昨日(4月29日)は連休初日というのに、風邪気味だったのか?、いつもより遅く朝7時に起床した割には調子悪く、朝食後に再度寝て、次に起きた時にはお昼の12時を過ぎていいました。
それから、長年の課題の庭の砂利入れを完了させて、午後遅くに近所を散歩。
近くに、ツツジ、ドウダンツツジ、シャガ、コデマリなど、まあまあ月並みな花ですが、それらがきれいに配置された小公園(実は、マンションのオープンな前庭)があります。
少しだけ、名前の知らない花もあります。
*
「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい
*
2011年4月30日土曜日
2011年4月29日金曜日
永井荷風年譜(8) 明治35年(1902)満23歳~明治36年(1903)満24歳 「地獄の花」「夢の女」出版 アメリカに渡る
永井荷風年譜(8)
明治35年(1902)満23歳
2月
木曜会の会員赤木巴山人と黒田湖山が始めた美育社が「饒舌」を創刊(この年10月廃刊)。
この頃、木曜会本部は美育社内に移され、例会を活発に行う。
2月6、13日には荷風の「地獄の花」が朗読される。
*
またこの頃、金港堂が「文藝界」を発刊し懸賞小説を募集。
荷風は「地獄の花」を応募するが採用されず。
*
3月25日
荷風が木曜会に参加する契機となった清国人羅臥雲(蘇山人)が22歳で没する。
5月11日、追悼句会開催。
*
4月
美育社から「野心」を出版(「新青年小説叢書」)。
この頃、「饒舌」にゾラを紹介(3回の掲載)。
「ゾラ氏の故郷」(4月5日)、「ゾラ氏の「傑作」を読む」(6月5日)、「ゾラ氏の作La Bete Humaine」(7月5日)
*
5月26日
父が牛込区大久保余丁町79番地(現、新宿区余丁町)に土地家屋を購入、家族とともに転居。
来青閣と称する。敷地2千坪、建坪240坪余。
*
6月1日
「闇の叫び」(「新小説」掲載)
*
9月
懸賞では選外となった「地獄の花」(金港堂)を「等外報酬」として刊行、75円を得る。
ゾライズムの作風を深める。
森鴎外に絶賛され、彼の出世作となる。
*
野口冨士男「わが荷風」によれば、この懸賞金で荷風は洲崎遊郭に「留連」し、そこで見聞した事柄を題材にして、翌年には「夢の女」を執筆、出版したという。
白米1升が15錢弱の時代の75円の時代であったそうだ。
*
10月15日
「新任知事」(「文藝界」掲載)。
福井県知事であった叔父阪本釤之助をモデルとしたとされ、これがもとで阪本から絶縁される。
荷風の権力に対する反骨精神の現れでもある。
*
11月1日
巌谷小波がドイツより帰国。
*
*
明治36年(1903)満24歳
1月
市村座で小栗風葉に森鴎外を紹介され、初めて挨拶をする。
(森鴎外『玉篋両裏嶼』、尾崎紅葉『夏小袖』の伊井蓉峰一座公演。)
鷗外から「地獄の花」を読んだと言われ感激する。
*
5月8日
「夢の女」を新声社から出版。
*
■「濹東綺譚」の中での「夢の女」への言及
「曾て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓の娼妓を主題にして小説をつくった事があるが、その時これを読んだ友人から、
「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯(ツナミ)のことを写さないのは杜撰の甚しいものだ。作者先生のお通ひなすつた甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなからう。」
と言はれた。
背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例へばラフカヂオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。」
*
■洲崎遊廓は、明治21年、根津遊廓が深川区弁天町(現、東陽1丁目の埋立地)の海辺の埋立地に移転したもの。
海に近く、「甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなか」ったような場所だったと知れる。
*
荷風は、前年出版した「地獄の花」で得たお金をもとに、この遊郭に「留連」して、茶屋で働く若い女(半玉)と深い仲になったりしながら取材を重ねたそうだ。
*
■「冷笑」には、「おきみさん」が登場する。
「私はおきみさんをば斯(カ)う云ふ種類の女としては、その模範だと信ずるほど美しいと思つて居たが、然し別に恋してゐる訳ではなかった。
私は唯水の多い、私の好きな深川の景色がこの女性を得て更に美しく、或時は堪へがたいまでに私の詩興を誘(イザナ)つてくれるのを非常なる賜物として喜んで居たのである・・・
富岡門前まで生花の稽古に行くからと云ふので、朝帰りの吾々と早船を共にして、堀割の水に浮かべた材木の脂(ヤニ)の匂が冷い朝風に立迷ふ間を通つて行く時、私はおきみさんが胴の間の薄べりの上に横坐りして、舷(フナベリ)に頬杖をついた其の横顔を斜めに眺め、いかに麗しい空想に酔ふ事が出来たであらう。
おきみさんは土地のものだけに早船の船頭とは大概知り合つてゐて、随分卑陋(ビロウ)な冗談をも平気で聞いて居るが、其代り時としては金歯を暼見(ホノミ)せて笑ひながら、荒くれた船頭を鋭く頭から叱りつける事もあつた。
花を片手に舟から上つて朝日を受けた美白な倉庫の壁を後にして岸に佇立(タタズ)む若いおきみさんの姿をば、私は滑(ナメラカ)な朝汐の水面に流れる其倒影(カゲ)と共に眺めた時の心持を、今もつて夢のやうに思ひ出す事がある」(「冷笑」)
*
7月1日
『夜の心』を「新小説」、『燈火の巷』を「文芸倶楽部」に掲載。
『小説 恋と刃』(ゾラ「獣人」の翻案)を「大阪毎日新聞」(9日から8月23日まで46回)に連載。
*
9月24日
『女優ナゝ』を新声社より刊行。
*
9月22日
父の意向で実業を学ぶべく渡米、1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンD.C.などでフランス語を修める傍ら、日本大使館・正金銀行に勤める。
*
9月22日、日本郵船「信濃丸」6,833tで横浜港を出発
(「信濃丸」は当時第一級の豪華船、荷風はその一等船室に乗り込む。2週間の船旅。)
*
■末延芳晴氏「永井荷風の見たあめりか」によれば、
アメリカでの入国審査の差別
「一等船客は簡単な審査で済んだが、三等になると審査の目が厳しく、特に出稼ぎ労働者が主体の普通三等船客になると、渡航の目的から身元の引き受け人、当座の現金の持ち合わせなど厳しくチェックされ、検疫では全員裸にされて長時間待たされるなど屈辱的な扱いを受けた。
その上、トラホーマや伝染病の徽候が少しでもあると、入国が拒否され、日本に強制送還された。
なけなしの金をはたき、その上借金までして三等船室に乗り込み、奴隷のような待遇に耐えて太平洋を渡り、ようやくアメリカの大地を踏んだと思ったら、その場で入国を拒否され、泣く泣く日本に送り返された出稼ぎ労働者も少なくなかったのである」
*
のちに親くする金沢の人今村次七と同室。
一等船客の日本人の記念写真裏に、今村は、荷風について「温厚ナル才子ナリ多少東京ニ在ル時分講武所ノ藝者ニ金ヲ使フタル様ナリ女ノ写真卜紙入ヲ大事二鞄ノ中ニ所持シ僕丈ニ見セテ呉レタ」と記している。
*
10月5日
カナダのヴィクトリア港に着く。
「ヴィクトリア港の燈火天上の星と相乱れ月中異郷の山影は黒く怪物の横るに似たり。鳴呼余の身は遂に太平洋の彼岸に到着せるなり」(「西遊日誌抄」)。
*
10月7日、シアトル港に到着。
10月10日、タコマ市に行きここに居住。
語学習得のためにハイスクールに通う(どうやら1、2回聴講した程度らしい)。
10月24日シアトルに遊び、平原での牧畜の風景に感じ入る。帰途夜の日本人街に足を踏み入れる。
この頃、日本人出稼人の暗黒な運命について見聞するところが多かった。
*
*
「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
明治35年(1902)満23歳
2月
木曜会の会員赤木巴山人と黒田湖山が始めた美育社が「饒舌」を創刊(この年10月廃刊)。
この頃、木曜会本部は美育社内に移され、例会を活発に行う。
2月6、13日には荷風の「地獄の花」が朗読される。
*
またこの頃、金港堂が「文藝界」を発刊し懸賞小説を募集。
荷風は「地獄の花」を応募するが採用されず。
