2024年3月28日木曜日

辻元清美議員「政倫審も茶番だったんですかね総理が再調査しなきゃいけないくらい。総理や自民党の言う事は全く信じられなくなってる。派閥の解散の話しから始まった。二階派、安倍派、岸田派の派閥、政治団体の解散届けは出ていますか」 総務省「提出されておりません」

 

兵庫県幹部が知事を中傷する文書を配布 知事「うそ八百」と解任、退職認めず 報道機関や県警が入手(神戸新聞) / 「定年退職が近い県民局長が知事らを批判する文書を作成し、報道機関や議会などへ送っていたという。退職が目前なのに降格処分を覚悟しての確信犯的行動だろうが、むしろ局長にそこまでさせた兵庫県で何が起こっているかが気にかかる。— 吉富有治」

大杉栄とその時代年表(83) 1893(明治26)年4月25日~5月21日 東学党報恩集会 一葉(21)、頭痛に苦しむ 「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」(一葉) 市川房枝生まれる 防穀令賠償問題妥結 戦時大本営条例公布  子規『獺祭書屋俳話』(処女出版)   

獺祭書屋俳話 全 正岡子規 獺祭書屋主人著 日本新聞社 初版
 
大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問 より続く

1893(明治26)年

4月25日

韓国、東学党報恩集会・忠清道報恩で東学2回目の集会。2万人。反侵略スローガン。政府、軍600派遣、解散。解散に際して提出された要請状を検討し、政府は2地方官を解任。参会者は平和的運動の限界を悟る。後、過激派(北接)と穏健派(南節)大分裂。

4月25日

一葉(21)、頭痛に苦しむ


「(四月)廿五日 早朝は晴れたる様なりしが、六時過るより空たゞくらく成に成て、雷雨昨夜にかはらず、しばしも戸を明がたし。・・・我れは文机に寄りて、とざまかうざまにものおもふほど、かしらのいとなやましきに、胸さへもたゞせまりにせまりてくるほしければ、ふすまかづきて打ふしたるまゝ、日くるゝもしらず、八時過るまで寐にけり。」(「蓬生日記」明26・4・25)

(二十五日。早朝は晴れていたようだが六時過ぎ頃から空はどんどん暗くなり、雷雨は昨夜にかわらないほどで、しばらくも戸を開けることが出来ない。・・・私は、机にもたれてあれこれ物思いをしていると頭痛が烈しくなり、雷雨の恐ろしさも何も耳に入らなくなった。私の魂が何処かへ誘われて行くのでしょうか。一時間ばかりは夢を見ているようでした。ふと目を覚ました時は、雨戸から漏れる日の光はあざやかになって、さしもの空も名残りなく晴れ渡っていました。午後からまた少し雨が降り出したが、まもなく風になった。頭がひどく痛く胸までもますます締めつけられるようで気が狂いそうなので、蒲団をかぶって寝てしまい、日が暮れたのも知らないのでした。八時過ぎまで寝てしまった。)

4月29日

一葉、桃水を訪ねる。


「・・・「又脳病におはしますよし、よくやしなひ給へよ。今君にして病ひおもからば、家の事をいかにせんとか覚(オボ)す。つとめて心のどかに、一日もはやく治せんことを覚せ。さはれ筆とるものゝならひ、此病ひなき人こそ少なかりけれ。我も昔しはいと健(スコヤ)かなりし身の、打つゞきて脳の病みつよく、此頃は少しおこたりし様なれど、いとなやましき也。今の病ひいゑなば、よし花はあらずともよし、何方(イヅク)の野山にもあくがれて、心かぎりなぐさまんとおもふぞかし。君にも籠居(タレコメ)のみにおはしまさで、新らしき風に当らせ給ふぞよき」とさとし給ふ。・・・」(「日記断片その二」)。


「・・・「あなたは頭痛がおありだとのこと、充分養生なきって下さい。今あなたが重い病気になられたらお家の事はどうなるとお思いですか。努力して一日も早く治るようになさい。それにしても筆で身を立てる人の常として、この頭痛を持たない人は少ないのです。私も昔は頑健な体でしたが、いつも頭痛が烈しく、此頃は少しは治ったようですが、時にはまだひどく痛むのです。今のこの病気が治ったなら、たとえ花は過ぎていても、何処かの野山を歩き廻って、心の限り遊ぼうと思っているのです。あなたも家にばかり閉じこもっていないで新鮮な風に当たるのがよいのですよ」・・・」

