大杉栄とその時代年表(22) 1888(明治21)年5月~6月 「朝日新聞」(村山龍平)、「めざまし新聞」(星亨)を買収 小泉信三・安井曾太郎・神近市子生まれる 一葉(16)一家、兄虎之助の借家に同居 大同団結運動機関誌「政論」創刊 田邊花圃『薮の鶯』発表 一葉に強い影響を与える 一葉の父・則義、事業失敗 松岡好一「高島炭坑の惨状」 より続く
1888(明治21)
7月
日本演劇矯風会設立
7月
漱石・子規(21)、第一高等中学校予科卒業。
7月
渋谷三郎は東京専門学校を卒業。則義は一葉の配偶者として期待。
7月
ゴッホ、この頃、肖像画が増える。アルルでの彼の友人たち、郵便局員ルーラン一家、「カフェ・ド・ラ・ガール」経営者ジヌー夫人、アルジェリア歩兵連隊少尉ミリエ、ベルギー画家ボックなど。
7月1日
神奈川県通信所、事務取扱を試験的に開始。通信所が4日の「公論新聞」に掲載した開設広告中の賛成委員数名から、氏名の無断使用の抗議を受け、19日の同紙に取消し広告が掲載、対立は一挙に公然化。抗議したのは、中川良知、吉野泰三、中溝昌弘、青木正太郎、福井直吉ら県会騒動時に「軟弱」とされた県議とその支持者。県会騒動での対立が、吉野泰三のグループと森久保作蔵・窪田久米らのグループの対立となって表面化。以後、両派の対立はくすぶり続けるが、通信所をめぐる「紳士派」と「壮士派」の対立は、即座に分裂に至らず。小異を捨てて大同につけとの運動が全国的な盛り上がりをみせ、暮には、県内の大同団結組織の「神奈川県倶楽部」結成準備が始まる。
7月1日
この頃、正岡子規・藤野古白・三並良(松友)、長命寺境内の桜餅屋月香楼(南葛飾郡向島須崎村32番地山本方)を借りて夏休みを一緒に過す。この時から文学的交流が始る。
子規は『七艸集(なゝくさしふ)』の「蘭之巻」・「萩之巻」・「をミなへし乃巻」・「尾花(すすき)の巻」・「あさかほのまき」・「かる萱の巻」を書き上げる。
月香楼には、おろくと呼ばれる年の頃18、9になる色白で愛嬌のある少女がいた。
此店の看板娘とでもいふわけであつたらう。其の少女がいつも食事の給仕に二階にあがつて来るので、長い間には心易くなつて互に冗談なども言ひ合つてゐた。なかでも子規は一番よく話が合ふので、おろくもツイ長座をすると、階下から母親が声をかけて呼びおろすことも屡々(しばしば)あった。
(略)
三並氏は曾て予に言つたことがある。「当時子規はおろくに就て内面的研究をやつてゐたのであらう。叔父の加藤拓川は兎角女の外面的研究をやる男であつたが、子規のは内面的心理の研究であった」と。其の意味が予には十分判らないが、処女としての心情の動きを子規はひそかは研究してゐたといふ意味でもあらうか。(柳原極堂『友人子規』)
「処女としての心情の動きを秘かに研究していた」子規は、おろくに恋したらしい。仲間うちでも噂になった。
向島で3ヶ月過す間に子規は秋の七草にちなんだ創作集『七艸集』を完成させる。漢文(「蘭之巻」)、漢詩(「萩之巻」)、和歌(「女郎花の巻」)、俳句(「芒のまき」)、謡曲(「蕣のまき」)などからなるものだが、滞在中に成ったのは5巻だけで、向島を去った直後に「刈る萱のまき」という散文を書く。
友人の一人が子規に、最近きみ様子がおかしいではないかと尋ねる。すると子規は、脳の調子が変なのだと答える。友人はさらに、「君のいたつきはさることにあらざるべし。かならずや思案の外の事なるべし」と追い打ちをかける。子規はそれを否定する。
