2024年3月31日日曜日

能登、倒れた家は被災直後のまま 進まぬ復旧「涙が出る」(共同) / 「生活のメド立ってないのに」年度替わりで支援終了なんて…能登半島地震3カ月、相次ぐ避難所の閉鎖に困惑の声(東京)

 

1面に「空白」、釈放要求 ロシアの記者拘束1年 米紙WSJ(時事) ;「米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は29日、ロシアで同紙の米国人記者エバン・ゲルシコビッチ氏の拘束が発表されて30日で1年となるのに合わせ、1面トップを空白にして発行した。」   

大杉栄とその時代年表(86) 1893(明治26)年7月1日~12日 「国民之友」(徳富蘇峰)、朝鮮併呑を主張 一葉、萩の舎の会に参加するための着物を売却して手元資金に充てる 漱石、帝国大学文科大学英文科を卒業、帝国大学大学院に進学 狩野亨吉との交際が始まる  

 

帝国大学時代の漱石(1892年12月)

大杉栄とその時代年表(85) 1893(明治26)年6月22日~7月 一葉(21)、糊口的文学に見切りをつけ、就業を決意 「是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや。」(「につ記」) より続く

1893(明治26)年

7月

落合直文・鮎貝槐園・与謝野鉄幹(20)の合著「騎馬旅行」刊行。

7月

田口卯吉、北海道を視察。函館~小樽を駅馬で旅行。函樽鉄道を提案。

7月

陸奥外相、新たな条約改正案を閣議に提出し諒承を得る。

完全な対等条約を調印し、それを5年後に実施するというもの。「締結後五年間は、改正条約の存在せざるも同様」で、相手国から4年後に商議すれば十分ではないかとの反論を受ける恐れもある。にも拘わらず、陸奥案が採用された理由は、「政略上当時の形勢を思量し、対等の名に重きを措きたる」(実より名を取る)ため。

①国内政略上の要請。「国民ノ意向ヲ帰一スル」ため、「責メテハ一種ノ開国主義着流ニ就テハ其賛同ヲ得ムコトヲ望マザルヲ得ズ」、「是レ政府ガ最早対等条約ヲ以テ各国政府卜閑談スルノ外他策ナシト決定」。陸奥は、開国主義者流の賛同を得る為、自由党与党化の努力を強化し、動揺する自由党員買収に着手。

②日本が清国との戦争を開始する為には対等条約調印により「亜細亜州中ニアリナガヲ、欧米各国ヨリ一種特別ナル待遇ヲ受ケ」る必要があり、それが切迫している。治外法権を許容している限り、欧米諸国は日本を対等の「文明」国仲間と認めず、戦時には中立法規・交戦法規の厳密適用を拒否でき、日本の安全にとって重大な危険をもたらす恐れがある。対等条約を締結し「欧州諸邦卜伍伴」する地位を確保しない限り、予告なく武力干渉を加えられる可能性があり、条約改正は領事裁判権回収のみでなく、安全保障問題でもある。

陸奥外相が直面する矛盾。

①秘密外交主義の為に議会が外交を統制する権能を持たず、議会で外交に関する意志形成ができず、議会と国民を政府の外交政策の方向に誘導する事が困難。

②政府の超然主義の為、内閣が議会内に直接の支持勢力を持たない。陸奥は青木公使宛書簡(94年3月27日付)で、「政府ハ所謂超然主義ナルヲ以テ、議院中又タ一個ノ味方無之故、欧州流ノ『パァレメンタールポリツィク』ハ到底可被行見込モ無之」と欺き、「俗ニ謂フ強硬手段卜申事モ、唯憲法上ノ皇権ニ依藉シ、議会ヲ解散スルコト位」であり、政府は議会の反対に対し、単に「其時ノ形勢次第ニ任スルノ外、手段ノ施スべキ様ハ無之」と、超然主義が政府の桎梏となっていると指摘。

7月

ローザ・ルクセンブルク、パリにおけるポーランド社会民主党機関紙「労働者問題」創刊に参加。

7月

高野房太郎(24)、シカゴ万博の日本商品即売所で働きながら博覧会見学

7月1日

獅子文六(岩田豊雄)、横浜弁天通に誕生。父は絹物貿易商。

7月1日

漱石、子規宅を訪問。

子規「孑孑〔ぼうふら〕の蚊になる頃や何學士」(『獺祭書屋日記』)

7月1日

一葉の母たきが鍛冶町の遠銀(石川銀次郎)から古い貸金15円を回収してくる。来訪した芦沢芳太郎に、商売を始めるので山梨の実家から50円借りてくれるよう頼む。芳太郎に小遣い20銭渡したので、預り金は2円20銭になる。

7月3日

「国民之友」(徳富蘇峰)、朝鮮の併呑を主張、そのためロシア、清、イギリスと戦わねばならぬが、まず経済上の関係を厚くすることが先決で「三菱にむかってその巨腕を鴨緑江頭にのばさんことを慫慂(勧める)」。

7月3日

暑さが昨日は96度(摂氏約35度)、今日は95度。一葉、芳太郎に小遣い35銭渡す。

7月4日

一葉の母たき、小林好愛(父の元上司、明治29年万世生命保険会社社長)に借金の相談。既に借金があるので、父の遺品(書画骨董、売れば20円ほどか)を預ける意向で取り次いでもらう。翌日、小林より断りの返事が来る。

7月5日

時事問題。奈良の旱魃、横浜の外国為替相場で銀価格の乱高下。正金銀行だけが利益を得る。教育と宗教(明治25年、帝大教授井上哲次郎がキリスト教を教育勅語の精神に反すると攻撃、高橋五郎・植村正久らキリスト教側から反論)。密漁船、中国、朝鮮、イギリスとの国際関係。

この日の一葉の日記。商売への道が桃水との別離を決定的にすることへの不安。

「恋は、見ても聞いてもふと忍び初ぬるはじめ、いと浅し。いはで思ふ、いと浅し。これよりもおもひ、かれよりもおもはれぬる、いと浅し。これを大方のよには恋の成就とやいふらん。逢そめてうたがふ、いと浅し。わすれられてうらむ、いと浅し。逢はんことは願はねど、相おもはん事を願ふ、いと浅し。相おもはんも願はず、言出んも願はず、一人こころにこめて一人たのしむ、いと浅し。・・・」

(では深い恋とは?)

「まこと入立ぬる恋の奥に何ものかあるべき。もしありといはゞ、みぐるしく、にくゝ、うく、つらく、浅ましく、かなしく、さびしく、恨めしく、取あつめていはんには、厭はしきものよりほかあらんとも覚えず。あはれ其厭ふ恋こそ恋の奥成けれ。厭はしとて捨られなば、厭ふにたらず。いとふ心のふかきほど、恋しさも又ふかかるべし。いまだ恋といふ名の残りぬる恋は浅し。人をも忘れ、我をも忘れ、うさも恋しさもわすれぬる後に、猶何物ともしれず残りたるこそ、此世のほかの此世成らめ。・・・」(「につ記」明治26年7月5日)

7月7日

森鴎外(31)、陸軍軍医学校長心得となる。

7月7日

この日の一葉の日記。転居費用や商売の元手資金のために、萩の舎に出入りするのに必要な絹の着物を売ることにする。萩の舎と訣別し、市井の塵にまみれて生きていく覚悟。

「万憂をすてゝ市井のちりにまじらはむとおもひたちける身に、花紅葉何のうるはしき衣かきるべき。よしこれにて十金也とも十五金也とも得しほどをもて、もと手とせむ」(「につ記」明治26年7月7日)

7月10日

漱石、帝国大学文科大学英文科を卒業し、帝国大学大学院に進学する。この頃、帝国大学の寄宿舎に入る。


「夏日金之助が、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業したのは、明治二十六年七月である。立花銑三郎につづいて英文学専攻の二人目の文学士であった。彼はひきつづいて大学院に籍を置いた。彼がそのころ馬場下の夏目家を出て大学の寄宿舎に移ったのは、多分卒業と同時に文部省の給費をとめられて金がなくなったからである。彼はもとより一カ月でも父の小兵衛直克の厄介になるのをいさぎよしとしなかった。逆に小兵衛直克は、金之助が就職して月々少くとも十円の金を家に入れることを期待していた。(江藤淳『漱石とその時代1』)