4月30日

「文学界」第4号が届く


5月

北村透谷「内部生命論」(「文学界」)

5月

鴎外(31)、「しがらみ草紙」を「城南評論」に合併。

5月

改進党島田三郎、「凡そかくの如く学問もなければ、勇気もなく、愛国心もなく、而して身体が強くて従順であるこういう国は、・・・属国になるよりほかに仕方がない。・・・今日は区々の理屈をいう時ではない。・・・強く出た以上はどこまでも強く出る」ことを政府に要求。

5月

海軍軍令部条例、制定。対清戦争準備。

5月

高野房太郎(24)、ワシントン州タコマ在住。

5月1日

夜、稲葉鉱が衣類を貰いに一葉を来訪。妹邦子の浴衣をやる。

5月1日

シカゴ、コロンブス記念万国博覧会。~10/3。高村光太郎「老猿」出品。

5月2日

子規、漱石を訪問、泊る。子規「時鳥江戸に旅寐の雨夜哉」(『獺祭書屋日記』)

5月2日

一葉、今月も手元不如意で、着物4枚羽織2枚を風呂敷に包み母と共に伊勢屋に行く。

「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」

(春に着ていた着物が、長持ちではなく質屋におさめられていって、春が質屋にかくれてゆく。そんな貧しい我が家の衣替えであることよ)

西鶴の句に「長持ちに春かくれ行くころもがへ」がある。

5月3日

朝、一葉に星野天知から便り。「文学界」5号に少し長いものを20日までに貰いたいとのこと。「都の花」の方もまだ書き終っていないので、来月ならと返事を出す。母が、昨日につづき伊勢屋に行く。

5月4日

夕方、一葉、西村釧之助に金を返しに行く。稲葉鉱が来訪。これから西村に借金に行くとのこと。

5月9日

子規、漱石を訪問。

5月12日

1843年イギリスに併合された南アフリカ・ナタール共和国、再び完全自治権獲得。

5月15日

横浜正金銀行、上海の黄浦灘路31号に出張所を設立。

1890年ドイツの徳華銀行(黄浦灘路14号)、1896年ロシア華道勝銀行(黄浦灘路15号、主要株主はフランスの金融家)、1899年フランス東方匯理銀行(黄浦灘路29号)、同年日本台湾銀行(黄浦灘路16号)、1902年ベルギー華比銀行(黄浦灘路20号)、同年米国花旗銀行(九江路A字1号)、1903年オランダ銀行(黄浦灘路21号)などが進出。黄浦灘路一帯はこ外国銀行集中区となる。これらの銀行は資本輸出の職能を実施。列強諸国は独自の紙幣を発行し、中国の対外貿易及び国際為替を独占、また、金融及び清朝政府の貸付金を操作する事で政治権を掌握し、金融界を分断。上海租界内の黄浦灘路は名実ともに「ウォール街」となる(列強の中国侵略の橋頭堡「ウォール街」)。

5月15日

市川房枝、誕生。愛知県中島郡明地村字藤吉(現、尾西市)。男3人女4人の3女。

5月15日

一葉の母たきの誕生日。「こゝろうき人々なれども」兄虎之助と姉久保木ふじを呼ぶ。兄からは土産を貰う。夕暮少し前まで遊ぶ。

5月19日

韓国、防穀令賠償問題、4年ぶりに妥結。韓国より賠償金11万円支払い

賠償交渉、難航し、この月、駐朝公使大石正巳が最後通牒を発するまでに緊張。伊藤首相は、李鴻章に斡旋を依頼、指令を受けた袁世凱が韓国政府に賠償金支払いを受諾させる。清国の韓国における指導的立場を利用。

