2015年10月31日土曜日

黄色く色付いた上田城のケヤキ並木〜2015.10.31 — shinsyu_photo

(Youtube) 忌野清志郎 IMAGINE : 僕らは薄着で笑っちゃう ああ 笑っちゃう 違う 一人ぼっちじゃない


忌野清志郎 IMAGINE

天国は無い ただ空があるだけ
国境も無い ただ地球があるだけ
みんながそう思えば 簡単なことさ

社会主義も 資本主義も
偉い人も 貧しい人も
みんなが同じならば 簡単なことさ

夢かもしれない でも その夢を見ているのは
君一人だけじゃない 仲間がいるのさ

誰かを憎んでも 派閥を作っても
頭の上には ただ空があるだけ
みんながそう思うさ 簡単なこと言う

夢かもしれない でも その夢を見ているのは
きみ一人じゃない 仲間がいるのさ

夢かもしれない でも その夢を見ているのは
きみ一人じゃない
夢かもしれない でもきみ一人じゃない
違う 仲間がいるのさ

夢かもしれない
かもしれない かもしれない かもしれない

夢じゃないかもしれない
きみは一人じゃない 違う 一人ぼっちじゃない

僕らは薄着で笑っちゃう ああ 笑っちゃう
僕らは薄着で笑っちゃう ああ 笑っちゃう

違う 一人ぼっちじゃない


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堀田善衛『ゴヤ』(78)「『パンと闘牛』・知識人たち」(7終) : 「フランス共和国大使フェルディナン・ギイュマルデの肖像・・・。この大使は一七九八年五月二〇日にマドリードに到着した。そうして到着してすぐにゴヤに肖像画を依頼したようである。大使は画家ダヴィドの親友であり、・・・。」

ゴヤ『ギイュマルデ像』(部分)1798

フランス共和国大使フェルディナン・ギイュマルデの肖像・・・。この大使は一七九八年五月二〇日にマドリードに到着した。そうして到着してすぐにゴヤに肖像画を依頼したようである。大使は画家ダヴィドの親友であり、・・・。

・・・このギイュマルデ氏は医者の出身で、ダヴィドとともに、ルイ一六世及びマリー・アントアネットの処刑に賛成投票をした人であった。スペインのブルボン王家にとっては、いわば弑逆者である。そういうものの肖像画を麗々しく描いたりしたならば、以前であったら、異端審問所はただちにゴヤを逮捕したであろう。

それにこの大使は国民公会議貝として、「聖堂、教会、礼拝堂等の名のもとに知られている国有建築物は、公共の用に供される(非宗教的)目的以外に使用禁止とする」、という猛烈な裁決を行った人物であった。

彼が着任したときの内閣は前記ウルキーホが総理大臣で、着任後の最初の仕事は、大使のそれではなくて、医者としてのものであった。閣僚中のサーベドラとホベリァーノスが二人そろって急病で倒れたからである。毒薬説がもっぱらであった。この大使にとってはじめからゴドイは反動、反革命の頭目であり敵であった。

この大使像は、彼が帰任に際してフランスへもち帰ったので現在はルーヴル芙術館にある。この肖像画を見ていると、私には二つのことが見えて来るように思う。
その一つは、人物そのものよりも、この人の腰を緊めている、赤、白、青の、眼にまばゆいばかりのサッシュであり、また卓上においてある帽子の羽毛の飾りである。これもまた赤、白、青の三色である。
赤、白、青 = 自由、平等、博愛。
たとえそれが文句だけのものであったとしても、スペインにはないものばかりである。

革命はブルボン家のごたごたした紋章などを追放してしまって、もっとも単純、簡潔、しかも最高のデザインと言える三色旗を掲げた。

その眼に滲みるような三色をゴヤは如何なる気特で描いたものであったか。

それからもう一つ、これも肖像画そのものとは別のことであるが、大使がゴヤとともに最盛期を迎えていた画家ダヴィドと深い関係があったことを忘れてはなるまい。おそらくこの大使は、ゴヤに向ってダヴィドの画風のことを、たとえば手話の通訳を通してでも話して聞かせたであろう。
・・・

この大使の、カツラなどを投げ捨てて短く刈り込んだ髪と実用的な服装を見ていると、われわれはここに一八世紀というもののドアが彼の背後でぴしゃりと閉められてしまっていること、一九世紀という未来からの光が三色旗を輝かせていることを、厭応なしに感じさせられるのである。
・・・

大使ギイュマルデ氏は、モデルとしてゴヤの前に立った最初の外国人であり、かつ自分の肖像画であるゴヤの油絵作品と『気まぐれ』一巻とを最初にフランスにもたらした人であった。結果としてこの大使は、ゴヤがフランスに派遣した大使のようなことになる。フランスでゴヤが知られはじめるのは、まず銅版画家としてである。またこの医師は、画家ドラクロアの名付親となる幸運をももった人であった。
*
*

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正規雇用で競争力発揮を (『朝日新聞』経済気象台) ; 人を短期間で入れ替えてばかりでは、技術やノウハウは蓄積しない。 正社員だけでも、技術力で世界で勝負している企業もあることを知ってほしい。 これが本当に競争力のある企業だと言える。


正規雇用で競争力発揮を

(略)

 ・・・いま活躍する経営者は「管理と競争」の教育を受けた世代が多い。
それが、金もうけ優先や人を単に労働力としか見ない風潮につながっているのではないか。

 企業社会では非正規雇用が当たり前のようになり、若者の間で正社員になれた人となれなかった人の溝が広がっている。
先日、労働者派遣法が改正され、企業は3年ごとに人を代えれば、同じ業務で派遣を活用し続けられるようになった。
派遣労働の固定化を私は懸念している。

 正社員と同じような仕事をしていても非正規雇用の待遇は劣る。
この不平等を放置したままでは、働く人の人格を認めていないと言われても仕方ない。

 企業が非正規雇用に頼る理由の多くは「人件費を抑えないと、競争に負ける」というもの。
だが、人を短期間で入れ替えてばかりでは、技術やノウハウは蓄積しない。
正社員だけでも、技術力で世界で勝負している企業もあることを知ってほしい。
これが本当に競争力のある企業だと言える。 
(削)

2015年10月30日金曜日

[明日公開] ドキュメンタリー映画『氷の花火 山口小夜子』ベールに包まれたトップモデルの生涯を紐解く — Fashion Press

軽減税率、財源1000億円上積み 政府・与党が調整:日本経済新聞 ; 「新たな財源は子どものいる低所得者世帯への給付を削減することなどでひねり出す案がある」

BBCニュース - 香港の「マクドナルド難民」……夜も暮れてほかに行き場もなく — BBC News Japan

明治38年(1905)8月1日~12日 漱石の談話「戦後文界の趨勢」 藤村、独歩に注目する 小田原に療養中の幸徳秋水、老アメリカ人無政府主義に自らの思想転向を吐露 ポーツマス講和会議始まる 第2回日英同盟調印