「七月十日(月)、午前九時から、帝国大学文科大学卒業証書授与式行われ、英文学科第二回生(明治二十五年には、卒業者はいない)として卒業する。(卒業論文はない)卒業生は一人しかいない。英文学専攻の学生として、立花政樹についで二人めである。帝国大学大学院に入る。(神田乃武(ないぶ)の指導を受ける。(九月十二日(火)から)A.Wood(ウード)から指導を受ける。「英国小説一般」と考えて、十八世紀のイギリス小説を読む。英文学への自信はうすれていたけれども、創作で立つことに考えもまとまってない。大学院で小屋(大塚)保治と親しくつき合う。(米山保三郎も大学院に入る。))

(中村是公、帝国大学法科大学法律学科(参考科第一部)卒業する。文科は十五名卒業する。松本文三郎・松本亦太郎・米山保三郎、松平円次郎、渡辺又次郎、哲学科。菊地寿人、国文科。菊池謙二郎・幣原坦、中山再次郎、国史科。斎藤阿具、長谷川貞一郎、本多浅治郎、中沢澄男、史学科。横山正誠、博言学科。)」

この年の夏頃から狩野亨吉との交際が始まる。

狩野亨吉(1865~1942):

漱石より2歳年長、東大数学科を明治21年、哲学科を明治24年に卒業、この頃は大学院生。「数論派哲学大意」「志筑忠雄の星気説」などを発表。のち、四高教授、漱石に要請されて熊本五高教授(教頭)、第一高等学校校長、京都帝国大学初代文科大学長。

ロンドンより帰国の漱石を一高によび、京大にも要請。

国家社会主義の立場に立つ本多利明(1743~1820)、封建制批判の思想家安藤昌益(1703~62)らの事歴の発見者、紹介者。

教職員人事に関する文部当局の干渉に抗して京大を辞職し、以後官途につくことを拒絶、古物商を生業とする。

大正2年48歳の時、皇太子(後の昭和天皇)の輔導掛の仕事が東宮大夫浜尾新(もと東大総長)、勅選貴族議員山川健次郎らによってもたらされるが、「危険思想の持ち主だから」と固辞。

漱石の葬儀では友人総代となり、弔詞は読む。初期の岩波『漱石全集』の編集者の一人で、岩波茂雄に頼まれ表題揮毫をしている。

漱石にとって狩野字書の思想的感化は、正岡子規の文学的感化とともに計り知れないものがある。

漱石が朝日新聞社に入社する直前、京大(学長)の狩野を頼って京都に遊んだ際、漱石は教え子野上豊一郎(のち法政大総長)への手紙の中で、狩野亨吉について次のように書いている。

「・・・世の中はみな博士とか教授とかを左も難有きものゝ様に申し居候。小生にも教授になれと申候。教授になって席末に列するの名誉なるは言ふ迄もなく候。教授は皆エラキ男のみと存候。然しエラカラざる僕の如きは殆ど彼らの末席にさへ列るの資格なかるべきかと存じ、思い切って野に下り候。・・・

京へは参り候。・・・京都には狩野といふ友人有之候。あれは学長なれども学長や教授や博士杯よりも種類の達ふたエライ人に候。あの人に逢ふために候。わざわざ京へ参り候。・・・、」  

7月10日

一葉、萩の舎の会に来て行くために残しておいた絹や縮緬の着物を売った代金で、夜、伊勢屋の質草を受けだし、改めてそれを売ることにする。

7月10日

一葉の兄虎之助が来訪、商売の計画について話すと、〈もとから自分の考えにそまない生活をしているので、自分には関係ないが、商売はそんなにたやすいものではない。志が途中で折れたとき、頭を下げに来れば助けてもやるが、それまでは自由にすればよい〉と至極冷淡な反応。

7月12日

一葉、親との関係に悩む。

親に逆らったつもりはないが、世を渡る才能がないゆえに、どんどん家が貧しくなり、母から小言を言われる自分の身を波に弄ばれる舟に喩える。「一葉」の号の意味はここにあったか。シベリア横断の福島中佐を思い、前をむく決意をする。


「十八といふとし、父におくれけるより、なぎさの小舟波にただよひ初て、覚束なきよをうみ渡ること四とせ余りに成ぬ。いたりがたき心のはかなさは、なべての世の中道を経がたくして、やうやう大方の人にことなりゆく。もとより我が才たらず、思ふことあさからむをば恥おもヘど、こころにはかりにも親はらからの言の葉にたがひ、我がたてたる筋のみを通さんなど、きしろひたる事もなきを、いかにぞや、家賃にものたらず成ゆくままに、此処にかしこにむづかしき論出来て、ただ我ままなるよをふるとて、斯く母などをもくるしめ、兄のたすけにもならざらんが如(コト)いひはやすよ。いでよしや大方の世はとて笑ふて答へざるものから、だれはおきて日夕あひかしづく母の、「あな侘びし。今五年さきにうせなば、父君おはしますほどにうせなば、かかる憂きよも見ざらましを、我一人残りとどまりたるこそ、かへすがへしロをしけれ。子は我が詞を用ひず、世の人はただ我れをぞ笑ひ指すめる。邦も夏もおだやかにすなおに、我がやらむといふ処、虎の助がやらむといふ処にだにしたがはば、何条ことかはあらむ。いかに心をつくしたりとて身を尽したりとて、甲斐なき女子の何事をかなし得らるべき。あないやいや、かかる世を見るも否也」とて朝夕にぞの給ふめる。」


「おもふ事おもふに違ひ、世と時と我にひとしからず。孝ならむとする身はかへりて不孝に成行く。げにかゝるこそ浮よ成けれと、昨日今日ぞやうやうおもひしらるゝ」(同、7・12)。


つづく



2024年3月30日土曜日

【国会舐めるんじゃないですよ】 辻元清美議員「世耕さんが政倫審で、虚偽答弁をしたという事になりかねない。何の為の政倫審かと。総理ね『言えない、言えない、言えない、中身は言えない』その聴き取りの調査はいつ出すのか」 岸田首相「党の判断」 辻元議員「国会舐めるんじゃない」

 



 

鎌倉桜散歩 本覚寺の枝垂桜(五分咲き) 妙本寺 新緑に包まれる境内 染井吉野はちらほら咲き 海棠満開 シャガ 大巧寺 椿(花大臣) ボケ(東洋錦) リキュウバイ満開 自宅近くの横浜緋桜 染井吉野 2024-03-30 

3月30日(土)はれ

染井吉野はまだほんの咲き始めなので、狙いを本覚寺の枝垂桜にして鎌倉へ。

、、、が、ちょっと期待外れ。本覚寺の枝垂桜は五分咲きくらいでしょうか(独断ですが)。まだ初期段階なので、花の元気さや瑞々しさは伝わってくるけど、もう少しボリュームが欲しいところ。でも、この暖かさなので、あと2~3日で満開かも。

次いで、妙本寺へ。予め知っていたけど海棠が既に満開、丁度ピークくらいに思える。もちろん、染井吉野はちらほら咲きだけれど、モミジの新緑に包まれた境内は鮮やかな緑が匂い立つほどだった。

次に大巧寺へ。ここはリキュウバイが満開。各種椿も開花中。

▼本覚寺の枝垂桜






▼妙本寺


▼満開の海棠


▼シャガ

▼大巧寺
▼椿(花大臣)

▼ボケ(東洋錦)

▼リキュウバイ

▼自宅近くの公園や路傍にて
▼横浜緋桜


▼あちこちの染井吉野




大杉栄とその時代年表(85) 1893(明治26)年6月22日~7月 一葉(21)、糊口的文学に見切りをつけ、就業を決意 「是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや。」(「につ記」)

