2020年10月31日土曜日

富士山見放題湘南海岸散歩 鵠沼海岸~片瀬西浜海岸~七里ガ浜~稲村ケ崎 2020-10-31

 10月31日、はれ

10月のつごもり。ハロウィンにして満月だそうな。

今日は、いいお天気なので湘南海岸へ。

小田急鵠沼海岸~鵠沼海岸~片瀬西浜~腰越から七里ガ浜まで江ノ電~稲村ケ崎~坂ノ下海岸~江ノ電長谷のルート

総歩数は2万2千歩。

今シーズン初の富士山見放題散歩だった。

▼鵠沼海岸


▼片瀬西浜海岸



▼江ノ電腰越駅

▼七里ガ浜

▼稲村ケ崎

▼坂ノ下海岸

▼お昼は腰越駅前の《湘南フォトカフェ》でイタリアン

ボリュームあり過ぎなので、晩ご飯はムリ。晩酌はやりました(やってます)が。




「365日24時間働こう」……ワタミの“思想教育”はいまも続いていた 創業者・渡邉美樹氏の「お言葉」の感想強制も(文春オンライン); 凄まじい実態。残業代未払い、長時間労働、渡邉美樹氏の文章を抜粋し、肌身離さず持つよう言われた「理念集」、「社内報」「ビデオレター」への感想強要、その内容への厳しい統制。陸前高田市がワタミと大規模に進める予定の事業も気がかり。— 安田菜津紀

 

混乱のGoTo 利権3000億円を独占する大企業 「惨事便乗型」ビジネスに乗っ取られた菅政権(毎日);“16年の熊本地震でも、国は半壊した旅館に補助金を出さず、『ふっこう割』で大手旅行代理店を支援しました。一番困っているのは職を失った旅館の経営者や従業員なのに、新たに旅行需要を喚起する政策に走った”     



 

ロッキード事件の「真の巨悪」は田中角栄ではなかった(クーリエ・ジャポン); ロッキード事件は、第一段階で田中首相在任時の日米関係、第二段階で事件発覚から捜査、裁判に至る経緯、と二つの段階から成り立っている。これまで、二つの段階の間に重大な因果関係があったことを解き明かした著作はなかった。それを解明することによって、初めて事件の真相が見えた。つまり、田中が政治的に葬られた理由は彼の外交にあったのだ。    

 

学術会議問題の核心 菅政権が目指す恐るべき「反知性主義的統制」 最注目の政治学者が特別寄稿 白井聡 ; 安倍前政権が官界とマスコミを屈服させた延長線上にこの事件。次なる標的が学者。拒否は学術界を屈服させる手段の初手として打たれた、ここが突破されれば、次は国立大学の学長人事への介入に進み、次に介入は私学にも及ぶ— 望月衣塑子

 



 

2020年10月30日金曜日

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ4)「兆民は、すでに次の著述の構想を抱いていたようだが、死期の近いことを察知し、起稿をあきらめていた。岡田は、四、五ヵ月あれば脱稿まで十分である、痛み、不眠、せきなどの障害は薬物で除くようにするから、腹案のできている著述を始めるよう、勧めた。兆民は、岡田の勧告と医療処置を受け入れ、九月一三日より筆を執り、わずか十日間で脱稿した。『統一年有半』である。」  

 松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ3)「『一年有半』は、初版刊行以後一年にして二三版、二十余万部を発行したといわれる。兆民の声名と本書の内容もさ、ることながら、その兆民が、ガンという不治の病に倒れ、迫り来る死との時間的格闘の中で執筆されたという異常性が、読書界に衝撃と興奮を走らせ、爆発的な売れ行きとなったと思われる。書評は、同情も加わって、おおむね好評であった。」

より続く

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ4)

3

兆民は、九月七日堺を発ち、一〇日東京小石川の自宅に帰った。小島竜太郎らの勧めで最後の治療を東京で受けるためであった。・・・・・帰京直後に診察した岡田和一郎に対し、兆民は、腫瘍が増大し劇痛のため眠ることができず、嚥下も困難で、死期の近いことが察せられるとし、死期を明言すること、死因は悪疫質性衰弱なのか、腫瘍破裂に続く出血なのか、食道閉塞による飢餓なのか、あらかじめ知らせてほしいと訴えている。岡田は、綿密に検診した後、死因は、徐々に起こってくる悪疫質性衰弱によるだろうと思われるから、本年中はもちろん来年二、三月頃までは生命は保ちうると答えた。これを聞くと、兆民は、失望した顔色を示して、「余近日ニ到り病大ニ増悪セルヲ以テ、我事当ニ一週ヲ出デズシテ終告(ママ)ヲ告グルナルべシト大ニ喜ビシガ、今又先生ノ言ヲ聞ケバ尚四五月ノ病苦ヲ忍バゲルヲ得ザルガ、是余ノ望ム所ニアラズ、請フ一刀患部ヲ截テ死ヲ早カラシメヨ」と告げた(「一二珍奇ナル食道癌ニ就テ」)。兆民の意思は、石筆と石盤による筆談によって伝えられているが、安楽死を望むほどの苦痛に襲われていたのである。

ノドの内外の腫瘍の脹れがびどいため、兆民は横になることも、あおむけになることもできず、枕の上に両手を並べ額を支えてうつ伏せにしているという姿勢が、ずっと続いていた。この姿勢も苦しかったに違いない。

