2025年12月17日水曜日

トランプは、ロシア疑惑を報じたピューリッツァー賞受賞記事を撤回しなかったとして、賞委員会を名誉毀損で提訴した。 しかし委員会は屈するどころか、「財務記録や医療記録を含む広範な証拠開示(ディスカバリー)」を求めて、真っ向から反撃に出た。…


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 これは成り行きが非常に気になる。


トランプは、ロシア疑惑を報じたピューリッツァー賞受賞記事を撤回しなかったとして、賞委員会を名誉毀損で提訴した。

しかし委員会は屈するどころか、「財務記録や医療記録を含む広範な証拠開示(ディスカバリー)」を求めて、真っ向から反撃に出た。

委員会側は、トランプ自身が「評判」や「損害」を争点として持ち出している以上、

その資産状況や信頼性は訴訟と直接関係すると主張している。

このまま訴訟が進めば、トランプは長年隠してきた情報の提出や、宣誓下での証言を迫られる可能性がある。

これは、報道を威圧しようとした人物が、逆に説明責任を問われる立場に追い込まれたという、まさに「自業自得」の展開だ。

結末は、SNSや集会ではなく、法廷での宣誓証言によって決まることになる。

ピューリッツァー賞委員会には、ぜひとも最後まで踏ん張ってほしい。





野党を貶めるデマ拡散の再犯 これで「副外相」? 即辞任を! → 国光副外相に厳重注意 「辞めた女性官僚たくさんいる」など発言巡り(毎日新聞) ; 「国光氏は11月にも、国会での質問通告のルールをめぐって事実誤認したまま野党の対応を批判する投稿をし、木原氏から注意を受けて投稿を撤回している」 /  しかも、X(ツイッター)アカウントを消して「逃亡」

 

大杉栄とその時代年表(711) 1907(明治40)年3月5日~9日 朝日新聞が漱石にオファーした月給は200円: 主筆の池辺三山は交際費含め270円、経済部長松山哲堂が140円、創刊以来の古参編集長佐藤北江130円、ベテラン小説記者半井桃水80円、新入社員美土路昌一30円。主筆を除きいずれも漱石よりはるかに低い。

 

池辺吉太郎(三山)

大杉栄とその時代年表(710) 1907(明治40)年3月1日~4日 「小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」(漱石の白仁三郎宛て手紙) より続く

1907(明治40)年

3月5日

政界革新同志会発会式。河野広中・島田三郎・村松恒一郎・円城寺清・大谷誠夫・桜井熊太郎・石山弥平・大竹貫一・細野次郎ら(かつての講和問題同志聨合会メンバ多い、国竜会は含まず)。

島田は、この春、第23議会で軍拡予算を政・憲両党賛成で通過したことを攻撃。15日より3日連続で神田錦輝館で演説会。~5月末。

3月5日

エスペラント語学校の第三期開講(大杉栄)

3月5日

「三月五日(火)、雪後晴。大塚保治から、英文学の講座を担当し、教授になってはどうかとの交渉を受ける。(教授になると、月給百五十円支払われる。但し、文筆活動も内職として控えなければならぬので、朝日新聞社入社の件決定するまで待って貰う)

(白仁三郎(坂元雪鳥)、風邪にて終日臥床。弓削田精一から手紙来る。)

(三月六日(水)、白仁三郎(坂元雪鳥)風邪がなおらぬ。一度は起きたが、再び臥床。弓削田精一に返事(推定)を出す。)」(荒正人、前掲書)  

3月5日

啄木(21)父一禎、住職再任の前提である滞納宗費(13円)弁済の見通しつかず断念、野辺地常光寺葛原対月を頼り家出(再住運動挫折)。


「殆んど一ヶ年の間戦った宝徳寺問題が、最後のきはに至つて致命の打撃を享けた。今の場合、モハヤ其望みの綱がスッカリきれて了つたのだ。」(「日記」)


妻節子、母に伴われて京子を連れて盛岡の実家から帰る。この頃、妹光子も学費に困窮して盛岡女学校を退学。

20日、北海道での新生活を決意、函館・苜蓿社松岡蕗堂に渡道を依頼。   "