 


大杉栄とその時代年表(84) 1893(明治26)年5月23日~6月21日 徳富蘇峰の条約励行論 子規の瘧(おこり)発病 来るあてもない桃水からの手紙を待つ一葉 「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(一葉) よりつづく

1893(明治26)年

6月22日

一葉(21)、萩の舎の中島歌子を訪れて借金の申し入れをしようとするが、婉曲に断られる。歌子に対して失望し、心の決着を付ける。

歌子が門人の批判をするのを聞き流し、金の話をすると、歌子は財政困難について話す。「口に山海のちん味をあぢはひ身に綾羅(あやら)をかざり給ふともたゞいさゝかなる御身一つなるを」と一葉は批評する。歌子は、兄のために苦労をさせられていること語り、一葉の金の無心に対し婉曲に断るような態度を示す。

「何ぞや事を兄君に帰して自家不徳の貲(し)にし給ふらむ、きくまゝに心地わろしとおもふ」(6・22)と一葉は記す。

6月24日

(露暦6/12)チャイコフスキー、ケンブリッジ名誉博士号授与。

6月27日

「報知新聞」(改進党系)、豆満江口、元山、釜山、仁川の防衛は日本海軍の任務であると主張、そのため「二、三要害の地を買受けもしくは譲りうけ」ることを提唱(~29日)。

6月27日

「廿七日、晴れ。金策におもむく。」(一葉の日記)

6月27日

ウォール街の株価突然暴落。4年間にわたる経済恐慌始まる。労働者の2割近く失業。ストライキ頻発。

6月29日

単騎シベリア大陸横断に成功した福島安正陸軍中佐、東京に帰着。そのまま帰京歓迎会会。

6月29日

福島中佐帰京歓迎の催しを母たきに見せるため、正午から上野の歓迎会場に行く。3時ころ帰宅。

あちこち金策に歩き、伊東夏子のところから日暮後帰宅。

金策尽き、夜、家族会議の結果、士族の誇りを捨て、実業に就く一大決定をする。母は商人になることを悲しみ責めるが、家財を売ったり商売をしたからといって心がかわってしまうわけではないので、自分の良いと思って進むところへ進むだけであると考える。


「廿九日、晴れ薄曇なり。我れは直ちに一昨日頼みたる金の成否いかがを聞きに行く。出来がたし・・・。

此夜一同熟議 実業につかん事に決す。かねてよりおもはざりし事にもあらず。いはヾ思ふ処なれでも母君などのたヾ欺きになげきて、汝が志よわく立てたる心なきからかく、成行ぬる事とせめ給ふ。家財をうりたりとて実業につきたりとて、これに依りて我が心のうつろひぬるものならねど、老たる人などはたゞものゝ表のみを見て、やがてよしあしを定め給ふめり」」(この日付「日記」)


かつて父則義が経営資金を貸し与えていたよしみから、京橋の中橋広小路で荒物屋を営む石井利兵衛(屋号伊勢利)の助けを得て最初は荒物の店を持つことにした。開業資金は家財の売却と西村釧之助に融資を依頼して調達した。

西村釧之助:

慶応2年(1866)11月旗本稲葉専之助の家来森良之進と妻ふさの長男として誕生。維新後、森良之進と家族はしばらく樋口家に世話になるが、稲葉家の領地茨城県真壁郡東宮後村に帰農し、名主の名を名乗り西村と改名、自ら信夫と改め、長男仙之助も釧之助と改名。明治14年(1881)、小永井八郎の濠西精舎に入塾し漢学を学び、明治24年10月から小石川区代町6番地(富坂警察署向い)で洋品・文房具を置く店を開く。釧之助はその後店を妹くにに譲り、くには西村の店に出入りしていた吉江政次を夫に迎え、長い間文房具兼洋品店「礫川堂」を経営した。

6月30日

足尾銅山、粉鉱採集器を設置。3年間をその試験期間とする。

6月30日

早朝、母たきが鍛冶町の遠銀(石井銀次郎)のところへ古い貸し付けの回収にゆく。芦沢芳太郎の預り金と合わせて2円40銭になる。これを転宅資金にする。


7月

一葉、7月1日から始まる日記(「につ記」、表紙年月「明治廿六年七月」。署名「なつ子」)の冒頭。一葉は糊口的文学に見切りをつけ、就業の決意を述べる。文学を生業とするのをやめて、生活のための商売を始め、文学は自由に筆の赴くままに書こうと決意する。


「人つねの産なければ常のこゝろなし。手をふところにして月花(つきはな)にあくがれぬとも、塩噌(えんそ)なくして天寿を終(をへ)らるべきものならず。かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや、是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人(おほみやびと)のまどゐなどは、昨日(きのふ)のはるの夢とわすれて、志賀(しが)の都のふりにし事を言はず、さゞなみならぬ波銭小銭(なみせんこぜに)、厘(りん)が毛(もう)なる利をもとめんとす。さればとて三井、三びしが豪奢(おごり)も顧はず、さして浮よにすねものゝ名を取らんとにも非らず。母子草のはゝと子と三人(みたり)の口をぬらせば事なし。ひまあらば月もみん、花もみん、興(きよう)来らば歌もよまん、文もつくらむ、小説もあらはさん。」

* 「孟子」梁恵王に「無恒産者、無恒心」とあるのを引用

*「早稲田文学」掲載に¥の「文学と糊口と」(奥泰資)。

* 「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮しつ」(新古今・山部赤人)。

「大宮人のまどゐ」は萩の舎の生活。

* 「さざなみやしがの都はあれにしを昔ながらのやま桜かな」(千載・平忠度)。

(きちんとした職業と収入のない者には、安定した正しい心はないという。何もしないで月よ花よと風流な生活に憧れても、食べるものがなくては生きて行くことも出来ない。また文学は生活のためにするものではない。思想や感情が広がりおもむくままに、生活のことなど考えずに、自由に筆を執って書くべきものです。

収入を得るための文学という私のこれまでの考え方は、この際きっぱりと捨ててしまおう。そしてこの世を生きて行くために、そろばんを持ち汗を流して商売というものを始めようと思う。勿論桜をかざして遊ぶ大宮人のような風流な集いのことは昨日の夢と忘れ果てて、過去のことは言わず、志賀の都のきざ波ではないが波銭小銭のような僅かな利益を求めて努力しょう。利益を求めるといっても三井三菱のような大富豪を願うのでもない。また浮世にすねたひねくれ者になろうとも思わない。母子草の母と子の三人の生活が出来ればそれで十分。そして暇ができたら月も見よう花も見よう、興が湧いたら歌も詠もう文章も書こう、また小説も作ろう。)

「唯、読者(よみて)の好みにしたがひて、「此度(このたび)は心中ものを作り給はれ、歌よむ人の優美なるがよし、涙に過(すぎ)たるは人よろこはず、繊巧(せんかう)なるは今はやらず、幽玄なるは世にわからず、歴史のあるものがよし、政治の肩書(かたがき)あるがよし、探てい小説すこぶるよし、此中(このうち)にて」などゝ、欲気(よくげ)なき本屋の作者にせまるよし。身にまだ覚え少なけれど、うるさゝはこれにとゞめをさすべし。さる範囲の外(そと)にのがれて、せめては文字の上にだけも義務少なき身とならばやとてなむ」

(「読者の好みに応じて今回は心中物をを書いて下さい。あるいは歌人の優美な生活を書いたのもよい。お涙頂戴の小説は読者に喜ばれないし、繊細に過ぎるのは今ははやらないし、幽玄なものはむずかしくてわからない。歴史小説がよいし、政治小説もよい。探偵小説は特によい。これらの中から適当に選んで」

などと、はっきりした考えもない本屋が作者に要求するというが、私などはまだそれほどの経験はないが、こんなうるささからも開放されることだろう。そういう世界の外に脱れ出て、せめては文字の上だけでも義務のない自由の身になりたいと思って決心した次第です。)