明治38年(1905)8月
この月
・与謝野鉄幹長詩「ぐうたら」(「明星」)。
*
・長谷川天渓「文芸観」(「文明堂」)
*
・漱石の談話「戦後文界の趨勢」(『新小説』戦後之文壇)

 兎に角日本は今日に於ては連戦連捷 - 平和克復後に於ても千古空前の大戦勝国の名誉を荷ひ得る事は争ふべからずだ、こゝに於てか啻(たゞ)に力の上の戦争に勝ったといふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じ得るであらう。

と語る。

 漱石は、「平和克復」によって「不安」(「中味と形式」)がなくなったことをよろこび、同時に、日本の「連戦連捷」や「大戦勝国の名誉」をよろこぶ。

 漱石は、今回の戦勝が「精神界へも非常な元気」を与えることに期待をかけた。
文学においても、「近松はセクスピアと比較し得る」といった「昔の国粋保存主義時代の考へ」ではなく、「我邦の過去には文学としては大なる成功を為したものはないが、これからは成功する、これからは大傑作が製作される、決して西洋に劣けは取らぬ」という「気概が出て来る」と述べ、「この趨勢から生れて来る日本の文学は今までとは違って頗る有望なものになって来るであろう」と語る。

 また漱石は、「文学」ばかりでなく「文界」全般の発達を期待して、日露戦争の犠牲などにはあえてふれず、明るい展望だけを述べた。

 さらに漱石は、われわれがこれまで「大和魂」などを「無暗に口にした」のは、「自信」があってのことではなく、いわば「恐怖」の叫びであった。しかし、「斯う勝を制してみると」、「今日まで苦しまぎれに言った日本魂は、真実に自信自覚して出た大なる叫びと変化して来た」と言う。また、「人間の気分が大きくなって、向ふも人なら、吾も人だといふ気になる、ネルソンもエライかも知れぬが、我東郷大将はそれ以上であるといふ自信が出る」とも言う。

 この部分については、漱石は「大和魂」の存在を認め、東郷大将はネルソンよりエライとするなど、「連戦連捷」に興奮して排外的な国家主義思想に囚われているとも受け取れます。しかし漱石は、日本人は西洋人より優れていると叫んでいるのではなく、「向ふも人なら吾も人だ」という人種を越えた人間の平等を主張している。
*
・王子製紙会社、王子工場で500キロワットの電力を応用。
*
8月1日
・木下尚江・山田金一郎、東北遊説出発。13日間。郡山、山形、楯岡、福島、仙台、盛岡、宇都宮。*
8月1日
・水谷八重子、誕生。
*
8月1日
・東京日比谷公園内音楽堂開堂式。陸軍軍楽隊が演奏。
以後、陸・海軍楽隊が交互に月二回演奏。
*
8月1日
・島崎藤村は、この年7月に出版された国木田独歩の短篇集「独歩集」を小諸の神津猛に送った。藤村は、明治30年頃から柳田国男や田山花袋等の仲間になっていた独歩に、この年はじめて逢い、その人となりと仕事に注目していた。

この日付け藤村の神津宛ての手紙。
 「昨日開き封にて御送りしました一書は新刊の小説集で、これは近頃懇意になりました国木田独歩といふ人の作です。君の許へ送る為に特に一冊とりよせました。是非この集は精読して下さい。批評を聞かせて下さい。 - 無瑕なものばかりでも有りませんが、兎に角新らしい思想で書いたもので、田山君などもツルゲネエフの作風に肖てゐると賞めたものであります。」

 国木田独歩はこの時、数え年35歳、まだ作家として志を得ていなかった。
明治32年、矢野龍渓の紹介で「報知新聞」に入ったが、翌年退き、明治34年1月には星亨の下で「民声新報」編輯長となったが、半年後星が暗殺されて失職し、西園寺公望の神田駿河台の屋敷に寄寓したりしていた。

 この頃から翌年、貧困に追われながら「牛肉と馬鈴薯」、「富岡先生」、「運命論者」、「空知川の岸辺」、「少年の悲哀」等のすぐれた短篇小説を書いて、二三流の雑誌に発表し続けていた。
「空知川の岸辺」は、田山花袋の世話で金港堂の「青年界」に発表されたが、この作品は旅行記と見なされ、その随筆欄に載せられ、稿料も1枚50銭と安いものであった。

 明治35年末、矢野龍渓の主宰する敬業社(のち近事画報社)に入って、やっと生活の安定を得るようになった。

 明治37年、日露戦争が起ると、「近事画報」は「戦時画報」と改題されて、戦争の情報を主として載せ、売れ行きがよくなった。
妻治子との間に、明治32年に長女貞が、明治35年に長男虎雄が、明治37年に次女みどりが生れた。

 明治37年、若い画家小杉未醒が近事画報社に入り、独歩と親しい交りがはじまった。
この年1月19日、父専八が死んだ。父が病気の間、奥井君子という附添看護婦が同居していたが、独歩はこの女性と関係が出来た。そのため君子は病人が死んでも国木田家を去らず妻妾同居の形となった。妻の治子はそのことに悩んだが、子供に手がかかるので君子の手助けが役立つこともあり、その不自然な生活が続いた。独歩には古風な男性中心の意識があり、そのことをあまり苦にしなかった。

 独歩は、前年からこの年にかけて、「非凡なる凡人」、「女難」、「春の鳥」などの幾つかの短篇小説を書いた。彼は作品集を出そうとしたが、中々引き受ける本屋がなかった。近事画報社の営業主任・山本秀雄がそれを聞いて義侠的に自分の社から出すようにはからってくれたが、部数は500にすぎなかった。

 そしてこの年7月、自分の勤めている近事画報社から「独歩集」を出版した。素朴で鋭い生の感情をとらえた彼の作品は、花袋や柳川国男など友人の間では早くから認められていたが、文壇人たちはこの作品集によってはじめて、独歩の鋭いものの見方を知り、急に注目が集った。

 「独歩集」が各地の書店へ送られた時、佐渡中学に学んでいた数え年16歳の青野季吉は、町の本屋でこの本を買った。それは彼が初めて買った小説本であった。青野季吉は姉の持っていた蘆花「不如帰」を読んだことがあったが、その古い感じが彼を引きつけなかった。この「独歩集」の中の「女難」や「少年の悲哀」や、同じような少年の夢を描いた「春の鳥」などが、人生の真実に触れた小説を読むという新鮮な喜びを彼に与えた。

 彼は佐渡の沢根町で酒造業や海運業をしている家に生れたが、幼い時代に生家が没落したので、極めて貧しい漁師夫婦のところに里子にやられた。彼は、貧民の子として育てられたので、独歩の描いた貧しい庶民の生活を実感をもって味わった。