*
3月25日
荷風が木曜会に参加する契機となった清国人羅臥雲(蘇山人)が22歳で没する。
5月11日、追悼句会開催。
*
4月
美育社から「野心」を出版(「新青年小説叢書」)。
この頃、「饒舌」にゾラを紹介(3回の掲載)。
「ゾラ氏の故郷」(4月5日)、「ゾラ氏の「傑作」を読む」(6月5日)、「ゾラ氏の作La Bete Humaine」(7月5日)
*
5月26日
父が牛込区大久保余丁町79番地(現、新宿区余丁町)に土地家屋を購入、家族とともに転居。
来青閣と称する。敷地2千坪、建坪240坪余。
*
6月1日
「闇の叫び」(「新小説」掲載)
*
9月
懸賞では選外となった「地獄の花」(金港堂)を「等外報酬」として刊行、75円を得る。
ゾライズムの作風を深める。
森鴎外に絶賛され、彼の出世作となる。
*
野口冨士男「わが荷風」によれば、この懸賞金で荷風は洲崎遊郭に「留連」し、そこで見聞した事柄を題材にして、翌年には「夢の女」を執筆、出版したという。
白米1升が15錢弱の時代の75円の時代であったそうだ。
*
10月15日
「新任知事」(「文藝界」掲載)。
福井県知事であった叔父阪本釤之助をモデルとしたとされ、これがもとで阪本から絶縁される。
荷風の権力に対する反骨精神の現れでもある。
*
11月1日
巌谷小波がドイツより帰国。
*
*
明治36年(1903)満24歳
1月
市村座で小栗風葉に森鴎外を紹介され、初めて挨拶をする。
(森鴎外『玉篋両裏嶼』、尾崎紅葉『夏小袖』の伊井蓉峰一座公演。)
鷗外から「地獄の花」を読んだと言われ感激する。
*
5月8日
「夢の女」を新声社から出版。
*
■「濹東綺譚」の中での「夢の女」への言及
「曾て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓の娼妓を主題にして小説をつくった事があるが、その時これを読んだ友人から、
「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯(ツナミ)のことを写さないのは杜撰の甚しいものだ。作者先生のお通ひなすつた甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなからう。」
と言はれた。
背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例へばラフカヂオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。」
*
■洲崎遊廓は、明治21年、根津遊廓が深川区弁天町(現、東陽1丁目の埋立地)の海辺の埋立地に移転したもの。
海に近く、「甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなか」ったような場所だったと知れる。
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荷風は、前年出版した「地獄の花」で得たお金をもとに、この遊郭に「留連」して、茶屋で働く若い女(半玉)と深い仲になったりしながら取材を重ねたそうだ。
*
■「冷笑」には、「おきみさん」が登場する。
「私はおきみさんをば斯(カ)う云ふ種類の女としては、その模範だと信ずるほど美しいと思つて居たが、然し別に恋してゐる訳ではなかった。
私は唯水の多い、私の好きな深川の景色がこの女性を得て更に美しく、或時は堪へがたいまでに私の詩興を誘(イザナ)つてくれるのを非常なる賜物として喜んで居たのである・・・
富岡門前まで生花の稽古に行くからと云ふので、朝帰りの吾々と早船を共にして、堀割の水に浮かべた材木の脂(ヤニ)の匂が冷い朝風に立迷ふ間を通つて行く時、私はおきみさんが胴の間の薄べりの上に横坐りして、舷(フナベリ)に頬杖をついた其の横顔を斜めに眺め、いかに麗しい空想に酔ふ事が出来たであらう。
おきみさんは土地のものだけに早船の船頭とは大概知り合つてゐて、随分卑陋(ビロウ)な冗談をも平気で聞いて居るが、其代り時としては金歯を暼見(ホノミ)せて笑ひながら、荒くれた船頭を鋭く頭から叱りつける事もあつた。
花を片手に舟から上つて朝日を受けた美白な倉庫の壁を後にして岸に佇立(タタズ)む若いおきみさんの姿をば、私は滑(ナメラカ)な朝汐の水面に流れる其倒影(カゲ)と共に眺めた時の心持を、今もつて夢のやうに思ひ出す事がある」(「冷笑」)
*
7月1日
『夜の心』を「新小説」、『燈火の巷』を「文芸倶楽部」に掲載。
『小説 恋と刃』(ゾラ「獣人」の翻案)を「大阪毎日新聞」(9日から8月23日まで46回)に連載。
*
9月24日
『女優ナゝ』を新声社より刊行。
*
9月22日
父の意向で実業を学ぶべく渡米、1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンD.C.などでフランス語を修める傍ら、日本大使館・正金銀行に勤める。
*
9月22日、日本郵船「信濃丸」6,833tで横浜港を出発
(「信濃丸」は当時第一級の豪華船、荷風はその一等船室に乗り込む。2週間の船旅。)
*
■末延芳晴氏「永井荷風の見たあめりか」によれば、
アメリカでの入国審査の差別
「一等船客は簡単な審査で済んだが、三等になると審査の目が厳しく、特に出稼ぎ労働者が主体の普通三等船客になると、渡航の目的から身元の引き受け人、当座の現金の持ち合わせなど厳しくチェックされ、検疫では全員裸にされて長時間待たされるなど屈辱的な扱いを受けた。
その上、トラホーマや伝染病の徽候が少しでもあると、入国が拒否され、日本に強制送還された。
なけなしの金をはたき、その上借金までして三等船室に乗り込み、奴隷のような待遇に耐えて太平洋を渡り、ようやくアメリカの大地を踏んだと思ったら、その場で入国を拒否され、泣く泣く日本に送り返された出稼ぎ労働者も少なくなかったのである」
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のちに親くする金沢の人今村次七と同室。
一等船客の日本人の記念写真裏に、今村は、荷風について「温厚ナル才子ナリ多少東京ニ在ル時分講武所ノ藝者ニ金ヲ使フタル様ナリ女ノ写真卜紙入ヲ大事二鞄ノ中ニ所持シ僕丈ニ見セテ呉レタ」と記している。
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10月5日
カナダのヴィクトリア港に着く。
「ヴィクトリア港の燈火天上の星と相乱れ月中異郷の山影は黒く怪物の横るに似たり。鳴呼余の身は遂に太平洋の彼岸に到着せるなり」(「西遊日誌抄」)。
*
10月7日、シアトル港に到着。
10月10日、タコマ市に行きここに居住。
語学習得のためにハイスクールに通う(どうやら1、2回聴講した程度らしい)。
10月24日シアトルに遊び、平原での牧畜の風景に感じ入る。帰途夜の日本人街に足を踏み入れる。
この頃、日本人出稼人の暗黒な運命について見聞するところが多かった。
*
*
「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
東京 北の丸公園 水辺の風景 清水濠 清水門 千鳥ケ淵
昨日(4月28日)の北の丸公園
前日の風雨のおかげか、朝、横須賀線の新川崎駅近くで富士山が見えました。
*
▼朝の清水濠と清水門
*
▼昼休み時の公園内の池
*
▼千鳥ケ淵
桜に代って、陽に照らされたイチョウが色付いて見えます。
*
▼武道館では、多分、震災の影響で延期になったと思われるコンサート
予定していた日付け通りの看板を掲げていました。
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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前日の風雨のおかげか、朝、横須賀線の新川崎駅近くで富士山が見えました。
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▼朝の清水濠と清水門
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▼昼休み時の公園内の池
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▼千鳥ケ淵
桜に代って、陽に照らされたイチョウが色付いて見えます。
