2022年12月31日土曜日

〈藤原定家の時代226〉元暦2/文治元(1185)年10月24日~10月30日 南御堂(勝長寿院)落慶供養(東国御家人の軍事的再結集をはかり、頼朝の源氏嫡流の地位を誇示する場) 小山朝政・結城朝光を源義経討伐に向かわせる 頼朝自身も義経・行家追討のため鎌倉を進発   

 


〈藤原定家の時代225〉元暦2/文治元(1185)年10月19日~10月23日 義経のもとに頼朝追討の兵集まらず 「宣下の後武士を狩る。多く以て承引せずと。」 「近江の武士等、義経等に與せず。奥方に引退すと。」 より続く

元暦2/文治元(1185)年

10月24日

南御堂(勝長寿院)落慶供養

平治の乱で敗死した源義朝の復権を祝う一大セレモニーであり、東国御家人の軍事的再結集をはかり、頼朝の源氏嫡流の地位を誇示する場。畠山重忠が隋兵の筆頭。

供養後、侍所別当和田義盛・所司梶原景時に、明日上洛を軍士に伝えるよう命じる。即座に千葉常胤以下御家人2096人が群集、うち58人が即座に上洛を申出る。頼朝の出発は29日午前10時。

亡父義朝追善供養の一大式典は、鎌倉に集結した東国武士の京都出陣の場となる。「御家人参集」は軍事パレード。土佐坊昌俊を派遣し襲撃を「九箇日」の後と厳命したした時点で、義経追討のシナリオは完成されている。

1年前の10月25日に勝長寿院建立を決めるが、

①「南御堂事始」挙行は屋島の戦勝が確認された日(元暦2年2月)、

②「南御堂柱立」は西海の義経より平氏滅亡の報が入った日(同年4月)。

源家再興を勝長寿院に象徴化させた頼朝の「政治」。

〈大江広元の活動〉

前年、元暦元年(1184)11月26日に造営の犯土(はんど)奉行を勤めた。犯土は、「土を掘ったり移動したりすること」で、実行にあたっては、陰陽道(おんみょうどう)の説に基づき、土中の神(土公)の崇りを避けるために適切な時期が慎重に選ばれた。次に、この年、元暦2年(1185)9月10日、供養に下向する導師の宿の手配に関する御家人賦課、10月3日には供養導師へ与える布施進物の手配を行い、10月21日には供養願文を頼朝御前で読みあげた。広元は、勝長寿院造営に関わる一連の行事の中心的実務に一貫して携わっていた。

北条義時(23)、勝長寿院供養会に供奉。

「今日南御堂(勝長寿院と号す)供養を遂げらる。寅の刻、御家人等の中、殊なる健士を差し辻々を警固す。宮内大輔重頼会場以下を奉行す。堂の左右に仮屋を構う。左方を差し辻々を警固す。宮内大輔重頼会場以下を奉行す。堂の左右に仮屋を構う。左方て布施取り二十人の座と為す。山本にまた北條殿室並びに然るべき御家人等の妻の聴聞所有り。巳の刻、二品(御束帯)御出で。御歩儀。行列 先ず随兵十四人 畠山の次郎重忠 千葉の太郎胤正 三浦の介義澄 佐貫四郎大夫廣綱 葛西の三郎清重 八田の太郎朝重 榛谷の四郎重朝 加藤次景廉 籐九郎盛長 大井の兵三次郎實春 山名の小太郎重国 武田の五郎信光 北條の小四郎義時 小山兵衛の尉朝政 小山の五郎宗政(御劔を持つ) 佐々木四郎左衛門の尉高綱(御鎧を着す) 佐々木四郎左衛門の尉高綱(御鎧を着す) 御後五位六位(布衣下括)三十二人 源蔵人大夫頼兼 武蔵の守義信 参河の守範頼 遠江の守義定 駿河の守廣綱 伊豆の守義範 相模の守惟義 越後の守義資(御沓) 上総の介義兼 前の対馬の守親光 前の上野の介範信 宮内大輔重頼 皇后宮の亮仲頼 大和の守重弘 因幡の守廣元 村上右馬の助経業 橘右馬の助以廣 関瀬修理の亮義盛 平式部大夫繁政 安房判官代高重 籐判官代邦通 新田蔵人義兼 奈胡蔵人義行 所雑色基繁 千葉の介常胤 同六郎大夫胤頼 宇都宮左衛門の尉朝綱(御沓手長) 八田右衛門の尉知家 梶原刑部の丞朝景 牧武者所宗親 後藤兵衛の尉基清 足立右馬の允遠元(最末)次いで随兵十六人 下河邊庄司行平 稲毛の三郎重成 小山の七郎朝光 三浦の十郎義連 長江の太郎義景 天野の籐内遠景 渋谷庄司重国 糟屋の籐太有季 佐々木太郎左衛門定綱 小栗の十郎重成 波多野の小次郎忠綱 廣澤の三郎實高 千葉の平次常秀 梶原源太左衛門の尉景季 村上左衛門の尉頼時 加々美の次郎長清 次いで随兵六十人(・・・) 東方・・・西方・・・。・・・事終わり布施を引かる。・・・還御の後、義盛・景時を召し、明日御上洛有るべし。軍士等を聚めこれを着到せしむ。その内明暁進発すべきの者有るや。別してその交名を注進すべきの由仰せ含めらると。半更に及び、各々申して云く、群参の御家人、常胤已下宗たる者二千九十六人、その内則ち上洛すべきの由を申す者、朝政・朝光已下五十八人と。」(「吾妻鏡」同日条)。

足利義兼、新田義兼・山名義範・源範頼ら五位六位の供養人として源頼朝の後ろ続き布施を取る。随兵には山名重国・藤姓足利(佐野)基綱・佐貫廣(成)綱・佐野又太郎(国綱か)ら(「吾妻鏡」)。安達盛長も行列の先頭14人の1人。

10月25日

・頼朝、小山朝政・結城朝光を源義経討伐に向かわせる。まず、尾張・美濃まで進出し、両国住人に墨俣の渡しを固めさせ、入洛するよう指示。

「今暁、領状の勇士を差し京都に発遣せさる。先ず尾張・美濃に至るの時、両国の住人に仰せ、足近・洲俣已下の渡々を固めしむべし。次いで入洛の最前に、行家・義経を誅すべし。敢えて斟酌すること莫れ。もしまた両人洛中に住せざれば、暫く御上洛を待ち奉るべし。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月25日

・義経に味方する武士が集まらなく、洛中上下はあわてふためく。

後白河は兼実らに対応を検討させる。兼実は、頼朝のもとに使者を出すべきだが、使者を出しても頼朝の憤怒はおさまらないだろう。使者を出すならば、宣旨を出す前に遣わすべきで、今さら遅いと突き放している。率先して追討宣旨発給に同意し、宣旨発給の上卿(しょうけい)まで務めた左大臣経宗が「早く弁明の使者を派遣するのが上策です」と述べたと聞き、兼実はその変わり身の早さを批判(経宗はこの後、頼朝に睨まれ、しばらく干される)。

なお、兼実に院宣を伝えた高階泰経は、後白河に政治力がないから、天下が乱れるのだと兼実にぼやいている。

結局、後白河は頼朝に使者を派遣して弁明するが、頼朝の怒りは収まらない。

これが、兼実にとっての追い風となる。

10月27日

「二品奉幣の御使を伊豆・箱根等の権現に立てらる。伊豆は新田の四郎、箱根は工藤庄司なり。各々御馬一疋を奉らると。また筑前の介兼能御使として上洛すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月28日

・片岡常春が舅佐竹義政に同心。謀反とみなし所領を没収される。

「片岡の八郎常春、佐竹の太郎(常春舅)に同心し謀叛の企て有るの間、彼の領所下総の国三崎庄を召し放たれをはんぬ。仍って今日千葉の介常胤に賜う。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月29日

・頼朝軍、義経・行家追討のため、前陣を土肥実平、後陣を千葉常胤が勤め鎌倉出発。この日、相模中村庄に到着。

「豫州・備州等の叛逆を征せんが為、二品今日上洛し給う。東国の健士に於いては、直にこれに具せらるべし。山道・北陸の輩は、山道を経て近江・美濃等の所々に参会すべきの由、御書を廻らさる。また相模の国住人原の宗三郎宗房は、勝れて勇敢の者なり。而るに早河合戦の時、景親に同意せしめ、二品を射奉るの間、科を恐れ逐電す。当時信濃の国に在り。早くこれを相具し、洲俣辺に馳参すべきの旨、彼の国の御家人等の中に仰せ下さると。巳の刻進発せしめ給う。土肥の次郎實平先陣に候す。千葉の介常胤後陣に在り。今夜相模の国中村庄に御止宿。当国の御家人等悉く参集す。」(「吾妻鏡」同日条)。

「伝聞、義経猶法皇を具し奉るべきの由風聞す。仍って泰経を以てこれを尋ねらる。仍って誓状を以て諍え申すと。」(「玉葉」同日条)。

10月30日

・摂津の太田頼基が城郭を構え、西国行きの義経を狙い、義経のために船を用意した紀伊権守兼資を討つ。そのため、義経一行が北陸下向との風聞(「玉葉」同日条)。


つづく



国民には不人気だが、霞が関では大人気…岸田首相が「評判の悪い政策」を次々と断行している本当の理由 これで総選挙を乗り切れると思っているのか(PRESIDENT Online 磯山友幸); 原発に防衛費…霞が関の思いが着実に実現している 「岸田降ろし」は不発に終わった 「5年間で43兆円」の根拠はどこにあるのか…  国民への説明」の前に批判回避を優先している 霞が関の得意技は未来の政権まで縛ること 消費税は1%で2兆円の「打ち出の小槌」                     

【増税軍拡だけでなく借金軍拡までも、、、!】 防衛費5年間で大幅増の43兆円、実際は60兆円近くに膨張 そのわけは…(東京); ◆28年度以降のローン支払いが16兆5000億円にも ◆財務省「通常あり得ない」 防衛省、全体像示さず

 



 

2022年12月30日金曜日

広告収入が激減しているTwitterでは、データセンターを閉鎖し、オフィス賃料を滞納してオフィスが強制退去されそうになり、トイレットペーパーも無くなり、社員は自分のトイレットペーパーを持って出社しているようです。、、、

〈藤原定家の時代225〉元暦2/文治元(1185)年10月19日~10月23日 義経のもとに頼朝追討の兵集まらず 「宣下の後武士を狩る。多く以て承引せずと。」 「近江の武士等、義経等に與せず。奥方に引退すと。」  