大石公使(自由党から抜擢)は、外交官としての習慣・儀礼を無視し、景福宮の奥深くまで輿を乗り入れるなど王室に対する非礼な行為を重ね、列国外交団の顰蹙をかう。

日本は、韓国で領事裁判権・日本貨幣流通権など多くの不平等特権を保持し、釜山・仁川・元山などの戦略要点に特別居留地(専管租界)を設定し、公使館保護名目により駐兵権を獲得。これら特権と地理的近接性を利用して、米・大豆などの穀物や金地金を収奪し、その代りにイギリス製綿製品の中継輸出を行う(米綿交換体制)が、清国が旧来の宗主権を近代的な保護属領体制に再編するににつれて困難となってくる。政治的条件により日本商人より相対的に有利な清国商人は、上海からの直輸入で日本の仲継貿易を圧倒し、韓国政府も日本商人の穀物買占めに防穀令で対抗。韓国は将来の輸出市場として、現実の原料・食糧供給地として重要で、特に安価な韓国米は低米価・低質銀政策維持の為に不可欠で、政府は最後通牒をかけて防穀令賠償を求める。

清国は、韓国に対する伝統的宗主権を再編成し、政治・軍事・経済面の支配を強める。北洋大臣・直隷総督李鴻章は、部下の袁世凱をソウルに駐在させ、政治・経済への介入を命じ、韓国政府が独立の為にロシアやアメリカに接近することを監視。清国は旧来の宗主権を条約上の権利に変更し、それを最恵国条款による均霑の対象とする事を拒絶、また韓国を指導して列強と通商条約を結ばせ、韓国に列強利権を引き込み、日本の独占的支配を防ごうとする。この一連の措置により、列強は清国の宗主棒を承認し、韓国は列強の通商上の権益が入り組む「国際保険の十字路」となる。李鴻章は盛宜懐を通じ、イギリス資本を背景に電信事業を起し、招商局を創設し、海運・電信を支配。洋務派は、この勧告支配方式を北洋艦隊と淮軍で擁護。清国の支配は旧来の伝統的な華夷秩序に支えられて強力であり、日本が韓国を支配する為には、或いは清国とともに朝鮮の「共同保護主」となる為にも、清国の伝統的・政治的・経済的影響力を軍事力で破摧する必要がある。

5月19日

戦時大本営条例、公布(勅令52号)。この年2月7日、参謀総長から陸相に内議。

この間、川上操六参本次長は清国・韓国の兵要視察旅行を行い、日韓関係は防穀令事件を巡り緊迫。4月2日閣議は、日本の対韓国外交は「通常外交上ノ範囲ヲ遠出シタル情勢二立チ到り居候儀ヲ発見」し、5月17日閣議は、大石公使に対し「何時タリトモ国際公法上許ストコロノ(報復)手段ヲ強行スルノ自由ヲ有スル」と宣言し、ソウルから引揚げるよう訓令を与えることを決議し、韓国に「軍艦ヲ派遣シ、反報ノ手段ヲ取ルコトニ決意」。

防穀令事件が統帥部に出兵権独占を決意させる原因となる。最後通牒送付後のこの日、日本政府が李鴻章から受取った電報は、日本が出兵する、帝国も「朝鮮保護ノタメ直ニ兵ヲ送ラザルヲ得ザルべシ」、それには「英露モ加ハルベシ」、「然ルトキハ此小問題ニシテ朝鮮卜修好条約アル諸国トノ紛糾ヲ惹起スべシ」と強調。伊藤首相はこの電報により北洋艦隊の威力を想起し妥協。この事態は政府指導者が軟弱との印象を与える(「原敬日記」同日条)。

5月19日

一葉、夜、号外が届き、福島県吾妻山大爆発とのこと。今日から四畳半の座敷に移る。

恋に関する考察。〈恋は、自分の命を失うと分かっていても道を踏み外させる力を持つが、すべては自分の心から出たものであり、是非も善悪も元は一つである。〉

吾妻山噴火: 

噴気活動が1893年(明治26年)5月19日から活発になって,燕沢で水蒸気爆発し,噴石と火山灰を噴出させる。6月4日~8日には水蒸気爆発が強くなって,7日、調査中の技師ら2名が噴石に当たって死亡。11月9、10日に小規模水蒸気爆発し,翌年には一連の活動が終息する。"