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▼武道館では、多分、震災の影響で延期になったと思われるコンサート
予定していた日付け通りの看板を掲げていました。
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2011年4月28日木曜日
2011年4月26日火曜日
東京 江戸城 若葉の本丸跡広場 マルバアオダモ キモッコウバラ
今日(4月26日)の江戸城本丸跡広場
散歩には最適の天候、気温でした。
*
▼有名な「松の廊下」跡辺りのモミジ
*
▼富士見櫓前から松の廊下方向を見たところ
*
▼マルバアオダモ
今日の散歩のお目当てはこのアオダモ
少し遅かったのかも知れない
*
▼キモッコウバラ
バラの一番乗り
まだ蕾もたくさんあります。
*
▼名前不詳です
*
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散歩には最適の天候、気温でした。
*
▼有名な「松の廊下」跡辺りのモミジ
*
▼富士見櫓前から松の廊下方向を見たところ
*
▼マルバアオダモ
今日の散歩のお目当てはこのアオダモ
少し遅かったのかも知れない
*
▼キモッコウバラ
バラの一番乗り
まだ蕾もたくさんあります。
*
▼名前不詳です
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永井荷風年譜(7) 明治33年(1900)満21歳~明治34年(1901)満22歳 小説修業の傍ら歌舞伎座立作者福地桜癡に入門 暁星学校夜学でフランス語を学び始める
永井荷風年譜(7)
明治33年(1900)満21歳
1月1日
「烟鬼」が懸賞小説番外当選作として「新小説」に掲載。
他に同日、「うら庭」が文藝新聞に、同月28日、「濁りそめ」がよしあし草に掲載される。
*
2月
父久一郎、日本郵船会社横浜支店長になる。
*
春(3月か4月)
麹町区にて徴兵検査を受け不合格となる。
*
春
井上唖々と共に三宅青軒を訪い、「文藝倶楽部」に作品発表の機会を与えられる。
*
4月25日
「闇の夜」が懸賞小説二等当選作として「新小説」に掲載。
*
6月
以前に、三宅青軒の紹介により歌舞伎座立作者福地桜癡の門に入ろうとしたが果せず、この月、破笠榎本虎彦の手引でこれを果たし、盆興行の稽古から出勤。
早川(竹柴)七造の預弟子として、拍子木を入れることから学び、厳格な指導を受ける。
10月興行から番付に名前が掲げられる。
*
6月10日、「をさめ髪」(「文藝倶楽部」)
6月15日、「おぼろ夜」(「よしあし草」)掲載。
*
8月9日
祖父匡威、没。71歳。
*
8月10日、「青簾」(「文藝倶楽部」)掲載。
*
9月10日、「花ちる夜」(「関西文学」)
9月20日、「船中の盗人」(「中学世界」)掲載
*
9月下旬
木曜会の主宰者巌谷小波がドイツへ出発。
*
12月1日、「隣の座敷」(「活文壇」)
12月10日、「拍子木物語」(「文藝倶楽部」)掲載
*
*
明治34年(1901)満22歳
2月1日、「歌舞伎座の春狂言」「新年の雑誌界」(「今文」)
2月27日、「山谷菅垣(さんやすががき)」(「小天地」) 掲載
*
3月1日、「小夜千鳥」(「文藝倶楽部」)、「桜の水」(「活文壇」)掲載
*
4月
福地桜癡が「日出國(やまと)新聞社」(松下軍治社長)に主筆として迎えられ、榎本破笠も入社。
荷風も同社記者となり、雑報欄助手をつとめ、月給12円を支給される。
雑報欄記者には岡本綺堂などがいた。
*
4月1日
「琴古流の尺八」(「文藝倶楽部」)、「楽屋の十二時(とき)」(「新小説」)掲載
*
4月19日~5月24日(33回)
「新梅ごよみ」(「日出國新聞」)掲載
*
6月1日、「芝居の囃子」(「新小説」)掲載
*
7月下旬
木曜会の赤木巴山人の帰郷を大船駅で見送り、黒田湖山と共に逗子の永井家別荘で過ごす。
*
8月1日、「いちごの実」(「文藝倶楽部」)掲載
*
9月
桜癡のやり方をめぐって新聞社内に内紛が起きる。
桜癡系の荷風は人員整理の名目で突如解雇される。
歌舞伎座に戻ろうとするが果たせず、同月から麹町区飯田町3丁目の暁星学校の夜学に入りフランス語を学び始める。
*
年末
逗子の別荘でゾラの「ラテール」「ラブエピソード」などを英訳で読み感銘を受ける。
*
*
「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
*
*
明治33年(1900)満21歳
1月1日
「烟鬼」が懸賞小説番外当選作として「新小説」に掲載。
他に同日、「うら庭」が文藝新聞に、同月28日、「濁りそめ」がよしあし草に掲載される。
*
2月
父久一郎、日本郵船会社横浜支店長になる。
*
春(3月か4月)
麹町区にて徴兵検査を受け不合格となる。
*
春
井上唖々と共に三宅青軒を訪い、「文藝倶楽部」に作品発表の機会を与えられる。
*
4月25日
「闇の夜」が懸賞小説二等当選作として「新小説」に掲載。
*
6月
以前に、三宅青軒の紹介により歌舞伎座立作者福地桜癡の門に入ろうとしたが果せず、この月、破笠榎本虎彦の手引でこれを果たし、盆興行の稽古から出勤。
早川(竹柴)七造の預弟子として、拍子木を入れることから学び、厳格な指導を受ける。
10月興行から番付に名前が掲げられる。
*
6月10日、「をさめ髪」(「文藝倶楽部」)
6月15日、「おぼろ夜」(「よしあし草」)掲載。
*
8月9日
祖父匡威、没。71歳。
*
8月10日、「青簾」(「文藝倶楽部」)掲載。
*
9月10日、「花ちる夜」(「関西文学」)
9月20日、「船中の盗人」(「中学世界」)掲載
*
9月下旬
木曜会の主宰者巌谷小波がドイツへ出発。
*
12月1日、「隣の座敷」(「活文壇」)
12月10日、「拍子木物語」(「文藝倶楽部」)掲載
*
*
明治34年(1901)満22歳
2月1日、「歌舞伎座の春狂言」「新年の雑誌界」(「今文」)
2月27日、「山谷菅垣(さんやすががき)」(「小天地」) 掲載
*
3月1日、「小夜千鳥」(「文藝倶楽部」)、「桜の水」(「活文壇」)掲載
*
4月
福地桜癡が「日出國(やまと)新聞社」(松下軍治社長)に主筆として迎えられ、榎本破笠も入社。
荷風も同社記者となり、雑報欄助手をつとめ、月給12円を支給される。
雑報欄記者には岡本綺堂などがいた。
*
4月1日
「琴古流の尺八」(「文藝倶楽部」)、「楽屋の十二時(とき)」(「新小説」)掲載
*
4月19日~5月24日(33回)
「新梅ごよみ」(「日出國新聞」)掲載
*
6月1日、「芝居の囃子」(「新小説」)掲載
*
7月下旬
木曜会の赤木巴山人の帰郷を大船駅で見送り、黒田湖山と共に逗子の永井家別荘で過ごす。
*
8月1日、「いちごの実」(「文藝倶楽部」)掲載
*
9月
桜癡のやり方をめぐって新聞社内に内紛が起きる。
桜癡系の荷風は人員整理の名目で突如解雇される。
歌舞伎座に戻ろうとするが果たせず、同月から麹町区飯田町3丁目の暁星学校の夜学に入りフランス語を学び始める。
*
年末
逗子の別荘でゾラの「ラテール」「ラブエピソード」などを英訳で読み感銘を受ける。
*
*
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2011年4月25日月曜日
東京 北の丸公園 若葉の散歩道 モミジ ハナズオウ ハナミズキ
今日(4月25日)の北の丸公園
一応は晴れですが、一時曇ったり、一時どしゃ降りの雨だったり。
雷もなってました。
ニュースによると、千葉県で駐車中の車が飛ばされるくらいの突風が吹いたとか。
職場のある人によると亜熱帯化だとか・・・?
春雷という概念があるくらいですから、まあ季節の変わり目の気流の荒れ、ということでしょうか。
*
といことで、今日の昼休みの北の丸公園は、半分青空、半分曇り空というヘンな天気でした。
*
▼モミジの若葉
*
▼桜の若葉と左側に遅桜
*
▼ハナズオウとツツジ
*
▼ハナミズキ
少なくとも三色の花があります。
今週、ピークを迎えるんではないでしょうか
*
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*
一応は晴れですが、一時曇ったり、一時どしゃ降りの雨だったり。
雷もなってました。
ニュースによると、千葉県で駐車中の車が飛ばされるくらいの突風が吹いたとか。
職場のある人によると亜熱帯化だとか・・・?
