2008年11月30日日曜日

昭和12(1937)年12月12日 南京(4) 「もう助かる道はない」 南京防衛軍崩壊 バネー号、レディ・バード号事件 長江の大惨劇


写真は横浜みなとみらい。
撮影2008/11/28。
この日、会社の同期会があったので出かけた。
ワインをしこたま戴きました。翌日、えらい水っぽいワイン飲まされた・・・とかなんとか、家人に話して、そこまでしゃべってから、ひょっとしてあれがヌーボー・・・?、などと思い当った次第。今となっては、確認のしようがないが。
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翌日(つまり昨日)、家族で飲み会。
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今週から忘年会ウィークに突入。
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ヘボン、岸田吟香、明治学院、東亜同文学院、因縁ばなし
 先回エントリで山下公園近くのヘボン邸跡のことを書いた。昨日、松本克平「日本新劇史」をぱらぱら見ていていて、偶然、ヘボンと岸田吟香の話を見つけた。この話、どこかで?、と考えたら、丸山昇「上海物語 国際都市上海と日中文化人」(講談社学術文庫)にも同じ話が出ていた。幸い、この本が手元近くにあったので確認できた。そうしたら、少し前のエントリ「英一番館」のところで触れたジャーディン・マセソン商会の上海進出の話もあった。
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1667 上海物語 国際都市上海と日中文化人 (学術文庫)

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 少しながくなりますがご紹介。
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 岸田吟香というのは岸田劉生の父。「吟香は本名銀次郎と言い、美作国久米郡の酒醸家に生れ漢学を修めた。元治元年四月眼病にかかり、横浜に来ていたヘボン式ローマ字の創始者であり医者であり伝道者であったヘボン博士の治療を受けて快癒した。その間へボンを助けて我が国で最初の和英対訳辞典である『和英語林集成』の編纂に着手した。そして辞書の印刷校正のためへボン博士と共に二回上海に渡った。 慶応三年四月『和英語林集成』は刊行された。この辞書の見出しの日本語はすべてへボソ式ローマ字になっておりへボンの独創的なものであった。
 また吟香には外にウエブスター辞典に則った実用英語のための『和訳英語連珠』もあるという。ヘボンは吟香のこの労苦に報いるために「目薬精銘水」の処方箋を伝授したと伝えられている。吟香はまた元治元年六月、日本で最初の邦字新聞「海外新聞」を発行する。さらに慶応四年(明治元年)四月--明治三年三月まで「横浜新報もしほ草」を発行する。その後石油採掘・製氷などの事業に失敗して明治六年「日報社」(後の毎日新聞)に入社、・・・。東日記者を退いてからは楽善堂の経営と対支事業に没頭し多くの著述と翻訳をし、また東亜同文会を設立する。一方、支那の科挙の試験のために携帯に便利な支那諸子百家の書物の縮刷版を仕上げて、年平均十五、六万冊を売捌いた。上海を中心に北京、天津、漢江、重慶、福州、漢城に支店を設けた。楽善堂はいわゆる支那浪人の寄り処であった。大陸進出を夢見た支那浪人たちはここを足場にして日清戦争には大いに活躍したのであった。明治三十八年六月七日、銀座二丁目の本邸において七十三歳で死去した(昭和三十年十二月号、昭和女子大学光葉会発行「学苑」所載の牛丸綾子筆「岸田吟香」による)。」(松本克平 前掲書)。
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 上記文中にあるように、吟香は東亜同文会を設立し、東亜同文学院創設にも関わっています。一方、ヘボンは明治学院の最初の総理となります。
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 「ジャーディン・マセソン商会(Jardine, Matheson & Co.Ltd.) は、一七八二年、広州に設立された小さな貿易会社で、一八三二年の改組後、ウィリァム・ジャーディン、ジェイムス・マセソンの名をとって以来、この名を用いた。当初はおもにアヘン・茶の貿易で利益を上げ、アへン戦争前、林則徐が広州で没収したアへン二万箱中七〇〇〇箱がこの商会の所有だったという。一八四三年上海開港直後上海支店を設け、その後、中国各地に進出、また各業種にその手を拡げ、・・・一大コンツェルンを形成した」(丸山昇 前掲書)。
 こんな会社ですから、日本の開国に際しても一番乗りで進出する訳ですよね。
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■昭和12(1937)年12月南京(4) 「もう助かる道はない」(ゴヤ「戦争の惨禍」15)
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12月12日南京
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・第13師団山田支隊(山田梅二少将)、鎮江出発。
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□「(12日) 総出にて物資徴発なり、然るに午後一・〇〇頃突然歩兵第65連隊と山砲兵第三大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの命令、誠に有難きことながら突然にして行李は鎮江に派遣しあり、人は徴発に出であり、態勢甚だ面白からず 併し午後五・〇〇出発、夜行軍をなし三里半余の四蜀街に泊す、随分ひどき家にて南京虫騒ぎあり」(「山田栴二日記」)。
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・この日、朝~昼、南京城四方を完全に包囲し包囲殲滅戦の陣容を完成。
午後~夜間、「南京城一番乗り」を競い、膨大な死者を出しながら壮絶な突撃戦を敢行。
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・夜明け、かつてない激烈な日本軍の攻撃開始。
日本軍機は、中国軍陣地を爆撃、南京城壁を包囲するかたちで陣地を据える日本軍の砲列は、城壁・城内に向けて猛烈な砲火を浴びせる。
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・早朝、唐生智南京防衛軍司令長官、幕僚を集め撤退命令作成。翌13日の日の出前に各部隊一斉に日本軍の包囲を突破するという内容。
 唐は城内北東部玄武湖を望む高台にある百子亭の官邸に少数の幕僚を集め撤退命令作成を相談。唐は病弱の体への懸念から司令長官部を自分の官邸におき、参謀長と副司令長官2人を執務させ、副参謀長以下、司令長官部の幕僚・職員の殆どは挹江門近くの中山北路にある鉄道部地下室に移転させ、電話で作戦指導。しかし、司令部が2~3km離れ2ヶ所に分散していた事は、迅速な戦況判断や機敏な作戦指導を不可能にする。
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・第6師団(熊本)・第114師団(宇都宮)が、南京城南の中華門外の重要拠点雨花台陣地を猛攻、正午迄に同陣地を占領。
第6師団は雨花台の南京城内が一望できる地点に砲列を敷き、中華門に集中砲火をくわえ、城内にも砲弾を撃ちこむ。南京中心街に砲弾が落ち、各所に火の手があがる。
第2師団(善通寺)が雨花台北端に進出し、中華門~東の雨花門の城壁を集中攻撃。
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・この3日間、第16師団(京都、中島師団長)佐々木支隊(佐々木到一)が紫金山北山麓陣地を、同師団主力が南山麓陣地を攻撃。
南京城の東の紫金山の西南山麓は、太平門~中山門間の城壁に繋がっており、同山麓の陣地は、南京城内を懐に抱く最重要な防衛拠点で、南京防衛軍の最精鋭の教導総隊(桂永清)が守備。
この日、第16師団が、紫金山第2峰陣地を失陥させ、重砲により中山門とその南の城壁を集中攻撃、中山門の城壁が数m決壊。
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第16師団佐々木支隊、大平山陣地を奪取し、12日、紫金山北麓の隘路口を突破、城壁に迫る。
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・第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)は、長江南岸に沿って南京城の東(長江下流)にある烏龍山砲台を猛攻。
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・雨花台を占領した第6師団、長江南岸に沿って南京城の西(長江上流)の上新河鎮~江東門、下関の広大な湿地帯で戦闘、城内突入目指し中華門~水西門に攻撃を集中。
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・国崎支隊(国崎登少将)は、長江北岸を津浦(天津~浦ロ)鉄道のターミナル駅浦口の占領目指し進撃、午後、江浦県城を占領、渡河して撤退しようとする中国軍の激減作戦を準備。
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・支那方面艦隊は川と空から包囲殲滅を目指し、遡江部隊が烏龍山砲台下流に進撃。
第1空襲部隊第12航空隊・第13航空隊は、中国軍が汽船で南京を脱出中との報をえて、中国部隊の退路遮断・殲滅のため長江のジャンク・汽船の爆撃にむかい、アメリカ砲艦「バナイ号」とアメリカのタンカーを、中国兵を護送中と「誤認」して撃沈。
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バネー号事件とレディ・バード事件
殆ど時を同じくして、陸軍が蕪湖で英艦「レディ・バード」号を砲撃。14日、米英に陳謝。
 海軍は、責任者第2聨合航空隊司令官三竝貞三少将を更迭。
陸軍は、責任者野戦重砲兵第13連隊長橋本欣五郎大佐を処分せず。
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・午前11時、唐生智南京防衛軍司令長官、南京難民区国際委員会ラーベ委員長に日本軍との3日間の停戦協定斡旋依頼、不首尾。
 ラーベが日本と同盟国ドイツ人でナチス党員であることを見こんでのこと。福昌ホテル管理人シュベルリングが、中支那方面軍司令官松井石根大将に休戦条件を伝える軍使の役を申しでる。ラーベらは日本大使館宛の電報を準備し、唐生智司令長官の正式文書を待つが、唐の書簡が到来せず、ラーべらの停戦協定交渉計画は潰れる。
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・正午過ぎ、第6師団歩47連隊、中華門西方城壁突破。最初の突入。
夕方~夜、各隊は数ヶ所の破壊口から城壁に上り占領。
 その他、中山門南側城壁にも破壊ロができ、日本軍は今にも城壁を占領する戦況にあり、雨花門でも城内に退却しようとした中国軍を追撃して一部の部隊が城壁内に侵入。
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・午後2時、第10軍第114師団(宇都宮)歩127旅団歩102連隊、雨花台に日章旗あげる。
退却した中国兵は中華門から城内へ逃げ込み、門を閉じ、逃げ遅れた敗残兵は、門外に散在する部落に立て籠もり抵抗。歩66連隊第1大隊が突入し3時間近い白兵戦の後、中国兵は白旗を掲げて降伏。1354人。
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・午後4時30分頃、南京防衛軍の崩壊始る
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城内を南の中華門~北の挹江門を縦断する中山北路にいたアメリカ人記者A・T・スティールの記述。
 「数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた。激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きを変え、・前線に向かってのろのろと戻りはじめた。だが盛り返したのは束の間であった。三〇分以内に中国軍の士気は瓦解し、全軍が潰走することになった。もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(挹江門)に向かって群をなして街路を通り抜けていった。
・・・午後四時半頃、崩壊がやってきた。はじめは比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時(午後五時頃)には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手櫓弾や軍服が散乱した。」(「シカゴ・デイリー・ニュ-ズ」1938年2月3日)。
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・午後5時、唐生智南京防衛軍司令長官、高級指導官会議招集、撤退命令下達。混乱のため不徹底。唐は官邸に火をつけ脱出に移る。
 唐は正午に鉄道部地下室の司令長官部に高級指揮官会議を招集、撤退命令を正式決定し、午後3時に南京防衛軍全軍に撤退命令と作戦下命する予定でいたが、指揮系統の動揺・混乱により開催不可能になり、日没時の午後5時にようやく開会。それも中山北路に面する鉄道部付近は、敗走・退却兵による混乱のため、百子亭の唐官邸に変更。防衛軍崩壊が始っている状況での会議招集は不徹底なものとなり、城壁外の複廓陣地で戦闘中の部隊を直接指揮する軍長・師長は会議出席は不可能。それでも防衛軍最後の高級幕僚・指揮官会議を開いた唐は、撤退命令書を出席の軍長・師長に下達し、午後5時に解散。既に城内外の指揮・連絡系統が切断し、混乱状況となり、防衛軍部隊の崩壊・潰走始っており、全部隊に撤退命令を伝えられないものが多い。
 
 実行不可能な撤退作戦。
 作戦は、司令長官部直属部隊・第36師・憲兵部隊が午後6時より下関から渡江、その他全部隊は夜11時に各方面で一斉に包囲を正面突破して撤退、最終的に安徽省南端に集結するというもので、前夜であれば実行可能性があったが、既に防衛軍前線が崩壊始め、殆どの部隊が下関へ潰走を始めている段階では、敵軍正面突破は不可能。更に唐は、撤退計画強行の為に、撤退計画以外の部隊の下関からの渡江を厳禁し、第36師に他部隊の挹江門からの撤退を阻止するように命じる。
司令長官部が先に撤退する作戦は、南京防衛軍にパニック的崩壊をもたらす。鉄道部地下室の司令長官部が5時以前に撤退行動を開始している為、午後3時以降、各部隊からの無線連絡も通じず、前線部隊に動揺・混乱を与え、潰走に拍車をかける事になる。
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・午後6時、第10軍司令官柳川平助、軍主力投入指示。国崎支隊に浦口占領、残敵殲滅指令。
 翌日の掃蕩行動について「丁集作命甲号外」発令。
「一、敵ハ南京城内ニ於テ頑強ニ抵抗ヲ続ケツツアリ 
二、集団ハ南京城内ノ敵ヲ殲滅セントス 
三、丁集作命甲第五十六号第九項ノ制限ヲ解ク 
四、各兵団ハ城内ニ対シ、砲撃ハ固ヨリ有ラユル手段ヲ尽シ敢ヲ激減スべシ 之ガ為要スレバ城内ヲ焼却シ特ニ敗敵ノ欺瞞行為ニ乗ゼラレザルヲ要ス 
五、集団ノ掃蕩区域ハ共和門-公園路-中正街-中正路-漢中路ノ線(含ム)以南トシ、以北ハ上海派遣軍ノ担任トス」。
 「二」の「丁集作命・・・」は、各師団の城内進入兵力を各1個連隊だけとし、主力は城外待機の指示であるが、その制限を解いて、軍主力を投入し、火攻めにしても残兵掃蕩せよ、というもの。城外西方を下関に向けて北上した歩45連隊を除き、ほぼ全軍が城内侵入。上海派遣軍との地境も無視され、歩23連隊一部は、下関近くまで北上。
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・午後8時、唐司令官一行は漸く下関の海軍艦艇専用埠頭に到着し、司令部幹部が揃うのを待って、午後9時近く、江寧要塞司令部が確保した最後の小汽船で浦口埠頭へ渡り撤退(浦口は、翌日には国崎支隊が占領)。
敗残兵・市民の大群集は、板片などで渡河する状況。
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・9時過ぎ、市街戦を準備していた陸軍装甲兵団戦車隊が挹江門に撤退してくる。同隊には撤退命令が伝えられず、司令長官部が殻なのを知って撤退。これに対し第36師の城門守備兵が唐の命令通り阻止行動に出た為、戦車隊はこれを強行突破。戦車に続いて、それまで通過阻止されていた兵士・避難民の大群がどっと挹江門から脱出。これ以前は、第36師が実力で阻止しており、門内には同士討ちによる死体の山ができていた(アメリカ大使館にいたスティール記者が目撃)。
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・10時過ぎ、長江沿岸は敗走兵・避難民の大群で、下関埠頭を中心に南(上流)は三汊河から北(下流)は煤炭港辺りまで、数kmにわたり埋めつくされる。
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長江の大惨劇
 下関で渡江できない事がわかった退却部隊約1万が、長江南岸を上流方向に進んだところを、上新河鎮で第6師団の騎兵連隊に遭遇して戦闘、約千名が殺され追い返される。城壁西側の湿地帯を通って南方へ退却しようとした潰走兵は、第6師団歩兵第45連隊に退路を遮断される。
長江を背に、南は南京城内を日本軍が追撃中、西の退路は遮断、東からは第16師団が進撃中で、追いつめられた群衆には、長江を渡る以外には日本軍の殺戮から逃れる道がなく、自殺的な渡江が始る。何千、何万という群衆が、長江の流れに身を乗り入れ、水に呑まれ、あるいは寒さで体力を使い果たし力尽きて沈んでいく。
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・上海派遣軍司令部、湯水鎮に移る。「十二月十二日 朝九・三〇出発湯水鎮軍司令部……に移る。」(「飯島守日記」)。
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・この日夜~13日朝、城内各部隊は数方向に突出を試みる。
脱出路を求めて右往左往する敗残兵と混戦
。多くが捕虜となる。
 水西門の北西に集結した第74軍(第51、58師)は長江沿いに南西進するが、日の出前、退路遮断のため北上してきた第6師団歩45連隊と衝突、激闘の後殆ど全滅、一部が雙閘鎮付近から渡江脱出。
第66軍(第159、160師)・第83軍(第154、156師)主力は、太平門から東方へ向かい、第16、9師団の間隙を縫って湯水鎮、句容方面へ脱出、途中で日本軍に痛撃され四散、師団参謀長2人と憲兵副司令が戦死、指定の寧国に辿り着いたのは僅かという。
第2軍団(第41、48師)は、烏龍山に迫る第13師団と、帰港中の日本海軍艦艇の眼前をすり抜けて13日朝7時までに舟で対岸に脱出。
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 この種の紛戦で最大のものは、13日午前0時~夜明け、仙鶴門付近で起きた集成騎兵隊(第3、9、101各騎兵連隊より集成)及び攻城重砲兵第2大隊と中国軍退却集団5千~1万の衝突。この中国軍は、12日夕方から太平門を経て東方へ脱出途中の第159師などで、突破退却が優先し、仲間の死体を乗り越えて東進したという。
「騎兵第三連隊史」の加藤正吉証言によると、夜明けに数えた中国兵の死体は3千余という(日本軍損害200人)。乱戦に生き残った中国兵は、翌日~翌々日、逃げ場を求めながら残敵掃蕩に出動した日本軍と衝突し、大部分が捕虜になったと推定される。
 その他、12日夜、湯水鎮の上海派遣軍司令部が敗残兵集団に襲撃され、衛兵が乱戦のすえ撃退。また、13日午前8時頃、紫金山麓の興街村の第16師団佐々木支隊司令部も敗残兵集団に襲撃される。
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満州重工業開発(持株会社)設立。鮎川義介の日本産業(日産)本社移転・社名変更。「満業」。
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 東京税務監督部長池田勇人が、満鉄附属地内なら日本の行政権が適用され、附属地内で日本法人として登記できると鮎川に教える。この日の設立後、満鉄附属地は清州国領土に編入される。
 予算膨張に対応する為、政府は馬場鍈一が蔵相時代に創出した増税を採択、蔵相が結城豊太郎から賀屋興宣となっても、税金を払った子会社から配当を受けた親会社はその配当に課税されるという「二重課税」は残る。この為、コンツェルンの方式をとる鮎川「日産」は17%の課税になっている。それが「満業」を出発させる事で、課税率は6%に低減、また6分配当が政府に保証され、配当制限なしの特典も付される。日産株は高騰。鮎川は、この状態を作ったのは、石原莞爾・青木一男・岸信介・星野直樹・賀屋興宣・柴山兼四郎・片倉衷・鈴木栄治・浅原健三・高橋柳太という。
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to be coninued

2008年11月27日木曜日

昭和12(1937)年12月10日 南京(3) 「理由があろうとなかろうと」 南京総攻撃


横浜、山下公園外の大通り。
撮影2008/11/22。
この道をもう少し進むと通りの向い(右側)にヘボン邸跡の碑があります。
 ヘボンは1815年3月生まれ、ニューヨークなどで医者を開業していたが、プロテスタント長老教会の日本伝道に応募、1859(安政6)年10月来日。大村益次郎らに英語を教えるが、1861(文久元)年春、神奈川で診療所を開き、翌年11月、神奈川からこの記念碑のある横浜居留地39番地に移り、本格的に施療事業を行います。
 山下公園側(海側)から見れば、先日掲載した「英一番館」が居留地の右端、ヘボン邸は左端にあたります。
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 1863年10月、ヘボン夫人クララは日本最初の男女共学の英学塾を開き、高橋是清、林董、星亨らがここで学びます。
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 あたりはギンナンの匂いがそこはかともなく漂ってました。しかし、目をこらして見てもたまに1個2個が見付かる程で、既に収穫後のようでした。通行人が無暗に採ると「なんとか権」の侵害になるんでしょうね。もっとも、これを拾っても持ち歩きは出来ませんけどね。
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 昔、転勤地の中でギンナンが近くで採れる所に居たことがあり、よく家族で採りに出かけましたが、毎年採っている方のショバ荒しをしていたのではないかと、今更ながら思い当たるところです。
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■昭和12(1937)年12月南京(3) 「理由があろうとなかろうと」(ゴヤ「戦争の惨禍」2)
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12月10日南京
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・外国人ジャーナリスト、外交官、南京退去。11日夕方、残るジャーナリスト数人も米砲艦「バネー号」で脱出。最後に残る外国人ジャーナリストは、ニューヨーク・タイムズ記者ティルマン・ダーディン、シカゴ・デイリー・ニューズのスチール、ロイター通信スミス、AP通信マクダニエル、バラマウソト映画ニュースのメンケンの5人のみ。15日、日本軍の要請で退去。
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・【南京総攻撃
 中支那方面軍参謀副長武藤章大佐・参謀中山寧人少佐、通訳官を伴い中山門~句容街道で午後1時まで投降勧告「回答」を待つが、中国側軍使は来ず。午後1時、松井司令官、蘇州の方面軍司令部において南京総攻撃命令。
「上海派遣軍ならびに第一〇軍は南京城の攻略を続行し城内を掃蕩すべし」(中方作命第34号)。
 夕方、第9師団歩36連隊(脇坂部隊)の1大隊、光華門突入し、全滅にちかい損害を出しながら城壁瓦礫に日章旗を掲げる。
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[攻囲状況]
 南京城は北と西側に揚子江を控えこの方向からは攻めにくいが、東と南から押せば、城内守備隊は袋のネズミとなり、唯一の脱出口は北郊の下関波止場から舟で対岸の浦口に渡るか、上流へ逃れるルートしかない。江上の艦船は制空権を握る日本海軍航空隊の爆撃に晒され、河用砲艦主体の海軍第11戦隊(近藤英次郎少将)が、中国側が敷設した機雷原を掃海しつつ南京に接近。
 脱出ルートを塞ぐため、第13師団主力を鎮江占領後、揚子江北岸に転進させ、六合に向わせ、第5師団国崎支隊を南京南西部の太平付近から揚子江を渡河し浦口へ向かわせる。第10軍第18師団は、10日、上流の蕪湖を占領。蟻のはい出る隙もない包囲陣である。
 主攻正面の東と南側からは上海派遣軍(北から第13師団山田支隊、第16師団、第9師団)の主力と第10軍(第114師団、第6師団)主力が密接に連係し南京城へ迫る。
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・第16師団、正門中山門を扼す紫金山攻撃、第114師団、南側中華門で激戦
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・第10軍第18師団、揚子江上流蕪湖占領
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・第10軍主力(第6、114師団基幹)、雨花台を猛攻。この中で、第6師団歩45連隊、下関へ北上するよう命じられる。
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・この日付け第13師団山田支隊(歩兵第104旅団)山田栴二少将の日記(「山田栴二日記」)。
 
□「(10日) 連日の行軍にて隊の疲労大なり、足傷患者も少なからず 師団命令を昼頃丁度来合はせたる伊藤高級副官に聞き、鎮江迄頑張りて泊す、初めて電灯を見る 鎮江は遣唐使節阿倍仲麻呂僧空海の渡来せし由緒の地、金山寺に何んとかの大寺もあり、さすが大都会にして仙台などは足許にも寄れず 」。
□「(11日) 沼田旅団来る故、宿営地を移動せよとて、午前一〇・〇〇過ぎより西方三里の高資鎮に移動す 山と江とに挟まれたる今までに見ざる僻村寒村、おまけに支那兵に荒され米なく、食に困りて悲鳴を挙ぐ」。
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・午後7時、投降勧告拒否の南京防衛軍司令長官唐生智、陣地死守を命令。
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□「本軍は複廓陣地において南京固守最後の戦闘に突入した。各部隊は陣地と存亡を共にする決心で、死守に尽力せよ」と下命、指令なく陣地を放棄・撤退した者は厳罰に処すと伝える。更に各軍が確保する全ての船舶は運輸司令部が接収・管理するように命じ、勝手な拘留を禁じる。宋希濂の第36師に命じ長江沿岸を厳重に警備させ、司令長官部の許可がなければ、いかなる部隊の渡江も厳禁。憲兵・警察に対し、「隊伍を離脱した兵隊が制止をきかないで渡江しようとした場合は、武力で阻止せよ」と命じる。
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・山西省臨時政府準備委員会発足、初代委員長に曽紀綱が就任。同時に太原市政公署(市長 白文恵)、陽曲県公署(県知事 伯璋)を設置、閻政権時の各県村長の身分を追認
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・「皇軍、最後の投降勧告、きょう正午迄に回答要求、諄々南京敵将を諭す」
「敵の回答遂に来らず、皇軍・断乎攻略の火蓋、南京落城の運命迫る」(「東京朝日」)。
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・モスクワ、国崎定洞、銃殺。ソ連秘密警察(NKVD)に「日本のスパイ」の嫌疑を受け、37年8月4日逮捕。在モスクワ日本共産党代表山本懸蔵の密告によるもの。
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12月11日
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・第10軍主力(第6、114師団基幹)、雨花台の堅陣を抜く。翌日、南京城南側城壁に迫る。
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・第5師団国崎支隊(国崎登少将)、慈湖鎮付近で長江渡河、鳥江鎮を占領し、北岸を南京方面へ東進。12日午後1時、江浦県城侵攻。
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 国崎支隊2千余は、鳥江鎮から南京戦区に突入、国民党軍と銃火を交え浦口を目指す。江浦県城占領までに約30余の農民・難民が殺害され、県城~浦ロの沿道農民・漁民44が死傷。大小の発動艇よりなる水上部隊約100が西江口(小港)を襲撃、農民・行商人・子供30余を殺害、商船100余隻を砲撃・破壊・焼却。民船捜索中に発見された婦女10数名が輪姦される(「江浦県誌」、「江浦抗日蜂火」)。
*
・正午、蒋介石からの撤退命令が南京防衛軍司令官唐生智に届く。
* 
 第3戦区(上海・南京戦区)副司令長官顧祝同(司令長官は蒋介石)が電話で唐に伝え、同夜中の撤退命令実行を要請。唐は、南京死守を厳命してあり、急な撤退命令は混乱を招くだけで、遅くとも明日夜には撤退、渡江できるようにすると回答。夜には正式に蒋からの撤退命令が電報で届く。
*
・蘇州の司令部の松井方面軍司令官は、11日の戦況を概観して、「軍は右より第十六、第九、第百十四、第六師団を以て今朝より南京城の攻撃を開始す。城兵の抵抗相当強靭にして、我砲兵の進出未だ及はざるため、此攻撃に、二、三日を要する見込み」と記す。そこへ第9師団歩兵第36連隊が光華門占領との報告が届く。
南京陥落の報を待ち兼ねていたマスコミは、「脇坂連隊、南京に一番乗り」と報じ、内地では早くも祝賀行列が始まる騒ぎになる