5月20日

一葉の母たきが西村釧之助のところに借金に行くが、来客中なのでそのまま帰る。朝鮮防穀事件、山梨県の霜害、吾妻山爆発、狂水病(狂犬病)など時事問題に関心を持つ。

5月21日

子規『獺祭書屋俳話』刊行(処女出版)

明治25年6月以来、新聞『日本』に掲載した「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を「日本叢書」の一として日本新聞社から刊行。

5月21日

西村釧之助が心配して一葉を来訪。1円借りる。すぐに菊池隆直のもとに持参する。

夜遅く、頭痛と胸の苦しみに喘ぎ、人生の浮沈など人の世のはかなさに心が攻め立てられる。"

5月21日

シチリア社会党結成。


つづく

2024年3月27日水曜日

これが一本の醜悪な線でつながるんだね → 小林製薬の「紅麹」 → 「機能性表示食品制度」 → 安倍晋三(「アベノミクスの第3の矢 規制緩和による経済成長戦略」) → 森下竜一(「大阪ワクチン」で国から75億の補助金。アンジェス株の怪しい動き。吉村知事は「大阪ワクチン」を選挙利用。今は大阪万博総合プロデューサー)   



 

「違法なことだから…」と“自白” 赤ベンツ不倫・広瀬めぐみ議員の「秘書給与詐取疑惑」 決定的な「証拠LINEメッセージ」「通話音声」を公開(デイリー新潮)

 

立憲民主党 杉尾ひでやさん 「これだけの事件を起こしてしかも相当多数の人が脱税の疑いまで持たれてるんですよ。こんな不祥事かつての自民党でもないんですよ。民間企業だったらトップは辞任しますよ。引責辞任。自民党ってのはそれだけ無責任な組織なんですか?」 / 岸田派の会計責任者が略式起訴されたり、脱法パーティをやっていた総理の責任を杉尾氏が追及。 「自分は処分しないんですか」       

 

小池百合子知事の「答弁拒否」巡り都議会で激論 「耳障りな質問は排除か」立民発言の撤回求める動議可決(東京);「小池知事は女帝となり、「与党」の都議は女帝にひれふす宦官のごときものとなったよう。行政の長が嫌がる質問を封じ込めるのは、議会の自己否定。— 山口二郎」

 

自宅近くの桜 ソメイヨシノが僅かに開花 寒緋桜 山桜 2024-03-27

3月27日(水)はれ

菜種梅雨というらしい。このところずっと雨。それも冷たい雨。

今日、ようやく久しぶりに晴れ。ところが、またすぐ雨らしい。

自宅近くのソメイヨシノの開花ぶりを見て廻った。

咲いているのは、この↓1ヶ所だけだった。



▼寒緋桜


▼山桜?
独断です。



京都日記(5終) 神泉苑 大極殿跡碑 千本通り案内板 千本日活 「Slow Page」 「京料理 西陣 松粂」 2024-03-20

 3月14日~21日、法事のために帰省(京都)。その間に、行った所、食べたものとかの記録。宿泊は上京区にある家人の実家にお世話になった。

滞在中に鑑賞した花についてはコチラ↓

京都の桜 旧成徳中学校の春めき桜(3月16日) 京都御苑の枝垂桜(出水の枝垂、近衛邸跡) 十月桜 一条戻橋の河津桜(3月17日) 長徳寺のオカメ桜(3月19日) 二条城周辺の小彼岸桜(3月20日) など

京都で出会った梅、桃、菜の花、椿 京都御苑 神泉苑 晴明神社 など 2024-03-14~21


京都日記(1) 鶴屋吉信「織部満雲寿」 「二和佐」仕出し料理 ゆば料理「かめや本店」 二条城 神泉苑 2024-03-14,15

京都日記(2) ロンドン焼きマシン イノダ四条支店 秦家住宅 宮川美髪館 本能寺跡 京都御苑内の清水谷家の椋 蛤御門 2024-03-16

京都日記(3) 佐々木酒造 松粂さんのうな重 嵐山の竹林 落柿舎 嵯峨野散策路 鳥居本 上島珈琲嵐山店 渡月橋 「ひさご寿し」 鯖寿司 2024-03-17、18