春雷という概念があるくらいですから、まあ季節の変わり目の気流の荒れ、ということでしょうか。
*
といことで、今日の昼休みの北の丸公園は、半分青空、半分曇り空というヘンな天気でした。
*
▼モミジの若葉
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▼桜の若葉と左側に遅桜
*
▼ハナズオウとツツジ
*
▼ハナミズキ
少なくとも三色の花があります。
今週、ピークを迎えるんではないでしょうか
*
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*
2011年4月24日日曜日
今日の富士山 2011-04-24
横浜市戸塚区から見る富士山
朝の6時頃です。
四月にはいっても富士山が見えるのは、昨日の激しい風雨のお陰か?。
下界は桜も終わりかけているのに、富士山の雪はまだまだ相当ある様です。
*
▼路傍に「あやめ」が咲いていた
*
「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*
朝の6時頃です。
四月にはいっても富士山が見えるのは、昨日の激しい風雨のお陰か?。
下界は桜も終わりかけているのに、富士山の雪はまだまだ相当ある様です。
*
▼私の富士山ビューポイントの近くの様子
▼路傍に「あやめ」が咲いていた
*
「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)4月(22歳) 「店をうりて引移るほどのくだくだ敷、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也。」(樋口一葉「塵中(ちりのなか)につ記」)
明治27年(1894)4月
*
この頃の一葉の日記「塵中(ちりのなか)につ記」(表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」)は、
以下の構成になっています。
①まず、「わがこゝろざしは国家の大本にあり」の部分(コチラ):閉店の決意
②3月26日~28日の日記部分(コチラ)
③そして、今回ご紹介する「四月に入りてより、・・・」で始まる4月の日記代わりの簡単なメモ(4月の日記は書かなかったと自身もこのメモに記しています)、
と5月1日(引っ越しの日)~2日の2日分の日記部分
から成っています。
*
その後、1ヶ月の空白のあと、
6月4日からは、「水の上日記」として新たな日記が始まります。
(引っ越し先の住居が、池の上に建っていたので、日記の表題は「水の上」と付けられる。)
*
*
(段落、改行を施しています)
四月に入てより、釧之助の手より金子五拾両かりる。
清水たけといふ婦人、かし主なるよし。利子は二十円に付(つき)二十五銭にて、期限はいまだいつとも定めず。
こは大方(おほかた)釧之助の成(なる)ペし。
かくて中島の方も漸々(やうやう)歩(ほ)をすゝめて、「我れに後月(ごげつ)いさゝかなりとも報酬を為して、手伝ひを頼み度」よし師より申(まうし)こまる。
「百事すべて我子と思ふべきにつき、我れを親として生涯の事を計らひくれよ。我が此萩之舎は則ち君の物なれば」といふに、
「もとより我が大任(たいにん)を負ふにたる才なければ、そは過分の重任なるべけれど、此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば、此道にすゝむべき順序を得させ給はらばうれし」とて、先づはなしはとゝのひぬ。
此月のはじめよりぞ稽古にはかよふ。
花ははやく咲て、散がたはやかりける。
あやにくに雨風のみつゞきたるに、かぢ町(ちやう)の方(かた)、上都合(じやうつごふ)ならず、からくして十五円持参。
いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひて、さゝやかなる池の上にたてたるが有けり。
守喜(もりき)といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて、さのみふるくもあらず、家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ。
店(たな)をうりて引移るほどのくだくだ敷(しき)、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也。
*
五月一日 小雨(こさめ)成しかど転宅。手伝(てつだひ)は伊三郎を呼ぶ。
*
*
西村釧之助を通してお金50円を借りる。
貸主は清水たけという婦人で、返済期限などはまだ決めていないという。
恐らく釧之助のお金であろう。
「萩の舎」の歌塾の話も進み、いくらかの報酬を出して手伝いを頼みたいと言って来る。
・・・
4月初めから稽古指導に出ている。
桜は早く咲いて、散るのも早かった。
鍛冶町の石川銀次郎の商売はよくなかったとのことで15円を持ってきてくれた。
いよいよ転居が決まった。
家は本郷の丸山福山町、阿部邸の山にそって、小さな池があり、その池の上の方に建てられたもの。
「守喜」という鰻料理屋の離れ座敷であったとかで、それほど古くもない。家賃は月3円。高いけれどもここに決めた。
店を売って引っ越しをするまでのごたごたした事は、思い出すのも煩わしく、不愉快なことが多かったので、とても書くことができない。
*
*
阿部邸:福山藩主阿部家の武家地
*
西片町の高台の崖下にあたる。
「守喜」(モリキ)という鰻屋の離れ座敷を改築して、池とともに貸していた家屋。
前隣には「浦島」、北隣には「鈴木」という銘酒屋があった。
*
馬場孤蝶の回想:
「方三尺位な履脱(クツヌギ)の土間があり、正面は真直に三尺幅位の板の間が通って居る。それに沿ふて、右側には六畳が二間並んで居り、左側は壁と板戸棚であり、それから、上り口の左の方も一寸板の間になって居て、それから正面の廊下の右側の後になる所に、丁度隠れたやうな四畳半くらいな部屋があり、・・・入口の六畳の間で、大抵一葉女史は客に応接した」(『明治文壇の人々』)。
*
「殊に一葉君の家の近辺が左様いふ商売屋(*銘酒屋)の中心であったやうだ」、
「今喜楽館といふ活動小屋の角を曲がった所などは、その当時は抜裏と云つて宜い程の狭さであったが、その辺から一葉君の家の前までは右側は殆ど門並さういふ家であって、人の足音さへすれば、へンに声作りをした若い女の『寄ってらっしゃいよ』といふ声が家の裡(ナカ)から聞えた」(「一葉全集の未に」明治45年6月)。
一葉はそういう女性たちと交わり、彼女たちが客に出す手紙の代筆などもする。
*
「となりに酒うる家あり。
女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめに似たり。
つねに文かきて給はれとてわがもとにもて来ぬ。
ぬしはいつもかはりて、そのかずはかりがたし」
*
三宅花圃の談話。
「夏子の君が先には吉原の傍なる浅草大音寺前通りに住みたまひ、今はまた本郷丸山の福山町なる銘酒屋なんどが限りもなふ軒をならぶる醜(ミグ)るしの街に宿を定めたまへるを諌めける人さへあり。妾もまた君の為めに言ふ所ありしに君は笑ひたまふて一言も答へせず、朗詠の声もすゞしく
なかなかにえらまぬ宿のあしがきの
あしき隣もよしや世の中
とて話題を他へそらしたまひぬ」(「讀賣新聞」明治29・11・30)
*
この丸山福山町で、一葉は「奇蹟の十四箇月」を過ごす。
ここでの作品は、
「やみ夜」(明治27年7月~11月)、「大つごもり」(27年12月)、「たけくらぺ」(28年1月~29年1月)、「ゆく雲」(28年5月)、「にごりえ」(28年9月)、「十三夜」(28年12月)、「わかれ道」(29年1月)、「この子」(同上)、「裏紫」(29年2月)、「われから」(29年5月)
*
この頃の一葉の日記「塵中(ちりのなか)につ記」(表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」)は、
以下の構成になっています。
①まず、「わがこゝろざしは国家の大本にあり」の部分(コチラ):閉店の決意
②3月26日~28日の日記部分(コチラ)
③そして、今回ご紹介する「四月に入りてより、・・・」で始まる4月の日記代わりの簡単なメモ(4月の日記は書かなかったと自身もこのメモに記しています)、
と5月1日(引っ越しの日)~2日の2日分の日記部分
から成っています。
*
その後、1ヶ月の空白のあと、
6月4日からは、「水の上日記」として新たな日記が始まります。
(引っ越し先の住居が、池の上に建っていたので、日記の表題は「水の上」と付けられる。)
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(段落、改行を施しています)
四月に入てより、釧之助の手より金子五拾両かりる。
清水たけといふ婦人、かし主なるよし。利子は二十円に付(つき)二十五銭にて、期限はいまだいつとも定めず。
こは大方(おほかた)釧之助の成(なる)ペし。
かくて中島の方も漸々(やうやう)歩(ほ)をすゝめて、「我れに後月(ごげつ)いさゝかなりとも報酬を為して、手伝ひを頼み度」よし師より申(まうし)こまる。
「百事すべて我子と思ふべきにつき、我れを親として生涯の事を計らひくれよ。我が此萩之舎は則ち君の物なれば」といふに、
「もとより我が大任(たいにん)を負ふにたる才なければ、そは過分の重任なるべけれど、此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば、此道にすゝむべき順序を得させ給はらばうれし」とて、先づはなしはとゝのひぬ。
