2024年12月16日月曜日

寛仁3年(1019)5月~6月 対馬判官代長岑諸近の密航 刀伊賊追討の論功行賞

横浜市 2013-03-17
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寛仁3年(1019)
5月26日
・賊の襲来と、旱魃とを合せて払うために仁王会が行なわれた。
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6月9日
「夜に臨んで、宰相(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「入道殿(藤原道長)は、羅漢を供しました。四条大納言(藤原公任)と左兵衛督(源)頼定が云ったことには、『左府(藤原顕光)が辞退される』と云うことです」ということだ。」(『小右記』寛仁3年(1019)6月9日条)
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6月15日
・対馬判官代長岑諸近の密航
判官代は、令制で正規に定められた職ではないが、諸国に置かれていた国衙の在庁官人の職の一つで、在地の有力者を充てるもの。
刀伊が対馬を襲ったとき、長岑諸近は母や妻子・従者など10余人共に捕われるが、賊船が再度対馬に立ち寄った際、ひとり脱走して帰島した。

そして、
長岑は、連れ去られた老母の身の上を思い、死を賭してその行方を探ろうとして、禁ぜられている海外密航を企て、6月15日夜、密かに小舟に乗って高麗に向かった。
彼の密航は翌日発覚し、対馬から大宰府に報告された。

諸近は無事高麗に着き、通訳の仁礼という者から事の始終を聞くことができた。
その話によれば、刀伊はまず高麗沿岸を荒らし、高麗がその撃退を準備している間に日本方面に向かった。
高麗が再度の来襲を予想して軍兵兵船を用意したところに、刀伊は再びやって来た。
高麗では5ヶ所の根拠地に千余の兵船を備え、各所に賊を迎え撃ってこれを悉く撃破した。
ところが、その船中には多数の日本人がいたので、これを収容した。
5ヶ所の根拠地のうち3ヶ所から集まった者だけで300人以上いる。
官では更に残りの2ヶ所からも日本人を集めて、全員を船で日本に送還することを決定しているから、帰国してこれを伝えるように、とのことであった。

そこで長峯は高麗に救助された対馬出身者たちに会って、家族の消息を尋ねた。
彼らの話によると、刀伊は日本から引き上げて再度高麗を襲い、日々強壮な高麗人を捕えて来ては、その代わりに船中の病者・弱者を海に投げこんだという。
長岑の母、妹、妻子はこうして殺され、残ったのは伯母1人だけであった。

渡海の禁を破った密航者である長峯は、このまま帰国したのでは敵国通謀の罪にも問われかねないため、生き証人として刀伊に捕えられていた日本人の女10人を連れて帰国した。
7月7日、対馬に帰着した。
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6月15日
「宰相(資平)が来た。・・・次いでに云(い)ったことには、「或いは云ったことには、『道綱卿が入道殿(道長)に申させて云ったことには、「私(道綱)は一家の長兄である。今回、もし丞相に任じられなければ、何の恥がこれに勝ろうか。・・・」
「・・・ただ、一、二箇月、貸してくだされ。・・・」と』と」ということだ。私(実資)の思うところは、(道綱は)第一の大納言で、年労ははなはだ多い。・・・但し、一文不通の人は、未だ丞相に任じたことはないので、世は許さない。」
(『小右記』寛仁3年(1019)6月15日条)
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6月29日
・刀伊賊追討の論功行賞
この日の陣定では、大宰府からの刀伊賊追討の勲功者の注進をうけて、論功行賞について、藤原実資が主宰し、斉信(ただのぶ)、公任、行成、経房、道方、朝経、資平の8名の公卿が議している。

大宰府は12名の戦功を記して上申して来ていた。
論点は、そもそも賞を与えるべきか、与える必要がないかということに絞られた。
大納言公任、中納言行成の2人は、賞を授ける必要はないとした。
賞を授けると大宰府に伝えたのは4月18日付の命令であるが、実際にはそれ以前の13日に最後の戦闘は終わっている。
従って、合戦に功のあった者があっても、それは賞を約束されての行為ではないから、賞する必要はない、という論法であった。

これに対して実資は、日付は問題ではなく、たとえ賞を与えると約束しなかったところで、功があれば賞すべきものである。
寛平6年(894)、新羅の賊が襲来した際、対馬守文室善友がこれを撃退した。そして、戦功者を賞するとの命令は出ていなかったが、善友は賞せられた例もある。
まして今度の事件は大事であったのを、大宰府が力戦して撃退したのであるから、当然賞を授けるべきで、もしここで放っておいたら、以後、奮闘する者がなくなるであろう、と発言した。

すると大納言藤原斉信(ただのぶ)が実資に同意し、続いて公任・行成ら一同もこれに賛成して、衆議一決した。
但し、具体的に賞を定めたのではなく、定文(さだめぶみ)には「賞を与えるがよろしい」と書かれただけ。実際にどういう論功行賞があったかは、7月13日の除目に、前大宰少監大蔵種材(たねき)が壱岐守に任ぜられた以外は不明。