 


〈藤原定家の時代224〉元暦2/文治元(1185)年10月15日~10月18日 堀川夜討(頼朝が派遣した土佐坊昌俊らが義経を襲撃) 後白河、義経・行家に頼朝追討の院宣を下す より続く

元暦2/文治元(1185)年

10月19日

・頼朝、父遺愛の太刀「吠丸」を法皇に献じる(法皇護身の剣紛失を受けて)。

「法皇御護りの御劔去々年紛失す。去る比江判官公朝これを求め得てこれを献上せしむ。風聞するの間、今日二品御書を以て、公朝に感じ仰せらると。これ左典厩の太刀を以て、献じ奉らるる所なり。吠丸と号し鳩塢を蒔くと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月19日

・義経勢が山之内経俊の伊勢守護所を包囲したとの風聞。

10月20日

「御堂供養の導師本覺院坊僧正公顕下着す。二十口の龍象を相具する所なり。参河の守範頼朝臣相伴い参着すと。彼の朝臣今夜即ち二品の御所に参り、日来の事を申す。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月21日

・勝長寿院の本尊阿弥陀如来像完成、安置。仏師成朝、鎌倉出発。

「南御堂に本仏(丈六、皆金色の阿弥陀像。仏師は成朝なり)を渡し奉る。・・・今日、源蔵人大夫頼兼京都より参着す。去る五月、家人久實犯人(昼御座の御劔盗人)を搦め進す。件の賞に依って、去る十一日従五位上に叙す。久實また兵衛の尉を賜う。而るに息男久長に譲るの由これを申す。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月22日

・宣旨にも拘らず、兵を近国に募るが義経の許に応ずるものなし。近江の武士達は奥方に退く。畿内近国の武士は義経を見限る。

「伝聞、宣下の後武士を狩る。多く以て承引せずと。」(「玉葉」同日条)。

義経は西海に逃れる事を模索し、船をあつらえるため大夫判官斉藤友実を摂津に派遣。途中、元義経の家人で児玉党の庄四郎に逢うが、隙を見て友実は殺害される。友実は、仁和寺宮に童として仕え、平家に属し、義仲に仕え、義経の家人となった人物。義経に従う者は、この様な源平の間を渡りながら仕える者が多い。

10月22日

頼朝追討宣旨の報、一条能保の使者により鎌倉に伝わる。頼朝は動揺もなく24日の勝長寿院の供養の沙汰に専心

「左馬の頭能保が家人等京都より馳参す。申して云く、去る十六日、前の備前の守行家、祇候人の家屋を追捕し、下部等を搦め取る。結句行家北小路東洞院の御亭に移住すと。また風聞の説に云く、去る十七日土左房の合戦その功成らず。行家・義経等、二品追討の宣旨を申し下すと。二品曽て動揺せしめ給わず。御堂供養沙汰の外他に無しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

〈頼朝の目論見=挑発説〉

ここで頼朝が動揺しなかったのは、すべてが頼朝の目論見通りであったからだろう。後白河に頼朝追討宣旨を出させるように頼朝自身が仕向けた。

壇ノ浦後、まず自由任官者を叱責することで、義経に頼朝の怖さを知らせ、梶原の讒言を機に義経の非を責め、西国御家人に義経の命に従わないことを指示して、義経を孤立させる。

ついで、鎌倉に下向した義経を鎌倉に入れず、弁明をも聞かずに京都に返し、同時に恩賞地を没収して、義経に頼朝に対する不信感や不満を募らせる。伊予守に任官させて検非違使の職を奪うという目論見は失敗したものの、充分に義経を追い詰めたうえで、忘れられたような存在といえる行家の謀反をでっち上げて、義経の反応を何い、その反応を口実に刺客を送る。刺客は通常よりもゆっくりと向かわせることで、向かっていることが故意に義経達に伝わるようにし、義経と行家が結ばざるを得なくさせ、ついに頼朝追討宣旨を要求させた。

刺客土佐房の失敗も想定のうえで、土佐房が老母や嬰児のことを頼朝に頼み、頼朝がそれを快諾してすぐに所領を与えたのも、その死が想定されていたからであるとみる。『吾妻鏡』によれば、義経への刺客のことは日頃から群議をこらしていたという(10月9日条)。

刺客が送られることがわかれば、義経としては戦うしかない。戦うならば、同じ様な境遇にあり、しかも近くにいる行家と結び付くのも自然の流れである。頼朝の刺客は宣旨や院宣を得たうえでの追討ではなく、頼朝による家人への私刑にすぎない。私刑として、大夫尉で院御厩司であり、しかも殿上人で院の近臣である義経を追討しようというのだから、頼朝の行為こそ朝廷や後白河への謀反に等しく、後白河を挑発しているともいえる。

兼実は、『玉葉』に、「頼朝法皇の叡慮に乖(そむ)くことはなはだ多し」(10月13日条)、「(義経を)京都に置きながら武士を差し上せ、誅すべき由の風聞、狼藉の条すでに朝章を忘るるに似たり」(10月17日条)という。

こうした私刑に対し、宣旨を得て対抗すれば、義経達の方に戦うための大義名分が成り立つことになるし、対立が長く続くとなれば、義経達が宣旨を得ておくのが得策と考えるのは当然の流れである。

頼朝は、このようにして追討宣旨を出させ、追討宣旨を出したという後白河側の負い目を利用して政治的要求を認めさせようとした。義経に対する頼朝の仕打ちはすべてはその目論見のためであった。

この頼朝挑発説は、穿った解釈も認められるし、結果論であるという批判もある。しかし、壇ノ浦合戦後の義経と頼朝の不和の原因を解釈するためには、かなり説得力を持つものといえる

10月23日

・近江の武士、義経にくみせず、奥に引き退く。

「人云く、近江の武士等、義経等に與せず。奥方に引退すと。」(「玉葉」同23日条)。

10月23日

義経の縁者により河越重房が勝長寿院供養供奉人から外される。

「山内瀧口の三郎経俊が僕従伊勢の国より奔参す。申して云く、伊豫の守宣旨と称し近国の軍兵を催せらる。この間経俊を誅せんが為、去る十九日守護所を圍まる。定めて遁れざらんか。仰せに曰く、この事実證に非ざるか。経俊左右無く人に度らるべきの者に非ずと。経俊は勢州守護に補し置かるる所なり。明日御堂供養に御出の随兵以下供奉人の事、今日これを清撰せらる。その中河越の小太郎重房は、兼日件の衆に加えらるると雖も、豫州の縁者たるに依ってこれを除かる。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


2022年12月29日木曜日

〈安倍元首相襲撃事件から約半年〉伯父が語る山上徹也の今。「衣食住を与えてもろうて元気にしているようです」「英和辞典、参考書を差し入れた」「統一教会は今、逃げ回っている」(集英社オンライン);「自民党は、解散請求に応じたくないから、救済法案を可決させたんでしょう。統一教会が解散すれば、清算法人になる。そうすれば、裁判所が清算人を専任し、その内部書類が手に入って、安倍さんのビデオメッセージに、どれくらいお金が動いたのかがわかってしまう。だから、解散させたくないんじゃないですか」   

 



 

報道自由度、日本は4つ下げ71位に 国境なき記者団(日経);「日本についてRSFは、大企業の影響力が強まり、記者や編集部が都合の悪い情報を報じない「自己検閲」をするようになっている国の例として韓国やオーストラリアとともに言及した。」 / 報道の自由度「政治的指標」96位/180ヵ国という日本のスコアは、ブルガリアとリビアの間です。 リビアと同じくらい・・・。            

 



 

〈藤原定家の時代224〉元暦2/文治元(1185)年10月15日~10月18日 堀川夜討(頼朝が派遣した土佐坊昌俊らが義経を襲撃) 後白河、義経・行家に頼朝追討の院宣を下す  


 〈藤原定家の時代223〉元暦2/文治元(1185)年10月1日~10月14日 建礼門院徳子、寂光院に入る 梶原景季、鎌倉に帰り、義経の状況を報告 頼朝、義経を誅すべき事を謀る 土佐坊昌俊を義経暗殺の刺客として京へ派遣が決まる 「義経・行家同心し鎌倉に反く。日来内議有り。昨今すでに露顕すと」(『玉葉』) より続く

元暦2/文治元(1185)年

10月15日

・後白河法皇、石清水八幡宮に行幸。行幸の勧請として田中道清を筥崎宮検校に補任し、筥崎宮を石清水別宮とする。

10月15日

「齋宮の用途進納せらるべきの由の事、並びに太神宮御領伊澤神戸・鈴母御厨・沼田御牧・員部神戸・田公御厨等所々、散在の武士その故無く押領する事、尋ね成敗せらるべき由の事、院宣到来す。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月16日

・義経、参院。頼朝追討宣旨を請う。

勅許なければ、九州に下向するという。その気色は、天皇・上皇・臣下等を伴って下向する趣であった。そこで、後白河は左・右・内の三大臣にそのことを諮問した。

右大臣兼実は追討宣旨には慎重で、頼朝に事情をよく聞いて、そのうえで頼朝に罪科があれば宣旨を出すべきとの意見。兼実は頼朝シンパであり、これ以前、頼朝から摂政の推挙を受けていたが、そのために宣旨を出すことに慎重になっているのではなく、道理を述べていることを強調している。兼実は、義経の行動に一応の理解は示しながらも、義経は頼朝とは「父子の義」であるから、それを追討しようというのは「大逆罪」であると義経を非難もしている(『玉葉』17日条)。これによれば、義経は頼朝と父子の契りを結んでいたようで、だとすれば、義経の行為は不孝ということになるが、しかし、頼朝の義経に対する仕打ちも、父親の仕打ちとはいえない。

この諮問は17日早朝になされたらしいが、亥刻(午後10時前後)、義経第が襲撃されたとの報告が兼実のもとに入る。

10月16日

・源行家、祇候人の家屋を追捕し、北小路東洞院邸に移り住む。

10月17日

堀川夜討

土佐坊昌俊、武蔵児玉党の水尾谷十郎以下60余率い義経の六条室町亭を襲撃。義経は佐藤忠信らと闘い、行家も駆けつけ防戦、退散させる。

26日、義経、鞍馬山奥に逃亡の昌俊と郎党3人を捕縛、六条河原で斬首。義経、遂に頼朝への反抗を決意。昌俊派遣の目的は、義経を挙兵させることで、頼朝にとって暗殺の失敗・成功は問題ではない