兆民は、すでに次の著述の構想を抱いていたようだが、死期の近いことを察知し、起稿をあきらめていた。岡田は、四、五ヵ月あれば脱稿まで十分である、痛み、不眠、せきなどの障害は薬物で除くようにするから、腹案のできている著述を始めるよう、勧めた。兆民は、岡田の勧告と医療処置を受け入れ、九月一三日より筆を執り、わずか十日間で脱稿した。『統一年有半』である。秋水はこう伝えている。

「令閏始め一同が、そんなにお書きなさると一倍病気に触りましやう、お苦しいでしやうと言ても、書なくても苦しさは同じだ、病気の療治は、身体を割出しでなくて、著述を割出しである、書ねば此世に用はない、直ぐに死でも善いのだと答へて、セツセと書く、疲れゝば休む、眠る、目が覚めれば書くといふ風であった」(同書「引」⑩)と。

(略)

『続一年有半』は、『理学鉤玄』を附録として、一〇月一五日、同じく博文館から出版された。哲学書であり、兆民も売れ行きを心配していたが、『一年有半』の評判が先導役を果たしたこともあって、初版発行からわずか一ヵ月で一二版、二万七千部が印刷された。三年半後の一九〇五(明治三七)年三月には第二〇版が発行されている。『一年有半』ほどではないにしても、やはり異例の売れ行きであった。

『続一年有半』は、兆民の著作中、唯一の口語体風文章である。・・・・・幸徳秋水の筆である原稿一綴が日本近代文学館社会文庫に架蔵されているが、その原稿の数カ所に、兆民自身の手による加筆があり、それ以外に処々に訂正が入っている。おそらくうつ伏せの状態で書いた兆民の草稿を次々に秋水が清書し、それに兆民が目を通して、朱を入れたのであろう。・・・・

(略)

『続一年有半』は、別名「無神無霊魂」とあるように、その中心テーマは無神論・無霊魂論であり、「理学に於て、極めて冷々然として、極めて剝出しで、極めて殺風景に有るのが、理学者の義務否な根本的資格で有る」との立場に立ち、「無仏、無神、無精魂へ即ち単純なる物質的学説を主張」したものである。第一章総論では、神・霊魂の不存在、精神の消滅、物質としての軀殻の不滅を論じている。

・・・・・兆民は、宇宙のすべての事物が物質で成り立っていることを根拠に、人間と他の生物との間にみられる差異は構造の疎密でしかなく、生命の維持発展といった生物の本質の面では差異はないと考えた。まして同一元素から成り立ち同一構造である人間は、人間としてすべて同等であり、人間の問に貴賎上下のごとき差別は認められるはずがないということになる。にもかかわらず、明治政府が、天皇を頂点として皇族・華族というような新しい身分秩序をつくり出し、他方で人民を貶めて「臣民」とし、さらにこの天皇=国家権力の支配の正当性を主張するため、『古事記』『日本書紀』の神々を持ち出してきたことは、兆民に言わすれば、「笑止の極」であった。

兆民は、『続一年有半』の冒頭で、こうした「人と云ふ動物のみ」に「都合の能い論説を並べ立てゝ、非論理極まる、非哲学極まる囈語を発すること」を、次のように激しく批判する。

(略)

人間自身の尺度で、世界を手前勝手に解釈するのは間違いであり、そのような解釈を保持するかぎり、人間は、神とか霊魂とかの虚偽イデオロギーに支配され自由な精神を失っている現在の人間から自己解放を遂げることはできぬ、とする兆民の考え方は、人間中心=独善主義から脱却することが真の人間解放に通ずるという反「文明」主義的思想ともいえる。兆民がキリスト教を批判するのも、神を媒介とするその人間至上主義に反発したのだと考えられる。この兆民の考え方は、おそらく、西欧思想から学んだのではなく、東洋の仏教ないし老荘思想から受けたと思われる。兆民は、イエスを、「一無害の長老、一多情多血の狂信者」と評する一方で、釈迦や老子の「最後の考は、遂に万物と我れと、共に是が世界大経済中の具と為したる如くに見ゆる」と、積極的に評価しているのである。兆民からみれば、釈迦は「博学の哲学者」で、老子も同様哲学者と映っていたが、イエスはそうではなかったのである。

他方兆民は、本書で、神の存在と霊魂の不滅を否認することによって、現実の人間世界の進歩発展を重視し、人間の思想と行為の可能性を信頼している。

(略)

人類中のことは人類中で処理する、人間はただ人間のみに依拠するとの思想は、すぐれて人間主義的(ヒューマニズム)であるといえよう。しかしその人間主義は、人間を自然の一存在ととらえ、人間至上主義・人間独善主義に走らないところに特徴があった。


つづく



大阪都構想、事実を知るほど「反対」になる~これこそ「大阪都構想の真実」です~(川端祐一郎);「都構想は「正確に知れば知るほど反対したくなる」ような改革案であり、「賛成派ほどその中身を誤解している」のであり、少なくない割合の人が「基本中の基本すら理解せずに賛成している」のが現状です」   

【菅首相、墓穴掘りに邁進なの? 小池晃「説明すればするほど、矛盾がどんどん広がってきている」と】 首相、学術会議の会員「旧帝大が45%」 大学の偏り、データを説明(産経); 慈恵医大と、早稲田大と立命館大の人も拒否されてるんだけど?

 

▲官房長案の時は振り向けば手下が動いてくれたのに、、、、 ---------------



 

「news23」星浩氏、「任命拒否問題」で「多様性」を理由にする菅義偉首相の国会答弁に「どうみても無理。推薦名簿を見てない…不思議でならない」(スポーツ報知)

 

首相の威光振りかざす官邸官僚 和泉補佐官は汚れ役厭わない(NEWS ポストセブン);「国家安全保障局長のほうが首相補佐官より役職の序列は1ランク上だ。和泉補佐官は外交担当でもないのに坂井副長官と並ぶ準閣僚級の扱いで北村氏と席次が逆転し、側近官僚ナンバーワンということを見せつけた」←コネクト和泉、健在なのか!   