「されども生れ出(いで)て二十年あまり、向ふ三軒両どなりのつき合いにならはず、湯量に小桶(こおけ)の御あいさつも大方はしらず顔してすましける身の、お暑うお寒う、負けひけのかけ引(ひき)、問屋のかひ出し、かひ手の気うけ、おもへばむづかしき物也けり。ましてやもとでは糸(いと)しんのいと細(ほそ)くなるから、なんとならしばしゐの葉のこまつた事也。されどうき世はたなのだるま様、ねるもおきるも我が手にはあらず。「造化(ざうくわ)の伯父様(おぢさま)どうなとし給へ」とて、

       とにかくにこえてをみまし空(うつ)せみの

            よわたる橋や夢のうきはし」

*一葉の歌には、とにかく運を天にまかせてやってみようという決意が見えるが、一方で現実の生々しい商売とはかけ離れた不定な儚さも感じ取れる。

(しかし生まれてから二十年余り、向こう三軒両隣の近所の付き合いにも慣れず、銭湯での小桶越しの挨拶も知らぬ顔ですましてきた私が、急にお暑うお寒うの季節挨拶から、やれ負けろやれ値引きせよの騒け引き、また問屋の買出し、客への気兼ね、思えば本当にむずかしいことばかり。まして資本金は糸の芯のように細く、なんとなるやら、まことに困った事ではある。しかし人生は棚の上の達磨のようなもの、寝るも起きるも自分ではどうにもならない。造化の神よ、どうなりとして下さいと観念して、

   とにかくに越えてをみまし空蝉の世渡る橋や夢の浮橋)


つづく


世耕弘成氏が一転「記憶にない」会合の「記録が出てきた」…でも裏金還流協議は否定 黒塗り日程表で潔白主張(東京) / 世耕弘成氏、22年3月会合出席認めるも「選挙の話」政倫審での否定発言「全く間違っていない」(日刊スポーツ) / 「器が小さい」自民・世耕議員 裏金疑惑で聴取した岸田首相を国会で“ガン無視”の逆ギレにドン引き(女性自身)        

 

 

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2024年3月29日金曜日

大杉栄とその時代年表(84) 1893(明治26)年5月23日~6月21日 徳富蘇峰の条約励行論 子規の瘧(おこり)発病 来るあてもない桃水からの手紙を待つ一葉 「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(一葉)

 

徳富家家族写真 明治26年31歳

大杉栄とその時代年表(83) 1893(明治26)年4月25日~5月21日 東学党報恩集会 一葉(21)、頭痛に苦しむ 「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」(一葉) 市川房枝生まれる 防穀令賠償問題妥結 戦時大本営条例公布  子規『獺祭書屋俳話』(処女出版) より続く

1893(明治26)年

5月23日

徳富蘇峰の「国民之友」、条約励行論提唱

日本人が真の平等を勝ち取るためには国民的な運動によって現行条約を「正当」に励行しなければならないと主張。さらに、現行条約の励行が外国人にとっても不合理であることを悟らせ、外国の側から条約改正を求められてこそ対等条約が実現するであろうと論じた。これは、この年2月15日に自由党が提出した条約改正上奏案が衆議院秘密会で審議され、内地雑居の是非が審議された結果、135対121で上奏案が可決採決されたことに対する「内地雑居尚早派」側の危機感を背景としていた。

改進党は、励行論での政府が「戦略上で上策」(攘夷論で幕府に迫ったのと同様)とみて、大井憲太郎の大日本協会、山県系の国民協会に対外硬による協力を呼びかけ、小会派も含め対外硬6派を形成。統一綱領は自主外交・責任内閣。ここに対外硬派対政府・自由党の「政界縦断」構造できる。

第4議会後、政府と自由党は接近するのに対し、他の政党は条約改正に反対する条約励行論を唱え、対外強硬論に傾斜。「国民協会」(会頭西郷従道・副会頭品川弥二郎)は、国粋主義の立場から条約改正に反対するが、政府と自由党の接近とともに、政府への反発を強める。また東洋自由党(自由党関東派を星に奪われた大井が、明治25年に脱党し主宰する小会派)も国民協会に歩調を合わせる。国民協会を中心とする5派は対外強硬論を唱え、大日本協会を結成、第5議会での政府攻撃に備えているところに、改進党がこれに合流し、反政府の対外硬6派が出現。改進党はもともと条約改正推進論で、大隈自身、外相として改正交渉にあたった事もあり、条約励行論は明らかに方針転換。

対外硬派は千島艦事件で結束を強める。ノルマントン号事件と同様、領事裁判権の不当性が改めて明らかにされ、上海での判決が大日本協会結成時期と重なり、対外強硬論はますます勢いづく。こうして、第5議会開会までに、対外硬6派による反政府、反自由党連合ができあがる。

条約励行論:

条約に明文規定のない事柄を一切許さなければ、外国人は不自由さに堪えられなくなって条約改正に応じるだろう。居留地外への旅行は事前許可が必要、不動産取得禁止は事実上野放し。背景には、攘夷思想の流れをくむ、非内地雑居論・内地雑居尚早論がある。

伊藤内閣が、自由党を準与党とする事で政界再編成となる。第4議会まで、自由党と共に議会内多数派を形成し、貴任内閣完成と内治優先を主張していた立憲改進党と立憲革新党は、同盟者を失い新たな提携者を求める。一方、吏党といわれ非内地雑居論に同情的な国民協会は、自由党に準与党の座を奪われ、反伊藤内閣的傾向を深める。三者は、自由党と伊藤内閣に反対する点で一致、強力に対外強硬論を主張する大日本協会を核に、条約励行実施と貿任内閣主義採用を統一綱領とする野党連合、対外硬派を結成。

5月23日

子規、漱石を訪問。

5月23日

一葉(21)、今日から日課を決める。

朝6時から7時まで習字、10時まで読書、12時まで執筆、昼食、食休み、午後は針仕事や洗濯、なければ執筆。夕方は自由時間。夜は思慮、思索、就寝。(雑記「やたらづけ」)

5月25日

浜田広介、誕生。

5月25日

西村釧之助が来訪。雑談をする。西村家は以前妹邦子との縁組を希望したが、うまく話が合わず断ったことからすっかり往来がなくなっていたが、また交流が出来た。人生において敵を作るということが心の負担になっていたので、解決したことは嬉しい。

妹邦子が内職(蟬表製造)を中止。

5月29日

一葉(21)、伊東夏子から借金8円。

伊東(田辺)夏子によれば、一葉を訪問すると鰻をふるまわれ、帰るとすぐに追いかけるように手紙で借金を申しこまれた人もあったという(田辺夏子「一葉の憶ひ出」昭和25)。


6月

坪内逍遙「小羊漫言」(有斐閣)

6月1日

子規、漱石を訪問。

6月2日

大阪商船会社、朝鮮沿岸航路の営業開始。

6月2日

中島歌子の母の没後一周年祭。一葉参加。集まったもの5名で内輪の会合。夜までいて帰宅。伊東夏子から借りた「読売新聞」を12時ころまで読む。

6月4日

漱石、子規宅を訪問

6月4日

一葉(21)、三宅花圃を訪ねる。結婚後の彼女を「ひたすら家事に身を委ねて、世上の事、文事の事、何事も耳に入らずとて、極めて冷やかに成給へり。と批評す

6月6日

寺島宗則(61)、没。

6月8日

夜 子規は突然発病。数日間「瘧(おこり)」に苦しむ。20日以後出社したが、26日にまた瘧を発し、連日悩まされる。

30日、日記に「瘧落」とあって「瘧落ちて足ふみのばす蚊帳かな」の句を書く。ようやく回復した模様。この月は「時事俳評」を掲げた外は、何も『日本』に筆を執っていない。

「瘧」;

数日の間隔を置いて周期的に悪寒、発熱などの症状を繰り返す熱病。その重い症例の多くはマラリアによるものである。戦中までしばしば3日熱マラリアの流行があったが、1950年代には完全に撲滅された。"