兼実は、「もし義経に本当に罪科があるならば、その身を拘禁して沙汰をすべきなのに、京都に置きながら刺客を差し向けるとは、狼籍も甚だしい」という(『玉葉』10月17日条)

なお、土佐房の襲撃は、頼朝の命による謀殺ではなく、事情を知った京中頼朝方の先制攻撃だったとの説もある。

「土左房昌俊、先日関東の厳命を含むに依って、水尾谷の十郎已下六十余騎の軍士を相具し、伊豫大夫判官義経の六条室町亭を襲う。時に豫州方の壮士等、西河の辺に逍遙するの間、残留する所の家人幾ばくならずと雖も、佐藤四郎兵衛の尉忠信等を相具し、自ら門戸を開き、懸け出て責め戦う。行家この事を伝え聞き、後面より来たり加わり、相共に防戦す。仍って小時昌俊退散す。豫州の家人等、豫州の命を蒙り則ち仙洞に馳参す。無為の由を奏すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

「去る十一日、義経奏聞して云く、行家すでに頼朝に反きをはんぬ。制止を加うと雖も叶うべからず。この為如何てえり。仰せに云く、相構えて制止を加うべしてえり。同十三日、また申して云く、行家が謀叛制止を加うと雖も、敢えて承引せず。仍って義経同意しをはんぬ。その故は、身命を君に奉り、大功を成すこと再三に及ぶ。皆これ頼朝代官なり。殊に賞翫すべきの由存ぜしむるの処、適々恩に浴す所の伊豫の国、皆地頭を補し、国務に能わず。また没官の所々二十余ヶ所、先日頼朝分賜す。而るに今度勲功の後、皆悉く取り返し、郎従等に宛て給いをはんぬ。今に於いては、生涯全く以て執思すべからず。何ぞ況や郎従を遣わし、義経を誅すべきの由、慥にその告げを得る。遁れんと欲すと雖も叶うべからず。仍って墨俣の辺に向かい、一箭を射、死生を決するの由所存なりと。仰せに云く、殊に驚き思し食す。猶行家を制止すべしてえり。その後無音。去る夜重ねて申して云く、猶行家に同意しをはんぬ。子細は先度言上す。今に於いては、頼朝を追討すべきの由、宣旨を賜わんと欲す。もし勅許無くんば、身の暇を給い鎮西に向かうべしと。その気色を見るに、主上・法皇已下、臣下上官、皆悉く相率い下向すべきの趣なり。すでにこれ殊勝の大事なり。この上の事何様沙汰有るべきか。能く思量し計奏すべしてえり。・・・亥の刻、人走り来たり告げて云く、・・・頼朝郎従の中、小玉党(武蔵国住人)三十余騎、中人の告げを以て義経の家に寄せ攻む(院の御所近辺なり)。殆ど勝ちに乗らんと欲するの間、行家この事を聞き馳せ向かい、件の小玉党を追い散らしをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

10月18日

・後白河法皇(59)、義経・行家に頼朝追討の院宣を下す(すでに11、13、16日に義経らから頼朝追討の院宣を促されている)。

後白河院は院御所六条殿に左大臣藤原経宗・内大臣藤原実定を召集しただけで、「更に議定に及ぶべからず」(『玉葉』10月19日条)として宣旨発給を決定。

しかし、畿内の武将は義経から離反し頼朝側についたため失敗。

院の見通し:

今の状況では、京には義経の他に警衛する武士はいない、勅許を出さず彼等が濫行に及べば防御できない。勅許が出ないならば、彼等は天皇・上皇を鎮西に連れて下る気配もある。今の難を逃れるには当面勅許を与え、のち事情を頼朝に伝えれば、頼朝も憤らないだろう。(『玉葉』18日・19日条・『吾妻鏡』18日条)。しかし、兼実が危惧したように、この見通しは甘いものであった。

「義経言上の事、勅許有るべきか否や。昨日仙洞に於いて議定有り。而るに当時義経の外警衛の士無し。勅許を蒙らずんば、もし濫行に及ぶの時、何者に仰せて防禦せらるべきや。今の難を遁れんが為、[先ず宣下し、追って子細を関東に仰せられば、二品定めてその憤り無きかの由治定す。仍って]宣旨を下さる。・・・従二位源頼朝卿偏に武威を耀かし、すでに朝憲を忘る。宜しく前の備前の守源朝臣行家・左衛門の少尉同朝臣義経等をして彼の卿を追討せしむべし。蔵人頭左大弁兼皇后宮亮藤原光雅(奉る) 」(「吾妻鏡」同日条)。

義経・頼朝の対決を知った京中の貴賤は、「落ちて関東へ行く者もあり、又止まりて判官に付く者もあり」という状態で、「上下、なにとなく周章(あわて)迷(まよ)へり」というような騒然たる状況にあった(延慶本『平家物語』巻12・8)


つづく


コロナ死者最多420人/日 昨日に引き続き最多更新 / コロナ死者最多371人/日(第7波の347人/日を上回る) / 日本はコロナ新規感染者・死者数でG7ワースト独走中(日刊ゲンダイ);「岸田首相は政府のコロナ対策本部長だが、足元の感染拡大を放置」「岸田政権が発足した昨年10月以降、コロナ死者数は約3万6000人に上る。安倍・菅政権時代のコロナ死者数の約2倍」昭和大医学部客員教授・二木芳人氏(臨床感染症学)「経済活動を最優先した政府のコロナ対策は、いわばワクチン接種と個人の感染対策に基づく『自己責任』。政府は金輪際、行動制限につながるメッセージは出さないつもりでしょう」「高齢社会の日本は、感染が広がれば、それだけ高齢者の重症・死亡リスクが高まります」       

 



 

2022年12月28日水曜日

徹子「来年はどんな年になりますかね」 タモリ「新しい戦前になるんじゃないですかね」(TVerあり) / 「徹子の部屋」年末の顔・タモリ登場 来年は「新しい戦前になるんじゃないですかね」(デイリー)



 

本当に残念なのは、「重く受け止めている」と軽く言い放っているのに、それを「重く受け止めている」政治記者(立岩陽一郎) / 『今回の両氏の場合も、辞任の理由は専ら、国会審議への影響回避であり、自身に向けられた疑念や批判に真摯(しんし)に向き合ってのことではない。自身に向けられた疑念や批判に真摯に向き合ってのことではない。「私自身に関することについては、違法性は何一つなかった」(秋葉氏)、「応援してくれる支援者もたくさんいる」(杉田氏)と、きのうも弁明を繰り返した』(朝日)   

〈藤原定家の時代223〉元暦2/文治元(1185)年10月1日~10月14日 建礼門院徳子、寂光院に入る 梶原景季、鎌倉に帰り、義経の状況を報告 頼朝、義経を誅すべき事を謀る 土佐坊昌俊を義経暗殺の刺客として京へ派遣が決まる 「義経・行家同心し鎌倉に反く。日来内議有り。昨今すでに露顕すと」(『玉葉』)    

 


〈藤原定家の時代222〉元暦2/文治元(1185)年9月1日~9月26日 頼朝、義経の形勢を窺うために梶原影季を上洛させる 平時忠配流 「昨日は西海の波の上にたゞよひて、怨憎会苦の恨みを扁舟の中に積み、今日は北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦の悲しみを、故郷の雲に重ねたり。」(『平家物語』) 範頼入洛 より続く

元暦2/文治元(1185)年

10月初め

・建礼門院徳子、寂光院に入る。晩秋(延慶本「平家物語」)、10月初め(長門本「平家物語」巻20)。

長門本「平家物語」巻20によれば、

①7月9日の大地震により野河御所が大破、

②異母兄宗盛・清宗父子処刑を聞き、悲しみの余り深山の奥に幽閉したいと思う、

③侍る女房のゆかりの寂光院を勧められ、そこの移る決心をする、

④参議右衛門藤原隆房の妻(女院の妹)が移動の世話をする(輿や女房車)。

阿波内侍の父の故藤原貞憲が大原に持っていた坊を女院に勧めた(角田文衛説)。

文治2年秋、かつて女院に仕えた右京大夫が訪れたが、昔にかわる質素さに涙している。女院の毎日は、安徳天皇の乳母であった大納言典侍局こと重衝の北の方や、信西の女の阿波内侍ら3、4人の女房が世話をしたといい、後に右京大夫も奉仕したという。ときには女院の姉妹である冷泉大納言隆房、七条修理大夫信隆の妻2人も訪れ、経済的な援助もしたことと思われる。また、文治3年、頼朝から庄園二ヵ所を与えられ、不如意をきたすことはなかったと思われる。

10月4日

・「豊後の国住人臼杵の二郎惟隆・緒方の三郎惟栄等、去年合戦の間、宇佐宮の宝殿を破却し神宝を押し取る。これに依って配流の官符を下さると雖も、去る四日非常の赦に逢うと。」(「吾妻鏡」同16日条)。

10月6日

・梶原景季、鎌倉に帰り、義経の状況を報告。頼朝、義経を誅すべき事を謀る。

義経亭に「御使」として面会を申し入れたが、「違例」(病気)として拒否され、一両日して再度赴き面会した。憔悴の様子、行家追討の話を持ち出すと、行家は普通の人ではないので、家人を派遣しても降伏は難しい、早く病気を治して計略を巡らせたいので、これを伝えてくれとのことと報告。頼朝は、義経が行家に同意して虚病を称しているのは明かで、これで謀反は露見したと云う。景季も仮病に同意する。

「一両日を相隔てまた参らしむの時、脇足に懸かりながら相逢われる。その躰誠に以て憔悴、灸数箇所に有り。而るに試みに行家追討の事を達するの処、報ぜられて云く、所労更に偽らず。義経の思う所は、縦え強竊の如き犯人たりと雖も、直にこれを糺し行わんと欲す。況や行家が事に於いてをや。彼は他家に非ず。同じく六孫王の余苗として弓馬を掌り、直なる人に准え難し。家人等ばかりを遣わしては、輙くこれを降伏し難し。然かれば早く療治を加え平癒の後、計を廻らすべきの趣披露すべきの由と。てえれば、二品仰せて曰く、行家に同意するの間、虚病を構うの條、すでに以て露顕すと。景時これを承り、申して云く、初日参るの時面拝を遂げず。一両日を隔てるの後見参有り。これを以て事情を案ずるに、一日食さず一夜眠らずんば、その身必ず悴ゆ。灸は何箇所と雖も、一瞬の程にこれを加うべし。況や日数を歴るに於いてをや。然れば一両日中、然る如きの事を相構えらるるか。同心の用意これ有らんか。御疑胎に及ぶべからずと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月9日