* 
工兵隊が爆破した破孔から1個大隊が城門の一角に取りくが、守備兵に逆包囲され一歩も動けず、伊藤大隊長は戦死、師団主力から孤立した十数名の生き残り兵が13日まで死守し続けるというのが実相。
*
・上海派遣軍の慰安所設置準備。
 この日の上海派遣軍参謀長飯沼守の日記「慰安施設の件方面軍より書類来り実施を取計ふ」。
* 
・日本、誤報に基づき、「南京攻略祝賀騒ぎ」。12日にも。
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新聞報道。
 「皇軍勇躍南京へ入城/敵首都城頭に歴史的日章旗/各城門を確保・残敵掃蕩/猛烈なる市街戦を展開」(「東京日日」)、
「南京城頭燦たり日章旗/感激の十日、首都を占領/光華門、脇坂部隊誉れの一番乗り/全線一斉突入市街戦展開/城壁も崩れよこの万歳」(「読売」)、
「祝・敵首都南京陥落/歴史に刻む輝く大捷/南京城門に日章旗/城内の残敵頑強抵抗/脇坂部隊決死の突入」(「東京朝日」)。
夜、東京では祝賀提灯行列、国会議事堂にイルミネーション。
*
続く12日の新聞報道。
 「きょう帝都は歓喜のどよめき/そらッ! 南京陥落だ/宮城前に奉祝の群れ/讃えよ世界最大の誇り」(「東京日日」)、「南京陥落す」の題で「わが皇軍南京に入城す国つ歴史に金色の文字もて書くべし此の日」(佐佐木信網)や「南京陥落に寄す」(吉川英治)(「東京朝日)。
宮城前には、朝から東京外国語学校生徒700が校長に引率されて日の丸を手に祝賀に訪れ、東京都下の学生の奉祝パレードが行なわれ、一般群衆に混じって、校長・教師の先導で東京府内各学校生徒が終日宮城を訪れ、戦勝祝賀の行進。
東京府庁舎には「祝南京陥落」のアドバルーン、銀座などの大通り商店街に日の丸、旭日旗、「南京陥落」と書いた幟が飾られる。
夕方、日比谷公会堂で読売新聞社主催の南京陥落祝勝大講演会、支那事変ニュース映画放映、「決死」従軍記者の報告、肉弾少将桜井忠温陸軍少将の大講演会開催。
* 
 「北浜街にはあっちにもこっちにも南京成金ができあが」り(「大阪朝日」10日付)、11日大阪市で25万人、14日東京市で40万人の提灯行列。全国が南京陥落祝賀に酔いしれる。
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12日の突撃戦に続く。 
*
  to be continued

2008年11月26日水曜日

明治17(1884)年3月 秩父(3)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 初期困民党の中核形成 困民党と自由党(或は自由民権運動)


 「英一番館」跡(横浜市中区山下町1)
 撮影は2008/11/22。
 1859(安政6)年、開港と同時に日本に進出した英帝国主義の尖兵「ジャーディン・マセソン商会」が居留地1番地館で貿易を始めたことから、「ジャーディン・マセソン商会」は「英一番館」と呼ばれる。「ジャーディン・マセソン商会」は香港に本拠を置き、イギリスの対中自由貿易史を代表する最大の貿易業者で、当初はアヘン密貿易で富を蓄積。詳細はWikipediaをご参照下さい。
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 ジャーディン・マセソン商会横浜支店長だった実業家吉田健三とい人は、吉田茂の義父(養父)だそうです。
吉田茂の実父は自由民権土佐派の竹内綱という人で、茂は5男。竹内綱が後藤象二郎と高島炭鉱経営にあたった際に、実業家で自由党員の吉田健三から支援して貰った間柄ということです。
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 本エントリも、一部で自由民権とかぶるところがありますが、いろんなパターンがありますね。
①秩父で蜂起を指導する信州の菊池貫平、上州の小柏常次郎、秩父の田代栄助、井上伝蔵。
②武相困民党と債主との仲裁を試みる多摩自由党の指導者石坂昌孝。自らも没落しつつある豪農であるが、貧農の立場には立ちきれない。
③農民・民衆に依拠しない過激派。名古屋事件などを起こす人たち。
④金融業者、ブルジョアジー。
⑤昔の栄光だけの政治ゴロ。
⑥思想普及家。兆民~幸徳もここに入れるか。
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 おっと、忘れないうちに。あの「未曾有(みぞうゆう)」な失言を「頻繁(はんざつ)」に繰り返すマンガ好きの太郎ちゃんもこの系譜に繋がってんだ。
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英一番館
*英一番館
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明治17(1884)年秩父(3)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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3月
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・栃木県令三島通庸、第6回通常県会に陸羽街道の新開・改修工事の土木費提案(10万5,090円)、議決。
三島は沿道人民に寄付金を強制、各戸に数十日間の無賃労役を課し、欠勤の場合代人料1日25銭を上納させる(デフレ政策のもと壮丁男子の労賃は8~9銭)。8月乙女峠事件惹起。
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 計画は、栃木県を貫通し、東京~白河~東北に通じる陸羽街道(1等道路)を、氏家宿以北は旧道に沿って新開、以南は修繕するというもの。費用総額17万7千円で、地方税・国庫補助6万円・沿道町村協議費3万7千円を予定。この当時の栃木県の地方税総額は40万円前後。
 三島の土木政策は、政府の中央集権的な国益優先の殖産興業政策の先兵としての役割を担い、併せて県会に勢力をもつ民権派への打撃を狙うもの。県会は、前年土木費を2度廃案に追い込む経験をもつにも拘らず、足なみは乱れる。
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・神奈川県大住・足柄2郡に借金返済をめぐる農民騒擾。
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・釜石鉱山、藤田伝三郎に払下げ
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・宮崎夢柳「憂世の涕涙」。
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・子規(18)、旧藩主久松家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。
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・ドイツ、カール・ペータース、「ドイツ植民会社」設立。ドイツの東アフリカ進出の先兵となる。
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・黒田清輝(17)、パリ着。法律を学ぶため。
 画家ラファエル・コンテと出会い絵に夢中になり、周囲からも画家になるよう勧められる。86年5月21日、父に手紙。絵画への転向宣言。5年後、「読書」でサロン入選。帰国後4年、代表作「湖畔」発表。
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3月5日
・秩父自由党、大田村集会。14日、「自由党演舌」。春季自由党総会関連の動き。
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 「三月五日 ・・・自由党願込ニ集ル説有。此近辺ノ連中大田工集会ノ咄。」。
 「三月十四日 ・・・自由党演舌所々ニ有ル咄。三十四ヶ条ナリト云。」。(「木公堂日記」)。
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3月7日
・(露暦2/23)チャイコフスキー、ウラディミール勲章第4等授与。
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3月10日
・芝の浜離宮延遼館で行われた天覧相撲、横綱梅ケ谷と三枚目大達の勝負が30数分の大一番。
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3月13日
春季自由党総会。浅草井生村楼。議長片岡健吉。左派主導権(武装路線ぶくみの方向転換)。
 正式代議員61名中、富松正安・磯山清兵衛ら10名の茨城自由党、伊賀我何人・深井卓爾ら9名の群馬自由党、村上泰治・高岸善吉(秩父)ら8名埼玉自由党、佐藤貞幹・石坂昌孝ら6名の神奈川自由党など大井憲太郎傘下関東派27名の代表団が会場を席巻。
 常議員制を廃止、地方党員との連絡にあたる地方常備員設置(大井は関東5県の常備員)。
村上泰治・高岸善吉はこの興奮を持って秩父に戻る。
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□決議事項。
「第一、諮問若干名を置き、総理の参与たらしめ、其撰任は総理の指名に委すること。
第二、総理に特権を与え、党事を専断決行せしむること。
第三、文武館(館名未定)を設け、活潑有為の士を養成すること。
第四、各地へ巡回員を派遣すること。
第五、会議の総代を撰挙する区画及其人月を定むること。
第六、本年四月の例会を開かざること。第七、総理を改撰すること」。
但し、「・・・凡そ此数項は未だ十分に其意を尽さざる所ありとするも、亦露骨明言し難き事なきにしも非ざれば、諸君が静思熟考して自得する所あらんことを望む」と注意喚起されている。
* 
 党の統一を図る為、選挙による常議員制を廃止、総理指名による諮問及び常備員を設ける。これにより、制度上は板垣の中央集権体制が固まり、党内統一がもたらされる筈である。
大会をリードした星は、このとき大井・片岡と共に諮問となる。
板垣の党指導者としての不適格性は、星もよく認識しているが、党統一の為には中央集権体制確立しかなく、それには維新元勲のカリスマ性が必要。
* 
・この頃、落合寅市・高岸善吉・坂本宗作・井上善作・新井悌次郎・猪野太郎吉・影山久太郎の7人、石間部落加藤織平の土蔵の中で血盟盟約(落合寅市の回想録「綸旨大赦義挙寅市経歴」)。
* 
□血盟内容。
「一、我々は日本国にあり圧制官吏を断て直正の人を立つるに務むること。
二、我々は前条の目的を達するため恩愛の親子兄弟妻を断ちて生命財産を捨てること。
三、我々は相談の上、ことを決すること。
四、我々の密事を漏す者は殺害すること。
五、右の契約は我々の精心にして天に誓い生死を以て守ること。」(警部鎌田冲太が密偵情報より書きおいたメモ)。
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3月15日
・地租条例改正布告。税率固定・法定地価の決定(地租滅率と地価修正を行わない)。
* 
3月15日
・長谷川伸、誕生。横浜日ノ出町。
* 
3月16日
相州南西部の最初の本格的な大衆行動(松方デフレ下の負債農民騒擾)。
 相州大住郡土屋村字七国峠(平塚市)に数百の貧民集結。高利貸露木卯三郎への態度協議。
以後、大住郡一色村・露木卯三郎や戸田村・小塩八郎右衛門などの金貸を目標にした集会が散見。高座郡の吉岡村近辺(綾瀬市)や愛甲郡の愛知村(厚木市)あたりにも広がる。29日、相州大住郡大神村人民数十人集結。戸田村金貸小塩八郎右衛門に対して不穏形勢、解散。4月7日、相州高座郡吉岡村百名の人民集結。露木対策協議。
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3月17日
・制度取調局、宮中に設置。長官に伊藤博文が任命(内閣制度の改革)。憲法および皇室典範の起草に着手。
メンバー:
参事院議官井上毅、同議官補伊東巳代治、太政官から金子堅太郎、太政官書記官牧野伸顕(大久保利通次男)ら。
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3月21日
・植木枝盛(28)、神奈川県下に遊説。25日帰京。この月、「一局議院論」出版。
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3月24日
・仏、1884年労働組合法、制定。これにより同業市民(労働者)の団体結成を禁止していたル・シャプリエ法が廃止。労働組合は法律的に公認され、規約・役員名簿の登録を唯一の条件として自由に結成できるようになる。1890年代には労働者の組織化が急速に進行。
*
3月23日
・群馬県北甘楽郡一ノ宮(現、富岡市)で自由党大演説会。
会主は群馬の有力党員清水永三郎ら7名。弁士宮部襄・杉田定一・照山峻三。「天に代って逆賊を誅す」の旗。
* 
 「当日は天気晴朗数旒の旗を門前に挙げ、聴衆堂内に満溢し堂外に著佇立する者も亦頗る多く、凡そ千余名あり。斯の如き寒村僻地には未曾有の盛会」(杉田定一「上毛紀行」)で、旗には「天に代って逆賊を談す」(『自由新聞』明治17年4月1日)。
 こうした人民の高揚は前年1883(明治16)年から群馬県下の北甘楽郡、南勢多郡、東群馬郡、緑野郡などの村々での数百人規模の負債農民騒擾事件の裾野があるから。
*
3月23日
・秩父、高岸善吉(紺屋の善吉)・坂本宗作(鍛冶屋の宗作)・落合寅市(半ネッコの寅市)・新井紋蔵・斉藤準次・小柏常次郎ら7名、自由党入党発表(この日に「自由新聞」掲載)。これらは全て秩父事件参加者。
他に、5月18日、井上伝蔵・新井吉太郎・田村竹蔵・田村喜蔵・竹内吉五郎・新井寅五郎・柳原類吉ら11名、入党発表。20日、新井国蔵ら2名、入党発表。
 自由党が貧農層の入党「認知」するほどの情勢変化(自由党自壊の始まり)
* 
○小柏常次郎:
 信州生。慶応3年、群馬県田胡郡上日野村(現、藤岡市)の茂太郎の養子。明治10年(42歳)ダイ(29)と結婚。屋根板割。2月から帳面を持回り自由党加盟者30~40名獲得(11月蜂起ではこれらを秩父へ動員)。この時点では、群馬蜂起を軸にして秩父への戦線拡大を目論む(常次郎は秩父へのオルグ)。しかし、群馬の激発は失敗。常次郎は群馬の経験を秩父に仕える扇動者として、9月初、秩父入り。
「・・・初メハ各県庁ニ押出スノ計画デアリシガ、(群馬事件による壊滅のため)北甘楽ノ方ガ纏マラザル故、日野村ノモノハ秩父ニ応ズル・・・訳ニ有之侯」(常次郎供述)。
屋根板割渡世の常次郎は、低き身分の故に、群馬では三下党員に甘んじていたであろうし、士族党員・豪農党員の体臭を留める群馬自由党の体質に異和を感じていたであろうし、この秩父にすんなりと自らをなじませる土壌を見出したのではないか。
* 
高岸善吉・坂本宗作・落合寅市・小柏常次郎・井上伝蔵らの自由党員が、初期困民党の中核を形勢
 秩父郡下日野沢村字重木の村上泰治(浦和の獄中にあり)邸に逗留していたある日(供述書では9月11日だが、もっと早い時期)、阿熊村の姓知らざる次郎吉なる男が来て、常次郎に対し、下日野沢の駕籠屋に是非合わせたい人が待っているからご足労願いたいと申し出があり、出向いたところ、そこに善吉・宗作・寅市がいて、頭分の善吉が口を開く。
善吉、「・・・困民ヲ救フ事ニ付是非御力ヲ乞ヒタシ」。
常次郎、「・・・山ナドニ集合致シテハ規則ニ背キ甚ダ宜シカラザルニツキ、モシ強テ大勢ヲ助ケタイトノ精心ナラバ、妻子家財ハ勿論身命ヲ捨テ為スノ所存ニアラザレパ到底成リガタイコト故・・・。モシ其ノ精神デナイナラバ、ムシロ茲に於テ旗ヲ巻キ、姓名ヲ留メラレタルモノハ、事ヲ為サナイ内ハ御処分ガ軽イ故、縛ニ就ク方可ナラン」。
善吉、「・・・自分共コノ辺ノ博徒デアツタガ、コノ上ハ善人トナツテ下民ノ苦ヲ何分カ助ケタイト決心致シ居ル儀ニツキ、家族財産ハ勿論、身命ヲ捨ツルハ更ニ苦シクナイ故、是非御カヲ乞フ」。
宗作らは、自らの戒名を既に背中に織り込んでいる。その意気に感じ、常次郎はこのトリオに溶け込む。
* 
■秩父蜂起と自由党(自由民権運動)との関連をどう見るか?
①秩父蜂起は、一方の自由党が困民を組織して戦った自由民権運動の最後にして最高の形態と見る。
②秩父蜂起は、農民一揆の最後にして最高の形態と見る。
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■①の立場で見た場合の二つの自由党
(ⅰ)村上泰治ら旦那衆の志士的な自由党。
上州自由党宮部襄の指示による密偵殺害により逮捕され潰える。
*
(ⅱ)自由民権の政治理念を中・貧農の立場で読み換え、社会的平等の要求を掲げた「自由困民党」(困民らの自由党)。
明治16(1883)年12月、秩父困民党の落合寅市・高岸善吉・坂本宗作らトリオは負債農民を代表して秩父郡役所に請願行動を起し、請願運動を通じて大衆を捉えてゆく。一方、彼らは自由党に加盟し、大井憲太郎ら左派指導者の影響をうけ、徐々に困民党の中核を形成。
また、風布村大野福次郎・大野苗吉、西之入村新井周三郎らも自由党の加わり、借金問題で苦しむ村民たちに呼びかけ入党者を獲得してゆく。
この時の自由党は、初めから生活問題解決の為の党であり、減租や国会開設よりも、借金年賦返済・高利貸打ち毀しを主張することで糾合されてゆく。
上州上日野村新井貞吉の証言では、坂本宗作と北甘楽郡国峰村恩田卯一が村を訪れ、自由党のやり方がうまくゆけば「高利貸ヤ銀行ヲ潰シ世ヲ平ラニシ人民ヲ助ケル事」になると説得したという。
以降、明治17年夏、困民党が本格的に成立。郷党に人望厚い秩父の仁侠の人田代栄助を首領に引き出し、群馬県多胡郡上下日野村で数十名の自由党員を組織した小柏常次郎ら上州自由党、信州北相木村の菊池貫平・井出為吉らの参加をみて、中央(自由党左派大井)の蜂起制しの忠告をはねのけ、11月1日蜂起に至る。
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3月26日
・カナダ北西部サスカチワン地方、ルイ・リエル率いるメティスの反乱。
* 
3月27日
・3帝同盟(オーストリア・ドイツ・ロシア)、3年間延長。
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3月31日・~4月1日
上遠野農民騒擾。
 「借金返済は五十年賦に
 磐城平の借金党 先頃の紙上に、豆州に借金党と云うが起りし由報道せしが、今また奥州磐城平よりの報に、同地方の貧民党は先月下旬頃より何か不穏の模様ありしが、去る卅一日、菊田郡上遠野町金融社へ貧民数十人入り来たり、目下の不景気にかねて借用金の返済出切ざるより、このたび貧民党なるもの集合し、これまで借り受けたる金円を、五十ヶ年賦に返済することに取り極めたれば、当社にも御承知下されたしと申し入れに付き、詰合の社員はあまりの事に互いに顔を見合わせ居りたるが、ややありてこの儀は即答なし難き旨答えしに、貧民党は不満の有様にて引き取りしが、本年一日の朝、貧民党およそ五、六百人、竹法螺を吹き立て、竹槍等を携えて金融社へ押し寄せしも、時刻の早かりしより宿直の外社員はまだ出社せざりしかば、貧民党は総勢の内より五、六十人を分かちて、直ちに同社支配人赤坂忠兵衛氏の宅へ押し寄せ、ぜひとも今日中に年賦のことを取り極めくれと強談に及び、否といわば市中を焼き払わんなどと威嚇付け、立ち去らざりしが、この有様に市中の老少婦女子は他所へ逃げ避くるなど、その騒擾云わん方なかりしが、この事早くも平警察署へ聞こえければ、警部、巡査二十余名出張し説論を加えられしより、貧民党はようやく引き取りたるが、翌二日、その教唆者と覚しき者十二名を拘引され、目下取調べ中なりと云えり。」(4月8日「朝野新聞」)。
*