6月10日

ケーベル、帝国大学文科大学講師に就任。西洋哲学・古典文学・ドイツ文学を講じる。

6月10日

この日付け日記。桃水からの来るあてもない手紙を待ち焦がれる。


「何故にまつらむとも覚えず。又まちぬべきあてどのあるにあらず。開て嬉しきたよりか、聞かずしてかへりて幸ふかくなるか。何方にも何方にもおもひたどられず。門をはしる郵便脚夫の哀れ我家に寄れかし。かの人のたよりなれかし。一人は空しくすぎぬとも、此つぐなるこそはと、まどによりてしばしば待つ。はかなく過ぬるもにくく、となりに入ぬるもにくし。門札しばしばながめて、あらずとて行過たる、いよいよにきし。」(日記)


「わすれぐさなどつまざらんすみよしのまつかひあらむものならなくに」

(忘れ草をどうして摘まないことがあろうか。(いや、摘んでわすれてしまおう)、住吉の松の(「まつ」ではないが)、「待つ」甲斐あるものでもないのだから)


「もろともにしなばしなんといのるかなあらむかぎりは恋しきものを」

(一緒に死んでしまおうと祈ることだ。生きてる限りは恋しい(想いから逃れられない)のだから)


明治25年6月に桃水との決別を決意して以降、完全な絶交には至らず細々と交流が続いていたが、以前のように自在に会える間柄ではなくなっていた。それから一年経って、一葉の日記の恋歌は「わすれ」「まつかひ」なし、という諦念を見せる。一方、「もろともにしなばしなん」ことまで想定し、「見るもうし見ざるもつらし」という詞書とともに過去の詠歌を一部変えた歌を重出させ、悟りきれない心とともにループに入ったようである。日記中、桃水への恋心を詠む和歌はここで途絶える

6月12日

山本長五郎(清水次郎長)、没。

6月12日

早朝、星野天知から「文学界」へ載せる原稿の催促の便り。断りの葉書を出す。

6月14日

大石正巳朝鮮公使が帰朝。新橋駅に出迎える人びとの歓迎の声が万雷の鳴り響くようである。

6月19日

子規(10日間ほど病臥していた)、散髪してのち漱石を訪問、豊国楼に行く。

6月21日

ベルリン駐在武官福島安正、乗馬でロシア、シベリア経由して1年4ヶ月かけて帰国。長崎着。

6月21日

この日付の日記。3月から制作にかかった「ひとつの松」も成稿に至らず。

「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(「日記」明26・6・21)。

金港堂(藤本藤蔭)の原稿料支払いは確実だったが、『都の花』は廃刊になりつつある。一葉は、その後どう生計を立てるのか考えねばならない。"


つづく

既に防衛費の半分を占める「兵器ローン」 ますます借金しやすくする法が成立、防衛費全体が膨れ上がる恐れ(東京); 防衛予算はすでに、過去の武器購入のローン払いなどに圧迫されている。24年度予算の防衛費7兆9496億円のうち、3兆9480億円は過去のローン契約の支払いで、比率は約49%に上る。ローン支払いを除いた残りの半分以上は、減らしにくい人件費や糧食費に充てられ、硬直的な予算構造となっている。    



 

2024年3月28日木曜日

異例の規模の日銀リーク、真剣な調査を-リーディー&モス(Bloomberg);「日銀の決定事項の多くがなぜ事前に知られているかについて国会で調査し、岸田文雄首相が何らかの回答を求める時だ。日銀の行動で数十億ドルの資金が動く。日経新聞や時事通信、NHKの記者が事前に知らされていたとしたら、他に誰が知っているのだろうか。悪用される可能性は計り知れない。」  

 

辻元清美議員「政倫審も茶番だったんですかね総理が再調査しなきゃいけないくらい。総理や自民党の言う事は全く信じられなくなってる。派閥の解散の話しから始まった。二階派、安倍派、岸田派の派閥、政治団体の解散届けは出ていますか」 総務省「提出されておりません」

 

大杉栄とその時代年表(83) 1893(明治26)年4月25日~5月21日 東学党報恩集会 一葉(21)、頭痛に苦しむ 「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」(一葉) 市川房枝生まれる 防穀令賠償問題妥結 戦時大本営条例公布  子規『獺祭書屋俳話』(処女出版)   

獺祭書屋俳話 全 正岡子規 獺祭書屋主人著 日本新聞社 初版
 
大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問 より続く

1893(明治26)年

4月25日

韓国、東学党報恩集会・忠清道報恩で東学2回目の集会。2万人。反侵略スローガン。政府、軍600派遣、解散。解散に際して提出された要請状を検討し、政府は2地方官を解任。参会者は平和的運動の限界を悟る。後、過激派(北接)と穏健派(南節)大分裂。

4月25日

一葉(21)、頭痛に苦しむ


「(四月)廿五日 早朝は晴れたる様なりしが、六時過るより空たゞくらく成に成て、雷雨昨夜にかはらず、しばしも戸を明がたし。・・・我れは文机に寄りて、とざまかうざまにものおもふほど、かしらのいとなやましきに、胸さへもたゞせまりにせまりてくるほしければ、ふすまかづきて打ふしたるまゝ、日くるゝもしらず、八時過るまで寐にけり。」(「蓬生日記」明26・4・25)

(二十五日。早朝は晴れていたようだが六時過ぎ頃から空はどんどん暗くなり、雷雨は昨夜にかわらないほどで、しばらくも戸を開けることが出来ない。・・・私は、机にもたれてあれこれ物思いをしていると頭痛が烈しくなり、雷雨の恐ろしさも何も耳に入らなくなった。私の魂が何処かへ誘われて行くのでしょうか。一時間ばかりは夢を見ているようでした。ふと目を覚ました時は、雨戸から漏れる日の光はあざやかになって、さしもの空も名残りなく晴れ渡っていました。午後からまた少し雨が降り出したが、まもなく風になった。頭がひどく痛く胸までもますます締めつけられるようで気が狂いそうなので、蒲団をかぶって寝てしまい、日が暮れたのも知らないのでした。八時過ぎまで寝てしまった。)

4月29日

一葉、桃水を訪ねる。


「・・・「又脳病におはしますよし、よくやしなひ給へよ。今君にして病ひおもからば、家の事をいかにせんとか覚(オボ)す。つとめて心のどかに、一日もはやく治せんことを覚せ。さはれ筆とるものゝならひ、此病ひなき人こそ少なかりけれ。我も昔しはいと健(スコヤ)かなりし身の、打つゞきて脳の病みつよく、此頃は少しおこたりし様なれど、いとなやましき也。今の病ひいゑなば、よし花はあらずともよし、何方(イヅク)の野山にもあくがれて、心かぎりなぐさまんとおもふぞかし。君にも籠居(タレコメ)のみにおはしまさで、新らしき風に当らせ給ふぞよき」とさとし給ふ。・・・」(「日記断片その二」)。


「・・・「あなたは頭痛がおありだとのこと、充分養生なきって下さい。今あなたが重い病気になられたらお家の事はどうなるとお思いですか。努力して一日も早く治るようになさい。それにしても筆で身を立てる人の常として、この頭痛を持たない人は少ないのです。私も昔は頑健な体でしたが、いつも頭痛が烈しく、此頃は少しは治ったようですが、時にはまだひどく痛むのです。今のこの病気が治ったなら、たとえ花は過ぎていても、何処かの野山を歩き廻って、心の限り遊ぼうと思っているのです。あなたも家にばかり閉じこもっていないで新鮮な風に当たるのがよいのですよ」・・・」

4月30日

「文学界」第4号が届く


5月

北村透谷「内部生命論」(「文学界」)

5月

鴎外(31)、「しがらみ草紙」を「城南評論」に合併。

5月

改進党島田三郎、「凡そかくの如く学問もなければ、勇気もなく、愛国心もなく、而して身体が強くて従順であるこういう国は、・・・属国になるよりほかに仕方がない。・・・今日は区々の理屈をいう時ではない。・・・強く出た以上はどこまでも強く出る」ことを政府に要求。