京都日記(4) 山ばな平八茶屋 叡山鉄道 鯖街道口 桝形商店街 出町座 蘆山寺 京都御苑 2024-03-19


さて今回の京都滞在最終日の3月20日は雨模様(小雨が降ったりやんだり、時々晴れたり)。

なので、そんなに遠出はできないので、まず椹木町通りを西進、佐々木酒造さんの角を南下、智恵光院通りから二条城の堀端へ。ついで、既報の通り、二条中学校の春めき桜、朱雀高校前の小子彼岸桜を観て神泉苑へ。この時、北向きでは青空が見える。


そのあと、北野天満宮へ行ってみたいということになって、御池通りを西進、千本通りを北進した。

大極殿跡の碑を観たり、千本通りを紹介する看板を観たりしながら、今出川通りまで北上。途中、「五番町夕霧楼」で名を知られる五番町でいまだに健在な千本日活を確認。





しかし、もう少しで北野天満宮というところ(上七軒あたり)で、雨。その時、ちょうどいいタイミングで堀川丸太町に行くバスが通りかかったので、天神さんには行かずにバスに飛び乗った。
そのまま帰るにはまだ早いので、堀川中立売あたりに新しくできた大垣書店とそれに隣接(併設)する喫茶店(Slow Page)に行ってみようということに。
喫茶店では、最初、コーヒーだけのつもりだったけど、メニュー見ているうちについふらふらとカレー(ビーフカレー)をオーダーしてしまった。セットで千円。


ここで、ゆっくり時間を過ごし帰宅したのだが、家で雑談中、家人が車谷長吉さんゆかりの地を確認したいと言い出した。車谷さんは、慶応の文学部を出ているんだけど、健康面の問題があったりで、一時期、料理屋の下足番などの下働きで苦労した時代があったとのこと。
予めネットで地図検索をしておいたので、迷わずにその場所(現在は仕出し屋さん)に行って確認できた。
ただ、家人の記憶では、車谷さんが働いていたのは料理屋(仕出し屋さんではなく)さんで、場所もすぐ近くではあるが別の場所だった、というのをどこかで読んだ、とのこと。
なので、この件は継続調査ということになった。

車谷さんの夫人の高橋順子さんの『夫・車谷長吉』にその辺りが詳しいとのことなので、横浜に戻って早速図書貸し出し依頼をしたら、明日(3/28)受取可となった。こんな話をしていたら、なんと家人も同じことをやっていて、同じ本が二冊届くことになった。


で、この日の晩ゴハンは、いまや定石となった、松粂さんで戴いた。











残されなくなる記録が残念 → 気象庁、明治時代からの天気目視を3月26日に終了(日経); おおむね3時間ごとに職員が屋外で空を見上げて観測していました。目視をやめることで細かな気象現象の約30項目が日々の記録から途絶えることになります。

 

大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問 

 

伊勢屋質店(跡見学園女子大学が保存)

大杉栄とその時代年表(81) 1893(明治26)年3月1日~31日 宮武外骨『文明雑誌』創刊 一葉(21)のもとに平田禿木(2歳)が来訪(初めて会う『文学界』同人) 子規「文界八つあたり」(新聞『日本』連載) 一葉、「糊口的文学」から訣別しようと決意 より続く

1893(明治26)年

4月

あさ香社結成。落合直文、直文弟鮎貝槐園、鉄幹、大町桂月。

4月

日本基督教婦人矯風会結成。

4月

徳富蘇峰「社会に於ける思想の三潮流に」(「国民之友」188号)。①蛇行派(現状満足派)、②慷慨派(愛国派)、③高踏派(キリスト教徒)。

国家主義への傾斜「国家は一つの天職を有するものだ。国民は堅実な精神、剛健な理性を鼓舞してこれを実践する義務がある。」

4月

北村透谷「明治文学管見」(「評論」)