・ニーチェ、「ツァラトゥストラ」第3部を刊行。
*
to be continued

2008年11月25日火曜日

旅するモーツアルト(1) 1756年神童誕生


 モーツアルトは生涯の3割は旅をしていたという話をどこかで見て、自分なりに計算してみたことがあります。かなり前のこととて、そのファイルを探すのに苦労しましたが、96/09/16の作成日付をもつものが見つかりました。
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 殆ど、海老澤敏「モーツアルトの生涯」(白水社Uブックス、全3冊)に依拠してます。
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 モーツアルトは、1756/01/27誕生、1791/12/05没ですので、左にもあるように縦35、横12のマトリックスも最初と最後のセルが夫々誕生月、没月となります。私の表は、便宜上、月は3旬にしてます。
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 私の計算の結果では、
全生涯=(35×12)-2=418ヶ月
旅の期間=106ヶ月(25%)
 となりました。
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 最初の旅は、6歳(詳しくは、旅の途中で6歳お誕生日を迎える)ですが、分母を計算起点をオギャーの瞬間ではなくて、常識的な旅行敢行可能年齢とすれば(例えば6歳とか)、人生の3割旅行説はゆうに成立します。
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 このブログも、叛乱、蜂起、鎮圧、虐殺などなど、話題が変に偏ってしまいましたので、ここらで新シリーズ、題して「旅するモーツアルト」をスタートさせたいと考えます。例によって、黙翁年表のゴッタ煮は踏襲します。但し、途中でフランス大革命期に突入しまが、黙翁年表中でもフランス大革命は最大級の分厚さですので、これをどう回避するか・・・、これから走りながら考えます。前にも申し上げましたが、フランス大革命期はミシュレ「フランス革命史」(中公文庫、上下)により現在最終のお化粧直し中・・・ですが、いつリリース出来るのか、目途立たずの状況です。
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 旅の発想から、信長、秀吉、家康のうち、誰が一番旅をしているかも、計算してみようかと思ったことがありますが、これは多分、秀吉がダントツ一番と推定し、止めました。
 信長は、移動距離は尾張(のち安土)~京都と短く、若死にで、かつ遠方の征服戦争は部将に任せています。武田氏征服も信忠がやりました。
 家康は、三河のあと江戸に移され、ここから何度も京都或いは大阪に移動してますし、何よりも長生きですので、旅の期間は信長よりは上でしょう。じいさんになってからも、鷹狩りお称して、結構移動してます。ただ、熟柿をとる如く権力を獲得した分、征服戦争の為の移動は秀吉よりも少ない。
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 しかし、秀吉は、統一戦で北は伊達領から南は島津領まで、自ら移動し、朝鮮侵略の際は、名護屋~京都間を、確か(?)母親が亡くなった時と、秀頼ができたときに往復してます。それに、若い頃、信長の部将であった時代は、それこそ東奔西走の活躍ですから、この人が一番でしょう。しかし、秀吉にとって、移動は秀吉(太閤サマ)ブランドのマーケティング手段であり、進んで移動(旅)し、ルートもなるべく異なるものを選択し、できるだけ多くの人に対し自らの存在を露出し、移動を権力誇示に活用したそうです。
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■旅するモーツアルト(1) 1756年神童誕生
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1月27日
・ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト、ザルツブルクに誕生。
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 午後8時、ザルツブルクのゲトライデ・ガッセ9番地の商人ハーゲナウアーの持家の4階で、父ヨハン・ゲオルク・レオポルト、母マリア・アンナ(35)の第7子(4男)。姉ナンネルルとヴォルフガング以外の子は夭折。翌28日午前10時半、ザルツブルク大聖堂で洗礼。
* 
□父レーオボルト・モーツァルト:
 1719年11月14日アウクスブルクに工匠の家系に誕生。36年12月7日ザルツブルク大学入学。翌37年9月学業成績不良と無断欠席が重なり除籍。この年、司教座聖堂参事会員ヨハン・バプティスト・トゥルン=ヴァルサッシーナ・ウント・タクシス伯爵の近侍となる。40年、最初のトリオ・ソナタ集「六曲の三声の教会および室内ソナタ」作曲。43年ザルツブルク大司教宮廷楽団第4ヴァイオリン奏者に登用。44年から少年合唱隊員にヴァイオリンを教える。1747年11月21日、ザルツブルク大聖堂でザンクト・ギルゲン出身の女性マリーア・アンナ・ベルトゥルと結婚、同年ハーゲナウアー家の4階を借りる。この年(56年)、「ヴァイオリン教程」(大司教シュラッテンバッハへの献辞)出版。
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□姉マリーア・アンナ・ヴァルブルガ・イブナーツィア・モーツァルト:
 51年7月30日生まれ。マリアンネ、幼い頃はナンネルル呼ばれる。7~8歳の頃、父レーオボルトが娘のレッスン用に編集した練習帳(「ナンネルルの楽譜帳」)は、弟ヴォルフガングが音楽の基礎的知識を学んだ最初のテキストでもある。
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○ザルツブルク大司教領:
 大司教が支配するカトリックの宗教的小国家。司教座聖堂、大聖堂、フランチスコ派教会、聖ペテロ教会、大学教会、三位一体教会、ノンベルク女子修道院の付属教会など、無数の教会が、狭い町の中にぎっしり建てられている。
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□この年、日本では宝暦6年
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宝暦の大飢饉。前年から3ヶ年間、東北地方一帯を凶作が襲う。
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□「宝暦五乙亥歳、冷気強くして大凶作なり。矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」。
 別の記録、「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」とあり。
*
4月14日・郡上藩一揆(宝暦4~8年)では、郡上郡150ヶ村代表による郡上郡村々傘連判状が作られる。
*
1月22日 越前の天領で本保騒動。かつてない大規模一揆。この日と26日、本保陣屋支配下6万石のうち丹生郡・今立郡の百姓の打毀し。本項は「福井県史」に依拠してます。
*
□22日昼~夜、南条郡牧谷村や丹生郡の百姓約400(800ともいう)が集結、丹生郡本保村・池上村・二丁掛村・片屋村の頭百姓宅4軒を打毀す。翌日には本保陣屋へ迫る噂あり、代官所は福井藩府中本多氏や鯖江藩に応援を求める(何も起こらず)。
 再び代官所から福井藩へ応援要請あり、26日未明、目付熊谷小兵衛以下400が福井を出発。昼過ぎ、福井藩領今立郡北小山村に到着、同村組頭宅を本陣とする。間もなく、味真野河原に百姓集結、続いて上真柄村庄屋七郎右衛門宅打毀しの報告があり駆けつける。事前通告があったらしく、家人は逃げ出し、家具・戸障子・縁板類まで片付けてあるが、一揆勢約300は「斧・まさかり・懸矢、其外鎌・なた・鳶口」等をもって壁・柱も残らず打毀す。
*
 その後、味真野河原に移り、福井藩兵・一揆側対陣の中、一揆側800から今立郡宮谷村・西尾村・萱谷村の百姓3人が代表して決起理由を述べる。
 近年定免で重い負担の所へ昨年は百年来の不作、せめて3分免引きを願うべく頭百姓に江戸への訴願を依頼、苦しい中から高10石に銀1匁5分ずつ与内銀を負担し送り出した。
 ところが、彼等は逆に1千石の「増免」を引き受け、廻米舟の上乗庄屋に任じられるという「良き御褒美」を貰って帰ってきた。外にも囲籾払下げの件で不満がある。裏切られた思いが募り、この上は餓死覚悟と一同決意して制裁に立ち上がったという。
 目付熊谷小兵衛は、彼等の話に理解を示しつつ、これ以上騒動を続ければ実力行動に出ざるをえず処罰も重くなる、この場は鎮まり解散するようにと説得。本保代官所へもよく伝えるというと、百姓側は納得し引き上げ、その後流言あるものの騒動は起きず、2月5日頃には鎮静化。
*
□一揆参加者は、「宮谷・大手・西尾・水間之谷・萱谷・服部谷」など今立郡26ヶ村の者ばかりで丹生郡は1人もいないという。各村の庄屋・長百姓などが多数加わる(村役人層が先頭に立つ)。一揆側代表3人の内の萱谷村善右衛門は、自分は高10石を所持し、参加者は「惣小百姓共」であると述べ、打毀しをうけた上真柄村庄屋も、誰1人名前を知らず、全員「名も無小百姓共」と思うと熊谷に答える。
 これらからみて、この一揆は庄屋層を中心に「小百姓」である高持百姓が参加した一揆であったといえる(「国事叢記」)。
 一方、打毀しをうけたのは、本保村丈左衛門・池上村又兵衛・片屋村与次兵衛・二丁掛村加兵衛・上真柄村七郎右衛門の計5軒(坪谷村の村役人を加え6軒という記録もあり、宮谷村新兵衛・坂下村十兵衛の名も上がっていたともいう)。江戸へ赴いたのは池上村・上真柄村・二丁掛村・坪谷村の百姓4人であるが、それ以外の家も打毀しの対象とされ、いずれも一揆側から頭百姓と呼ばれている。本保村丈左衛門と二丁掛村加兵衛は、寛延3年(1750)には郡中惣代であり、大庄屋的な位置にあり、一般の百姓とは離れた関係にある。
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□一揆準備は早くから組織的・計画的に行われる。
 正月16日、糺野で集会、18日には同所で傘連判状を作成。事が事前に露見した場合は府中の米問屋に向かう、という答えも決め、怪しまれないように鯖江町で草履を購入し、大寺へ食事を頼む手配も調える。打毀し前に代表8人が事前通告し、近村へも同じく触れておくこと、火の用心、家財道具を持ち出し焼いた場合は窃盗嫌疑がかからないよう一部を残すこと、農具以外には剃刀のような武器も持たないこと、等々も確認。後の処罪を恐れ「北在は南在辺へ、東之者は西へ」と入り交り、青・黄・赤・白・黒や各氏神等を合言葉とすることも定める。
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□彼等惣百姓の願いは年貢軽減であるが、逆にこれが増加され、与内銀は無駄に終わる。
 江戸へ赴いた頭百姓4人が納庄屋を命じられたことへの反感も大きい(納庄屋には給銀が与えられ、希望者が多く、百姓間の関心は高い)。囲籾払下げも困窮した百姓たちにとっては切実な願い。
 中でも問題にしたのは、頭百姓の裏切り行為で、彼等は「自然の道」を外しており、制裁するのは道理であると主張。代表の萱谷村善右衛門は、頭百姓共が「天然自然之道理」を踏み外したから、逆に小百姓共がその「道理」に従って出現したのであり、「地うぢの涌候道理」と述べる。頭百姓が人々の期待を裏切り、しかも「金子貯家財心之侭」であるのに対し、われわれは「餓死之躰」であるという、同じ身分の百姓として許せないという論理で、制裁行動は正当性があると主張。鎮圧に出動した熊谷に対して「福井様御仕置之通ニさへ候得者ケ様之躰ニ相成候儀者無之」と福井藩政を持ち上げ、本保陣屋の下代が4人と結託していると指摘するが、役人には特別不満はないと領主支配に敵対するものではないことを断っている。幕藩制支配の枠の中での百姓間の問題としている。
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□領主側の百姓一揆鎮圧態勢。 本保陣屋からの要請をうけ、26日には福井藩兵の他に同藩本多氏が100余、鯖江藩も221を派遣。大野藩も124の出兵体制を調える。本多氏・鯖江藩は本保陣屋警固を担当、一揆側と接触したのは上真柄村に向かった福井藩兵。
 福井藩は寛延2年、幕府指示で播磨姫路藩領の一揆に御側物頭太田三郎兵衛を派遣し、一揆の原因や鎮圧・事後の吟味、鉄砲の使用の事などまで確認しており、これらの経験を踏まえて動員体制を組み出動。
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□福井藩は出動前、百姓捕縛しない方針を決定し、騒動鎮静のみ努力して引き上げる。
 しかし、本保陣屋では急遽江戸から到着した代官内藤十右衛門忠尚の指揮のもと、参加者とその頭取の確認及び吟味に努め、8月、幕府が寛保元年(1741)に定めた規定をそのまま適用した厳しい内容で大々的な処罰を強行。獄門1、死罪2、遠島2、追放17、所払4、計15村26人が重罪。これに加え獄門・死罪・遠島者には田畑家財闕所、追放者には江戸10里四方追放の場合は越前での田畑家屋敷闕所か財産没収とされる。所払の者は田畑だけ取上げとなる。これ以外に、庄屋51人に銭5貫文ずつ、長百姓58人に計70貫文、余田村には別に25貫文を、他に余田村・上石田村で10貫文ずつ2人、上野田村・下野田村・小泉村・下氏家村の長百姓6人に7貫文の過料を課す。過料となった百姓たちは全員村役人を解かれる。関係の村数では丹生郡25ヶ村、今立郡20ヶ村、計45ヶ村となる。
 余田村庄屋の処罪理由を示す「獄門札」には、頭百姓共を疑って禁制の徒党頭取となり、上野田村・下野田村・気比庄村の者と申し合わせ、家財破却を実行させ不届至極、とある。尚、宝暦9年6月「本保騒動百姓仕置書付」には、西尾村・萱谷村・大手村について、百姓共は「急度叱」、水呑百姓共は「御叱」となったと代官手代が記す(水呑百姓まで処分)。8月25日、本保村で獄門・死罪。遠島者は直ちに江戸送りとなる。
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□騒動の余波。
 2月1日、福井藩領丹生郡山干飯13ヶ村の百姓が、府中の米会所を襲うという噂あり、本多氏家臣団は警戒、福井藩へも応援を求める。大坂商人で府中に店を開いた米問屋の評判が悪く、米価騰貴は彼の仕業と憎まれ、前年秋にも家に「火札」が2、3度張られる。これは噂に終わる。
 同19日には三国町で尾張屋五郎兵衛・室屋惣右衛門、丸岡藩領梶浦の又兵衛の3軒を潰す風聞が立つ。三国へは福井藩金津奉行が鉄砲を用意し兵を率い到着、混乱するが実際には何も起こらず。*
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□一揆側の成果はなし。
 翌7年夏は前年に続く大水害が発生し、年貢は全体に軽減されるが、翌8年からは元に戻る。本保陣屋支配にも変化はなく、代官内藤十右衛門は7年10月に交代するが、咎を受けた記録はない。
 しかし、この一揆は越前においてかつてない大規模なもので、越前各地に与えた影響は大きいと推測できる。
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前年1755年7月8日~、北米でフレンチ・インディアン戦争開始
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□フランス領ルイジアナ植民地にブラドック将軍のイギリス正規軍が侵入。フランスはインディアンと共同しこれを迎え撃つ。ウィルダネスの戦闘。イギリス軍は大敗。
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□ブラドック少将率いる2個聯隊約1,500人、フランス要塞フォート・デュケーヌ(現在のペンシルヴァニア州西部)に向かう。幕僚ワシントン、資材調達ベンジャミン・フランクリン担当、馭者としてダニエル・ブーン(21)が参加。ブラドック軍後衛がモノンガヒーラ川浅瀬を渡りきる寸前にフランス軍の攻撃。ブラドック軍には地理に詳しいインディアン8人のみ。フランス軍は士官・兵士73人、民兵150人、友好インディアン37人。大混乱。ブラドックは負傷、のち没。死傷者977人(全軍の2/3)。
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1756年5月28日~
 フランス、東部のインディアン全部族巻き込んでイギリスと全面的戦争に突入。
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to be continued

2008年11月23日日曜日

昭和12(1937)年12月7~9日 南京(2) 「来たるべきものへの悲しい予感」 近衛、トラウトマン和平交渉を棚上げ 南京陥落目前と熱狂する日本


日本最初の本格的劇場「ゲーテ座」(Gaiety Theater)跡。
撮影08/11/22。
もともとは、1870(明治3)年12月6日、オランダ人ノールトフーク・ヘフトが横浜居留地68番地(現、谷戸橋北、テレビ神奈川裏辺)に建築。1872年11月パブリックホールと改称され利用されるが、より広い建物が求められ、1885(明治18)年4月18日現在地に350人収容のホールが完成。1908年12月から、ゲーテ座と呼ばれ、音楽会・演劇・講演など各種の催物に利用される。
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 観客は、外国人主体であったが、滝廉太郎、坪内逍遥、北村透谷、小山内薫、和辻哲郎、佐々木信綱、芥川竜之介、大佛次郎らも観劇した記録あり、明治・大正期の文化に大きな影響を与える。松本克平「日本新劇史」によると、上演演目はオペレッタのような娯楽作品が主流であったとのこと。ゲーテ座は日本で初めて「ハムレット」を上演した劇場である、というのをどこかで読んだ記憶があるが、それがどの本であったか思い出せない。多分、川上音次郎・貞奴を扱った本だったような・・・?
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■昭和12(1937)年12月南京(2) 「来たるべきものへの悲しい予感」(ゴヤ「戦争の惨禍」1)
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昭和12(1937)年12月
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(7日の中国での状況は、前回エントリに掲載済み。今回は、同じく7日の日本の状況から)
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12月7日
・日本側の和平条件を討議の基礎として受入れる旨の蒋介石からの回答(12月2日)、トラウトマン大使を通じディルクセン大使より広田外相に伝えられる。
 しかし、南京陥落近く、華北に王克敏(傀儡)政権ができ、近衛は変心(蒋介石を相手にしなくても中国を屈服させる事ができると考える)。
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 中国側は、「領土主権の確保を条件として、日本側条件を和平会談の基礎とすること」に同意し、改めて、現在も日本側条件に変化はないか確かめてくる。
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 南京陥落間近しの興奮にかられた近衛内閣閣僚達は、日本側から要請したにもかかわらず、トラウトマソ和平工作をないがしろにし始める。
 ①広田外相は「犠牲を多くだしたる今日、かくのごとき軽易なる条件をもってしてはこれを容認しがたい」と、
②近衛首相は「大体敗者としての言辞無礼なり」と述べる。
③杉山陸相が、講和促進を主張する陸軍中央部内不拡大派の働きかけを受け、一旦即時和平交渉促進を表明するが、これを覆し、「このたびはひとまずドイツの斡旋を断りたい」と申しでると、近衛首相・広田外相もすぐに賛同。
 近衛内閣は、日中戦争の停戦・和平実現を目指すトラウトマン和平交渉を棚上げにし、戦局収拾の可能性を絶つ
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 石射猪太郎、「アキレ果てたる大臣どもである・・・もう行きつくところまで行って目が覚めるよりほか致し方なし。日本は本当に国難にぶっからねは救われlない切であろう」(「日記」8日条)。
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 このニュースを報じるマスコミは、南京陥落近しの戦況に力点をおき、「支那内外よりする調停説の俄かに台頭し来たったことは大いに警戒を要するところである」(12月6日「東京朝日新聞」社説「調停説と日本」)とする。
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12月7日
・株式市場・三品市場は「南京陥落相場」「南京割れ相場」による「大相場」を演じる。
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 「大阪朝日」7日の株式欄。
 「南京が落ちればいかに国民政府が長期抗戦を呼号するも政府の威令は行われず、最後の止めを刺す帝国政府の蒋政権取消しも当然起ってくる。従って蒋政権は地方政権に堕してしまうのである・・・。
日本の国威はいよいよ発揚され、大威張りで日本紙幣の流通範囲は拡大され・・・今後蒋政権没落後の躍進日本の対支進出は目醒しいものであるから、戦後好望見越しの人気は年末金融の安心と相まって大衆買いとなって現われ・・・」と、「大相場」の背景を分析。
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12月7日
・「南京今や風前の灯火、皇軍入城刻々迫る 早くも上海に陥落説」(「東京朝日」)。
 「牙城南京陥落目睫に迫る、の快報は帝都六百万市民に非常な感激を与えているが、東京府、市当局では祝大捷を協議した結果、南京陥落の場合、昼は全市民の旗行列、続いて戦勝奉告祈願祭、それから夜は提燈行列を挙行し、百万人の戦勝祝賀大衆行進により、帝都を旗と堤燈の一色に塗りつぶそうと、今から興奮している」(「東京朝日」)。
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12月7日
・内務省、活動写真の興業時間(3時間以内)・フィルムの長さを制限。
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12月7日
・トルコ、シリアとの友好条約(1926年)を破棄。フランスはアンカラに軍隊を派遣。
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12月7日
・ソ連、「プラウダ」、メイエルホリド劇場を批判。政治的断罪宣告。翌年1月8日、劇場閉鎖。
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12月8日
・日本軍、南京城周囲に布陣の鳥龍山~幕府山~雨花台の複廓陣地に迫り、南京城攻囲を完了
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12月8日
・この頃、漸く南京攻撃部隊第一線に補給物資が届き始める。
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12月8日
・第13師団山田支隊歩兵第65連隊第7中隊「大寺隆上等兵の陣中日記」。
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□「(一二月八日)途中八時ごろニヤをつかんで、大谷さんと二人で一人のニヤに担がせる。三十分歩いて五分づつ休ませてきたので、大変本隊から離れてきた。ニヤは力があるし、足は速い、乾パンを食わせられて大喜びでいる。
 (一二月九日) 途中ニヤをつかんで無錫に十時とう着。無錫に来るまでの部落には兵隊が宿営しているらしく、火が火災でもあるかの様に空にかがやいている。火災を起こしているところもあった。三里も手前から見えた。今日は休養だ。午後から城内の徴発に行って道に迷い、五時ごろようよう木村上等兵と二人で帰る。
 (一二月十日) 皆ニヤを雇っているので一個中隊が倍になっている。今日は支那人と兵隊と半々だ。青陽鎮の町はまだ火災が起こっていて、戦跡未だ生々しい。」。
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12月8日
・この日の新聞。
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□「南京宛ら死都、残留市民僅かに数千、武器弾薬も全く欠乏」(「東京日日」)。
「南京今や五里、陥落目前戒厳下、全市忽ち大混乱、敵軍対岸へ移動開始」(「東京日日」夕刊)。
一頁をほぼ埋める大々的記事「南京入城に武士道精華、敵に情けの勧降状」、「敵都南京城は完全なる包囲態勢下に置かれ、その運命は全く掌中に帰した。しかし、南京は敵国ながら首都である。一挙に蹂躙するはいと易いが、わが軍は特に武士道的見地に立って、まずわが国諸部隊の勢揃いをした上、威容を正して城内の敵に一応投降の勧告状を出すことになった」(「東京日日」)。
* 
□「きょうこそ世界歴史の一頁をかざる首都陥落を予想して、七日朗、帝都の祝勝気分は先ず銀座街頭から爆発した、宮城前へ、靖国神社へ、明治神宮へ、喜びに満ちた小学生や国防婦人会員の列が続き、旗屋さんや提燈屋さんの大量準備も万事OK! 戦勝気分一色の浅草六区興行街の各常設館でも『祝南京陥落』の看板も出来上った」(「東京朝日」)。
「蒋介石ついに都落ち、燃ゆる南京・掠奪横行、敗戦、断末魔の形相」(見出し)、「南京にはわが航空隊が大空襲をなし、市内には諸所に火災を起し、人影殆ど絶え南京の大市街は、廃墟の如く凄惨な光景を呈している。市中には少数の軍隊、憲兵が警戒に当たり、下関方面にも掠奪が行われ、支那軍常套手段の敗退の際における混乱が起こっている模様である」(「東京朝日)。
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12月9日
・第5師団国崎支隊(国崎登少将)、太平占領。
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12月9日
・夕方、中支那方面軍松井司令官名で、唐将軍宛降伏勧告文を投下。回答期限は翌10日正午。
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 「日軍は抵抗者にたいしてはきわめて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊にたいしては寛大をもってし、これを犯さず」との勧告文(日本語と中国語)を日本軍機から城内8ヶ所に投下。
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12月9日
・朝香宮上海派遣軍司令官に上海入場に関する方面軍の統制に服する意志なし。「注意事項」の空文化。
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 この日、中支那方面軍塚田攻参謀長が、上海派遣軍参謀部を訪れ、南京入城(政略)を統制する方法たついて、「注意事項」徹底を図りに来るが、「平時的気分濃厚なるため軍司令官殿下のお気に入らず」とある。朝香宮は、方面軍の統制に従い、各師団をこれを遵守させる意志はない(「飯沼守日記」)。
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12月9日
・安全区国際委員会委員会(ラーベ委員長)、3日間休戦を日本軍に承知させ中国軍を撤退させる案をを唐将軍に提案。唐は賛成だが、蒋説得が必要と回答。ラーベは、蒋説得をアチソンに依頼、アチソンから漢口のジョンソン大使に繋がり蒋とコンタクトするが、10日、蒋から拒絶の回答。
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12月9日
・「南京自滅の劫火に包まる、我後続部隊続々集結、勇気凛然、入城を待機」(「東京日日」夕刊)。
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12月10日
南京総攻撃~市内掃蕩へ
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to be continued

2008年11月22日土曜日

1871年3月21日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・


■日米和親条約調印の地の石碑(於、開港資料館前の開港広場。撮影は本日08/11/22)
 1853(嘉永6)年7月、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が来航。翌年2月、ペリーは再来航、開国交渉が久良岐郡横浜村字駒形(現県庁付近一帯)で行われ、3月31日、日米和親条約12ヶ条調印。
■背景の噴水の後にあるのが、日本最初のプロテスタント教会の横浜海岸教会。
■山下公園、県庁近くの日本大通り、この開港広場、その近辺にスケッチブックを持つ人たちがたくさんいました。