此月のはじめよりぞ稽古にはかよふ。
花ははやく咲て、散がたはやかりける。
あやにくに雨風のみつゞきたるに、かぢ町(ちやう)の方(かた)、上都合(じやうつごふ)ならず、からくして十五円持参。
いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひて、さゝやかなる池の上にたてたるが有けり。
守喜(もりき)といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて、さのみふるくもあらず、家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ。
店(たな)をうりて引移るほどのくだくだ敷(しき)、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也。
*
五月一日 小雨(こさめ)成しかど転宅。手伝(てつだひ)は伊三郎を呼ぶ。
*
*
西村釧之助を通してお金50円を借りる。
貸主は清水たけという婦人で、返済期限などはまだ決めていないという。
恐らく釧之助のお金であろう。
「萩の舎」の歌塾の話も進み、いくらかの報酬を出して手伝いを頼みたいと言って来る。
・・・
4月初めから稽古指導に出ている。
桜は早く咲いて、散るのも早かった。
鍛冶町の石川銀次郎の商売はよくなかったとのことで15円を持ってきてくれた。
いよいよ転居が決まった。
家は本郷の丸山福山町、阿部邸の山にそって、小さな池があり、その池の上の方に建てられたもの。
「守喜」という鰻料理屋の離れ座敷であったとかで、それほど古くもない。家賃は月3円。高いけれどもここに決めた。
店を売って引っ越しをするまでのごたごたした事は、思い出すのも煩わしく、不愉快なことが多かったので、とても書くことができない。
*
*
阿部邸:福山藩主阿部家の武家地
*
西片町の高台の崖下にあたる。
「守喜」(モリキ)という鰻屋の離れ座敷を改築して、池とともに貸していた家屋。
前隣には「浦島」、北隣には「鈴木」という銘酒屋があった。
*
馬場孤蝶の回想:
「方三尺位な履脱(クツヌギ)の土間があり、正面は真直に三尺幅位の板の間が通って居る。それに沿ふて、右側には六畳が二間並んで居り、左側は壁と板戸棚であり、それから、上り口の左の方も一寸板の間になって居て、それから正面の廊下の右側の後になる所に、丁度隠れたやうな四畳半くらいな部屋があり、・・・入口の六畳の間で、大抵一葉女史は客に応接した」(『明治文壇の人々』)。
*
「殊に一葉君の家の近辺が左様いふ商売屋(*銘酒屋)の中心であったやうだ」、
「今喜楽館といふ活動小屋の角を曲がった所などは、その当時は抜裏と云つて宜い程の狭さであったが、その辺から一葉君の家の前までは右側は殆ど門並さういふ家であって、人の足音さへすれば、へンに声作りをした若い女の『寄ってらっしゃいよ』といふ声が家の裡(ナカ)から聞えた」(「一葉全集の未に」明治45年6月)。
一葉はそういう女性たちと交わり、彼女たちが客に出す手紙の代筆などもする。
*
「となりに酒うる家あり。
女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめに似たり。
つねに文かきて給はれとてわがもとにもて来ぬ。
ぬしはいつもかはりて、そのかずはかりがたし」
*
三宅花圃の談話。
「夏子の君が先には吉原の傍なる浅草大音寺前通りに住みたまひ、今はまた本郷丸山の福山町なる銘酒屋なんどが限りもなふ軒をならぶる醜(ミグ)るしの街に宿を定めたまへるを諌めける人さへあり。妾もまた君の為めに言ふ所ありしに君は笑ひたまふて一言も答へせず、朗詠の声もすゞしく
なかなかにえらまぬ宿のあしがきの
あしき隣もよしや世の中
とて話題を他へそらしたまひぬ」(「讀賣新聞」明治29・11・30)
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この丸山福山町で、一葉は「奇蹟の十四箇月」を過ごす。
ここでの作品は、
「やみ夜」(明治27年7月~11月)、「大つごもり」(27年12月)、「たけくらぺ」(28年1月~29年1月)、「ゆく雲」(28年5月)、「にごりえ」(28年9月)、「十三夜」(28年12月)、「わかれ道」(29年1月)、「この子」(同上)、「裏紫」(29年2月)、「われから」(29年5月)
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以前に友人とこの丸山福山町の一葉終焉の地を訪ねたことがあるのですが、まだご紹介していないのに今気付きました。
近いうちにご紹介します。
2011年4月23日土曜日
東京 北の丸公園 若葉の緑に包まれた雑木林 ハナミズキ トキワマンサク カラタチ ニワトコ ドウダンツツジ
昨日(4月22日)は一日中くもり空。
北の丸公園の花々です。
*
▼若葉の緑に包まれた雑木林
*
▼ハナミズキ
来週後半くらいに満開になるのではないでしょうか
ニ種類の色があります。
*
▼アカバナトキワマンサク
*
▼トキワマンサク
*
▼カラタチ
花びらがかなり落ちていました。ピークは過ぎている感じです。
でも、よく見るとまだ蕾もあるようです。
*
▼ニワトコ
一瞬、アオダモか?と勘違いしました。
*
▼ドウダンツツジ
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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北の丸公園の花々です。
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▼若葉の緑に包まれた雑木林
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▼ハナミズキ
来週後半くらいに満開になるのではないでしょうか
ニ種類の色があります。
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▼アカバナトキワマンサク
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▼トキワマンサク
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▼カラタチ
花びらがかなり落ちていました。ピークは過ぎている感じです。
でも、よく見るとまだ蕾もあるようです。
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▼ニワトコ
一瞬、アオダモか?と勘違いしました。
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▼ドウダンツツジ
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夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の1) 「奥さん笊(ざる)は大抵三口半か四口で食ふんですね。夫より手数を掛けちや旨く食へませんよ」
夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の1)
*
今回は落語ネタが登場。
*
暑い日、迷亭が苦沙弥先生宅にやって来る。
自分の昼食に蕎麦の出前を注文している。
迷亭ソバ喰いの情景、落語の如し。
「君此暑いのに蕎麦は毒だぜ」と先生。
「なあに大丈夫、好きなものは滅多に中(あた)るもんぢやない」、「打ち立ては難有(ありがた)いな。
蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来頼母(たのも)しくないもんだ上」と、迷亭は、薬味をツユの中へ入れて無茶苦茶に掻き廻はす。
「君訳そんなに山葵(わさび)を入れると辛らいぜ」と先生。
「蕎麦はツユと山葵で食ふもんだあね。君は蕎麦が嫌ひなんだらう」
「僕は饂飩(うどん)が好きだ」
「饂飩は馬子が食ふもんだ。蕎麦の味を解しない人程気の毒な事はない」と云び乍ら杉箸をむざと突き込んで出来る丈多くの分量を二寸許りの高さにしやくひ上げる。
「奥さん蕎麦を食ふにも色々流儀がありますがね。初心の者に限つて、無暗にツユを着けて、さうして口の内でくちやくちや遣つて居ますね。あれぢや蕎妻の味はないですよ。何でも、かう、一としやくひに引っ掛けてね」と云ひながら・・・。
箸を上げると、長い奴が勢揃ひをして一尺許り空中に釣るし上げられる。
もう善からうと思つて下を見ると、未だ十二三本の尾が蒸籠(せいろ)の底を離れないで簀垂(すだ)れの上に纏綿(てんめん)して居る。
「此長い奴へツユを三分一(さんぶいち)つけて、一口に飲んで仕舞ふんだね。嚙んぢやいけない。嚙んぢや蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込む所がねうちだよ」と思ひ切つて箸を高く上げると蕎麦は漸くの事で地を離れた。
左手に受ける茶碗の中へ、箸を少し宛(づゝ)落して、尻尾の先から段々に浸すと、アーキミヂスの理論に因つて、蕎麦の浸(つか)つた分量丈ツユの嵩(かさ)が増してくる。
所が茶碗の中には元からツユが八分目這入つてゐるから、蕎麦の四半分も浸らない先に茶碗はツユで一杯になって仕舞う。
少しでも卸(おろ)せばツユが溢(こぼ)れる許りである。