こはけしかることを聞くものかな。左様なることはやんごとなき公達か世にもてはやさるゝ俳優などの上にこそあるぺけれ、世の人が一文なしの素寒貧とあだ名する書生の上にさることのあるべうも思ばれず。
生真面目に答えているだけに、かえって、疑惑を認めてしまっている。友人は笑ってこう言う。
このことは我一人の思ひはかりたることにもあらず、世の人の皆うはさする処なり。誰もいひたり、彼もいひたり、君と同じやどりにすみし人だにもいふものを今さら何を疑ふべきや。
子規は、こういうやり取りを自分で書き記しながら、実は内心、満更でもなかったのではないか。
8月初旬 藤野古白・三並良、駿河の旅に赴き、富士登山をして1週間ほどして帰京。2日ほどして藤野古白・三並良は月香楼引払う。子規は9月24日まで滞在。
7月5日
後藤象二郎、北陸・東北遊説へ出発。~8月23日。長野・富山・新潟・山形(24日)・秋田・青森・岩手・宮城・福島。2年後の第1回総選挙にむけた選挙母体の組織化が目的。
7月5日
森鴎外(26)、ペルリンを発ち、掃国の途につく。
7月7日
福井市制について協議会を開催。
第九十二国立銀行の発起により商工会議所、竟成社などの有志、福井新報社員約30人が、福井市制の件について協議会を開催、以後会を重ねる中で市制実地施行委員に狛元、林藤五郎、松原秀成、東郷、笹倉が選任。この集りが福井有志集談会に発展し、懇親会・親睦会などの名で会合を続け、市制実施後の対策や県会傍聴などによる地方政治への関心の高揚を意図する。
7月10日
「東京朝日新聞」発行。この年5月、自由党系小新聞「めざまし新聞」を「朝日」社長村山龍平が三千円で買収。
村山社長は大阪府議を辞職して東京進出に備える。「めさまし」買収後、取次店主・売捌人・同業各社幹部を招いて盛宴を張り、東京進出の第一歩とする。編輯員より先に「上賓」として売捌人を招き、彼らは大いに厚遇を感じる。歩合も他社より高く、「朝日」販売に尽力する。定価は1部1銭、1ヶ月25銭、10面あり「めさまし」の斎藤緑雨の絵入り小説「涙」12回目を引き継いで小新聞調の発足。絵付録に「貴顕の肖像」として、明治天皇の大礼服姿半身像(山本芳翠画)をつけたことが当たり、追加注文が殺到。
編集関係者は20人、編輯長格兼主筆格は水戸藩士の子小宮山桂介(天香)で、「日本立憲政党新聞」に翻訳小説を執筆、連載したり、上京して「絵入朝野」編輯長。「東京朝日」創刊で入社前は「改進」新聞に小説を連載し好評。半井桃水は、「尊敬すべき良師」として小宮山を樋口一葉に紹介している。社説・編集実務担当は、南部藩士の子で盛岡中学中退、漢学を学んだ佐藤真一(北江)で、この頃は20歳すぎ、「めさまし」から「東京朝日」へ移り26年勤続。同郷の石川啄木を校正係として入社させている。村山社長は東京に居を移し、毎日編輯室に詰め、帰宅後もゲラ刷りをチェック、忌憚に触れそうな個所に朱筆を入れる。
創刊号は、二面中央に三段で斎藤緑雨の小説「涙」を掲載。更に、三面上段には、大物小説記者・宇田川文海(半痴居士)の時代小説「樹間の月」。
明治22年1月からは『朝日』を『大阪朝日新聞』と改め、『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』が併立。
7月10日
狩野亨吉、帝国大学理科大学数学科卒菜。帝国大学文科大学哲学科入学のため、1年間受験準備をする。
7月14日
