2024年1月31日水曜日

万博強行の裏に“維新&吉本”蜜月41億円 吉本元ドンが週刊文春に「万博、何が悪いんや」 / 「国の催事やで!決まったことやで!」 吉本興業前会長・大﨑洋氏が万博延期論を一刀両断 《資材高騰も人手不足も「万博には関係ないから」》(週刊文春)    

弁護士が原告なのに敗訴したオソマツ! → 弘中弁護士『裁判所は橋下さんの「ムチを振るいアメを与え」という事は真実であると断定。ハッキリと判決で認定してくれたわけです。主戦場であるところについては全面的勝訴と言って良いと思います』 / 「大石議員の発言の事実は重要部分において真実」「意見ないし論評の域を超えない」 橋下徹元大阪府知事vsれいわ大石晃子衆院議員は大石氏に軍配 名誉毀損裁判で判決(ABCニュース) / 橋下氏が敗訴 「れいわ」大石議員と「日刊ゲンダイ」を訴えた裁判 「橋下元知事は気に入らない記者は袋叩き」と批判したインタビュー記事 「重要な部分が真実であり違法性を欠く」と請求棄却 大阪地裁(カンテレ) / 橋下氏への名誉毀損認めず、大阪地裁 れいわ大石氏の記事巡り(毎日)



 

 

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 ▼維新のメディア対応(恫喝)

【独自取材】“裏金”リスト 自民党の安倍派・二階派議員は現時点で42人|日テレNEWS NNN

これが維新政治の実態。優勝パレードとかF1とかは熱心だけど、芸術・美術は全くダメダメ → 美術品に「引っ越しラベル」じか貼り 大阪府、ずさん管理6年の代償(毎日)

 

大杉栄とその時代年表(26) 1889(明治22)年1月 漱石(22)の新たな決意 漱石と子規の出会い 石原莞爾生まれる 「大阪公論」社説、「民間の人士」が望んできたほどの希望をこの憲法に託すならば、失望は免れまいと述べる    

大杉栄とその時代年表(25) 1888(明治21)年11月~12月 幸徳伝次郎(18)中村を出奔、中江兆民の書生部屋に住み込む 「経世評論」創刊(東海散士、池辺三山) 恒藤恭・菊池寛生まれる  ゴッホ、自分の左耳下部を切り取る より続く

 1889(明治22)年

1月

福井県会解散(12月)後の県会議員選挙(1月)と石黒知事の非職(2月)。

憲法発布・衆議院議員選挙を控え激戦。当選者は、前議員19、元議員6、新人11。師範学校費全廃建議案賛成18人中10人が再選。36人の殆どは地主議員となる。

松方デフレによる農村疲弊を経て、新県会は民力休養を唱え、農民課税にはより防御的となり、2月の再開通常県会でも勧業費は再び大幅削減となる。織物伝習所費など多くの費目は全廃、2次会での決議額は原案の1割未満となる。羽二重を中心とする絹織物業に象徴される企業勃興という課題に対して福井県会は終始消極的で、日清戦争前まで勧業費は1千~5千円台という低額。

尚、石黒知事は再開通常県会を前に内務大臣命により上京、県会閉会の2月18日の8日後に非職となる。8年余の石黒県政は終焉、旧薩摩藩士・内務省一等警視安立利綱が2代目知事に就任。

2月臨時県会で議長杉田定一・副議長永田定右衛門が選任。2月11日、杉田は福井県会議長として憲法発布式典に参列。以後暫く在京し、中央の政治活動に加わり、3月3日帰福。

1月

「妹と背かゞみ」・「細君」(「国民之友」)、家族と人情が近代国民国家の基礎となる

1月

森鴎外「小説論」。

1月

坪内逍遙(30)「細君」(「国民之友」)。これを最後に小説の筆を絶つことを決意

1月

漱石、新年にあたり決意を新たにする。


「この年の初めに、彼は札幌に行った橋本左五郎に英文の手紙(『漱石全集』第二十六巻、下書き訳文)を書いているが、それによると、新年に当たって顧みると、周囲の変化に取り残されそうな自分に、これではならぬと決意を新たにしたという。そこで彼が描いた自画像は、「頑固で熟しやすく、見知らぬ人の前に出るとはにかんで人見知りする質で、親しい友の前では冗談を言ったり語呂合わせなどして、陽気にするのが好きで、何でも試しにやってみるのは熱心なくせに途中で放り出し、実りのない空想に耽り、自負心が強く、不注意」な人間である。これからは「醒めた心を持ち、注意深く、勤勉になろうと思う」という主旨で、自分に厳しい。」(岩波新書『夏目漱石』)

《漱石と子規の出会い》

1月 漱石、共通の趣味である落語を介して正岡子規を知る。二人とも寄席が好きで、日本橋瀬戸物町の伊勢本という寄席へ講釈を聞きに行ったのが、そのはじまりと伝えられる。

子規は「筆まかせ」(明治22年)の中で、漱石を「談心の友」、「畏友」と呼ぶ。

当時、同級には山田美妙、上級には川上眉山・尾崎紅葉・石橋思案等がいた。

「子規が漱石の『木屑録』の跋に、「 - 余、吾兄を知ること久し、而して吾兄と交れるは、則ち今年一月に始まれり、余の初め東都に来るや、友を求むること数年にして、未だ一人を得ず、吾兄を知るに及んで、乃ち竊(ひそか)に期する所あり、而して其の己を知るを辱(かたじけな)うするに至って、而して前日を憶へば、此の吾兄に得たる所は、甚だ前に期せし所のものに過ぎたり、是に於てか、余は始めて一益友を得たり、此の喜知るべきなり」(現漢文)と書いてるのは、よくその間の消息を伝えているものというべきだ。それからというもの二人はよく日本橋の伊勢本あたりの寄席へかよつたものらしい。」(『漱石傳記篇』)

「忘れてゐたが彼と僕と交際し始めたもう一つの原因は二人で寄席の話をした時先生も大に寄席通を似て任じて居る。ところが寄席の事を知ってゐたので話すに足るとでも思ったのであらう。其から大に近よって来た」(漱石談話『正岡子規』)

「漱石の回想によれば、彼らの交友の切っかけのひとつは、彼らが共に寄席好きで話が合ったということらしいが、事実、彼らの初期の往復書簡には、落語風の措辞や地口がちりばめられていて、その寄席好きがなかなかのものであったことがわかる。・・・・・それにこのことは、当時、寄席という存在が、知的な青年たちに対しても、現在とは異なる強い力をふるっていたことをうかがわせて興味深いのである。」(粟津則雄(『漱石・子規往復書簡集』(岩波文庫)解説))

