帝国大学時代の漱石(1892年12月)
大杉栄とその時代年表(85) 1893(明治26)年6月22日~7月 一葉(21)、糊口的文学に見切りをつけ、就業を決意 「是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや。」(「につ記」) より続く
1893(明治26)年
7月
落合直文・鮎貝槐園・与謝野鉄幹(20)の合著「騎馬旅行」刊行。
7月
田口卯吉、北海道を視察。函館~小樽を駅馬で旅行。函樽鉄道を提案。
7月
陸奥外相、新たな条約改正案を閣議に提出し諒承を得る。
完全な対等条約を調印し、それを5年後に実施するというもの。「締結後五年間は、改正条約の存在せざるも同様」で、相手国から4年後に商議すれば十分ではないかとの反論を受ける恐れもある。にも拘わらず、陸奥案が採用された理由は、「政略上当時の形勢を思量し、対等の名に重きを措きたる」(実より名を取る)ため。
①国内政略上の要請。「国民ノ意向ヲ帰一スル」ため、「責メテハ一種ノ開国主義着流ニ就テハ其賛同ヲ得ムコトヲ望マザルヲ得ズ」、「是レ政府ガ最早対等条約ヲ以テ各国政府卜閑談スルノ外他策ナシト決定」。陸奥は、開国主義者流の賛同を得る為、自由党与党化の努力を強化し、動揺する自由党員買収に着手。
②日本が清国との戦争を開始する為には対等条約調印により「亜細亜州中ニアリナガヲ、欧米各国ヨリ一種特別ナル待遇ヲ受ケ」る必要があり、それが切迫している。治外法権を許容している限り、欧米諸国は日本を対等の「文明」国仲間と認めず、戦時には中立法規・交戦法規の厳密適用を拒否でき、日本の安全にとって重大な危険をもたらす恐れがある。対等条約を締結し「欧州諸邦卜伍伴」する地位を確保しない限り、予告なく武力干渉を加えられる可能性があり、条約改正は領事裁判権回収のみでなく、安全保障問題でもある。
陸奥外相が直面する矛盾。
①秘密外交主義の為に議会が外交を統制する権能を持たず、議会で外交に関する意志形成ができず、議会と国民を政府の外交政策の方向に誘導する事が困難。
②政府の超然主義の為、内閣が議会内に直接の支持勢力を持たない。陸奥は青木公使宛書簡(94年3月27日付)で、「政府ハ所謂超然主義ナルヲ以テ、議院中又タ一個ノ味方無之故、欧州流ノ『パァレメンタールポリツィク』ハ到底可被行見込モ無之」と欺き、「俗ニ謂フ強硬手段卜申事モ、唯憲法上ノ皇権ニ依藉シ、議会ヲ解散スルコト位」であり、政府は議会の反対に対し、単に「其時ノ形勢次第ニ任スルノ外、手段ノ施スべキ様ハ無之」と、超然主義が政府の桎梏となっていると指摘。
7月
ローザ・ルクセンブルク、パリにおけるポーランド社会民主党機関紙「労働者問題」創刊に参加。
7月
高野房太郎(24)、シカゴ万博の日本商品即売所で働きながら博覧会見学
7月1日
獅子文六(岩田豊雄)、横浜弁天通に誕生。父は絹物貿易商。
7月1日
漱石、子規宅を訪問。
子規「孑孑〔ぼうふら〕の蚊になる頃や何學士」(『獺祭書屋日記』)
7月1日
一葉の母たきが鍛冶町の遠銀(石川銀次郎)から古い貸金15円を回収してくる。来訪した芦沢芳太郎に、商売を始めるので山梨の実家から50円借りてくれるよう頼む。芳太郎に小遣い20銭渡したので、預り金は2円20銭になる。
7月3日
「国民之友」(徳富蘇峰)、朝鮮の併呑を主張、そのためロシア、清、イギリスと戦わねばならぬが、まず経済上の関係を厚くすることが先決で「三菱にむかってその巨腕を鴨緑江頭にのばさんことを慫慂(勧める)」。
7月3日
暑さが昨日は96度(摂氏約35度)、今日は95度。一葉、芳太郎に小遣い35銭渡す。
7月4日
一葉の母たき、小林好愛(父の元上司、明治29年万世生命保険会社社長)に借金の相談。既に借金があるので、父の遺品(書画骨董、売れば20円ほどか)を預ける意向で取り次いでもらう。翌日、小林より断りの返事が来る。
7月5日
時事問題。奈良の旱魃、横浜の外国為替相場で銀価格の乱高下。正金銀行だけが利益を得る。教育と宗教(明治25年、帝大教授井上哲次郎がキリスト教を教育勅語の精神に反すると攻撃、高橋五郎・植村正久らキリスト教側から反論)。密漁船、中国、朝鮮、イギリスとの国際関係。
この日の一葉の日記。商売への道が桃水との別離を決定的にすることへの不安。
「恋は、見ても聞いてもふと忍び初ぬるはじめ、いと浅し。いはで思ふ、いと浅し。これよりもおもひ、かれよりもおもはれぬる、いと浅し。これを大方のよには恋の成就とやいふらん。逢そめてうたがふ、いと浅し。わすれられてうらむ、いと浅し。逢はんことは願はねど、相おもはん事を願ふ、いと浅し。相おもはんも願はず、言出んも願はず、一人こころにこめて一人たのしむ、いと浅し。・・・」
(では深い恋とは?)
