2024年12月22日日曜日

共和党内の求心力にほころび トランプ氏、予算案で造反される(共同);「米政府の当面の支出を賄う「つなぎ予算」案を巡り、トランプ次期大統領は共和、民主両党がいったん合意した案を覆すなど、来年1月の就任前から議会への影響力を示した。一方、トランプ氏が求めた債務上限の撤廃を含む案は共和党内からの造反で否決され、求心力のほころびも見えた。」

性被害訴える女性検事が語った苦悩「気持ちも身体も完全に凍りついた」 大阪地検・元検事正の被告が一転、無罪主張【報道特集】(TBS) / 「女性検事に職権乱用疑い」と主張 性的暴行で起訴の元検事正側(毎日) / “性的暴行”元大阪地検トップ一転「無罪」主張。被害を訴える女性検事「『同意があったと思っていた』などという姑息な主張をして無罪を争うことが私だけでなく今まさに性犯罪被害に苦しんでいる方々をどれほどの恐怖や絶望に陥れ被害申告することを恐れさせているか」 / 元村有希子氏「怒りを覚えました…一回目『争いません』と言った後に覆す卑怯さ…こういった戦術が世の中の性被害者をどれだけ落胆させてるのか…女性がようやく声を上げた途端この仕打ちですよ、性犯罪は魂の殺人、人間として正しいことやってるのか?と本当に私は直接問いたい」     

 

2024年12月21日土曜日

兵庫県知事選挙、SNSを分析 斎藤元彦氏擁護の渦(日経); 立花孝志氏の投稿を分析すると、斎藤氏支持層や自民党寄り保守層が初期に反応。そこから一般層に広がっていることが分かりました。

大杉栄とその時代年表(351) 1901(明治34)年8月19日~31日 子規庵で「俳談会」 約20名が集まる 「夕方までつづいたこの会合での俳談はぶるわなかったが、ひさかたぶりの混雑を子規はたのしんだ。 しかし、さすがに疲れた。体力の著しい消耗ぶりに、いくらたのしくとももはや大人数の会合はもう無理だ、そう子規は身をもって知った。」  

 

チャリング・クロス

大杉栄とその時代年表(350) 1901(明治34)年8月4日~17日 「この書の体裁は悉く藤島武二先生の意匠に成れり 表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて 矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」鳳晶子『みだれ髪』 より続く

1901(明治34)年

8月19日

琉球王国最後の国王尚泰(58)、没。

8月20日

京釜鉄道、京城西南永登浦で起工式。

8月20日

8月20日~22日 ロンドンの漱石


「八月二十日(火)、 Dr. Craig の許に行く。一ポンド払う。三回分の貸し。 Charing Cross Road (チャリング・クロス街)で新本・古本買う。(五十六、七円)

八月二十一日(水)、『日本新聞』と『太陽』(七月号)(推定)届く。(鈴木禎次からか)

八月二十二日(木)、 Mr. Sweet (スウィート)から、出発の日取り決定したと知らせる(推定)手紙来る。返事出す。(二十四日(土)の会合について知らせたものと思われる。(推定))菊地謙二郎(仙湖)から葉書来る。夜、下宿の老嬢の姉夫婦来て、一緒にお茶に招かれ、また夕食を共にする。」(荒正人、前掲書)


8月21日

コペンハーゲン、第2インターナショナル系独英などの組合代表、国際労働組合会議開催。

8月21日

米、デトロイトでキャデラック自動車会社設立。

8月23日

韓国、収穫期に至れば米穀輸出禁止を解除する旨、林権助駐韓公使に言明。

8月23日

アメリカ人教師600人がマニラに到着、公教育普及政策に従事。

8月24日

8月24日~25日 ロンドンの漱石


「八月二十四日(土)、 Mr. Sweet (スウィート)に Bedford Row (ベッドフォード街)で面会する。

八月二十五日(日)、 Mr. Fardel (ファーデル)を訪ねて、 Chelsea (チェルシー)に行く。昼食を共にし、 Hyde Park (ハイド・パーク)を散歩し、街頭演説を聴く。(荒正人、前掲書)


8月26日

午後、子規庵で「俳談会」開催。約20名が集まる


「・・・・・夕方までつづいたこの会合での俳談はぶるわなかったが、ひさかたぶりの混雑を子規はたのしんだ。

しかし、さすがに疲れた。体力の著しい消耗ぶりに、いくらたのしくとももはや大人数の会合はもう無理だ、そう子規は身をもって知った。俳談会はこの後、猿楽町の碧梧桐宅と九段坂上の虚子宅で持たれたが、二回で終った。子規をかこみ、子規を慰めなくては意味がないのである。この年は年末恒例の蕪村忌さえ子規庵ではなく、道灌山胞衣(えな)神社境内の芝生で行われた。むろん子規は参加できない。」(関川夏央、前掲書)