1月1日

東京と熱海の間の公衆用市外電話が開通

1月3日

大阪の「朝日」が「大阪朝日」と改題し「大阪公論」を姉妹紙とする。「東京朝日」は「東京公論」を姉妹紙とする。「公論」の眼目は2面トップの社説で、末広鉄腸(重恭)が主筆として入社、社説を担当。憲法制定・国会開設に備えての布陣。

1月3日

大阪の「東雲新聞」、「愈よ来る二月十一日を以て憲法を発布する事に決したるよし」と最初に報じる。憲法や衆議院選挙法は、発布の日も秘密となっている。

1月3日

ニーチェ、トリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒、精神に異常をきたす。7日にかけていわゆる「狂気の手紙」を書き送る。8日、オーヴァーベック、トリノ到着。錯乱状態のニーチェを下宿で発見。翌日、ニーチェを連れてバーゼルへ戻る。10日、ニーチェ、バーゼルの神経科医院入院。医師は回復の見込み無しと診断。中旬、「偶像の黄昏」刊行。

1月4日

三井物産、三池炭鉱払下。三井集治監囚人使役。42年間継続。

1月7日

ゴッホ、退院、「黄色い家」へ戻る。医師レー、牧師サル、ルーランやジヌーらの友人が彼を支える。

1月9日

社説「将さに発布せられんとする憲法につきて」(「大阪公論」)、「民間の人士」が望んできたほどの希望をこの憲法に託すならば、失望は免れまいと述べる。筆者は「自由新聞」にいた西河通徹。

「何となれば所謂ビスマーク風の独逸主義(適当に独逸風と称すべからず)と、日本従来の政体とをこきまぜたるものに相違あるまじければなり。然り何人も同意し得るものには非るべし。然ども其条目に不同意なるからとて、直に其全部に付き明治政府と一大鏖戦を開きて、死生を一期に決すべきか、抑も亦耐忍勤勉、泰西の人士が歴史に遺したる跡を追ふて、効を永久に期すべきか」。そして「故に余輩は世人が耐忍勉労、効を永久に期するの心算を以て新憲法を承け入れ、一たび放るるも屈せず、二たび辱しめらるるも怒らず、動せず慌せず、徐々に己が望む所を達するの覚悟を定めんことを」と、明治政府との決戦は避け、改良の方策を求めよと主張

1月10日

フランス、コートジボアールを保護領とする

1月11日

社説「前途の大計」(「大阪公論」)。

この20余年、日本人民と政府は相反する道を歩んできた。政府は今こそ、「言論出版の制限を解き、整々堂々と民間の人士」と相まみえ、「奇々怪々の情報を一掃」して、「勝敗ともに公明正大の方法」をとることを求める。全文94行の内3ヶ所28行が伏字

1月12日

マドリードにスペイン・フィリピン協会結成。

1月16日

枢密院、憲法修正案につき再審会議を開く。1月31日議了。

1月18日

石原莞爾、山形県西田川郡鶴岡町(現鶴岡市)に誕生。

1月22日

改正徴兵令、公布。国民皆兵主義が実現。

1月23日

元老院、再び民法案を返上。

1月24日

ボアソナアド民法典、元老院に下付。政府は逐条審議をやめ大体の可否を決するため、元老院に命じ、3月4日「大体可否会議仮規則」制定、7日本会議としての「大体可否会」を開催。圧倒的多数により各法典の審議委員決定。以降、元老院民法審議委員会で4ヶ月間審議。7月末ふたたび元老院本会議に付される。

1月27日

普仏戦争の英雄ジョルジュ・ブーランジェ将軍(52)、パリ補欠選挙で圧勝。反共和主義、反議会制、ナショナリズム、対ドイツ強硬政策。

1月30日

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の息子、帝位継承者ルドルフ大公、マイヤリンクの狩猟館で愛人マリー・フェッツェラ男爵令嬢(17)と自殺。

つづく

空疎な岸田施政方針演説 → 自民裏金、実態調査しないで「再発防止」に向かっていいの? 岸田首相の施政方針演説 解明に全く触れず(東京) / (社説)施政方針演説 信頼回復の覚悟見えぬ(朝日);「信頼回復への覚悟も熱意も伝わってこない。素通りした重要課題も少なくない。首相演説で毎回取り上げてきた旧統一教会への言及は消えた。教団と自民党の関係解明は全く進んでいない。殺傷能力のある武器輸出に道を開く政策変更も説明しないのでは、国会軽視と言うほかない」 / 改憲にも踏み込んだ岸田首相の勝負演説 政治改革に「力」はなかった(朝日);「「絆の力」を4回、「新たな力」を6回、「稼ぐ力」を2回連発した。こうした「力」の組み合わせで、明日は今日より良くなる「確かな力」になると演説を結んだ」 / 自民裏金、実態調査しないで「再発防止」に向かっていいの? 岸田首相の施政方針演説 解明に全く触れず(東京) / (天声人語)岸田首相の施政方針演説 ; 「丁寧に、真摯に、適切に。岸田首相の発言には修飾語が多い。施政方針演説では「しっかり」が気になった。数えたら就任以来2500回以上の「しっかり」を国会で繰り返した。おとといは連座制を問われて「しっかり議論を行っていきたい」…求められるのは本気、事実、具体策だ」 / 「人手不足が深刻化する中 『公務員を増やさずに』 行政サービスを持続出来る環境を作ります」 / 岸田総理が施政方針演説中、“裏金”議員や自民党幹部は…居眠り。(news23) 「巨悪は眠る」の図 



 

公立高校生たちがシカゴ市庁舎を占拠し、『バイデン、バイデン、隠れるな、あなたはジェノサイドを支持している!』とコール / 米カリフォルニア州オークランドにある連邦地裁前で、パレスチナ を支持する市民らが「バイデンはジェノサイドの共犯者・イスラエルに爆弾を渡すな」と書かれた巨大な横断幕を道路上に掲げました。(動画)

 

万博「中止」ではなく「延期」は極めて常識的な判断 → “万博延期”進言の高市氏に対し「言い続けるなら辞任するべきだ」維新・馬場氏が“激怒”(FNN);「どんな意見でも言うだけなら自由だし、「万博中止」でなく「延期」なら修正案の範疇内で、特段内閣の方針に反するとかじゃなく、「(閣僚を)辞任するべき」の論理が理解不能です。結局の所「俺が気に入らない事を言う奴は辞任しろ」という事で、これが維新と言う事です。—米山隆一」  / この方も → 新浪剛史・経済同友会代表幹事、また万博延期に言及 「人手や資材が足りなければ間違いなく復興優先」(東京)         

 

 

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2024年1月30日火曜日

コンビニのコーヒー小カップにラージ分「万引き」 校長懲戒免職 (毎日);「公立中学の校長は 490円の"万引き"で略式起訴されて懲戒免職になるのに、自民党国会議員の政治資金規正法違反(裏金作り)は3000万円以下だと起訴もされず国会議員もクビにならない(辞職もしない)。どう考えてもおかしいでしょ。— 布施祐仁」