大阪市4分割コスト試算「捏造」 市財政局 2日で一変、謝罪 市長面談後(毎日);《わずか2日前に毎日新聞の記事について「きちっと書いてある」と述べていた局長は「試算そのものがあり得ない」と見解を一変させた。「大阪都構想」の住民投票を3日後の11月1日に控え、市財政部門のトップは言いよどみながら、自らの試算を「捏造」と表現した》 / 松井一郎インタビュー動画 ; 「ぶんし」を想定したら、維新にとっては都合の悪いこの数値になるってことだね /「松井市長から『交付税の実態としてありえない』『世の中にない数字を提供することは、捏造』と厳重注意を受けたことを明かし、」             

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2020年10月29日木曜日

横浜散歩 港の見える丘公園と山下公園の秋薔薇が見頃 2020-10-29

 10月29日、はれ

今日は横浜、港の見える丘公園~山下公園の秋薔薇をゆっくり見てきた。

見頃ですよ。

総歩数は1万5千歩
















新型コロナ、感染後の抵抗力は長続きせず?=英国の研究(字幕・28日) ; 英国民の抗体保有率は、6月下旬時点で6%だったが、9月には4.4%に低下。(ロイター)

 

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ3)「『一年有半』は、初版刊行以後一年にして二三版、二十余万部を発行したといわれる。兆民の声名と本書の内容もさ、ることながら、その兆民が、ガンという不治の病に倒れ、迫り来る死との時間的格闘の中で執筆されたという異常性が、読書界に衝撃と興奮を走らせ、爆発的な売れ行きとなったと思われる。書評は、同情も加わって、おおむね好評であった。」   

 松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ2) 「しかし『一年有半』の目的は、たんに死生観を展開することにあったのではない。本書は、一種の文明批評の書であり、兆民の、とくに晩年の思想が集大成されて提示され、それはまた明治の社会に対する根本的批判でもあった。」

より続く

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ3)

そしてかかる政党批判の姿勢は、在朝の政治家批判に直結している。伊藤博文を「下手の魚釣り」と評し、「野心余り有りて胆識足らず、」と一蹴し、大隈重信も「宰相の材に非ず、目前の智富みて後日の慮に乏し」と貶し、「山県は小黠、松方は至愚、西郷は怯懦、余の元老は筆を汗すに足る老莫し」と極言している。「伊藤以下皆死し去ること一日早ければ、一日国家の益と成る可し」と断じている(⑩159-160)。この一句に兆民の、明治の元老達に対する憎悪のいかに凄まじいものであるかを見ることができるではないか。

経済政策の面では、政府の公債政策を批判し、生産力が弱体であることを欺き、経済上の保護政策の必要を唱え、経済政策全体の反省と改革を説いている。

(略)

こうした明治政府の政治の貧困や政策の不在がもたらす結果は悲惨である。兆民は憂慮する。

「○官民上下貧に苦しむ、是に於で乎凡そ施為皆姑息是れ事とし、人情日々に非薄にして、内閣は復た一国経綸の造出所には非ずして、箇々利慾を貪り権勢を弄ぶ最高等最便利の階段也、貴族院は陽に党弊を矯正すると称し、陰に機に乗じ己れ自ら内閣に割込む地を為さんとして、強て攻撃を粧ふ険悪極まる物体の集合所也、衆議院とは何ぞ是れ復た言ふに及ばず、直ちに走れ餓虎の一団体なるのみ、夫れ一国政治の機関たる内閣、貴族院、衆議院の各団体にして、薦紳的野獣の淵叢なるに於ては、国民果して誰に適帰せん、」(⑩146)

兆民の批判は、さらに明治日本の社会・文化に及んでいる。そこには、右に述べた政治・政策の貧困や政治家の腐敗堕落は、結局は日本人の理義を軽んじ利害に走る軽挑浮薄さに一因があるとし、日本人の思想的態度への深刻な反省がみられる。

「我日本古より今に至る迄哲学無し(中略)、哲学無き人民は、何事を為すも深遠の意無くして、浅薄を免れず」との文言は、日本人の思想的独創性の欠如、そして批判精神の稀薄さに対する苦言である。

(略)

明治社会において、「功利主義」が勝利を占め、兆民の追求した「理義」は、ついに定着しなかったのである。こうした明治の社会は、兆民の求めたものとは余りにもかけ離れたものであった。

(略)

死生に達観しているかにみえた兆民も、なお「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり」との激語を遺している。

しかし、それでもなお、兆民は、「物質」より「理義」の優先することを強調してやまない。

(略)

そして、兆民は、その思索するにあたって基準としてきたところの、理義を第一とし、ついで利益に及ぶとする思考方法を、本書でも明言する。

(略)

兆民にとって、「理義」とは、民権であり、自由平等であった。これは人類の普遍的原理だとの確信があった。かくして兆民は、究極のところ、かれの一生涯にわたって操守し推進した民権思想に、叙述を収斂させていく。

(略)

自由平等の大義を見失い、腐敗堕落したのはだれか。

(略)

支配者の胸中には、いまや国家とか人民はいない。ただ国家を足場にして、自己の利益を貪り、しかも「智者」たるかれらは「無智」なる人民を喰いものにし、自己の権力を恣ままにするばかりである、かつては期待を寄せた政党も「智者」の側にある、自由民権はいまや「妄想」のなかにしかないのか。- しかし、兆民は、歴史の将来に対してはなお楽観的であった。続いて次のように言う。

