2022年11月30日水曜日

杉田水脈の支離滅裂ぶり 岸田さん、恥ずかしくないのか! → 首相、杉田政務官の更迭拒否 「能力持った人物」と反論(共同) ← 呆れた! この人、差別主義者ですよ / 謝罪も撤回もしない杉田水脈氏に感じた「恐怖」(天畠大輔) / 杉田水脈、英BBC放送のインタビューで伊藤詩織氏に女性として「落ち度があった」と答えたことを問われ「当時は性暴力はございませんで、性被害者も存在していない」 / 内閣委員会で「女性差別は存在しない」発言は「日本には命に関わるひどい女性差別は存在しないという趣旨」 / 本会議での「女性が輝けなくなったのは冷戦後、男女共同参画の名のもと伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指したことに起因」発言は、「当時、現在とは異なる政党に所属し、その党を代表して質問したもの」 / アイヌ民族や在日コリアンの女性は「存在だけで日本国の恥さらしです」とブログしたことを問われ「この時私はまだ国会議員ではなく一般人でございました」          

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〈藤原定家の時代195〉元暦2/文治元(1185)年2月19日~29日 「荒手の兵入替々々戦いければ、平家遂に責落されて、第二日の巳剋には、屋島を漕出て」(『平家物語』) 志度合戦 義経は瀬戸内海の制海権を掌握     

 


〈藤原定家の時代194〉元暦2/文治元(1184)年2月17日~18日 屋島の合戦(2) 『平家物語』にみえる屋島合戦 詞戦 佐藤嗣信の最期 扇の的 夜戦 より続く

元暦2/文治元(1184)年

2月19日

・屋島の合戦二日目

〈勝敗を分けた援軍〉

経緯は不明だが、延慶本『平家物語』は、「荒手(新手)の兵入替々々(いれかえいれかえ)戦いければ、平家遂に責落されて、第二日の巳剋には、屋島を漕出て」と、援軍が到着した追討使が平氏を屋島から追い落としたと記している。

初日は攻め込んだ追討使の方が攻撃に行き詰まり、多くの死傷者を出して退く負け戦となった。しかし、義経が屋島に攻め込んだという情報が周囲に与えた影響は大きく、翌日には追討使の方に多くの軍勢が加わって平氏を圧倒したと『平家物語』は記している。

勝敗を分けた2日目の援軍とは誰か。

事前に讃岐国に派遣されていた橘公業が声をかけていた讃岐国の地方豪族や、後白河・信西入道の子供達・近藤氏の線で都とつながりをもつ阿波国の地方豪族、頼朝の叔父義嗣・義久兄弟を担いで挙兵した反平氏の人々などが、潜在的な反平氏勢力である可能性は高い。ただ、二日目の戦いについて誰も具体的に記していないので、確定的なことはいえない。

平氏の方も、讃岐・阿波の港に散在させた家人が急を聞いて駆けつけてくるはずである。義経方に集まった武者の数が多く、押し切られたということであろう。

平氏が最も頼みとしたのは、河野通信討伐から帰路についている粟田教良の軍勢3千騎で、首実検のための使者はすでに到着しているというので、近くには来ていたはずである。『平家物語』等は、義経の使者伊勢能盛(よしもり)の話として、教良の父重能は降参し、叔父能遠を生け捕ったという嘘に粟田教良が騙されて降参したとする。しかし、物見の情報を得た粟田教良は、二日目の合戦の状況を知って、勝ち目なしと考えたのではないかと推測できる。義経の使者に平氏敗北のことを知らされて降参したという形で平氏から離れだと考えられる。

粟田重能以下粟田の一族は、阿波国では豪族であるが、朝廷の下級官人として重代の地位を持っている。平氏が勢力を伸ばしたので家人となったが、朝廷の官人としての実績も低くはない。粟田の家の存続を考えれば、平氏を離れるのをいつにするか決断する時期にきていた。重能の率いる四国水軍は一ノ谷合戦で早すぎる退却をし、屋島合戦において良遠・教良が追い詰められていないのに降参した。この人々の戦意の低さにこそ、彼らの本音が現れている。立場上、平氏を見限ることはできないが、本音は見限っているという苦い立場である。

「南御堂の事始めなり。武衛(・・・)その所に渡御す。御堂の地南山麓に仮屋を構う。御台所同じく入御す。・・・その後熊野山領参河の国竹谷・蒲形両庄の事、その沙汰有り。当庄の根本は、開発領主散位俊成彼の山に奉寄するの間、別当湛快これを領掌せしめ、女子に譲附す。件の女子始め行快僧都の妻たり。後前の薩摩の守平忠度朝臣に嫁す。忠度一谷に於いて誅戮せらるの後、没官領として、武衛拝領せしめ給うの地なり。而るに領主の女子本の夫行快に懇望せしめて云く、早く子細を関東に愁い申し、件の両庄を安堵せしむべし。もし然れば、未来を行快子息(女子腹と)に譲るべしと。この契約に就いて、行快僧都熊野より使者(僧栄坊)を差し進せ、言上する所なり。行快と謂うは、行範の一男、六條廷尉禅門為義の外孫たり。源家に於いてその好すでに他に異なる。・・・