 

「闇パーティーやりたい放題」…岸田首相「就任祝う会」の巧妙さ 野党が批判、首相は「純粋な祝賀会」主張(東京); 大西健介議員 令和4年の6月12日、広島市内のホテルで支持者ら約1100人が出席をして、衆議院議員岸田文雄先生内閣総理大臣就任を祝う会というのが行われました。これ飲食の提供はありません。総理の色紙と著書が配られたということですけども、会費1万円ですよ。でも政治資金パーティー開催事業費というところにも、その他の事業費というところにも何の記載もないんです。受付とか経理も岸田事務所がやってたそうです。、、、、、    

 



 

「万博延期もありうべし」 同友会の新浪氏 震災復興に支障来すなら ; 経済同友会の新浪剛史代表幹事は30日、大阪・関西万博の会場建設をめぐり、能登半島地震からの復旧・復興工事に支障を来すような事態が起きた場合には、「(万博の)延期がありうるべきだ」と語った。 — 朝日新聞        

宏池会「25億円」を牛耳る岸田“派閥解散”の噓 事務局長が初告白「法律では私に責任が…」(週刊文春);「宏池会の政治団体「宏池政策研究会」の収支報告書によれば、政治資金パーティや所属議員からの“上納金”などで、毎年2億円前後の収入を得てきた。岸田氏が会長の任にあった12年から22年までの11年間で、実に約25億円の政治資金を集めている。」

大杉栄とその時代年表(25) 1888(明治21)年11月~12月 幸徳伝次郎(18)中村を出奔、中江兆民の書生部屋に住み込む 「経世評論」創刊(東海散士、池辺三山) 恒藤恭・菊池寛生まれる  ゴッホ、自分の左耳下部を切り取る   

 


大杉栄とその時代年表(24) 1888(明治21)年9月~10月 森鴎外(26)、ドイツ留学から帰国 漱石・子規(21)、第一高等中学校本科第一部(文科)進学 二葉亭四迷(24)訳「めぐりあひ」 皇居落成 ゴーギャンとゴッホの共同生活 スエズ運河条約締結 より続く

1888(明治21)年

11月

外相大隈重信、日本側新条約案を策定。明治20年7月中断していたものを再開。前の井上外相の一括処理と違い、好意的な国から個別交渉で実績を積上げる方式をとる。超大国イギリスが改正には消極的で最大の難関。

11月1日

東海道線大船駅、開業。

11月1日

馬場辰猪(39)、病没。

11月2日

幸徳伝次郎(18)、三度、故郷中村を出奔。大阪に向い、親友横田金馬の紹介で中江兆民の家の書生部屋に住み込む。兆民が手掛けている壮士芝居の脚本の手入れを行う。大阪事件をタネにした「勤王美談上野の曙」(「朝野新聞」栗原亮一脚本)が堅苦しいので、横田に頼まれ「獄舎の場」を執筆。

11月3日

北村門太郎(透谷)と石阪美那の結婚式。石阪家は結婚式をボイコット。

11月5日

ドイツ公使西園寺公望、親しい5歳年長のアメリカ公使陸奥宗光に宛て返書。

ベルリンは寒く、「百姓」のような「東洋紳士」が分からぬ理屈を述べて悲しみ憤慨している有様を見ると、気力がなくなってしまう、親しい友のいない土地は非常に物淋しくて耐えられない、等と記す。

11月16日

「みやこ新聞」、発刊

11月16日

大杉栄(3)の妹・菊(きく)が生まれる

11月18日

(光緒14年10月15日)西太后、光緒帝の皇后と嬪2人を決めると発表。皇后には西太后実弟桂祥の娘葉赫那氏(後、隆裕太后、21)、侍郎の長叙の娘姉妹(15、13)を嬪とする。

11月20日

「大阪毎日新聞」発刊。6月末に休刊した「大阪日報」の後継として。関西財界藤田伝三郎出資。柴四朗(東海散士)主筆。柴は藤田の長州閥との繋がりを嫌い、池辺三山の「経世評論」に力を注ぐ。部数も減じ、翌年6月「みやこ新聞」渡辺治(26)が主筆となる。


12月

~翌年1月、大同団結運動の盟主後藤象二郎の東海北陸遊説。

18日敦賀入り、万象閣で有志大懇親会、後藤・随行の綾井武夫・国友重章などの演説。19日武生入り、陽願寺で懇親会。「集まる者無慮二百」。20日午後福井市着、西別院で福井有志者の招請大懇親会。夜は宿舎三秀園に有志者と一行との会合、21日は照手座で政談大演説会。後藤一行の福井県遊説は、大同団結運動への関心を高揚させることに成果を収めるが、武生を中心とした旧自由党系の人々と、「福井新報」による旧士族層・商工層グループの改進党寄りの人々との間に違和感も漸次増幅。  

12月

「経世評論」創刊。主筆東海散士、編集長池辺吉太郎(三山、25)。大阪。

池辺三山;

18歳で上京、慶応義塾に学び、21歳で熊本県出身者の奨学機関の有斐学舎舎監となる。条約改正反対運動に奔走、「山梨日日新聞」論説を書き、言論界に乗り出す中で、明治18年大ベストセラー小説「佳人之奇遇」を書いた国際人東海散士(柴四郎)の知遇を得て、この月、「経世評論」(月2回発行)を大阪で創刊。1年半程で雑誌は経済的に行き詰まるが、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南、柴四朗とら一流言論人に伍して、若い三山も書く。当時「東雲新聞」主筆中江兆民は、同紙上で「流麗の中自ら一種峭葛の気あるを覚ふ」と、三山の文章に期待。

12月

「東京新報」、発行。伊藤博文。

12月

この月に警視庁新聞係が記録した東部日刊紙(17社)の発行部数。

①やまと56万、②郵便報知52万、③絵入朝野38万、④改進37万、⑤時事新報33万、⑥読売33万、⑦東京日日30万、⑧東京朝日24万、⑨毎日21万、⑩朝野17万、⑪絵入自由16万部。

12月

宮崎夢柳「仏国史談 義勇兵」(盛業館)

12月

平沼騏一郎、東京帝大法律学科卒業。司法省参事官補となる。

12月

大杉栄(3)、東京府麹町区富士見小学校附属幼稚室に入る

12月

ニーチェ、「この人を見よ」で「帝国」や「三国同盟」など現存秩序を転覆を、「アンチクリスト」でキリスト教襲撃陰謀を企て、ビスマルクやヴィルヘルム2世への「宣戦布告」草案を書いたり、キリスト教攻撃に際して「ユダヤ人の大資本」や「将校たち」との同盟を描いたりする。