・頼朝、義経追討を議し、義経暗殺のため土佐坊昌俊を刺客として京へ派遣が決まる。多くの御家人が事態するなか、昌俊のみが諒承し、頼朝は要望に応じて下野の中泉庄(栃木市)を与える。

頼朝は、「行程九箇日たるべき」と厳命(最速であれば3日の行程)。頼朝側に刺客派遣を察知されるのを前提とする、挑発目的にある(仕掛けられた罠)。

「伊豫の守義経を誅すべきの事、日来群議を凝らさる。而るに今土佐房昌俊を遣わさる。この追討の事、人々多く以て辞退の気有るの処、昌俊進んで領状を申すの間、殊に御感の仰せを蒙る。すでに進発の期に及び、御前に参り、老母並びに嬰児等下野の国に在り。憐愍を加えしめ御うべきの由これを申す。二品殊に諾し仰せらる。仍って下野の国中泉庄を賜うと。昌俊八十三騎の軍勢を相具す。三上の彌六家季(昌俊弟)、錦織の三郎・門眞の太郎・藍澤の二郎以下と。行程九箇日たるべきの由定めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月11日

・義経、参院。行家の謀反を制止できない旨を奏上。行家を制止するよう勅答を受ける。13日にも。

「去る十一日並びに今日、伊豫大夫判官義経潛かに仙洞に参り奏聞して云く、前の備前の守行家関東に向背し謀叛を企つ。その故は、その身を誅すべきの趣、鎌倉の二品卿命ずる所、行家の後聞に達するの間、何の過怠を以て無罪の叔父を誅すべきやの由、欝陶を含むに依ってなり。義経頻りに制止を加うと雖も、敢えて拘わらず。而るに義経また平氏の凶悪を断ち、世を静謐に属かしむ。これ盍ぞ大功ざらんか。然れども二品曽てその酬いを存ぜず、適々計り宛てる所の所領等、悉く以て改変す。剰え誅滅すべきの由、結構の聞こえ有り。その難を遁れんが為、すでに行家に同意す。この上は、頼朝追討の官符を賜うべし。勅許無くんば、両人共自殺せんと欲すと。能く行家の鬱憤を宥むべきの旨勅答有りと。」(「吾妻鏡」同13日条)。

10月11日

「今日、佐々木の三郎成綱(本佐々木と号す)が本知行の田地、元の如く領掌すべきの旨これを書き下さる。但し佐々木太郎左衛門の尉定綱の所堪に従うべしと。これ一族に非ずと雖も、佐々木庄の惣管領は定綱なり。成綱分その内に在るが故か。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月13日

・行家と義経が日頃相談して鎌倉に反くことが露見。藤原秀衡、義経に与同するとの風説流れる。

兼実は、義経自身決起するのは、

①行家の謀叛を制止するのは不可能で、それに同意した

②平家追討を成功させたのは頼朝代官の義経なのに、それが尊重されていない

③恩賞の伊予国にはみな地頭が置かれて国務が行えない

④恩賞の没官所々20余ヵ所が、すべて取り返されて頼朝の郎従に与えられた

⑤確かな筋から義経誅殺の情報有り、逃げることがかなわない

の五つの理由があると院に奏聞。

〈環境条件〉

①義経が期待する武力の問題:

関東御家人の中にも「郎党親族」を頼朝に粛清され謀殺され恨みを持つ者多い。佐竹一族、甲斐源氏、上総介一門、義仲一党など。また平氏残党もあり。しかも義経・行家は連携。

②院の動向:

頼朝との齟齬あり、追討申請は「頗る許容あり」の雰囲気。

義経離反の報、兼実のもとには側近源季長から伝わった。

「早旦、季長朝臣来たり申して云く、義経・行家同心し鎌倉に反く。日来内議有り。昨今すでに露顕すと。巷説たりと雖も浮言に非ず。義経の辺郎従の説と。相次いで説々甚だ多し。頼朝義経の勲功を失い、還って遏絶の気有り。義経中心怨みを結ぶの間、また鎌倉の辺、郎従親族等、頼朝が為生涯を失い、宿意を結ぶの輩、漸く以て数を積む。彼等内々義経・行家等の許に通せしむ。しかのみならず、頼朝法皇の叡慮に乖くの事太だ多しと。仍って事の形勢を見て、義経竊に事の趣を奏す。頗る許容有り。仍って忽ちこの大事に及ぶと。或いは云く、秀衡また與力すと。子細に於いては実説定まらずと雖も、蜂起に於いてはすでに露顕するなり。」(「玉葉」同日条)。

10月14日

「夜に入り定能卿示し送りて云く、法皇に申すの処、強ち不快の気無しと。悦びを為す。世上の騒動、昨今殊に甚だし。京中の諸人雑物を運ぶ。必ず近年の流例たり。悲しむべしと。平氏誅伐の後、頼朝在世の間、忽ち大乱に及ぶべきの由、万人存ぜざる事か。苛酷の法殆ど秦の皇帝に過ぎんか。仍って親疎怨みを含むの致す所なり。」(「玉葉」同日条)。


つづく



2022年12月27日火曜日

〈藤原定家の時代222〉元暦2/文治元(1185)年9月1日~9月26日 頼朝、義経の形勢を窺うために梶原影季を上洛させる 平時忠配流 「昨日は西海の波の上にたゞよひて、怨憎会苦の恨みを扁舟の中に積み、今日は北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦の悲しみを、故郷の雲に重ねたり。」(『平家物語』) 範頼入洛    

〈藤原定家の時代221〉元暦2/文治元(1185)年8月4日~8月31日 頼朝、佐々木定綱に対し行家追討を命じる(頼朝の挑発) 「文治」改元 頼朝、関東六分国に源氏から国司を任命 義経は検非違使兼任で伊予守に 東大寺大仏の開眼供養 より続く

元暦2/文治元(1185)年

9月1日

・頼朝、勅使大江公朝と面談。前日、源義朝の遺骨を届けに鎌倉到着。

9月2日

・頼朝、勝長寿院供養の導師の布施などの調達のため梶原景季・義勝房成尋を使節として上洛させる。景季には、義経亭に赴き、行家の在所を調べ誅戮するよう触れ、義経の「形勢」を窺うよう命じる。また、流人時忠・時実父子の速やかな配流を朝廷に言上させる。

「梶原源太左衛門の尉景季・義勝房成尋等、使節として上洛するなり。南御堂供養導師の御布施並びに堂の荘厳具(大略すでに京都に調え置く)奉行せんが為なり。また平家縁坐の輩未だ配所に赴かざる事、若しくは居ながら勅免を蒙る事、子細に及ばず、遂にまた下し遣わされべくんば、早く御沙汰有るべきかの由これを申さる。次いで御使と称し、伊豫の守義経の亭に行き向かい、備前の前司行家の在所を尋ね窺い、その身を誅戮すべきの由を相触れて、彼の形勢を見るべきの旨、景季に仰せ含めらると。去る五月二十日、前の大納言時忠卿以下、配流の官符を下されをはんぬ。而るに(時忠父子が)今に在京の間、二品(頼朝)鬱憤し給ふの処、予州(義経)、件の亜相(時忠)の聟として、其の好を思ふにより、これを抑留す」(「吾妻鏡」同日条)。

9月3日

・源義朝の遺骨、南御堂(のち勝長寿院と号す)の敷地内に葬られる(「吾妻鏡」同日条)。

9月4日

・勅使大江公朝、頼朝からの伝言(先の大地震について、徳政と崇徳院の鎮魂に尽力すべし)を携えて京に戻る(「吾妻鏡」同日条)。

9月4日

・緒方惟栄、7月頃、宇佐八幡焼討ち(前年1184年7月6日)により流罪となるが、平家滅亡の功績(1183年8月大宰府での平家追放、この年初めの兵船提供)が認められ、東大寺大仏供養の機会に恩赦(「吾妻鏡」10月16日条)。義経が、惟栄を味方に引き入れる為、刑部卿豊後国司代頼経・大蔵卿高階泰経と赦免工作。

9月5日

・威光寺の寺領をめぐる争いは、4月1日の公文所裁定によっても収まらなかったようで、この日、再び小山有高の押領を停止する旨の頼朝の裁定が下され、藤原邦通らがこれを奉行し、大江広元・二階堂行政・大中臣秋家・足立遠元らが連署した文書が発給される。

「小山の太郎有高威光寺領を押妨するの由、寺僧解状を捧ぐ。仍ってその妨げを停止せしめ、例に任せ寺用に経すべし。もし由緒有らば、政所に参上せしめ、子細を言上すべきの旨仰せ下さる。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月7日

・源範頼、「長門国在廰官人等」に下文「早く豊西郡内吉永別府四至内荒熟田畠参拾町を以て一宮御領として御祈祷を致すべき事」を下す。

8月12日

・梶原景季、入京。この日以後、義経と対面。義経、病中のため行家追討のことは平癒後に計をめぐらすと返事。

8月18日

・頼朝、吉田経房を中納言に推挙。

「新藤中納言経房卿は廉直の貞臣なり。仍って二品常に子細を通せしめ給う。今に於いては、吉凶互いに示し合わさる。而るに黄門望み有るの由内々申さるるの間、二品これを吹挙せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月18日

「東国の領等、領家の進士に随うべきの由、院より御教書を頼朝の許に遣わす。泰経卿の奉書下し給う所なり。 」(「玉葉」同日条)。

8月19日

・九条兼実の家司の藤原光長、頼朝に東国領安堵を願う。25日、頼朝より安堵の下文が送られる。この頃、九条兼実は頼朝推挙で摂関就任を謀り、頼朝との連絡は緊密。

8月21日

「参河の守(範頼)の使者参着す。すでに鎮西を出て途中に在り。今月相構えて入洛すべし。八月中参洛すべきの由厳命を蒙ると雖も、風波の難に依って遅留す。恐れ思うと。この使い京都より先立の旨これを申す。而るに今の申し状、御命を重んぜらるるの條掲焉たるの由、感じ仰せらる。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月23日

・平時忠、この日、建礼門院の許に参上し、配流先の能登へ出発。家族の随伴は認められず、僕従2~3人のみが従う。西近江路を進み、この日、阿宇岐(大津市仰木町)泊り。時忠の配所は能登最北の郡珠洲郡。3年後、文治5年(1189)2月24日配所で没。62歳。