また廷尉(義経)、昨日終夜阿波の国と讃岐との境の中山を越え、今日辰の刻屋島の内裏の向浦に到り、牟礼高松の民屋を焼き払う。これに依って先帝内裏を出でしめ御う。前の内府また一族等を相率い海上に浮かぶ。廷尉(赤地錦の直垂・紅下濃の鎧を着し、黒馬に駕す)、田代の冠者信綱・金子の十郎家忠・同余一近則・伊勢の三郎能盛等を相具し、汀に馳せ向かう。平家また船に棹さし、互いに矢石を発つ。この間佐藤三郎兵衛の尉継信・同四郎兵衛の尉忠信・後藤兵衛の尉實基・同養子新兵衛の尉基清等、内裏並びに内府休幕以下の舎屋を焼失す。黒煙天に聳え、白日光を蔽う。時に越中二郎兵衛の尉盛継・上総五郎兵衛の尉忠光(平氏家人)等、船より下りて宮門の前に陣し、合戦するの間、廷尉の家人継信射取られをはんぬ。廷尉大いに悲歎し、一口の衲衣を屈し千株松本に葬る。秘蔵の名馬(大夫黒と号す。元院の御厩の御馬なり。行幸供奉の時、仙洞よりこれを給う。戦場に向かう毎にこれに駕す)を以て件の僧に賜う。これ戦士を撫るの計なり。美談とせざると云うこと莫しと。」(「吾妻鏡」同日条)。


2月21日

・義経80騎、讃岐の志度(香川県志度町)の道場に篭る平氏を追い払い、平氏家人の阿波民部大夫成良の子の粟田則良を帰服させる(田口成良の嫡男教良は伊予出征から帰還途上にある。義経はこれと正面切っての戦いは不利と判断、伊勢義盛を教良の許に派遣、言葉巧みに騙し、教良以下1千余を降人とする)。これに伴い伊予水軍河野四郎通信が兵船30隻と共に義経軍に加わり、熊野水軍別当湛増、義経に合力。義経は瀬戸内海の制海権を掌握。熊野水軍・塩飽党・三島水軍は源氏方につくが、北九州水軍(原田種直)・松浦党(源披)・菊地一党・山鹿秀遠は平家方に付いてる。

・志度合戦。

平氏が屋島から彦島に退いた翌日、屋島の東にある志度浦(しどのうら)の籠る平氏の残兵を義経は80騎の軍勢で討ったという。義経が80騎で鎮圧できる規模であることを考えれば、讃岐国・阿波国の港に配置されていた軍勢が急を聞いてかけつけてきたが間に合わず、志度寺に立て籠もって討たれたということと推測できる。

田口成良(重能、阿波民部大夫)、嫡男教良の義経への帰服を知り、また屋島の敗戦で平家滅亡必至と判断し、平家を見放し源氏に寝返り、壇ノ浦では兵船300余をもって源氏に走る。壇ノ浦敗戦要因の1つ。

「平家讃岐の国志度の道場に籠もる。廷尉八十騎の兵を引きい、彼の所に追い到る。平氏の家人田内左衛門の尉廷尉に帰伏す。また河野の四郎通信、三十艘の兵船を粧い参加す。義経主すでに阿波の国に渡る。熊野の別当湛増源氏に合力せんが為同じく渡るの由、今日洛中に風聞すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月22日

・梶原景時率いる源氏の主力勢140余隻、ようやく屋島の磯に到着(「吾妻鏡」同日条)。

人々は、「四国をば九郎判官攻め落されぬ。今は何の用にかあふべき。六日の菖蒲(しようぶ)、会(え)にあはぬ花、闘(いさかい)はてての乳切木(ちぎりき)かな」と笑ったという。"

2月29日

・「加藤の五郎入道営中に参り、一封の状を御前に置かる。事問わざるに落涙数行す。・・・ 愚息景廉、三州の御共として鎮西に下向す。而るに去る月周防の国より豊後の国に渡らしめ給わんと欲するの刻、景廉重病に沈む。然れども病身を一葉の船に乗せ、猶御共を為すの由これを申し送る。則ちこの状なり。凡そ君の奉為、戦場に臨み万死の数に入る。今に於いてはまた病に侵され、殆ど死を免がれ難からんか。再び合眼せずんば、老耄の存命甚だ拠所無しと。武衛御感涙を拭いながら、景廉が状(和字)を覧る。」(「吾妻鏡」同日条)。