大蔵種材は、藤原純友の乱に博多で勇戦してこれを破った大蔵春実の孫。
土地の名族として大宰府にも仕えたと思われ、刀伊来襲後、直ちに博多警固所に赴いた。
刀伊が退却し、これを追撃する段になって兵船の準備が進まず、当時大宰少弐兼筑前守であった、歌人として名高い源道済(みちなり)が博多に派遣されて、その督促に当たったが、人々は、賊は大勢だからもっと兵船を造ってから一気に押し出そうと言った。
その時、種材は、自分は既に70を過ぎる老人であるが、功臣春実の子孫である、兵船の準備完了を待っていては賊は逃げ去ってしまう、惜しい命ではなし、ひとりで先に追撃しよう、と言い放った。
道済は彼の言に感じ、よしとばかりに準備不十分のままで全軍を迫撃に移らせた。
しかし、賊の船は速く、追い着くことが出来なかったけれども、彼の言動は忠節浅からずとして上申された。
その経歴からして、彼が最も重く賞せられたと推測できるが、その彼でさえ壱岐守だから、他の者の賞は実施されたとしてもさほど重いものとは思われない。
大宰権帥として総指揮をとった隆家は、特になんの賞も授けられなかったようである。

隆家の指揮は最後まで適切であり、兵船が賊の迫撃に移った際、その追撃を壱岐・対馬の日本領内にとどめ、高麗領に入らぬよう命じたあたりも見事な決断であった。
このように、刀伊襲来の際に戦った地方武士たちへの恩賞は薄く、隆家にはなんの賞もなかった。
これに反して、後一条天皇の石清水八幡宮行幸に万事を指図した実資には、先例に従って位一階が授けられた。但し、実資は既に正二位で、当時の公卿の最高級であったから、しばらく保留して、治安2年(1022)、養子資平の位を従三位から正三位に進めた。

この論功行賞を巡る議論は、公卿の危機意識の低さ、陣定での形式的な議論を示すものと評価されている。
しかし、公任・行成という有能な公卿の意見だけにその背後の理由を考えると、彼らは、地方に蓄積された武力は、現実に刀伊を退散させたほどに大きいものであり、その暴発を恐れたのではないかとも考えられる
隆家も、賊船の迫撃は日本国境内にとどめるよう、慎重な配慮をした。

この日の陣定では13ヶ国からの諸国申請雑事(しよこくしんせいぞうじ)も議論されている。
諸国申請雑事は、2年前より左大臣顕光、右大臣公季に処理が命じられていたが、諸卿を招集しても陣定が成立できなかった案件で、これを実資が処理した。

『小右記』同日条にみる論功行賞申請手続き
武士たちが論功行賞を申請する手続き、政府がこれを認定する手続きを『小右記』同日条でみてみる。

大宰府が注進した勲功者交名(きようみよう):
散位(さんに)平朝臣為賢(ためかた)、前大監(さきのだいげん)藤原助高(すけたか)、傔杖(げんじよう)大蔵光弘、藤原友近、友近随兵紀重方
以上の5人は警固所の合戦で賊徒らに矢を命中させ、おおいに手柄を立てたが、先日の府解(ふげ)では為資ら4人の勲功は注進したが、重方については府解に載せなかった。重方の戦果について詳しい報告がなかったからであるが、その後、事実を確認したので、今回の勲功者注進に追加報告する。
筑前国志麻郡住人文屋忠光(ふんやのただみつ)
賊徒が志麻郡に来襲した日の合戦で、忠光の矢があたった者は多かった。また賊徒の首を斬って大宰府に進上した。捕獲した武器も進上した。
同国恰土(いと)郡住人多治久明(たじのひさあき)
賊徒が来襲したとき当郡青木村南山辺で賊徒と合戦し、賊一人を射取り、その首を斬って大宰府に進上した。
前(さきの)肥前介源知(しる)
賊徒が退却するとき肥前同松浦(まつら)郡で合戦し、多く賊徒を射た。また一人を生捕りにして大宰府に進上した。
・・・(以下略)

刀伊入冠に際して、政府は「もし身命(しんみよう)を忘れて戦い勲功をあげた者は、その勲功に応じて褒賞を与える」という勧賞文言を含む追討勅符を大宰府に出した。

注文には、勲功者一人一人について、合戦場所・日時、勲功をあげた状況、分捕った首級、生け捕った人数、鹵獲(ろかく)武器を記してある。
大宰府がこのような具体的な内容の勲功者注文を作成できるのは、合戦に参加した武士たちが自らの戦況と戦果(討ち取った首級、生け捕った捕虜、捕獲武器など)を詳しく報告しているからで、この報告書を「合戦日記」と呼ぶ。
大宰府は、武士たちからそれらを受け取る際、紀重方の記載にあるように、その勲功が事実かどうか確認したうえで(たとえば一緒に戦った武士の証言など)、勲功者注文を作成し、政府に提出した。