「昨日は西海の波の上にたゞよひて、怨憎会苦(おんぞうえき)の恨みを扁舟(へんしゆう)の中(うち)に積み、今日は北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦の悲しみを、故郷の雲に重ねたり。」(『平家物語』巻12「平大納言の流されの事」)

長子時実は、周防国配流の刑を受けていたが、義経の参謀格として都に残る。11月、義経と共に都を退去、一行は離散。時実は都に戻り潜伏中に捕縛、鎌倉に送られた後、都に戻され、上総へ配流となる。

ニ男時家は、これより先治承3年11月、父時忠の後妻頌(むね)子(帥典侍そちのすけ)の讒訴により解官、上総に流され、上総権介平広常に迎えられ、後、鎌倉で頼朝側近となり、鎌倉で没。

後妻の藤原頌(むね)子は、権中納言藤原顕時の娘。初め女御(のち建春門院)平滋子の女房り、ついで中宮・徳子の女房、治承2年11月、皇子言仁(安徳天皇)の乳母に採用され、候名を帥(そち)と改め、治承4年(1180)3月、典侍に任じられ(帥典侍そちのすけ)、恐らく従三位まで進んだものと想定される。

壇ノ浦から帰洛した後の領子の動静はよく分からない。時忠が配地へ去ると、彼らの邸宅の東洞院第は没収され、平家没官領の一つとして頼朝に処分が委ねられた。しかし頼朝は、頼りにしていた権中納言・藤原経房の意向を忖度したと見え、この邸宅をそのまま時忠め家族を居住させていた。ところが建久六年(1195)3月に上洛した時、頼朝はこの邸宅を六條若宮に近くて便利だと言うので、若宮の供僧らの宿坊に宛てた。そこで領子や娘の帥典侍尼は、早速、頼朝に愁状を呈することとし、これを携えた使者は7月18日の夕、鎌倉に到着した。頼朝は法皇や経房への思惑もあったと見え、愁状の趣旨を容れ、収公をさし止め、もとの通り時忠の遺族に領掌させた。

「平家物語」作者とされる下野守藤原行長は頌子の甥であり、行長は世紀の悲劇の目撃者であるこの叔母から平家の盛衰を取材している。

〈時国家と則貞家〉

伝えによれば時忠は配所で時国・時康の二子をもうけ、その子孫が後に町野(まちの)に移った時国家であり、この大谷村に残った則貞(のりさだ)家だという。しかし、3年間で2人の子が生まれるかとの疑問もあり、これは、時忠に従った侍や郎従らの子孫と見るほうがよいのかもしれない。

時国家は、ある時期町野川流域に移りそこの豪農となった。日本常民文化研究所の調査・刊行になる『奥能登時国家文書』所収文書(上時国家)によれば、いちばん古いのが天文10年(1541)12月24日の日付で山崎弥太郎なるものが、時国衛門太郎に千代という名の11歳の少女を800文で売渡した人身売買の文書である。衛門太郎の肩に「下町野領家万ヒツメ」と書かれているから、この時代にはすでに町野に住んでいたと推測できる。天正3年(1575)6月13日の小刀禰(ことね)兵衛太郎らの時国四郎三郎あて一札(誓約書)は、舟の梶を盗んで売ったかどで殺されるべきところを助けられたうえは、被官とおぼしめして御用仰付けられれば緩怠(かんたい)なく馳走(奉仕)いたしますと誓ったものであるが、四郎三郎が曽々木浦に舟やよろずの道具をおいていたとあるから、時国家は曽々木海岸を拠点に海運にも当っていたのであろう。それを「時国船」といっていた。また百姓が山の木を切って時国家に謝罪した文書もあるから、山持ちでもあった。また、元和2年(1616)12月23日付、寺地村九郎左衛門の一札や元和5年2月朔日付、久次一札では、前者は1俵4合を借用したものであるが、その宛名が「時国おかゝ様」、後者はエゾの松前に行って仕入れた昆布や干魚をかすめとったことを謝罪したものであるが、これには時国藤左衛門を「おやぢさま」と呼んでいる。時国家の当主が人々からおやじさま・おかかさまと呼ばれているところに時国家の地位が示されている。

時国家が上、下の二家に分れたのは江戸初期のことで、下時国家は、分立時分の長男が早世したため二男が跡を継ぎ、父が長男の子をつれて分家隠居したのに始まると考えられ、下家の領地は庵室(隠居)分であった。本家は、天領に属して庄屋、分家は加賀藩領に属して塩吟味役等をつとめた。

8月26日

・範頼、九州から京都に戻る(「玉葉」同日条)。


つづく



 

2022年12月26日月曜日

鎌倉散歩 妙本寺の名残の紅葉が期待通りに美しい 妙本寺のロウバイ(蝋梅)と紅梅 大巧寺のマンリョウ 七里ヶ浜と富士山 2022-12-26

12月26日(月)はれ

▼妙本寺の名残の紅葉、期待通りに美しい。   

 



▼妙本寺のロウバイ(蝋梅)と紅梅


▼大巧寺のマンリョウ

▼七里ヶ浜と富士山


▼インスタグラム  

吉村知事「コロナに効く」から2年、うがい薬研究ひっそり終了…専門家「推奨できる結果なし」(読売);「吉村大阪府知事は、あれほど大々的に「ポヴィドンヨードがコロナに効くかも」と言って記者会見までして世間を騒がせたのだから、研究成果はなかったのなら、同じくらい大々的に「効果はありませんでした。お騒がせしてすみません」と記者会見したらどうか。それが行政の首長というものだろう。」(住友陽文)   

 



 

〈藤原定家の時代221〉元暦2/文治元(1185)年8月4日~8月31日 頼朝、佐々木定綱に対し行家追討を命じる(頼朝の挑発) 「文治」改元 頼朝、関東六分国に源氏から国司を任命 義経は検非違使兼任で伊予守に 東大寺大仏の開眼供養       

 


〈藤原定家の時代220〉元暦2/文治元(1185)年7月27日~7月29日 「佛厳房来たり。夢想の事を談る。天下の政違乱に依って、天神地祇怨みを成しこの地震有るの由なり。」 「然れども帰する所猶君にあり。何に況んや、その外の非法濫行、不徳無道、勝げて計ふべからず。且つ又流人の間、誤たざる輩等あり。かくの如き等の事、頗る慈仁施されずば、天下叶ふべからず。」(『玉葉』) より続く

元暦2/文治元(1185)年

8月

・紀伊の豪族湯浅宗重一族500騎、平忠房を守護。源氏軍(熊野別当他)と3ヶ月抗戦。

8月4日

・頼朝、佐々木定綱に対し、近国の御家人を率い前備前守源行家(頼朝の叔父)追討を命じる。『吾妻鏡』によると、行家は西国にありながら、関東に昵懇であると称して所々で人民に譴責を加えており、しかも頼朝への叛意まで発覚したという。

行家は、義仲と決別した後、西国に潜伏していたらしい。それが、ここにきてにわかに叛意が発覚したという。後に行家は、義経とともに実際に頼朝に叛意を翻すが、この時点で叛意があったかどうかは不明であり、のちの経過を考えると、何ら罪科がないにも関わらず、嫌疑を掛けられたことで、むしろ叛意をもったというのが真実に見える(『吾妻鏡』10月13日条)。謀反発覚というのは、頼朝の挑発であった可能性が高く、行家がそれにまんまと乗ってしまい、これに義経が巻き込まれていく。

〈頼朝の狙い〉

①行家と義経を結びつける。

②在京御家人を使った幕府命令を実行させる体制を築く。以降、近江の佐々木定綱は在京御家人として畿内近国での追捕活動を行う。

「前の備前の守行家は二品の叔父なり。而るに度々平氏の軍陣に差し遣わさると雖も、終にその功を顕わさざるに依って、二品強ち賞翫せしめ給わず。備州また進んで参向無し。当時西国に半面し、関東の親昵を以て、在々所々に於いて人民を譴責す。しかのみならず、謀反の志を挿み、縡すでに発覚すと。仍って近国の御家人等を相具し、早く行家を追討すべきの由、今日御書を佐々木の太郎定綱に下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月14日

・「文治」改元。地震により文治に改元。

8月16日

・頼朝、朝廷から与えられた知行国6ヶ国(関東六分国)について、夫々、源氏一族から国司を任命。足利義兼(源姓足利氏)、上総介に。新田義範(伊豆守)・義経(伊予守)・大内惟義(相模守)・小笠原(加賀美)遠光(信濃守)・安田義資(越後守)。

右大臣九条兼実は「道路目を以てす。左右あたはず」と批判。義経の伊予守・検非違使兼任を「未曾有」と記す。頼朝は、義経を検非違使からはずす目論見で伊予守に任命するが、この目論見は外れる。但し、伊予が頼朝の知行国となり、これまで義経が保持していた伊予への権限が失われる。後に、義経が頼朝に反旗を掲げる理由の一つに、伊予を与えられたが、各地に地頭が配置され国務がとれないことが挙げられる(兼実「玉葉」)。

「今夜除目有り。頼朝申すに依ってなり。受領六ヶ国、皆源氏なり。この中、義経伊豫の守に任ず。兼ねて大夫の尉を帯すの條、未曾有々々々。」(「玉葉」同日条)。

この義経の大夫尉兼帯の背景にあったのは後白河であろう。後白河は頼朝の魂胆を見抜いおり、それを妨害したものと考えられる。後白河は、義経を引き続き自分に奉仕する忠実な武力として京都に留め置こうとした。

8月17日

・惟宗忠久、大隅・薩摩・日向の島津荘の下司に任命。

8月21日

「鹿島社神主中臣親廣と下河邊の四郎政義と、御前に召され一決を遂ぐ。これ常陸の国橘郷は、彼の社領に奉寄せられをはんぬ。而るに政義当国南郡の惣地頭職を以て、郡内に在りと称し、件の郷を押領し、神主の妻子等を譴責せしむ。剰え所勘に従うべきの由祭文を取るの旨、親廣これを訴え申す。政義雌伏し、頗る陳詞を失う。眼代等の所為たるかの由これを称す。仍って向後は濫妨を停止し、先例に任せ神事を勤行せしむべきの趣、神主恩裁を蒙る。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月23日

・重源、東大寺大仏胎内に仏舎利等を奉納。

8月23日

・兼実、28日に行われる予定の東大寺大仏の開眼供養の際その胎内に納めるため、みずから反故の色紙を漉いて造った黄紙に『清浄経』二部を書写し、これを弟の慈円に託す。一部は先に亡くなった母親のため、もう一部は近年の合戦で死亡した人びと、先帝以下の高官たちの菩提をとぶらうためであったという。