「景廉所労の事、武衛御歎息殊に甚だし。仍って景廉病痾の事、尤も療養を加うべし。平癒の後は、早く帰参すべきの由、示し付けらるべきの趣、御書を参州に献ぜらる。また慇懃の御書を景廉に遣わされ、病悩の事を訪い仰せらる。」(「吾妻鏡」3月6日条)。


つづく


使途公表不要の政策活動費、20年で456億円 二階氏には50億円 ; 使途公表不要の政策活動費 について、2021年までの20年間で主要政党で約456億円に上ることがわかりました。 自民が総額約379億円で最も多く、二階俊博氏に最多の計約50億円が支出されていました。 — 朝日新聞       

 

「敵基地攻撃、際限のない撃ち合いに」柳沢協二・元官房副長官補が語る 「国民に被害及ぶ恐れ」伝える必要(東京);「相手への攻撃ばかり注目されているが、日本も確実にミサイルを撃たれる」と、元防衛官僚の柳沢協二さん。 「敵基地攻撃という戦争に備える政策を選ぶのなら、国民にも被害が及ぶ恐れがある と政治家が伝えなければいけない」「国民に都合の悪い事実を伝えていない」  / トマホーク最大500発購入へ、反撃能力の準備加速…8年前に購入の英は65発190億円(読売)        

 


 

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2022年11月29日火曜日

英国でストライキ頻発 インフレによる生活費危機から市民の同情も(日経ビジネス);「英国の世帯は今後2年間でさらに生活水準が大きく下がることが予想されている。家計の実質可処分所得は13年の水準に等しくなり、10年間の経済成長分(生活水準の上昇分)が消失してしまうことになる。27年度末でも所得が新型コロナウイルス禍前の水準より1%以上も低いという、悲劇的な内容となっている。」   

教団との接点・車上運動員・「影武者」問題…秋葉復興相、深まる疑念(朝日) / 復興相が弁明「覚えはない」 教団側会合に出席、野党追及(共同) ← またまた同じ手口、記憶喪失 / 秋葉復興相に疑惑次々 岸田政権、4人目の「ドミノ辞任」あるか(朝日) / 「影武者は何人?」次は秋葉復興相に“公選法違反”疑惑 岸田総理は更迭を否定(TBS) / 秋葉復興大臣『理事会で資料は掲示しないと決めたじゃないか、こんなテレビ入りの日に。抗議する!』 / 秋葉復興大臣「事実関係を確認している」旧統一教会関連の団体に会費を支出との報道に対し(TBS) / 秋葉復興相と寺田前総務相、関連政治団体が21年も家族に事務所家賃(朝日) / 当選無効の恐れも…秋葉賢也復興相「選挙運動員買収」疑惑 | FRIDAYデジタル

 



 

参院選の勢いはどこへ?「維新」醜聞連発で大逆風 所属議員が“新曲宣伝”、兵庫県内の市長選5連敗(東洋経済オンライン)

 

〈藤原定家の時代194〉元暦2/文治元(1185)年2月17日~18日 屋島の合戦(2) 『平家物語』にみえる屋島合戦 詞戦 佐藤嗣信の最期 扇の的 夜戦


 〈藤原定家の時代193〉元暦2/文治元(1184)年2月17日~18日 屋島の合戦(1) 阿波に上陸した義経、粟田良遠の館を落とし屋島へ強行 一旦は軍船に逃れた平氏に手痛い逆襲を受ける より続く

元暦2/文治元(1184)年2月17日~18日 屋島の合戦(2)

〈『平家物語』にみえる屋島合戦〉

『平家物語』覚一本と『吾妻鏡』の屋島合戦の流れはほぼ同じだが、やはり『平家物語』の方が逸話が多い。

たとえば、

①阿波から讃岐に向かう山中で、義経の進行を伝える京都からの書状を屋島に運ぶ男を捕らえた話。

②継信最期の合戦の前に、越中盛嗣と伊勢義盛が「詞争」(言葉争い)をした話。

など。

また、『吾妻鏡』では、19日の屋島合戦本戦は、継信最期で記述が終わっているが、覚一本では合戦はその後も続き、

③那須与一が扇の的を射当てた話、

④逃げる源氏側の三穂屋(みをのや)十郎の冑の𩊱(しころ)を、追う平氏側の上総景清が引きちぎった話(「𩊱引き」)、

⑤義経が対戦中に弓を海に落とし、それを危険を顧みずに拾い上げた話(「弓流し」)などの著名な逸話がある。

『平家物語』による屋島合戦

〈詞戦(ことばたたかい)〉

19日辰刻(午前8時ごろ)には屋島内裏の向い側の浦に到着し、早速牟礼(むれ)や高松の在家に放火。平家は、大勢の敵が攻めて来たと判断して、総門の前の汀に並べてあった船に乗り移り、海上に浮び出てしまった。互いに矢石を発したが、海と陸とでは戦にならなかった。