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■昨日のエントリの「博徒大刈込み」の項は、長谷川昇「博徒と自由民権---名古屋事件始末記」(平凡社ライブラリ)に100%依拠しました。このアングルで自由民権を見る目は鋭い。平凡社ライブラリには、良知力「青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年」という、面白い本もありました。河野健三さんなんか、腰ぬかしたんじゃないかな。また、大学者古島敏男さんの本も出てました。ご子息は会社の先輩でした。
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■1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ 「未完の黙翁年表」より
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3月21日
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・仏、パリ、プラース・ド・ラ・ブルスにおける「秩序の友」派の反革命デモ、国民軍部隊により解散。
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・国民軍中央委員会、区長を参加させずコミューン選挙を実施する、選挙日を23日に延期するとの声明。コミューンの選挙手続きと議員数の決定。市内の大部分のバリケード撤去の指令。
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・中央委員会、布告。
①公設質屋へ抵当に入れた物品の売却を停止し、
②手形の支払期限を1ヶ月延長し、
③新しい命令あるまで家主がその借家人を追い出すことを禁止。
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 「三行(の布告)で、委員会は正義を行ない、ヴェルサイユを打ち、パリを手に入れた。」(リサガレー)
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・旧警視庁の機能を暫定的に担当するデュヴァルの布告、掲示。中央委員会の自覚の高まり。
□「パリは三月十八日以来、人民の政府以外いかなる政府をも有しない、そしてそれこそ最良の政府である。いかなる革命といえども、今日われわれがおかれているがごとき条件のもとで遂行されたものはない。パリは自由市となった。その強力な中央集権はもはや存在しない。
 ・・・パリは左のことを要求する、
(一)パリ市長の選挙、
(二)パリ市二十区の区長・助役および区会議員の選挙、
(三)国民衛兵のすべての責任者の選挙、
(四)パリはフランスから分離する意志を少しももっていない、否、パリはフランスのためにこそ、帝政、国民防衛政府、すべての裏切り、すべての卑劣にたいして抵抗をつづけてきた。それは、ただフランスの姉娘としてフランスに次のことを告げたいためであった、フランスよ、私が頑張り通したように、君も頑張ってくれ、私が闘ってきたように、君も闘ってくれ、と。」
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○[コミューン群像:エミール・ヴィクトル・デュヴァル]
鋳鉄工、パリの鋳鉄工組合で鋳鉄業の10時間労働闘争を指導。1867年6月インタナショナル加盟。同時にプランキとも連絡をもち、労働者の秘密戦闘組織指導部に入り、68~69年、第2帝政反対の武装蜂起を準備。70年春、鋳鉄工大ストライキに際しこの組合をインタナショナルに加盟させる。
70年9月4日革命時は、獄中にありる(インタナショナルに対する第3次裁判で禁錮刑)。20区中央共和委員会に入り、国民軍第101大隊長に任命され、3月18日革命に参加。国民軍中央委員として重要な役割を演じ、警視庁占領に参加。将軍に任命され、警視庁軍事指揮官となり、その後パリの3人の軍司令官の1人となる。早急なヴェルサイユ攻撃を主張。3月26日、パリ・コミューン議員(第13区)に選ばれる。コミューン軍事委員部及び執行委員会委員。4月3日、コミューン戦士の1縦隊の先頭にたってヴェルサイユに出撃。4日、捕虜となり、裁判抜きで銃殺。
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・パリ20区の(中央委員会の)代来者会議、国民軍中央委員会を支持し、コミューン選挙に候補者をたてる決議。
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・「官報」に、国民軍中央委員会の代表委員のの綱領的な論文「三月一八日の革命」を発表。3月18日の革命のプロレタリア的性格が強調され、プロレタリアートが権力掌握する必要がある事が根拠つけられる。
□「首都のプロレタリアは、支配している諸階級のごまかしや裏切りをみて、公共の仕事の管理を自分たちの手ににきり、事態を救わねばならない時がきたことを理解したのである・・・プロレタリアートは、自分たちの権利がたえず脅威にさらされており、自分たちの、当然である願望が、完全に否定されているのをみて、祖国が壊滅し、自分たちのすべての希望がやぶれたことを知り、至上の義務と無条件の権利とが、自分たちの運命を自分たちの手ににぎり、権力をもって勝利を保証することを要求しているのだということを理解したのである」
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・午後2時、ヴィノワによって発禁にされていた「人民の叫び」8万部が発売再開、成功。
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・パリの反中央委員会勢力の状況。
 代議士および区長たち、コミューン選挙をボイコットするようパリ住民へアピール。パリのブルジョア新聞編集者たち、選挙実施反対の声明。
 ヴェルサイユの激越な態度は、パリに残る反動勢力を鼓舞し、「フィガロ」紙などパリで発行を継続するヴェルサイユ派の諸新聞は、中央委員会に対する中傷誹誘を始める。中央委員会は言論自由の立場からこれらには干渉を加えず。21日、新聞編集者35名の共同声明発表、公然と選挙ボイコットを煽動。また同日、「秩序の友」と称する反動分子100余が市内を行進し、国民議会万歳!中央委員会を倒せ!と叫ぶ。
*
・ドイツ第3軍司令官、「現在のパリの司令官」に対し、パリ地区のドイツ軍は、事態が暫定平和条約の諸条件遵守に影響をおよぽさない限り、ドイツ軍の安全を脅かさない限り、「平和的な、まったく受動的な立場を」守るであろうと電報。
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・ヴェルサイユ。ヴェルサイユ軍、モン・ヴァレリアン堡(パリ郊外)再奪取。
 国民議会、人民・軍隊に支持を呼び掛けるアピール。ティエール、政府と議会は「情勢をにきった」蜂起者と妥協したパリの政府代表者を裏切者として追求すると威嚇した各県知事への回状。ファーヴル、ヴェルサイユ政府はパリでの権力を復活させ、講和条約の義務を守る意向であるとドイツ占領軍当局へ手紙。
 国民議会でのジュール・ファーヴルの演説。
 「パリは、国民議会の権利にたいして、血で汚れた強盗の理想をおしっけようとする一群の無頼漢の手中にある。・・・かれらはパリをフランスから切断しようとしている。しかし無頼漢どもよ、忘れるな、われわれがパリを去ったのは、やがて再びそこに帰って、お前たちと決戦を行なわんためであることを。もしわれわれの中の誰かが、ただ暴力と殺人と掠奪をもって権力を奪取したこれらの徒輩の手に陥るならば、彼は、不幸な将軍たちと同じ運命を分かつことを覚悟しなければならぬ。・・・断じて弱気を見せてはならぬ、断じて憐憫の気持をおこしてはならぬ。フランスは、首府を血にまみれさせようとしているこれらの無頼漢の支配には陥らぬであろう。」。
*
・ロンドンインタナショナル総評議会、パリの情勢を討議。
 パリの連合評議会からの情報に基づき、エンゲルスは、フランスの首都の事件について報告。評議会はマルクス提案に基づき、ロンドンの労働者地区に代表団を送り、集会で、蜂起したパリ市民に共感を表明するよう呼びかけることを決定。
 モンマルトルの諸事件を討議。エンゲルスは、運動の人民的性格を指摘、中央委員会には、「有名な」人物は1人もいないとのブルジョア新聞報道を解説し、中央委員会はパリの人民大衆を代表する民主的な機関であると定義し、また、ドイツの占領軍を「闘争からはなしておくことができる」限り、「成功のみこみは大きくなる」と強調し。
*
・ベルリン。ビスマルク、フランスの捕虜の送還停止を指令。ドイツの反動新開、パリの事態について中傷的論文と、ティエールの反乱鎮圧を援助せよとの呼びかけ発表。
*
・ミラノ。民主的な機関紙「ガゼッティーノ・ローザ」、パリの事件を解説し、パリで「偉大な諸原則が宣言されている」、「フランスはヨーロッパの進歩の道をてらす燈台となるであろう」と述べる。
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to be continued

2008年11月21日金曜日

明治17(1884)年1月、2月 秩父(2)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 村上泰治、田代栄助の自由党入党を拒否


 有名な坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された場所(石碑には「遭難地」とあります)。
 学生の頃からこの前をよく通っていましたが、有名な割には、これをしげしげ眺める人を見たことがなく、写真撮るのも気恥かしい限りでした。兎に角、京都市中京区河原町通蛸薬師下ル西側という、京都でもチョウ繁華街ですので、人が写らないようにするのがひと苦労です。
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 坂本龍馬といえば、平尾道雄「坂本龍馬海援隊始末記」「中岡慎太郎陸援隊始末記」(共に中公文庫)という、私が年表オタクになる第2のトリガとなった本があります。これはいい本でした。これを読んだ頃(もう就職してましたが)は、中公文庫ばかり読んでた記憶があります。
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 暗殺される場所は近江屋と云うそうです。2人は、風邪気味なので「とり鍋」でもといって、手代に鳥を買いに走らせます。
暫くして、階下で騒音がして、どちらかが(龍馬としておきましょう)、「ほたえな!」と言ったそうです。これは、関東に人にはわからない言葉だと思います。「ほたえる」=「騒ぐ」で、「ほたえるな!」がなまって「ほたえな!」となります。何も調べずに今の記憶のまま書いてますので、これは、すべて司馬遼太郎「竜馬がゆく」の受け売りだと思います。ということは、この「ほたえな!」も、司馬さんの創作なんでしょうね。

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 だいぶ前になりますが、かなり黄ばんだ「竜馬がゆく」を息子の本棚で見つけました。若い頃読んだ小説類は、スペースの関係もあるので処分しましたが、文庫本では司馬さんのもの、五木寛之「青春の門」、ヘミングウェイのものは、ひょっとして次の代でも読むかと残しておいたものです。例えば、松本清張のある時期までの文庫本は、どの文庫のものでも全て揃えてたのを処分しました。おっと失礼、「昭和史発掘」はキープしてました。
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 先日、家を出た息子から、ヘミングウェイ「移動祝祭日」はまだ家にあるかと問い合わせてきました。幸運にもカバーがない状態ですが、家に居る方の息子の本棚にありました。これ、岩波同時代ライブラリというシリーズで出たものです。この本は、「パリは移動祝祭日」で始まる回想記です。1920年代のパリ、第一次大戦後のパリで、ロスト・ジェネレーションと呼ばれる若い文学者たちとの交友を描いたものです。1960年に完成、翌1961年、著者はライフル自殺。
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 これ、税込968円だったのが、中古市場で最低が4,786円なんです。出来のいいのはもっと高そうです。ちなみに、私めの所有するものはと言えば、只今いったようにカバーなし、しかも訳者解説部分には私がご丁寧に赤のボールペンでラインを引いている状態で、多分市場に出せるシロモノではないでしょう。
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 なんで私が「移動祝祭日」なるものを読もうと思ったかというと、同じくヘミングウェイのロス・ジェネ世代を扱ったフィクションで「日はまた昇る」がありますが、よくぞここまで「ハシゴ」できるなと思えるくらい遊びまわるその陰影深い無頼さに惹かれたからだと思います。映画化された時のエヴァ・ガードナーの濡れるまなざしが凄かった記憶が残っています。
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■明治17(1884)年秩父(2)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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明治17(1884)年
 「明治十四年の政変」後、大隈重信のあと大蔵卿に就任した松方正義は、紙幣整理のため、増税・緊縮財政を強行するデフレ政策をとり、15年後半から効果が現われ、米価をはじめ諸物価は急落、農民は激しい不況に見舞われる。
 神奈川県をはじめ関東・中部諸県は、幕末開港以降養蚕を通じて商品経済に組み込まれ、養蚕や生系の生産・営業活動が地域経済と民衆生活を規定し、繭価や生糸価の急落がそのまま地域全体の経済的・社会的状態に直結。明治14(1881)年と17(1884)年の物価、職人・人力車夫の手間賃は、30~50%の落ち込みとなる。
 中小農民は急速に没落、耕地を抵当に高利貸に頼り、借金が返せないで土地を抵当流れにする者が続出。土地は高利貸・大地主に集中。自由民権運動も、士族・豪農層に限られていたものが、没落中小農民層に移り、過激化の方向をとる。
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 一方で、鹿鳴館に仮装舞踏会盛行。女性の洋装盛んとなる。
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1月
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-・大政官布告「賭博犯処分規則」。 戦闘的博徒集団が反体制派に武器その他支援するのを予防。
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「明治十七年の大刈込」始る
 2~3月、全国的検挙(「博徒大刈込」)。2月25日、侠客山本長五郎(清水次郎長)、江尻警察署に逮捕。4月7日賭博の罪で懲役7年判決。愛知県でも、武器を持ち、戦闘経験のある、強固な団結を持つ一家が狙い撃ちされ壊滅。検挙を逃れた者達は、他県に逃亡・潜伏し、各地で続く蜂起の主体である借金党・困民党など反体制運動に関連してゆく。
 
□「賭博犯処分規則」。
①賭博犯処罰の手続き:従来は刑法い従い、裁判を経て刑が決まるが、「当分ノ内、行政警察ノ処分」に任せるとされ、東京では警視庁、地方では各府県警察署の権限で「規則」によって処罰することを許す。
②「処分規則」内容:従来の賭博の現行犯の他に、「博徒ニシテ党類ヲ招結」した者、その「招結スルニ応ジ」たる者、「凶器ヲ携帯シ又ハ四隣ニ横行」する者を、1年以上10年以下の懲罰及び50円以上500円以下の過料に処す。更に「賭場ニ現存スル財物ハ何人ノ所有ヲ間ハズ之ヲ没収」との条項も加えられる。
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□「明治十六、七年頃警察当局ハ彼等ニ対シ一大掃蘯ヲ試ミ各家ノ主要親分乾児ヲ逮捕処罰スルコト頗ル厳烈ニシテ至ル処彼等渡世人ヲ畏怖戦慄セシメ今日猶ホ<明治十六、七年ノ警察犬刈込>ト称シ彼等間知ルト知ラザルトヲ問ハズ有名ナル話柄卜為り居レリ、然レバ其当時相当ナル親分又ハ乾児ハ或ハ輔へラレ或ハ遠ク他府県ニ遁逃シ殆ド一時其跡ヲ絶チタルカノ観アリシト云フ」(「博徒二関スル調査書」)。
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○清水の次郎長の場合。
 治郎長は既に足を洗っており、江尻警察署の呼び出しは、博徒狩により次郎長の許へ逃げて来た者があり、その事だろうと思って出頭。しかし、そのまま留置され、即時家宅捜索、刀槍銃器を押収され、間もなく静岡井之宮監獄に回され、懲役7年、過料400円を科せられる。この時井之宮監獄に次郎長と共に回されたのは、安東文吉身内の大水道の菩之助、中泉の堀越の藤左衛門、堀之内の横須賀の清蔵、三島の玉川屋その他で、次郎長は大親分なので刑も一番重い。
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○三河、尾張の場合。
 三河では、幕末期に黒駒の勝蔵派〈平井一家)と清水次郎長派(吉良一家、形の原一家)に分かれ血なまぐさい闘争を繰り返した3つの博徒集団が対象。
尾張では、維新以来血なまぐさい縄張り争いを重ねて来た北熊一家と瀬戸一家の双方、北熊の前哨線の岡島一家、北熊の費場所を狙う山崎一家の4集団が対象。
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 三河の平井一家、尾張の北熊一家は、戊辰戦争の際に藩から草莽隊結成を呼びかけられており、この時は自らの軍事力補充、犠牲肩代りの為に戦闘的博徒集団を利用。
明治政権は、激化しつつある農民騒擾や民権運動に、戦闘的博徒集団が入り込み反体制運動にへの武力提供を未然防止するためこれの解体を狙う。
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-・自由党幹部、河野広躰ら福島・栃木急進グループを建物外へ追放。
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-・文部省、小学校の作文に注意する旨の諭告。少年に人気の投稿雑誌「頴才(エイサイ)新誌」に政論が掲載されるのを嫌う。
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-・「泰西活劇春窓綺話」(スコット、服部撫松名義−坪内逍遙、高田半峰ら訳・坂上半七発行)
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-・高野房太郎ら、横浜講学会を結成。横浜在住青少年の勉強会。図書共同購入、天野為之・高田早苗らの講演会を主催
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-・ウィーン、警察官や両替商の殺害続く
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-・ゴッホ、足を骨折した母を熱心に看病。夏、隣家に住むマーゴット・ベーヘマン(39)との恋愛関係は双方の両親の反対に会う。彼女は悲観して服毒自殺を図る。
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1月4日
・官吏恩給令改定。恩給制度が始る。
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1月4日
・英、フランク・ボドモアら「新生活団」所属の知識人、社会改革組織フェビアン協会設立。
 ローマの将軍で待機主義者のフェビウスに因んで名付ける。結成直後、ショー、S.ウェッブが参加、革命によらず漸進的な浸透により社会主義を実現するフェビアン社会主義の立場を明確化。1887年6月3日「フェビアン協会の原理」を採択、土地私有制廃止、産業資本管理の社会への移転、それによる機会均等と個人の自由の拡大等を主張。1900年労働代表委員会が結成されるとその構成組織となる。
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1月6日
・オーストリア、生物学者メンデル(61)、没
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1月11日
・小室信介「佐渡善兵衛氏の伝記」(「自由新聞」)全8回。
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1月14日
秩父の状況
 小鹿野の高利貸しの家に「生首ヲ取其上焼払」など張り紙。
不穏を鎮めるため政府は貯米1千俵を小鹿野に準備(「木公堂日記」)。2月5日、大宮郷で高利貸しが斬られて重傷。14日夜、上日野沢村大前部落で日分貸しが斬殺。また、博徒は賭場以外でも捕縛される。(「木公堂日記」2月16日)。
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□「一月二十四日 ・・・十日斗(ばか)り前ヨリ小鹿野工火札毎夜高利貸張ルル、中ニモ常盤屋ハ生首ヲ取其上焼払外三四名同断ノ咄有、小鹿野工天朝ニテ貯米千俵積ム。」。
「一月二十五日 ・・・大宮役所下身代限七百戸余咄。」。
「一月二十六日 ・・・坂戸宗八ハ家出シテ不知。」。
「二月十六日 ・・・有説ニ本年四月一日ヨリ自由党国会ヲ開カントテ願ヒノ最中ノ咄有。五日前大宮ニテ高利貸切ラレ手負シ咄。又日ノ沢ニテ十四日ノ夜日分貸大前ノ者切殺サレシ咄ナリ。日分貸取上ナシ。罪ニ相夕者代言封ル。又博奕モ揚場ニ限ラズ捕縛サレル。罰金モ懲役重クナリシ咄、罰金十円ヨリ少カラズ二百円ヨリ多カラズ。」
「二月二十日 赤芝ノ者、タゴ坂(団子坂)ニテ縊死ス、此前モ縊死有夕所」
「三月三日 伊豆沢ニ縊死有」(「木公堂日記」)。
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1月22日
・中島信行、石阪昌孝へ書簡。公歴の進学相談を受けた中島の返答。
「公歴生将来之事を考フルニ、日本ニ於而者東京大学校之右ニ出ル学校無之ハ万人之認知スル処ニ候、…」。公歴、2月に東京大学予備門への進学を目指して、出京。
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1月26日
・井上哲次郎ら、哲学会を結成
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1月26日
・植木枝盛「日本ハ宜シク自由主義ヲ行フベキ国柄タルヲ論ズ」(「自由新聞」~3月20日)。政府のドイツ型国家像(ドイツ型憲法草案作成準備)に対抗。
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1月27日
・馬場辰猪(33)、横浜・羽衣座での国友会政談討論演説会で演説。2月24日にも同所で不景気問題について演説。3月23日、住吉町湊座で「参政の権」を演説、中止解散となる。
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2月
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-・大井憲太郎、秩父訪問、講演会。自由党員増える。
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・この頃、侠客田代栄助(50)、自由党入党意思で下日野沢村重木の秩父自由党幹事役村上泰治(17)を訪問。拒絶される。
泰治の驕慢な態度に田代は深く傷つき、春~夏、秩父自由党から遠ざかる。
明治16年末、秩父の自由党員は16名で村上泰治が幹事役。これらは「旦那自由党員」で全て11月の蜂起には参加せず。
秩父一円に名の知れた老侠客田代栄助をして自由党入党を思いたたしめる社会的状況にある。
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 若い泰治は、栄助を警察のスパイと思い込み、適当にあしらって追い返そうとする。
栄助が自由党の主義は何かと訊ねると、「自由党には別に主義があるわけではない」と答える(「学もないお前ごときに自由党の主義がわかるはずはない」)。
栄助は下手に構え、「ともかく加盟したいからよろしくれのむ」と言うと、泰治は紙に「加盟ノ証如件」という言葉で結ぶ「自由党申込書」を書いて渡し、栄助はこれに署名捺印。
 栄助が更に、「自由党だけでなく、およそ結合をなしたものには主義がないはずはない。趣意書でもあったらお見せねがいたい」と詰め寄ると、泰治は漢詩2つを2回ずつ吟じる。「一タビ奸者ヲ斬り公党ヲ清メバ又是レ濶ノ辺り釣魚ノ人 丈夫ナンスレゾ妻子ヲ願ミン、奔走多年此身ヲ労ス」。栄助はのちまでこれを記憶している。
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 「その時、汝は暁(さと)りたるや」との取調べ官に、田代は、「・・・何ぞ暁るをえん。嘲弄も甚だしと思惟したるより泰治にむかい、人を愚弄するまた甚だし。老年の自分に対し大声詩吟するは何らの意なるか。この馬鹿者に言を交ゆるは無用なりと、憤然与市ともども座を立って、同夜は与市方に一泊せり。」と答える。
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 群馬自由党領袖宮部襄から「党中随一の麒麟児」(「自由党史」)と賞賛される村上泰治は17歳。
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地元日野沢の古老によれば、村上が党中央の信任を得ていたのは、主に彼の資金力にあったという。日野沢村重木の旧家に生まれた村上は、その家産の相当額を党活動に注ぎ、かつ秩父一円の豪農から強引な形で資金拠出を迫ったと云われる。
 両神と荒川を結ぶ「てごまる峠」の古池という部落に白壁の通り門と塀に囲まれた豪壮な蔵屋敷をもつ「古池大尽」と呼ばれる豪家がある。蜂起の際、宮川寅五郎隊はここを避け、間道を通って贄川に抜ける。その理由は、泰治が古池大尽から巨額の金を強奪に近い形で拠出させていたからと云われている。
「木公堂日記」に「四月二十八日 ・・・昨夜古池大仁エ追込八人這入り金千円余、古金迄取ラルル」とある。4月17日、密偵照山を殺害し地下に潜行した泰治一味(それに宮川寅五郎が加わり)の犯行と推測が成り立つ。
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 困民党組織者の殆どは、明治17年3月以降の自由党入党者。3月23日、高岸善吉・坂本宗作・落合寅市のトリオ、小柏常次郎が入党。5月18日、井上伝蔵ら入党。その間の4月17日、泰治はスパイ照山を殺害し地下に潜行、6月30日逮捕。
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もし泰治が獄外にいたなら蜂起に参加したか?
□泰治と同じ村の自由党員加藤団歳の証言。
「問 村上泰治捕縛前ナレバ、今般之暴徒二加ハリタルモノト惟フヤ如何 
答 決シテ今般之暴徒ニハ加ハラズ 問 何故斯ク断言セシヤ 
答 如斯領袖之事ニハ加ハラズ (栄助が総理になるような運動には参加しない
問 然ラバ汝ハ泰治ノ諭旨ヲ承知シタルモノト思料ス、有体ニ申立ヨ 
答 十六年三月中自由党ニ加盟シ、其後泰治ノ言フニ、全国中自由党員ヲ募り、大勢ヲ以テ地租減税セラレンコトヲ政府ニ強願スルノ見込ナリ 
 (泰治の運動は、困民党のような高利貸征伐という低次元のものではない。・・・)
問 如何程減額之見込ナルヤ 
答 百分ノ二減額スル見込ナリト泰治ハ言フ 
問 政府ニ強願スルハ減額ノコトノミカ将タ数条アルヤ 
答 強願ノ事ハ承知セリ、他ハ承知セズ 
問 強願ハ幾年頃卜言ヒタルヤ 
答 明治二十三年国会開設之前ニ事ヲ挙ゲザレバ、事成就セザルノミナラズ、此間ニ堪へ兼ルト言ヒタリ 
問 全国党員等卜協議中卜思フカ 
答 協議中トハ相考へタリ」(暴徒一件書類警視部「加藤団蔵訊問調書」)
* 
 泰治は、「他人ヲ誘導センガ為メ先ヅ己レガ小作人及ビ自家ノ負債者ヲ招集シ、或ハ金利ヲ減ジ、或ハ期限ヲ緩メ、或ハ小作金ヲ軽クス、而後誘説セシニ突嗟ノ間ニ加党スルモノ多シ」(「秩父暴動始末記覚書」)と云う。
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この頃の小柏常次郎のオルグ活動。
 常次郎のオルグによって同じ日野村から秩父に押し出した農民山田勇次郎の供述。
「・・・小柏常次郎、恩田宇一(甘楽郡国峰村)ガ帳面ヲ持廻り字田本辺ニチハ帳面ニ記入シタルモノ在ル由、尤モ是ハ当年二月頃ノ事ナリ。」。
帳面に署名するとは、一体どんなことをしようとしたのか、と問われ「自由党へ加盟スルト云フ事ヲ記シアル由、私耕地小柏ニテハ二十名計り加入スル事ニナリ」。
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-・伊豆地方に借金党騒擾。~3月。一部は示威により銀行より元利減額勝取る。
* 
-・河野広躰・鯉沼九八郎ら加波山グループ、東京芝の三島通庸邸を襲撃しようとして果たさず、自由党本部寧静館を根城として暗殺の機会を窺うが、内藤魯一・星亨ら党幹部に退去を要求される。警官導入の気配もあり、河野らは「もはや頼むに足らず」と訣別。
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-・品川ガラス製造所を稲葉正邦らに貸与
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-・大山巌、欧州視察旅行発。捨松、伊藤博文より華族女学校設立準備委員依頼される。
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-・井上哲次郎(28)、官費留学生でドイツに向かう。23年6月に帰国。
* 
-・高知県内に減租請願の声。
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-・石坂公歴、出京。中原貞七の開く成立学舎に入学。東大入学準備。
* 
-・子規(18)、随筆「筆まかせ」起筆(明治25年まで)。
: 
-・パリの地理学協会、ランボーの「オガディン地方報告書」を評価。会報に掲載。
*
2月2日
・黒田清輝(17)、法学勉学のためフランスに向けて横浜を出発(滞仏中画学に転向する。9年後に帰国)
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2月10日
・「自由新聞」斯文一班欄、土佐勤王党の領袖武市瑞山の漢詩アンソロジーとして古沢編「貫誠録」掲載。
*
2月13日
・「虚無党員怒つて憲兵都督を殺す」(「自由新聞」)全4回。
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2月15日
・(露暦2/3)チャイコフスキー、オペラ「マゼッパ」初演。モスクワ。
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2月17日
・八王子広徳館・南多摩郡自由党員、西多摩郡の青梅町で第2回自由政談演舌会を開催。
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2月22日
・三浦環、静岡県に誕生。
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2月24日
・第一国立銀行、朝鮮政府と朝鮮開港場のおける開港場海関税取扱の約定に調印
*
to be continued  

2008年11月19日水曜日

明治17(1884)年秩父(1)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 秩父困民党の高利貸説諭の請願