下旬、母宛ての書簡で、自分はドイツでは無名だが、サンクト・ペテルブルク、パリ、ストックホルム、ウィーン、ニューヨークの地位も影響力もある人物や天才が自分を崇拝していると報告。オーヴァーベックに、ヨーロッパ諸国に働きかけて「ドイツ帝国」を転覆する陰謀について打ち明ける。月末から錯乱の徴候が手紙の文面に現れてくる。

上旬

若越同志会、結成。11月末結成の福井県会傍聴人懇親会が、この月上旬の第2回集会で改称。

福井県下の大同団結運動。全国的動向に主眼を置き運動を進める杉田定一を中心とする「若越親睦会路線」と、新しい地方制度の実施を前にして県内の地域的な政治勢力の結集強化を図ろうとする、「福井新報」を舞台する「若越同志会路線」との微妙な対立。こうした県内情勢のなか、杉田は離福し中央での政治活動を再開、離福中の県下政局への対策と連絡を武生の増田耕二郎に託す。 

12月2日

井川(恒藤)恭、島根県松江市に誕生。

12月2日

山県有朋(50)、横浜港から出航、ヨーロッパ各国の地方自治の現況を視察、アメリカを回り、翌年10月2日に帰国。

12月3日

川上音二郎、中江兆民後援で岡山出身壮士角藤定憲と「大日本改良演劇会」旗上げ。大阪新町座。

12月3日

香川県、愛媛県から分離独立。現在の都道府県が全て確定。

12月7日

「第十九世紀」、日清韓提携を訴える。

12月19日

板垣退助、旧自由党員との懇談会開催。愛国公党への結集を呼びかける。

12月20日

啄木の妹、光子(戸籍面ミツ)生まれる。

12月22日

11月24日通常県会、知事・常置委員に対する積年の不満が爆発。直接の契機は、8月の水害復旧の為の臨時土木費3万5582円が臨時県会なしに常置委員の急施会で決議されたことにあるが、底流には常置委員主導の県会運営に対する不満がある。通常会は冒頭より紛糾、常置委員辞職勧告提案。また、勧業費を巡る対立がこの紛糾を一層大きくする。松方デフレ後の企業勃興の時代的趨勢に対応する為、県は織物・製糸・製紙・畜産などに総額3万円余の予算を計上し、県官が議員に強引な根回しを行い、これが議員の多くを刺激。郡レベルの地域利害を背景に選出された地主議員にとっては、織物伝習所費などは福井のごく一部の機業家(士族)だけの為としか理解できず。このように常置委員や勧業費に対する反対から、県会はほぼ2分され激しく対立。20年度予算の土木費削減に対して石黒知事は内務大臣の指揮権発動により土木費復活をはかった経緯もあり、反対派は、議会解散を狙い師範学校費全廃という建議案を提出、25人の出席議員中18人の賛成で可決され、石黒知事は12月8日、通常県会を中止。この建議案の可決は、1県に必ず1尋常師範学校設置するとの師範学校令に反し、内務大臣は認可せず、12月22日、福井県会最初の解散という事態となる。 

12月23日

ゴッホ、ゴーギャンとの激しい喧嘩の後、彼は自分の左耳の下部を切り取り、翌朝、意識不明のままアルルの病院に運ばれる。ゴーギャンは事件をテオに知らせ、テオはアルルへ急行。/1/7.迄、入院。

12月27日

法律取調委員長山田顕義法相、民法最終案を黒田清隆首相に提出。

12月26日

菊池寛、誕生。

12月29日

女学生向け雑誌が13誌発行と伝える記事(「女学雑誌」)。明治18(1885)年「女学雑誌」。20年「いらつめ」など3誌。21年「婦人教会雑誌」「女新聞」「日本新婦人」など9誌。

12月30日

オーストリア社会民主労働者党結成。ハインフェルト(統一大会)でヴィクトール・アードラー指導下にオーストリアの社会主義者の穏健派・過激派合同統一大会。マルクス主義的綱領を採択、機関紙「労働者新聞」創刊。各民族の連合体としての性格から、民族問題の解決が大きな課題となる。~89年1月1日迄。

12月31日

原敬(32、パリ公使館書記官)に大隈外相より帰国命令。翌年2月22日パリ出発、4月19日東京着。

12月31日

幸田露伴、『露団々』の原稿料50円をもとに友人2人と旅行(2人とは途中で別れる)。野州佐野~横川~名古屋~京都。1銭残らず使い果たし、翌年(明治22年)1月31日に東京に帰着。

この時の紀行文は『酔興記』(明治22年2月)


「面白く無くて面白く無くて、癇癪が起つて癇癪が起つて、何とも彼とも仕方の無い中の閑を偸(ぬす)むで漸くに綴り成したる露団々は売れたり、書肆への談判一切を委ね頼み置きたる李山張水(仮設の名なり)二人の友は幾十枚の紙幣を手にして我が許に来れる。」


「夜、人あり、これを先生にとて出してがへりぬ。とりてみれば発句あり。

花やこれ 君が常盤の 筆のあと

とありて、露伴としるしぬ。ひらきて見れば、木の花漬といふものなり。この箱のうらに、君の御蔭をもて京大阪に遊び、西鶴・其碩・芭蕉の故蹟を訪ひ、木曾路より遥々とこの漬物をもち来りぬとあり。かの露団々の小説を金港堂ゆづりて路費などにせしにや。露伴は即ち幸田成行の事也。」(『学海日録』明治22年1月31日)


つづく


その場しのぎの岸田首相、具体論を避け「信なくば立たず」連呼 裏金問題めぐる国会審議でどんな進展が?(東京); ◆ようやく「これから聞き取り調査」 ◆「政治家が逃げていると国民は疑念」 ◆「政策活動費廃止を」にも答えなし → 「何人が裏金を受け取ったのか」 「なぜ裏金が必要だったのか」 「裏金議員の一覧リストを出して」 「裏金を個人で受け取っていたのでは」 「選挙買収など不法な行為、不正な行為に使われたことはなかったか」 → 岸田文雄「聞き取りを行う」 ← いままで何をしてたのか!  