「能登殿はおはせぬか、陸(くが)に上がって一軍(ひといくさ)し給へかし」と呼びかける。

「承り侯」、と越中次郎兵衛盛嗣を先として500余人小船に乗り、源氏方に焼払われた総門前の汀に押寄せた。そして源氏方に向って「詞戦(ことばたたかい)」を挑んだ。

盛嗣「先刻や名のりあったようだが、海上はるかに隔たって仮名(けみよう、通称)・実名がしかと分らぬ。今日の源氏の大将は誰人なるぞ。名のり給え」

伊勢三郎義盛(進み出て) 「ああ、申すも愚かながら清和天皇十代の後胤、鎌倉殿の御弟、九郎大夫判宮殿なるぞ」

盛嗣「聞いたことがある。先年平治合戦のとき、父が討れて孤児になり、鞍馬の児(ちご)となり、後には金商人の所従となり、粮料背負うて奥州へ下った、あの小冠者(こかんじや)めか」

義盛「口達者だからといって、わが君のことをかれこれ申すな。おまえこそ砥波(となみ)山の合戦に負けおって北陸道をさまよい、危い命を助かって、乞食(こつじき)して都へ逃げ上った人間のくせに」

盛嗣「君の御恩に堪能して、何で乞食なんぞしようぞ、そういうおまえこそ鈴鹿山の山賊ではないか」

見かねた金子十郎家忠が進み出ていう。

つまらぬ殿ばらの雑言なんぞやめなされ。互いにでたらめ言って悪口したとて勝負にはなりますまい。

といい終らぬうちに弟の与一親範(ちかのり)が十二束(そく)三伏(みつぶせ)の大弓を引きしぼってひょうと放つと、矢は盛嗣の鎧の胸板の裏にまで深くささった。それで詞戦は終った。

義経の生い立ちに触れた「詞争」

この「詞争」で、盛嗣は、伊勢義盛の主君である義経を、

「一とせ平治の合戦に、父うたれてみなし子にてありしが、鞍馬の兒(ちご)して、後にはこがね商人の所従になり、粮料せをうて奥州へおちまどひし小冠者が事か、」

と貶す。この「こがね商人」は、延慶本では「三条ノ橘次(きちじ)卜云シ金商人」とあり、壇ノ浦合戦でも、義経のことを「金商人ノ所従」と表現する。

義経が鞍馬から奥州に下向する際に、「金売り吉次」に伴われたことは義経の著名な伝説のひとつである。そうした伝説の源流がここにうかがえる。義経は商人の「粮料」(食糧)を背負って、奥州に「おちまど」ったのであり、義経が恵まれた環境のなかで奥州に下向したのではないことを示している。

なお、「金売り吉次」の実像は、院や摂関家の御厩舎人(みうまやのとねり、上皇や摂関家所有の馬を管理する役職)ではないかと言われている。奥州は名馬と砂金の産地であるから、御厩舎人は名馬と砂金を求めて京都と奥州を往復し、また院の舎人は朝廷の使者ともなり、また裕福でもあったという。

ちなみに、壇ノ浦合戦後に義経が任命される院の御厩別当とは、そうした舎人を束ねる長官であり、上皇の親衛隊長のような役割を果たした。

〈佐藤嗣信の最期〉

佐藤嗣信は、浜の合戦で馬上から弓を射ていたところ、首に矢が当たって落馬した。それをみた平教経の童菊王丸が首を取りに走って行ったが、佐藤嗣信の弟忠信に射られて倒れた。それをみた教経は船を下りて菊王丸を救出したので、菊王丸は船内で亡くなった。一方、佐藤忠信は兄を助けて義経の御前に連れて行き、主従の最期の対面を遂げた。

菊王丸は、通盛が一ノ谷合戦で討たれた後、教経に仕えるようになったという。これは、兄通盛の軍勢の生き残りが、一ノ谷から淡路島を経て屋島に退いてきた教経の軍勢に合流したことを示唆している。

『源平盛衰記』は、義経には腹心とたのむ4人の郎党がいたと記す。そのうち、鎌田政清(正家)の子盛政が一ノ谷合戦で討ち死にし、屋島合戦ではその弟鎌田光政と藤原秀衡が附けた佐藤嗣信の二人が討ち死にした。奇襲や急戦を好む義経は、宗たる武者が少数の郎党だけを率いた突撃や騎馬戦をするので、軍勢の中核となるべき人材を多く死なせてしまう欠点をもっていた