 彼は明治36年未に出た「平民新聞」を創刊号から終刊号まで購読する少年であり、この明治38年には千山万水楼主人という名で河上肇が「読売」に連載した「社会主義評論」も愛読していた。
*
8月2日
・ロシア講和主席全権大使、ニューヨーク着。
4日、ウィッテ、ルーズベルト訪問。ロシアの不利な条件拒否。賠償金も拒否の態度示す。
*
8月5日
・日・ロシア両国全権の初顔合わせ。ルーズベルト大統領専用ヨット「メイフラワー」号上。
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8月6日
・幸徳秋水(35)、小田原の医師加藤時次郎の別荘で出獄後の身を養う。24日帰京。
秋水「柏木より」(「直言」)。獄中生活の報告。
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8月7日
・ロシア側委員、陸路ポーツマス着。巡洋艦「チャタヌーガ」乗船。
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8月8日
・日・露両国全権、ポーツマス上陸。ホテル「ウェストウォルス」入り。
*
8月9日
・午前10時、両国全権(日本側主席全権小村寿太郎、全権高平小五郎駐米日本公使。ロシア側主席全権セルゲイ・ウィッテ大蔵大臣ら)、非公式講和予備会談。仏語使用。2回/日会議など運用取決め。
*
8月10日
・幸徳秋水、アメリカの無政府主義者への転向を吐露。
休養先の小田原より、この日付のサンフランシスコの友人(アナキスト)アルバート・ジョンソン宛手紙。「私は初め「マルクス」派の社会主義者として監獄に参りましたが、其の出獄するに際しては、過激なる無政府主義者として娑婆に立戻りました。」。激しい弾圧が国家・議会への信頼を失墜させる。 

アルバート・ジョンソン(ジョンソン老人):
アメリカの無政府主義者、秋水は前年から文通している。無政府主義者クロボトキンを秋水に紹介した。

秋水は次のように書いた。

 5ヵ月の禁錮生活は健康を害ったが、社会問題に関する多くの知識を得たこと、罪悪について深く考え、実際に貧窮と罪悪とを誘発するものは、結局は現在の政府の組織、裁判所-法律-監獄であると確信するようになったこと。

 獄中での読書の主なものは、ドレーバーの『宗教学術の衝突』、へッケル『宇宙の謎』、ルナン『耶蘇伝』など、それにジョンソン老が送ってくれたラッド『ユダヤ人及クリスチャンの神話』と、クロボトキン『田園、工場、製作所』とは幾度も読み返した。

 「事実を申せば、私は初め『マルクス』派の社会主義者として監獄に参りましたが、出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆に立戻りました。ところが此の国に於て無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑を求めることに外ならず、危険千万でありますから、右無政府主義の拡張運動は、全然秘密に之を取運ばざるを得ません。(略)私は次の目的から欧米漫遊をし度いと思って居ります。(略)若し私の健康が許し、費用等も親戚や友人達から借り集めてこれを調達することが出来ましたら、私はこの冬か来春のうちには出発したい考で居ります。(略)」

 欧米漫遊の目的は、次のように書かれている。
一、コムミニュスト又はアナーキストの万国的連合運動に最も必要な外国語の会話と作文とを学ぶため。
二、多くの外国革命党の領袖を歴訪し、そして彼等の運動から何物かを学ぶため。
三、天皇の毒手の届かない外国から、天皇を初めとし其の政治組織及経済制度を自由自在に論評するため。

 このジョンソン老への手紙は、秋水の無政府主義への転化の時期を示唆し、3ヵ月後の渡米の意図についての貴重な参考資料。「天皇の毒手の届かない外国」という表現も、秋水の天皇制意識として解釈できる。
*
8月10日
・ポーツマス、日露講和会議。午前10時15分、本会議開始(第1回)。12条の日本側条件示す。
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8月11日
・石川啄木(20)、友人大信田金次郎(落花)の援助を得て文芸雑誌「小天地」を刊行することになり、友人の小笠原迷宮ら文学仲間と原稿を依頼する。
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8月12日
・第2回日英同盟協約調印。
英のインド領有・国境防衛措置承認。日本の朝鮮「指導・監理及保護」承認(韓国の保護国化を認める)。日英軍事「攻守同盟」関係。
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8月12日
・ポーツマス、午前9時45分、第2回会談。
ロシア側、樺太割譲・賠償金支払・海軍力制限、中立国抑留船舶の日本引渡しの4条件拒否。残り8条は条件付受諾を回答。
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8月12日
・林董駐英公使とランスダウン英外相、第2回日英同盟協約調印(ロンドン)。
日英同盟の期限を10年延長。適用範囲をインドにまで拡大。即日実施。9月27日公布。
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【予告編動画あり】海賊版天国だった中国が『孤独のグルメ』をリメイクするまで――海賊版→正規版→独自番組制作へ… by 高口康太 @kinbricksnow |ニューズウィーク日本版

週刊新潮11月5日号 今週も橋下徹ネタ。・・・吉富有治さん曰く 「橋下徹は組織をまとめることができない、最後は喧嘩別れしてしまう。彼には”調和”という文字はない。」と酷評付です。

[明日から開催] 国内14年ぶりの個展「村上隆の五百羅漢図展」を森美術館で - 全長100メートルの大作絵画日本初公開 — Fashion Press / 森美術館での村上隆展、プレス内覧会にて。 — 橋本麻里 / 村上隆展、31日から 内覧会に「ゆず」飛び入り参加 — 朝日新聞 / 【村上隆の五百羅漢図展】レセプションに関するつぶやき   




今週の女性自身、「女性初の総理候補に本誌がホンネ直撃!」稲田朋美議員にインタビュー。 「男子も女子もみんな自衛隊に体験入隊するべきです」 ← アホか! / ポスト安倍・稲田朋美が「男子も女子も自衛隊に体験入学すべき」! 過去には「国に命をかける者だけに選挙権」発言も — litera



★稲田、こんな発言もあるってよ!  ↓

日野市役所の封筒に印刷してあった「日本国憲法の理念を守ろう」の部分が「すみ塗り」されるようになりました。永井 浩(10月25日) / 公務員には憲法第99条で「憲法尊重擁護義務」が課せられているので、その主旨を再確認する文言を抹消する行為は、この条文に抵触する可能性がある。日野市の誰がこれを指示したのか、その理由は何なのか、大手メディアはきちんと追及してください。 — 山崎 雅弘 / 市長が謝罪 ← ???

