大西健介 委員

何人が裏金を受け取ったのか


岸田総理 

聞き取りを行う


階猛 委員

なぜ裏金が必要だったのか


総理

聞き取りを行う


山井和則 委員

裏金議員の一覧リストを出して


総理

聞き取りを行う


小西洋之 委員

裏金を個人で受け取っていたのでは


総理

聞き取りを行う


山添拓 委員

選挙買収など不法な行為、不正な行為に使われたことはなかったか  


総理

実態を明らかする


岸田文雄 氏は国会まで何をしていのですか





 

国税庁、仕事して下さい → 岸田派の不記載3059万円「全額残っていて裏金ではない」衆院予算委で岸田総理が強調(TBS);「共産 塩川鉄也 衆院議員 「2018年から20年の3年間で3059万円のパーティー収入を、収支報告書に記載しなかったということでありますけれども、この3059万円というのはどこにあったんでしょうか」 岸田総理 「パーティー収入については基本的に全て銀行口座に入金しており、口座に存置されております。これが流用されたとか、そのほかで裏金となったとかいうことではないと認識をしております」」  

 



 

2024年1月29日月曜日

麻生氏発言に海外メディア「日本政界の女性差別が明るみに」 | 地位ある女性なのに、業績ではなく外見で評価…(クーリエ・ジャポン) / 浜田敬子氏「麻生さんに抗議してほしかった」容姿&年齢言及「大人の対応」の上川外相に「残念」(日刊スポーツ) / 麻生太郎氏「おばさん」「美しい方とはいわん」の“暴言”になぜ上川陽子氏は黙ってしまうのか(AERA);「上川さんも受け流すような対応をするのではなく、麻生さんに『それは問題発言です』ときちんと伝えないといけない。」 / 日本の元首相、83歳の麻生氏が女性外相を侮辱(英ガーディアン誌) / 上川外相 麻生氏の発言を問題視せず “どんな声もありがたく”(NHK) ← 上川さん、麻生太郎を補完してるやん。本音なのか? ま、思想信条外交姿勢からして、それ以上はムリなのかな / 麻生氏、上川外相の容姿に言及 「そんなに美しい方とは言わない」(朝日);「上川外相について、「そんなに美しい方とは言わんけれども、堂々と話をして、英語できちんと話をし、・・・」、「俺たちから見てても、このおばさんやるねえと思った」と発言したらしい。 麻生派を一刻も早く解散することが日本のためだ — 小西ひろゆき」 / 「記事は何故、「発言が物議を醸す可能性がある。」などという書き方しかできないのか。批判は他人任せか? ..... もういい加減、この手の表現、止めるべきだろう — 平野啓一郎」 / 容姿言及、麻生氏に批判 女性差別/「評価する側」前提(朝日) / 容姿や年齢、政界で続く差別発言 - 麻生氏に批判、遅れ露呈(共同);「男女格差を表す世界経済フォーラムの最新の「ジェンダー・ギャップ指数」で、日本は政治分野で146カ国中138位という低さだ。」              

 


 

 

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議事録、キチンと残してくださいね → 「国会でチンピラ同然の恫喝」維新・藤田幹事長が国会中の“ヤジにブチ切れ”で批判殺到(FLASH) / 維新・藤田幹事長「ええかげんにせえよホンマ」予算委質問中のやじに吐き捨て「キレすぎ」指摘も(日刊スポーツ) / 日本維新の会・藤田文武幹事長「いい加減にせえよ、ほんま」衆院予算委での剣幕が波紋 「ガラ悪すぎ」「国会議員と思えない」の声(中日スポーツ);「馬場さん、やってないから。いらん事言うなよ、ほんま。ええかげんにせえよ、ほんま」 ← コレ、ズボシなんでしょうね。ヨッ、迷幹事長!      

 

 

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▼ちょっと前にこんなヒトもいました

 

鎌倉 長谷寺と収玄寺で河津桜開花 長谷寺の梅とメジロ、福寿草 収玄寺の源平梅 2024-01-29

 1月29日(月)はれ

今日は鎌倉、長谷の長谷寺と収玄寺へ。

期待していなかったが、長谷寺・収玄寺ともに河津桜が開花していた。

長谷寺の梅は、見頃までにはもう少しといったところだが、さすが長谷寺の梅は手入れが行き届いて今でも見応え十分、キレイだ。

▼河津桜がちらほら開花


▼梅の概観はこんな感じ





▼メジロ(ウメジロー)




▼福寿草

▼収玄寺の河津桜と源平梅(一本の木に白と紅の梅が咲く)



大杉栄とその時代年表(24) 1888(明治21)年9月~10月 森鴎外(26)、ドイツ留学から帰国 漱石・子規(21)、第一高等中学校本科第一部(文科)進学 二葉亭四迷(24)訳「めぐりあひ」 皇居落成 ゴーギャンとゴッホの共同生活 スエズ運河条約締結       


 大杉栄とその時代年表(23) 1888(明治21)年7月~8月 漱石・子規(21)、第一高等中学校予科卒業 子規ら、長命寺境内の桜餅屋月香楼で夏休みを過す 子規『七艸集』完成 「東京朝日新聞」発行 里見弴生まれる 磐梯山大爆発 子規(21)、江の島で喀血 二葉亭四迷(24)訳「あひゞき」 三池炭鉱を三井組へ払下げる より続く

1888(明治21)年

9月

栃木県、政社再組織。旧自由党派の下野倶楽部組織。11月、安生順四郎ら保守派の下野同志会組織。

9月

「日本新婦人」創刊。

9月

トロツキー(9)、オデッサで聖パウロ実科学校受験。成績は悪くないが、10%枠(ユダヤ人の入学者数制限枠)や買収のため予科編入となる。実科学校を含め7年間をここで過ごす。

9月

ゴッホ、9月半ば、「黄色い家」へ移る。南仏のアトリエでの画家たちの共同生活を夢見ていたが、その最初の相手として、ゴーガンの名が次第にのぼってくる。

9月8日

森鴎外(26)、ドイツ留学から帰国、横浜到着、東京に帰る。同日、陸軍軍医学舎(軍医学校)の教官となる。9月12日ドイツ女性エリーゼ・ビーゲルト来日。10月17日、帰国。12月12日、陸軍大学校教官・陸軍衛生会議次官を兼任。12月、海軍中将赤松則良の娘登志子と婚約。

9月8日

「文学会」第1回会合。この月、徳富蘇峰は、雑誌『国民之友』の文芸欄を充実させるため民友社の仲間森田思軒と共に「文学会」という研究会(一種のサロン)を作った。

第1回会合には、徳富蘇峰、森田思軒、朝比奈知泉、依田学海、矢野龍渓といった大物、新進気鋭の坪内逍遥という錚々たるメンバーに混って山田美妙(20歳)が参加した。

依田学海のその日付け日記(『学海日録』)にはこうある。


新知の人々多きうちに、殊に意外なりしは山田なりき、年は廿ばかりの美少年にして、色白く鼻筋透りて、女にしても見ま欲しを男なり。


更に9月25日の『学海日録』にも美妙が登場する。


山田武太郎来る。美妙斎といへる小説家なり。夏木立といふ書を著はして言文一致の文章を主張する才子なり。(中略) (*美妙は)金港堂にて小説の雑誌を発行するよし也。余編集の署名を請ふ。中根淑と余となり。


金港堂は、当時最大手の出版社で、この時学海に編者になってほしいと要請したのは文芸誌『都の花』(明治21年10月21日創刊)ある。

9月9日

一葉一家は、神田区表神保町2番地に転居。虎之助の借りた家を出て、則義の事務所に近い借家に移る。則義が退職後の生活の打開のために、この新事業に賭けた意気込が窺える。この月、東京荷車請負業の規約成立。