同じ頃、渡辺津に置いて行かれた義経配下の軍勢は、居残った軍奉行梶原景時の努力によって解散とならずにすみ、軍勢としてのまとまりを維持することができた。しかし、彼らの不満は大きく、急いで義経を追いかけるような行動には出なかった。義経は、渡辺津から後続の軍勢が駆けつけることが期待できず、自らの手で合戦をなんとかしなければならなくなっていった。

但し、教経は、『吾妻鏡』『玉葉』によればすでに一の谷の合戦で戦死している。『平家物語』では教経は壇の浦でも活躍して入水したとし、「能登殿最期の事」という一段がある。一の谷での死が事実とすれば、その後の教経の物語は虚構ということになる。

一方、嗣信を失った義経も悲嘆にくれ、これを丁重に葬っている。『平家物語』巻11「嗣信最期の事」では、「もしこの辺に導き僧やある」と尋ね、一日経(いちにちきよう、多人数で一日のうちに一部を書写すること)を書いて弔ってほしいと頼み、大夫黒(義経が判官五位に任じられたとき後白河から拝領し、鴇越の逆落しもこの馬で下ったという)と呼ばれた名馬をその僧に布施として与えている。『吾妻鏡』も同様の記事を掲げた後、「これ戦士を撫むの計(はかり)なり。美談せざるはなし」と評している。

〈扇の的〉

海に逃れた平氏は、義経の急襲をしのぎ、追討使の軍勢が思いのほか少ないとわかると、落ち着きを取り戻した。平氏側は、讃岐・阿波の港に散在させた家人が駆けつけてくるのを待ち、河野氏追討を終えて伊予国から帰路についている栗田教良の軍勢の到着を待つことができるので、水軍だけで無理に戦いを進める必要はなかった。しかも、追討使より弓戦の技術は高いので、軍船の上から源氏の騎馬武者を一方的に叩くことができた。

余裕の出てきた平氏は、ここで趣向をこらした提案を義経に対して行った。女房を乗せた非武装の軍船を一艘、汀(みぎわ)に近づけさせ、その軍船に造った扇の的を射落としてみよというのである。その説明は女房が身振りで行うので、これが戦闘でないことは明らかであった。この挑発を受けた義経は、応ぜざるをえまいと武者たちに相談したところ、後藤実基(さねもと)が那須資宗(すけむね)の子余一資高(よいちすけたか)が上手であると推薦した。

鎌倉を代表する弓の名手は下河辺行平と榛谷重朝(はんがやしげとも)であるが、下河辺行平は範頼に属して周防国にいた。榛谷重朝は秩父一族である。今は、三浦一族と秩父一族は頼朝の命令で仲良くしているが、三浦氏は治承4年(1180)の衣笠城合戦で河越重頼を惣領とする秩父一族が三浦義明(義澄の父)を討ったことを忘れてはいなかった。三浦義澄にはこのような合戦のの華となる場面を、秩父一族の榛谷重朝が勤めることは許しがたいであろう。周囲はその事に気をつかい、下野国北部の豪族那須氏の子がよいと後藤実基が気を利かせて推薦した。

那須資高は馬の腹が水につかるまで海の中に入り、見事に一矢で的を射貫いている。平氏側は船板を叩いて資高の優れた射芸を賞賛し、50代の武者が舞を披露した。ところが、追討使の側にはそのような余裕はなく、舞う武者を射よという強硬な意見が出され、資高は老武者も射ることになってしまった。これは、追討使の中に生まれた資高に対する嫉妬を、義経が抑えきれなかったことを示している。扇の的を射たところで終われば、合戦の中に生まれた雅な場面として語り継がれることになる。しかし、その射芸を讃えて舞う者まで射てしまったので、「情け無く射たり」という結末になってしまった。

〈夜戦〉

ここで、平氏側から猛然と攻め始めるものが出て、夕刻の浜で再度の激突がおこる。軍船から上陸した平氏の武者は200余騎、追討使側の軍勢は300騎であるが、平氏側には軍船から援護の弓射があるので、またしても露出した状態で戦うことになった追討使の騎馬武者は浜から退けられていった。

義経は乗馬を海に入れた時に弓を流してしまうほどの緊迫した状態となり、平氏の軍船にすぐ側まで迫られる危機にみまわれた。この日、追討使は浜から離れた毛無山に陣取り、平氏は焼失した内裏の前に陣を取ることになった。

『平家物語』は、義経の急襲が成功して追討使が優勢なように記述されているが、個別に事例を積み上げていくと、この日の合戦は一方的に損害を出した上に突入以前の場所に押し戻された弁明の余地なしの義経の負け戦である。合戦は夜も続いたが、またしても追討使は平氏の弓射の前に前進を阻まれ、多くの者が討たれたという。