迷亭は、茲(ここ)に至つて少し躊躇の体であつたが、忽ち脱兎の勢を以て、口を箸の方へ持つて行つたなと思ふ間もなく、つるつるちゆうと音がして咽喉笛が一二度上下へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなつてた。
迷亭の両眼から涙の様なものが一二滴眼尻から頬へ流れ出した。
山葵(わさび)が利いたものか、飲み込むのに骨が折れたものか判然しない。
苦沙弥先生と細君は、「御見事です事ねえ」と迷亭の手際を激賞。
迷亭は何にも云はないで箸を置いて胸を二三度敲(たた)いたが、
「奥さん笊(ざる)は大抵三口半か四口で食ふんですね。夫より手数を掛けちや旨く食へませんよ」
とハンケチで口を拭いて一寸一息入れる。
*
*
死ぬ前に一度ツユにたっぷり浸けてソバを食べたかった、という例のあの落語ネタの拝借ってところでしょうか。
*
その(六の二)に続く
*
今回は落語ネタが登場。
*
暑い日、迷亭が苦沙弥先生宅にやって来る。
自分の昼食に蕎麦の出前を注文している。
迷亭ソバ喰いの情景、落語の如し。
「君此暑いのに蕎麦は毒だぜ」と先生。
「なあに大丈夫、好きなものは滅多に中(あた)るもんぢやない」、「打ち立ては難有(ありがた)いな。
蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来頼母(たのも)しくないもんだ上」と、迷亭は、薬味をツユの中へ入れて無茶苦茶に掻き廻はす。
「君訳そんなに山葵(わさび)を入れると辛らいぜ」と先生。
「蕎麦はツユと山葵で食ふもんだあね。君は蕎麦が嫌ひなんだらう」
「僕は饂飩(うどん)が好きだ」
「饂飩は馬子が食ふもんだ。蕎麦の味を解しない人程気の毒な事はない」と云び乍ら杉箸をむざと突き込んで出来る丈多くの分量を二寸許りの高さにしやくひ上げる。
「奥さん蕎麦を食ふにも色々流儀がありますがね。初心の者に限つて、無暗にツユを着けて、さうして口の内でくちやくちや遣つて居ますね。あれぢや蕎妻の味はないですよ。何でも、かう、一としやくひに引っ掛けてね」と云ひながら・・・。
箸を上げると、長い奴が勢揃ひをして一尺許り空中に釣るし上げられる。
もう善からうと思つて下を見ると、未だ十二三本の尾が蒸籠(せいろ)の底を離れないで簀垂(すだ)れの上に纏綿(てんめん)して居る。
「此長い奴へツユを三分一(さんぶいち)つけて、一口に飲んで仕舞ふんだね。嚙んぢやいけない。嚙んぢや蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込む所がねうちだよ」と思ひ切つて箸を高く上げると蕎麦は漸くの事で地を離れた。
左手に受ける茶碗の中へ、箸を少し宛(づゝ)落して、尻尾の先から段々に浸すと、アーキミヂスの理論に因つて、蕎麦の浸(つか)つた分量丈ツユの嵩(かさ)が増してくる。
所が茶碗の中には元からツユが八分目這入つてゐるから、蕎麦の四半分も浸らない先に茶碗はツユで一杯になって仕舞う。
少しでも卸(おろ)せばツユが溢(こぼ)れる許りである。
迷亭は、茲(ここ)に至つて少し躊躇の体であつたが、忽ち脱兎の勢を以て、口を箸の方へ持つて行つたなと思ふ間もなく、つるつるちゆうと音がして咽喉笛が一二度上下へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなつてた。
迷亭の両眼から涙の様なものが一二滴眼尻から頬へ流れ出した。
山葵(わさび)が利いたものか、飲み込むのに骨が折れたものか判然しない。
苦沙弥先生と細君は、「御見事です事ねえ」と迷亭の手際を激賞。
迷亭は何にも云はないで箸を置いて胸を二三度敲(たた)いたが、
「奥さん笊(ざる)は大抵三口半か四口で食ふんですね。夫より手数を掛けちや旨く食へませんよ」
とハンケチで口を拭いて一寸一息入れる。
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死ぬ前に一度ツユにたっぷり浸けてソバを食べたかった、という例のあの落語ネタの拝借ってところでしょうか。
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その(六の二)に続く
2011年4月21日木曜日
東京 江戸城 二の丸庭園 若葉萌えるもみじ アカボシシャクナゲ ヤマブキ オトコヨウゾメ シャガの群生
今日(4月21日)は曇り空でしたが江戸城二の丸庭園に出かけました。
本丸跡から汐見坂に至る道筋や二の丸庭園、雑木林で、もみじの若葉が鮮やかでした。
*
▼二の丸池畔のもみじとアカボシシャクナゲ
*
▼ヤマブキ、その後ろに桜(カンザン)、そのまた後ろにもみじ
ほかにシロヤマブキも咲いていますが、まだぽつりぽつりの状況です。
*
▼二の丸池の左側の景色
*
▼同じく右側の景色
中央のすこし左に、人が三人見えます。
これで規模感をつかんで下さい。
中央は桜。
*
▼オトコヨウゾメという名前だそうです
ドウダンツツジくらいの小さい花です。
*
▼至るところにシャガが群生してます
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*
本丸跡から汐見坂に至る道筋や二の丸庭園、雑木林で、もみじの若葉が鮮やかでした。
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▼二の丸池畔のもみじとアカボシシャクナゲ
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▼ヤマブキ、その後ろに桜(カンザン)、そのまた後ろにもみじ
ほかにシロヤマブキも咲いていますが、まだぽつりぽつりの状況です。
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▼二の丸池の左側の景色
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▼同じく右側の景色
中央のすこし左に、人が三人見えます。
これで規模感をつかんで下さい。
中央は桜。
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▼オトコヨウゾメという名前だそうです
ドウダンツツジくらいの小さい花です。
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▼至るところにシャガが群生してます
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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永禄3年(1560)5月20日~7月24日 松平元康(19歳)、13年ぶりに岡崎城に帰還 三好勢の河内攻め開始 [信長27歳]
永禄3年(1560)
5月20日
・信長、今川方部将の首実験。
部将の首500ほどが清須に集められ、翌20日、首実検。
信長方には今川方家臣を知る者が殆どなく、信長は、義元の同朋衆を1人生け捕り、その同朋衆を立ち会わせる。
首実検の後、信長はそれらの首を埋め、首塚を作らせる。
「清洲より甘町南須賀口、熱田へまいり候海道に、義元塚とて築かせられ、弔のためにとて千部経をよませ、大卒塔婆を立置き候らひし。」(『信長公記』)。
*
□義元の首、駿河に送られる
今川軍は義元戦死により三河方面に逃げ帰るが、岡部元綱だけが、主君義元の首の返還を要求して鳴海城に踏み留まる。
残る遺骸も駿府に運ばれることになるが、そのまま駿府までは運べず、三河の牛久保(豊川市牛久保町)の大聖寺に埋葬することになる。現在の「義元の胴塚」。
葬儀は、6月5日、氏真によって営まれる。
*
□その後の今川氏
義元の子氏真が領国支配を担うが、三河では「三川錯乱」、遠江では「遠州忩劇(ソウゲキ)」となり、国人領主たちの離反が相つぐ。
そして遂に、永禄11年(1568)12月、東から甲斐の武田信玄が駿河に、西から三河の徳川家康が遠江に同時に攻め込み、翌年5月、最後の懸川城を開城し、戦国大名としての今川氏は滅亡。
その後、氏真は、妻早川殿の父北条氏康の保護を受け、一時、駿東郡の戸倉城に入り、のち小田原に移り、早川(氏真の妻の名早川殿の出身地)の辺に屋敷を与えられて住む。
氏康没後、家督をついだ氏政は「甲相駿三国同盟」締結の際に信玄の娘を娶っており、居心地の悪い氏真は、懸川開城のとき、家康から「武田を追い払った暁には駿河国をお返しする」との条件提示されたことに望みを託し、家康を頼って浜松に移る。
家康は、天正3年(1575)8月、武田方属城の遠江の諏訪原城を奪取、牧野城と名を変え氏真を城主とする。
しかし、2年後、氏真は、牧野城主をやめさせられ、家康の居城浜松城に引き揚げる。
その後は、家康から500石ほどの扶持を与えられ京都で暮らし、公家たちと交流を深める。慶長17年(1612)、京都から江戸に下り、翌々19年12月28日、77歳で江戸で没す。
氏真の嫡男範以(ノリモチ)は父に先立って没しており、範以の子直房が家督をつぎ、寛永13年(1636)、高家となって、江戸時代の高家今川氏が始まる。
*
5月20日
・信長、今川方岡部元信守る鳴海城攻撃。
6月1日、岡部、退却。
「去て鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠候。降参申候間、一命助け遣はさる。大高城・沓懸城・池鯉鮒(ちりう)の城・五ケ所同事に退散なり」(「信長公記」首巻)。