9月11日

漱石、子規、第一高等中学校本科第一部(文科)に進学。漱石は英文学を専攻。

漱石、英作文「討論――軍事教練は肉体錬成の目的に最善か?」執筆。

子規は本郷真砂町の常磐会寄宿舎に入る。スペンサーの哲学に影響を受ける。

数学も「非常に出来る様」になり、周囲の友人も彼は理系に進むものと信じていた。漱石自身も専攻を決めるさいはじめ建築科を希望し、将来は「ピラミツドでも建てる様な心算で居」た。ところが、落第によって同級生となった大秀才の友人米山保三郎に、「それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝へる可き大作も出来るぢやないか」と勧められたためそれに従ったらしい。「僕は文学をやることに定めたのであるが、国文や漢文なら別に研究する必要もない様な気がしたから、其処で英文学を専攻することにした。」(「落第」)と述べている。


僕は其頃ピラミツドでも建てる様な心算(つもり)で居たのであるが、米山は又却々(なかなか)盛んなことを云ふので、君は建築をやると云ふが、今の日本の有様では君の思つて居る様な美術的の建築をして後代に遺すなどゝ云ふことは、迚(とて)も不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝へる可き大作が出来るぢやないか。と、米山は恁(こ)う云ふのである。僕の建築科を択んだのは自分一身の利害から打算したのであるが、米山の論は天下を標準として居るのだ。恁う云はれて見ると成程然(そ)うだと思はれるので、又決心を為直(しなお)して僕は文学をやることに定(き)めた(「落第」(『中学文芸』明治39年(1906)6月20日))


「米山は脱俗的な「変物」で、金之助によれば「賦性活発、読書談禅の外、他の嗜好無し」という人物だった。・・・・・

だが米山は彼と同期に東大哲学科を卒業し、将来を嘱望されたが、明治三十年にチブスで夭逝した。金之助は米山の死を惜しみ、「同人如きは文科大学あつてより文科大学閉づるまでまたとあるまじき大怪物」(斎藤阿具宛書簡)と言った。教師時代の彼は、落第を心配する学生に対して、落第にもいいことがあると語ったが、おそらく米山との出会いを念頭に置いての発言だろう。」(岩波新書『夏目漱石』)


「・・・実はかうかうだと話すと、彼は一も二もなくそれを却けてしまつた。其時かれは日本でどんなに腕を揮つたつて、セント、ポールズの大寺院のやうな建築を天下後世に残すことは出来ないぢやないかとか何とか言って、盛んなる大議論を吐いた。そしてそれよりもまだ文学の方が生命があると言つた。元来自分の考は此男の説よりも、ずつと実際的である。食べるといふことを基点として出立した考である。所が米山の説を聞いて見ると、何だか空々漠々とはしてゐるが、大きい事は大きいに違いい。衣食問題などは丸で眼中に置いてゐない。自分はこれに敬服した。さう言はれて見ると成程又さうでもあると、其晩即席に自説を撤回して、叉文学者になる事に一決した。随分呑気なものである」(『処女作追懐談』)


9月15日

山田美妙、9月15日発行『以良都女』第15号から編集兼発行人となる。


10月

康有為、第1次上書。11月から12月にかけて2度目の上書。

10月

ツルゲーネフ、二葉亭四迷(24)訳「めぐりあひ」(都の花)10~22・1 

10月

グスタフ・マーラー、ブタペストのハンガリー王立歌劇場音楽監督就任。「ドン・ジョヴァンニ」をハンガリー語で上演。ブラームスが絶賛。

10月1日

植木枝盛、上京。後藤象二郎と会う。7日、共に千葉の懇親会に出席。翌日、帰阪。

10月7日

1884年7月着工の皇居が落成。27日、宮城と改称

10月14日

全国有志大懇親会(大阪新生楼)。福井からは、県会議員永田定右衛門・青山庄兵衛・時岡又左衛門・加藤与次兵衛、武生の宇野猪子部、福井の大家理兵衛、松浦の7人が出席。 

10月21日

文芸誌『都の花』創刊号(金港堂)刊行。

中根香亭(淑)「発行のゆゑよし」(発刊の言葉)に続いて山田美妙の小説「花車」と二葉亭四迷の翻訳「めぐりあひ」(原作ツルゲーネフ)が並び、さらに依田学海の戯曲「淑女の

操」が載っている。

美妙が『都の花』創刊に参画していることを紅葉たちは知っていたが、いざ実物を目にするとやはりショックだった。


其内に金港堂に云々(しかじか)の計画が有ると云ふ事が耳に入った、其前から達筆の山田が思ふやうに原稿を寄来(よこ)さんと云ふ怪むべき事実が有つたので、這(こ)は捨置き難しと石橋と私とで山田に逢に行きました、すると金港堂一件の話が有つて、硯友社との関係を絶ちたいやうな口吻、其は宜(よろし)いけれど、文庫に連載してある小説の続稿だけは送つてもらひたいと頼んだ、承諾した、然るに一向寄来さん、石橋が逢ひに行つても逢はん、私から手紙を出しても返事が無い、もう是迄と云ふので、私が筆を取つて猛烈な絶交状を送つて、山田と硯友社の縁は都の花の発行と与(とも)に断れて了(しま)つたのです。刮目(かつもく)して待つて居ると、都の花なる者が出た、本も立派なれば、手揃でもあつた、而して巻頭が山田の文章、憎むべき敵ながらも天晴(あっぱれ)書きをつた、彼の文章は確に二三段進んだと見た、さあ到る処都の花の評判で、然(さ)しも全盛を極めたりし我楽多文庫も俄に月夜の提灯と成った。(紅葉談話『硯友社の沿革』)


「敵ながらも天晴」と言えたのは、紅葉がこの談話をロにした明治34年には美妙は既に、ひところの人気を失い、世間から忘れられつつある存在で、一方の紅葉は押しも押されもせぬ文壇の大家、しかも二人はこの年2月、絶交以来十数年振りで交際を復活させた所だったから。

また、紅葉がその談話で、美妙と硯友社の縁が「都の花の発行と与に断れて了つた」とあるが、これには少し事実誤認がある。

『我楽多文輝』第10号(明治21年10月25日)~第13号(21年12月10日)に、紅葉の口述による「紅子戯語(こうしげご)」という文章が連載されている。硯友社同人たちが普段編集室でやり取りしている会話が紅葉によって再現されている文章である。その「紅子戯語」に、『都の花』発行直後の美妙も居心地悪そうにではあるが登場している。