8月27日

8月27日~8月30日 ロンドンの漱石


「八月二十七日(火)、 Dr. Craig の許に行く。

八月二十九日(木)、夜、池田菊苗、暇乞いに来る。

八月三十日(金)、テムズ河岸の Albert Dock (アルバート埠頭)で、帰国する池田菊苗・呉秀三と William E.L. Seet (W・E・L・スウィート)を見送る。下宿の老嬢姉妹も来る。」(荒正人、前掲書)


8月29日

清国、武科挙停止。

8月30日

幸徳秋水、大宮政談演説会(日本鉄道大宮工場)に出席。秋水の最初の労働演説。

無署名「労働運動の趨勢」(「万朝報」9月9日)で労働運動の2派(調和派・社会主義派)を分類。

無署名「大宮工場」(「万朝報」9月30日)では日鉄大宮工場の機関車組立て手抜き問題を論じる。

8月31日

8月31日以降、大杉栄(16)、軍医に「脳神経衰弱」と診断され、2週間の休暇を与えられる。伯父(山田保永)のいる大阪に行く。摂津、河内、和泉を歩く。

つづく

鎌倉の紅葉 瑞泉寺の紅葉(再訪) 本格的紅葉にはまだ早い 道玄橋、永福寺跡(ピーク越え)、理智光寺橋(いまピーク?)の紅葉 2024-12-20

12月20日(金)晴れ(雲多し)

鎌倉、瑞泉寺を再訪。

先回参拝時

鎌倉の紅葉 瑞泉寺の紅葉 見応えあるが、本格的紅葉にはまだ早い 瑞泉寺までの道玄橋、永福寺跡、理智光寺橋の紅葉 2024-12-06

前回訪問時よりは赤味は増しているが、まだ本格的紅葉とは言い難い状況に見えた。










▼理智光寺橋

▼永福寺跡、紅葉はピーク越え、落葉夥しい

▼道玄橋

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 兵庫県の斎藤元彦知事「これから捜査されると思うので、コメントは差し控えたい」(読売) / 折田さんは本当のことを言っていた! ⇒ 「SNS監修はPR会社に」、兵庫県知事選前に斎藤氏側が支援者に送信…担当者「答えられない」(読売);「兵庫県知事選(11月17日投開票)でPR会社代表が斎藤元彦知事側から「広報全般を任された」と投稿サイトに書き込んだ問題で、告示前の10月上旬、斎藤陣営の広報担当者から「SNS監修はPR会社にお願いする形になりました」とのメッセージが支援者の一人に送られていたことが関係者への取材でわかった。斎藤氏の代理人弁護士はこれまで、SNSの監修者だとする代表の投稿内容について「間違いだ」と説明している。」

 

 

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▼斎藤元彦さんの周りには胡散臭いハナシがいっぱい

 

2024年12月20日金曜日

デマを拡散した人、証拠いっぱい残してる ⇒ 稲村氏陣営の告訴受理 兵庫知事選で次点、「X凍結」業務妨害を主張(朝日) / 兵庫県知事選でSNS上にデマ 警察が捜査へ 稲村陣営の告発状受理「X凍結」で業務妨害疑いでも告訴(MBS)

【日銀、アベノミクスの効果は不確実で副作用をもたらしうると結論】 日銀、異次元緩和など「効果は不確実」 検証結果公表(日経);「日銀は19日、過去25年間の金融政策を検証した「多角的レビュー」を公表した。異次元緩和といった非伝統的な金融政策について「定量的な効果は、短期金利の操作による伝統的な金融政策手段に比べて不確実」とし、「大規模かつ長期間にわたって継続する場合には副作用をもたらしうる」と総括した。」

【万博大阪ヘルスケアパビリオン入場時に収集する健康データが、協賛金3億円以上の企業に提供される】 指摘された横山ひでゆき、「予約時に同意」「氏名・住所を収集する訳ではない」と、しどろもどろで言い訳のお粗末 / ちなみに大阪館のプロデューサーは(あの「大阪ワクチン」で有名な「アンジェス」創業者)森下竜一   

 

旧ジャニーズ 元所属タレント“米で性被害” 米裁判所に提訴(NHK); 旧ジャニーズ事務所の創業者、ジャニー喜多川氏の性加害問題で、元所属タレント2人がアメリカで喜多川氏から性的暴行を受け、身体的精神的な苦痛を受けたなどとして、ジャニーズ事務所から社名を変えた会社などに対し460億円余を求める訴えをアメリカの裁判所に起こしました。

大杉栄とその時代年表(350) 1901(明治34)年8月4日~17日 「この書の体裁は悉く藤島武二先生の意匠に成れり 表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて 矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」鳳晶子『みだれ髪』

 