(現在の)本能寺(撮影2008/01/02)
この向いにおいしい「きんつば」屋さんがあります。正確には、和菓子屋さんですが、「きんつば」がおいしかったです。
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■大岡昇平さんの執念
 昨日のエントリの修正です。大岡さんは、一枚のはがきで自分を死地に追いやった一人の男よりは先に死にたくない、とどこかでおっしゃった。多分、「成城だより」ではないかと思うが自信ない。それから、残念ながら、大岡さんはその男より「数か月先に」亡くなったと書いてしまった。
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 今日改めて調べたら(こんなこと位は、ほんの数分で分かることなので、本来は昨日書く前にやるべきだったと反省)、・・・
 大岡昇平 1909(明治42)年3月6日~1988(昭和63)年12月25日
 ある男   1901(明治34)年4月29日~1989(昭和64)年1月7日
ということであった。周辺の医師団の数や施した技術の差を勘案すば、多分大岡さんはご立派にその執念を果たされたと思う。
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 実は、この「ゲケツ」報道の最中に、私はその後5年強にわたる海外駐在の準備をしてまして、多少言い訳がましくなりますが、やや世情に疎かったかもしれない。大岡さんの亡くなられた報道に対しても、それ程の感受性をもって受け止めなかったのではないか。1月中旬片道切符だったかな。
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■明治17(1884)年秩父(1)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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 秩父の蜂起はこの年11月。風布村の在地オルグ大野苗吉の有名な言葉。風布村から参加した人民の結束力は固く、信州転戦の最後まで戦い抜きます。
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 松方デフレは、特に中小農を直撃。彼らは、なけなしの土地を失い、更に莫大な借金を抱え、身代限りとなる者も多い。この年、大きく4つの流れに注目したい。
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①自由党:3月の大会で大井憲太郎らの左派が主流を占めるが、秋には解党するハメに。
②群馬事件。自由党系の激化事件。5月に崩壊。
③秩父事件。前年より地道な活動を展開し、11月に蜂起。壊滅。
④武相困民党。群馬事件・秩父事件に学び、自由党・困民党との接触も萌芽もみながら、11月、各地の小困民党を武相困民党までに統一。翌年、結果を待ちきれない人民が暴発し壊滅。
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 差し迫ったパンの問題解決と指導層・指導理念の不足。蜂起技術の未熟。
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本題の前年から始めよう。
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明治16(1883)年12月
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高岸善吉落合寅市坂本宗作ら秩父困民党リーダ、大宮郷郡役所に高利貸説諭の請願行動。翌17年3、4月にも繰返す。
請願書には戸長の奥印が必要であり、この奥印は得られず、郡役所・戸長は、貸借には法規があり監督庁が介入すべきでないと常に却下。
松方デフレにより農村窮乏化深刻。秩父郡下には700戸が身代限となる。
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「秩父地方ニ於テ細民ノ貧困ニ陥ルハ、債主ノ為メニ不当ノ高利ヲ収取セラルゝニ職由スルモノト臆測シ、倶二其貧困ヲ救ハント欲シ、明治十六年十二月下旬、秩父郡役所へ高利貸営業ノ者ニ負債据置、年賦償却説諭ノ儀ヲ出願」(秩父暴動始末6「坂本宗作裁判言渡書」)。
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「秩父暴徒ハ貧困者ノ困難ニ始リ、外援者卜倶ニ暴動ニ終ル者也、
抑(ソモソ)モ明治十五、六年ノ交(コロ)、銀行ノ設立未ダ普(アマ)ネカラズ、貸金業者跋扈セシ時代ニシテ、無法ノ高利ヲ掠収セルヲ以テ、彼等ニ債ヲ負ヒタル貧民ハ、年々一層ノ困難ニ陥リ、到ル処倒産スル者少カラズ、
而己(ノミ)ナラズ甚ダシキニ至リテハ、債鬼ノ強迫ヲ惧レ、内ニ老幼ヲ舎(オ)キツ、外ニ隠レテ其居所ヲ晦(クラ)マス者少カラズ、
茲ニ於テカ上吉田ノ高岸善吉、下吉田ノ坂本宗作、落合寅市ハ、其惨状ヲ見聞スルニ忍ビザルト同時ニ、高利賃等ガ貸付方法ノ甚ダ残酷ナルヲ憂ヒ、熟議ノ結果、神奈川県下青梅附近ノ実例二倣ヒ、返債方法ヲ年賦据置ニナサシメント欲シ、茲ニ初メテ運動ニ着手シタルハ実ニ明治十六年十二月ナリ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」、読み易くする為、改行を施す)。
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請願は、秩父郡長伊藤栄に受理されず。
伊藤郡長は、聯合戸長(町村長)4人と協議。
「貸借ハ規定アリ、監督官庁ノ干渉スベキモノニアラズ、若シ干渉セシカ啻(タダ)ニ職権ヲ誤ル而己ナラズシテ、財界上ノ浮沈ニ影響シタランニハ其害大ナラン、少時成行ヲ見ルノ外ナキノミ」の意見に「衆皆同感ヲ表シ」、一般農民に対して「彼等ニ接近スベカラザルコト」を指導すると決める(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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戸長の奥書拒否。
明治15年12月、政府は「請願規則」を制定し、「請願書ハ請願人自ラ署名捺印シ、族籍・住所ヲ記シ、戸長ニ請願スル者ヲ除クノ外、住所戸長ノ奥印ヲ受クベシ」と規定。
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秩父郡日尾村の日尾盟社(製糸会社)社長で、日尾村聯合戸長役場筆生の関口俊平の供述。
「本年(明治17年)四月頃、秩父郡上吉田村ノ高岸善吉、下吉田村落合寅市、同村寄留坂本宗作ノ三名ガ、最寄貧民等ノ総代トシテ、秩父郡役所へ出頭シ、高利貸ヲ渡世スル者ノ姓名ヲ記シ、高利貸ヲ制止スルコトヲ願立テタルモ却下セラレ、其砌(ミギリ)各村戸長役場へ奥印致シ候様右三名ヨリ申込ミタルモ皆応ズル者ナク」(明治十七年秩父暴徒犯罪に関スル書類編冊7「関口俊平訊問調書」)。
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・茨城県下館地方~群馬県甘楽地方~埼玉県秩父地方。
「関東決死隊」と称する急進的自由党員500余の間に、反政府活動計画が生じ始める。
□大井憲太郎、宮部襄、杉田定一らの関東遊説が契機。明治16年12月~17年5月、群馬県では多くの農民運動。
北甘楽・東西群馬郡農民は負債据置・年賦返済と減租を求めて集会。
前橋の西南部・南勢多郡約10ヶ村農民は数百名の集合に成功するが、1週間さみだれデモに終る。
自由党活動家は・・・。
県自由党幹部湯浅理兵は戸長職を利用して税金持逃げ、農民指導者神宮茂十郎の殺傷事件、湯浅理兵・小林安兵衛は資金調達のための強盗事件。明治17年5月、群馬事件失敗。
*
・上州(群馬県)の農民騒擾。
*
西上州では、この月(12月)までに約30ヶ所、数十回の負債農民の集会・請願・張り札が繰り返され、次第に大規模・組織的騒動の様相を呈す。
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「十一月廿日京目村百壱名人民惣代」名儀の「願意ノ趣左ノ如シ」で要求内容をみると、
①地租2.5/100を1/100にして欲しい(政府は公約を守れ)、
②高利貸の利息を法律どおり規制し、現在の元利を7年々賦にして欲しい、
③貸金取り立てに当って検査料・手数料名目の不当な加算を止めさせて欲しい、
④もぐり代言人に法律上の勝手な手続きをさせないで欲しい、という控え目な統一要求。
12月4日午後11時、江木村六ヶ所河原に16ヶ村1,200~1,300名が集まる。郡長の「総代を記名せよ」との言に対し、5~6ヶ村はこれを無視して帰る。そして翌早朝再び竹ボラがなり、同じ場所で会合が始まる・・・、という調子で年を越す。
*
県令楫取(カトリ)素彦の山県内務卿宛の報告。
「本年ハ繭糸米穀等頗ル低価、加之金融梗塞ニ際シ(負債)返弁ノ術策無之困迫ノ折カラ一、二教唆者有之右小民共ヲ嘯集シ陽ニ暴威ヲ為シ」、説諭すると、「忽チ解散シ昼間ハ耕職ニ従事シ夜陰ニ乗ジ又々集会」(11月19日)。
「民心動揺之景況上申 管下西群馬郡京目村外廿七ケ村ノ人民、目下米価下落金融梗塞之折柄、第三期地税延納之儀出願之処、納税之儀ハ素ヨリ、一定ノ成規モ有之採用スへキ筋ニ無之侯間、難聞屈キ旨指令ニ及ヒ侯処、尚続々出願之模様モ相見へ、兎角民心不穏之景況有之ニ付、此上或ハ集合強願ヲナスノ場合ニ可至モ難計--為念此段内申致置候也。 明治十六年十二月十七日 群馬県令楫取索彦 内務卿山県有朋殿」
*
上日野村では地租改正の結果、山林地租が改正前の151倍になると示されて、小柏八郎治他12名と渡辺政信ら6名は連合適合して、「地租減額」「未納地税ヲ四十ケ年賦」を要求、近隣の下日野、高山、三波川、秋畑などの村々に運動を広げる。16年12月、上下日野村では「伺ノ趣以特別聞届候事」という成果を得るが、三波川筋は運動の立遅れもあって却下される。
*
・西園寺公望(34)、参事院議官に任じられる。奏任官の上のポストで、給与も月俸(4等官)から年俸(3等官)となり、ようやく高級官僚の仲間入り。官吏として直後に任じられていた程度の地位を得る。
*
・馬場辰猪(33)、川崎砂子町1722番地に明治義塾詞訟鑑定所分局を開く。
*
・女子親睦会中心に私塾「蒸紅学舎」設立。場所は景山英子の家。午後3時~6、6~9時の2部制。男は6~10歳、女は6~60歳。月謝6銭。
*
・樋口一葉、青海学校小学高等科第4級を首席で卒業、母の反対で進学が出来ず。同月、泉太郎(19)、家督を相続(戸主は兵役免除という恩典を受ける為ではないかとの説)。翌明治17年1月~3月、父の知人和田茂雄に和歌の指導を受ける。
* 
12月1日
・ゴッホ、ヌエーネンの両親の家へ帰る。以降2年のヌエーネン時代は、画家として独自の道を探り始める時期、油彩画が多くなる。主題は、農民、 職工、そしてヌエーネン近郊の風景。
* 
12月2日
・ブラームス「交響曲第3番」初演、ウィーン、リヒター指揮
*
12月4日
・植木枝盛、「慷慨義烈 報国纂録」の版権願提出。幕末尊攘派浪士の書簡・日誌の編集。前月29日獄死の福島事件被告田母野秀顕への追悼。志士型活動家への共感。
* 
12月6日
・ゴーギャン(35)、4男ポール・ロラン(ポーラ)誕生。一家でルーアンに移る。(翌年11月迄)
*
12月9日
・大島渚ら、第1回強盗事件(東春日井郡稲葉村豪農松原市右衛門宅)。2年に亘り51回。24日、第2回強盗事件。新たに山内徳三郎が参加。大島らの博徒グループに、草莽隊~撃剣会~愛国交親社の経歴をもつグループ(都市細民)が加わる。30日の第5回強盗事件より、愛知自由党知識人久野幸太郎らが加わる(彼らの目的は紙幣贋造資金調達)。
*
12月12日
・大山巌結婚披露宴、鹿鳴館
* 
12月13日
・石阪昌孝、八王子広徳館より吉野泰三に書簡。地租軽減の請願書草稿(石版ないしは木版刷り)を同封。翌年初めにかけて署名者を募集するも中断。
* 
12月16日
・クールベ率いるフランス軍、ハノイ北方ソンタイ占領
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12月17日
・古沢滋「三菱会社ノ弊ヲ論ズ」(「自由新聞」)。~明治16年5月13日迄、断続的連載。改進党と三菱の癒着批判。
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12月28日
・徴兵令改正(免役廃止、予備・後備役の制)
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12月29日
・成島柳北「雑録」(「朝野新聞」)。翌17年11月没する柳北最後の「雑録」。
□「本年の不景気、不融通は二、三年見ざる所にして商法衰頽し工業退縮し破産、閉店其の幾千万なるを知らず、各港の貿易場は寂として休業に近く貧乏を嘆ずる声は四野に充満す。之に加うるに新聞社会に於ては、条例の一たび改まりて何も知らぬ社主、印刷人も編集人の罪を分担し或いは身代同様の器械を引き揚げらるる等の新法皆是れ本年に現出せしなり。演説は頻りに中止の報を聴き著書は時々禁売の噂あり」。
*
to be continued

2008年11月18日火曜日

昭和12(1937)年12月1~7日 南京(1) 「真理は死んだ」 独断専行追認 南京空襲強化 南京戦区で戦闘開始


通勤途中の紅葉。たまには、京都以外の写真で。
残念ながら撮影は昨年07/12/04。今年は鮮やかに紅葉せず、落葉始まる。
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■実はプロフィールにあるように関西出身ですが、詳しく(そんな詳しくないけど)云うと京都なんです。折にふれてマニアックな京都の歴史に関わる石碑の写真を撮ってますので、以降も徐々に紹介して行きます。
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 「汚れつちままつた悲しみに」の詩で有名な中原中也の詩「帰郷」にこうゆうフレーズがあります。
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「・・・
あゝ おまえはなにをして来たのだと
吹き来る風が 私に云ふ
・・・」
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 とことんのところまで自分を(この人の場合、友人もですが)追い詰めるこの人らしい詩ですが、正直なところ刃を突き付けられた気がします。
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 富永太郎、大岡昇平らと「白痴群」という詩の同人誌を創刊しますが、1年で廃刊になります。この時、詩に人生を賭けない大岡昇平さんと殴り合いの喧嘩をするそうです。
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 大岡昇平に宛てた詩に、「玩具の歌 昇平に」というのがある。
「・・・
おれはおもちゃで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
・・・
おまえに遊べるはずはないので」
きつい一発です。
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 ミンドロ島で意識朦朧とした状態で捕虜になる大岡さんは、ある一人の人によって戦場に送られ死線をさまよった。その人が死ぬまでは、おれは死なないと、どこかで書かれていた記憶があります。しかし、残念ながら、私の記憶では、大岡さんはその人より数か月早く亡くなられました。
 この人の書かれたものもたくさん読んだ気がします。追って、また書く時がありと思う。
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 今日、公認会計士試験合格者発表あり。M君合格。
*
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■昭和12(1937)年南京(1) 「真理は死んだ」(ゴヤ「戦争の惨禍」79)
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昭和12(1937)年12月
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・胡愈之を発起人として「復社」設立。許広平(魯迅未亡人)・周建人・鄭振鐸ら社員。38年9月15日「魯迅全集」出版。「西行漫記」(エドガー・スノー「中国の赤い星」)出版。
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・日本無産党と全評の幹部や活動家400余、コミンテルンの方針に基き人民戦線運動の展開を企てた口実で逮捕、結社禁止。
右翼労働組合「日本労働組合会議」(1932年結成)は、「国家的立場に反するが如き傾向に対しこれが禁圧の必要たることは多言を要しない」と声明。
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・香川県、「讃岐若草緑叢会」検挙。松山高校・高松高商の学生および労働者。機関誌「若草」発行。
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・全農新潟県連会長稲村隆一、社大党を脱して東方会に入会を声明。翌38年2月5日、県連の一部を率いて新潟県日本農民連盟を結成、皇国農民連盟と提携して運動を進める。
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雑誌「川柳人」同人、検挙。26年井上剣花坊が創刊した「大正川柳」を改題継続し。主宰者は剣花坊未亡人井上信子、特別賛助員6名、賛助員17名、維持同人23名、編集同人7名、と誌友により組織、他の川柳雑誌「きやり」「北斗」「川柳時代」など46誌と交渉をもつ。作品は直截に反戦的傾向を示す。
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・河合栄治郎編集「学生叢書」刊行開始。S17/7迄。
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・中野重治、内務省警保局より執筆禁止措置受ける。
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・アメリカ映画「オーケストラの少女」上映。
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・大都映画社長河合徳三郎、没。
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・堀辰雄「かげろふの日記」
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・泉鏡花「雪柳」
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・近松秋江「春宵」
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・萩原朔太郎「日本への回帰」
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-・小林秀雄(35)、「死んだ中原」「中原の遺稿」「佐藤信衞『近代科学』」(「文学界」)、「中原中也」(「手帖」(野田書房)第16号)、「不安定な文壇人の知識」(「讀賣新聞」)。「宣伝について」(発表誌未詳)。
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-・チトー(45)、ユーゴスラビア共産党書記長に就任。
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・モスクワ対抗裁判デューイ委員会(委員長哲学者ジョン・デューイ)、トロツキー(58)とその息子セドフに無罪を言い渡す。
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12月1日
・南京市長馬超俊、安全区(難民区)の行政責任を国際委員会に譲る。市全体の行政責任は唐生智司令官に移行。
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12月1日
・発券銀行として蒙彊銀行営業開始
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12月1日・満洲帝国領事裁判権撤廃
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12月1日
・大本営、南京攻略を正式に命令(「中支那方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号))。
多田参謀次長自身赴き、上海で松井大将に伝達。中支那方面軍の独断専行追認
同時に、中支那方面軍の「戦闘序列」が下命(これまでは臨時編成の「編合」)。
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中国が重慶遷都を宣布(実質的には漢口に首都機能を移転)し、首都としては抜け殻となっているにも拘らず、「南京を落とせば何とかなる」「首都を占領すれば中国は屈伏する」と思い込み、政府・国民の期待が高まる中、総兵力16万とも20万ともいわれる中支那方面軍は、正式に南京攻略戦に突入。
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12月1日
・東大教授矢内原忠雄(植民地政策、クリスチャン)、辞職。自費出版「民族と平和」、秩序を乱すとして発禁(1938.1.20)。「国家の理想」(「中央公論」9月号)が反戦思想として右翼教授から非難。12.4 辞職。
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12月1日
・大田實中佐(特務艦「鶴見」艦長、佐世保)、大佐進級。
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12月1日
・日本政府、スペイン共和国と国交断絶。叛乱軍(フランコ政権)をスペイン正式政府として承認。
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12月1日
・外務省警察官1300人は満洲に移籍
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12月1日
・日本化学を改称して日産化学設立
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12月1日・(財)大倉精神文化研究所の設立が認可される。
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12月2日
・蒋介石、軍事長官会議開催、和平問題を南京の領袖に諮る。
白崇禧は「若しただこれだけだけの条件であれば何のために戦争をするのか」と云い、他も同様意見という。
午後、トラウトマン・蒋介石会談。蒋は日本の条件を「和平を討議する基礎」と受入回答。南京、蒋の時間稼ぎ。近衛声明(翌1938年1月16日)で流産。
* 
 蒋は華北中央化確保を強調し、日本への不信感を改めて表明、日本が戦勝国の態度で最後通牒と考えては困ると言い、ドイツが最後まで調停者として徹底してもらいたい(日中直接交渉を忌避。しかしドイツは「郵便配達夫」以上の役割をしないという方針)などを要望。
トラウトマンは、「現在もしこの調停に応ぜず政争を継続して行ぐならば、将来の条件ほおそらくかかることではすまぬであろう」と付け加える。
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12月2日
・朝香宮鳩彦中将、上海派遣軍司令官となる。7日着任。松井大将は中支那方面軍司令官専任となる。
* 
上海派遣軍の第13師団の一部・第16師団・第9師団を揚子江~太湖北側に展開する形で南京に向わせ、第10軍第114、第6師団を、太湖南側を西進、南から包囲する形をとる。8日には各方面で中国側防衛線を突破、12日に城壁の一部を占領、13日には中国軍退却後の南京を制圧。
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12月2日
第16師団(京都、華北から転用)、無錫~常州から丹陽へ進出。歩30旅団長佐々木到一少将支隊長の右側支隊を、紫金山北側を迂回して下関へ休心命じる。
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12月2日
・第5師団国崎支隊(国崎登少将、歩兵第9旅団よりなる)、広徳発。3日、郎渓着。6日、水路により郎渓発。9日、太平を占領。
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12月3日
・第1空襲部隊第2連合航空隊、南京の東方約140kmの常州に航空基地を開き、半数を移駐、ここを拠点に陸戦協力のための南京・蕪湖空襲が加速。この日、海軍航空隊の偵察機・戦闘機・爆撃機計19が出動。
* 
○南京特別市の最南端の高淳県は、水運で蕉湖へ、陸路で南京城へ通じる交通の要所にあり、この日、国民党軍の蕪湖方面への撤退阻止の為に、橋・運河破壊の目的で、県城・町が爆撃される。
蕪湖~上海の運河の港の東項に最も激しい空爆が行なわれ、町の中心の大通りには集中的に爆弾が投下。この日東項だけで爆弾80発が投下され、住民100余が死亡。破壊・焼失した家は700余間(200余戸)にのぼる(「高淳県誌」)。
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12月3日
・朝鮮、朝鮮総督府、天皇の写真(御真影)を学校に配布、礼拝を強要。
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12月4日
・午前8時40分、丹陽を攻撃した第16師団(京都、中島今朝吾中将)の先頭、句容(南京50Km)東方15Kmの倪塘村に侵攻、南京戦区に突入(「飯沼守日記」)。5日、句容占領。    
* 
句容は、南京外囲防御陣地線の主要な県城で、東部はトーチカで固め、城内には砲兵学校がある。国民党軍が倪塘村の西の句容に通ずる橋を爆破した為、進行を阻また第16師団歩兵20連隊は倪塘村に宿営。そこで村民虐殺事件が発生。
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12月4日
南京戦区における戦闘開始。~5日。
第16師団(京都)・第9師団(金沢)が句容県へ、第114師団(宇和島)は漂水県へ、第6師団(熊本)・国崎支隊は高淳県に突入。
* 
○南京防衛軍総数(前線・後方部隊、雑兵、軍夫など)計15万に対し、陸・空・川から徹底した包囲殲滅戦が開始される。
①陸からは総勢20万近くが波状進軍のかたちで攻囲、
②空からは支那方面艦隊(長谷川清司令長官)航空部隊の第1空襲部隊(三竝貞三少将、第2連合航空隊と第1連合航空隊上海派遣隊で編成)が交互に出撃して爆撃、
③長江からは遡江部隊(近藤英次郎少将、第11戦隊基幹)が南京に向かい両岸の要塞・砲台を攻撃しながら進撃。
この南点戦区大包囲網中には、南京防衛軍の他に近郊区には住民・難民100万以上、南京城区には市民・難民40~50万が居住又は避難しており、これら膨大な民衆も包囲殲滅戦の危険に晒され、その犠牲を蒙る。
*
12月4日
・この日付け第16師団第19旅団(草場辰巳少将)歩兵第20連隊(大野宣明大佐、福知山)牧原信夫上等兵の陣中日記。
□「(一二月四日) 昨夜は大変に寒くて困った。二、三日は滞在の予定だというので、今度こそは一服だということで早速徴発に出る。自分は炊事当番で岡山、関本と共に昼食を準備する。徴発隊は鶏・白菜等を持って帰り、家の豚も殺して昼食は肉汁である。正午すぎ、移転準備の命令があり、連隊は南京街道を南京に向かって進撃することになった。苦人も重い荷物を背負ってよくもついてきたものだと感心した。 
(一二月五日) 午前八時、準備万端終わり、同部落を出発する。出発する時はもはや全村火の海である。南京は近いのだろう。一軒屋に乾いもが目に付いた。吾先にとまたたくまに取り尽くした。」 
*
12月4日
・日本軍、中国軍に利用されない限り南京の安全区を攻撃せず、と米大使館通じ回答。 
*
12月5日
・春日庄次郎ら、共産党復活を画策、日本共産主義者団を結成。
*
12月5日
・スペインの共和国政府側、テルエル付近で反撃を開始。
*
12月6日
・この日迄に、日本軍は南京外囲防御陣地をほぼ占領、前線部隊は南京城複廓陣地に向かい攻撃開始。この頃には、南京城内も日本軍の砲弾の射程に入る。
*
12月7日
・夜明け前、蒋介石夫妻、側近と共に南京脱出、漢口へ移る。
南京防衛陣地構築を指導したフォルケンハウゼン団長のドイツ軍事顧問団も、この頃漢口に向かい、1両日中に、軍政の要人、南京市長ら市政府要人も全て南京脱出。
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12月7日
・この日~9日、中国軍は「清野作戦」(焼野原作戦)強行。侵攻する日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物を全て焼却。
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○中国軍は南京城壁の周囲1~2kmの居住区全域と南京城から半径16km以内の道路沿いの村落・民家を強制的に焼き払う。結果、家を失った農民・市民がなけなしの家財道具・食料をもって城内の重点難民区(南京安全区)に殺到。
また、食握略奪・民家宿営に頼ってきた中支那方面軍諸部隊は、城外に駐屯できず、「注意事項」で厳禁された城内駐屯をせざるを得なくなり、数万の軍隊による食糧物資略奪が城内で行なわれる事になる。
更に、道路沿いの農村が焼き払われた為、諸部隊の食糧徴発行動はさらに遠隔の奥地の農村にまで波及することになり、それだけ農村の被害地域が拡大する。
*
12月7日
・朝香宮の上海派遣軍司令官着任により、松井石根大将、兼任を解かれ中支那方面軍司令官専任。
* 
○上海派遣軍は12月5日、「(中支那〉方面軍より南京入城は歴史的に誇るべき事柄なればとの理由にて、各師団の個々に入城するを禁ずる統制線を示し来る」という注意事項の下達があり、飯沼守参謀長も、「軍としても城壁に日章旗を樹つるに止め、部隊を城内に入れざるごとく電報す」と、遵守を回答。
しかし、この日に現地着任した朝香官は、「たとえ方面軍より何といわるるとも、後に戦史的に見て正当なりと判断せらるるごとく行動すること」と飯沼参謀長に言い、「南京攻撃の統制線のごとき墨守するにおよはず」と断言。
*
12月7日
・中支那方面軍司令部、蘇州へ前進。この日、司令部は、「南京城攻略要領」「南京入城後における処置」「南京城の攻略および入城に関する注意事項」を下達。
城内掃蕩は各師団1個中隊に制限、主力は城外集結(実際は城内兵員7万以上、12月17日現在城内憲兵17人という状況)。
* 
□「南京城の攻略および入城に関する注意事項」
 「一 皇軍が外国の首都に入城するは有史いらいの盛事にして、永く竹帠(歴史書)に垂るべき事績たりと世界のひとしく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々、将来の模範たるべき心組をもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為など絶対に無からしむを要す。
一 部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、苟も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す。
一 入城部隊は、師団長がとくに選抜せるものにして、あらかじめ注意事項、とくに城内外国権益の位置等を徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置す。
一 掠奪行為をなし、また不注意といえども火を失するものは、厳罰に処す。軍隊と同時に多数の憲兵・補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」
*
to be continued to Dec 1937(2)  