4月

川上参謀次長、対清作戦の予備調査のため清国・朝鮮に出発。

4月

ロシア、エドゥアルト・トール、ロシア科学アカデミーよりヤクーチャ北部スヴァトイ・ノース岬付近で発見されたマンモスの遺体調査を受けるが、満足できる形で残らず。のち、11月まで400kmの海岸線を調査。帰国後、ノヴォシビルスキー諸島の地質調査・化石氷河の性質について報告し、ロシア地理学協会よりブルジェワルスキー記念メダル、ロシア科学アカデミーとノルウェー政府より勲章を授与。

4月1日

アプト式鉄道の直江津線・横河~軽井沢間が開業。上野~直江津間が全通。

4月1日

根岸派の人々の月ヶ瀬紀行。


「明治二十六年四月一日、根岸派の仲間たちは、・・・・・月ヶ瀬に白梅を見に行く。メンバーは篁村、露伴、そして森田思軒、高橋太華、関根只好、幸堂得知、富岡永洗、楢崎海運の八人。途中、三重の古市で、大阪にいる須藤南翠も合流する。

この旅行の様子は、饗庭篁村の紀行集『旅硯』の巻頭に収められている「月ヶ瀬紀行」に詳しい。『国民之友』に連載(第百八十八号〜百九十二号)された森田思軒の「採花日暦」(単行本に未収録?)も同じ旅を扱っている。・・・・・

(略)

・・・・・気になるのは、彼らの月ヶ瀬行きが『東京日日新聞』の記事に取り上げられたことだ。

・・・・・彼ら根岸派の文人たちの旅行は、一種のパフォーマンス性を帯びた社会的話題でもあったのだ。

そういう行動をライバル視していた、別の文学グループもいた。

尾崎紅葉の硯友社である。

(略)

四月十二日というのは、明治二十六年、つまり篁村や露伴が、大阪の新聞社にいる須藤南翠との合流を一つの目的に月ヶ瀬に旅立った二週間後に、尾崎紅葉の発案(ということは、きっと彼ら根岸派のことを意識していたに違いない)で、硯友社の主力メンバーたちも月ヶ瀬に向うのである。

(略)

離反や篁村たちが訪れた時の月ヶ瀬は、「見下すかぎり梅にしてしかも真盛りなれば只白雲の谷より上る」ような美しさ(「月ヶ瀬紀行」)だったけれど、紅葉たちが訪れた時は、梅の花はすでに散っていた。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

4月2日

漱石、子規に宛てた手紙で、本郷区台町の富樫方(現=文京区本郷5-31)に下宿したことを知らせる。後に同柴山方に転居。

午後(推定)、子規、常盤会寄宿舎で同郷会の帰りに立ち寄る。「訪漱石于本郷䑓町四番地富樫方」(「正岡子規『獺祭書屋日記』)

4月3日

一葉(21)、収入が途絶えて生活は逼迫の度を加え、4月3日には初めて伊勢屋に質入「この夜伊せ屋がもとにはしる」

5月2日。「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ羽織二つ一風呂敷につゝみて母君と我と持ゆかんとす ・・・(西鶴の句をもじり)蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ」


5月3日。「今日母君いせ屋がもとに又参り給ふ」


4月6日

この日付「よもぎふにつき」

「桃も咲きぬ 彼岸(ヒガンザクラ)もそここゝほころひぬ 上野も澄田(隅田川)も此次の日曜までは持つましなと聞くこそ いとくちをしけれ 此事なし終りて後花見のあそひせんなど まめやかに思ひ定めたる事あるをや 折しも俄かに空寒く 人はそゝろ侘あへるを あはれ 七日かほどかくてをあらなんと願ふもあやし」

(春寒が戻ってきたので、あと7日ほど桜が散らずにいてくれればと願う)

4月7日

この日から、一葉の「蓬生日記」始まる。署名は夏子。

4月8日

伊東巳代治が伊藤首相に「第四回機密金報告書」提出。

2~3月の主な出費:朝野新聞社500円、東京通信社200円、中央電報社200円等(通信社への助成開始)。年度末残高6万余あり、整理公債5万を購入し宮内省に預ける。