『平家物語』は、この夜、それまで三日三晩寝ていなかった源氏の兵たちが前後不覚に寝込んでしまったのを、もし平家方が夜襲していたらひとたまりもなかったろうに、攻撃しなかったのが運のきわめとはなった、としている。


つづく


2022年11月28日月曜日

東大本郷キャンパスのイチョウ黄葉 2022-11-28

 11月28日(月)くもり

東大本郷キャンパスのイチョウを観に行った。コロナで暫く構内に入れなかったので、今日は多分、3年ぶりくらいかも。

工学部前のイチョウは丁度ピークと思われるくらいに見事だった。

▼工学部前





▼安田講堂まえ他


▼三四郎池とその周辺


▼赤門周辺
赤門は現在工事中(構造調査中との看板あり)



日本への直接攻撃なくても「反撃能力」行使可能  公明幹部「存立危機事態も含まれる」(TBS);「存立危機事態は、アメリカなど密接な関係にある他国が武力攻撃を受け、日本の存立が脅かされる事態のことで、日本が直接攻撃を受ける「武力攻撃事態」でなくても理論的には反撃能力を行使できるとの認識を示したものです。」

 

〈藤原定家の時代193〉元暦2/文治元(1185)年2月17日~18日 屋島の合戦(1) 阿波に上陸した義経、粟田良遠の館を落とし屋島へ強行 一旦は軍船に逃れた平氏に手痛い逆襲を受ける

 

屋島合戦

〈藤原定家の時代192〉元暦2/文治元(1184)年2月1日~16日 葦屋浦の合戦(範頼軍が平家軍に勝利) 義経と梶原景時の「逆櫓論争」 深夜、暴風の中、義経が単独出撃 より続く

元暦2/文治元(1184)年

2月17日

・卯刻(午前6時頃)、義経、150騎余の軍勢とともに阿波国桂浦(小松島市)に上陸。上陸すると早速、地元の豪族近藤親家(ちかいえ)が味方に付いた。途中、桂浦で桜間介(さくらまのすけ)粟田良遠(よしとお、阿波水軍首領阿波民部大夫成良の弟)の館(徳島市)を攻め落とし(『吾妻鏡』2月18日条)、阿波・讃岐の境の中山を越え屋島を目指して北上。

(「源平盛衰記」では上陸地点は「はちまあまこの浦」(勝浦郡八万尼子浦)とし、「吾妻鏡」では那賀郡椿浦(徳島県小松島市田野町付近)とする。椿浦は南方過ぎるため尼子浦が妥当。)

栗田良遠は栗田重能の弟で、上洛して外記を勤めた下級官吏人で。阿波民部大夫を通称とした栗田重能の一族は、阿波国在庁を勤める家で、水上交通で京との結びつきが強いことから、必要に応じて京都と阿波を往来する「京貫(きようかん)」とよばれた生活をした人々である。この一族は、六位外記や民部丞(みんぶのじよう)など地下顕官(じげのけんかん)とよばれる事務能力の高い下級官人を補任する官職を勤めた。彼らは平氏家人となったことで武者に分類されるが、文章道(漢詩文)や算道(数学・簿記)を学んだ技官と武者を兼ねた人々である。一族の中で、良遠は阿波国在庁として所領を守る役割を分担した人であろう。良遠の降参以後、粟田一族は急速に戦意を失い、平氏家人の重要な柱が崩れていく

「仍って丑の刻先ず舟五艘を出す。卯の刻阿波の国椿浦に着く(常の行程三箇日なり)。則ち百五十余騎を率い上陸す。当国の住人近藤七親家を召し仕承と為し、屋嶋に発向す。路次桂浦に於いて、桜庭の介良遠(散位成良弟)を攻めるの処、良遠城を辞し逐電すと。夜に入り、武衛豆州より鎌倉に還着し給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月18日

・義経は急進して金泉寺(こんせんじ、徳島県板野町)を通過し、引田浦(ひきたうら)・丹生社(にうしや、香川県東かがわ市)・高松郷(香川県高松市)を通過して、屋島の内裏の向いの浦に到着、付近の牟礼や高松の民家に火を放つ。平氏はこの軍勢を大軍と誤認した(延慶本『平家物語』)。平氏は、義経の軍勢の規模を確認せずに内裏を放棄し、軍船に退く決定をした。

平氏が海上に逃れると、義経は、田代信綱、金子家忠・近則、伊勢義盛等を率いて汀に向かい、平氏は船上から、互いに矢を射合った。

一方、佐藤継信・忠信、後藤実基・基清等は屋島に渡り、内裏や宗盛の宿所以下の舎屋を焼き払った。これを見た平氏側からは、越中盛嗣や上総忠光等が上陸して合戦となり、佐藤継信が討たれた。

義経は、継信の死を深く悲しみ、手篤く葬り、後白河から賜った大夫黒という秘蔵の名馬を僧に与え、弔いをさせたという(以上、『吾妻鏡』2月19日条)