2008年11月16日日曜日

1871年3月(3)ジャコバンの見果てぬ夢か・・・











写真は(現在の)二条城。撮影の日はあいにくの雨。
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■「見果てぬ夢」という言い方は失礼か?
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 パリ・コミューンは、ナポレオン第2帝政を打倒した共和派に対する民衆派の叛乱であると、私は捉えています。共和派は、民衆を利用(動員)してしか帝政を倒すことはできなかった。しかし、自分たちの目的を達成すると、この貧乏人が邪魔になる。一方、民衆の前には、いつも「パンの問題」が横たわっている。
*
 3月18日、政府軍の闇討ちを排除した中央委員会(=コミューン)は、自らの存在の定義付け(権力の合法性の理屈付け)に悩みつつ、統治のための布告を徐々に出してゆくが、その布告に貫かれているものが、私の云う「ジャコバンの(見果てぬ)夢」であると、私には思える。ルソー、ヴォルテール、モンテスキューに啓示を与えられ、ロベスピエールやサン・ジュストらが実現しようとして果たせず、1830年、1848年でも果たせなかったもの。
*
 それは、人間の「自由」「平等」の理想を実現しようという「夢」だと思う。急進共和派、ブランキ派、インター派、また書物には書かれていないが多数の正義派(仁義派と云うべきか)などの人々を内部に抱えながら、更にパンの問題解決を最優先させねばならない人々をも含め、運動を一本にするために、この「夢」を統合概念とする結論に辿り着いたのではないか。
*
 マルクスなど国外のインター派は、この「内乱」を勉強材料として、更に自分たちの叛乱(内乱)~革命の思想・技術の補強に活用した。そして、・・・「夢」は叶えられたのか?
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 しかし、パリのコミューンの人々はまだ幸せである。明治17(1884)年11月の秩父の人々に比べれば。秩父の人々が「パン」のみで闘ったとは考えたくはないが、その時の思想家、民権家、「旦那」衆は、「夢」さえも提示し得なかったのではないか。
 秩父の闘いは、近々に「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」としてお目見えするはずです。
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 いつかパリに行くことがあれば、コミューン戦士の再期の場所ペール・ラシェーズ墓地(佐伯祐三の墓もある)、民衆の住んだフォーブール・サンタントワーヌ街に行ってみたいと思う。それから、大佛次郎さんの「パリ燃ゆ」、まだ読んでないので読まなきゃ。
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 フランス大革命も、「黙翁年表」には未完ながらも分厚くあるが、買ってそのままになっていたミシュレ「フランス革命史」(中公文庫上下)を整理しているので、これが終わったら出現するはず。マチエとルフェーブルの岩波文庫は完了。
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■1871年3月19,20日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ 「未完の黙翁年表」より
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3月19日
・午前9時~、国民軍中央委員会会議(エドゥアール・モロー司会)、バリ情勢を審議。
 コミューン選挙についての中央委員会アピールを採択。中央委員の任務を分担。その代表委員を各庁舎に派遣(ヴァルランとジュールドを大蔵省へ、ウードを陸軍省へ、デュヴァルとリゴーを警視庁へ、パスカル・グルーセを外務省へ、グロリエとヴァイヤンを内務省へ、等々)。
「パリ市の自治行政を、ただちに組織するために」、パリ市会(コミューン)選挙を3月22日に行う決定。
セーヌ県の戒厳状態廃止と軍法会議廃止、全ての政治犯に対する恩赦及び全ての政治犯の釈放についての国民軍中央委員会の決定。
出版の自由尊重についての声明。
ドイツとの暫定平和条件を承認。
国民軍中央委員会とパリの区長、代議士代表者との会談。
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19日~28日、国民軍中央委員会がパリを統治する最初の政府である。
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 中央委員会会議で、デュヴァルが、高級官吏が記録文書、金庫の鍵、金庫を持ち去ったこと、パリ中央部の区やブルジョア派の区長たちが動揺していること、若干の兵士集団がパリから逃亡する噂が流れていることを知らせ、パリの市門を閉じ、パリの出入を取締るべきと提案する。人々は耳をかさず。
デュヴアルは、速やかに攻勢に出て、退却中の政府軍を粉砕、進んでヴェルサイユに進撃し、国民議会を解散、新たに全国的選挙を組織せよと積極論を主張。
モローは、「私は市庁舎に席を占めようなどとは考えたことはない、しかし事態がこうなった以上は、すみやかに選挙を施行し、都市行政を担当し、パリを奇襲から保護しようとするわれわれの意志を明らかにしなければならぬ」「われわれはパリの権利を確保する権限を与えられているだけである、地方もまたわれわれと同様に考えるならば、われわれの例にならうであろう」と、守勢的立場を固持。
中央委員会の大勢は、モローの起草した穏健な声明書の発表に同意。
*
 「市民諸君! パリ民衆は、平静に、自力にたいする自信に満ち、恐怖に陥らず、挑発に乗らず、共和制を侵害しようとする愚者どもを待った・・・パリとフランスは、協力して、久しい以前からのあこがれである共和国の基礎を築くであろう。いまこそ、侵略と内乱に永久の終止符をうつ時代である。パリ民衆は、自分たちの居住地区にかえって、市会選挙を実行しなければならぬ・・・」
「国民衛兵は、パリとわれわれの権利防衛を組織する義務を遂行した。国民衛兵の献身的勇気と讃嘆すべき冷静さのお陰で、われわれは、われわれを裏切った政府を放逐した。いまやわれわれに委託された任務は履行されたので、われわれは、われわれの権限を人民に返そうと思う、なぜならばわれわれは、人民の圧力で放逐された連中に取って代わろうとするものではないからである。市会選挙を準備し、猶予なくこれを実行せよ。・・・その結果が判明するまで、われわれは人民の名において市庁舎にとどまるであろう。」
*
・国民軍諸部隊、公共官衙・国立印刷所を占拠。
 前日中央委員会によって、国民衛兵総司令官に任命された前海軍将校リュリエは、疲労困憊してヴェルサイユへ逃散する政府軍隊追撃を怠り、モン・ヴアレリアンのようなバリ~ヴェルサイユ間の最も重要な戦略的重要地点奪取もせず、政府軍粉砕の絶好の機会を失す。
新権力の財源確保の為に不可欠な「フランス銀行」接収を考える者さえいない。
ただ選挙までの期間、暫定的に行政事務を管理する為、諸種の主要官公庁は接収される。ヴァルランとジュールドが大蔵省、デュヴァルとリゴーが警視庁、アッシが市庁舎、エドアール・モローが官報発行当局に赴き、管理することとなる。
*
・大蔵省に派遣された国民軍中央委員会代表ヴァルランとジュールド、ロスチャイルド氏から50万フランを前借りし、これを各区に分配。
*
 国民衛兵は30スーの日当を待っている。国庫の金庫には500万フラン(金貨)があるが、出納係はヴェルサイユにいる。ヴァルランとジュールドは、合鍵で金庫を開ける合法的権限も支払命令書も持っていない。彼らは、法律や偏見を超越しているロスチャイルドに会い、取引を提案。革命派に金を貸す事で、安全にパリに留まり、事業を監督することが許される。彼は、規定に従って、受取と引き換えに50万フラン(1日分の俸給)を前貸しする。
*
・夜、中央委員会の会議。
 彼らにとって最大の関心である権力の合法性の問題を巡る大論戦
2時間の討論の後、代表4名が第2区区役所にいる区長・代議士のもとに派遣され交渉開始。
翌朝午前2時、妥協成立、中央委員会は専ら国民衛兵指揮と治安保持を担当、政治的行動から手を引くことになる。
ヴァルランら強硬派はこの妥協にあきたらず、これを無視しようとする。
*
①区長・代議士を代表するクレマンソーの意見。
大砲が国家の所有に属する以上、国民衛兵がこれを奪還したのは不法であり、中央委員会がこれを指導したのは正当ではない。市民大衆は中央委員会を支持せず、区長および代議士を支持している。政府がパリに対し挑発的行動に出たことは遺憾であるが、パリにはフランスに対立する権利はない。パリは国民議会の権利を承認しなければならぬ。中央委員会が袋路から脱する方法は唯一つしかない、代議士および区長会議に全権を移し、これをもって国民議会との折衝機関たらしめるにある。
*
②代議士ミリエールはクレマンソーを支持し、中央委員会に自制を要求。
「一部の社会革命論者の主張するがごとき方向に進んでゆけば、新たな六月事件は不可避である。社会革命の時期はまだ始まっていない。もし諸君がこのことに思いを致さないならば、諸君自身のみならず全プロレタリアートを破滅に導くこととなろう。進歩は漸進的に行なわれる。今諸君の立っているところから下りよ。今日諸君は勝利者である。明日諸君の蜂起は粉砕されるであろう。現在の事態からできるだけ多くの利益を引出せ、あまり多くのものを獲得しようと望むな。代議士および区長にその地位を譲れ。諸君の信頼は裏切られるようなことはないであろう。」
*
③中央委員プルシエは、中央委員会の行き過ぎを戒めるが、代議士・区長に全権を委ねることには反対。
「諸君は、全フランスのコンミュンの自由な連合について語った、しかしわれわれの任務は、まず選挙を行なうことにある。それからいかに発展するかは、人民自身がこれを決定するであろう。われわれの地位を、代議士および区長に譲ることは不可能である。かれらは、人民に信望なく、国民議会において権威を有しない。かれらの協力あるなしにかかわらず、選挙は行なわれるであろう。」
*
④ヴァルラン、「われわれは市会を欲するのみならず、コンミュンの完全な自由、警視庁の廃止、国民衛兵が自らその将校を選出し、自ら組織を管理する権利、合法的国家形態としての共和制の布告、未払家賃の完全な棒引、満期手形に関する合理的法律、軍隊のパリ駐屯禁止を要求する。」
○[コミューン群像:ウジェーヌ・ヴァルラン]
 1839年農民家庭に生まれ、第2帝政初め頃、パリに出稼ぎ。製本工として働き組合を組織。64ストライキ禁止法撤廃後、69年、パリの30以上の同職組合が連合会議所を組織。ヴァルランはこれに参画。これより先67年、彼は消費協同組合「主婦会」、68年協同組合的食堂網「釜」(~70)を組織。その間、第1インタナショナルに参加、65年春、パリ・ビューローに選出され、ロンドン協議会に出席。66年ジュネーヴ大会、69年バーゼル大会にも出席。インタナショナル活動の為に、たびたび裁判にかけられるが、68年5月の裁判での弁論は、インタナショナルの歴史・綱領を述べ、欧州各国後・ロシア語に翻訳される。70年9月4日の革命の際はベルギーに滞在。パリに戻り、国民軍第193大隊長に任命される。70年10月8日のデモ、10月31日の蜂起、71年1月22日の蜂起に積極的に参加。国民軍中央委員となる。
3月18日の蜂起後、同時に二つの区(第6、18区)からパリ・コミューン議員に選ばれ、財政委員部委員となる。4月21日から食料委員部委員、5月2日から国民軍供給局長、5月5日から軍事委員部委員となる。公安委員会設置には反対投票をし「少数派」宣言に署名。5月の諸戦闘の頃、第6区及び第15区の防衛を指導、25~27日、軍事問題民間代表委員としてバリケード戦闘を指導。28日ヴェルサイユ軍に逮捕され、裁判なしに銃殺。
*
・ヴェルサイユ、この日の国民議会。
 クレマンソー、パリ選出議員ルイ・ブランら、国民軍連盟中央委員会に対する批判派の調停に奔走。
クレマソソーやルイ・ブランその他パリ出身代議士は、22日に予定のコミューン選挙を阻止する為、国民議会に対してパリの新市制に関する提案審議を要請。ティエールは、この提案の緊急性を認めず、「強盗や殺人者の党を譲歩によって懐柔させることはできない」と答える。
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 ジュール・ファーヴルの演説。
「パリは、国民議会の権利にたいして、血で汚れた強盗の理想をおしつけようとする一群の無頼漢の・・・しかし無頼漢どもよ、忘れるな、われわれがパリを去ったのは、やがて再びそこに帰って、お前たちと決戦を行なわんためであることを。・・・断じて弱気を見せてはならぬ、断じて憐憫の気持をおこしてはならぬ。フランスは、首府を血にまみれさせようとしているこれらの無頼漢の支配には陥らぬであろう。」
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・ヴェルサイユ。
ティエール、唯一の「合法的権力」ヴェルサイユ政府の命令だけを遂行するように各県知事へ指令。セセ提督をセーヌ県国民軍司令官に任命。
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・ティエール政府、「四万の軍隊は秩序整然とヴェルサイユに集結した」と発表。実際は、正規軍4万の内ヴェルサイユに引上げたのは戦意を欠いた2万2千のみ。
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・マルセイユ、リヨン、ボルドーなど地方都市でコミューン成立。
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・アルジジェリア、反乱したアラビア人に、モクラニの弟、アーマド、プーメズラグの指揮する諸部隊が参加。
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・ロンドン、マルクスとエンゲルス、パリの18日の諸事件について知る。
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3月20日
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・中央委員会、区長・代議士のパリ市庁舎接収を拒否。前夜の妥協を受け入れず。中央委員会は再び非妥協派が大勢を占めるに至る。
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・中央委員会、刑事犯罪に対する措置についての呼びかけを採択。
質入れ物品の売却についてのティエール政府の決定を撤回。
商業手形支払期限1ヶ月延期。
家賃不払い居住者を、家主が追いだすことを禁止する事など決定。
ドイツとの平和条件遵守の意向と、戦争賠償金の大部分を、戦争犯罪人に支払わせるぺきとの声明。
21日以後、国民軍兵士の給料を、規則正しく支払うことを決定。
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・国民軍中央委員会代表ヴァルランとジュールド、フランス銀行で100万フランを受取り、これを各区に分配。
 総裁ルーランが、ヴァルランとジュールドに100万フランを前貸し。中央委員会はその日暮らしをする事になる。100万フランがなくなると、もう少し強い圧力によって、新しい貸付けを獲得。やがて、勇敢なコミューン派のベレーがここに事務室と部屋を持つが、副総裁ド・プルークに操られるままになる。
副総裁はコミューンに対し1500万フランを小出しに調達するが、他方、ヴェルサイユで振り出した2億6千万フランほどの手形に保証を与える。
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・「ジュルナル・オフィシエル・ド・ラ・レピュプリク・フランセーズ」(「フランス共和国官報」)を、新しい革命権力の機関紙として発行。この日、連盟兵3大隊で「官報」の建物を占拠。「官報」は、議会とヴェルサイユ政府の決定や演説、ならびに「合法的」区長達の声明を引き続き印刷している。
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この日付けの「官報」は、3月22日を期して市会選挙を行なうと発表。
[中央委員会布告]
 「中央委員会はなんら秘密なたくらみをもっていない、その成員はあらゆる布告にその名前を署名してきた・・・政府はパリを誹謗し、地方を首府にけしかけた・・・政府はわれわれの武装を解除しようとした・・・中央委員会はこれらの攻撃に対していかに答えたか? 連合組織を作り、節度と寛大を教えた・・・われわれにたいする政府の憤怒の最も大きな原因の一つは、われわれの間に名士がいないということである。世の中には名士がたくさんいる、これらの名士がいかに多くの不幸をもたらしたことであろう・・・名声を博することは雑作のないことである、若干の空虚な美辞麗句と少しばかりの卑劣な精神をもっていれば足りる。最近の経験がそれを証明した・・・責任重大なる使命を課されたわれわれは、動揺することなく、恐怖することなく、これを遂行した。今や、われわれは民衆に向かって叫ぶ、さあここに諸君によってわれわれに委ねられた権力がある。数日前まで無名の人物であったわれわれは再び諸君の間に帰ってゆく、そして支配階級にたいして示すであろう、民衆からかたい握手を受けることを確信する者は、頭を高く上げて、市庁舎の階段を降り得るということを。」
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・パリの諸監獄から政治犯人の最後の人々1万1千を釈放。セイヌ県国民軍共和連盟規約の発表。
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・パリの区長・代議士たち、国民軍中央委員会の権力を認める事を拒否。
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・作家エドモン・ド・ゴンクールのこの日付け日記。
バリのプロレタリアートに対する敵意を隠していない。
「こうしていま、フランスとパリは労働者の支配下にある。労働者たちは、自分たちだけからなる政府をわれわれにあたえた。いつまでつづくだろうか? だれもしらない。あてにならない権力!」。
幾日か後には、「権力は有産者から去って、無産者にうつっている」と書く。
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・ヴェルサイユ。国民議会会議開会。
セーヌ・エ・オアーズ県を戒厳状態におく声明。
ヴェルサイユ政府内相E・ピカール、パリの「官報」を差押さえる命令。
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・ヴェルサイユの防衛態勢。この日早朝、ヴィノワ将軍がモン・ヴァレリアンを再占領するが、南方の5砦は殆ど無防備。
 最短路であるセーヴルとサン・クルーでセーヌ川を渡る道は憲兵隊が守備(ドーデル旅団とともに政府側で最も信頼のおける軍)。その背後にはラ・マリューズ将軍率いる旅団第35、42歩兵部隊が援護する。パリから南を迂回してヴェルサイユに迫るルートはデロージャ旅団第109、110部隊はヴェルジーに布陣して監視。ガリフェ将軍は騎馬旅団第9、12軽騎兵隊を率い、無人地帯をパトロール。しかし、この程度の防備ではパリの大攻撃の前にはひとたまりもない状況。
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・アルジェリア。植民地住民蜂起が拡大。アルジェ市のフランス移住民に、パリの事件についての報道が広がる。各クラブで会合、当局に対し威嚇するような弁士たちの演説。
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・ベルリン。総参謀長官モルトケ元帥、休戦条件に署名した政府がフランスに存続することについてドイツは関心を持っていると、ドイツ軍司令部へ説明。パリの事件については、ドイツ軍が蜂起者に攻撃されない限り、待機的立場を堅持すると命令。パリ地区にドイツ軍を払密裡に集結する命令。ビスマルク、首都の反乱鎮圧の為、ドイツ軍はヴェルサイユ軍を援助するとティエールへ提案。
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to be continued to March 1871(4)

2008年11月15日土曜日

1871年3月18日 (2)ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ パリ蜂起


昨日の石碑の傍にある説明用看板。中身は下記。
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「永禄12年(1269年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天守」を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録等より) その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された。尚、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の居館として慶長7年(1602年)に築かれた。
 所在地 : 京都市上京区烏丸下立売
 築城者 : 織田信長
 形  式 : 平城
 築城年 : 1569年(永禄12年)」
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■1871年3月18日 パリ・コミューンの1日      「未完の黙翁年表」より