(略)

「智者」の犠牲にされつつある「無智」なる人民のなかから、少数の「妄想家」が出現し、「智者」の喰いものとされた「日本帝国」の残骸の上に、自由平等の「日本国」を新しく造りあげていくにちがいないと、兆民は、明治国家の変革を、無名の人民に托したのである。

さらに兆民は、七月二〇日に行われたばかりの、万朝報社の理想団結成の呼びかけに賛意を表し、次のように励ましている。

(略)

ここに主張されている「理義の正」は、理想団の趣旨というより、兆民自身の追求した理想であろう。自由・平等・博愛は、国境(国家)の撤去、軍備撤廃・戦争放棄、世界政府の樹立、土地所有権と財産世襲権の廃止と連動し、それは貧富格差や階級支配の消滅へと進むであろう。この大志を、人民みずからの意思で、他日の実行を期して今日の口筆に托し、投獄や暗殺を恐れず、理義に殉ずべきだというのである。激越の言ではないか。

続いて、兆民は、理想団に次のように訴えている。

(略)

社会の変革、政治の革新を目的とするならば、まず哲学(思想性)を明確にし、道徳(人間性)に根拠を求めよ。この哲学と道徳とをもって、政治(専制体制)と法律(治安体制)を打破せよというのが、右の一節の含意であろう。

『一年有半』は、初版刊行以後一年にして二三版、二十余万部を発行したといわれる。兆民の声名と本書の内容もさ、ることながら、その兆民が、ガンという不治の病に倒れ、迫り来る死との時間的格闘の中で執筆されたという異常性が、読書界に衝撃と興奮を走らせ、爆発的な売れ行きとなったと思われる。書評は、同情も加わって、おおむね好評であった。


つづく



菅を擁護してると小川淳也議員に突っ込まれた瞬間、色をなして怒り始める橋下。痛いところを突かれたのだろう(報道1930 動画) / 橋下徹 大声で焦りまくり

 


 


ここが焦点:大阪市廃止で職員9割が特別区へ 人員配置計画に内部から懸念の声 都構想 - 毎日新聞

 

#排除する政治~学術会議問題を考える 「発禁処分までほんのひとまたぎ」 作家・村山由佳さんが語る言論の今と伊藤野枝(毎日新聞);「時の政府に都合の悪いことは力で封じる」という言論弾圧に近い事態がいつ起きてもおかしくない、という空気を感じていました。とても人ごとではありません」   

 

焦る維新と維新応援団 → 大阪都構想めぐる毎日新聞報道に「大誤報」と維新・馬場幹事長(産経) / 「大阪都構想で学会では反対が多いという。学術会議を見ていてもわかるが、左巻きが多いからね。今回の218億円問題であらわになったが、大阪市役所役人-共産党-毎日新聞のトライアングルが都構想反対派の正体。左繋がりで学者にも反対が多い。これらの人は学術会議の首相任命も反対、わかりやすい — 高橋洋一(嘉悦大)」←これでも内閣官房参与です

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大阪都構想で“敵認定”された「大阪の公務員」、彼らが語った「やりきれぬ思い」 維新は大阪を「利用」してきた(松本創);「悔しい」 「市の廃止というのは、単に市役所がなくなるとか、合区で住所が変わるということではない。自治権と財源を失うことです。その重大性が理解されないまま可決されてしまったら……ちょっと自分の中で消化できない」   

 

2020年10月28日水曜日

鎌倉散歩 北鎌倉駅~東慶寺~亀ヶ谷坂経由~海蔵寺~寿福寺~鎌倉駅 円覚寺総門前のモミジの色付き 海蔵寺のりんどう、ホトトギス 東慶寺の十月桜 2020-10-28

 10月28日、くもり

昨日、今日と曇り空が続いている。

今日は鎌倉を散歩。

北鎌倉駅~東慶寺~亀ヶ谷坂経由~海蔵寺~寿福寺~鎌倉駅

総歩数は1万5千歩。28日にして当月累計28万歩(ようやく!)となった。

▼円覚寺

通過しただけ。なかなかいい感じの色付きになってきた。


▼東慶寺


▼寿福寺

▼海蔵寺

▼海蔵寺のりんどう、ホトトギス




▼東慶寺の十月桜

▼鎌倉市内、路傍のサザンカ

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ2) 「しかし『一年有半』の目的は、たんに死生観を展開することにあったのではない。本書は、一種の文明批評の書であり、兆民の、とくに晩年の思想が集大成されて提示され、それはまた明治の社会に対する根本的批判でもあった。」

 松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ1) 本書の目次、中江兆民略年譜

より続く

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ2)

第八章 ”一年有半”の世界

1

国民同盟会の活動や『毎夕新聞』への執筆を続けながらも、兆民は実業の仕事を罷めたわけではなかった。一九〇〇(明治三三)年秋に大阪に赴いているが、これは実業関係の用事のためであったろう。しかしこの頃から兆民の健康に異変を生じていた。一一月頃より声がかすれるようになった。別に痛みは感じなかったので放置していたが、その後左首筋に硬いしこりがあり、押えると痛みを感じるので、咽喉専門医の診察を受けたところ、喉頭カタルと診断された。兆民はびとまず安心したが、これが実はガンであり、症状はしだいに悪化していくのである。兆民はさほど気に止めず、従前どおりの活動を続けた。