10月23日

ポール・ゴーギャン(40)、アルル着。ゴッホの<黄色い家>で共同生活

10月26日

「宇内の現状を論じて日本国民の注意を喚ぶ」(「第十九世紀」)~11月9日)。日本の上流者の欧米への卑屈、跪拝ぶりが日本国民の抵抗精神を蝕む。

10月29日

イスタンブール、英・仏・蘭・独・澳・伊・西班牙・露・オスマン帝国間でスエズ運河条約、締結。運河の中立・国際化。


つdく

2024年1月28日日曜日

韓国・済州道知事 群馬県との交流協議見合わせ検討=「朝鮮人追悼碑」撤去で(聯合ニュース) / (社説)朝鮮人追悼碑 知事は撤去を中止せよ(朝日) / 「群馬の森」朝鮮人労働者の追悼碑 県、行政代執行で撤去開始(毎日) / 「歴史の消去」…韓国で一斉に報じられる群馬県『朝鮮人追悼碑』撤去( 徐台教) / 撤去直前の朝鮮人追悼碑、1日をドキュメント 献花や記念撮影で列も(朝日) / 朝鮮人追悼碑、撤去前に学習会 市民ら、群馬県が29日に代執行(共同) / 群馬県、29日から朝鮮人追悼碑を強制撤去へ 「ヘイト行政」高まる批判 時代の正体 差別禁止法を求めて(神奈川新聞) / 群馬県立公園の朝鮮人追悼碑、29日に撤去工事 中止求める声も(毎日新聞) / 「歴史的な事実を反省する追悼碑でさえ強制撤去する状況では未来志向的な韓日関係の構築を期待するのは難しそうです」と(韓国SBS) / 「追悼碑を撤去することは『強制連行は無かった』という歴史否定に加担するもの」という市民団体の目線を伝え、引用(韓国KBS)                   

 

 

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大杉栄とその時代年表(23) 1888(明治21)年7月~8月 漱石・子規(21)、第一高等中学校予科卒業 子規ら、長命寺境内の桜餅屋月香楼で夏休みを過す 子規『七艸集』完成 「東京朝日新聞」発行 里見弴生まれる 磐梯山大爆発 子規(21)、江の島で喀血 二葉亭四迷(24)訳「あひゞき」 三池炭鉱を三井組へ払下げる           

 


大杉栄とその時代年表(22) 1888(明治21)年5月~6月 「朝日新聞」(村山龍平)、「めざまし新聞」(星亨)を買収 小泉信三・安井曾太郎・神近市子生まれる 一葉(16)一家、兄虎之助の借家に同居 大同団結運動機関誌「政論」創刊  田邊花圃『薮の鶯』発表 一葉に強い影響を与える 一葉の父・則義、事業失敗 松岡好一「高島炭坑の惨状」 より続く

1888(明治21)

7月

日本演劇矯風会設立

7月

漱石・子規(21)、第一高等中学校予科卒業。

7月

渋谷三郎は東京専門学校を卒業。則義は一葉の配偶者として期待。

7月

ゴッホ、この頃、肖像画が増える。アルルでの彼の友人たち、郵便局員ルーラン一家、「カフェ・ド・ラ・ガール」経営者ジヌー夫人、アルジェリア歩兵連隊少尉ミリエ、ベルギー画家ボックなど。

7月1日

神奈川県通信所、事務取扱を試験的に開始。通信所が4日の「公論新聞」に掲載した開設広告中の賛成委員数名から、氏名の無断使用の抗議を受け、19日の同紙に取消し広告が掲載、対立は一挙に公然化。抗議したのは、中川良知、吉野泰三、中溝昌弘、青木正太郎、福井直吉ら県会騒動時に「軟弱」とされた県議とその支持者。県会騒動での対立が、吉野泰三のグループと森久保作蔵・窪田久米らのグループの対立となって表面化。以後、両派の対立はくすぶり続けるが、通信所をめぐる「紳士派」と「壮士派」の対立は、即座に分裂に至らず。小異を捨てて大同につけとの運動が全国的な盛り上がりをみせ、暮には、県内の大同団結組織の「神奈川県倶楽部」結成準備が始まる。

7月1日

この頃、正岡子規・藤野古白・三並良(松友)、長命寺境内の桜餅屋月香楼(南葛飾郡向島須崎村32番地山本方)を借りて夏休みを一緒に過す。この時から文学的交流が始る。

子規は『七艸集(なゝくさしふ)』の「蘭之巻」・「萩之巻」・「をミなへし乃巻」・「尾花(すすき)の巻」・「あさかほのまき」・「かる萱の巻」を書き上げる。

月香楼には、おろくと呼ばれる年の頃18、9になる色白で愛嬌のある少女がいた。


此店の看板娘とでもいふわけであつたらう。其の少女がいつも食事の給仕に二階にあがつて来るので、長い間には心易くなつて互に冗談なども言ひ合つてゐた。なかでも子規は一番よく話が合ふので、おろくもツイ長座をすると、階下から母親が声をかけて呼びおろすことも屡々(しばしば)あった。

(略)

三並氏は曾て予に言つたことがある。「当時子規はおろくに就て内面的研究をやつてゐたのであらう。叔父の加藤拓川は兎角女の外面的研究をやる男であつたが、子規のは内面的心理の研究であった」と。其の意味が予には十分判らないが、処女としての心情の動きを子規はひそかは研究してゐたといふ意味でもあらうか。(柳原極堂『友人子規』)


「処女としての心情の動きを秘かに研究していた」子規は、おろくに恋したらしい。仲間うちでも噂になった。

向島で3ヶ月過す間に子規は秋の七草にちなんだ創作集『七艸集』を完成させる。漢文(「蘭之巻」)、漢詩(「萩之巻」)、和歌(「女郎花の巻」)、俳句(「芒のまき」)、謡曲(「蕣のまき」)などからなるものだが、滞在中に成ったのは5巻だけで、向島を去った直後に「刈る萱のまき」という散文を書く。

友人の一人が子規に、最近きみ様子がおかしいではないかと尋ねる。すると子規は、脳の調子が変なのだと答える。友人はさらに、「君のいたつきはさることにあらざるべし。かならずや思案の外の事なるべし」と追い打ちをかける。子規はそれを否定する。


こはけしかることを聞くものかな。左様なることはやんごとなき公達か世にもてはやさるゝ俳優などの上にこそあるぺけれ、世の人が一文なしの素寒貧とあだ名する書生の上にさることのあるべうも思ばれず。


生真面目に答えているだけに、かえって、疑惑を認めてしまっている。友人は笑ってこう言う。


このことは我一人の思ひはかりたることにもあらず、世の人の皆うはさする処なり。誰もいひたり、彼もいひたり、君と同じやどりにすみし人だにもいふものを今さら何を疑ふべきや。


子規は、こういうやり取りを自分で書き記しながら、実は内心、満更でもなかったのではないか。

8月初旬 藤野古白・三並良、駿河の旅に赴き、富士登山をして1週間ほどして帰京。2日ほどして藤野古白・三並良は月香楼引払う。子規は9月24日まで滞在。

7月5日

後藤象二郎、北陸・東北遊説へ出発。~8月23日。長野・富山・新潟・山形(24日)・秋田・青森・岩手・宮城・福島。2年後の第1回総選挙にむけた選挙母体の組織化が目的。