3月5日

(露暦2月20日)第2回ドゥーマ召集。(~露暦6月3日)。社会民主主義者やエスエルが参加。1906年11月9日の勅令承認を拒否。

露暦6月3日、保守派に有利な新選挙法制定。6月3日のストルイピンのクーデタ。

3月6日

清国の江蘇・広東・安徽の各省及び上海などで米騒動。

3月6日

東京の玉川電気鉄道会社、道玄坂上~三軒茶屋間開業。8月10日、渋谷~玉川間全通。

3月7日

中国、英国中英公司と廣九鉄道借款(150万ポンド)。

3月7日

中国、女子師範學堂・女子學堂章程制定。

3月7日

北海道旭川町野戦砲兵第七連隊の兵士37人、上官の虐待のため同盟脱営。

3月7日

「三月七日(木)、白仁三郎(坂元雪鳥)来る。三月四日(月)付の手紙を拐え、手当の具体的回答として、半紙横に二つ折りにし、上段に雪鳥と思われる筆で、下段に池辺吉太郎(三山)のものと思われるペン書きで九か条にわたり、質疑応答の形式で、要件を書き纏めたものを持って来る。夜、白仁三郎は、銀座で弓削田精一・渋川柳次郎(玄耳)と食事する。」(荒正人、前掲書)  

白仁三郎は漱石に池辺三山の覚書を見せられ自分の希望の殆んど全部が「朝日」側に受け容れられたことを知った。


池辺三山の案による回答。

月俸は二百円で累進式。免職しないという件は正式に保証させる。隠退料は草案段階でまだ確定していないが官公吏程度のもの。作品は2回、各100回程度の小説を掲載したい。作品に対して営業部からは絶対に苦情を出させない。作品が必ずしも新聞向きでなくても、「朝日新聞」の流行によって漱石作品もまた世間に流行するとを確信する。小説以外のものの執筆は無理のない程度で、両方の希望によって臨機に決めたい。小説は全部本社へ頂き、他の新聞に出すのは困るが、従来の関係のある「ホトトギス」外1,2の雑誌への執筆は自由。新聞に載せた作品を纏めて他の出版社から出す版権は認める。

〈雪鳥が示した朝日新聞側の回答〉

一 手当月額如何。並にその額は固定するかあるいは累進するか。

月俸二百円、累進式ナリ。但シ僕ノ如キ怠ケ者ハ動(やや)モスレバ固定シ易キ傾向アリ。

二 むやみに免職せぬという如き保証できるや。池辺氏あるいは社主により保証され得べきか。

御希望トアラバ正式ニ保証サスベシ。

三 退隠料あるいは恩給とでもいうようなものの性質如何。並にその額は在職中の手当のおよそ幾割位に当るや。それらの慣習如何。

既ニ草案ハアルモイマダ確定ニ至ラズ。併シ早晩社則ガ出来ルナラント信ズ。先ズ御役所並位ノ処卜見当ヲ附ケテ置イテ戴キタシ。

四 小説は年一回にて可なるか、その連続回数は何回位なるべきか。

年ニ二回、一回百回位ノ大作ヲ希望ス。尤モ回数ヲ短クシテ三回ニテモヨロシク候。

五 作に対して営業部より苦情出ても構わぬか。

営業部ヨリ苦情ノ出ルナドイウ事ハ絶対的ニナキコトヲ確保ス。

六 自分の作は新聞(現今の)には不向とおもう。それでも差支えなきや。

差支エナシ。先生ノ名声ガ後来「朝日新聞」ノ流行卜共ニ益(ますます)世間ニ流行スベキコトヲ確信シ切望ス。

七 小説以外に書くべき事項は、随意の題目として一週に幾回出すべきか、またその一回の分量は幾(いくばく)何。

コノ事ハソノ時々ニ御相談致シタシ。多作ハ希望セズ。マタソー無理ナコトハ願ワズ。

ソノ時々社モ希望ヲ述べ、先生ノ御希望モ伺イ臨機ニ都合ヨク取極メタシ。

八 雑誌には今日の如く執筆の自由を許さるべきか。

従来御関係ノ深キ「ホトトギス」へハ御執筆御自由ノコト。ソノ他一、二ノ雑誌へ論説御寄稿ハ差支ナシ。但シ小説ハ是非一切社ニ申受ケタシ。マタ他ノ新聞へハ一切御執筆ナカランコトヲ希望ス。