「まこと入立ぬる恋の奥に何ものかあるべき。もしありといはゞ、みぐるしく、にくゝ、うく、つらく、浅ましく、かなしく、さびしく、恨めしく、取あつめていはんには、厭はしきものよりほかあらんとも覚えず。あはれ其厭ふ恋こそ恋の奥成けれ。厭はしとて捨られなば、厭ふにたらず。いとふ心のふかきほど、恋しさも又ふかかるべし。いまだ恋といふ名の残りぬる恋は浅し。人をも忘れ、我をも忘れ、うさも恋しさもわすれぬる後に、猶何物ともしれず残りたるこそ、此世のほかの此世成らめ。・・・」(「につ記」明治26年7月5日)
7月7日
森鴎外(31)、陸軍軍医学校長心得となる。
7月7日
この日の一葉の日記。転居費用や商売の元手資金のために、萩の舎に出入りするのに必要な絹の着物を売ることにする。萩の舎と訣別し、市井の塵にまみれて生きていく覚悟。
「万憂をすてゝ市井のちりにまじらはむとおもひたちける身に、花紅葉何のうるはしき衣かきるべき。よしこれにて十金也とも十五金也とも得しほどをもて、もと手とせむ」(「につ記」明治26年7月7日)
7月10日
漱石、帝国大学文科大学英文科を卒業し、帝国大学大学院に進学する。この頃、帝国大学の寄宿舎に入る。
「夏日金之助が、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業したのは、明治二十六年七月である。立花銑三郎につづいて英文学専攻の二人目の文学士であった。彼はひきつづいて大学院に籍を置いた。彼がそのころ馬場下の夏目家を出て大学の寄宿舎に移ったのは、多分卒業と同時に文部省の給費をとめられて金がなくなったからである。彼はもとより一カ月でも父の小兵衛直克の厄介になるのをいさぎよしとしなかった。逆に小兵衛直克は、金之助が就職して月々少くとも十円の金を家に入れることを期待していた。」(江藤淳『漱石とその時代1』)
「七月十日(月)、午前九時から、帝国大学文科大学卒業証書授与式行われ、英文学科第二回生(明治二十五年には、卒業者はいない)として卒業する。(卒業論文はない)卒業生は一人しかいない。英文学専攻の学生として、立花政樹についで二人めである。帝国大学大学院に入る。(神田乃武(ないぶ)の指導を受ける。(九月十二日(火)から)A.Wood(ウード)から指導を受ける。「英国小説一般」と考えて、十八世紀のイギリス小説を読む。英文学への自信はうすれていたけれども、創作で立つことに考えもまとまってない。大学院で小屋(大塚)保治と親しくつき合う。(米山保三郎も大学院に入る。))
(中村是公、帝国大学法科大学法律学科(参考科第一部)卒業する。文科は十五名卒業する。松本文三郎・松本亦太郎・米山保三郎、松平円次郎、渡辺又次郎、哲学科。菊地寿人、国文科。菊池謙二郎・幣原坦、中山再次郎、国史科。斎藤阿具、長谷川貞一郎、本多浅治郎、中沢澄男、史学科。横山正誠、博言学科。)」
この年の夏頃から狩野亨吉との交際が始まる。
狩野亨吉(1865~1942):
漱石より2歳年長、東大数学科を明治21年、哲学科を明治24年に卒業、この頃は大学院生。「数論派哲学大意」「志筑忠雄の星気説」などを発表。のち、四高教授、漱石に要請されて熊本五高教授(教頭)、第一高等学校校長、京都帝国大学初代文科大学長。
ロンドンより帰国の漱石を一高によび、京大にも要請。
国家社会主義の立場に立つ本多利明(1743~1820)、封建制批判の思想家安藤昌益(1703~62)らの事歴の発見者、紹介者。