鳳晶子『みだれ髪』

大杉栄とその時代年表(349) 1901(明治34)年8月1日~3日 8月3日 ロンドンの漱石 「八月三日(土)、午前、池田菊苗を訪ね、昼食を共にする。その後、 Carlyle's House (カーライル博物館 24 Cheyne Road, Chelsea チェルシー・チェーニ路地二十四番地、旧十番地)を初めて見物する。粗末な感じを受ける。(「カーライル博物館」「カーライル博物館所蔵カーライル蔵書目録」はこの時の見物をもとにする。) Carlyle's House の少し東にある George Eliot (ジョージ・エリオット 1819-1880)と Dante Gabriel Rossetti (ダンテ・ガブリエル・ロセッチ 1828-1882)の旧居も尋ねる。前の庭園に D.G. Rossetti の胸像が噴水の上に彫られている。」 より続く

1901(明治34)年

8月4日

幸徳秋水、訪問記「夏草(泉州紀行)」(「万朝報」4~18日、4回)。

8月5日

ロシア、中国の東三省の鉄路工業権要求。

8月6日

8月6日~7日 ロンドンの漱石


「八月六日(火)、 Dr. Craig の許に行く。 Dr. Craig から ""Life's Dialogue"" は William Blake (ウィリアム・ブレーク 1757-1827)に似ているけれども、 incoherent (矛盾したもの)だと批評される。

八月七日(水)、土井晩翠から葉書来る。 ""Cassell's Illustrated History of England"" Part 28 届く。」(荒正人、前掲書)


8月8日

権助駐韓公使、韓国の米穀輸出禁止・輸入税免除に抗議。

8月8日

曽禰荒助外相、駐英林董公使に、同盟問題はまず英国側から提議させるように訓令。

8月8日

8月8日~9日 ロンドンの漱石


「八月八日(木)、 ""Cassell's Wild Birds"" 届く。俣野義郎から年賀状届く。(なぜこんなに遅れたか分らぬ)山川信次郎からも手紙届く。

八月九日(金)、村上直次郎から葉書来る。鈴木禎次から『読売新聞』、鏡から『日本新聞』(六月末から七月九日(火)分)届く。」(荒正人、前掲書)


8月9日

米、インディアン居住区のオクラホマ、白人入植者がインディアンから土地80万ヘクタールを買収。

8月9日

コロンビア軍、ベネズエラに侵攻。

8月10日

8月10日~11日 ロンドンの漱石


「八月十日(土)、昼前頃、鏡宛に葉書で、一向書信ないと書く。桜井房記から電報(人事の件と思われるが内容不詳)、 Mr. Fardel (ファーデル)から手紙来る。 Mr. Sweet (スウィート)と Mr. Fardel に手紙を出す。

八月十一日(日)、 Mr. Fardel を訪ねる。 Battersea Park (バタシー公園)の入口で無神論者の演説を聞く。」(荒正人、前掲書)


8月11日

英国王エドワード7世、ドイツ訪問。

8月12日

8月12日~13日 ロンドンの漱石


「八月十二日(月)、土井晩翠と Mr. Sweet (スウィート)から手紙来る。夜、 Mr. Sweet から再び手紙あり、九月十三日(金)に出発したいという。

八月十三日(火)、 Dr. Craig の許に行く。半ポンド払う。井原斗南来て、夜十二時三十分頃帰る。」(荒正人、前掲書)


8月14日

朝8時、西太后ら、西安出発。

11月12日、開封着。

12月30日、正定府着。

翌1902年1月7日、宮殿着。

8月14日

8月14日~15日 ロンドンの漱石


「八月十四日(水)、大幸勇吉(予備門時代の同窓生、元第五高等学校教授、理学博士)から手紙来る。

八月十五日(木)、土井晩翠から電報来る。パリから、土井晩翠、志賀潔と共に Victoria Station (ヴィクトリア停車場)に着く。迎えに行く。土井晩翠は、中根重一・鏡・梅子(鏡の妹)からの手紙と、鏡からは冬物下着二枚とハンカチ二枚、梅子からはハンカチ二枚を預ってくる。」(荒正人、前掲書)


8月15日 漱石、土井晩翠をヴィクトリア駅まで迎え、彼をグラバム・コモンの自宅に泊める。


「土井晩翠の来英

東大英文で漱石の後輩、土井晩翠が私費留学生としてパリからロンドンに着いたのは三十四年八月十五日である。彼は詩集『天地有情』で名声を得、外遊を思い立ったのである。まだツーチングの下宿にいた漱石は、サミュエル商会の田中孝太郎へ渡辺和太郎(太良)の所在を尋ねた。幸い渡辺は漫遊の旅からクラパン・コモンの下宿に帰っており、土井のために下宿を確保してくれた。漱石が先にその下宿に移ったのは、土井からも手紙が来て、かねて嘱望していた土井と同じ宿に暮らしたかったからであろう。日本の事情も聞きたかったはずである。彼はヴィクトリア駅まで土井を出迎えた。だが土井は一カ月足らずでそこを出て、各地を転々とした。漱石の日記には十月十三日にケンジントン・ミュージアムに同行したことを最後に土井の名は出てこない。ただし、渡辺春渓の回想によれば、漱石を囲んで俳句会を三回催したがその三回目(三十五年元旦)には晩翠も出席していたようだ。次に彼が漱石と会った同年九月上旬には、漱石は「猛烈の神経衰弱」に陥っていた。土井の「漱石さんのロンドンにおけるエピソード」(『中央公論』昭和三年二月)は、当時の漱石の状況を示すと同時に、『改造』(昭和三年一月)に鏡子が記した濡れ衣に正面から抗議したものであった。漱石の病状を文部省に打電したのは絶対に自分ではない、云々。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