九 紙上に載せたる一切の作物を纏めて出版する版権を得らるべきか。

差支ナシ。


報酬(月給)200円:

主筆の池辺三山は交際費含め270円、経済部長松山哲堂が140円、創刊以来の古参編集長佐藤北江130円、ベテラン小説記者半井桃水80円、新入社員美土路昌一30円。主筆を除きいずれも漱石よりはるかに低い。


3月7日

宋教仁、満州工作のため帰国するのを前のこの日。前田卓と何天烱をさそって大森の池上に梅を見に行く。

「梅園は山の前側にあり、周囲約半里、園内にはざっと数千株の梅が植えられすべていま満開であった」。

「高く山上から臨むと、見晴らしはひじょうにすぼらしく大森平野、東京湾みなそっくりそのままに一望できた」(宋教仁)

梅と見晴らしを堪能した三人は、明保楼という旅館に入り、食事をし、温泉風呂に入ってしばらく休んだあと、人力車で帰ろうとする。ところがその途中、やはり観梅に来た黄興らとばったり会い、再び旅館に引き返して、もう一度たっぷり梅を楽しみ、一泊して翌日の夕方帰ったという。黄興は、彼らが観梅に行ったことを聞いて、追いかけて来たのだろう。

そのとき黄興が梅の絵を描いて、卓に贈ったと、黄興の長男一欧はいう。「先君(黄興)は平生絵を描くのは巧みでなく、まして絵を描いて人に与えたことはない。唯一の例外は、一幅の梅を描いて宮崎寅蔵夫人の姉前田卓子に贈ったことである」(上村希美雄『宮崎兄弟伝 アジア編下』)。何天烱が賛をしたためた。

3月23日、宋教仁は新橋から神戸に向かって出発した。卓は見送りに行かなかった。

『宋教仁の日記』は、この満州行きの途中で終わっている。

宋の満州での馬賊工作は、この話を持ちかけた日本人同行者の密告により露見し、同志一人逮捕された。宋はからくも逃れ、8月ごろに日本に帰ってくる。

3月8日

大杉栄「青年に訴ふ」(『平民新聞』連載~3月31日、全14回)

3月8日

英労働党下院委員ジェイムズ・キア・ハーディ提出の婦人参政権承認法案、否決。

3月9日

「三月九日(土)、午前、自仁三郎(坂元雪鳥)から手紙来る。(推定)弓削田精一から進言されたものである。(清水三郎)」(荒正人、前掲書)  

3月9日

最初の在郷軍人団体、神田に結成。


つづく


2025年12月16日火曜日

鎌倉紅葉散歩 妙本寺の紅葉 見頃 本覚寺(イチョウと真っ赤なモミジ) 大巧寺(椿〈初雁〉) 2025-12-16

 12月16日(火)晴れ

鎌倉、妙本寺の紅葉が見頃

いつものように結婚式前撮り組が3組(1組帰ったら1組到着、増減なし)

祖師堂左側とそこから墓地に向かう坂の紅葉がピークの感じ。

鐘楼周辺はかなり落葉したようで寂しい。









▼本覚寺 イチョウと真っ赤なモミジと


▼大巧寺 椿〈初雁〉


元維新の足立康史(現国民民主党)が攻撃側に参戦 「当該スキームを開発し、組織的に悪用してきた主体が、皮肉にも「社会保険料を下げる」を掲げてきた日本維新の会の議員団だった」 / 「信頼の根拠として悪用されている可能性が」自民府議が国保逃れの不正に維新議員の関与疑惑を指摘…ネットは「事実なら大爆弾」と騒然(女性自身) / 占部大阪府議(自民)から社会保険制度を悪用した国保逃れの事案に維新関係者が関わっていたことを指摘された維新吉村大阪府知事のカ細い声での答弁     