大阪事件上告審、名古屋重罪裁判所。重禁固9年、第1審より重くなる。
7月14日
里見弴、横浜月岡町の横浜税関長(父)の官舎で誕生。
7月15日
磐梯山が大爆発。秋元・細野・雄子沢の3集落は全滅、死者461人
東京朝日は記者を派遣し、生々しいルポを送る。また、著名な洋画家山本芳翠を派遣、山本は噴煙あがる磐梯山を見ながら直接、版木の上に逆さに写生し、これを同行者が急ぎ東京に持ち帰り、木版家が彫刻して印刷。この木版画を8月1日に新聞の付録として添付。
読売は写真師を現地に派遣、写真画として7日から新聞に掲載。新聞の写真掲載の初めとされる。
7月18日
海水浴場で、男女の区画を設け混泳が禁止。神奈川。
7月20日
木下尚江、東京専門学校邦語法律科卒業。11月、松本の「信陽日報」記者となる。明治23年夏、県庁移転問題で排斥され「信陽日報」廃刊。
7月21日
枢密院議長伊藤博文、書記官長井上毅に憲法草案の再検討を指示。89年1月13日、憲法修正案確定。
7月29日
亡命朝鮮人金玉均を小笠原島より北海道札幌に移す
8月
植木枝盛「後藤伯の巡遊」(「土陽新聞」)。大同団結訴える後藤の全国遊説の労をねぎらう。
8月
子規(21)、鎌倉江の島で2度喀血。このときは咽喉の傷から出たのだろうとたかをくくっていたが、これは結核の最初の徴候であった。
8月
ツルゲーネフ・二葉亭四迷(24)訳「あひゞき」(国民之友)7、8月
8月
山田美妙、作品集『夏木立』刊行(金港堂)。『以良都女』編集メンバーだった金港堂社員新保磐次との関係で美妙は金港堂と縁が出来た。前年6月には、二葉亭四迷が坪内雄蔵(逍遥)名機で金港堂から『浮雲』第1篇を刊行していた。金港堂は、言文一致を始めとする「新しい文学」の舵取りをしようとしていた。
夏
両国の川開きの晩、予備門のボート選手たちがポートを漕いで子規を迎えに来てくれる。松山時代からの友人三並良の「子規を偲ぶ」。
之を以て思ふに、子規は選手連中に相当顔が売れて居たのであらう。彼はベースボールの選手であったが、或はボートも漕いで居たのみも知れない。矢張り多趣味な彼である。私共三人共にポートに乗せられ、両国橋よりも下に下り、その辺を選手が縦横に、自由に漕ぎまはつて、花火を足る程見せてくれた。
8月7日
ロンドン、イーストエンド貧民街、切り裂きジャック、第1の殺人を犯す。
8月8日
駐米公使陸奥宗光から外相大隈重信宛書簡。「去年保安条例発布之時の事情も、馬場の煽動与りて力ある事実に候。・・・」。
8月16日
英、トマス・エドワード・ロレンス、ウェールズ、カーナヴォン州の小村トレマドックに誕生。5人兄弟の次男。私生児。8歳でオックスフォードに落ち着くまでは、スコットランド、マン島、フランス・ブルターニュなど住居を変える。オックスフォード以降は、勉学に優秀な成績を修め奨学金を獲得。10歳頃より考古学・歴史の勉強を始める。
8月18日
政府は4月21日三池礦山払下規則を定め、8月開札の結果。455万5千円で佐々木八郎名義の三井組へ払下を決定。1889年1月以降、同炭鉱は三池炭礦社によって経営。初代事務長団琢磨。払受額:100万円即納・残金15ヶ年賦。三池炭鉱は三井物産とともに三井財閥形成に重要な役割を果たす。
8月18日
石阪昌孝、13日付けの村野常右衛門(獄中)書簡に対する返書。出獄後すぐ帰宅を勧めると同時に、豚児・山口朱雀・窪田・平野・佐々木・小林・林・青木の消息を知らせる。
つづく