1787年(天明7年)
4月7日
・ベートーヴェン(17)、ウィーン到着。
20日、母重体の報せを受けボンへ向かう。
25日ミュンヘン着。
ベートーヴェンのこの2週間の滞在中に、おそらくモーツアルトの住居<フィガロハウス>で2人は会ったものと推測される。
オットー・ヤーン『モーツアルト伝』が伝えるその様子によると・・・
ウィーンにやってきたベートーヴェンはモーツァルトに紹介され、彼に促されてなにかを弾いた。ところがモーツァルトはそれが暗記でもして覚えた披露用の曲と思って、かなり冷淡なほめかたをした。それに気づいたベートーヴェンは、モーツアルトに乞うて即興用の主題を一つ出してくれるように言い、興が乗る時いつもそうだったように素晴らしい弾奏をしたが、とりわけ自分が尊敬してやまない巨匠の前だっただけに、それだけいっそう熱がこもるのであった。こうした没頭ぶりを見たモーツアルトは大いに注意をそそられ、かつ強い関心を抱いて、控えの間に坐っている友人たちのところに足音をしのばせて行き、声をはずませて言った。「彼に注目していたまえ、いつか世間をさわがせることだろう!」
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4月8日
・フランス、財務総監(長官)カロンヌ罷免。
2月22日、特権身分への課税(特権身分の免税を廃止して課税の平等を実現)を求める財政改革案、名士会で否決。
後任は、王妃が指名するトゥールーズ大司教ロメニ・ドゥ・ブリエンヌ(のち枢機卿)。
ブリエンヌの改革案:
当座の破産回避のため名士会・高等法院より終身年金6700万リーヴル借入承認を得る。ブリエンヌの改革案はカロンヌの提案と同一路線にあり更に一貫性をもつもの。
①特権階級・ブルジョア階級の団結を破るため、第3身分が貴族・僧侶身分と同数の代表者を持つ地方議会創設。
②新教徒に公民権を与え、賦役を金納制にかえる。
③貴族・僧侶への不動産課税を主張 ⇒ 名士会の反撥
ラファイェットは、ブリエンヌ登用は危機解決に役立たないと考え、1614年以来開かれていない全国三部会召集を要求。
一方、名士たちは、カロンヌ案を基本的に踏襲するブリエンヌの改革案に反対し、ラファイエットの提案を繰り返し、「国民の真の代表 - すなわち全国三部会 ー のみ」が新税に同意する権利を持つ、と宣言。
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4月15日
・徳川家斉(15)、第11代征夷大将軍に任ぜられる。
世子家斉が家治の後を継いだのは前年(天明6年)11月1日で、この日は将軍宣下の式。
家斉は田沼意次に擁立されており、自分のために暗殺されたとの噂のある家基および「心願」を果たせなかった意次のたたりを恐れ、のちに壮麗な感応寺を建立して家基の霊をまつり、また意次にはその二男意正(おきまさ)を幕閣に復帰させることで、それぞれ償いを果たす。
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4月19日
・モーツアルト、弦楽五重奏曲第2番ハ長調 (K515)作曲。モーツアルトの器楽曲中で最大規模(1149小節)。
(14年前の第1番K.174の後、突然3曲の弦楽五重奏曲K.515、516、406 を相次いで作り予約販売計画。パート譜が18フローリアンという新聞広告が出るが、予約者はほとんどなく、出版を2年後に延ばす広告を出す。 結局、K.515は1789年、K.516は1790年、K.406は1792年にアルタリア社から出版)
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4月24日
・モーツアルト、市内から郊外ラント通り224番地に転居。
二重カノン「ああ!私たちの人生はあんまり短くって」(K.228(515b))を作曲。
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5月1日
・田沼派の御側申次横田準松、3千石加増され合計9,500石となる。
「日増其勢ひ強き事、飛島も落る気色、諸人羨思ふ」(大田南畝「一話一言補遺」)。
しかし、この月29日、御側申次を解任される。
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5月10日
・~12日、大坂に天明の打壊し始まる。町人10余人、問屋200余打壊す。同時に、京都・奈良・伏見・堺・山田・甲府・駿河・広島、他中国・九州に広がる。
天明6年7月の大水害以来、米価・諸物価は騰貴の一途をたどり、翌7年5月、京坂では平素、米1石50-60匁で買えたものが250匁、江戸では1両に1石以上もあったのが1斗6、7升に暴騰した。小売りも江戸では銭100文で1升以上も買えたのが、せいぜい3合どまりにすぎなくなった。燈油も1合16文という高値をよび、味噌・塩・豆腐・紙・綿・大豆・麦・乾物類・野菜類などの必需品も軒なみにはねあがった。
家産のある町人でも麦を食べ、粥をすする状態のなかで、まっさきに困窮のどん底につき落とされたのは極貧層の人々。飢えに迫られて両国橋の上から6歳と3歳の子を縄でしぼって水中に落とし、あとを追って親もとびこんだというような悲惨な親子心中の話も、あちこちできかれた。
貧民たちは連日、町奉行所に押しかけ、商人の隠匿米を摘発し、安売りするように要求した。さらに、消極的な家持・家主らをつきあげて町名主とともに奉行所に訴願させた。
ところが月番の北町奉行曲淵(まがりぶち)甲斐守景漸(かげつぐ)は、かつては名奉行の名をとった能吏であったが、事態の急迫にすっかり動転し、うっかり「町人の分際で米ばかりを食べるのは不心得だ。食べられるものはなんでも食べよ」と放言し、猫でも食えといわぬばかりの態度をとったから、民衆はいきりたった。
一方、大坂でも安永9年(1780)以来の連続的な凶作や、天明6年春の畿内・中国・九州辺の洪水などによって米の入荷が減少し、米価・諸物価は騰貴した。
これらに加えて同年12月、7年6月の2回にわたって御用金が課せられたうえ、さらに二朱判の通用停止の噂も流れて人心がひどく動揺した。
商人の市場操作もはたらいて、7年4月末の大坂米在庫量は42万4千俵と、正月の半分以下に激減し、このままだと7月にならないうちに、大坂市中には一粒の米もなくなるだろうといわれた。
こうした世情のうちに、ついに5月11日夜、天満伊勢町の茶屋吉右衛門の屋敷が打ち毀されたのを発端として、翌日には市中各所に米騒動がおこり、被害者は200軒に達した。
大坂だけではなく、同月中に長崎・博多・広島・堺・奈良・福井・甲府・駿府など、記録に明らかなだけでも全国32都市にあいついで打ち毀しがおこった。
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5月10日
・イギリス議会、総督在任中の苛政と腐敗の責任を問う元ベンガル総督へースティングス弾劾動議が成立。
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5月16日
・モーツアルト、弦楽五重奏曲第3番ト短調 (K516)。
第1楽章第1主題「走る悲しみ」(アンリ・ゲオン「モーツアルトとの散歩」)。
「モーツアルトのかなしさは疾走する」(小林秀雄「モオツアルト」)。
「心をえぐる深い悲しみの表現」(井上太郎)。
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