文化勲章授章者未発表の怪…失礼、件。閣議決定してるはず?なのに、慣例で未だ発表しないのは、やはり、辞退者が出たと思う。・・・すべて私の推測だが…。 / ・・・辞退だけでなく、急死の可能性もある。・・・ / ノーベル賞2氏に文化勲章 俳優仲代氏らも、功労者は16氏 (47ニュース)




2015年10月29日木曜日

標高2000m、地上で最も乾燥した場所と言われる砂漠に雨が降り、見わたす限りのお花畑に。絶景を超えた絶景。/チリのアタカマ砂漠に雨…信じられないような美しい光景に — 佐々木俊尚 / 地表近くで「冬眠」していた花々が一斉に芽吹き、咲き乱れました。 — ライブドアニュース


(産経ニュース) 2015.10.29 21:31 菊池桃子氏が名前に「ダメ出し」 1億総活躍国民会議初会合 「ソーシャル・インクルージョンと言い換えては?」 記者団とのやり取り詳報 : ・・・社会の中から排除する者をつくらない、全ての人々に活躍の機会があるという言葉・・・ / 今、排除されているであろうと思われる方々を全て見渡して救っていくことを、あらゆる視点から・・・

産経ニュース2015.10.29 21:31
菊池桃子氏が名前に「ダメ出し」 1億総活躍国民会議初会合 「ソーシャル・インクルージョンと言い換えては?」 記者団とのやり取り詳報

(略)

・・・ご存じのとおり、ソーシャル・インクルージョンというのは、社会の中から排除する者をつくらない、全ての人々に活躍の機会があるという言葉でございまして、・・・

(略)

 「今、排除されているであろうと思われる方々を全て見渡して救っていくことを、あらゆる視点から、今日各大臣がご参加いただきましたので、考えていただきたいと、そのように申し上げました」

(略)



金子勝先生、冴えてるな「 なぜ安倍内閣の閣僚スキャンダルが次々と出てくるのか。独裁者は自分より優れた能力を持つ者を排除する。自分が追い落とされるのを嫌うからだ。アベのレベル以下だとすると、本来、大臣なんかやってはいけない者ばかりになってしまう。」 — 孫崎 享

鎌倉 大巧寺 名残のハギ ホトトギス ショウメイギク 妙本寺 二天門 祖師堂 紅葉にはまだ早い 2015-10-24

10月24日(土)、先週土曜日、鎌倉を散歩。
大巧寺、妙本寺を廻って、その後、
海岸に出た。

鎌倉 若宮大路を由比ヶ浜まで 「下馬」の石碑 日本基督教団鎌倉教会会堂(築大正15年) 旧安保小児科医院(築大正13年ころ) 由比ヶ浜・材木座の海岸風景 2015-10-24

この時期、紅葉にはまだ早く、やや物足りない。

▼大巧寺





▼妙本寺





『新党代表には橋下氏が就任』政治家引退すると公言していた人が総務省に届け出る政党の代表に就任する。狂ってるとしか言いようがない/おおさか維新の会:松井氏 設立「12月18日までに」 - 毎日新聞 — フジヤマガイチ ← ウソ、改竄、ゴマカシ、はぐらかし、強権。モラルハザード・ニッポン。

10月29日 国が辺野古埋め立て本体工事に着手 100人抗議 市民1人拘束 長雄志・沖縄知事「強権極まれり」「しっかり対峙したい」 (ツイッター写真 映像) / やりたい放題の蛮行に及ぶ安倍政権に対し、どんな言葉を当てはめたらよいのか。愚劣、卑怯、傲慢、横暴、凶暴・・・









佐賀オスプレイ見送り報道 沖縄との差に知事あ然 (沖縄タイムス) : ●佐賀オスプレイ見送り報道に菅氏は「地元の了解得るのは当然」 ●沖縄では全41市町村長が配備撤回を求めたが一顧だにされなかった ●「負担軽減と言いながら…」翁長知事は国の二重基準の対応を批判 ← 沖縄差別!!

安倍政権が直接国費バラマく「辺野古3区」代表たちの“正体” 3区長とも揃って『一般社団法人辺野古CSS』の理事に‥移設がらみの建築、土木などの事業を手掛けることを目的で設立された団体でCSSとは『キャンプ・シュワブ・サポート』の略。 / 安倍政権が直接国費バラマく「辺野古3区」代表たちの“正体” (日刊ゲンダイ) / 「これは分断ですよ」報ステ古舘さん。「常識的にオカシイことは法的にもオカシイことが多い。直感的な感覚を大事にして」憲法学者木村さん。  



改めて確認すると、大阪維新って言うのは安倍の別働隊つーことですな / 菅氏に新党結成伝達、松井氏 良好関係維持の姿勢 - スマホ版 - 47NEWS(よんななニュース) — フジヤマガイチ / 都合が悪いことはほおかむりで、安倍&菅と橋下&松井は仲良しこよし。維新の大阪組は安倍政権別働隊として、改憲勢力の一翼を担う。来年の参院選、彼らを含めて議席の3分の2を狙いに来る。— 岩上安身


捕鯨に関しては国際司法裁判所に応じないと日本政府が通告。そんなことすると領土問題で国際司法に提起できなくなるのでは、という指摘が。/日本“今後は捕鯨問題で国際司法に応じない”と宣言 海外の反応は? — 佐々木俊尚

【愚者の茶番】「一億総活躍社会」の実現に向けて、塩崎厚労相が経団連会長に非正規社員の正社員転換や待遇の改善を要請した。労働者派遣法「改悪」で、専門職の一般派遣化と派遣の永続化をしておきながら、何を言う。塩崎厚労相は説教泥棒かバカか? — 金子勝


今日は10月29日(旧暦9月17日)の木曜日 今日から七十二候「霎時施(こさめときどきふる)」を迎えます。 ぱらぱらと通り雨のように雨が降りはじめる頃。 — 暦生活 / あたゝかな雨がふるなり枯葎 正岡子規 「俳句界」11月号・「正岡子規の野望」。・・・枯れ果ててゆく雑草に降る雨を「あたゝかな雨」とする感性・・・ — 岡田耕治



2015年10月28日水曜日

第22回 神奈川国際芸術フェスティバル 鴻池朋子展「根源的暴力」 : 今夜、鴻池朋子さんの展示、撮影に訪れました。うまく言えませんが、生きとし生けるすべてのものに向き合ったような気がしました。必見です。(カメラのT) 神奈川県民ホールギャラリーで11月28日まで(東横線元町中華街駅から歩いていけます) — 芸術新潮


これか ↓
第22回 神奈川国際芸術フェスティバル
鴻池朋子展「根源的暴力」
会期: 2015年10月24日(土)~2015年11月28日(土) 



「ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち展」東京・汐留で開催 - 20世紀美術を切り拓いた芸術家 — Fashion Press

【中島清之展】川床でくつろぐ舞妓さんの姿。なんとも艶っぽい。《川風》1964(昭和39)年、東京国立近代美術館蔵。いよいよ11/3(火・祝)開幕です! — 横浜美術館

昭和18年(1943)11月1日~4日 明石順三(兵役拒否のキリスト教徒)懲役10年 東条首相・陸相・外相兼務(昭和19年2月参謀総長兼務) ブーゲンビル島沖海戦 朝鮮人学生志願兵推進の運動

昭和18年(1943)11月
この月
・第55師団長古閑健中将更迭。後任花谷正中将。ビルマ方面軍高級参謀片倉衷の工作。参謀長以下幕僚も交代。第55師団は隷下に桜井徳太郎少将指揮の第55歩兵団をもつ。