「去月十六日解䌫、十七日阿波国に着く。十八日屋島に寄せ、凶党を追ひ落し了んぬ。しかれども未だ平家を伐ち取らずと云々」(『玉葉』3月4日条)

『吾妻鏡』『平家物語』は、その後、平氏軍の一部が屋島の東方にあたる志度浦(しどのうら)で義経軍と戦闘を交えたと記しているが、『玉葉』には「平家讃岐国シハク庄に在り。しかして九郎襲ひ攻むるの間、合戦に及ばず引退き、安芸厳島に着き了んぬと云々。その時僅に百艘許りと云々」(3月16日条)とあり、屋島西方の塩飽島にあった平氏軍が、義経軍の追撃を受けて100艘ばかりで安芸国厳島に退却したという情報が記されている。こうして平氏軍は、義経軍の攻撃によって、屋島とならぶもう一つの拠点であった長門国彦島に追い詰められていく。

延慶本『平家物語』は、屋島にいた平氏の動向を義経に合流した阿波国板西群(ばんざいぐん)の武者近藤親家から聞き取った話としている。それによると、粟田重能の子粟田教良が伊予国の河野通信を討つため3千騎を率いて発向していること、平氏は阿波・讃岐の浦々に軍勢を分散させて警備しているので、屋島内裏にいる軍勢は少ないということであった。

範頼が九州に攻め込んだことで、屋島の平氏は河野通信を討つ軍勢を動かした。屋島に残した軍勢を港に分散させたのも、物資の集積地となる港を抑え、兵粮を集めた可能性が高い。

義経に阿波の状況を伝えたのは近藤親家である。近藤氏は阿波国在庁で藤原信西の側近となった西光(藤原師光もろみつ)の縁者という伝承があるので、後白河が信西の子供たちをつかって画策していた可能性はある。近藤親家は、100騎の武者を引き連れて合流した。親家は、追討使の軍勢が阿波に上陸することを知っていて、待っていたことになる。義経上陸の根回しは、行われていたと考えられる。

〈浜の戦いで手痛い打撃を受ける義経〉

平氏は、安徳天皇以下の首脳部が軍船に退くための時間稼ぎとして、屋島内裏に垣盾(かいだて)を並べて防ぎ矢をしたので、内裏にいた人々は捕らえられることなく軍船に退いた。それ以後は、軍船に乗る平氏と浜まで追いかけてきた追討使の騎馬武者との間で激しい弓戦となるが、身を隠しながら弓を射ることのできる軍船と、隠れる場所もない浜で馬上の弓戦をする騎馬武者との戦いは、騎馬武者が一方的に射落とされることになった。追討使は、ここで釘付けになり、「宗たる」武者を40余人討たれたという。「宗たる」ということは、本来なら騎馬武者の一団を率いる軍勢の中堅以上の武者ということである。義経の急進に多くの郎党を伴わず、また落伍させて付いてきたので、屋島に突入した時は騎馬武者にわずかな郎党が従うだけの集団になっていた。

『吾妻鏡』と延慶本『平家物語』によると、義経の軍勢は150騎、そこに阿波の近藤親家が100騎ほど率いて合力し、その後に武者も含めて追討使は350騎ほどになっていた。

一方で、義経はたった2日間で桂浦(勝浦)から屋島まで強行軍をしたので、落伍した軍勢も多く、屋島内裏に攻め込んだ時に率いていた軍勢の規模は不明である。延慶本『平家物語』は遅れて到着した武者の名前を列記するので、誰が落伍したかはわかる。足利義兼・北条時政・三浦義澄・稲毛重成・小山朝政以下が付いてこれなかった。これらの人々が名前を連ねる軍勢が総数150騎というのは、指揮する人ばかりで、郎党の少ない構成になっていたことをよく示している。浜まで平氏を追いかけた義経は、ここで痛烈な反撃に合い、一割以上の武者が討ち取られる敗北をした


つづく


日銀、保有国債に含み損8749億円 異次元緩和下で初めて: 日本経済新聞 ;「3月末時点では4兆3734億円の含み益だったが、半年で全額が吹き飛んだ。」 

(記者解説)米中間選挙、伸びぬ共和党 トランプ流に陰り、世代交代も注目 アメリカ総局・高野遼(朝日);〈次の大統領選、民主党支持者の54%がバイデン以外のほうが勝ち目ありと答え、共和党支持者も54%がトランプ以外がよいとする。共和党側には、中間選挙の最大の収穫はバイデン続投の流れが強まったことだとの声も…どちらの党が先に世代交代できるのかで結果が左右されそうだ〉    