5月

海軍軍令部条例、制定。対清戦争準備。

5月

高野房太郎(24)、ワシントン州タコマ在住。

5月1日

夜、稲葉鉱が衣類を貰いに一葉を来訪。妹邦子の浴衣をやる。

5月1日

シカゴ、コロンブス記念万国博覧会。~10/3。高村光太郎「老猿」出品。

5月2日

子規、漱石を訪問、泊る。子規「時鳥江戸に旅寐の雨夜哉」(『獺祭書屋日記』)

5月2日

一葉、今月も手元不如意で、着物4枚羽織2枚を風呂敷に包み母と共に伊勢屋に行く。

「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」

(春に着ていた着物が、長持ちではなく質屋におさめられていって、春が質屋にかくれてゆく。そんな貧しい我が家の衣替えであることよ)

西鶴の句に「長持ちに春かくれ行くころもがへ」がある。

5月3日

朝、一葉に星野天知から便り。「文学界」5号に少し長いものを20日までに貰いたいとのこと。「都の花」の方もまだ書き終っていないので、来月ならと返事を出す。母が、昨日につづき伊勢屋に行く。

5月4日

夕方、一葉、西村釧之助に金を返しに行く。稲葉鉱が来訪。これから西村に借金に行くとのこと。

5月9日

子規、漱石を訪問。

5月12日

1843年イギリスに併合された南アフリカ・ナタール共和国、再び完全自治権獲得。

5月15日

横浜正金銀行、上海の黄浦灘路31号に出張所を設立。

1890年ドイツの徳華銀行(黄浦灘路14号)、1896年ロシア華道勝銀行(黄浦灘路15号、主要株主はフランスの金融家)、1899年フランス東方匯理銀行(黄浦灘路29号)、同年日本台湾銀行(黄浦灘路16号)、1902年ベルギー華比銀行(黄浦灘路20号)、同年米国花旗銀行(九江路A字1号)、1903年オランダ銀行(黄浦灘路21号)などが進出。黄浦灘路一帯はこ外国銀行集中区となる。これらの銀行は資本輸出の職能を実施。列強諸国は独自の紙幣を発行し、中国の対外貿易及び国際為替を独占、また、金融及び清朝政府の貸付金を操作する事で政治権を掌握し、金融界を分断。上海租界内の黄浦灘路は名実ともに「ウォール街」となる(列強の中国侵略の橋頭堡「ウォール街」)。

5月15日

市川房枝、誕生。愛知県中島郡明地村字藤吉(現、尾西市)。男3人女4人の3女。

5月15日

一葉の母たきの誕生日。「こゝろうき人々なれども」兄虎之助と姉久保木ふじを呼ぶ。兄からは土産を貰う。夕暮少し前まで遊ぶ。

5月19日

韓国、防穀令賠償問題、4年ぶりに妥結。韓国より賠償金11万円支払い

賠償交渉、難航し、この月、駐朝公使大石正巳が最後通牒を発するまでに緊張。伊藤首相は、李鴻章に斡旋を依頼、指令を受けた袁世凱が韓国政府に賠償金支払いを受諾させる。清国の韓国における指導的立場を利用。

大石公使(自由党から抜擢)は、外交官としての習慣・儀礼を無視し、景福宮の奥深くまで輿を乗り入れるなど王室に対する非礼な行為を重ね、列国外交団の顰蹙をかう。

日本は、韓国で領事裁判権・日本貨幣流通権など多くの不平等特権を保持し、釜山・仁川・元山などの戦略要点に特別居留地(専管租界)を設定し、公使館保護名目により駐兵権を獲得。これら特権と地理的近接性を利用して、米・大豆などの穀物や金地金を収奪し、その代りにイギリス製綿製品の中継輸出を行う(米綿交換体制)が、清国が旧来の宗主権を近代的な保護属領体制に再編するににつれて困難となってくる。政治的条件により日本商人より相対的に有利な清国商人は、上海からの直輸入で日本の仲継貿易を圧倒し、韓国政府も日本商人の穀物買占めに防穀令で対抗。韓国は将来の輸出市場として、現実の原料・食糧供給地として重要で、特に安価な韓国米は低米価・低質銀政策維持の為に不可欠で、政府は最後通牒をかけて防穀令賠償を求める。

清国は、韓国に対する伝統的宗主権を再編成し、政治・軍事・経済面の支配を強める。北洋大臣・直隷総督李鴻章は、部下の袁世凱をソウルに駐在させ、政治・経済への介入を命じ、韓国政府が独立の為にロシアやアメリカに接近することを監視。清国は旧来の宗主権を条約上の権利に変更し、それを最恵国条款による均霑の対象とする事を拒絶、また韓国を指導して列強と通商条約を結ばせ、韓国に列強利権を引き込み、日本の独占的支配を防ごうとする。この一連の措置により、列強は清国の宗主棒を承認し、韓国は列強の通商上の権益が入り組む「国際保険の十字路」となる。李鴻章は盛宜懐を通じ、イギリス資本を背景に電信事業を起し、招商局を創設し、海運・電信を支配。洋務派は、この勧告支配方式を北洋艦隊と淮軍で擁護。清国の支配は旧来の伝統的な華夷秩序に支えられて強力であり、日本が韓国を支配する為には、或いは清国とともに朝鮮の「共同保護主」となる為にも、清国の伝統的・政治的・経済的影響力を軍事力で破摧する必要がある。

5月19日

戦時大本営条例、公布(勅令52号)。この年2月7日、参謀総長から陸相に内議。

この間、川上操六参本次長は清国・韓国の兵要視察旅行を行い、日韓関係は防穀令事件を巡り緊迫。4月2日閣議は、日本の対韓国外交は「通常外交上ノ範囲ヲ遠出シタル情勢二立チ到り居候儀ヲ発見」し、5月17日閣議は、大石公使に対し「何時タリトモ国際公法上許ストコロノ(報復)手段ヲ強行スルノ自由ヲ有スル」と宣言し、ソウルから引揚げるよう訓令を与えることを決議し、韓国に「軍艦ヲ派遣シ、反報ノ手段ヲ取ルコトニ決意」。

防穀令事件が統帥部に出兵権独占を決意させる原因となる。最後通牒送付後のこの日、日本政府が李鴻章から受取った電報は、日本が出兵する、帝国も「朝鮮保護ノタメ直ニ兵ヲ送ラザルヲ得ザルべシ」、それには「英露モ加ハルベシ」、「然ルトキハ此小問題ニシテ朝鮮卜修好条約アル諸国トノ紛糾ヲ惹起スべシ」と強調。伊藤首相はこの電報により北洋艦隊の威力を想起し妥協。この事態は政府指導者が軟弱との印象を与える(「原敬日記」同日条)。

5月19日

一葉、夜、号外が届き、福島県吾妻山大爆発とのこと。今日から四畳半の座敷に移る。

恋に関する考察。〈恋は、自分の命を失うと分かっていても道を踏み外させる力を持つが、すべては自分の心から出たものであり、是非も善悪も元は一つである。〉

吾妻山噴火: 

噴気活動が1893年(明治26年)5月19日から活発になって,燕沢で水蒸気爆発し,噴石と火山灰を噴出させる。6月4日~8日には水蒸気爆発が強くなって,7日、調査中の技師ら2名が噴石に当たって死亡。11月9、10日に小規模水蒸気爆発し,翌年には一連の活動が終息する。"

5月20日

一葉の母たきが西村釧之助のところに借金に行くが、来客中なのでそのまま帰る。朝鮮防穀事件、山梨県の霜害、吾妻山爆発、狂水病(狂犬病)など時事問題に関心を持つ。

5月21日

子規『獺祭書屋俳話』刊行(処女出版)

明治25年6月以来、新聞『日本』に掲載した「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を「日本叢書」の一として日本新聞社から刊行。