8月15日

鳳晶子「みだれ髪」(東京新詩社)。装画藤島武二(第1線の洋画家)。「この書の体裁は悉く藤島武二の衣装に成れり表紙みだれ髪の輪郭は恋愛のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」

構成は、第1章「臙脂紫」98首、第2章「蓮の花船」76首、第3章「白百合」36首、第4章「はたち妻」87首、第5章「舞姫」22首、第6章「春思」80首の合計399首。

文壇へ衝撃与える。攻撃も。

与謝野晶子『みだれ髪』(青空文庫)

「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」

「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」

「むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子」

「くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」

「人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ」


8月16日

北京公使団、講和談判最終議定書清国全権に公布。

8月17日

8月17日 ロンドンの漱石


「八月十七日(土)、鏡に手紙を出す。(八月十五日(木)に土井晩翠が持参した品物と手紙への礼状である)田中孝太郎来る。共に(推定) Hyde Park (ハイド・パーク)に行く。 Speaker's Corner で、 Protestants (プロテスタント)の Catholic (カトリック)に対する demonstration を見る。四、五人の演説を聴く。」(荒正人、前掲書)


つづく

川内議員「貸金庫からの窃取事案は、本件以外に金融庁に報告をされていた事があるのか」 金融庁「ございます」 しかも件数を答えられず、非公表の事案もあると答弁 / 三菱UFJ銀行元行員 スペアキーで貸金庫から10数億円相当窃取か(NHK) / 「ショートでかわいらしい雰囲気の女性」“被害総額10数億”三菱UFJ貸金庫から客の資産を盗んだ元行員の“正体”「女優でいえば…」(文春オンライン) / 三菱UFJ行員が貸金庫から窃盗 Yahoo!知恵袋で3年前に酷似事案告白、「なぜスルー」の声も(J-CASTニュース) / 三菱UFJ銀行員が十数億円を窃取 顧客約60人の資産、貸金庫から(朝日); 三菱UFJ銀行は22日、東京都内の貸金庫から顧客の資産を盗んでいたとして、貸金庫の責任者だった行員を14日付で懲戒解雇したと発表した。被害者は約60人に上り、時価で十数億円の被害を確認したという。

 

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大阪府のPFOA汚染対応に関するプレスリリースの文案を、汚染の原因企業であるダイキンが作成していた。本来は府が示すべき指導の方針までダイキンによって書かれ、実際に公表されたものとほぼ一致。大阪府は取材に対し一度は否定したが、証拠を提示すると認めるという酷い対応

2024年12月19日木曜日

恥知らずな自民党の政治家たち ⇒ 知らなかった、任せていた、そして責任を回避した / 山谷えり子「収支報告書に記載していなかったことは私自身全く認識していなかった」 / 萩生田光一「(旧安倍派の中で)「相談を受けたこともない」」「関わっていない」「わからない」 / 松川るい「不記載や仕組みや慣習を知らなかった」「パーティー券の売り上げにも関心がなかった」「分からなかったものを裏金と言われるのは辛い」 / 森雅子「秘書が派閥事務局から現金で受け取っていたが、森氏は『報告を受けていなかった』と説明」 ← 処分したの?     

 

パナソニック「40年超」続いた品質不正の全実態 約5200製品が該当、海外工場へ不正を"輸出"(東洋経済);「不正発覚のきっかけとなったのは、顧客からの指摘だった。ある電子部品の性能評価を顧客側で実施したところ、要求仕様に満たないことが判明。パナインダが調査を行うと、仕様に満たないことを把握しつつ、顧客には報告しないまま出荷した事実が発覚した。」

 

大杉栄とその時代年表(349) 1901(明治34)年8月1日~3日 8月3日 ロンドンの漱石 「八月三日(土)、午前、池田菊苗を訪ね、昼食を共にする。その後、 Carlyle's House (カーライル博物館 24 Cheyne Road, Chelsea チェルシー・チェーニ路地二十四番地、旧十番地)を初めて見物する。粗末な感じを受ける。(「カーライル博物館」「カーライル博物館所蔵カーライル蔵書目録」はこの時の見物をもとにする。) Carlyle's House の少し東にある George Eliot (ジョージ・エリオット 1819-1880)と Dante Gabriel Rossetti (ダンテ・ガブリエル・ロセッチ 1828-1882)の旧居も尋ねる。前の庭園に D.G. Rossetti の胸像が噴水の上に彫られている。」