東京通信社:明治23年11月内務省警保局長清浦奎吾・同次長大浦兼武が警保局機密費で設立、この時点までに内務省直轄に移管。

日本通信社:明治24年1月設立。この時点での他の通信社。

時事通信社:明治21年1月設立、政府系、23年11月廃業。

帝国通信社:明治25年5月設立、改進党系。

内外通信社:明治26年5月設立、自由党系。

4月8日

一葉、夕方、母たきと湯島あたりを散歩。1時過ぎまで机に向かう。

411日

子規、漱石を訪問。

4月12日

この日から一葉日記「しのふくさ」が始まる。15日まで。飛んで22日の記載もあるが、「蓬生日記」と重複。

4月14日

出版法・版権法、公布。

4月14日

一葉、図書館に行く。上野は花盛りで酒に酔った人々の様が面白い。

4月14日

セルビア国王アレクサンダル・オブレノヴィッチ(17)、親政開始。

4月15日

一葉(21)、金港堂の藤本藤陰から、桃水が内股の腫物で悩んでいるとの話を聞く。

一度見舞に行きたいという一葉の願いを母は許さなかった。それならばせめて手紙を、との思いさえ聞き入れなかった。母は性病と考えていたのであろう。しかしこれは性病ではない。大腿にできた癖と考えられる。

一葉はそこで邦子に相談した。思いやりの心を持つ妹は、一葉に同情して色々に図る。

416日

漱石、子規宅を訪問。西谷虎造と同席。上野韻松亭での日本新聞社の集会に共に赴く。23日にも、漱石、子規を訪問。

4月17日

吉原の角海老の主人宮沢平吉の葬儀が谷中で行われる。岩崎弥太郎の葬儀以来の賑わいであったとのこと。

4月19日

一葉(21)父の知人が亡くなり葬儀に行こうとするのが、香典にする金がない。妹くに子は自分の着物を質入れしようと言うが、一葉はおおかたの着物を売ってしまって、これ以上は心苦しく、これを渋り、母妹から責められる。

必竟(ひつきよう)は夏子の活智(いくじ)なくして金を得る道なければぞかし。かく有らばはてもしれぬをなど、いとこと多くのゝしり給ふ。邦子は我が優柔をとがめてしきりにせむ。

我こそは だるま大師に成りにけれ

とぶらはんにも あしなしにして」(「蓬生日記」明26・4・19)

4月21日

この日付けの一葉(21)の日記。

「わが心より出たるかたちなれば、などか忘れんとして忘るるにかたき事やあると、ひたすらに念じて忘れんとするほど、唯身に迫りくるがごとおもかげまのあたりにみえて、え堪ゆべくも非らず。ふと打みじろげば、かの薬の香のさとかをる心地して、

思ひやる心や常に行きかよふと、そぞろおそろしきまでおもひしみにたる心也。かの

六条の御息所のあさましさをおもふに、げに偽りともいはれざりけりな。

おもひやる心かよはばみてもこん

さてもやしばしなぐさめぬべく 」

4月21日

この日付け一葉(21)の日記。

「晴天、小石川稽古に行く。道すがら半井君を訪ふ。」(日記)

「かの家には思ひがけぬ事と只あきれにあきるるものから、人々うれしげにもてなさるることいとうれし。かの人も昨日今日はややここちよき方にてなど、起かへりつつ語る。いとこなる人の薬すすむるとて枕辺に有しが、さしも久しく音せざり給ひしな。御かはりども侍らざりしや。つねに御噂なん申し暮して、一昨日もさなり、御うへ申出し候ひしこと、と言へば、いと多かる薬を一と口のみて、おうわさはつねに申すことに侍り、とて何となくほほゑむ。」

桃水は硯と紙を持ち出して、一葉に旧詠でもいいんで1、2首書いてくれと頼む。一葉は辞退するが許されず、2首書く。しかし満足な出来でないので、「これは反古にして下さい。新しく持って来ますから」と願うと、「新しいのを持って来たら取りかえましょう」と言われる。

