきよ)王が上総掾兼押領使であった平公雅(きんまさ)によって、上総国で射殺されたとの情報が、征東大将軍藤原忠文を通して伝えられた(『貞信公記』『日本紀略』『師守記』)。
さらに、『将門記』によれば、平将頼(まさより)・藤原玄茂(はるもち)は相模国で、坂上遂高(かつたか)・藤原玄明は常陸国で殺された。
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3月9日
・秀郷に従四位下、貞盛に従五位上が与えられ、位袍(いほう、位に応じた色で染めた束帯の上着。四位・五位は緋色)が飛駅に付けられて下された(『貞信公記』『日本紀略』『扶桑略記』『師守記』『将門記』)。
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4月8日
・征東軍が現地に到着し、将門の兄弟たちは、剃髪して深い山に逃げ入ったり、妻子を捨てて山野に惑(まど)ったという。
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4月10日
・追捕山陽遣使好古から「凶賊蜂起の疑いあり」との解文が届く。
13日、政府は追捕官符を山陽南海両道諸国に下し、反乱勢力に凶賊=謀反の烙印を押して再度、軍事鎮圧の方針を示したが、まだ純友を凶賊と名指ししてはいない。
4月~6月、諸国へ兵士・兵糧米・兵船の徴発を命じ、着々と純友勢力鎮圧の準備を進めた。
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4月12日
・この日、
「今日常陸国飛駅参上して云わく、賊首故平将門の弟将種(まさたね)、陸奥権介伴有梁(とものありはり)の聟(むこ)として彼の国に居住す。仍て将種、有梁と共に謀反を成すと云々。」(『師守記(もろもりき)』貞和3年(1347)12月17日条裏書)
将門の弟が陸奥権介と婚姻関係を結んで陸奥国に居住し、謀反を起こしたとの知らせが常陸国からもたらされている。
将門の父良将は鎮守府将軍であったから、将種は良将の赴任中の子供と考えられる。陸奥国には、国司を味方に加えた将門の兄弟がいた。
この情報をもたらしたのは、常陸国である。
この頃、常陸掾・押領使の平貞盛が常陸国に滞在し掃討作戦に関与していたていたと思われ、この情報を発したのは、貞盛と考えられる。
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4月25日
・この日、秀郷は使者に付けて将門の首を進めた(『貞信公記』『日本紀略』『本朝世紀』『扶桑略記』)。
そして、5月3日には、将門の首は平安京の東市の樹にかけられ、晒された(『貞信公記』『師守記』)。
犯罪者や謀反人の首を見せしめのために晒すという方法は、明治になるまでごく普通に行われていあた。その古い確実な例は、この将門と純友とであり、保元・平治の乱以降、常態化する。
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