高市早苗、総理の適格性、どうよ? → 「武力の行使がなければ存立危機事態にはならないという法律の趣旨を述べたもの」と無茶苦茶な弁明 / 自分の非を認めず「受け手側の誤解」にすり替える詭弁 / 間違いを素直に認めない / ついつい威勢のいいことを言ってしまって「国難」を招いているのに、、、 / 高市首相「従来の立場超えたと受け止められ反省」 存立危機発言巡り(毎日) / 「前にも同じこと書いてるけど、高市さんの失敗パターンはいつも同じ。 誰からも求められてないのに調子に乗って勝手に威勢のええこと言い放ってそのせいで調整が難しくなって自分で調整つけられなくなって周囲の人間や部下たちから見放されて最後謝る… こればっかりなのよ。 能力低い。」  「高市さんが安倍晋三に嫌われるきっかけとなった清和会離脱騒動も、高市さんがアホなこと言うて奈良県知事選挙で自民党奈良県連が分裂した時も、総務省の文書問題の時も、全部このパターン。 安倍晋三でさえ見放す理由がよくわかる。」(菅野完)

 

 

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文芸誌「新潮」1月号(12.5発売)で、斎藤真理子さんが週刊新潮・高山正之差別コラムを非難していた。 〈「創氏改名2・0」という言語道断なタイトルで、誰が見ても明らかな事実誤認に基づく偏見でいっぱいの文章が見過ごされるとは。二〇二五年という年はこのことで記憶に残ると思う。〉、、、〈戦後八十年、ちゃんと干していなかった布団でずっと寝ていたら、どんどん背中がカビてきてしまったような感じ。新潮社はちゃんと布団を干すべきだし、新潮社だけではない。〉(「新潮」1月号)   

トランプ氏、ライナー夫妻の死は自身を批判し招いた「怒り」が原因 党内からも異例の非難(AFPBB) / 映画監督殺害で「トランプ錯乱症」と米大統領投稿、超党派から批判(ロイター) / 死去した映画監督をトランプ大統領が嘲笑、「重度の妄想癖」と投稿(Bloomberg) / ロブ・ライナー「権威主義に対して沈黙するのは共犯と同じだ。声を上げることは愛国的な行為だ。民主主義はほうっておいても守られない。民主主義には、一般市民の参加、警戒、そして勇気が必要だ」  

米国人の半数が「クリスマスプレゼントを買うのは経済的に困難」 世論調査 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)

大杉栄とその時代年表(710) 1907(明治40)年3月1日~4日 「小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」(漱石の白仁三郎宛て手紙)

 

夏目漱石

大杉栄とその時代年表(709) 1907(明治40)年2月25日~28日 「オグリビュで私は妻と幼い息子といっしょに数週間をすごした。息子が生まれたのは私が獄中にいるときだった。この人里離れたところで、私は自分の旅の記録を『往復』という本に書き記し、それから得た印税でストックホルム経由で国外に出た。妻と息子はしばらくロシアにとどまった。…… 私はスカンジナビアの汽船で新しい亡命の途についた。この第2の亡命期は10年続くことになる。」(『わが生涯』) より続く

1907(明治40)年

3月

観潮楼歌会。森鴎外主催。歌壇結集。根岸派子規の弟子伊藤左千夫(写実派)、鉄幹・晶子、信綱・勇・白秋・啄木。

3月

野口雨情「朝花夜花」(「明文舎」)

3月

島田三郎、「谷中村枉法破壊に関する質問書」を政府に提出。説明演説を行う。

3月

市川房枝(14)、朝日尋常高等小学校卒業。渡米願いを役所に出すが不許可。

3月

民刑局長平沼騏一郎、独仏英に法律取調べのため派遣。翌41年2月14日帰国。

3月

大阪電球株式会社創立。

3月

大阪窯業会社、貝塚煉瓦と和泉煉瓦両会社を合弁。

3月

仏、モロッコ西北部を軍事占領。モロッコの民族的反抗開始。

3月

ベトナムでファン・チュー・チンらがハノイに東京義塾を設立する。

3月

ルーマニアで2月8日に起きたモルダビア農民暴動、軍隊により鎮圧。

3月

パブロ・ピカソが絵画「アビニヨンの娘たち」を完成させる。

3月1日

欧文植字工組合、欧友会結成。

3月1日

渋川玄耳、「東京朝日」社会部長として入社。熊本第6師団法官部補で、日露戦争中、戦場から朝日にしばしば随筆を寄稿していた。漱石と熊本で俳句仲間だった。社会部長として社会面に新風を巻き起こす。1ヶ月後に漱石が入社。