そして、29日の「日記断片その二」に、

「此ほどの反古に引かへ給てよと短冊もて行きしなれば、こひもて受とる。」

とあり、反古と新しい短冊を交換した。

4月24日

大山巌長女信子(17)、元警視総監三島通庸長男子爵弥太郎と結婚。


つづく

2024年3月26日火曜日

京都日記(4) 山ばな平八茶屋 叡山鉄道 鯖街道口 桝形商店街 出町座 蘆山寺 京都御苑 2024-03-19  

 3月14日~21日、法事のために帰省(京都)。その間に、行った所、食べたものとかの記録。宿泊は上京区にある家人の実家にお世話になった。

滞在中に鑑賞した花についてはコチラ↓

京都の桜 旧成徳中学校の春めき桜(3月16日) 京都御苑の枝垂桜(出水の枝垂、近衛邸跡) 十月桜 一条戻橋の河津桜(3月17日) 長徳寺のオカメ桜(3月19日) 二条城周辺の小彼岸桜(3月20日) など

京都で出会った梅、桃、菜の花、椿 京都御苑 神泉苑 晴明神社 など 2024-03-14~21


京都日記(1) 鶴屋吉信「織部満雲寿」 「二和佐」仕出し料理 ゆば料理「かめや本店」 二条城 神泉苑 2024-03-14,15

京都日記(2) ロンドン焼きマシン イノダ四条支店 秦家住宅 宮川美髪館 本能寺跡 京都御苑内の清水谷家の椋 蛤御門 2024-03-16

京都日記(3) 佐々木酒造 松粂さんのうな重 嵐山の竹林 落柿舎 嵯峨野散策路 鳥居本 上島珈琲嵐山店 渡月橋 「ひさご寿し」 鯖寿司 2024-03-17、18


さて、3月19日(火)は、法事での帰郷とは言え、余禄の楽しみのメインである「平八茶屋」でのゴハン。

なにしろ、長篠の合戦の年、1575(天正3)年創業というから驚き。ただし、寛政年間の大火で全焼したので、旧い建物や文書はないらしい。

幕末の頃、岩倉具視が密会の場所で使っていたらしく、母屋には襲撃された際の刀傷が残っているとのこと。実際にコレという所も見せて戴いた。岩倉はここから北へすぐ近くなので、この話はかなりリアル。

明治の頃、正岡子規が京都に行くときは、彼の日記によると、宿は柊屋、食事は平八というパターンが多い。夏目漱石が同行したこともあり、漱石は後年、『虞美人草』でこの平八茶屋のことを書いている。


「今日は山端(やまばな)の平八茶屋(へいはちぢゃや)で一日(いちんち)遊んだ方がよかった。」

夏目漱石『虞美人草』(青空文庫)


ということで、この日は、まず地下鉄烏丸駅まで徒歩(15分弱)。烏丸駅~松ヶ崎駅は地下鉄(約10分)。松ヶ崎駅からは徒歩、北山通りを西行き、高野川を渡ったところで川端通に左折北上、徒歩約20分で到着。

いい構えです





▼部屋からの高野川の眺め









▼平八名物はこの「麦とろ」とのこと。全部のっけで戴きました。


帰りは、叡山鉄道で最寄りの宝が池駅から出町柳駅まで。

出町柳では、既報の通り長徳寺でオカメ桜を観て、三角デルタ、鯖街道口碑をみて、桝形商店街へ。有名な「出町ふたば」さんはお休みだった。
桝形商店街には、かつては「学生さん皿洗いしたら食事無料」というギョーザ屋さん(王将だったか)があった。跡地はシャッターが下りたままだった。




商店街を抜け、今出川通を越えて、京都御苑東端外側(寺町通りかな?)を南下、紫式部で有名な蘆山寺に立ち寄って京都御苑に。
京都御苑の咲き始めた出水の枝垂れについては既報の通り。
京都御苑を通り抜けて家人の実家に帰宅。出町柳からは帰宅まで徒歩。



▼正面は建礼門

ということで、この日の総歩数は15,000歩でした。

安倍派ズタズタ、二階氏追い込み…立憲・小沢氏「首相を甘く見るな」(朝日);「二階氏もいない、清和会もズタズタ、(自民の茂木敏充)幹事長も役に立たない。(今秋の)総裁選再選が確実なのに、なぜ(すぐに衆院を)解散するの。再選後の秋なら解散はあるかもしれない。その前に、起死回生の一打で北朝鮮に行くことも、もしかするとあるかもしれないぞ。」