 

 Carlyle's House (カーライル博物館)

杉栄とその時代年表(348) 1901(明治34)年7月20日~31日 〈猛勉強する漱石〉 「余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。(中略)余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。」 より続く

1901(明治34)年

8月

上海、東亜同文書院設立。

8月

浮田和民「帝国主義と教育」。

「過去の帝国主義」と区別し、「現今の帝国主義」には「多くの倫理的要素」があり、「軍事的」でなく「国民の経済的要求」であることをいい、経済的な膨張主義は容認。「国民」を主体とした立憲主義とその観点からの変革を唱えると同時に、帝国主義を再定義して、侵略武力ではなく、経済的な膨張をいう。浮田は、「倫理」をもつものとして経済的な帝国主義を肯定。

8月

高山樗牛「美的生活を論ず」(「太陽」)発表。美的生活ということばが流行語となる。

8月

岩野泡鳴「露じも」(「自家版」)

8月

堺利彦『家庭の新風味 一~六』(内外出版協会)刊行

この本には、「結婚論」と「夫婦論」が収録されている。結婚論では、装飾品のような上流階級の「お姫様」は別にしても、中等社会の娘はできるだけ早婚を避け、学芸を修めた後に職業を持つべきだ、結婚後も共働きをするはうがいいと述べている。そうすると結婚時期は若干遅れることになるが、「中等社会の娘は晩婚」と定めてしまいたい、とまでいう。

夫婦論では、「妾」についてかなり紙面を割いている。堺が入社する前年の1898年、『萬朝報』は、「弊風一斑 蓄妾の実例」を長期にわたって連載して大きな話題を呼んだ。この連載は、名士とされる男性が妾を囲っている事例を500例以上も紹介したもので、伊藤博文、山県有朋、犬養毅、鳩山和夫、森鴎外、北里柴三郎、西園寺公望、榎本武揚、高田早苗、末松謙澄、黒田清輝、西郷従道など、著名の士が続々登場する。この頃は、「蓄妾」や「妻妾同居」が公然と行われていた時代であった。堺は、妾を持つ男性に社会的制裁を加えた黒岩涙香に共鳴していた。

巻末には、附録として「春風村舎の記」が収録されている。これは、前年に雑誌『大帝国』に掲載されたもので、ここには、堺が考える〝理想の家庭″が描かれている。まもなく堺は、エドワード・ベラミーとウィリアム・モリスのユートピア小説を抄訳することになるが「春風村舎の記」は、ユートピアよりもっと素朴な田園で「生きる幸せ」を描いたもの。〝社会主義者以前〞の堺利彦が抱いていた理想の家庭観、社会観がよくわかる。

また、巻末に掲載された『言文一致普通文』の広告には「第七版」とあり、この本は2ヵ月弱で7刷になったことになる。山本正秀「堺枯川の言文一致活動」(『茨城大学文理学部紀要』第15号)によれば、『言文一致普通文』は12月までに14版に達し、3年後の1904年5月まで17版を重ねているという。合計では2万部は越えていると推測できる。

内外出版協会からはこの時期に、山田美妙の『言文一致文例』も刊行され、各社からも類書が次々に出ている。そのなかでは、堺と美妙の本が優れた指導書としてよく売れている。山田美妙は朝報社社長の黒岩涙香宛の書簡で、「枯川君の近作『言文一致普通文』は実に近来稀にみる傑作」と絶賛している。

8月

漱石、理論的な文学論構築のための最も初期と思われるノートを記す。


「八月から九月までの間、十年計画で著作を志す。(これは、日本に帰り、東京帝国大学で、「文学論」として講義し、後に『文學論』として刊行したものの原型である。)この頃から、第五高等学校に戻らないで、東京で仕事をしたいという意志が強固となる。」


「心理学や社会学の書物を熱心に読む。ノートをとり、自分の考えを少しずつ書き留める。

十年計画の著作を志したことと Dr. Craig の許に通わなくなったことは関係あるかもしれない。」(荒正人、前掲書)


8月

堺利彦「言文一致事業と小説家」(言文一致雑誌『新文』(1901年8月号)。尾崎紅葉率いる硯友社一派の小説家を手厳しく批判。


内外出版協会の山県悌三郎(号は仙郷学人);

教育家・文筆家として世に出た後、『学海之指針』『少年園』『少年文庫』『文庫』『青年文』などの雑誌を刊行。フィリピン独立運動に注目して、東京に来たフィリピン人留学生の面倒をみていた。堺の同僚で『萬朝報』の英文欄を担当していた山県五十雄は、この山県悌三郎の実弟。堺は山県五十雄を介して山県悌三郎と知り合ったと推測できる。妻の治療費による経済的苦境にいる堺のことを知った山県が、『言文一致普通文』『家庭の新風味』執筆を勧めたのではないだろうか。