「師団首脳部は積極主義の者と入れ換われり。古閑中将は予備役編入、宇都宮師団長に補せらる。消極退嬰なりしにより具合悪かりし」(「桜井日記」)。
花谷(少佐)・片倉(大尉)は満州事変当時の関東軍のリーダ(板垣大佐・石原中佐の下)。桜井(少佐)は広安門事件(昭和12年7月26日)の主役。

丁度この頃、英軍側も陣容を変え、アラカン地区防衛の第26インド師団と交代し、第5、7の2個師団が進出。これらの師団をもつ英第15軍の第1目標は、プーティーダウン・マウンドオ道の奪回。
*
・高松宮、近衛に「時間が切迫しているので各方面の意見を聞きたい。原田のような男はいないだろうか」と相談。近衛は即座に女婿細川護貞を推薦。細川は各方面の情報を集めては、高松宮の許に届け、細川はほぼ毎日高松宮と接する。
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・「昭和十八年十一月号の巻末には、日本編集者協会・中央公論編集部の連名で、大詔のままに思想戦士として自ら任ずる旨の「宣誓」を掲げていた」(「中央公論社七十年史」)。
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・国民精神文化研究所を教学錬成所に改組
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・兵役拒否のキリスト教徒明石順三、反戦・国体変革・不敬罪で10年の懲役。
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・大日本麦酒、桜麦酒を吸収合併。東京麦酒は閉鎖。
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・黒木博司中尉、呉海軍工廠水雷実験部で、93式魚雷を改造した人間魚雷の試作を関係者に説き、設計概念図を起こす。
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・「出版工クラブ」(明文社)解散。最後まで残った印刷労働者の組合。
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・植民地フランス軍4個師団、イタリア戦線に到着。
  翌年7月22日に他戦線に転出される迄の間のフランス軍戦死者約1万人、同期間のアメリカ軍戦死者1万8千、イギリス軍戦死者1万4千に次ぐ。
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・ポーランド、国内軍ブル・コモロフスキ将軍、ポーランド労働者党が蜂起を開始するに十分な力を持っていると報告。
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11月1日
・農林省・商工省・逓信省・鉄道省、廃止(企画院、廃止)。農商省・軍需省・運輸通信省、設置。
農商大臣:山崎達之輔、軍需大臣:東條英機(兼任)・岸信介次官兼国務大臣、運輸通信大臣:八田嘉明。
東条首相・陸相・外相兼務。昭和19年2月、参謀総長兼務。
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11月1日
・兵役法改正公布。国民兵役を45才迄延長。
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11月1日
・内閣印刷局、大蔵省印刷局となる
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11月1日
・防空局を防空総本部とする
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11月1日
・西村輝雄「歴史教育の根本問題」、弁証法的唯物論的史観であるとして発禁
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11月1日
・米ハルゼー軍主力第3海兵師団(アレン・ターネイジ少将)、ソロモン群島北部のブーゲンビル島中西部タロキナ岬上陸。
8~17日、ブーゲンビル島沖航空戦
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11月1日
・「今日から軍需省、運輸通信省、農商省が新設される。
これを槻会に「首相権限を画期的に強化」したという。同じことが従来、何回新聞に出て伝えられたろう。
物を書くものの非良心的なことが時局を悪化せしめる。
朝、畠に行くと、ある男が垣の枝を折っている。大喝してやった。
日本人のモラールの低下したことは驚くの外はない。こんな国民が指導など断じてできるものにあらず。戦争の際は、他の面のみ強調される事、また物資が不足する事、気が荒くなる事、道徳方面の統制力が弱化する事、そんなことからこうした低下現象が生れるのだ。
戦争というものについて考えざるを得ない。」

「どこに行っても中野正剛の死が問題になる。如是閑は、非常に負け嫌いだったから自分の意志通りにならぬのを悲観したのだろうという。」(清沢『暗黒日記』)
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11月1日
・ソ連軍、クリミアのドイツ軍に通じる陸上ルートを遮断
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11月2日
・11軍2・13師団、常徳殲滅作戦開始。
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11月2日
・ブーゲンビル島沖海戦。タロキナ上陸の米軍攻撃の日本艦隊と米艦隊の激突。
1日、日本軍は、駆逐艦「天霧」「夕凪」「文月」「卯月」4隻にタロキナ逆上陸部隊を乗せ出撃。また、第5戦隊司令官大森仙太郎少将は、麾下の第5戦隊(重巡「妙高」「羽黒」)・伊集院松治少将(ベララベラ海戦後、昇進)率いる第3水雷戦隊(軽巡「川内」駆逐艦「時雨」「五月雨」「白露」)・大杉守一少将の第10水雷戦隊(軽巡「阿賀野」駆逐艦「長波」「初風」「若月」)をもって連合襲撃部隊を編成、エンプレス・オーガスタ湾に集結の米艦船撃滅に向かう。
午後7時45分、哨戒中の米偵察機はブーゲンビル島に接近する大森部隊を発見、スタントン・メリル少将は麾下の第39任務部隊(軽巡「モンペリー」「クリーブランド」「コロンビア」「デンバー」駆逐艦オースバーン」「ダイソン」「スタンリー」「クラクストン」「スペンス」「サッチャー」「コンバース」「フート」)をエンプレス・オーガスタ湾に展開、日本艦隊を待ち受ける。
逆上陸作戦は米機に発見された為中止となり午後10時30分に反転するが、連合襲撃部隊はタロキナ沖へ侵入。

2日午前0時49分、レーダー射撃により「川内」大破、第3水雷戦隊の混乱により「五月雨」「白露」が衝突し戦闘不能。レーダー射撃は「羽黒」にも打撃を与え、またも自陣の「妙高」と「初風」が衝突。
午前1時16分、大森少将は隊列を立て直し反撃、「デンバー」「スペンス」に命中弾を浴びせる。メリル隊も被害が出始め、煙幕を展張し回頭を始める。大森少将は米巡洋艦3隻、駆逐艦3隻を撃沈と戦果を誤認、戦闘を終了し艦隊を反転させる。
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11月2日
・「朝例により百姓。そこへ池辺秀人君〔ミシガン大卒、ウテナ化粧料工場長〕来たる。お昼を一緒に食う。百姓の話しなどす。辞したのが午後三時頃。それから日支同盟条約のことを書く。
同盟条約は攻守同盟のことだ。しかるにこれは戦後基本条約である。この目的は重慶工作だ。この政策を二年以前に実施したら!
撤兵を何といっても承認しなかったのは東条ではないか。その東条が今、これに率先して承諾するのだ。
グルーのいわゆるフランクリー・オポーチュニストだ。だが現下の政策としては当然のことで批難する事にならぬ。」(清沢『暗黒日記』)
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11月2日
・独、自由インド仮政府承認。
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11月3日
・満洲文芸春秋社創立
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11月3日
・「今日は、明治天皇祭だ。明治天皇の御偉大さ。
東亜戦争の責任者たち---政治家も文士も---は、明らかに明治天皇の御方針に不満なのだ。日露戦争があまりに「米英的だ」というのはその一つの例である。」(清沢『暗黒日記』)
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11月3日
・仏、抵抗運動諮問議会召集。
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11月4日
・ソウル、第2回法文系大学専門学校長会議。志願しない学生に休学命じるなど決定。
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11月4日
・ソウル、鍾路区の学徒出陣推進団体「翼賛会」第1回会合。朝鮮軍・総力連盟も出席、5地区に分割して志願者選別・説得。
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11月4日
・中枢院激励団、参議・顧問70人中37人連署で結団、全国遊説。
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バンコクにもあるオレンジの看板の牛丼屋、その名は「牛野家」......え? — ハフィントンポスト日本版