・政府軍の奇襲失敗、民衆蜂起。ティエール、ヴェルサイユへ逃亡。2将軍銃殺。午後10時30分、市庁舎占拠。
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[計画]
①シュビエル師団はルコント・パテュエル2旅団におりモンマルトルの丘を制し大砲を奪回。
②ファロン師団はベルヴィルに向かい、ビュット・ショーモンにラ・マリューズ旅団を派遣。
③モードゥイ師団はウォルフ旅団をバスティーユに、アンリオン旅団をテュイルリーとリュクサンプールに派遣。
④予備軍としてポシェ旅団が廃兵院と陸軍士官学校に向かい、そこに駐留。
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 パリの大砲は17地点に据えられ、有名な大砲は、パリを見下す高台に集められている。ビュット・モンマルトル(新型大砲91門など計171門)。ビュット・ショーモン(旧型12口径22門・新型7口径24門など計52門)。フランドル街ラ・マルセイエーズ公会堂(城壁から持って来た旧型31門)。ラ・シャベル(旧型22門など計43門)。クリシー(大砲8門など計10門)。ベルヴィル(改装砲6門など計22門)。メニルモンタン(新型12門など計70門)。総計417門。
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・夜の初め、ある将軍が、シャトー・ドーの兵営で、第120戦列歩兵隊第3大隊を兵営に残し兵営を防備態勢におくこと、第1大隊にタンプル場末町を、第2大隊にロワイヤル広場の占領を命令。また、一切の不穏集団には無警告で発砲せよと指示(第120戦列歩兵隊は国民衛兵が眼前に現われる時、潰走)。
同じ頃、1人の特務曹長が、モンマルトルの衛兵哨所に立ち寄り、区長クレマンソーの偽の撤退命令を伝令、人々は従い、モンマルトルには7人とムーラン・ド・ラ・ギャレットにいる僅かな分遣隊が残るのみ。
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・0時~午前2時、ルーヴル宮で政府軍の作戦会議。目的は、大砲奪取、衛兵の武装解除、委員会占領、メンバー逮捕、家宅捜査。
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[パリ軍最高司令官ヴィノワの計画]
モンマルトル攻撃は2旅団(パチュレル、ルコント両将軍)からなるシュビエル師団が担当。
①パチュレル旅団は、猟歩兵1大隊、第17大隊(第76戦列歩兵2大隊)、第88歩兵部隊3大隊(猟歩兵1大隊、第18大隊)、憲兵隊半中隊、工兵半中隊、武装警官を包含し、クリシー広場~サントゥアン大通り~マルカデ街~ソール街~モンマルトル墓地~ノルヴァン街を~ムーラン・ド・ラ・ギャレット公園へ向う。この間、1大隊がビェットの下、北と西側に布陣し、猟歩兵第17大隊は、シュビエル師団の将軍の指揮下におかれ、クリシー大通りとピガール広場に、憲兵と大砲2門をもって予備として残される。
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②ルコント将軍は、第88歩兵部隊2大隊、警官、憲兵、工兵半中隊と共にモン・スニ街を通り、ビュット・モンマルトルに登り、丘の東部を占領すべく、ロシュシュアール大通りに予備軍(猟歩兵第18大隊、砲兵1中隊、第88歩兵部隊第3大隊)を温存する。
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 歩兵部隊の大部分は、この月2日にル・アーヴル発。マラコフ大通り、エトワール広場、トロカデロ広場の付近に野営。パリが極めて平穏なのをみて、何人かの兵士は流布されていた噂に憤慨。17日夕方、何人かの兵士・下士官はが集会(例えばナシオン街のローエル酒場)に出席し、住民と親しくなり、以降、最も精力的な兵士達が、人民に発砲しないと公然と誓うに至る。従って、武装警官を部隊に配置する必要が生じる。
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[パリ全部の軍事占領計画]
モンマルトル(陣地の威力、大砲数、地区委員会や住民活動が活発さから特に重要地点)攻撃配置は、全労働者居住地区・戦略的地点(保塁、兵器廠、大通り、公共建造物)占領、パリ周辺地区住民の完全武装解除を目指す広範な計画の一部。
ファロン将軍は、ル・マリウズ将軍を指揮下におき、ベルヴィル、ビュット・ショーモンを占領、他の分遣隊はウォルフ、デロジャ、モーデュイ将軍指揮下に、バスチーユ広場、市庁舎を占領、アンリュー将軍は左岸を包囲、第135戦列歩兵は全体の予備軍としてリュクサンプールとパンテオンに残される。
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・0時~午前2時、政府軍作戦会議と同時刻、国民衛兵中央委員会も集会を開き、任務分担・委員会統合など組織作りを行い、新しく軍事委員会を任命、午前2時過ぎ、散会。(3時30分、国民軍中央委員会の任務分担についての会議終了、の記述もあり)
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・部隊2万はシャン・ゼリゼとコンコルド広場に集結、ラ・ぺー街~大通りへ進む。
午前2時半~3時、部隊は小分遣隊に分かれ、シュビエル師団はモンマルトルに向い、途中でマルチル街と外廻りの大通りを監視する為に榴弾砲を据え、騎兵・砲兵をビガール広場に配置。
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・午前3時~4時、将軍達は、配下の憲兵・警官とヴァサル少佐率いる市警官・パリ意兵隊に攻撃開始命ず。
 ロジェ街の中央委員会・地区委員会がルビック街の高みに据えた警砲は発射されず。
市警官がビュットを見下すソルフェリノ塔に近寄った時、ロジェ街委員会に配置された国民衛兵チュルパンに見つかり、彼を銃剣で打倒す(瀕死の重傷を負い、数日後没)。
襲撃者達は丘の上に出て、手薄すな哨所である第61大隊の6人を武装解除。次いで、監視委員会の置かれているロジェ街6番地に出て、そこを占拠する幾人かを捕虜としソルフェリノ塔地下室に投込む(数人は逃亡)。
この間、第18猟歩兵はプーサルグ少佐の命令下、丘上部に登り、工兵・猟歩兵は、大砲を保護する土塁、盛り土、塹壕を取壊す。
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・5時~6時。パチュレル旅団は難なくモンマルトル北側から丘の上に到着、ムーラン・ド・ラ・ギャレットまでの丘の麓を占領。
テルトル広場の大砲を守備する国民軍兵士5~6人は逃亡。第17猟兵大隊は広場守備の為その場に残され、第76大隊3中隊と若干の警官が近くの通りに置かれた大砲13門を確保の為に送られる。残りは、国民軍阻止と武装解除の為にモンマルトルの丘の周囲に配置。
モンマルトルの下町の住民達は、寒さに凍え飢えに苦しむ兵士達を歓迎し、簡単な食事をすすめ、水筒の水を一杯にしてやる。兵士達はモンマルトルの住民と談笑を始め、「戦列万歳!ヴィノワを倒せ!」に唱和する者も出てくる。
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・5時~6時。ルコント旅団はモンマルトルの高台を占領。ヴァサル少佐は、ルコント将軍に、大砲を押える為には更に兵員が必要と連絡。ルコントは直ちにソルフェリノ塔に向い第88戦列歩兵第2大隊を派遣。陣地を奪取し、大砲を捕獲させる。ルコント将軍は勝ったと思う。
 ルコント将軍が陣地を巡視し、重傷の衛兵チュルバンと傍にいるルイズ・ミシェルを見付けた時、クレマンソーが、「区長、クレマンソー、医者です」と声をかけ、将軍に対し、政府と軍当局が交渉を継続しなかった事に遺憾の意を表明、攻撃に抗議し、地区の平静の保証、負傷者の病院への運搬、負傷者の応急手当を、要望。将軍は反対するものの、区長を阻止せず通り過ぎる。クレマンソーはその場を離れ、幾人かが後に続き、兵士の警戒線を突破し、警報を広める。
 クレマンソーがサン・ピエール広場の上に着いた時、群集は彼を取り巻き、大砲とモンマルトルをヴィノワとティエールに売り渡したと責め、「裏切者」と呼ぶ。誰かが「大砲をとり戻そう!」と呼ばなければ、群集に八つ裂きにされるところ。
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 コンコルドに集められた馬が到着せず、大砲の通行を妨害する塹壕・盛土の取壊しが遅々としてはかどらず、大砲の幾門かは、ルコントの命令により手で曳かれ、或いは彼の持つ僅かの馬に繋がれ坂を下る。
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・5時55分、警視総監ヴァランタンは、軍はモンマルトルを押え、ウォルフ、アンリュー両将軍はパスチーユとシテ島を占領したと、司令部(ヴィノワ)に連絡。数分後、ベルヴィル占領の報が届く。
 しかし、同じ頃、フアロン将軍の部下は、国民衛兵との最初の接触以来、服従を拒否し、将軍はベルヴィル区役所周囲に砲列を敷く事ができず、後退命令を与え、ようやく連隊の全般的潰走を回避。彼は、ビュット・ショーモン公園に達す事ができず、退却途中で彼自身の大砲を放棄。
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・6時頃、大砲約50門がビュツトの下にある。
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・6時~7時、第18(モンマルトル)、13、14、5区の監視委員会の出した警報(空砲)、広がる。
□「三月一八日、モンマルトルの女たち、ビュットに接する街々を埋めた女たちは、反動的な文学が想像したようなものでは決してなかった。・・・彼女たちは苦痛に充たされ、ついで気高く、真に人間的となって、国民衛兵と軍隊の間の群れをなして立ちふさがり、発砲命令を与えたこれらの指揮官に服従しないよう軍隊の兄弟に懇願するのだ」(ダ・コスタ)
*
・午前7時~8時、大群集が兵士を取り巻き、大砲輸送を麻痺させる。市民は、背嚢を持たず腹をすかし、喉が渇いている兵卒にパンやブドウ酒を提供するために金を出し合い、おしゃべりがはじまる。
「軍隊万歳!」の叫びがあがり、カフェや居酒屋が開かれ、女房達は兵士の為にささやかな買置きをテーブルに並べる。幾人かの兵士は銃を1杯のブドウ酒と交換。興奮した大衆は共同体となり、共信者となる。女達は公然と士官を批判し、「この大砲をどこへ持ってゆくの。ベルリンなの。」と叫ぶ。下士官の叫びと威嚇で、隊列が崩れたり、作られたり、また崩れたりする。
*
・7時、政府軍部隊、モンマルトルから大砲撤収。婦人・国民軍兵士の抵抗。国民軍のブルジョア的な諸大隊を結集しようとする当局の試みは失敗。反乱人民によるバリケードの構築。
*
・8時頃、ピジェールという名の士官が、明け方に、ドゥドーヴィル街で急ぎ集めた国民衛兵1縦隊300人が行進、オルナノ大通りで戦列歩兵1分遣隊に出遭い、すぐに親睦が生まれる。更に行進を続け、ルピック街で、通りを下る馬に曳かれた1門の大砲の前に出る。
そこへ、「女たち、子供たち、密集した一団は、上げ潮の波のように坂道をのぼってきた。砲兵は通路を切りひらこうとしたが無駄だった。
人間の大波がすべてを浸し、砲架や弾薬車の上、車輪や馬の足元にすべりこみ、大砲を曳く馬を空しく鞭うつ馭者の努力をまひさせる。」「とくに女たちは激怒して叫んだ。馬を切り離せ!あっちへ行け!あたし達は大砲がいるのだ!大砲を手にいれよう」(「コミューンの真相」)。大砲は奪回される。
*
 大砲奪回直後、国民衛兵は、憲兵の強力な分隊がサント・マリ街の上部の進出点に集結しているのを知り、そこへ向かう。憲兵は夜のうちに多くの人々を逮捕し投獄し、叛徒側に移った部隊の兵士達は囚人救出を望む。ビジェールの衛兵が、虐殺や憲兵との戦闘回避の為、先頭に立って進み、闘う事なくサント・マリ街で憲兵隊を降伏させる。
*
 第88戦列歩兵の全大隊は、依然無傷のままムーラン・ド・ラ・ギャレットに立て籠もる。ビジェールは降服を呼び掛けるが、指揮官はこれを拒否。しかし、大隊兵士は指揮官を残して退却。ビジェールの衛兵部隊は、大砲を奪回し、憲兵と第88戦列歩兵1大隊の武装を解除。
*
連盟兵第79大隊がルコント将軍を逮捕。
 ルコント将軍は、夜のうちに市警官が国民衛兵から奪取したロジェ街の哨所周辺を掩護し、ビュットの頂上を占領。捕虜の衛兵と発砲拒否の兵士は、哨所に閉じ込められる。ソルフェリノ塔の右側に、連盟兵第79大隊が停止し、士官2人が軍使として前進し降服を勧告。
 ルコント将軍は、衛兵・群衆に対して発砲を命令するが、部隊はその命令を拒否。次に、将軍は、憲兵・市警官に発砲を命令。猟歩兵・連盟兵・群衆が憲兵に襲い掛かり武装解除、80人を区役所に監禁。ルコント将軍も逮捕される。
*
モンマルトル、群集と衛兵は頂上台地にまで侵入。
 8時30分頃、ヴェルダァニェ軍曹を先頭とする小部隊が砲座に進出するが、押し返えされる。
プーサルグ少佐はルコントに新しい命令を要求し、ルコントは、もし衛兵と群集が30歩以内に接近したら発砲せよ、と命令。
少し遅れて、ガルサン大尉指揮下の衛兵部隊多数が到着し、群集がこれに続く。ヴェルダァニェが、「同志よ、武器を置け」と最初に叫ぶ。第88戦列歩兵は、第152、228衛兵大隊の分遣隊と交歓し、一緒に、最も危険な分子(市警官)の武装を解除。警官の多くは警官と衛兵とを見分ける帽子を投げ捨てる。プーサルグ少佐の猟歩兵達は、最も頑強に抵抗し、包囲される。
勝ち誇った群集が喚声をあげているところに、ルコンl将軍とその部下の士官達が、第106大隊のシモン・メイ工大尉が指揮するシャトー・ルージュ(ダンスホール「シャトー・ルージュ」)の哨所に連れてこられる。
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 8時、国民軍・市民がモンマルトルの丘に到着。第88連隊兵士と人民との交歓。人民を射てとの指令部の命令に兵士は服従せず、兵士の一部は人民に参加し、連隊長プーサルジュ、ヴァサール、ルコント将軍(大砲を取り囲む婦人・子供の群れに発砲命令)や、将校・憲兵は兵士に逮捕される。国民軍部隊によるパリ第13区区役所の占領。
*
 事件は、その朝バフロア街で開催予定の中央委員会に報ぜられ、アルノール、ヴァルランらが本部に顔を出すが、直ちに自分の地区に帰り、その他の中央委員と共に所属大隊を指揮し、各地区の防御を組織。諸所にバリケードを構築し、国民衛兵は戦闘意欲に燃え上る。
バフロア街に残った中央委員は、作戦計画を作成、占領すべき戦略的要点を指定し、主力の市庁舎集結を決議し、この決議を地区に伝達。
*
・午前9時、パリ市内の所々にバリケード構築。
 フランドル街のラ・マルセイエーズ公会堂の前。ヴィレットではパリケードで警察を封鎖。第11区ではロケット街のバリケードが、バスチーユとペール・ラシューズを分断。第13区では区役所を占領したデュヴァルが攻撃に移る準備を整える。
パンテオンの周りには、そこを占領している大隊をリュクサンプールに野営している予備軍から分離するためにバリケードが築かれる。
第13区では、衛兵1大隊がメーヌ大通りで通行中、脅威を受けている地点に救援に急ぐ騎馬憲兵の一団を逮捕。
*
モンマルトルの国民衛兵と第88戦列歩兵の兵士は、続いてオルナノ大通りを制し、ロシュ・シュアール大通りまで下る。ここには、朝から叉銃をして第88歩兵部隊の残留部隊がいるが、仲間が銃床を上にし、住民と親しみながらやって来るのを見て、兵士たちはそれをみならい、「国民衛兵万歳」と叫ぶ。こうして9時30分には、ルコント将軍の攻撃縦隊とビュット占領の任を負う小軍団の右翼は存在しなくなる。
*
 しかし、シュビエル師団長直轄部隊は無庇で残り、依然、ピガール広場~クリシー広場及びそれ以遠に至る外廻りの大通りを占領。
ピガール広場は、徒歩憲兵と猟騎兵の一隊が占領し、国民衛兵と群集が前進すると、シュビエル将軍は突撃命令を下す。兵士達は躊躇する。サン・ジャム大尉が先頭に立って、それを率いる。女達・小僧達・弥次馬は逃げ出す。
その時、国民衛兵と戦列歩兵が猟騎兵を攻撃。サン・ジャム大尉は瀕死の重傷を負って倒れ、猟騎兵は徒歩憲兵の後に引下がり、外廻り大通りの廠舎の後に身を寄せて、群集に発砲。1分隊が銃剣を突き出して、ビエモント通路に押し入る。
そこで白兵戦(この日の唯一の実戦)が始まる。将軍、猟騎兵、残存部隊は急いでクリシー広場に向い退却。
*
9時以後、ヴィノア将軍、労働者地域から政府軍を撤退せよと命令。
*
10時、パフロア通りの学校で、国民軍中央委員会議。パリ第13、11区は、反乱人民の手中に入る。
*
10時頃、ピガール広場でクレマン・トマ将軍(元国民軍総司令官、1月21日辞任、1848年6月蜂起者達の死刑執行人として知られる)、スパイ容疑で逮捕。「赤い館」送り。
*
10~11時、軍隊と人民との交歓。若干の部隊の武装解除。
*
・10時30分頃、警視総監から政府に電報。「モンマルトルからの悪いニュース。軍隊は行動を拒否した。ビュット、大砲、捕虜は叛徒に奪回された。」
*
 警察が、数人の「被疑者」(ブルードム、ヴィアール、シュートーら)を逮捕し、留置所に連行している時、幾つかの地区は叛徒の手に落ちている。しかし、全体的な計画もなく、作戦は地区毎に行なわれ、名前は知られているが外との繋がりのない人達に指導される。セーヴル街ではファルト、第20、10区ではプリュネルとランヴィ工、第3区ではパンディ、バチニョルではヴァルラン、左岸の大部分ではデュヴァル。第5区では、パスカル街の地区事務所は完全に機能を果し、文書や伝令を押え、デュヴァルに有益な情報を送る。
*
10時30分頃、中央委員会メンバの数人はバフロワ街の建物の中で慌ただしく命令書や委任状を作る。
「彼が必要と判断するすべてのこと」を第17区で行なう権限をヴァルランに委託する命令。「攻撃するな、バリケードを築け」という命令。
パフロワ街に隣接する街々で太鼓を叩かせたネストル・ルソーは、部隊が現われたら「軍隊万歳!共和国万歳!」と叫び、バリケードを開き、流血を回避せよと命じ、バリケードを構築させる。
*
10時30分頃、ヴィノワ将軍(モンマルトルまで偵察を行ない、事態の重大性を確認)は、全面的引揚げ命令。その後、正午少し前、セーヌ右岸の撤退と陸軍士官学校への仝部隊の後退を命令。ファロン将軍だけは、叛徒と話し合い通行許可を得て秩序正しく後退。
バスチーユでは、ウォルフ将軍の本隊は溶解。現場に来合わせた陸軍大臣ル・フロー将軍は、危うく叛徒の手に落ちるところ。メニルモンタンでは、マリウズ将軍の兵士が、フェリックス・ピアの演説に興奮した衛兵第173大隊に襲われ、第20区区役所に閉じ籠る。
モンマルトルと同様にビュット・ショーモンでも群集は兵士達を巻きこみ押し流しす。
リュクサンプールでも同様な友愛の光景がみられる。
昼前、赤旗が再びバスチーユにはためき、大砲と捕虜を引っ張ってパフロワ街に向う衛兵大隊は、通りがかりに敬意を表する。
その時、ヴィクトル・ユゴーの息子(ボルドーで急死したシャルル・ユゴー)の葬列の為にバリケードが開かれ、葬列はパリを横切り、ペール・ラシューズに向う。
*
11時頃、ファロン師団6千がベルヴィルで、ラ・マリューズ旅団がビュット・ショーモンで、武装解除される。
モードゥイ師団・ウォルフ旅団はバスティーユで、アンリオン旅団は、テュイルリーとリュクサンブールで武装解除。
プランス・ユージェーヌ兵営は、プリュネル指揮の部隊により占領され、兵営にいた正規兵は、国民衛兵と交歓。
ナポレオン兵営も、警視庁も、内閣印刷所も、国民衛兵の手に帰す。
*
11時頃、アシとバビックは、第65、192両大隊にモンマルトルに赴くように命ずる。
*
11時、大隊会議と、政府軍に対する防衛戦術についての国民軍中央委員会の命令。国民軍部隊、パリ第5区区役所を奪取。
 反乱した人々(国民軍、政府軍の一部、市民)、市庁舎への移動。
*
・11時頃、政府はセイ製糖所が第13大隊によって占領されたことを知り、更に11時30分頃、衛兵と兵士よりなる1縦隊が市庁舎に向っていることを知る。
昼近く、シュビエル将軍、ファロン将軍など、総司令部のあるルーヴルに戻る。
*
・正午、全面的な中休み、昼食。
*
・12時5分、ジュール・フェリーは市庁舎を去ることを拒否し、ティエールに対し、第11区は万事休す、軍隊は戦闘を拒否しバスチーユ広場を通って引返していると告げる。
しかし同時刻、ティエールはヴァランタンから、「ベルヴィルとメニルモンタンでの行動は、11時15分まで何の困難にも出会わなかった。モンマルトルではわれわれは幾分の損失をうけるかもしれない」。
*
蜂起は既に全パリを支配しているのに、誰もそれに気づいていない(政府も、中央委員会も、各地区も)。
*
午後1時、ティエール首相、政府軍をパリ東部諸区から西部諸区へ撤退させよと指示。
*
・午後1時頃、シモン・メイエ大尉はシャトー・ルージュの捕虜達に「委員会」(第13区の監視委員会か)命令でロジエ街の哨所に連れてゆく事になったと告げる。
*
・2時頃、パフロワ街の学校の校庭に、参謀本部の1士官と要職にある1警官をふくむ捕虜が連行され、訊問される。
*
・午後2時30分、国民軍中央委員会、政府の建物を占領する為、諸大隊をパリ中心部へ移動させよと命令。待機中の諸大隊が、ドーレル・ド・パラディーヌ将軍指揮下の衛兵の参謀本部があるヴァンドーム広場に向い、それを包囲する。しかし、政府のある王宮や、既に叛徒の脅威を受けている市庁舎には兵力を投入せず。
*
軍事的状況(中央委員会にとって極めて有利)。
第20区では、第173大隊が、メニルモンタンとベルヴィルの公園を占領するはずの部隊を武装解除。
第135大隊は区役所を占領。
パディ率いる第16隊は中央部に下り、ミニムの兵営を確保し、国立印刷所・市庁舎に前進するばかり。
ヴァルランはバチニョールの衛兵の動員に失敗するが、第17区区役所を占領し、午後早く、300人を率いヴァンドーム広場へ向う。
ベルジュレは自分の地区(クリニャンクール)を離れるのを躊躇った後、モンマルトルの監視委員会議長フェリ工の精力的な調停されてヴァンドーム広場へ向い、ヴァルランと共に兵士2千を掌握。
*
左岸の戦況は更に良好。
数日前からアンリがメーヌ大通り哨所を構築し、その周囲に占領地帯とバリケード地帯が拡大される。
午後早く、ソー駅、アンフェル門(現在のダンフェル・ロシュロ広場)、第14区区役所を奪取。
デュヴァルは、朝から、ゴブラン通りとイタリア広場の防備を強化し、アンヴァリッドを脅やかす第15区の数中隊を予備に残し、大移動を展開。
午後早く、オルレアン駅、植物園、税関(保税倉庫)を奪取。この行動はリュクサンプール、パンテオン、市庁舎を目標とする。
 第15区では、ファルトが同様の計画を遂行、6大隊をもって士官学校、アンヴァリッ下を包囲、2時~3時、セーヴル街~リュクサンプールに進出。
しかしすでにリュクサンプールとパンテオン周辺では、アルマーヌ(最初に行動をおこした者の1人)のイニシアティヴで親睦が始まり、バリケードが作られる。
やがて第5区区役所、パンテオンが陥落し、リュクサンプールに野営の本隊は潰走。デュヴァはシテ島に下り、既にシャトー・ドーの兵営を奪取したバンディ、ウード、プリュネルと共に市庁舎を脅かすことが可能となる。
3時頃、彼は、市庁舎を狙う。全地区で、群集は市民兵の行動を支持し、歓呼して彼らを迎える。パリは街頭にあり、数千の正規軍兵士は、群集と混じり合う。政府の連中は、孤立し、度を失い、押し流される。
*
午後3時、ティエールの主宰する大臣会議、パリ放棄と軍隊のヴェルサイユへの撤退を決定。
 この間、モンマルトルからロジェ街まで捕虜の移動。哨所を指揮するポーランド人カルダンスキーはルコントを裁く一種の軍事会議を開く(開いたように見せかける)。
ルコントは尋問に対し、自分が発砲命令を下した、「私がしたことは適切であった」と答える。この軍法会議は民衆を辛抱させる為のもので、会議主催者はルコントを救いたいと思っている。
*
・3時~第2区区役所、第3区区長ボンヴァレとトランが召集した区長・助役・パリの代議士の最初の集会。調停派が介入しティエール説得を試みる。
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午後4時、首相ティエール、陸軍大臣ル・フロー、パリを脱出。ティエールは、パリの諸稜堡撤退について命令(殆ど全堡塁の守備隊全部をセーヌ左岸に撤退させ、パリ西方の最重要拠点モン・ヴァレリアン堡塁をも撤退させる)。
*
・午後4時半過ぎ~5時、捕虜のルコント将軍、クレマン・トマ将軍(1848年6月事件鎮圧者)殺害。他の拘留者は再びシャトー・ルージュに連行され、監視委員会ジャクラールとクレマンソーの調停で釈放される。
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市庁舎では市長ジュール・フェリーが、デロジャ将軍配下の重要な部隊(徒歩憲兵300と騎馬憲兵40、第109、20戦列歩兵隊)を擁して抵抗。
5時頃、プランキ派が、兵舎と市庁舎を繋ぐ地下道を奇襲するが、市警備隊が銃剣で、ブランキ派を撃退。
6時頃、憲兵が撤退の総命令に従い始め、ロボーの地下道を通ってヴェルサイユに向い立退く。
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午後5時、国民軍諸部隊を市の中心部に移動させ、政府諸庁舎や兵営を占領。
*
・午後6時頃、区長・助役・パリの代議士達、第1区区役所で新しい会合を開き、パリの代議士ラングロワ大佐(パリ包囲の間、指揮ぶりはその人気を高める)の衛兵指揮官への任命、パリ市長としてドリアンの任命、即時の自治体選挙、衛兵の武装解除を行なわない保証を要求。
数人の代表が、ジュール・ファーヴル(大臣)と連絡をとることに成功するが、ファーヴルは既に将軍処刑を知っており、「人殺しとは交渉しない」と乱暴に答える。
*
・午後8時~深夜、正規軍、国家の役人ら、混乱の内にパリを脱出。真夜中頃、ヴィノワの掌握する軍主力2万が、パリを脱出。
*
・8時~9時、ヴァルランは、バチニョール(第17区)の彼の部下と共に、ベルジュレとアルヌール率いるモンマルトルの大隊と合流し、ラ・ぺー街~ヴァンドーム広場へ集中。ベルジュレは衛兵司令部を占領。ヴアンドーム広場は広い野営地となり、隣接する街々はヴァルランが配置した諸大隊を迎える。
東から来たベルヴィルの人々は、第120戦列歩兵が確保するプランス・ユジェーヌ兵営を包囲。
プリュネルは部下に扉を破らせ、士官達を閉籠める。兵士達はすっかり親しくなる。プリュネル、ランヴィエ、ウード指揮の諸大隊は、そこからセーヌ河岸及び隣接する街々を通って市庁舎に向う。
一方、パンディはヴィエイユ・デュ・タンプル街を経てそこに向う。8時前から、市庁舎は包囲され、殆んど孤立。
左岸では、アルマーヌが巧妙に交渉し、ブルジョア派3大隊が、第59戦列歩兵によって第6区で無力化される。
デュヴァルはゆっくりと確実にシテ島へと前進、警視庁に近づく(当時はドフィーヌ広場の近くにある)。警視庁には誰もいない。夜10時過ぎ、デュヴァルは前進を早め、市庁舎包囲を終え、ノートル・ダム広場に強力な分遣隊を派遣。
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午後10時、パリ市長脱出。後、国民軍連盟中央委員会、市庁舎占拠。
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午後10時、政府軍のシャン・ド・マルスおよびアンヴァリド(廃兵会館)への集結。
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・11時、プリュネルは市庁舎の周りに、バリケード、哨所、歩哨をびっしりと林立させる。パトロール隊の1隊が、通りかかったジュール・フェリーをもう少しで捕えそこなう。彼は9時15分に市庁舎を離れ、第1区区役所に入る。プリュネル縦隊は、広場に進出し、市庁舎に侵入し、占領。建物の正面が照明され、赤旗が上る。中央委員会に知らせが届く。
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午後11時30分、反乱した人びとは警視庁を占拠。
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「直ちにヴェルサイユに進撃すべきであった。」(マルクス「クーゲルマン宛手紙('71/4/11)」)。
 渾沌とした議論の中で、プランキ派(ウード、デュヴァル、プリュネル、ファルト)は徹底的な措置(ブルジョア派大隊の即時解散、ヴェルサイユへの即時進軍)を主張するが、取り上げられない。ルイズ・ミシェルによれば、モンマルトルの委員会と労働者大隊の幾つかは、攻撃を要求。
 ヴェルサイユに向う3つの道筋(シャティヨン経由、セーヴル経由、ピカルヂィの丘経由)は、退却中の軍隊が引返すのを食い止める為に割当てられた数の憲兵が守るだけで、ヴェルサイユが、新手の士気良好な部隊を持つのは、4月2日以後。中央委員会は、20大隊と数門の大砲、霰弾砲をもって、数日でさしたる困難もなくヴェルサイユ占領が出来た筈。18日夜~19日、中央委員会の大多数は、合法性への懸念、内乱の拒否、プロシア軍への怖れにより偶発性を退ける。
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ヴェルレーヌは市役所に留まり、情報係りを勤める。
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・中央委員会、国民衛兵指揮官に無能力で自慢家のリュリエを任命(最初の大失策)。次いで、宣言(2つの布告)を起草。
委員会は、自分が何を望み、何であるのか、パリの市当局=新しい政府権力であることが判っていない。選ばれた区長、助役がいるのに、選挙を決定し、戒厳令を解除する。しかし、「コミューン」の語は布告は現われない。
 中央委員会は、革命的現実と、それが依拠し、かつ悩まされている合法性との間の矛盾を解決していない。
委員会は、その委託を解消し、人民の名において市庁舎を保管することによって委託を維持すると告げる。
委員会は、既に選出された区長のパリにおける「合法的」権威と、非合法的権威(表的な権威=委員会の権威)との間の潜在的紛争に終止符を打たず、政府との権力の二重性の解決を中途半端にしたままで、いま一つの権力の二重性が生ずるのを放置しようとする。
*
・午前2時、リュリエは、最初の晩から誤りを積み重ねる。ヴィノワの軍隊に難なく退却するのを許し、警視庁において午前中の投獄者の釈放を言い渡し(釈放は実際には既に行なわれてしまっている)、ヴァンドーム広場の指揮をとり、リュクサンプールで捕虜になった士官たちの釈放命令を与える。
*
・午前4時、区長・助役達は証券取引所に本拠をおく。彼らの1人チラールは、パリの行政を委託するとのティエールの手紙を持っており、翌19日昼間、ヴェルサイユからの電報により確認される。
 中央委員会は、彼らの合法的権威に異議申し立てをしない。委員会は、代議士2人と区長・助役6人の代表団を迎え、委員会も、ヴァルラン、ジュールド、ボワシエを含む4人を、区長たちの交渉役に指命。交渉は中断なしに約48時間に亘り継続し、果しない議論の末、中央委員会の代表は妥協を受諾。中央委員会は市庁舎を離れ、ヴァンドーム広場に戻り、そこで衛兵の正式司令部としての機能を果すことになる。市の役人達が市庁舎に現われ、人民によって選ばれた代表として、再び席を占めることになる。
 パリにおける自治体選挙に同意できない代議士・区長は、この選挙と並んで、衛兵の全階級の士官の選挙を議会に要求する掲示を公表する。
 この妥協は、確乎たる革命派、インターナショナル派(ヴァルラン)を含めた中央委員会メンバが、違法性と決定的選択(自治都市の設立、政府の設立)を前にして、どの程度まで躊躇したかを示すもの。軍事的無為と、中央委員会と区長との取引は、ティエールの勢力強化を許す大きな政治的失敗。
*
これらの協定ができるや否や、区長の代表はヴェルサイユに出発。中央委員会側は下部(区の委員会)に意見が求められ、委員会の大多数はこの妥協を拒否。更に、連合の原則に従って諮問をうけた「下部」は重大決定を行なおうとする。
遵法主義者と非遵法主義者、調停派と非調停派、穏和派と過激派、ジャコパン派とブランキ派の間の議論が、19日を埋めつくそうとし、実際には、決裂する。
*
18日~19日への夜半、政府軍、憲兵、警官隊、ヴェルサイユへ退却。政府は区長たちにパリの臨時統治を委ねる。
国民議会パリ選出代議士、区長、区長代理と政府との会談により、ドーレル・ド・パラディーヌ将軍の国民軍総司令官解任、ラングロア大佐への総司令官任命が決定。
市庁舎における国民軍中央委員会会議、退職海軍将校リュリエを、国民軍総司令官に任命、ラングロア大佐への総司令官任命を拒否。
*
政府はパリを総退却。権力は、予期せず国民衛兵中央委員会の双肩に落ちてくる。
*
to be continued to March 1871 (3)