「無動寺法印〈慈円〉如法経を相具し、笠置寺に参らる。先師法親王(覚快)のため、如法経を書写し、かの霊崛に瘞(うづ)め奉らんためなり。又黄紙同清浄経二部を書写す〈一部は先妣の奉為(おんため)、余反古の色紙を漉きこれを送る。一部は近年合戦の間、死亡候ふ輩、先帝を始め奉り大官に至るまで、十(一ヵ)に出離のためなり〉。東大寺に送り大仏の御身に籠め奉らるるなり。」(『玉葉』)

8月23日

・この日、院の御所の持仏堂でも、兵乱で命を落とした人びとの鎮魂のため一万基の五輪塔の供養が行われた。

「怨霊を鎮めることは八月二十三日にも行われている。兵乱において亡くなった人びとの罪障を滅するために、五輪塔一万基の供養が院の御所の持仏堂である長講堂において行われた。五輪の地輪の下には塔を寄せた人の名字が記されて棚の上に置かれ、三井寺の公顕を導師に迎えてなされたのであった。また、兼実は大仏の供養に先立って、大仏の胎内に仏舎利三粒と五色の五輪塔を納めるとともに、亡母と源平の合戦で亡くなった死者の霊を慰めるために経を納めている。大仏は他ならぬ平氏の手によって焼かれたものであったから、その再興には平家の怨霊を鎮撫する意味が含まれていたのである。」(五味文彦『大仏再建-中世民衆の熱狂』)

8月23日

・「為久京都よりまた参着す。新造の御堂を画図せんが為なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月24日

「下河邊庄司行平帰参の御免を蒙り、鎮西より去る夜参着す。これ参州に相副え西海に発向し、軍忠を竭しをはんぬ。同時に遣わさるる所の御家人等、経廻に堪えずして多く以て帰参す。行平今に在国す。御感有りと。今日営中に参り盃酒を献ず。・・・仰せに曰く、行平は日本無双の弓取なり。・・・今度の勲功に依って、一国の守護職に宛て行わんと欲す。何国や請うべしてえり。行平申して云く、播磨の国は須磨・明石等の勝地有り。書写山の如きの霊場有り。尤も所望すと。早く御計有るべきの由諾し仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月27日

・法皇、南都へ御幸。義経、供奉。

8月28日

・平重衡の南都焼き打ちで損傷を受けた東大寺大仏の開眼供養。後白河法皇、大仏に入眼(聖武天皇使用の筆を用いて)。

後白河自ら開眼会の導師になった。大仏は鋳造されても、鍍金はまだ仏面だけであったが(天平の開眼供養も同じ)、後白河は大仏面前に渡された板に、近臣の助けを借りながらよじ登り、天平の開眼時の筆を用いて、自ら開眼を行う。この入眼(じゅがん)は式次第では仏師が行うようになっていた(『玉葉』8月29日条)。周囲は京都大地震の余震を心配して止めたが、後白河は地震で階(きざはし)が壊れ命を失っても後悔しないと言いきった(『山槐記』)

兼実は、事前に清浄経を送ってはいるものの、当日になっても、「半作の供養、中間の開眼」と批判し、実施に反対の意向を書き留めている(『玉葉』8月28日)。

前日から後白河や八条院をはじめ「洛中の緇素(しそ)貴賤」がこぞって南都に下向しており、当日集まった牛車や輿は数知れず、雑人も「恒砂(こうしゃ)」(ガンジス川の砂、数が多いたとえ)のごとしであったという。諸人は結縁(けちえん)を求め、感激のあまりにその場で剃髪する者、出家を願う者があとを絶たなかった。

当日の様子を知らせる兼実宛て源雅頼の手紙には、「善の綱(本尊開眼の時、結縁のため仏像の手などにかけ、参詣者に引かせる綱、五色の糸が用いられる)とて糸数丈候ひき、諸人念珠を結び付け、もしくは紳(花カ)鬘等を懸け、雑人腰刀をもつて部隊上に投げ入れ、上人の弟子等出で来、これを取り集め候ひき」とある(『玉葉』8月30日条)

民衆が自らの腰刀を法会の舞台上に投げ入れ、それを重源の弟子が取り集めたという。これは予め想定されていた儀式の一部ではなく、戦いを厭い平和を願う人々の思いが噴出したものであった。

8月31日

・頼朝、父義朝の霊を弔うため建立した勝長寿院供養に奔走。この日、大江公朝が勅使として、義朝の首を鎌倉へ持参。9月1日頼朝と対面。


つづく


2022年12月25日日曜日

おくやみ・渡辺京二さん死去、92歳「逝きし世の面影」「黒船前夜」「バテレンの世紀」など。石牟礼道子さんと水俣病患者の支援組織「水俣病を告発する会」結成、「熊本風土記」「暗河[くらごう]」「炎の眼」などの雑誌を刊行(2022年12月25日)熊本日日新聞   

 

 

▼お元気そうだったのに、、、


▼いつも机の脇に置いてました 


▼最近読んだ本 水俣病闘争との関わり、石牟礼道子さんとの共闘関係など


寺島実郎氏 日銀の事実上の利上げ「黒田日銀10年の挫折と失敗」「アベノミクスの大きな問題点が一気に」(スポニチアネックス) / 「何がポイントなのかと言うと、あまりにも政治化してしまった中央銀行ってこと、つまり政府の意向をくんで、子会社のように日銀が異次元緩和、金融ジャブジャブにしてデフレからの脱却、株価を上げ円安にもっていくという方向に走った、(略)」      

 

〈藤原定家の時代220〉元暦2/文治元(1185)年7月27日~7月29日 「佛厳房来たり。夢想の事を談る。天下の政違乱に依って、天神地祇怨みを成しこの地震有るの由なり。」 「然れども帰する所猶君にあり。何に況んや、その外の非法濫行、不徳無道、勝げて計ふべからず。且つ又流人の間、誤たざる輩等あり。かくの如き等の事、頗る慈仁施されずば、天下叶ふべからず。」(『玉葉』)    

 


〈藤原定家の時代219〉元暦2/文治元(1185)年7月9日~7月26日 建礼門院徳子、大原の寂光院へ移る 後白河、義経に地震後の混乱に乗ずる群盗警戒を命じる より続く

元暦2/文治元(1185)年

7月27日

・この日、まだ余震がつづいているさ中、右大臣家に祈祷僧として出入りしている仏厳房という上人が、兼実のもとを訪れ、自分が体験した夢想のことについて語り、天下が乱れているため、天神地祇が恨んで地震を起こしたという告げが、夢の中で示されたという。

「佛厳房来たり。夢想の事を談る。天下の政違乱に依って、天神地祇怨みを成しこの地震有るの由なり。今日、地中鳴ると雖も震動に及ばず。昨日に至り連日不同。或いは両三度、或いは四五度。またその大小不同。連々不断なり。」(「玉葉」同日条)。

この仏厳房は、この5日後にふたたび兼実を訪ね、より詳しく具体的にその夢想の内容を明かしている。

この大地震を衆生の犯した罪障に対する天神地祇の怒りによるものだとし、源平の争乱で国中に死者が溢れたのもつまるところはそうした罪障によるもので、ことに大きな責任は後白河法皇にあり、その非法や濫行そして不徳や無道の数々がこうしたことを引き起こすもとになったとして、なかんずくこのたび流罪に処せられた人たちの中には罪もない者が含まれており不当であると糾弾。いたずらな祈祷などは無意味で、これを乱すには仁慈に満ちた施政が必要だとしている。きわめて峻烈な国政批判であり、痛烈な後白河への糾弾である。

「この日仏厳聖人語りて云はく、去る頃夢想の事あり。赤衣を着たる人、かの聖人の房〈法皇の御祈りを修し奉る壇所の傍〉に来たり、聖人に謁して曰く、「今度の大地震、衆生の罪業深重に依り、天神地祇瞋(いか)りをなすなり。源平の乱に依り死亡の入国に満つ。これ則ち各々の罪障に依りその罪を報ゆるなり。然れども帰する所猶(なほ)君にあり。何(いか)に況んや、その外の非法濫行、不徳無道、勝(あ)げて計ふべからず。且つ又流人(るにん)の間、誤たざる輩(やから)等あり。かくの如き等の事、頗る慈仁施されずば、天下叶ふべからず。汝等修する所の御祈り、凡そ衆僧の御祈り等、効験量(はか)り難し。悲しむべし悲しむべし。然る間、下官手づから丈尺の杖を取り、地上に降り立ち、京都の狼籍を糺定(きうてい)す。始め九条より漸く京中に入り、一条に及ばんとす。或は人屋を壊退し、或は路頭を栖掃し、その非違を糺し、忽に正路を通ず。聖人中心にこの事を悦ぶ。爰に赤衣の人聖人に語りて云はく、かの〈下官をさすなり〉沙汰としてこの法を行はれば、天下正に帰し、禍乱起らず、祈祷験を彰はすべきものなり。然らざれば、叶ふべからず」と云々。

この夢を見了(をは)り、法皇に注進す。但し非法乱行に依り、天下治まらざる事、幷びに余正路を開く等の事、秘して奏せず。その故は君臣共に隔心あり。正夢を以て奏聞すと雖も、天下の人信用すべからず。恐らくは偽夢詐言(ぎむさげん)に処するか。自らのため他のため、恐れあり益無き故なりと云々。

その後又両三日を経て夢に云はく、帝釈(たいしやく)の御侯と称する者一人、出で来たり(その体を見ず)語りて云はく、「汝幷びに衆僧所修の御祈り等の功力に依り、法皇の御寿命に於ては、この般延べ了んぬ。但し天下の禍乱に於ては、この御祈りの力を以て叶ふべからず。仍つて明日日中の時、御祈りを結願すべきなり」といへり。

この夢又禍乱止むべからざる由は奏聞せず。これ又時議に叶ふべからざる故なり。即ち御祈りを結願し了んぬと云々。

愚心これを案ずるに、以前の夢、その事を以て天下治むべき由、掌(たなごころ)を指しこれを見る。而るにその事天聴に達せず。又施行無き間、後の夢に御祈りに依り天下の禍乱止むべからざる由これを見る。尤もその謂はれあるか。下官至愚と雖も、社稷(しやしよく)を思ふ志、已に人に勝れたり。仍つて自ら天意に叶ひこの霊告あるか。微運に依りその事顕はれず。只宿運を悲しむべき者なり。」(『玉葉』)