10月28日 10.28 生活保護アクションin日比谷 25条大集会 15:30~ 銀座方面へパレード (ツイッター写真) 「誰一人、貧困に殺されない社会。そんな当たり前のために、私たちは声を上げ続ける」 / (togetter) 「人間らしく生きたい」誰一人貧困に殺されない社会のために~25条大集会10.28生活保護アクションin日比谷の中継TWまとめ #25条大集会










togetter
「人間らしく生きたい」誰一人貧困に殺されない社会のために~25条大集会10.28生活保護アクションin日比谷の中継TWまとめ #25条大集会
10月28日に開催された25条大集会とその後の厚労記者会での記者会見の中継ツイートまとめです。集会は4000人の参加がありました。
日時:10月28日(水)13時~
場所:日比谷公園野外音楽堂
公式HP:http://25-action.net/




「琳派」開かれた魅力 「私淑」で継承・発展の妙 「400年」めぐり異論も 各地で展覧会 (『朝日新聞』) : この秋、発祥地の京都を中心に、「琳派400年記念」と銘打った催しが盛況だ。

『朝日新聞』2015-10-22



谷垣氏「橋下氏と連携を一時模索」と暴露 大阪ダブル選 — 朝日新聞 : 「市長選は我々の候補者、知事選は向こう、という分担を模索された向きもなきにしもあらずだった」


中央アジアで日本企業による大型プラント受注に向けた交渉が前進します。・・・日本企業の中央アジアでの受注総額は2兆円規模になります。 — 日経産業新聞 / 安倍晋三がトルクメニスタンにばらまく2.2兆円を回収するのが日揮と三菱商事てこと


橋下市長、対労組訴訟で1審“全敗” 大阪市の組合アンケート「違法」、市と弁護士に40万円賠償命令 : 今回の判決で法廷での労使対決は市側の1審“全敗”となった。

2015年10月27日火曜日

茅ヶ崎市美術館で開催中の『棟方志功 萬鉄五郎に首ったけ』展に行った。 / 萬鉄五郎「水着姿」 モダンガールの戸惑いは (『朝日新聞』) / 茅ヶ崎海岸 烏帽子岩 サザンビーチモニュメント 2015-10-27

10月27日、晴れ。
茅ヶ崎市美術館で開催中の『棟方志功 萬鉄五郎に首ったけ』展に行った。

今までよく知らなかった萬鉄五郎の作品の概観を知ることができた。
先月、近代美術館で代表作の裸婦像(「裸体美人」(重文)、最下段↓)を観て、
また今日、「水着姿」も観ることができた。
(こちらは、10月14日付け「朝日新聞」により予め予備知識をもっていた)

萬鉄五郎、42歳で亡くなったことから、勝手に線の細い男であるとの印象をもっていたが、
実際は、なかなか精悍な二枚目のいい男だったのは驚きだった。

棟方志功の方は、「天之宇受媛之美古度御渡留図(あめのうずめのみことおどるず)」に彼が諸作品に込めた魂が凝縮されているということなのだろうか。






▼美術館は高砂緑地という林の中にある。
ここは、もと川上音二郎・貞奴の別荘だったのをある実業家が買い取り、
戦後、これを茅ヶ崎市が買い取ったものという。
付近にある「平塚らいてう」記念碑

▼庭園

▼せっかく茅ヶ崎まで来たので、海岸まで歩いた。
江ノ島方面

▼烏帽子岩

▼残念ながら富士山は見えず。
この方向に、いわゆるサザンビーチまで行って、モニュメントを撮ってきた。


▼10月14日付「朝日新聞」


▼萬鉄五郎「裸体美人」


「藤田は日和見であるどころか、一貫して同じ主題を追求していたと感じられてくる。それはなにか」 > 戦後70年で実現 事実上の「戦争画展」 (椹木野衣) 「MOMAT コレクション 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。」(SankeiBiz)



関連記事
東京 国立近代美術館 MOMATコレクション特集『藤田嗣治、全所蔵品作品展示』(~12月13日)

【美術館】「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。」 当時の雑誌の中から藤田嗣治の言葉を30回に分けてご紹介していきます。 / 「フジタは細部が勝負」《自画像》《五人の裸婦》《武漢進撃》《シンガポール最後の日(ブキテマ高地)》《アッツ島玉砕》《神兵の救出到る》 / (企画担当者) — 【公式】東京国立近代美術館 広報


ドミニク・サンダが美しい!「暗殺の森」デジタルリマスター版で1週間限定上映 — 映画.com

これステマにはまってるかな? 好きなCM : プレミアムボス 微糖『プレミアム京都』篇 60秒 / カロリーメイト CM 「見せてやれ、底力。」篇 → カロリーメイトといえば、これ → 満島ひかり CM カロリーメイト ファイト 「とどけ、熱量。」篇 → で、「ファイト」と言えば、これ → ファイト!by吉田拓郎 


プレミアムボス 微糖『プレミアム京都』篇 60秒 
トミー・リー・ジョーンズ タモリ 山村紅葉 松雪泰子 篠原信一 
サントリー CM
2015/09/24 に公開
商品名:プレミアムボス 微糖
オンエア開始日:2015年9月25日
出演者:トミー・リー・ジョーンズ/タモリ/山村紅葉/松雪泰子/篠原信一
ナレーター:大黒和広
使用楽曲名:Change The World
歌手・演奏者:ERIC CLAPTON


カロリーメイト CM|「見せてやれ、底力。」篇 120秒
2015/10/22 に公開
新CMは、平祐奈さん演じる受験直前の女子高生が、受験までの1年間の奮闘ぶりや様々­な学生生活での出来事を振り返るストーリー。カロリーメイトから、受験生へ贈る応援メ­ッセージです。
総勢34名もの美大生たちが、総制作時間のべ2,623時間以上かけて制作した総数6­,328枚にも及ぶ黒板アートのアニメーションで表現。友だちとの時間や勉強、家族と­のやりとりなど、リアルな高校生の日常生活を描いています。受験時にカロリーメイトを­食べながら受験に挑んだという経験もある平祐奈さんの等身大の女子高生の演技と、その­繊細な表情や様々な想いを表現した黒板アートにご注目ください。


満島ひかり CM カロリーメイト ファイト 「とどけ、熱量。」篇
2012/11/22 に公開
▼満島ひかり CM カロリーメイト 人間とチーター篇
http://www.youtube.com/watch?v=FQcPw6...
★満島ひかり CM集 http://www.youtube.com/playlist?list=...
★耳に残るCM集 http://www.youtube.com/playlist?list=...
大塚製薬 カロリーメイト CM 満島ひかり ファイト


