2024年4月29日月曜日

大杉栄とその時代年表(115) 1894(明治27)年7月20日~25日 日本軍、王宮(景福宮)に侵入 第3次大院君執政(傀儡政権)樹立 大院君、大鳥公使に対し牙山の清国軍の撤退を依頼(日本は清国軍攻撃の口実を得る) 新聞論調は開戦一色 豊島沖海戦(布告なしの日清開戦)  

 

左;日本軍が朝鮮王宮(景福宮)に突入している様子   右;牙山での戦闘の様子

大杉栄とその時代年表(114) 1894(明治27)年7月20日~27日 一葉の隣家の銘酒屋「浦島」にいた小林愛(あい)が逃亡、一葉に保護を求める。一葉は救済に奔走する。 「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也(一葉の日記) より続く

1894(明治27)年

7月20日

朝鮮、老人亭での日韓会談不調を知り、袁世凱、漢城脱出。帰国。日清の対決が避けられないとの判断から「天津に帰って最大の実力者・李鴻章と善後策を講ずる」と言い残して帰国した。朝鮮政府首脳は、清国を頼りにしてきただけに困惑した。

7月20日

朝鮮政府に対して実質的最後通牒。

大鳥公使、朝鮮政府に「わが戦を決すべき最後の公文」を手交。清国軍撤兵要請指図、清国との全条約破棄指図など4項目を要求。48時間以内(22日迄)の回答迫る。22日の期限が延引したときは「自ら決意するところこれあり」と付け加える。

大鳥公使、大島旅団長に対して、前日の協議を一部変更し「王城の包囲、制圧作戦を優先する。従って牙山への進軍はしばらく見合すよう」申し入れる。

7月20日

清軍派兵。李鴻章、派兵の勅令受けて、諸軍に出発命令。平壌へ集中させる。

7月20日

大本営、京城の混成旅団長(大島義昌少将)に、清軍の増加ある場合は「主力を以て眼前の敵を撃滅すべし」と命じる。

7月21日

清国軍第1次牙山増援軍1,300、英国籍貨客船「愛仁」「飛鯨」に乗船し氷定河大沽港発。23日牙山着。忠清道清軍3,500余となる

7月21日

イギリス代理公使ページェット、外務省を訪問。日本の対清最終覚書に抗議。陸奥外相は拒絶。

7月22日

清国徳宗皇帝、日本の開戦意図を知り、27日に宣戦を決意。しかし、尚も李鴻章はイギリスの調停に期待、日本に密使を派遣して局面打開を熱望。総理衙門も李鴻章と同意見。天津の滝川駐在武官・荒川総領事はこの内情を逐一日本に報告。大本営は清国の避戦論を知悉

7月22日

19日に編制された連合艦隊、22日から23日にかけて佐世保港から朝鮮半島西岸海域に向けて出撃。

7月23日

朝鮮、甲午政変。

午前0時半、大鳥公使は大島旅団長に「計画開始」の電文を発す。午前3時、日本軍(漢城郊外竜山駐屯の歩兵第1連隊など)、城内進入し城門を固め、歩兵第21連隊(武田秀山連隊長)第2大隊中心の「核心部隊」(正規軍5中隊)が迎秋門(西門)を破り王宮(景福宮)に侵入、国王を捕え、王宮内の武器を押収、制圧・占領。王宮守備隊との交戦で戦死10余。大鳥公使も夜明けには王宮入り。警視庁警部萩原秀次郎・大陸浪人岡本柳之助、大院君連出す。

国王高宗、大院君に対し、国政と改革のすべてを委任することを告げ、これらについてはすべて大鳥公使と協議を行うことを要請(第3次大院君執政)。傀儡政権樹立。閔氏一族処分:閔泳駿・閔応植・閔致憲など「虐民負国」の罪名で遠隔地に入る。閔妃は処分できず(混乱を嫌う大鳥・杉村の庇護)。

午前6時半、大鳥公使は外務大臣陸奥に電報を打つ。

「朝鮮政府の回答不満足につき王宮包囲の処置をとるにいたる。23日の早朝、此の手段を施し朝鮮兵は日本兵に向かって発砲し双方互に砲撃せり」

午前8時、漢城の混成第9旅団長大島義昌少将、王宮占領第一報を参謀総長に送る。

午後、日本軍は親軍統衛営を攻撃、抵抗する朝鮮軍に死傷をあたえたうえ武装解除。クルップ野砲・機関砲20門、小銃3千挺を押収。

大院君は日本側の説得には応じなかった。杉村書記官は大院君に直接面会を求めた。大院君は「日本政府は朝鮮の領土を奪わないと約束できるか」と問うと、杉村は「決して朝鮮の領土を割くようなことは致しません」と書いて署名。大院君は日本側の要求をのむことになった。

大院君は大鳥公使を引見し、「これから国政を総裁せよ、との勅命を国王から受けた」と告げ内政改革は大鳥と相談して進めると約束した。その後、国政総裁の大院君は大鳥公使に対し、清国・朝鮮宗属関係の破棄を宣言し、牙山の清国軍の撤退を依頼した。日本軍は清国軍攻撃の「口実」ができたことになる。

列強の疑惑と国民の反感を恐れる傀儡政府は撤兵を求めるが、日本軍は王宮占拠を継続、日本公使館発行の門標携帯者以外は王宮出入を許可せず。また、ソウル市街全域から朝鮮国軍を一掃し「一人ノ韓兵モナキ姿」とする。大鳥公使は「朝鮮国兵権並ニ警察権ノ消滅」と「秩序」破壊を報告、以後当分の間、朝鮮を「我保護ノ下ニ置キ万事扶持スル」決意を上申。陸奥外相も、日本の行動は「事実上、一国ノ独立ヲ侵犯」していると認める。