5月21日

西村釧之助が心配して一葉を来訪。1円借りる。すぐに菊池隆直のもとに持参する。

夜遅く、頭痛と胸の苦しみに喘ぎ、人生の浮沈など人の世のはかなさに心が攻め立てられる。"

5月21日

シチリア社会党結成。


つづく

2024年3月27日水曜日

これが一本の醜悪な線でつながるんだね → 小林製薬の「紅麹」 → 「機能性表示食品制度」 → 安倍晋三(「アベノミクスの第3の矢 規制緩和による経済成長戦略」) → 森下竜一(「大阪ワクチン」で国から75億の補助金。アンジェス株の怪しい動き。吉村知事は「大阪ワクチン」を選挙利用。今は大阪万博総合プロデューサー) / 「機能性表示食品の研究レビューの作成、届出支援、臨床試験の相談など制度に対する支援業務をおこなう「日本抗加齢協会」では、森下氏が副理事長〜」          



 

「違法なことだから…」と“自白” 赤ベンツ不倫・広瀬めぐみ議員の「秘書給与詐取疑惑」 決定的な「証拠LINEメッセージ」「通話音声」を公開(デイリー新潮)

 

立憲民主党 杉尾ひでやさん 「これだけの事件を起こしてしかも相当多数の人が脱税の疑いまで持たれてるんですよ。こんな不祥事かつての自民党でもないんですよ。民間企業だったらトップは辞任しますよ。引責辞任。自民党ってのはそれだけ無責任な組織なんですか?」 / 岸田派の会計責任者が略式起訴されたり、脱法パーティをやっていた総理の責任を杉尾氏が追及。 「自分は処分しないんですか」       

 

小池百合子知事の「答弁拒否」巡り都議会で激論 「耳障りな質問は排除か」立民発言の撤回求める動議可決(東京);「小池知事は女帝となり、「与党」の都議は女帝にひれふす宦官のごときものとなったよう。行政の長が嫌がる質問を封じ込めるのは、議会の自己否定。— 山口二郎」

 

自宅近くの桜 ソメイヨシノが僅かに開花 寒緋桜 山桜 2024-03-27

3月27日(水)はれ

菜種梅雨というらしい。このところずっと雨。それも冷たい雨。

今日、ようやく久しぶりに晴れ。ところが、またすぐ雨らしい。

自宅近くのソメイヨシノの開花ぶりを見て廻った。

咲いているのは、この↓1ヶ所だけだった。



▼寒緋桜


▼山桜?
独断です。



京都日記(5終) 神泉苑 大極殿跡碑 千本通り案内板 千本日活 「Slow Page」 「京料理 西陣 松粂」 2024-03-20

 3月14日~21日、法事のために帰省(京都)。その間に、行った所、食べたものとかの記録。宿泊は上京区にある家人の実家にお世話になった。

滞在中に鑑賞した花についてはコチラ↓

京都の桜 旧成徳中学校の春めき桜(3月16日) 京都御苑の枝垂桜(出水の枝垂、近衛邸跡) 十月桜 一条戻橋の河津桜(3月17日) 長徳寺のオカメ桜(3月19日) 二条城周辺の小彼岸桜(3月20日) など

京都で出会った梅、桃、菜の花、椿 京都御苑 神泉苑 晴明神社 など 2024-03-14~21


京都日記(1) 鶴屋吉信「織部満雲寿」 「二和佐」仕出し料理 ゆば料理「かめや本店」 二条城 神泉苑 2024-03-14,15

京都日記(2) ロンドン焼きマシン イノダ四条支店 秦家住宅 宮川美髪館 本能寺跡 京都御苑内の清水谷家の椋 蛤御門 2024-03-16

京都日記(3) 佐々木酒造 松粂さんのうな重 嵐山の竹林 落柿舎 嵯峨野散策路 鳥居本 上島珈琲嵐山店 渡月橋 「ひさご寿し」 鯖寿司 2024-03-17、18

京都日記(4) 山ばな平八茶屋 叡山鉄道 鯖街道口 桝形商店街 出町座 蘆山寺 京都御苑 2024-03-19


さて今回の京都滞在最終日の3月20日は雨模様(小雨が降ったりやんだり、時々晴れたり)。

なので、そんなに遠出はできないので、まず椹木町通りを西進、佐々木酒造さんの角を南下、智恵光院通りから二条城の堀端へ。ついで、既報の通り、二条中学校の春めき桜、朱雀高校前の小子彼岸桜を観て神泉苑へ。この時、北向きでは青空が見える。


そのあと、北野天満宮へ行ってみたいということになって、御池通りを西進、千本通りを北進した。

大極殿跡の碑を観たり、千本通りを紹介する看板を観たりしながら、今出川通りまで北上。途中、「五番町夕霧楼」で名を知られる五番町でいまだに健在な千本日活を確認。





しかし、もう少しで北野天満宮というところ(上七軒あたり)で、雨。その時、ちょうどいいタイミングで堀川丸太町に行くバスが通りかかったので、天神さんには行かずにバスに飛び乗った。
そのまま帰るにはまだ早いので、堀川中立売あたりに新しくできた大垣書店とそれに隣接(併設)する喫茶店(Slow Page)に行ってみようということに。
喫茶店では、最初、コーヒーだけのつもりだったけど、メニュー見ているうちについふらふらとカレー(ビーフカレー)をオーダーしてしまった。セットで千円。


ここで、ゆっくり時間を過ごし帰宅したのだが、家で雑談中、家人が車谷長吉さんゆかりの地を確認したいと言い出した。車谷さんは、慶応の文学部を出ているんだけど、健康面の問題があったりで、一時期、料理屋の下足番などの下働きで苦労した時代があったとのこと。
予めネットで地図検索をしておいたので、迷わずにその場所(現在は仕出し屋さん)に行って確認できた。
ただ、家人の記憶では、車谷さんが働いていたのは料理屋(仕出し屋さんではなく)さんで、場所もすぐ近くではあるが別の場所だった、というのをどこかで読んだ、とのこと。
なので、この件は継続調査ということになった。

車谷さんの夫人の高橋順子さんの『夫・車谷長吉』にその辺りが詳しいとのことなので、横浜に戻って早速図書貸し出し依頼をしたら、明日(3/28)受取可となった。こんな話をしていたら、なんと家人も同じことをやっていて、同じ本が二冊届くことになった。


で、この日の晩ゴハンは、いまや定石となった、松粂さんで戴いた。











残されなくなる記録が残念 → 気象庁、明治時代からの天気目視を3月26日に終了(日経); おおむね3時間ごとに職員が屋外で空を見上げて観測していました。目視をやめることで細かな気象現象の約30項目が日々の記録から途絶えることになります。

 

大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問 

 

伊勢屋質店(跡見学園女子大学が保存)

大杉栄とその時代年表(81) 1893(明治26)年3月1日~31日 宮武外骨『文明雑誌』創刊 一葉(21)のもとに平田禿木(2歳)が来訪(初めて会う『文学界』同人) 子規「文界八つあたり」(新聞『日本』連載) 一葉、「糊口的文学」から訣別しようと決意 より続く

1893(明治26)年

4月

あさ香社結成。落合直文、直文弟鮎貝槐園、鉄幹、大町桂月。

4月

日本基督教婦人矯風会結成。

4月

徳富蘇峰「社会に於ける思想の三潮流に」(「国民之友」188号)。①蛇行派(現状満足派)、②慷慨派(愛国派)、③高踏派(キリスト教徒)。

国家主義への傾斜「国家は一つの天職を有するものだ。国民は堅実な精神、剛健な理性を鼓舞してこれを実践する義務がある。」

4月

北村透谷「明治文学管見」(「評論」)

4月

川上参謀次長、対清作戦の予備調査のため清国・朝鮮に出発。

4月

ロシア、エドゥアルト・トール、ロシア科学アカデミーよりヤクーチャ北部スヴァトイ・ノース岬付近で発見されたマンモスの遺体調査を受けるが、満足できる形で残らず。のち、11月まで400kmの海岸線を調査。帰国後、ノヴォシビルスキー諸島の地質調査・化石氷河の性質について報告し、ロシア地理学協会よりブルジェワルスキー記念メダル、ロシア科学アカデミーとノルウェー政府より勲章を授与。