〈要約〉

ある夜、夢の中に赤い衣を着た人が現れて、聖人に対面してこのように云った。「今度の大地震は、衆生の犯した罪障が深いため、天の神や地の神が怒って起こしたものである。ここのところ、源平の乱のため国中に死者が満ち溢れた。これはつまるところ、人びとの罪障によるもので、その罪に対する報いとしてなされたのである。けれども、そのすべては法皇の責任に帰する。そのほかにも非法や濫行、不徳や無道の数々は、数えきれないほどである。さらにまた、流罪に処された人びとの中にはなんの罪も犯さなかった者も交じっているというありさまである。このようなことについて、仁慈のまつりごとをおこなわなければ、天下はとても治められるものではない。お前たちがおこなっている祈祷も、多くの僧侶たちがおこなっている祈祷も、とてもその効果は期待できない。悲しいことよ。悲しいことよ」と。

そこでわたし兼実が、手に一丈余の杖を持ち、この地上に降り立って、京都の町の狼籍を取り締まることになった。はじめは九条の方からやっとのことで都の中に入り、一条に向かって、途中家屋を取り壊したり、道端を栖掃したりしながら、人びとの非違をただし、たちまちにしてまっすぐな道をそこに通したのである。それを見て、聖人は心の中で非常に喜んだ。その時、赤い衣を着た人が聖人に語って云うには、「この人(つまり私をさす)のはからいとして、法律が順守されたならば、天下の政道はただされ、わざわいや乱暴狼籍は起こらないようになり、祈祷も効果をあらわすようになるだろう。そうでもなければ、とても事は叶わないであろう」とのことであった。

この夢を見おわり、私はその旨を法皇に注進した。しかし法皇自身の非法や乱行のため天下が治まらないと云ったことや、私が天下を正しい路に導くといわれたことなどは、秘して奏上しないことにした。なぜかというと、いま君臣の間には心の隔たりがあり、夢に見たとおりを奏聞しても、天下の人は決して信用しないに違いなく、恐らくは偽りの夢であり虚偽の言葉だとして処理されることであろう。私自身にとっても、周囲のほかの人たちのためにも、恐れがあり益のないことと思われたからである。

ところが、その後また二、三日経ってから、夢の中でこんなお告げがあった。帝釈天のお使いと称する者が一人現われて(ただしその姿は見えなかった)、語って云うには、「お前や多くの僧侶たちが行なった祈祷の功徳によって、法皇のご寿命についてはこの際延長するようにとりはからった。ただし天下の災厄や騒乱に関しては、この祈祷の力ではとても鎮めることはできない。だから明日の日中にご祈祷は結願としたほうがよい」とのことであった。

この夢についても、また災厄や騒乱は鎮めることができないというお告げについては奏聞することをさし控えた。これまた、現在の事態に望ましくないと思われたからである。そこでご祈祷を結願ということにした。

私にこのことを思案してみるに、前に見た夢では、そのことをもって天下を治めるべき指標が、手のひらを指して見るように明確に示されたが、それを法皇のお耳には達せず、その結果これが行われなかったために、後に見た夢の中でいかなる祈祷をおこなっても天下の災厄や騒乱は治まらないというお告げを見ることになったのである。これはまことに理の当然といってよい。私は愚かではあるが、天下国家を思う心は余人よりすぐれていると自負している。そこで自然とそれが天意に叶って、このようなお告げが下されたのであろう。ただ運勢が弱いためそれが思うように実現しない。その宿運を悲しむばかりである。


7月29日

・院近臣高階泰経の書状、鎌倉に届き、平氏の縁で流罪となった僧の赦免を要請。

兼実の許を訪れた仏厳の夢想のことが報じられ、「平家の縁坐ということで関係ない人までが流罪に処せられたことが地震の原因であるとの告げがあった。宮廷では、滅亡した平家の人びとの罪障の消滅を願って、去る五月二十七日から不断の御読経をはじめており、流罪に処せられた人たちを減刑するよう沙汰がなされた。したがって武家の側でも、しかるべく恩免がなされるようとりはからわれたい」という内容。

「泰経朝臣の消息到着す。今月上旬の比、佛厳上人の夢中に赤衣の人多く現れて云く、無罪の輩、平家の縁坐として、多く以て配流の罪を蒙る。故に地震等有りと。凡そ滅亡の衆の罪を消さんが為、去る五月二十七日不断の御読経を始行せられをはんぬ。然れば流罪中の僧等の事は、免許有るべきかの由その沙汰有り。相計り申し宥めしめ給うべきの趣なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

「高倉の宮一定御坐すの由風聞すと。未曾有の事なり。地震なお止まず。」(「吉記」同日条)。


つづく



2022年12月24日土曜日

横浜市戸塚区からのシルエット富士山 2022-12-24

 12月24日(土)晴れ

年末なので、次男が帰省している。今日は、長男家族が遊びに来た。夕方、富士山の見える近くの公園に行った。午後4時40分頃のシルエット富士山。


〈藤原定家の時代219〉元暦2/文治元(1185)年7月9日~7月26日 建礼門院徳子、大原の寂光院へ移る 後白河、義経に地震後の混乱に乗ずる群盗警戒を命じる

 


〈藤原定家の時代218〉元暦2/文治元(1185)年7月9日 文治地震(又は元暦地震) 『玉葉』 『方丈記』 『愚管抄』 『平家物語』巻12「大地震」 『吾妻鏡』 より続く

元暦2/文治元(1185)年

7月9日

この頃、建礼門院徳子、大原の寂光院へ移る。吉田の野河御所が地震によって大破、6月21日同母兄宗盛・清宗父子が斬刑に処され、深山の奥に幽居したいと考えるようになる。参議右兵衛督の四条家藤原隆房の室(女院の妹)が移動の世話をする。

7月12日
・頼朝、畿内近国に活動中の中原久経・近藤国平らに鎮西の巡検を命じる。義経が背後で後白河院を突上げ、頼朝の畿内近国の支配権を弱めようとしたとの見方もある。範頼の鎌倉への引き上げは、武士たちの狼藉を取り締まれていないとの理由で、5月から取り沙汰されていた。

平氏方の有力武士であった筑前国の原田種直や豊前国の板井種遠、筑前国の山鹿秀遠らの所領没官を進めている範頼に対しては、没官領に頼朝が正式に地頭職を補任するまでの間、現地を管理する沙汰人を置いて上洛するように指示。範頼は9月27日に入京、10月20日に鎌倉に帰着。

なお、薩摩・大隅をはじめとする南九州での没官活動は千葉常胤が、肥前・筑後など九州北西部での没官活動はのちに鎮西奉行(九国地頭)に補任される天野遠景が中心となって進められた。
「鎮西の事、且つは武士の自由の狼藉を止め、且つは顛倒の庄園旧の如く国司領家に附け、乃具を全うせんが為、早く院宣を申し下し、行き向かい巡検を遂ぐべきの由、久経・国平等に仰せらると。また平家追討の後、厳命に任せ、廷尉は則ち帰洛す。参州は今に鎮西に在り。而るに以て管国等狼藉有るの由、所々よりその訴え有り。早く件の範頼を召し上すべきの旨、これを仰せ下さると雖も、菊池・原田以下、平氏に同意するの輩掠領の事、彼の朝臣をして尋ね究めしむの由、二品覆奏せしめ給うの間、範頼の事、神社仏寺以下の領妨げを成さずんば、上洛せずと雖も何事か有らんや。上洛を企てば後悔有るべしてえり。相計らうべきの趣、重ねて院宣を下さるるの間、平家没官領、種直・種遠・秀遠等が所領、原田・板井・山鹿以下所々の事、地頭を定補せらるの程は、沙汰人を差し置き、心静かに帰洛せらるべきの由、今日参州の許に仰せ遣わさるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月12日
・義経、法皇より群盗警戒を命ぜらる。

「群盗の事、別して戒め沙汰すべきの由、大夫の尉義経に仰せらる。これ所々築垣皆頽れるの間、諸人愁歎の故なり。地震の事、法皇殊に以て御歎息有り。尤も然るべきか。」(「吉記」同日条)。
7月15日
「神護寺の文學房、関東の潤色を以て、院奏の便を得て、去る正月二十五日縁起状を捧げ、御手印を申し下すの後、寺領に寄付せんが為、近国に於いて庄園を煩わしむの由その聞こえ有り。二品殊に驚き思し食され、釈門の人爭か邪狂を現わさんや。早く然る如きの濫吹を停止すべきの由、下知せしめ給うべしと。俊兼これを奉行すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月23日
「山城の介久兼二品の召しに依って、京都より参着す。これ陪従なり。神宴等の役、当時その人無し。仍って態と以て招き下せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月26日
・狩野介藤原宗茂、24日に流人の前権律師忠快が田方郡小河郷(三島市)の伊豆国府に到着と報告。忠快はここから配流地に送られる。

「前の律師忠快流人として、一昨日伊豆の国小河郷に到着するの由、宗茂これを申す。これ平家の縁坐なり。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


2022年12月23日金曜日

“統一教会”総裁は「マザームーン」……逃げ続ける“疑惑”議員に密着 記者が見た、2022年“取材の裏側”(日テレNEWS)

〈藤原定家の時代218〉元暦2/文治元(1185)年7月9日 文治地震(又は元暦地震) 『玉葉』 『方丈記』 『愚管抄』 『平家物語』巻12「大地震」 『吾妻鏡』

 


〈藤原定家の時代217〉元暦2/文治元(1185)年7月9日 文治地震(又は元暦地震) 京都に直下型大地震(M7.4と推定) 〈被害状況〉 より続く

元暦2/文治元(1185)年

7月9日 

文治地震(又は元暦地震)

〈『玉葉』〉

これを「源平の乱」による「業障」が、「天神地祇の瞋(いかり)」を招いたためと説明(元暦2年8月1日)。


〈『方丈記』〉

「又、同じころかとよ。おびたゝしく大地震(おほなゐ)ふること侍き。

そのさまよのつねならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地(ろくじ)をひたせり。土さけて水わきいで、巌(いわほ)われて谷にまろびいる。なぎさ漕ぐ船は波にたゞよひ、道行(ゆ)く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしよしよ)、堂舎塔廟(だうしやたふめう)、一つとして全(また)からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙の如し。地の動き、家のやぶるゝ音、雷(いかづち)にことならず。家の内にをれば、忽(たちまち)にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震(なゐ)なりけりとこそ覚え侍しか。

かくおびたゞしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしは絶えず。世の常驚くほどの地震(なゐ)、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、或は四五度、二三度、もしは一日(ひとひ)まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。