これは出先軍隊が本国の意息に反して暴走という事件ではなく、軍隊出動は、陸奥外相から「自ラ正当卜認ムル手段ヲ執ラルべシ」との訓令をうけた大鳥公使が指導し、回答期限をきり、期限に遅れた時は「本公使自力ヲ決意スル所可有之」と、最後通牒の形式をふんだ要求をつきつけ、期限を過ぎて王宮を占拠。政府は大鳥公使の政策を追認し、王宮占拠の日本軍撤兵を交換条件に、朝鮮の植民地化を促進する各種利権要求を折り込んだ暫定合同条款締結を強要。

杉村濬書記官は、「我ニ反対ナル閔党政府ヲ仆シテ大院君ニ政権ヲ掌握セシメ、同政府ヲ我身方ニ引キ付ケ、思フ儘ニ我ガ見込ノ改革ヲ行ハシメントノ希望」から王宮占拠を行ったと証言。

7月23日

清国軍第2次牙山増援軍1,400、英国籍貨客船「高陞」に搭乗し大沽発。清国砲艦「操江」が護衛。

7月23日

午前11時、日本連合艦隊第1次遊撃艦隊(坪井航三少将)「吉野」「秋津洲」「浪速」、佐世保発し群山沖に向う。続いて第2遊撃隊(相浦紀道少将)「葛城」「天竜」「高雄」「大和」、本隊(伊東祐亨中将)「松島」「千代田」「高千穂」「橋立」「厳島」も出航。

7月23日

イギリス代理公使ページェット、日清開戦の場合の上海中立を提議。伊藤首相・陸奥外相、日清密約なしを確認し安堵。

7月23日

「国民新聞」、「好機失い易くして得がたし、今や我国は清国と開戦するの最高機に際す」と指摘。

24日、「時事新報」も、「今日に至りて押問答は無益なり、一刻も猶予せず、断然支那を敵として我より戦を開くにしかざるなり」、朝鮮政府の「無礼」を中止させるため「弾丸硝薬に勝るものあるべからずと朝鮮の武力制圧を主張。新聞論調は開戦一色となる。

7月23日

この日、東学農民軍討伐隊となる後備第19大隊の兵士が召集令状を受け取る。

7月23日

『日本』7月23日、「東学再興」を報じる。「●京城特信(十五日発) (山に晃) 南子報」

「東学党再興は,これまで噂されてきたが,「昨日始めて全羅道淳昌の郡守より東学党再興の警報を韓廷に伝へ来りたる由」と地方官から政府への報告だから確実だと断定した。

7月24日

清の増援部隊1,300人が牙山に上陸、葉志超提督(中将に相当)率いる牙山県と全州の清軍は、3,880人となった。

7月24日

第1遊撃隊「吉野」「浪速」「秋津洲」、牙山湾偵察

7月25日

日清戦争開始。豊島沖海戦。

清国第2次増援隊「高陞」「操江」を出迎えに出動した軍艦「済遠」「広乙」、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三海軍少将)「吉野」「秋津洲」「浪速(東郷平八郎大佐48)」と遭遇戦。午前7時52分、まず「済遠」が発砲し「吉野」の前方に落下。日本艦の砲撃優勢。清艦「広乙」座礁し自爆。

午前10時過ぎ、「浪速」(艦長東郷)は「高陞」に停船命じる。一旦、イギリス人船長が応じるが、清国将兵が船長を拘留し拿捕を拒否。数時間に及ぶ交渉が決裂したため、東郷は、拿捕を断念してこれを撃沈(高陞号事件)、溺死1千余(午後1時46分)。艦長東郷はイギリス人船員のみ救助させる。

「操江」は拿捕。「済遠」逃亡。イギリス籍艦船撃沈に、イギリス政府の抗議とイギリス世論沸騰。陸奥外相は、イギリス政府の出方によってはイギリスへの軍艦発注が減る、また、日本がロシアの南下を防止しているという論法でイギリス政府を説得。イギリス政府は、オックスフォード大学の国際法の権威に「浪速」の行為は戦時国際法に触れずとの論文をロンドンタイムズに掲載し、世論沈静化を図る。

陸奥外交:

28日「高陞」を撃沈を聞いた陸奥は、イギリスの抗議を予想して日本軍の増派中止を提案。陸奥外交の基本は、英露対立の構図の中でイギリスの庇護のもとで朝鮮政策を進めることを基本としている。今回は、伊藤首相が陸奥の提案を押さえた。

開戦にあたり、大本営は3つの作戦方針をたてる。①海戦に勝利し制海権を掌握した場合、陸軍は北京に突入。②海戦の勝敗未決の場合、朝鮮を維持。③大敗して制海権を失った場合、大陸から引揚げる。

伊藤首相が予測する当面する最大の問題は、清国との戦闘よりもとうからず発生する列強の合同武力干渉への対応である。その為に必要なことは、①「速ニ清国ニ向テ一大捷利ヲ博シ、何時ニテモ敵国ニ対シテ我要求ヲ提出スルノ地位ヲ占メ」ること、②「単ニ軍事一片ノミヲ是レ事トセズ、機ヲ見テ進止シ、以テ国家ヲ危地二陥ルルガ如キコト之ナキ様、終始外交関係ヲ慎重ニスルコト」、である。速やかな艦隊決戦による早期の戦果獲得と、政戦両略の一致を求めるが、豊島沖海戦の後、清国は艦隊保全主義をとり、艦隊決戦はなく早期の戦果確保はできない。


つづく

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