堺の日記には、「山県が色々B00k Makingをすゝめてくれるからチトこしらへで見ようと思ふ、言文一致の本が出来たら其の次には婦人向の本を色々やつて見やうと思ふ、是れは必ずしも悪い意味のBook Makingではあるまい」(1901年5月16日)とあり、この「山県」は、内外出版協会の山県悌三郎である。

8月

大阪、鉄工労働者を中心に関西労働組合期成会結成。

9月、大日本職工教育会と合同して労働青年会結成。

8月

米価、8月上旬より高騰、各地の米穀取引所で売買停止に。

8月

高平小五郎駐米公使、桂太郎首相の訓令によって米での公債発行に関して米資本家と協議。

8月

アンコーレ、英によりウガンダに併合。

8月1日

8月1日~8月2日 ロンドンの漱石


「八月一日(木)、 ""Life's Dialogue"" (英詩)を作る。池田菊苗から手紙来る。前日留守をしていたが、八月三日(土)なら午前中から都合よいと書いてある。鈴木禎次・時子から、日本銀行を通じて、三ポンド送金して来る。何のためか分らない。日本銀行に受取を出す。

八月二日(金)、池田菊苗・鈴木禎次・Mr. Sweet (スウィート)・芳賀矢一へ手紙を出す。池田菊苗には、三日(土)午前中に訪ねる旨の返事をする。文部省と鈴木時子から手紙来る。」(荒正人、前掲書)


8月3

中江兆民、『一年有半』脱稿

幸徳秋水が「万朗報」に発表した「夏草」によると、8月2日に夜汽車に乗った秋水は、翌日の午前に大阪梅田に降り、翌4日の朝8時前に汗を拭き拭き兆民の寓居に駆け込んだ。

「其容貌は去三月の末に東京を発たれた時と、左程の変りは見えないで、元気少しも衰えず、快談平生の如くであるが、頚部の腫物は既に気管を圧して居る、呼吸は僅かに喉頭の.切口から成されて居る、そして先生は莞繭として数帖の半紙の草稿を取出し、是れが学者の本分として、社会と友人への告別、又は置土産だ、死だら公げにしろと言って示された」 


秋水が生前出版を打診すると、兆民は、「君の一存でよろしく取りはからってほしい」と答えた。兆民は、秋水が記者をしている『万朝報』に掲載されることを望んでいたようだ。

7日、秋水は東京へ帰り、小山久之助に生前出版の件を相談したところ、小山も大賛成、そこで博文館の大橋新太郎に依頼し、出版することになった。『万朝報』掲載の場合には当然長期連載となるから、それより一冊の単行書として刊行する方がまとまりがあってよいと判断したのであろう。秋水の妻(師岡千代子)は、『一年有半』の原稿を清書した(『風々両々』)、

10日付けの兆民の手紙は、「出版のことは、相なるべくとりいそぎくだされたく、病中相たのしみおり候」とある。また、兆民は千代子の協力に謝意を表している。

8月3

8月3日 ロンドンの漱石


「八月三日(土)、午前、池田菊苗を訪ね、昼食を共にする。その後、 Carlyle's House (カーライル博物館 24 Cheyne Road, Chelsea チェルシー・チェーニ路地二十四番地、旧十番地)を初めて見物する。粗末な感じを受ける。(「カーライル博物館」「カーライル博物館所蔵カーライル蔵書目録」はこの時の見物をもとにする。) Carlyle's House の少し東にある George Eliot (ジョージ・エリオット 1819-1880)と Dante Gabriel Rossetti (ダンテ・ガブリエル・ロセッチ 1828-1882)の旧居も尋ねる。前の庭園に D.G. Rossetti の胸像が噴水の上に彫られている。」(荒正人、前掲書)


「四階へ来た時は縹渺(へうべう)として何事とも知らず嬉しかった。嬉しいといふよりはどことなく妙であった。こゝは屋根裏である。・・・・・カーライルは自分の経営で此室を作つた。作つて此を書斎とした。書斎としてこゝに立籠つた。・・・」(『カーライル博物館』)


「カーライルの家 - 最上階からの眺め

・・・・・彼はこの後も三度、ここを訪問している。先に触れたように、カーライルは若いころから彼が親しんだ文学者であり、一高時代の英作文では、夢にカーライルが現われて、自分の文章を真似するなと欝告した文章を書いたことがある。やがて『吾輩は猫である』 では、苦沙弥先生が、「あのカーライルは胃弱だったぜ」と、「自分の胃弱も名誉であると云つた様な」ことを言って自己弁護をしている。

そのカーライルの家に入り三階・四階と上って、漱石が感動したのは四階の屋根裏部屋、自分で設定した四角な家の最上階である。カーライルは「此天に近き一室」を書斎として、思索と著述に耽った。夏に窓を開け放つと、街路の物音、近所合壁の騒音が喧しいので、彼は約二百ポンド(当時二千円)の大金を投じてこの書斎を作り、窓ごしに天を仰ぎ、路上を見降していたという(「カーライル博物館」)。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