 四大種(しだいしゆ)の中に、水(すい)火(くわ)風(ふう)はつねに害をなせど、大地に至りては異(こと)なる變をなさず。むかし齊衡(さいかう)のころとか、大地震(おほなゐ)振りて、東大寺の佛の御頭(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁(にご)りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経(へ)にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。

すべて世の中のありにくゝ、我が身と栖(すみか)との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身の程にしたがひつゝ、心をなやます事は、あげて計(かぞ)ふべからず。 」

・・・山は崩れて河を埋め、津波が起きて陸地を浸した。地面が裂けて水が沸き出し、岩が割れて谷に落ち込んだ。渚を漕ぐ船は波に漂い、道行く馬は脚元が定まらない。都の周辺では、いたるところで堂塔伽藍は一つとして完全なものはなかった。あるいは崩れ、あるいは倒れた。そこから塵灰が立ち上って、勢いの盛んな煙のようにみえた。地が動き、家が倒壊する音は、雷鳴のように聞こえた。家の中にいれば、たちまち押し潰されそうになる。走り出れば、地面が割れ裂けた。・・・


〈『愚管抄』〉

「元暦二年七月九日午時バカリナノメナラヌ大地震アリキ。古キ堂ノマロバヌナシ。所々ノツイガキクヅレヌナシ。少シモヨハキ家ノヤプレヌモナシ。山ノ根本中堂以下ユガマヌ所ナシ。事モナノメナラメ竜王動(りゆうわうどう)トゾ申シ。平相国竜ニ成テアリタルト世ニハ申キ。法勝寺九重塔ハアダニハタウレズ傾キテ。ヒエンハ重コトニ皆落ニケリ。」

これを相国清盛が竜になって引き起こしたものとし、〈竜王動〉と人びとが呼んだことを伝える。

〈『平家物語』巻12「大地震(だいぢしん)」〉

「十善帝王都を出させ給て、御身を海底にしづめ、大臣公卿大路をわたしてその頸を獄門にかけらる。昔より今に至るまで、怨霊はおそろしき事なれば、世もいかゞあらんずらむとて、心ある人の欺きかなしまぬはなかりけ。」

非業に死んだ平家一門の怨霊によるものという噂が巷に広がり、心ある人を歎かせた、という。

「平家みなほろびはてて、西國(さいこく)もしづまりぬ。國は國司にしたがひ、庄は領家(りやうけ)のまゝなり。上下安堵しておぼえし程に、同(おなじき)七月九日(ここのかのひ)の午刻(むまのこく)ばかりに、大地(だいぢ)おびたゝしくうごいて良(やゝ)久し。赤縣(せきけん)のうち、白河のほとり、六勝寺皆やぶれくづる。九重(くぢう)の塔もうへ六重(ろくぢう)ふりおとす。得長壽院(とくぢやうじゆゐん)も三十三間(げん)の御堂(みだう)を十七間(けん)までふりたうす。皇居をはじめて人々の家々、すべて在々所々の神社佛閣、あやしの民屋(みんをく)、さながらやぶれくづる。くづるゝ音はいかづちのごとく、あがる塵(ちり)は煙(けぶり)のごとし。天暗うして日の光も見えず。老少ともに魂(たましゐ)をけし、朝衆(てうしゆ)悉(ことごと)く心をつくす。又遠國近國(をんごくきんごく)もかくのごとし。大地(だいぢ)さけて水わきいで、磐石(ばんじやく)われて谷へまろぶ。山くづれて河をうづみ、海たゞよひて濱をひたす。汀(みぎは)こぐ船はなみにゆられ、陸(くが)ゆく駒は足のたてどをうしなへり。洪水みなぎり來(きた)らば、岳(をか)にのぼ(ツ)てもなどかたすからざらむ、猛火もえ來(きた)らば、河をへだててもしばしもさんぬべし。たゞかなしかりけるは大地震(だいぢしん)なり。鳥にあらざれば空をもかけりがたく、龍(れう)にあらざれば雲にも又のぼりがたし。白河・六波羅、京中(きやうぢう)にうちうづまれてしぬるものいくらといふかずをしらず。四大種(しだいしゆ)の中に水(すゐ)火(くわ)風(ふう)は常に害をなせども、大地(だいぢ)にをいてはことなる變を(ノ)なさず。こはいかにしつる事ぞやとて、上下(じやうげ)遣戸(やりど)障子(しやうじ)をたて、天のなり地のうごくたびごとには、只今ぞしぬるとて、こゑごゑに念佛申(まうし)おめきさけぶ事おびたゝし。七八十・九十(くじふ)の者も世の滅するな(ン)どいふ事は、さすがけふあすとはおもはずとて、大(おほき)に驚(おどろき)さはぎければ、おさなきもの共も是(これ)をきいて、泣(なき)かなしむ事限りなし。法皇はそのおりしも新熊野(いまぐまの)へ御幸(ごかう)な(ツ)て、人多くうちころされ、觸穢(しよくゑ)いできにければ、いそぎ六波羅殿へ還御(くわんぎよ)なる。道すがら君も臣もいかばかり御心(みこゝろ )をくだかせ給ひけん。主上(しゆしやう)は鳳輦(ほうれん)にめして池の汀(みぎは)へ行幸(ぎやうがう)なる。法皇は南庭にあく屋をたててぞましましける。女院(にようゐん)・宮々は御所共(ごしよども)皆ふりたおしければ、或(あるは)御輿(おんこし)にめし、或(あるは)御車(おんくるま)にめして出(いで)させ給ふ。天文博士(はかせ)ども馳(はせ)まい(ツ)て、「よさりの亥(ゐ)子(ね)の刻にはかならず大地(だいぢ)うち返すべし」と申せば、おそろしな(ン)どもをろかなり。
 昔文德(もんどく)天皇の御宇(ぎよう)、齊衡(さいかう)三年三月八日(やうかのひ)の大地震(だいぢしん)には、東大寺の佛の御(み)くしをふりおとしたりけるとかや。又天慶(てんぎやう)二年四月(しんぐわつ)五日(いつかのひ)の大地震には、主上(しゆしやう)御殿をさ(ツ)て常寧殿(じやうねいでん)の前に五丈のあく屋をたててましましけるとぞうけ給はる。其(それ)は上代の事なれば申(まうす)にをよばず。今度(こんど)の事は是(これ)より後(のち)もたぐひあるべしともおぼえず。十善帝王(じうぜんていわう)都を出(いで)させ給(たまひ)て、御身を海底にしづめ、大臣公卿大路(おほち)をわたしてその頸(くび)を獄門にかけらる。昔より今に至るまで、怨靈(をんりやう)はおそろしき事なれば、世もいかゞあらんずらむとて、心ある人の歎(なげき)かなしまぬはなかりけり。

・・・安徳天皇が都を退去され、身を海底に沈められ、大臣や公卿は虜囚となって京に帰ったり、打ち首となって市中引き回しとなったりした。また、妻子と別れさせられ流罪となった。平家の怨霊によってこの世が滅亡するのではないかと噂され、思慮・分別がある人はみな嘆き悲しまなかった人はいないという。

〈『吾妻鏡』〉

「元暦二年七月小十九日庚子。地震良(やや)久し。京都、去る九日午剋大地震。得長壽院、蓮華王院、最勝光院以下の佛閣、或は顛倒し、或は破損す。又、閑院御殿は棟が折れ、釜殿(かなえどの)以下の屋々少々顛倒す。占文(うらぶみ)之推す所、其の愼み輕不と云々。而るに源廷尉が六條室町亭は、門垣と云ひ家屋と云ひ、聊も頽れ傾くこと無しと云々。不思議と謂つ可き歟。」
元暦2年(1185年)7月小19日庚子。地震が少し長い間ありませんでしたが、京都では先日の9日昼頃に大地震がありました。後白河法皇の居所となっている法住寺内の得長壽院、蓮華王院三十三間堂、最勝光院をはじめ仏閣が転倒、または損壊したりしました。また、同じ法住寺内の後白河院の居所は棟梁が折れて、厨房棟などの建物が多少倒壊しました。占いの結果によると、為政者が過ちがないように気を配ることが重要とのことだ。それにもかかわらず、源義経の六条室町の屋敷では、門も築地塀も家屋も、少しも傾くこともなかったとのことだ。世間では不思議な話だと言っておりました。

『山槐記』によれば閑院の皇居が破損、近江湖(琵琶湖)の湖水が北流して湖岸が干上がり後日旧に復し、宇治橋が落下して渡っていた十余人が川に落ちて1人が溺死、また民家の倒壊が多く、門や築垣は東西面のものが特に倒壊し、南北面のものは頗る残ったという。法勝寺九重塔は倒壊には至らなかったものの、「垂木以上皆地に落ち、毎層柱扉連子相残らる」(『山槐記』)という大破状況であった。同書はその後の余震が続いたことを詳細に記録し、さらに、琵琶湖でも一時的に水位が下がったことなどを記す。(Wikipediaより)


つづく



2022年12月22日木曜日

どうしてこんなにだらしなく野放図! 責任者はだれ? → (社説)五輪検査報告 全体像は不明のままだ(朝日);「会長だった森喜朗氏や橋本聖子氏、事務総長の武藤敏郎氏らリーダーたちは、今からでも説明責任を果たす必要がある」 / 野放図東京五輪経費は「1.7兆円」 組織委公表額より3000億円増(毎日);「大会経費だけでなく「本来の行政目的のために行われる事業だが、大会の成功にも資する事業の経費」である大会関連経費を加えた場合は、約3兆7000億円に達するとも算定」 / 選手村の料理175トン、弁当30万食が廃棄 東京五輪で検査院指摘(朝日) / 国立競技場、民営化メド立たず 完成後も国が維持費56億円負担(毎日)   




 



 

データで徹底分析「科学技術立国」日本の危機、論文の質「途上国並み」という現実 ; 2004年の急激な研究力の低下を招いた大きな要因はやはり教員の数および研究時間の減少…豊田氏はその原因として2004年に行われた国立大学の法人化の政策を挙げる。国立大学法人運営費交付金の年1%削減が12年間にわたって続くこととなり、計画的な教員数の削減につながった」  「日本のFTE研究従事者数は先進国の中で最低水準である。研究者1人あたりのテクニシャン(技術補佐のスタッフ)の数は他の先進国に比べて極めて少なく、人口あたりの博士課程の学生数も激減…政府支出大学研究費も日本は先進国で最低水準だ。この政府支出大学研究費と論文数は正相関」