2008年11月13日木曜日

1871年3月(1) ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ プロイセン軍、パリ入城 国民衛兵共和主義連合創設


写真は旧二条城跡(撮影は08/01/02)
場所は、京都市上京区室町通り下立売通り南西角
 この二条城は、永禄12年、信長が将軍義昭の為に建てた城郭(邸宅)。
現在の二条城は、家康が命じて作らせたもの。
本能寺の変の際、信長の長男が戦死するのも二条城と呼ぶ時があり、実は私もその辺の区別が曖昧でした。本能寺の変で焼ける二条城は、信長が誠仁親王の為に建てたもので、現在の烏丸堀川辺にあったといいます。地下鉄工事で、かなり明らかになったと聞いています。例えば、よく言われるように、信長が、畿内近国から石仏を集めさせ、石垣を作ったとか・・・。
 ところで、写真の旧二条城の辺は、武衛陣町とう町名です。室町幕府の管領斯波武衛の屋敷があった場所に由来するもので、現在は平安女学院があります。また、少し前に掲載した「菅家跡」も、ここから100m以内のところにあります。
*
試行錯誤、五里霧中、七転八倒?。・・・屋上屋を重ねるか
 「治承4年4月」のエントリに、見出しを付けるなどの「小改善」を施しました。本来なら、脚注とかで分けるべきものが混在して、錯綜してますので。その他も、徐々にやる予定。
 ***
■1871年3月パリ・コミューン(1) それはジャコバンの見果てぬ夢か・・・
1871年(明治4年)3月
-・大隈参議、「各国条約改正御用掛」となる。5月、外務卿名で各国に条約改正の意向ありと表明。日本の開化不充分として拒絶。
*
-・年貢の代金納みとめる。
*
-・伊達邦直、家臣の石狩郡移住を始める。
*
-・慶應義塾、三田に移る。
*
3月1日
・中国、イスラム教徒馬化竜・馬成竜・譚生成ら、処刑。金積堡のイスラム教徒の乱、平定。
*
3月1日
・東京・京都・大阪に郵便制度が発足。
*
3月1日
1日・仏、パリに弔旗。プロイセン軍がパリ入城、シャンゼリゼを行進、占領。48時間占領後、東北部郊外占領地へ引上げ。2日のヴィルヘルム1世の入城中止。
 
 家々には黒い旗が吊られ、通りは無人、店は閉められ、泉は枯れ、コンコルド広場の様々な像は蔽われ、ガス燈は灯らず、取りつくしまのないパリが、遠来の勝利者を迎える。
ドイツ人は、セーヌ川、出入ロを閉鎖したルーヴルと、サン・トノレ郊外地区に沿う帯状のバリケードに囲まれた地域に押し込められ、「百三十日間パリを囲っていた彼ら自身が、こんどはパリの労働者によって囲まれた。」(エンゲルス)。
「革命の震源地に対して復讐するためにやってきたプロシャのユンケルは、この武装した革命の前に立止って、恭しく敬礼しなければならなかった。」(「フランスにおける内乱」第3版序言)。
 
・国民軍中央委にインタナショナル・メンバ4人派遣。国民軍中央委と政府の二重権力。
 
・ボルドー国民議会、講和予備条約批准(賛成548、反対107)。国民議会移転問題起る(ヴェルサイユかフォンテーヌブローか)。
 
 講和の中身:アルザス及びロレーヌ両州割譲、賠償金50億フラン、賠償金完済までパリ西部諸県の保障占領等。
アルザス及びロレーヌ両州割譲が承認された時、パリ出身代議士マロン、ラン、ロシュフォール、トリドンは、ガソべッタ及びアルザス・ロレーヌ出身代議士と共に議員辞職し、ボルドーを去る。ヴィクトル・ユーゴー、レクリューズも続く。
*
3月2日
・諸藩「常備隊規則」。諸藩兵制整理統一。
*
3月2日
・仏、パリ、国民衛兵共和主義連合結成。正式発足は15日。
この集会で、市民ボワシエが、政府の所在地がパリ以外の場所に移される場合には、「パリ市は直ちに独立の共和国を構成すべきこと」を提案。
 
[規約]
 「権利と正義の唯一の政府たる共和制は、共和制によって生み出された一般投票以上のものである。」
「国民衛兵は共和制顛覆のあらゆる企図と闘わねはならぬ。」
「国民衛兵は、そのすべての責任者を選出し、いかなる地位の責任者であっても、これを選出した者の信頼を失なうや否や、これを罷免する絶対的権利を有する。」(この原則により、従来の責任者は全て再確認を要することになる)。
*
全組織の機関として中央委員会が選出される。
これは、地区毎3名の割合で各地区国民衛兵総会で選出された代表者をもって成るもの。中央委員会の正式成立までの機関として、暫定的な執行委員会が任命される。パりの国民衛兵を構成する270大隊中215大隊がこの新連合組織に参加。主に大中ブルジョア居住地区の大隊が参加せず、その結果、新組織は、パリ勤労民・小市民の共同闘争組織となる。
 
 集会では、「国民衛兵は武装解除のいっさいの企てにたいし抗議し、必要の場合には武力をもってこれに抵抗するであろう」と決議(国民衛兵が、ティエール政府に対抗する独立勢力として成長しつつある)。
しかし、国民衛兵連合自身は、自らが政府に対立する独立した武装権力、いわば国家内の国家になる事を自覚していた訳ではない。国民衛兵連合がその素質を貫こうとすれば、必然的にティエール政府と正面衝突せざるを得ず、この衝突は一方が他方を粉砕するまでおわらない。二重政府は、永続しうべき性質のものではない。
 
[臨時行政委員会、創設]
 メンバとしてアルノール、ベルジュレ・ヴィアール、アンリ・フォルテュネ、パンディ、ヴァルラン、オスティンが選ばれる(いずれも未来のコミューン参加者)。国民軍には、穏健な登録者6千名が去り、政府に忠実な軍団は40~60。しかも国民軍連盟は自らの選挙によって長を選ぶと決定し、これは、首都最高司令官としてパリ降伏文書に署名したヴィノワ将軍、ロワール軍を指揮して大敗したオーレル・ド・パラディーヌ将軍を罷免する根拠になる。ヴァンドーム広場の国民軍参謀本部は影の薄い存在となる。
*
4日、国民衛兵共和主義連合の執行委員会・中央委員会、宣言発表。
「200以上の大隊を代表する代表者総会において任命された国民衛兵中央委員会は、国民衛兵共和主義連合を構成することを使命とするが、それはこれまで常備軍がなしえたよりも一層よく国を保護し、また可能なあらゆる手段をもって脅威下にある共和国を防衛しうるように、国民衛兵を組織せんがためである。」
「中央委員会はもはや無名の委員会ではない。それは、自己の義務を知り、自己の権利を確認する自由な人々の受任者の集まりである・・・」。
*
3月3日
・独、最初の帝国議会選挙。
*
3月5日
・ローザ・ルクセンブルク、ロシア領ポーランドのザモシチにユダヤ人材木商第5子として誕生。1873年ワルシャワに転居。この頃股関節を患い生涯跛足となる。1880年ワルシャワ第2女子ギムナージウムに入学。
*
3月6日
・山口藩、常備壮兵徴募に関し、士族・卒族・百姓・町人にかかわらず希望者は検査のうえ常備軍に編入と布告。
*
3月6日
・仏、ティエール、反動的将軍オーレール・ド・バラディーヌをの国民軍司令官に任命。3日の着任時に彼の下に召集に応じた大隊長は270名中30名のみ。
*
3月7日・国事犯事件
華族外山光輔、京都で逮捕。一党もつぎつぎ逮捕。12月3日、外山は国事犯をもって自尽。外山は天皇の東幸後の京都の衰徴・旧堂上の失権を嘆き、新政府の洋化・開化政策に反対の攘夷主義者。
明治3年末、十津川郷士らが天皇の鹿児島行幸の風聞に基づき、その際天皇を京都に連れ戻す計画を立てていることを知り、自らもその挙に応じて蜂起する計画。やがて久留米藩大参事水野正名などとの繋がりから外山を盟主とする蜂起計画は広がる。一党のひとりが京都で捕えられ盟約書が発見されて露見。
*
3月8日
・菊間藩、廃仏運動に対する護法一揆。
*
3月8日
・仏、ヴィクトル・ユゴー議員辞任。王政派の多い議会に失望。22日ブリュッセルに向う。
* 
・ヴィノワは、ビュット・モンマルトルと、リュクサンプールの大砲50門に対して、2度奪還を試み、また区長に対し、国民衛兵に大砲を返還させるようを呼び掛ける。
*
・8日夜~9日、デュヴァル(第13区)の命令で、大砲数門が押収され、ゴブランの区役所からムーラン・デ・プレ街に曳いてゆかれる。この時既に、モンマルトルは大砲を備えている。
*
3月10日
・反政府陰謀大弾圧。
東京で久留米藩主有馬慶頼を謹慎処分、藩士30名逮捕。11日、熊本藩兵、久留米に迫り大楽源太郎らの引渡しと水野正名大参事逮捕を通告。13日、水野と軍務総裁小河真文が出頭、縛につく。16日、大楽は逃亡しようとするが、軍務副総裁吉田足穂らにおびきだされ筑後川畔で刺殺。4月13日、柳川藩では政府軍により数名逮捕。熊本藩では河上彦斎が逮捕。
*
3月10日
・仏、ボルドーの国民議会、1870年8月13日に決められた手形支払猶予を修正。
 8月13日~11月12日に満期になった手形は、その日付けから7ヶ月後(3月13日~)に支払請求できることになる。11月~4月の満期手形は、3ヶ月の猶予期間内に利息と共に支払わねばならなくなる。
 13~17日、パリで15万の手形引受けが拒絶(手形支払期限に応じられない)され、大量の小規模商人・企業家達が破産。
 
[未納家賃問題]
パリにとっての脅威。家賃も、70年10月1日以後、支払猶予されていたが、戦争が終り、家主たちは、10月以後6ヶ月間の家賃の即時支払を要求。労働者・小商工業者らの借家人30万は、籠城中に貯蓄を費い果たし、未納家賃を支払わうならば破産するより途がなくなる。政府は善処すると言うだけ対策なし。満期手形と未納家賃の問題は、パリの中小ブルジョアを、反国民議会に走らせ共同戦線を一層広汎なものにする。国民議会は又、国民衛兵に対する日給1フラン50サンチームは、失業者証明を付して願書を提出する者のみに給与すると決定。この決定もまた、大部分が失業者で、給与される1フラン50で辛うじて命をつないでいる国民衛兵を激昂させる。
 
 ティエールの工作により、3月初頭から地方の新聞は、パリの放火掠奪について書き立て、3日には、パリに暴動が発生し、パリ司令官ヴィノア将軍はセーヌ左岸に退き、電信連絡が切断されたとの噂でボルドーの国民議会が沸騰。クレマンソー他3名のパリ出身議員が調査のためパリに派遣され、「市内には全然異変なし」と報告。内相ピカールは、「この平穏は見せかけのものにすぎない」と答える。
 
・ティエール提案、国民議会、ボルドーよりヴェルサイユへ移転決定(パリ移転は427対154で否決)。パリに戒厳状態を復活させ、軍事総督・警視総監・国民軍司令官に反動家を任命。パリの孤立を狙う。
 
・国民衛兵連盟中央規約決定
[国民衛兵共和主義連合中央委員会の呼び掛け]
 「人民の息子たる兵士諸君!・・・パリには300,000人の国民衛兵がいる。しかも、毎日、多くの軍団が送りこまれ、その軍団はパリの住民の精神について誤解を吹込まれようとしている。敗北を計画し、フランスを分断し、われわれの金のすべてを引渡した人々が、内乱をひきおこすことで負わされた責任を逃れようとしている。彼らは、彼らの考える犯罪の従順な道具に諸君がなるだろうと思っている。民兵諸君!諸君は、諸君の血管を流れるのと同じ血を流させようとする神を恐れない命令に従うのか。諸君は諸君自身の臓腑をひき裂くのか。否。諸君は親殺しや、兄弟殺しになることに同意はしないだろう・・・共和国万歳!」。
中央委員会はクーデタ、もしくは政府の実力行使、ティエールの挑発する内乱を予想する。
*
3月11日
・仏、パリ、パリ軍総司令官ヴィノワ、忠実と信じる第59大隊をヴォージュ広場にやって、大隊に所属する「アルザス・ロレーヌ」という象徴的な名をもつ大砲を探させる。
 
 第59大隊は大砲をパンテオンに向って曳いてゆき、そこでは、政府側区長ヴアシュロは兵の他の諸大隊もこの方法にならうだろうと告げる。ついで、理工科大学の方へ向かう時、大隊代表ジャン・アルマーヌは、列を離れ、「この大砲は人民のものだ」と叫ぶ。大隊は列を乱し、ラテン区を横切をデモに変化し、「アルザス・ロレーヌ」は国民衛兵2千によってヴオージュ広場に戻される。
この結果、第5、13区の委員会はデュヴアルと連絡をとり純然たる防衛措置をとり、攻撃を受けた場合、空砲1発が住民に急を告げるようにする。ヴィノワは、攻撃配置をとり、大砲を備えた戦列歩兵2連隊がリュクサンプール公園を占領し、そこに宿営する。
 
12日・仏、パリ軍総司令官ヴィノワ、共和派新聞6紙(「ペール・デュシェーヌ」「人民の叫び」「復智者」「合言葉」「ラ・カリカチュール」など)発禁。うち4紙は発行部数20万。色とりどりのポスターが革命派の主張手段となる。
 
・フルーランス、ブランキら、10月31日の蜂起に参加した廉により欠席裁判により死刑判決。フルーランス、ブランキは抗議声明発表。
 
・モンマルトルの国民衛兵の代表達、第18区区長クレマンソーに大砲返還を申し出る。
 
・リオン、市庁舎占拠。コミューン選挙布告。25日、自然消滅。
 
▽ティエール政府の反動攻勢を前に、人々は苛立ち、とげとげしく、過激化してゆく。
ブランキ派・ブルードン派他の革命的グループの唱える新社会の理想が次第に大衆の心を捉え、人民に基礎をおく新共和政権を樹立し、理想社会建設に邁進しようとの気運が強くなる。9月4日~降服の4ヶ月間のパリの市民の関心は、愛国的祖国防衛に集中していたが、今や関心は、広汎な社会革命に向かい始める。ボルドーの反動勢力は支配階級の本能的直感によってこれを理解し、生まれつつある革命を圧殺し、地方伝播阻止に傾注する。
*
3月13日
・仏、ボルドー国民議会、戦争の初めに実施された家賃支払延期を停止。人民・労働者に対する階級的攻撃。
*
3月13日
・この頃の「タイムス」紙に掲載された同紙パリ通信員の至急報。
 13日付の12日発の至急報は、「蜂起の動きは弱まっている。運動を構成する分子の間には緊密な結合が欠けている」。15日の至急報はこの印象を確認。8日付け同紙の7日発の至急報は、政府の目的は秩序と平和を回復して革命を打倒する為に革命を挑発することにある、とする。
*
3月13日
・ロンドン会議、ロシアの黒海再武装承認。 
*
3月14日
・東京・京都・大阪間の郵便が開始。
*
3月14日
・第2維新事件。公卿愛宕通旭、謀反容疑で逮捕。
 愛宕通旭は明治元年2月参与、同10月神祇官判事、翌2年5月の官吏公選で免職(多くの公卿出身者が免職)。一方、愛宕家抱えの国学者比喜多源二は政府への建白、建白が受入れられない場合は天皇を京都に連れ戻る計画をたて、失意の愛宕がこれに賛同する。明治3年夏頃、柳川藩処士古賀十郎が加わり、この古賀が秋田藩士初岡敬治にも決起を呼びかける。また、古賀は尊攘主義者外務大丞丸山作楽とも繋がる。愛宕の密かな計画も進行、農民一揆の盟主にとの依頼もくるようになる。明治4年初め、愛宕・比喜多らは上京。政府側はこの動きを察知しており、2月下旬古賀十郎謹慎。3月10日比喜多の弾正台召喚、愛宕ら逮捕となる。初岡は秋田で糾問、5月10日東京へ護送、12月3日、愛宕らと処刑。
 
 初岡敬治:藩校明徳館教授。戊辰戦争時の秋田藩の政府側への藩論転回に一役かう。明治2年3月東京に移り、5月国政への意見を求められ時論を建議。開化政策を批判するが、やがて尊攘激情家として知られるようになる。明治2年7月招魂社へ旗奉納をめぐる事件(武士が耶蘇教徒を踏みつける絵を奉納しようとする)、同9月剣舞事件(柳橋の料亭での長州藩との懇親会で「奸可斬」と歌い剣舞)。明治3年3月秋田藩に帰る。
 
[「国事犯」(外山・愛宕・久留米藩処分)]
 処断者339名。自尽:愛宕、外山。斬罪:愛宕家家扶比喜多源二、元柳川藩士古賀十郎、秋田藩士初岡敬治、久留米藩士小河真文、久留米藩士古松簡二、熊本藩士河上彦斎、高知脱藩岡崎恭助、豊後国農楠本省吾・楠本勘兵衛・阿部琢磨、豊前国農矢野寿助。終身禁固24、禁獄39。
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3月14日
・仏、ティエール、ヴェルサイユ着。
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3月14日
・アルジェリア原住民反乱、始まる。指導者モハンメッド・アル・モクラニをフランスの植民者に反対する「神聖な軍人」(ジハド)と宣言。アルジェリア部隊は、ボルジ・プ・アレリジ市を攻撃。
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3月15日
・仏、パリ国民軍共和主義連合中央委員会、正式に成立。
 
・第4回国民軍(国民衛兵)連合総会、「祖国と全人類をすくう唯一の制度である民主的社会共和国の建設」決議。215大隊代表。
 
 何人かの民兵が、士官の解任可能性の原理について発言。
会議は総指揮官ドーレル・ド・パラディーヌを不承認、代りに1票を除く満場一致で、ガリパルディ(イタリア統一運動指導者)を指名。前海軍将校リュリ工が砲兵司令官に任命。選挙未了の若干の地区を除く諸地区選出の中央委員約30名の氏名発表。
どの党派にも属さない無名の新人と並び、アルヌー、ジュールド、アルノール、バビック、アッシ、ビリオレイ、アルマーヌ、ベルジュレー、ヴァルラン、ユード、デュヴァル等の、ブランキー派・やインタナショナル派の名士が中央委員会になった事は、政治的共同戦線体としての国民衛兵連合の特色を一層鮮明にする。連合は、政治的意図を公然と宣言し、共和政、パリ、及びフランス人民に抗して向けられる全試みに反対。彼らは武装した選挙集団(政治的集団)である。
 
[権力の二重性が明瞭になる]
 第13区では、デュヴァルが主導権をとり、政治プログラムを貼り出し、軍需品を奪取し、大砲26門をその司令部からほど遠くないところへ移し、政府とは独立のやり方で行動する。内務長官ピカールは抗議。
「もっとも悲しむべき事実が、数日来発生し、市の平和をひどくおぴやかしている。武装した国民衛兵は、その正当な首長に従わず、反対に、法によって厳重に罰せられる犯罪を犯すことなしには何の命令も下すことのできない名もない中央委員会に従い、多数の武器を奪いとった・・・」。
 
 政府は経済的・政治的側面で主導権をとる。家賃・商業手形支払いに関する法律の廃止。パリの「非首都化」、議会のヴェルサイユ樹立。プランキとフルーランスに死刑宣告。左翼新聞の禁止。反動家ヴァランタンを警視総監に、(オルレアン周辺で指揮した軍隊の敗北以来、不人気の)ドーレル・ド・パラディーヌを衛兵総指揮官に任命。俸給を停止すると威嚇し国民衛兵解体を試みる。
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3月16日
・仏、ティエール、パリ警視庁警視総監にパリ警官隊連隊長ヴァランタン将軍任命
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3月17日
・仏、夜、ティエール政府閣議、パリ国民衛兵奇襲(砲廠奪回作戦)計画決定。中央委員25名逮捕、パリが保管する砲250門の奪取を決定。その後2ヶ月にわたる内乱を開く合図
 
・夜~18日、ドーレル・ド・パラディーヌ将軍、パリ中央部諸地区のブルジョア派40大隊の指揮官を召集、集った士官約60人に、その筋ではベルヴィルの住民が市庁舎を攻撃すると予想していると断言。
 
 彼は、18日午前6時以後、信頼できる大隊を集め、パリを扇形戦区に区分する事を提案。彼はこの扇形戦区の責任者となるべき士官を指名しようとするが、士官たちは、自分達の部下は最も信頼できる者でさえ、各自の地区を離れることに同意するとは考えられない、1200人の内200人以上がこの呼びかけに応じるかどうか疑わしいときえ答える。しかし、パラディーヌ将軍は彼の指示を主張。
 
・ブランキ、病気療養中、ヴェルサイユ側に逮捕、監禁。
                        to be continued to March/1871 (2)