ファイト!by吉田拓郎



【必読】本日発売『女性自身』和田秀子氏@hideinuの渾身レポ。放射線管理区域基準超、5時間しか着けていなかったマスクをも汚染してしまう深刻な汚染地域で、子どもに「無防備で清掃」させる大人…国も後援…もう狂気としか言いようがない。 — きむらとも

面白く聴いた。反戦ソングのカバー集というより、元ちとせによるハードロック・アルバムと解釈すれば、痛快に楽しめるはず→元ちとせ『平和元年』 — スージー鈴木~新刊『1979年の歌謡曲』

2015年10月、つまり最近、 英デイリーメールに掲載された記事です。 4年が経った「福島」の写真がをたくさん掲載。 その風景、その光景に言葉が出てきません。 ※映像もあります

実名で明かす!東芝&VW事件「大企業トップ13人の本音」~だから会社は不正に走る — 現代ビジネス ← 白々しい。 「私も危ない橋を渡ったことがある」 「紙一重のところにあったことがある」くらい言えよ。

2015年10月26日月曜日

「市川崑映画祭」が開催決定!「炎上」ほかデジタル復元版を含む27作品上映 — 映画.com

週刊現代 体調と反比例?どんどん濃くなる安倍総理の「化粧」 : 「実は13年4月に、総理が朝のワイドショーに生出演した際、頬にピンクの化粧を施してもらったら、テレビ映りが非常によかった。それで総理が喜んで、同様の化粧品を買い込んだのです。・・・」



野口冨士男『わが荷風』を読む(20) 「10 人の命のあるかぎり」 (その2終) : 《午睡一刻覚めて後今春四月頃筆とりかけし小説夢の夢の稿を次ぐ。このまゝ筆とり続くることを得なば幸なり。》(『断腸亭日乗』昭和19年10月14日)

 十八年に入ると九月二十五日には《一昨年執筆せし為永春水論》が訂正され、十一月十八日には音楽映画台本『左手の曲』が浄写されて、同月二十一日には小品文『枯葉の記』が草され、十二月三日に書きはじめた『雪の日』を九日に脱稿しているが、『枯葉の記』と『雪の日』は用紙割当て制の影響で廃刊寸前にあった籾山梓月主宰の俳諧誌「不易」に辛うじて掲載され、『左手の曲』は《其筋の検閲を受け不許可》という理由で十九年二月十二日に川尻清潭から返送された。また、『為永春水』は戦後になってから「人間」に発表されたが、いずれも反戦または抗戦的な内容のものではなかったから、戦意昂揚に役立たぬ不急不要の文字とみなされた結果に相違ない。

 ・・・。荷風ほどの大家までが発表慾の一念から小品文や映画台本を埋もれさせまいと当時の時代相からいえば悪あがきにもひとしい努力をしているありさまには、涙ぐましいものがある。

 つづいて書かれたのが『踊子』で、十七年四月十五日の条に《机の曳出しを整理す小説戯曲の腹案を識せしもの二三種あり。その中にて稍採るべきもの備忘のためこゝに写し置く事とす。》として《小説筋書》なるものが掲げられている。浅草の楽士とその妹ならびに兄の愛人である踊子のかかわりを追うものであったらしく、構想も人物もちがっているものの、あるいはそれなどが『踊子』腹案の最初の試行錯誤の跡をしめすものであるかもしれない。

 そして、前記の『枯葉の記』と『雪の日』執筆の中間に相当する十八年十一月二十五日の記載中《枕頭の手帳に小説の腹案を書留む。盖(ケダシ)備忘のためなり。》とみえ、三日後の二十八日に《燈下小説起稿。》と記されているのが、その第一着手と受け取れる。そのあとには十二月十四日の条に《晡下浅草に至りオペラ館楽屋に憩ふ。蹄子山井晴代といふ女小説をかきましたから直して下さいとて草稿を示す。》として《小説踊子の一節》なるものが掲げられているが、これはこんにちわれわれがみる『踊子』には採用されていない。これ以外、年内には執筆に関する記述はみとめられない。

 十九年に移って《夜小説執筆。》と最初にあるのは一月八日だが、はじめはやや難航の気味で、十二日には《終日机に憑りしが小説筆すゝまず。》とあったのち風邪をひき、二十三日に至って、《十七日より殆一週間門を出でず。小説踊子筆稍進む。》と記される。が、いちど調子の波にのれば、墨客または趣味人というわれわれのイメージにもかかわらず、荷風の筆は早い。

 二十八日には《終日小説執筆。》、二十九日には《燈下小説執筆。その傍フローベルのマダムボワリーを再読す。盖し其手法文章を窺ひ参考にせむと欲するなり。》とあって二月をむかえる。そして、一日には《連日小説執筆。》、二日には《小説踊子の草稿大半筆にするを得たり。晩四時寝に就く》、五日には《立春。終日執筆》とあって、十一日《燈下小説踊子の稿を脱す。添刪暁の四時に至る。数年来浅草公園六区を背景として一編を草せんと思居(ママ)ひゐたりし宿望、今夜始めて遂ぐるを得たり。欣喜擱くべが(ママ)す》ということになる。

 これほど荷風が自己の作品完成に手ばなしでよろこびを顕わしている文章はめずらしいから、よほど長いあいだ気にかかっていたのだろう。そう思って詠むと、六年も以前の十三年三月八日の『日乗』に《浅草公園を背景となす小説の腹案相成れるが如き心地す。》とある記述も、それが『おもかげ』脱稿直後のものであるだけに、『踊子』と無関係ではないように思われる。また、《欣喜擱く》べからざるものがあったのは、筆を取り上げられたにひとしい暗い時代背景の前においてみるとき、いっそう実感をおぼえさせられる。

 そのよろこびの余熱が、とどまっていたせいだろうか。脱稿から六日後にあたる二月十七日の『日乗』に《連日家に在り。小説踊子浄写。》と記している荷風は、それからわずか二日後の十九日に《小説二人の客起稿。深更台所に氷を見る。今春第一の寒気なるべし。》と書きとめている。十八年五月十三日と十九年六月二十九日に路上へ積みおかれた配給用の炭俵から木炭を盗んでいる荷風は、冬のあいだ《炭を惜しむがため正午になるを待ち起き出で》(十八年一月一日)るような日常をすごしていたのだから、《今春第一の寒気》のなかで書きはじめたこと自体、よほどおさえがたいものがあったことを表わしている。『二人の客』はのちの『来訪者』で四月四日に擱筆しているから、所要日数は五十日弱で、モデルが平井呈一と猪場毅であることはすでに前述した。