三月の長野遊説時には首筋のしこりは大きくなり痛みも感じるようになった。三月二二日、商用で大阪へ赴こうとして仕度を整えた際、突然ノド部分から多量の出血があったが、しばらくして止まったので、兆民は予定どおり出発した。四月、紀州和歌の浦に数日遊んだが、ノドの狭窄がびどくなり呼吸困難を覚え、痛みも治まらなかった。兆民はガンではないかとの疑いを抱き、直ちに大阪へ帰り、耳鼻咽喉専門の堀内医師の診断を請うたところ、堀内医師は詳細に検視して、切開が必要と告げた。兆民はガンと察知し、一旦は切開手術を承諾した。しかしその報を聞いた妻弥が直ちに大阪に来て、ガン切開の危険を説き、維持策を取るよう説得し、切開手術は思い止まった。

兆民は堀内医師に、死期の告知を請うた。兆民と医師の問答は次のようであった。

「余一日堀内を問ひ、予め諱むこと無く明言し呉れんことを請ひ、因て是より愈々臨終に至る迄猶は幾何日月有る可きを問ふ、即ち此間に為す可き事と又楽む可き事と有るが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、斯く問ふて今後の心得を為さんと思へり、堀内医は極めて無害の長者なり、沈思二三分にして極めて言ひ悪くそふに曰く、一年半、善く養生すれば二年を保す可しと、余曰く余は高々五六ケ月ならんと思ひしに、一年とは余の為めには寿命の豊年なりと、」(『一年有半』⑩144)

その後ノドの腫物が大きくなり呼吸が苦しく安眠できなくなったので、堀内医師や従弟の医師浅川範彦の意見で、気管切開をすることになった。手術はのどに穴を開け、カニュール(挿入管)を外から挿入して気管と通じさせるもので、五月二六日に堀内医院で実施した。これによって呼吸は容易となり、食事もやわらかいものは支障なく飲みこむことができるようになった。しかし音声を発することは困難で、筆談で意思を伝えることになった。手術後、堀内医院前の浅尾氏の一室を借りて療養していたが、六月一八日退院し、中の島の中塚旅館に帰った。・・・・・

・・・・・兆民はもともと義太夫が好きであったが、東京のものより大阪のものを好んだ。・・・・・妻弥が来阪すると、弥と一緒に文楽座に二回行き、忠臣蔵を聴いている。そして気管切開し退院後の一日、また弥を伴い、明楽座で大隅太夫の壷坂寺の段を聴いている。兆民は芝居や寄席を好み、東京にあるときも、家族と一緒に足を運んでいたようだ。

七月四日、兆民は中塚旅館を去り、堺市市の町の大上宅に移った。・・・・・

この堺で、兆民は、二カ月余の療養生活を送ることになる。この間、井上甚太郎、頭山満らが兆民を見舞っている。

(略)

2

『一年有半』は八月三日脱稿した。翌四日、幸徳秋水が兆民を訪ねたが、これに合せたのであろう。・・・・・兆民は秋水に原稿を示し、「是れが学者の本分として、社会と友人への告別、又は置土産だ、死だら公けにしろ」(「夏草」)と言って手渡した。秋水が生前出版を打診すると、兆民はそれは自由だと答えた。兆民は、秋水が記者をしている『万朝報』 に掲載されることを望んでいたようだ。秋水は直ちに東京へ帰り、小山久之助に生前出版の件を相談したところ、小山も大賛成、そこで博文館の大橋新太郎に依頼し、出版することになった。『万朝報』掲載の場合には当然長期連載となるから、それより一冊の単行書として刊行する方がまとまりがあってよいと判断したのであろう。なお秋水の妻(師岡千代子)は、『一年有半』の原稿を清書したと述べているから(『風々両々』)、秋水は、千代子の協力も得て出版を急いだのである。兆民は千代子の協力に謝意を表している(秋水宛書簡⑯)。

『一年有半』は、『百零一』『毎夕新聞』に発表した文章二三篇を附録とし、九月二日初版が刊行された。・・・・・

『一年有半』は、別名「生前の遺稿」である。療養の合い間に、思いつくままに筆を走らせた一種のエッセイである。その内容は、身辺雑事や自分の趣味、文学・演劇・人物論から、政治・経済・政党論、さらに当代社会批判や日本人論にまで広範多岐に及び、兆民の教養と関心の多様さ、一深さをよく示している。

”一年有半”の題名が、医師から不治の病気で余命一年半と告知されたことに由来するように、本書は、兆民が死を間近かに自覚しての著述であるから、その死生観が基調音となっている。

「〇一年半、諸君は短促なりと曰はん、余は極て悠久なりと曰ふ、若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに比す短には非ざる也、始より無き也、若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕(わがせい)は是れ、虚無海上一虚舟」(⑩145)

そして、越路太夫や大隅太夫の名調子を弥とともに楽しんで感嘆し、郷里土佐の松魚(かつお)や楊梅(やまもも)の美味を想い、夏休みで堺に来ていた息子の丑吉が浜辺で取ってきたはまぐり・あさりの吸物を食べながら、パリのカフェーアングレーのスープも及ばないと記すなど、一日一日の生命、家族との生活をいとおしんでいる。ここには”奇人”兆民の姿は消え、普通の人間、夫があり、父がある。「浜寺の風景」の項は、兆民の心情が吐霹されている。

(略)

しかし『一年有半』の目的は、たんに死生観を展開することにあったのではない。本書は、一種の文明批評の書であり、兆民の、とくに晩年の思想が集大成されて提示され、それはまた明治の社会に対する根本的批判でもあった。『一年有半』の中の政治・経済論や文人論は、『毎夕新聞』論説や晩年の文章の内容とかなり重複する部分がある。同時に、兆民が生涯を通じて保持し続けた精神が、本書の骨格となっている。