左中弁経通が、大宰府が言上した筑前国・壱岐・対馬島の人や牛馬が、刀伊人の為に殺害され、および拉致された解文、勲功者の注申について、また処々の合戦の状況、刀伊人及び今回、漂着した未斤達を勘問した文書、・・・を下給した。
「仰せを伝えて云ったことには、「大宰府が言上した解文の中で、勲功を注進してきた者を賞すべきか否か。また、漂着した者、および初めの刀伊(とい)人の勘問について、定め申すように。・・・」ということだ。」
「大納言(藤原)公任と中納言(藤原)行成は、行ってはならないということを申した。その理由は、忠勤が有る者に賞を進めるということは、勅符に載せているとはいっても、刀伊を撃退したのは、勅符が未だ到らない前の事である。」
「私(藤原実資)が云ったことには、「勅符が到っているかどうかを謂(い)ってはならない。たとえ賞を募っていない事とはいっても、勲功が有る者については、賞を賜うのに何事が有るだろう。・・・」
「・・・寛平6年(894)、新羅の凶賊が対馬島に到った際、島司(文室)善友が打ち返した。すぐに賞を下給した。募られることは無かったとはいっても、前例はこのようである。他の事は同じである。特に刀伊(とい)人は、近く警固所に来た。・・・」
「・・また、国島の人民千余人を拉致し、および数百の人や牛馬を殺害し、また壱岐守(藤原)理忠を殺した。ところが、大宰府は兵を発し、忽然と追い返し、および刀伊人を射取った。やはり賞が有るべきである。・・・」
「・・・もし賞を進めることが無かったならば、向後の有事には、士を進めることは無いのではないか」と。大納言斉信も、私(実資)の意見に同じであった。その後、大納言公任、中納言行成、及び次席の者も、皆、同じであった。」
「大宰府が注進した勲功を挙げた者。散位平朝臣為賢、前大宰大監藤原助高、傔仗大蔵光弘・藤原友近、友近の随兵紀重方。

以上の五人は、警固所の合戦の場で戦った者は数が多いとはいっても、賊徒に正中したのはこの為賢たちの矢であった。」
「筑前国志摩郡の住人文室忠光。

賊徒が初めて志摩郡に来襲した日、警固所が差し遣わした兵士と合戦した際、忠光の矢に当たった者が多かった。また、賊徒の首を斬って進上し、およびその武具を進上した。」
「大神守宮・擬検非違使財部弘延。

賊徒を撃退した際、要害の所々を計った。この守宮たちは、兵士を遣わし加えて、あらかじめ遣わしたものである。・・・」
「・・・そして筑前国志摩郡船越津辺りに於いて合戦した際、この守宮たちの矢に当たった者が多かった。特に生け捕った者は二人。但し、一人は傷を蒙(こうむ)って死んでしまった。」
「前大宰少監大蔵朝臣種材。

賊徒が逃却した日、兵船が遅れて出撃するという告げが有ったので、大宰少弐兼筑前守源朝臣道済を博多津に遣わし、且つ纜(ともづな)を解かせ、且つその事情を問い遣わしたところ、・・・」
「・・・使者を奉った者が、各々申して云(い)ったことには、「賊船の数が多い。やはり兵船を造って、一度に追撃すべきである」ということだ。その中で、(大蔵)種材が独り申して云ったことには、「私(種材)は、齢が70を過ぎている。・・・」
「・・・身は功臣(大蔵春実)の後裔である。兵船を造り終わるのを待つ間に、賊徒が早く逃げるのを恐れる。命を棄て、身を忘れ、一人で先ず進発しようと思う」ということだ。・・・」
「・・「(源)道済は、(大蔵)種材の言ったところを善しとして、無理に衆軍を出撃させた」ということだ。賊船が早く去ったので、実際は戦を遂げることは無かったとはいっても、種材が言ったところは、忠節が浅くない。」
「壱岐講師常覚。

賊徒は三度、来襲した。毎回、撃退した後、数百の兵に堪えられず、一身で逃れ脱した。身は在俗ではないとはいっても、その忠節は隠れることはない。」
『小右記』寛仁3年(1019)6月29日条

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1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

藤上と申します。
黙翁さんの記事、非常に詳しいので感服しています。
何と素晴らしい事か。
質問です。
小右記には 刀伊を撃退した人の中に藤原蔵規と言う人物がいるような記述をどこかのサイトで見たような気がしましたが
刀伊を撃退した12名の戦功者とは
平為賢、藤原助高、大蔵光弘、藤原友近、紀重方、文屋忠光、多治久明、源知、後 4人は 誰でしょうか。
以上、お忙しい所 誠に恐縮ですが お教え願えないでしょうか。
尚、当方のメールは「mfujiuefu@yahoo.co.jp」です。宜しくお願いします。