(*『二人の客』の顛末始め)
 二人はともに佐藤春夫の紹介で偏奇館へ出入りするようになったが、『日乗』十四年六月十九日の記述によれば、猪場の《先考は号を晹谷といひたる書家にしてまた篆刻をよくしたり。》ということだし、平井は上野の名高い和菓子店うさぎ屋の店主=谷口喜作(怙寂子)の実弟で、谷口は青木書店から出版された岡本かの子の『巴里祭』その他に題簽(ダイセン)を揮毫しているほどの趣味人であったから、ともに出自にはいやしからぬものがあった。特に荷風は江戸文化や古書に精通していて能筆であったばかりか多くの翻訳もある平井には眼をかけて、十三年六月十一日には《断腸亭日記筆写副本をつくる事を依頼し、初の二冊を交附》したあと、すぐまた二十二日にも《日記三巻四巻を交附》し、十四年三月十一日にも《断膓(ママ)亭尺牘及日(ママ)かげの花草稿を交附》している。そして、同年七月四日には平井から寄せられた書簡の『ひかげの花』に対するオマージュの部分を『日乗』に筆写して《これ亦知己の言。感謝すべし。》と記し、同月十四日には《晡時平井君来話。余の旧作ひかげの花一篇を浄書して示さる。》というような交際をつづけていた。

 誰に対しても心を許したことがないとみられる荷風としては、ほとんど信じがたいまでに警戒心を解いて近づけているから、二人はよほど巧妙に取り入ったものと想像するほかはない。猪場からは彼がそこに勤めていた関係もあって冨山房百科文庫版『下谷叢話』出版の斡旋を受け、平井には岩波書店の企画した「荷風全集」の交渉をまかせているばかりか、岩波文庫版『雪解』の解説まで執筆させているほどだが、十四年の秋ごろからそうした信頼関係もついえていく。『日乗」によって、記述の一、二をみておこう。

 《本郷春木町三番地西田利一といふ人より猪場毅に関して中傷の文句を連ねし葉書を送り来れり。思ふに猪場は余の偽筆短冊及原稿を作りて売りしものなるべし。油断のならぬ世の中なり。》(十月七日)

 《過日西田某の送り来りし葉書の件(短冊原稿高価にて売るといふ事件)に付直接西田に宛返書を出したり。過日平井氏のはなしによれば平井氏余の偽筆をつくり短冊色紙の外小説原稿紫陽花其他を猪場に委託し猪場の手にて金にしたるなりと云ふ。猪場の人物につきては余既に某氏より注意せられしことありしが果してその通りなりき。平井はまさかと思ひ居たりしがこの人も余に何の断りもなく原稿の偽筆をつくりて売るが如き事を敢てするを見れば猪場氏と変りはなし。》(十月十五日)

 この当時すでに平井は千葉県安房郡富崎村布良に移住し、猪場は市川真間手古奈堂境内に居住していたことまで『来訪者』には写し取られているので、事件としての経過は作品にゆだねて事実関係のみを追えば、《猪場の許に絶交の返書を郵送す。》とあるのは十五年七月七日で、平井との交渉はその後もつづき、以下の記述がみとめられるのは十六年十二月二十日だから、事件発覚以来二年余が経過しているわけである。

 《夜平井程(ママ)一氏来訪。過日余が方より手紙を其居房州布良に出せしところ返書なき故其親戚なる上野の菓子商うさぎ屋方へ電話にて問合せしことありき。然るに同氏はいつの頃よりか本所石原町辺に僦居する由。但し番地は明言せず。奇怪千万と謂ふべし。この頃坊間の古本屋に余が草稿浄写本短冊色紙また書画の偽物折々発見せらるゝ由なれど、右は大抵この平井とその友人猪場毅二人の為すところ、実に嫌悪すべき人物なり。平井は去年中岩波書店及び中央公論社にて余が全集刊行の相談ありし時余が著作物の整理及全集編纂を依頼したるを以て相応の利益をも得たるに係らず窃に偽書偽筆本をつくりて不正の利を貪りつゝあるなり。今日までに余の探知するもの××四畳半襖の下張、短篇小説紫陽花、日かげの花、濹東綺譚其他なり。これ等は皆余が自筆の草稿の如くに見せかけ幾種類もつくり置き、好事家へ高く売りつけるなり。平井との交遊もまづ今日が最後なるべし。余一昨年頃までは文学上の後事を委詫(ママ)することもできる人の如くに思ひ大に信用せしが全く誤なりき。余年六十三になりて猶人物を見るの明なし。歎す(ママ)べく耻づべき事なり。》
(*『二人の客』の顛末終り)

 のちに『来訪者』と改題された『二人の客』が脱稿された十九年四月四日から二十日とも経過していない同月二十二日に、荷風は《燈下新にまた短篇小説の稿を起》したのにもかかわらず、五月十八日には《腹候佳ならず。執筆興なし。》、六月十日には《腹候佳ならず疲労甚し。読書執筆共に興なし。》と記して、さらにしばらくの空白期間をおいたのち、十月十四日に《午睡一刻覚めて後今春四月頃筆とりかけし小説夢の夢の稿を次ぐ。このまゝ筆とり続くることを得なば幸なり。》とあって、十一月十日に《食後ひとりごと続篇の稿を脱す。》、同月十三日に《小説ひとりこど(ママ)正続とも校訂浄写。》ということになる。

 すなわち、『夢の夢」はこの段階で『ひとりごと』と改題されているが、さらに戦後に至って『問はずがたり』となった。なお、現行の『問はずがたり』文末には《上巻昭和十九年十二月脱稿》、《下巻昭和二十年十一月脱稿》と記されてあり、本文も《上の巻》、《下の巻》と二分されているが、作品の序文に《あくる年の冬熱海にさすらひける頃後半を改竄して増補するところあり。》と記されていることによっても明らかなように、十九年十一月に全篇を完結しているわけではない。内容的にも戦後になってからの事柄が書き足されている。その点が、おなじく戦時中に執筆して戦後発表された『勲章』、『浮沈』、『踊子』、『来訪者』などと相違している。

 こうして荷風は昭和二十年をむかえるが、三月十日払暁には大正九年五月に竣工した麻布市兵衛町の偏奇館を空襲によって焼かれ、いったん従弟(父=久一郎の五弟=大嶋久満次の長男)の杵屋五叟こと大嶋一雄方に避難ののち、四月十五日に中野区住吉町二十三番地にあった菅原明朗居住の国際文化アパートに空室が出来たのを機に移ると、五月二十五日の空襲で再度罹災し、菅原夫妻とともに明朗の郷里である明石を経て、岡山までながれていくこととなったが、そこでもさらに宿泊中の松月旅館が焼亡するという不運にみまわれて、岡山市内で敗戦の日をむかえた。

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「ポーランド映画祭 2015」予告編公開 - 注目のポーランド映画を東京・新宿で一挙上映 — Fashion Press

10月25日 【学者と学生によるシンポジウム】岐路に立つ日本の立憲主義・民主主義・平和主義 @法政大学 : SEALDs KANSAIの大澤茉実 「空気をよんでいたら、空気を変えることはできない。希望すら語れなくなったら本当に終わりです。」