7月5日

森鴎外(26)、ペルリンを発ち、掃国の途につく。

7月7日

福井市制について協議会を開催。

第九十二国立銀行の発起により商工会議所、竟成社などの有志、福井新報社員約30人が、福井市制の件について協議会を開催、以後会を重ねる中で市制実地施行委員に狛元、林藤五郎、松原秀成、東郷、笹倉が選任。この集りが福井有志集談会に発展し、懇親会・親睦会などの名で会合を続け、市制実施後の対策や県会傍聴などによる地方政治への関心の高揚を意図する。

7月10日

「東京朝日新聞」発行。この年5月、自由党系小新聞「めざまし新聞」を「朝日」社長村山龍平が三千円で買収。

村山社長は大阪府議を辞職して東京進出に備える。「めさまし」買収後、取次店主・売捌人・同業各社幹部を招いて盛宴を張り、東京進出の第一歩とする。編輯員より先に「上賓」として売捌人を招き、彼らは大いに厚遇を感じる。歩合も他社より高く、「朝日」販売に尽力する。定価は1部1銭、1ヶ月25銭、10面あり「めさまし」の斎藤緑雨の絵入り小説「涙」12回目を引き継いで小新聞調の発足。絵付録に「貴顕の肖像」として、明治天皇の大礼服姿半身像(山本芳翠画)をつけたことが当たり、追加注文が殺到。

編集関係者は20人、編輯長格兼主筆格は水戸藩士の子小宮山桂介(天香)で、「日本立憲政党新聞」に翻訳小説を執筆、連載したり、上京して「絵入朝野」編輯長。「東京朝日」創刊で入社前は「改進」新聞に小説を連載し好評。半井桃水は、「尊敬すべき良師」として小宮山を樋口一葉に紹介している。社説・編集実務担当は、南部藩士の子で盛岡中学中退、漢学を学んだ佐藤真一(北江)で、この頃は20歳すぎ、「めさまし」から「東京朝日」へ移り26年勤続。同郷の石川啄木を校正係として入社させている。村山社長は東京に居を移し、毎日編輯室に詰め、帰宅後もゲラ刷りをチェック、忌憚に触れそうな個所に朱筆を入れる。

創刊号は、二面中央に三段で斎藤緑雨の小説「涙」を掲載。更に、三面上段には、大物小説記者・宇田川文海(半痴居士)の時代小説「樹間の月」。

明治22年1月からは『朝日』を『大阪朝日新聞』と改め、『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』が併立。

7月10日

狩野亨吉、帝国大学理科大学数学科卒菜。帝国大学文科大学哲学科入学のため、1年間受験準備をする。

7月14日

大阪事件上告審、名古屋重罪裁判所。重禁固9年、第1審より重くなる。

7月14日

里見弴、横浜月岡町の横浜税関長(父)の官舎で誕生。

7月15日

磐梯山が大爆発。秋元・細野・雄子沢の3集落は全滅、死者461人

東京朝日は記者を派遣し、生々しいルポを送る。また、著名な洋画家山本芳翠を派遣、山本は噴煙あがる磐梯山を見ながら直接、版木の上に逆さに写生し、これを同行者が急ぎ東京に持ち帰り、木版家が彫刻して印刷。この木版画を8月1日に新聞の付録として添付。

読売は写真師を現地に派遣、写真画として7日から新聞に掲載。新聞の写真掲載の初めとされる。

7月18日

海水浴場で、男女の区画を設け混泳が禁止。神奈川。

7月20日

木下尚江、東京専門学校邦語法律科卒業。11月、松本の「信陽日報」記者となる。明治23年夏、県庁移転問題で排斥され「信陽日報」廃刊。

7月21日

枢密院議長伊藤博文、書記官長井上毅に憲法草案の再検討を指示。89年1月13日、憲法修正案確定。 

7月29日

亡命朝鮮人金玉均を小笠原島より北海道札幌に移す

8月

植木枝盛「後藤伯の巡遊」(「土陽新聞」)。大同団結訴える後藤の全国遊説の労をねぎらう。

8月

子規(21)、鎌倉江の島で2度喀血。このときは咽喉の傷から出たのだろうとたかをくくっていたが、これは結核の最初の徴候であった。

8月

ツルゲーネフ・二葉亭四迷(24)訳「あひゞき」(国民之友)7、8月 

8月

山田美妙、作品集『夏木立』刊行(金港堂)。『以良都女』編集メンバーだった金港堂社員新保磐次との関係で美妙は金港堂と縁が出来た。前年6月には、二葉亭四迷が坪内雄蔵(逍遥)名機で金港堂から『浮雲』第1篇を刊行していた。金港堂は、言文一致を始めとする「新しい文学」の舵取りをしようとしていた。

 

両国の川開きの晩、予備門のボート選手たちがポートを漕いで子規を迎えに来てくれる。松山時代からの友人三並良の「子規を偲ぶ」。


之を以て思ふに、子規は選手連中に相当顔が売れて居たのであらう。彼はベースボールの選手であったが、或はボートも漕いで居たのみも知れない。矢張り多趣味な彼である。私共三人共にポートに乗せられ、両国橋よりも下に下り、その辺を選手が縦横に、自由に漕ぎまはつて、花火を足る程見せてくれた。


8月7日

ロンドン、イーストエンド貧民街、切り裂きジャック、第1の殺人を犯す。

8月8日

駐米公使陸奥宗光から外相大隈重信宛書簡。「去年保安条例発布之時の事情も、馬場の煽動与りて力ある事実に候。・・・」。

8月16日

英、トマス・エドワード・ロレンス、ウェールズ、カーナヴォン州の小村トレマドックに誕生。5人兄弟の次男。私生児。8歳でオックスフォードに落ち着くまでは、スコットランド、マン島、フランス・ブルターニュなど住居を変える。オックスフォード以降は、勉学に優秀な成績を修め奨学金を獲得。10歳頃より考古学・歴史の勉強を始める。

8月18日

政府は4月21日三池礦山払下規則を定め、8月開札の結果。455万5千円で佐々木八郎名義の三井組へ払下を決定。1889年1月以降、同炭鉱は三池炭礦社によって経営。初代事務長団琢磨。払受額:100万円即納・残金15ヶ年賦。三池炭鉱は三井物産とともに三井財閥形成に重要な役割を果たす。

8月18日

石阪昌孝、13日付けの村野常右衛門(獄中)書簡に対する返書。出獄後すぐ帰宅を勧めると同時に、豚児・山口朱雀・窪田・平野・佐々木・小林・林・青木の消息を知らせる。


つづく