4月1日

アプト式鉄道の直江津線・横河~軽井沢間が開業。上野~直江津間が全通。

4月1日

根岸派の人々の月ヶ瀬紀行。


「明治二十六年四月一日、根岸派の仲間たちは、・・・・・月ヶ瀬に白梅を見に行く。メンバーは篁村、露伴、そして森田思軒、高橋太華、関根只好、幸堂得知、富岡永洗、楢崎海運の八人。途中、三重の古市で、大阪にいる須藤南翠も合流する。

この旅行の様子は、饗庭篁村の紀行集『旅硯』の巻頭に収められている「月ヶ瀬紀行」に詳しい。『国民之友』に連載(第百八十八号〜百九十二号)された森田思軒の「採花日暦」(単行本に未収録?)も同じ旅を扱っている。・・・・・

(略)

・・・・・気になるのは、彼らの月ヶ瀬行きが『東京日日新聞』の記事に取り上げられたことだ。

・・・・・彼ら根岸派の文人たちの旅行は、一種のパフォーマンス性を帯びた社会的話題でもあったのだ。

そういう行動をライバル視していた、別の文学グループもいた。

尾崎紅葉の硯友社である。

(略)

四月十二日というのは、明治二十六年、つまり篁村や露伴が、大阪の新聞社にいる須藤南翠との合流を一つの目的に月ヶ瀬に旅立った二週間後に、尾崎紅葉の発案(ということは、きっと彼ら根岸派のことを意識していたに違いない)で、硯友社の主力メンバーたちも月ヶ瀬に向うのである。

(略)

離反や篁村たちが訪れた時の月ヶ瀬は、「見下すかぎり梅にしてしかも真盛りなれば只白雲の谷より上る」ような美しさ(「月ヶ瀬紀行」)だったけれど、紅葉たちが訪れた時は、梅の花はすでに散っていた。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

4月2日

漱石、子規に宛てた手紙で、本郷区台町の富樫方(現=文京区本郷5-31)に下宿したことを知らせる。後に同柴山方に転居。

午後(推定)、子規、常盤会寄宿舎で同郷会の帰りに立ち寄る。「訪漱石于本郷䑓町四番地富樫方」(「正岡子規『獺祭書屋日記』)

4月3日

一葉(21)、収入が途絶えて生活は逼迫の度を加え、4月3日には初めて伊勢屋に質入「この夜伊せ屋がもとにはしる」

5月2日。「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ羽織二つ一風呂敷につゝみて母君と我と持ゆかんとす ・・・(西鶴の句をもじり)蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ」


5月3日。「今日母君いせ屋がもとに又参り給ふ」


4月6日

この日付「よもぎふにつき」

「桃も咲きぬ 彼岸(ヒガンザクラ)もそここゝほころひぬ 上野も澄田(隅田川)も此次の日曜までは持つましなと聞くこそ いとくちをしけれ 此事なし終りて後花見のあそひせんなど まめやかに思ひ定めたる事あるをや 折しも俄かに空寒く 人はそゝろ侘あへるを あはれ 七日かほどかくてをあらなんと願ふもあやし」

(春寒が戻ってきたので、あと7日ほど桜が散らずにいてくれればと願う)

4月7日

この日から、一葉の「蓬生日記」始まる。署名は夏子。

4月8日

伊東巳代治が伊藤首相に「第四回機密金報告書」提出。

2~3月の主な出費:朝野新聞社500円、東京通信社200円、中央電報社200円等(通信社への助成開始)。年度末残高6万余あり、整理公債5万を購入し宮内省に預ける。

東京通信社:明治23年11月内務省警保局長清浦奎吾・同次長大浦兼武が警保局機密費で設立、この時点までに内務省直轄に移管。

日本通信社:明治24年1月設立。この時点での他の通信社。

時事通信社:明治21年1月設立、政府系、23年11月廃業。

帝国通信社:明治25年5月設立、改進党系。

内外通信社:明治26年5月設立、自由党系。

4月8日

一葉、夕方、母たきと湯島あたりを散歩。1時過ぎまで机に向かう。

411日

子規、漱石を訪問。

4月12日

この日から一葉日記「しのふくさ」が始まる。15日まで。飛んで22日の記載もあるが、「蓬生日記」と重複。

4月14日

出版法・版権法、公布。

4月14日

一葉、図書館に行く。上野は花盛りで酒に酔った人々の様が面白い。

4月14日

セルビア国王アレクサンダル・オブレノヴィッチ(17)、親政開始。

4月15日

一葉(21)、金港堂の藤本藤陰から、桃水が内股の腫物で悩んでいるとの話を聞く。

一度見舞に行きたいという一葉の願いを母は許さなかった。それならばせめて手紙を、との思いさえ聞き入れなかった。母は性病と考えていたのであろう。しかしこれは性病ではない。大腿にできた癖と考えられる。

一葉はそこで邦子に相談した。思いやりの心を持つ妹は、一葉に同情して色々に図る。

416日

漱石、子規宅を訪問。西谷虎造と同席。上野韻松亭での日本新聞社の集会に共に赴く。23日にも、漱石、子規を訪問。

4月17日

吉原の角海老の主人宮沢平吉の葬儀が谷中で行われる。岩崎弥太郎の葬儀以来の賑わいであったとのこと。

4月19日

一葉(21)父の知人が亡くなり葬儀に行こうとするのが、香典にする金がない。妹くに子は自分の着物を質入れしようと言うが、一葉はおおかたの着物を売ってしまって、これ以上は心苦しく、これを渋り、母妹から責められる。

必竟(ひつきよう)は夏子の活智(いくじ)なくして金を得る道なければぞかし。かく有らばはてもしれぬをなど、いとこと多くのゝしり給ふ。邦子は我が優柔をとがめてしきりにせむ。

我こそは だるま大師に成りにけれ

とぶらはんにも あしなしにして」(「蓬生日記」明26・4・19)

4月21日

この日付けの一葉(21)の日記。

「わが心より出たるかたちなれば、などか忘れんとして忘るるにかたき事やあると、ひたすらに念じて忘れんとするほど、唯身に迫りくるがごとおもかげまのあたりにみえて、え堪ゆべくも非らず。ふと打みじろげば、かの薬の香のさとかをる心地して、

思ひやる心や常に行きかよふと、そぞろおそろしきまでおもひしみにたる心也。かの

六条の御息所のあさましさをおもふに、げに偽りともいはれざりけりな。

おもひやる心かよはばみてもこん

さてもやしばしなぐさめぬべく 」

4月21日

この日付け一葉(21)の日記。

「晴天、小石川稽古に行く。道すがら半井君を訪ふ。」(日記)

「かの家には思ひがけぬ事と只あきれにあきるるものから、人々うれしげにもてなさるることいとうれし。かの人も昨日今日はややここちよき方にてなど、起かへりつつ語る。いとこなる人の薬すすむるとて枕辺に有しが、さしも久しく音せざり給ひしな。御かはりども侍らざりしや。つねに御噂なん申し暮して、一昨日もさなり、御うへ申出し候ひしこと、と言へば、いと多かる薬を一と口のみて、おうわさはつねに申すことに侍り、とて何となくほほゑむ。」

桃水は硯と紙を持ち出して、一葉に旧詠でもいいんで1、2首書いてくれと頼む。一葉は辞退するが許されず、2首書く。しかし満足な出来でないので、「これは反古にして下さい。新しく持って来ますから」と願うと、「新しいのを持って来たら取りかえましょう」と言われる。

そして、29日の「日記断片その二」に、

「此ほどの反古に引かへ給てよと短冊もて行きしなれば、こひもて受とる。」

とあり、反古と新しい短冊を交換した。

4月24日

大山巌長女信子(17)、元警視総監三島通庸長男子爵弥太郎と結婚。


つづく