*
5月20日
・松平元康、大高城から退却、三河大樹寺に入る。
*
5月20日
・長宗我部国親、土佐長浜で本山茂辰と戦う。
長宗我部元親、初陣(5月27日とも)。
28日、敗れた本山茂辰、朝倉城に立て篭る。
*
5月23日
・松平元康(19)、岡崎城駐留の今川軍が引き揚げた後、岡崎城に帰る(13年ぶりに生地三河岡崎に戻る)。程なく今川家から独立。
駿府に妻子3人(築山殿、信康ら)を置いたまま。翌々年、信長は元康と同盟、東を押さえさせ美濃攻略に専念。
*
下旬
・信長、初めて州俣にで出城構築。佐々内蔵助600、土塁築くも斎藤勢に崩される。
*
*
6月
・武田晴信、信濃川中島に海津城を築く。
*
6月2日
・信長1,500美濃出兵。
斎藤勢3,000(宿老丸毛兵庫頭率いる)、大垣城長井甲斐守1,000加勢。
信長退却。8月にも再度侵入。
*
6月5日
・フランス、リヨンでユグノーの虐殺。
*
6月10日
・スコットランド、王母マリー(女王・仏王フランソワ2世妃メアリー・スチュワートの母マリー・ド・ギーズ)、没。異母兄のマレー伯ジェームズが摂政に。
*
6月14日
・三条西公条(きんえだ)、正親町天皇に「伊勢物語」伝授を行う。
27日、古今伝授を行う。
*
6月15日
・長宗我部国親(57)、没。長宗我部元親が家督を継ぐ。
*
6月19日
・足利義輝、近衛新邸へ移徙。
日蓮宗(法華宗)寺院の妙覚寺(「本覚寺」)の仮御所から、勘解由小路室町に建てられた新御所「武衛陣」に落ち着く。
(武衛陣址の碑はコチラ)
*
6月24日
・三好勢の河内攻め開始
三好実休(義賢出家)、大船団で尼崎着。
29日、阿波衆1万、河内に展開。長慶軍と合わせ2万。
*
*
7月
・三好実休、河内金剛寺へ全3ヶ条の「禁制」下す(「金剛寺文書」)。
*
7月1日
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ、3男ガルツィア(13)をフィレンツェ艦隊提督に任命。副将バッチオ・マルテッリ。
*
7月3日
・三好勢、若江城攻撃、降伏。
7日、八尾、太田、若林進出。
19日、本陣を藤井寺剛琳寺に置く。高屋城救援の畠山高政勢・根来衆と交戦。畠山・根来退却。
*
7月6日
・エディンバラ条約締結。英仏間で締結。
英仏両軍、スコットランドから撤退。
新教徒の摂政評議会の設置をイングランドに約束。
フランス、ギーズ一族のエルブッフ公をスコットランドに派遣、イングランド追い出しを図るが失敗。フランソワ2世と妻メアリ・スチュアートのイングランド王位の野望潰える。
10日、エディンバラで身分制議会、開会。
皇太后メアリー・ド・ギーズ没後、先王ジェームス5世庶子マリ伯が摂政としてフランスの庇護を受ける。
カルヴァン派プロテスタントのジョン・ノックスが反乱、フランスが武力介入。
ノックスらカルヴァン派は、英国に支援を求め、エリザベス1世が武力介入、フランス・マリ伯連合軍を破る。
この条約で、スコットランドは自主的に宗教を決定する権限を得て、スコットランドのカルヴァン派長老主義確立。
*
7月9日
・家康、三河法蔵寺へ全5ヶ条の「定」を下す(「法蔵寺文書」)。
*
7月13日
・前田利家の父利昌、病没。兄利久が家督相続。利家は牢人のまま荒木城寄食。
*
7月21日
・この日付六角承禎の宿老宛書状。
斎藤義龍との縁談(同盟)に反対(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書)。
この年、浅井長政の自立阻止の為、承禎は北近江に侵攻、野良田合戦で敗北。
宿老衆は、承禎の長男義治(このとき四郎義弼)と斎藤義龍の娘との縁談をすすめ同盟。
承禎はこの縁談に反対。
六角氏は、天文・弘治年間、義晴・義輝父子を保護、斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を保護、北伊勢で北畠氏と抗争、弘治3年(1557)養女が本願寺に嫁ぎ(「厳助往年記」)本願寺との連携を強化。
同盟成立で、翌永禄4年、浅井長政の美濃侵攻の間隙を突いて佐和山城を攻略、浅井氏を屈服させる。
後顧の憂を断った六角氏は、河内畠山高政と三好包囲網を築き、京都奪還を目指す。
*
7月24日
・三好勢松永久秀、大和郡山辰市城に井戸良弘を包囲。
筒井順政がこれを援けるが失敗。28日、陥落。
*
「★織田信長インデックス」をご参照下さい。
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5月20日
・信長、今川方部将の首実験。
部将の首500ほどが清須に集められ、翌20日、首実検。
信長方には今川方家臣を知る者が殆どなく、信長は、義元の同朋衆を1人生け捕り、その同朋衆を立ち会わせる。
首実検の後、信長はそれらの首を埋め、首塚を作らせる。
「清洲より甘町南須賀口、熱田へまいり候海道に、義元塚とて築かせられ、弔のためにとて千部経をよませ、大卒塔婆を立置き候らひし。」(『信長公記』)。
*
□義元の首、駿河に送られる
今川軍は義元戦死により三河方面に逃げ帰るが、岡部元綱だけが、主君義元の首の返還を要求して鳴海城に踏み留まる。
残る遺骸も駿府に運ばれることになるが、そのまま駿府までは運べず、三河の牛久保(豊川市牛久保町)の大聖寺に埋葬することになる。現在の「義元の胴塚」。
葬儀は、6月5日、氏真によって営まれる。
*
□その後の今川氏
義元の子氏真が領国支配を担うが、三河では「三川錯乱」、遠江では「遠州忩劇(ソウゲキ)」となり、国人領主たちの離反が相つぐ。
そして遂に、永禄11年(1568)12月、東から甲斐の武田信玄が駿河に、西から三河の徳川家康が遠江に同時に攻め込み、翌年5月、最後の懸川城を開城し、戦国大名としての今川氏は滅亡。
その後、氏真は、妻早川殿の父北条氏康の保護を受け、一時、駿東郡の戸倉城に入り、のち小田原に移り、早川(氏真の妻の名早川殿の出身地)の辺に屋敷を与えられて住む。
氏康没後、家督をついだ氏政は「甲相駿三国同盟」締結の際に信玄の娘を娶っており、居心地の悪い氏真は、懸川開城のとき、家康から「武田を追い払った暁には駿河国をお返しする」との条件提示されたことに望みを託し、家康を頼って浜松に移る。
家康は、天正3年(1575)8月、武田方属城の遠江の諏訪原城を奪取、牧野城と名を変え氏真を城主とする。
しかし、2年後、氏真は、牧野城主をやめさせられ、家康の居城浜松城に引き揚げる。
その後は、家康から500石ほどの扶持を与えられ京都で暮らし、公家たちと交流を深める。慶長17年(1612)、京都から江戸に下り、翌々19年12月28日、77歳で江戸で没す。
氏真の嫡男範以(ノリモチ)は父に先立って没しており、範以の子直房が家督をつぎ、寛永13年(1636)、高家となって、江戸時代の高家今川氏が始まる。
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5月20日
・信長、今川方岡部元信守る鳴海城攻撃。
6月1日、岡部、退却。
「去て鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠候。降参申候間、一命助け遣はさる。大高城・沓懸城・池鯉鮒(ちりう)の城・五ケ所同事に退散なり」(「信長公記」首巻)。
*
5月20日
・松平元康、大高城から退却、三河大樹寺に入る。
*
5月20日
・長宗我部国親、土佐長浜で本山茂辰と戦う。
長宗我部元親、初陣(5月27日とも)。
28日、敗れた本山茂辰、朝倉城に立て篭る。
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5月23日
・松平元康(19)、岡崎城駐留の今川軍が引き揚げた後、岡崎城に帰る(13年ぶりに生地三河岡崎に戻る)。程なく今川家から独立。
駿府に妻子3人(築山殿、信康ら)を置いたまま。翌々年、信長は元康と同盟、東を押さえさせ美濃攻略に専念。
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下旬
・信長、初めて州俣にで出城構築。佐々内蔵助600、土塁築くも斎藤勢に崩される。
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6月
・武田晴信、信濃川中島に海津城を築く。
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6月2日
・信長1,500美濃出兵。
斎藤勢3,000(宿老丸毛兵庫頭率いる)、大垣城長井甲斐守1,000加勢。
信長退却。8月にも再度侵入。
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6月5日
・フランス、リヨンでユグノーの虐殺。
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6月10日
・スコットランド、王母マリー(女王・仏王フランソワ2世妃メアリー・スチュワートの母マリー・ド・ギーズ)、没。異母兄のマレー伯ジェームズが摂政に。
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6月14日
・三条西公条(きんえだ)、正親町天皇に「伊勢物語」伝授を行う。
27日、古今伝授を行う。
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6月15日
・長宗我部国親(57)、没。長宗我部元親が家督を継ぐ。