・・・・・

『一年有半』における兆民の政治批判は、大別して政党批判・政治家批判・政策論に分けられるが、これらは相互に関連するものとして位置づけられる。つまり確固たる政策を推進する政治家の不在と政党の腐敗を追及しているのである

(略)


つづく




つづく






「誤魔化しの産物」大阪都構想 中身は否決された5年前とほとんど変わらないのに吉村大阪府知事の人気と政治の力技で捲土重来?を目指す(FACTA); ある保守系市議会議員は「橋下や松井は要するに市から吸い上げた多額の税金を、自分たちと利害関係のある大阪府南部の業者にばらまいて利権にしたい。これが(都構想の)本当の狙いだ」と意味深に語る

 



 

(憲法を考える)「学問の自由」なぜ関わるの? 日本学術会議、候補6人の任命拒否問題から(朝日); 憲法学者の石川健治・東大教授 《「学問の自由の核心は、専門分野の自律性を守ること。その防波堤である日本学術会議に対して人事介入が行われた」》 《事態が深刻なのは、政治権力が足を踏み込むべきではない領域として憲法が定める「学問の自由」への介入だからだ。同じような手法がほかの領域にも広がりかねない。》   

「市」には戻れない、よく考えて 都構想インタビュー③前鳥取県知事の片山善博・早稲田大大学院教授(47NEWS) ; 知事が4人の区長をグリップしてしまえば「身近な特別区」は名ばかりで、知事による中央集権になる可能性が高いと思います..... 都構想の推進側は住民投票で敗れても何度でも挑戦できますが、反対派は一度負けたらゲームオーバーです。大阪市民は、自分たちが背負うことになる結果についてよく考える必要があると思います。   

 



 

任命除外、首相「私が判断」 枝野氏「支離滅裂」と批判(朝日);「全員の名前の載った名簿は見ていないにもかかわらず、出身校とかのバランスをとって自分が判断したと。全体の105名の名簿を見ていないのに、バランスをとって『自分が判断した』という支離滅裂の答弁を堂々となさった。これだけでも辞職ものだ」 / 「個別具体的」な任命拒否を『総合的俯瞰的』に判断したかと思えば、105人の名簿は「見ていない」はずなのに『多様性を考慮して判断』できちゃうという摩訶不思議— 五百旗頭幸男



 

「菅総理」密接業者が不可解な公有地取引 異例の好条件、交渉では総理の名も ; 菅義偉総理の周辺に公有地をめぐる疑惑が噴出した。衆議院初当選以前から付き合いのある密接業者が、異例の好条件で神奈川県の土地を取得、転売していたことが明らかになったのだ。県との交渉の中では、総理の名前も出ており、事態は「第二の森友疑惑」の様相も — 週刊新潮 / 第二の森友事件 菅総理のタニマチが公有地でぼろ儲け(週刊新潮10/29発売)

 

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2020年10月27日火曜日

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ1) 本書の目次、中江兆民略年譜

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)「何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。 そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。」

より続く

早坂さんが取り上げていた中江兆民『一年有半』『続一年有半』について、松永昌三『中江兆民評伝』によって見てゆく。

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ)


第八章に行く前に、全体像を把握するために本書の目次と本書所収の中江兆民略年譜を下記する。

《目次》

まえがき

第一章 土佐・長崎・江戸

第二章 フランス留学をめぐって

◇         ◇

パリ・リヨン・ゴール

◇ ◇

第三章 在官時代

第四章 自由民権期の兆民

第一節 漢学修業

第二節 東洋自由新聞

第三節 『改選叢談』と『民約訳解』

第四節 仏学塾

◇        ◇

訳語「理学」について

第五節 自由新聞

第六節 日本出版会社

第七節 結 婚

◇        ◇、

訳語「恋愛」について

◇ ◇

第五章 翻訳・著述活動

-民権運動の理論 -

◇        ◇

兆民の文学観

◇ ◇

第六章 明治憲法体制と兆民

第一節 三大事件建白運動と兆民

第二節 東雲新聞時代の兆民

第三節 明治憲法発布と東京復帰

第四節 自由党の再興と憲法点閲論

第五節 総選挙と立憲自由党の成立

第六節 第一議会と兆民

第七節 北門新報

◇         ◇

兆民の奇行について

◇ ◇

第七章 実業活動期の兆民

第一節 紙問屋から鉄道事業へ

第二節 国民党結成と『百零一』

第三節 遊郭設置問題、兆民の女性論

第四節 国民同盟会参加と『毎夕新聞』

第八章 ”一年有半”の世界

◇        ◇

兆民の人物・芸能観

◇        ◇

第九章 兆民と現代

参考文献

中江兆民略年譜

あとがき

索  引


《中江兆民略年譜》

明治五(一八七二)年までは陰暦に従った。年齢は数え年を用いた。関連事項はゴチックで示した。

一八四七(弘化四)年    一歳

一一月一日(陽暦二一月八日)、土佐国高知城下に生まれる。

一一月二七日説もある。


一八六一(文久元)年    一五歳

二月二一日、父元助病死。

五月八日、家督を相続する。


一八六二(文久二)年    一六歳

四月、藩校文武館開校、兆民入校する。


一八六五(慶応元)年   一九歳

九月、英学修業のため長崎派遣を命ぜられる。長崎では平井義十部に就きフランス学を学ぶ。坂本龍馬を知る。


一八六六(慶応二)年    二〇歳

この年、江戸遊学、村上英俊の塾達堂に学ぶ。


一八六七(慶応三)年    二一歳

この頃、慶応義塾在学の馬場辰猪を知る。横浜のカトリック神父にフランス語を学ぶ。

一二月の兵庫開港時にフランス公使レオン・ロッシュ、領事レッグの通訳として兵庫・大坂・京都に赴く。

一二月九日、王政復古の宣言。

(この年、漱石、子規誕生。引用者)