つづく

2024年12月18日水曜日

鎌倉の紅葉 妙本寺(祖師堂左側、鐘楼辺り)が見頃 2024-12-18

12月18日(水)はれ

鎌倉では(多分)最も紅葉の遅い妙本寺。

今は、祖師堂左側、鐘楼周辺の紅葉が見頃。祖師堂左側はまだまだ。
ニ天門前のはもう少し赤みが欲しいかな。
巨木イチョウは元気に光彩を放っている。

今日は、結婚式前撮り組は2組。

▼ニ天門までの参道
左側の崖は、比企氏の館の城壁跡とのこと。
 


▼ニ天門


▼祖師堂左側




▼鐘楼辺り

▼本堂

大杉栄とその時代年表(348) 1901(明治34)年7月20日~31日 〈猛勉強する漱石〉 「余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。(中略)余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。」

 

Cassell's_Illustrated_History_Of_England

大杉栄とその時代年表(347) 1901(明治34)年7月20日 「七月二十日(土)、午前、 81 The Chase, Clapham Common, London S.W. の Miss Leale (リール嬢)方へ転居する。(ロンドンで第五回めの下宿)、、、帰国までの約一年半ほど、『文學論』準備のため、三階の自室に閉じこもる。この頃から明治三十五年の末まで、資料の収集・抜粋・読書・思索などに力を注ぐ。 Charing Cross (チャリング・クロス)の古本屋を覗くほか余り外出もしない。」 より続く

1901(明治34)年

7月20日(つづき)

「越したのは七月二十日であった。この家もスピンスター(糸紡ぎ女=老嬢)の典型ともいうべき姉妹が主人で、彼女らの老父にあたるのか、八十なかばの退役軍人大佐が同居していた。しかしこちらの姉妹は前の下宿の姉妹より上品で、フランス語も解した。

越した日の夜は、近くの広大なクラバム・ジャンクションを出入りする蒸気機関車の汽笛が耳についたというから、東京でいえば隅田川貨物駅近くの千住あたりの風情と思われる。下宿人中には日本人もいて、ひとりは東京美術学校教授の下村観山であった。

しかし漱石は、もはや日本人とつきあうこともなく、この引越しをきっかけにクレイグ先生宅に通うこともやめ、後世の英国人が古き良き時代として懐かしむエドワード七世の御世を、三階の自室にとじこもって読書にあけくれるのである。ベルリンから様子を見にきた芳賀矢一が、文部省に「夏目狂せり」と打電したほどの孤絶した集中ぶりは、翌年晩秋、帰国直前までの一年半近くもつづく

そんな漱石に、もはや子規をかえりみる余裕はない。子規への通信も途絶え、したがって「倫敦消息」もそれきりになった。」(関川夏央、前掲書)


〈猛勉強する漱石〉

・初心に比べて読んだ本の少なさに愕然とする


「擅まに読書に耽るの機会なかりしが故、有名にして人口に膾炙せる典籍も大方は名のみ聞きて、眼を通さゞるもの十中六七を占めたるを平常遺憾に思ひたれば、此機を利用して一冊も余計に読み終らんとの目的以外には何等の方針も立つる能はざりしなり。かくして一年余を経過したる後、余が読了せる書物の数を点検するに、吾が未だ読了せざる書物の数に比例して、其甚だ僅少なるに驚ろき、残る一年を挙げて、同じき意味に費やすの頗る迂闊なるを悟れり。」


・幼いころから親しんできた漢文でいう文学と、現在学んでいる英語でいう文学との違いに深く懊悩する。


「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。(中略)」

「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。(中略)」

「翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。」

「大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。(中略)余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。」(『文学論』)


・「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心」して膨大なノートを作る作業に没頭する


「余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。(中略)」

余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。(中略)」

余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。(中略)」

「留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。」(『文学論』)


7月21日

阿嘉貫主(内蒙古喇嘛教総統者)、入京。

7月21日

7月21日~22日 ロンドンの漱石


「七月二十一日(日)、暑さ甚だしい。午後、池田菊苗来る。夕食を共にし、十一時頃帰る。

七月二十二日(月)、鈴木禎次(大阪)・奥太一郎(熊本)・西田幾多郎(金沢)・蒲生栄(原紫川)(京都)・田中孝太郎から手紙来る。『時事新報』も届く。(誰から送られたか分らぬ)」(荒正人、前掲書)


「七月二十一日(日)

非常ニ暑シ。午後池田氏来ル。晩餐ヲ喫シ十一時帰ル」(漱石『日記』)


7月22日

タフ・ベイル社と鉄道従業員組合連合の訴訟問題。英上院は労働組合を法人としてその登録名で告訴することは可能と判断。よって、労働組合は法人として認可。ストライキによる損害は告訴の対象となり実質的なスト禁止。これが1つの要因となって、1906年に労働党結成。