3月1日

『家庭雑誌』5巻5号発行

大杉栄「『筒袖の葬式』(堺為子)の前文」「露西亜の女学生(クロポトキン)」掲載

3月2日

衆議院にて郡制廃止案可決

3月2日

夕張炭坑争議。~7月1日。

3月3日

道清鉄道、開通。

3月3日

日本、ハルビン総領事館開館。ウラジオストク貿易事務官河上俊彦を初代総領事に抜擢。

3月3日

鉄幹(34)と晶子(29)に双生児出産(長女八峰、2女七瀬)。命名森鴎外。

3月3日

大杉栄「エスペラント語講義 練習1(第九回)」(『語学』)

3月4日

3月4日付け漱石の雪鳥宛て入社条件の問い合わせの手紙。

大学から英文科教授になる話があるが、待ってもらっている、そして「いま少し委細の事を承わり置きたくと存候」と手当てや身分保証について、箇条書きにして細かく問い合わせる。末尾に「大学を出て江湖の士となるは今まで誰もやらぬ事に候。それ故ちょっとやってみたく候。これも変人たる所以かと存候」。


「三月四日 (月)、午前、白仁三郎(坂元雪鳥)宛手紙(消印、午前十時-十一時)で池辺吉太郎(三山)に直接会いたいこと、朝日新聞社(大阪朝日新聞・東京朝日新聞)入社の手当を具体的に問い合せる。午後、小宮豊隆宛葉書に、漱石山房の印を押し、「白酒をのみに来てもよろしく候。漱石山房の印をペタベタ押したいが時々来て五六冊づゝ押して被下度候。其代り時々御馳走を致候以上頓首恐惶謹言」と書く。漱石山房の印を押したのは、この時初めてと推定される。また、別の白仁三郎宛葉書(消印、午後五時-六時)に、金曜の午後三時頃に会いたいこと、木曜日ならばいつでもよいと告げる。」(荒正人、前掲書)  

漱石が朝日新聞の申し出に対して返事をしないでいるうちに、大学当局から新学期から教授として英文学の講座を担当するように奨められた。漱石は岐路に立たされた。

3月4日、漱石は白仁三郎宛てに返事を書いた。


「拝啓先日は御来駕失敬致候其節の御話しの義は篤と考へたくと存候処非常に多忙にて未だ何とも決せざるうち大学より英文学の講座担当の相談有之候。因って其方は朝日の方落着迄待つてもらひ置候。而して小生は今二三週間の後には少余裕が出来る見込故其節は場合によりては池辺氏と直接に御目にかゝり御相談を遂げ度と存候。然し其前に考の材料として今少し委細の事を承はり置度と存候

一手当の事、其高は先日の仰の通りにて増減は出来ぬものと承知して可なるや

それから手当の保証、是は六やみに免職にならぬとか、池辺氏のみならず社主の村山氏が保証してくれるとか云ふ事。

何年務めれば官吏で云ふ恩給といふ様なものが出るにや、さうして其高は月給の何分の一に当るや。

小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」

漱石はその他に、発表作品の数と長さ、他の雑誌新聞への執筆制限、作品の版権の問題などを訊ねた。

(『日本文壇史』より)

3月4日

日本に亡命中の孫文、清国政府の要請を受けた日本政府の命令によって国外追放。

清国政府は、孫文の日本からの追放と、革命派の精神的支柱である『民報』そのものの取り締りを、日本政府に要請する。日本政府は孫文に5千円の旅費を贈って、日本を脱出するよう勧告した。単純に「追放」できなかったあたりに、当時の孫文と中国同盟会の影響力の大きさを示している。孫文には日本人の支援者からも1万円の餞別が贈られ、シンガポールに向けて出発。同盟会の本拠地は、日本とシンガポールの二つに分かれることになった。

さらにこのお金をめぐって、同盟会内では孫文批判と不信がつのった。孫文が、民報社の維持費用として、2千円しか残さなかったからである。「旗争い」で見た黄興や宋教仁らと孫文とのあつれきには、この問題も関係していた。とりわけ、民報編集長の章炳麟が、激しく孫文を批判したとされる。

3月4日

5分利付英貨公債2,300万ポンド発行仮契約調印(英仏にて募集)。

3月4日

ボータ、南アフリカの首相に就任。


つづく