一八六八(明治元)年    二二歳

一月三日、鳥羽・伏見の戦。

二月、土佐藩兵、フランス兵を殺傷(堺事件)。

七月、苗字を正式に許され中江と名のる。


一八六九(明治二)年    二三歳

この頃、福地源一郎の塾日新社の塾頭となりフランス学を教える。


一八七〇(明治三)年    二四歳

神田南神保町の箕作麟祥の塾に学ぶ。

五月、大学南校の大得業生となる。


一八七一(明治四)年    二五歳

七月、廃藩置県

外国留学を志し大久保利通に訴える。大久保・板垣退助・後藤象二郎の斡旋で司法省出仕となり、一〇月一五日、フランス留学(法律修業)を命ぜられる。

一一月一二日、岩倉具視全権大使一行とともに横浜を出帆。


一八七二(明治五)年    二六歳

一月二日、フランス着、リヨンのバレーに就き普通学を学ぶ。


一八七三(明治六)年    二七歳

夏、留学生召還方針に反対し、ロンドンに馬場を訪ねる。


一八七四(明治七)年    二八歳

一月、板垣ら民選議院設立建白書を左院に提出。

四月、マルセイユを出航し、六月、横浜着。

八月、フランス学の家塾開学願書を東京府知事に提出。

一〇月、東京麹町中六番町四番地に仏蘭西学舎開塾(のち仏学塾)。この頃民約論巻之二の訳稿成立。

一二月、文部省報告課御雇。


一八七五(明治八年)     二九歳

二月、東京外国語学校長御雇。

五月、元老院権少書記官。

八月頃、勝海舟の紹介で海江田信義を介し島津久光に会い策論一篇を献す。


一八七七(明治一〇)年   三一歳

一月、元老院権少書記官を辞す。

二月、西南戦争おこる。同月、仏学塾、麹町五番町二番地へ移転し塾則を改正。


一八七八(明治一一)年   三二歳

四月、松田庄五郎の長女鹿と婚姻、入籍する(翌年九月離別)。

この年、高谷龍洲の済実黌に学ぶ。


一八八〇(明治一三)年    三四歳

六月頃、三島中洲の二松学舎に学ぶ。またこの年、岡松甕谷の紹成書院に学ぶ。


一八八一(明治一四)年    三五歳

三月一八日、『東洋自由新聞』創刊、主筆となる(四月三〇日、第三四号で廃刊)。

一〇月一二日、明治一四年政変、同月、自由党結成。


一八八二(明治一五)年    三六歳

二月二〇日、『政理叢談』(のち『欧米政理叢談』と改題)を仏学塾から発刊、第二号から『民約訳解』を連載。

四月、立憲改進党結党。

六月二五日、自由党の機関紙『自由新聞』創刊、その社説掛に属す。

九月、自由新聞社の内紛に際し、板垣と馬場の対立を調停。

一〇月、出版社設立を企図し、同志募集のため四国・九州巡遊へ出発(翌年四月帰京)、自由新聞社から離れる。


一八八三(明治一六)年    三七歳

六月、日本出版会社を設立しその社長となる。

八月、『非開化論』上節を日本出版会社から出版。

一一月、『維氏美学』上冊刊行(翌年三月、下冊を刊行)。


一八八四(明治一七)年    三八歳

九月、加波山事件

一〇月、自由党解党、秩父事件。

一二月、『理学沿革史』の翻訳を始める。


一八八五(明治一八)年    三九歳

この年頃までに松沢ちの(弥子)と結ばれる。

一二月、内閣制度発足。


一八八六(明治一九)年    四〇歳

二月、『理学沿革史』上冊刊行(四月、下冊を刊行)。

六月、『理学鉤玄』出版。

八月、『仏和辞林』第一冊(Aの部)を仏学塾から刊行(全五冊完結は翌年一一月)。

一〇月二四日、浅草井生村榛で開かれた全国有志懇親会の発起人となり同会に出席。

一二月、『革命前法朗西二世紀事』出版。


一八八七(明治二〇)年    四一歳

二月一五日、『国民之友』創刊、その特別寄書家となり、第三号に「酔人之奇論」(『三酔人経綸問答』の冒頭部分)を発表。

三月四日、長女千美が生まれる。

五月、『三酔人経綸問答』出版。

八月、『平民の目さまし』出版。

一一月、長野・小諸の有志懇親会に出席。

一二月二六日、保安条例公布、二年間の退去処分を受け、三〇日、新橋から大阪へ向かう。


一八八八(明治二一)年    四二歳

一月七日、大阪に着く。同月一五日、『東雲新聞』創刊、その主筆となる。

一一月、『国会論』出版。

同月、幸徳秋水、中江家の学僕となる。

この年、仏学塾廃校。


一八八九(明治二二)年    四三歳

二月一一日 大日本帝国憲法発布、保安条例による退去処分解除。

三月二四日 戸籍を高知から大阪西成郡曾根崎村二七六七番地に移す。

四月、上京。以後、東京と大阪を往復。

七月一〇日、『政論』(日刊)発刊、その主筆となる。

八月一四日、長男丑吉が生まれる(戸籍では九月一三日、松沢ちの入籍、九月一四日、丑吉誕生)。

一〇月、家族、大阪から東京へ居を移す。

一二月、旧自由党の再結集に際し、自由党再興派に与す。


一八九〇(明治二三)年    四四歳

二月、自由党(再興)結党、主義・綱領・党議等を起草。憲法点閲を主張。