7月23日

韓国、詔勅により米穀の輸出禁止、輸入税免除の公示。

8月8日、林権助駐韓公使抗議。

7月23日

7月23日~24日 ロンドンの漱石


「七月二十三日(火)、 Dr. Craig の許に行く。

七月二十四日(水)、""Cassell's Illustrated History of England"" Part 26 (London : Cassell & Co)と ""Cassell's Wild Birds"" Part 10 (London : Cassell & Co.)届く。」(荒正人、前掲書)


7月24日

清国、総理各国事務衙門を外務部と改称し、六部のうえに置く。

7月24日

中村草田男、誕生。

7月24日

デンマークで、初の左翼改革党内閣誕生。

7月25日

「幼稚園唱歌」発行。「鳩ぽっぽ」「お正月」など掲載。

7月25日

東京市、路上見せ物禁止。郡部では、1部を除き従前慣行の有る場所では認可。

7月25日

7月25日~26日 ロンドンの漱石


「七月二十五日(木)、大雨。雷鳴。

七月二十六日(金)、雨。午後四時(推定)、お茶の時、 Miss Leale (リール嬢)の甥の牧師夫婦来る。「郵船會杜へ聞き合ス、晩返事來ル」(「日記」)(何の聞合せか不明である)」(荒正人、前掲書)


7月26日

大杉栄(16)、遊泳演習終了。夏季休暇に入る(8月30日まで)。2年の成績は、訓育(実科)1晩、学科2晩、操行最下位。のち、新発田に帰省。この夏、佐渡を旅行する。

7月27日

幸徳秋水「社会の大罪」(「萬朝報」)。


「今の社会や、生れて悪心なく非行なく数十年間一日の如く、誠実に其の天職を尽して、以て社会の生産に寄与せる者と雖も一朝病に躍り或は老衰の境に至れば、忽ち飢餓に瀕せざる可からず、而して一方に於ては、賄賂を収めて富める者あり、賭博を為して楽しめる者有り、甚しきほ則ち詐欺盗賊を為して巧みに法律の目を潜り、栄耀栄華を尽せる者あり、財産なくして正直なる者は人の慈尊を受くるの外は、其の末路は必然の飢餓なるに反して、不正直なる者は之を成すこと巧なれば、往々幸福の生涯を送ることを得るは、走れ現在に放て争ふ可らざる事実」


7月27日

7月27日~30日 ロンドンの漱石


「七月二十七日(土)、雨。藤代禎輔(素人)・芳賀矢一(共に在ベルリン)から葉書来る。

七月二十八日(日)、 East Hill (イースト・ヒル)に行く。夜、下宿の老大佐(推定)の部屋を訪れる。日本は立派な国になること、日本の青年は礼譲あることをほめる。

七月二十九日(月)、『ホトトギス』(六月号(推定))、正岡子規編『春夏秋冬』の「春の部」(明治三十四年五月二十五日、ほととぎす発行所刊)届く。序は正岡子規が書く。山川信次郎から手紙来る。

七月三十日(火)、午後、 Dr. Craig の許に行く。帰途、池田菊苗を訪ねたが不在である。 ""Cassell's Illustrated History of England"" Part 27 (London : Cassell & Co.)届く。」(荒正人、前掲書)


7月27日 子規、秋田で医師をしている門人、石井露月の結婚・新築祝いに手紙を出す。その手紙に書き添えられた一節。


「小生一日一度位少量麻痺剤を呑む。それが唯一の楽に候」



7月29日 この日付けの漱石の日記


「ホトトギス春夏秋冬の春の部来る」


7月31日

列国連合軍、北京から撤退開始。


つづく


鎌倉の紅葉 紅葉名所獅子舞の紅葉まだまだ圧巻の見頃です 2024-12-17

 12月17日(火)はれ

鎌倉の紅葉名所と言えば何と言ってもここ、獅子舞ですね。

先週末くらいがピークかと思ってたんですが、うまく時間がとれず今日になってしまったんですが、なんのなんの圧倒的な紅葉でしたよ。今年は、やっぱり遅めの紅葉なんですね。昨年は12月14日に来ましたが、もっと落葉が進んでました。

このぶんだと、まだ当分の紅葉を楽しめそうです。

ただ、今年は足元の泥濘(ぬかるみ)に難儀しました。たまたまお会いした方に、聞いたところ今年の泥濘は異状とのことで、その方、先週も来られたとのことでしたが、同じような泥濘だったとのこと。











▼紅葉谷に分け入る手前の道



▼インスタグラム

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2024年12月17日火曜日

【兵庫県元局長プライバシー情報漏洩・不当公開拡散問題】 元県民局長の私的な情報を『前総務部長から見せられた』と県議2人が証言 斎藤知事は「漏えい等をしたことがないと確認している」とコメント(MBSニュース) / 元県民局長の私的情報「前総務部長から聞いた」 複数県議、兵庫県議会百条委に証言(神戸新聞) / 「前部長に見せられた」兵庫百条委に県議説明 告発者情報の漏洩疑惑(朝日)