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6月19日
・足利義輝、近衛新邸へ移徙。
日蓮宗(法華宗)寺院の妙覚寺(「本覚寺」)の仮御所から、勘解由小路室町に建てられた新御所「武衛陣」に落ち着く。
(武衛陣址の碑はコチラ)
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6月24日
・三好勢の河内攻め開始
三好実休(義賢出家)、大船団で尼崎着。
29日、阿波衆1万、河内に展開。長慶軍と合わせ2万。
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7月
・三好実休、河内金剛寺へ全3ヶ条の「禁制」下す(「金剛寺文書」)。
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7月1日
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ、3男ガルツィア(13)をフィレンツェ艦隊提督に任命。副将バッチオ・マルテッリ。
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7月3日
・三好勢、若江城攻撃、降伏。
7日、八尾、太田、若林進出。
19日、本陣を藤井寺剛琳寺に置く。高屋城救援の畠山高政勢・根来衆と交戦。畠山・根来退却。
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7月6日
・エディンバラ条約締結。英仏間で締結。
英仏両軍、スコットランドから撤退。
新教徒の摂政評議会の設置をイングランドに約束。
フランス、ギーズ一族のエルブッフ公をスコットランドに派遣、イングランド追い出しを図るが失敗。フランソワ2世と妻メアリ・スチュアートのイングランド王位の野望潰える。
10日、エディンバラで身分制議会、開会。
皇太后メアリー・ド・ギーズ没後、先王ジェームス5世庶子マリ伯が摂政としてフランスの庇護を受ける。
カルヴァン派プロテスタントのジョン・ノックスが反乱、フランスが武力介入。
ノックスらカルヴァン派は、英国に支援を求め、エリザベス1世が武力介入、フランス・マリ伯連合軍を破る。
この条約で、スコットランドは自主的に宗教を決定する権限を得て、スコットランドのカルヴァン派長老主義確立。
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7月9日
・家康、三河法蔵寺へ全5ヶ条の「定」を下す(「法蔵寺文書」)。
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7月13日
・前田利家の父利昌、病没。兄利久が家督相続。利家は牢人のまま荒木城寄食。
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7月21日
・この日付六角承禎の宿老宛書状。
斎藤義龍との縁談(同盟)に反対(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書)。
この年、浅井長政の自立阻止の為、承禎は北近江に侵攻、野良田合戦で敗北。
宿老衆は、承禎の長男義治(このとき四郎義弼)と斎藤義龍の娘との縁談をすすめ同盟。
承禎はこの縁談に反対。
六角氏は、天文・弘治年間、義晴・義輝父子を保護、斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を保護、北伊勢で北畠氏と抗争、弘治3年(1557)養女が本願寺に嫁ぎ(「厳助往年記」)本願寺との連携を強化。
同盟成立で、翌永禄4年、浅井長政の美濃侵攻の間隙を突いて佐和山城を攻略、浅井氏を屈服させる。
後顧の憂を断った六角氏は、河内畠山高政と三好包囲網を築き、京都奪還を目指す。
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7月24日
・三好勢松永久秀、大和郡山辰市城に井戸良弘を包囲。
筒井順政がこれを援けるが失敗。28日、陥落。
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「★織田信長インデックス」をご参照下さい。
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2011年4月20日水曜日
東京 北の丸公園 遅桜 バイゴジジュズカケザクラ(梅護寺数珠掛桜) スルガダイニオイ(駿河台匂) フクロクジュ(福禄寿) アマノガワ(天の川) シロタエ(白妙) ヤエベニトラノオ(八重紅虎の尾) など
いよいよ桜シーズンも終りです。
4月20日の北の丸公園
遅桜たちが、ここぞとばかり咲き誇っています。
その傍ではもうハナミズキがちらほら咲き始めてはいますが・・・。
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▼吉田茂像あたり
八重の桜が多いこともあり、散り落ちた花びらもハンパじゃないです。
*
▼こちらは武道館の脇
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▼バイゴジジュズカケザクラ(梅護寺数珠掛桜)という名だそうです。
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▼スルガダイニオイ(駿河台匂)
この葉は、桜餅の、あの桜の匂いがします。
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▼フクロクジュ(福禄寿)
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▼アマノガワ(天の川)
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▼シロタエ(白妙)
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▼カンザン(関山)
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▼フゲンゾウ(普賢象)
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▼ショウゲツ(松月)
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▼ヤエベニトラノオ(八重紅虎の尾)
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▼イチヨウ(一葉)
かなり疲れた一葉です。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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4月20日の北の丸公園
遅桜たちが、ここぞとばかり咲き誇っています。
その傍ではもうハナミズキがちらほら咲き始めてはいますが・・・。
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▼吉田茂像あたり
八重の桜が多いこともあり、散り落ちた花びらもハンパじゃないです。
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▼こちらは武道館の脇
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▼バイゴジジュズカケザクラ(梅護寺数珠掛桜)という名だそうです。
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▼スルガダイニオイ(駿河台匂)
この葉は、桜餅の、あの桜の匂いがします。
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▼フクロクジュ(福禄寿)
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▼アマノガワ(天の川)
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▼シロタエ(白妙)
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▼カンザン(関山)
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▼フゲンゾウ(普賢象)
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▼ショウゲツ(松月)
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▼ヤエベニトラノオ(八重紅虎の尾)
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▼イチヨウ(一葉)
かなり疲れた一葉です。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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