四月、『選挙人目ざまし』出版。

七月一日、第一回総選挙。大阪第四区から当選。

八月、自由党系諸派と改進党との合同に尽力。

九月一五日、立憲自由党結党式。

一〇月二〇日、『自由新聞』(第二次)発刊。

二月二九日、帝国議会開院式。


一八九一(明治二四)年    四五歳

一月一日、『立憲自由新聞』発刊、その主筆となる。

二月二一日、予算案に対する衆議院の妥協に怒り、「無血虫の陳列場」を発表、衆議院議員を辞職する。

三月一日、『自由平等経綸』創刊、その主筆となる。

四月二〇日、『北門新報』創刊、その主筆を引き受ける。

六月一日、『立憲自由新聞』を『民権新聞』と改題、引き続き主筆となる。

七月下旬、北海道へ渡る。


一八九二(明治二五)年    四六歳

一月一七日、母柳死去。

二月、第二回総選挙に立候補した小山久之助を応援するため小諸へ赴く。

八月、北門新報社を退社。札幌に紙問屋高知屋を開く。


一八九三(明治二六)年    四七歳

この年、北海道山林組を設立する。商用で、北海道、東京、大阪を往復。


一八九四(明治二七)年    四八歳

三月、『倫理学参考書道徳学大原論』前編刊行(後篇は九月に刊行)。

七月、日清戦争おこる。

この年以降、鉄道事業に携わるようになる。


一八九七(明治三〇)年    五一歳

八月、中央清潔株式会社を設立し、その社長となる。

一二月、国民党結成。


一八九八(明治三一)年    五二歳

一月一五日、国民党の機関誌『百零一』創刊。

六月、大隈重信(憲政党)内閣成立。

秋、群馬県の公娼設置のため運動する。


一九〇〇(明治三三)年    五四歳

八月、立憲政友会成立。

九月、近衛篤麿ら国民同盟会を結成。これに参加する。

一〇月、『千代田毎夕』(のち『毎夕新聞』)の主筆となる。


一九〇一(明治三四)年    五五歳

四月、大阪で喉頭ガンと診断され余命一年半と告げられる。

五月、喉頭部の切開手術を受ける。大阪、ついで堺で療養。

九月二日、『一年有半』出版。

九月一〇日、東京小石川の自宅へ帰る。

一〇月一五日、『続一年有半』出版。

一二月一三日、死去(無葬式・解剖を遺言)。同一四日、解剖の結果食道ガンと判明。同一七日、青山会葬場で無宗教の告別式。遺骨は青山墓地の母柳の墓の隣りに埋葬。

(この年9月2日、子規、『仰臥漫録』を書き始める。引用者)


つづく



【HBO!】住民投票直前。メッキが続々と剥がれ始めた「維新都構想」;「大阪の成長を止めるな!」は看板倒れで、虚偽情報にすぎない 嘘を嘘で塗り固める松井氏の「弁明」 「震災復興特需牽引説」もやっぱり嘘

 



 

(時時刻刻)政策ずらり、実行力強調 具体策これから 就任41日目の演説(朝日);〈学術会議問題で説明を避ける姿勢は「致命傷ではないがボディーブローになる」(官邸幹部)恐れ…首相は演説後、NHKで「説明できることとできないことがある」と気色ばんだ…立憲の福山幹事長は「都合の悪いことは隠蔽し、言及しない。悪い点で前政権を引き継いでいる」〉   

「大阪都構想」の決定的なダメっぷり…大阪の「元副知事」が実態を証言する 二重行政は「幻想」である(松本創); 二重行政解消の効果額は大阪市が委託した髙橋洋一の在籍する嘉悦大学のレポートだと10年間でわずか39億~67億円、他方で自民党の試算によれば特別区への移行コストは15年間で1300億円。1261億から1233億円もの超大赤字である。経済合理性はないに等しい(Ikuo Gonoï)  



 

【週刊ポストがスクープ】内閣広報室のテレビ監視,第2弾!「桜を見る会」だけで255枚!|WADA/開示請求 ;「開示資料は,2019年4月1日~2020年1月末までで,なんと676個のPDFファイル,結合してみたら3377ページに及ぶ膨大なもの」    

 

学術会議めぐり04年に「総理の任命拒否は想定外」の内部資料(TBS) / 加藤勝信官房長官、これを認める。「推薦を十分尊重する必要があるとの考えのもと、推薦制が導入されて以降、推薦のとおり任命が行われてきた実績を鑑み、内閣総理大臣が任命を拒否することは想定されていないという当時の認識がそこで記されているということは承知している」   

2020年10月26日月曜日

横浜散歩 横浜駅東口~みなとみらい~赤レンガ倉庫~山下公園 山下公園の薔薇 2020-10-26

 10月26日、はれ

今日は横浜散歩。

定番コース ; 横浜駅東口~みなとみらい~赤レンガ倉庫~山下公園

山下公園の薔薇が満開と思えるくらい咲いていた。

今日の総歩数は1万6千歩。

▼ベイ・クオータ


▼日産ショウルーム 

2000GTR(奥)とフェアレディ240(手前)。1972年製。

会社は違うけど72年入社組としてはちょっとザワつく。


▼横浜美術館前



▼やっぱり万国橋からの眺めがイチバン


▼山下公園前のイチョウ
県民ホール前、もうすぐだ