教職員人事に関する文部当局の干渉に抗して京大を辞職し、以後官途につくことを拒絶、古物商を生業とする。
大正2年48歳の時、皇太子(後の昭和天皇)の輔導掛の仕事が東宮大夫浜尾新(もと東大総長)、勅選貴族議員山川健次郎らによってもたらされるが、「危険思想の持ち主だから」と固辞。
漱石の葬儀では友人総代となり、弔詞は読む。初期の岩波『漱石全集』の編集者の一人で、岩波茂雄に頼まれ表題揮毫をしている。
漱石にとって狩野字書の思想的感化は、正岡子規の文学的感化とともに計り知れないものがある。
漱石が朝日新聞社に入社する直前、京大(学長)の狩野を頼って京都に遊んだ際、漱石は教え子野上豊一郎(のち法政大総長)への手紙の中で、狩野亨吉について次のように書いている。
「・・・世の中はみな博士とか教授とかを左も難有きものゝ様に申し居候。小生にも教授になれと申候。教授になって席末に列するの名誉なるは言ふ迄もなく候。教授は皆エラキ男のみと存候。然しエラカラざる僕の如きは殆ど彼らの末席にさへ列るの資格なかるべきかと存じ、思い切って野に下り候。・・・
京へは参り候。・・・京都には狩野といふ友人有之候。あれは学長なれども学長や教授や博士杯よりも種類の達ふたエライ人に候。あの人に逢ふために候。わざわざ京へ参り候。・・・、」
7月10日
一葉、萩の舎の会に来て行くために残しておいた絹や縮緬の着物を売った代金で、夜、伊勢屋の質草を受けだし、改めてそれを売ることにする。
7月10日
一葉の兄虎之助が来訪、商売の計画について話すと、〈もとから自分の考えにそまない生活をしているので、自分には関係ないが、商売はそんなにたやすいものではない。志が途中で折れたとき、頭を下げに来れば助けてもやるが、それまでは自由にすればよい〉と至極冷淡な反応。
7月12日
一葉、親との関係に悩む。
親に逆らったつもりはないが、世を渡る才能がないゆえに、どんどん家が貧しくなり、母から小言を言われる自分の身を波に弄ばれる舟に喩える。「一葉」の号の意味はここにあったか。シベリア横断の福島中佐を思い、前をむく決意をする。
「十八といふとし、父におくれけるより、なぎさの小舟波にただよひ初て、覚束なきよをうみ渡ること四とせ余りに成ぬ。いたりがたき心のはかなさは、なべての世の中道を経がたくして、やうやう大方の人にことなりゆく。もとより我が才たらず、思ふことあさからむをば恥おもヘど、こころにはかりにも親はらからの言の葉にたがひ、我がたてたる筋のみを通さんなど、きしろひたる事もなきを、いかにぞや、家賃にものたらず成ゆくままに、此処にかしこにむづかしき論出来て、ただ我ままなるよをふるとて、斯く母などをもくるしめ、兄のたすけにもならざらんが如(コト)いひはやすよ。いでよしや大方の世はとて笑ふて答へざるものから、だれはおきて日夕あひかしづく母の、「あな侘びし。今五年さきにうせなば、父君おはしますほどにうせなば、かかる憂きよも見ざらましを、我一人残りとどまりたるこそ、かへすがへしロをしけれ。子は我が詞を用ひず、世の人はただ我れをぞ笑ひ指すめる。邦も夏もおだやかにすなおに、我がやらむといふ処、虎の助がやらむといふ処にだにしたがはば、何条ことかはあらむ。いかに心をつくしたりとて身を尽したりとて、甲斐なき女子の何事をかなし得らるべき。あないやいや、かかる世を見るも否也」とて朝夕にぞの給ふめる。」
「おもふ事おもふに違ひ、世と時と我にひとしからず。孝ならむとする身はかへりて不孝に成行く。げにかゝるこそ浮よ成けれと、昨日今日ぞやうやうおもひしらるゝ」(同、7・12)。
つづく