2022年11月27日日曜日

震える声で「いま声を…」 ゼロコロナに抗議拡大、習近平氏母校でも(朝日);「27日には習近平(シーチンピン)国家主席の母校でもある北京の清華大学の学生が抗議する事態に。各地の若者も声を上げ始め、当局にあらがう市民の姿も目立ち始めた。」 「清華大学での抗議集会には数百人以上の学生が参加。女子学生が「いま声を上げなければ生涯後悔する」などと震える声で訴える動画も拡散した。上海市内にある「ウルムチ」の名を冠した通りには多くの人が集まり、習氏の辞任を求める動画も中国のSNSで出回った。」 / (YouTube)北京、上海の様子    

 

前川喜平「公文書改竄事件の責任者は佐川氏だけではないはずだ。僕は当時の菅官房長官の指示があったと思うし、当時の安倍首相も了解していたと見ている。真の責任者は官邸にいたのだ。この言説を名誉棄損だと思うなら、菅氏は私を訴えたらいい。私は喜んで受けて立つ。 その時こそ裁判所で真実を明らかにできるだろう。」(東京新聞) 

 


 

▼偶然のタイミングでこの方も、、、、

 




 

〈藤原定家の時代192〉元暦2/文治元(1185)年2月1日~16日 葦屋浦の合戦(範頼軍が平家軍に勝利) 義経と梶原景時の「逆櫓論争」 深夜、暴風の中、義経が単独出撃     

 

歌川国芳「源義経梶原逆櫓争論図」

〈藤原定家の時代191〉元暦2/文治元(1184)年1月1日~25日 頼朝、範頼書状を受け取り、兵粮米を積んだ兵船を送ると約束 義経、平家追討院宣を願い出る 範頼以下39人の大将が豊後に渡る より続く

元暦2/文治元(1184)年

2月1日

・葦屋浦の合戦。範頼軍(北条小四郎時政ら)、平家軍(太宰少弐原田種直)を葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町)で迎撃、勝利、豊後(平家軍の背後に)に上陸。近隣制圧へ。別府温泉北方の鶴見郷古殿に本拠を構築。豊後橘頭砦。これを機に九州の武士たちは範頼方につくようになる。

「参州豊後の国に渡る。北條の小四郎・下河邊庄司・渋谷庄司・品河の三郎等先登せしむ。而るに今日葦屋浦に於いて、太宰少貳種直・子息賀摩兵衛の尉等、随兵を引きいこれに相逢い挑戦す。行平・重国等懸け廻りこれを射る。彼の輩攻戦すと雖も、重国が為討たれをはんぬ。行平美気の三郎敦種を誅すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月3日

・義経、150騎で京を出発。難波で兵船を集める。梶原景時(軍奉行)、兵1万で到着。

2月5日

・頼朝、典膳大夫中原久経・近藤国平を上洛させ、武士が平氏追討を名目として畿内近国で狼藉するのを停止するよう命じ近辺11ヶ国を鎮めるよう定める(占領軍統制の監督役)。3月4日鎌倉発。

これは義経が従来行ってきた権限を奪うもの、義経が畿内を離れ、平氏追討使に復帰させる方向転換を示すもの。この2人に義経後の畿内支配を担わせる。

「典膳大夫中原久経・近藤七国平使節として上洛す・・・。これ平氏を追討するの間、事を兵粮に寄せ、散在の武士、畿内近国の所々に於いて狼藉を致すの由、諸人の愁訴有り。仍って平家滅亡を相待たれずと雖も、且つは彼の狼籍を停止せられんが為、差し遣わさるる所なり。先ず中国近辺の十一箇国を相鎮め、次いで九国・四国に至るべし。悉く以て奏聞を経て、院宣に随うべし。この一事の外、私の沙汰を交ゆべからざるの由定め仰せらると。今の両人指せる大名に非ずと雖も、久経は、故左典厩の御時殊に功有り。また文筆に携わると。国平は勇士なり。廉直の誉れ有るの間此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月11日

・頼朝の義経に出陣を命じる書状、義経の許に届く。

2月12日

「武衛伊豆の国に赴かしめ給う。これ伽藍を狩野山に建立せんが為、日来材木を求めらる。これを監臨せんが為なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月13日

・義経に屋島攻撃の出陣命令がくだる。

2月13日

・平氏追討の為鎌倉中の僧を集め鶴岡八幡宮で大般若経を転読させ、京都でも二十壇の秘法が修される(「吾妻鏡」同日条)。

2月14日

・範頼の飛脚到着。頼朝、範頼に対して山陽道諸国の惣追捕使である土肥実平・梶原景時と協議して、九州武士の組織化を進めるように命じる(「吾妻鏡」同日条)。

2月16日

・義経、摂津渡辺に到着。後白河(59)は摂津渡辺に大蔵卿高階泰経を派遣し義経を引き留める(大将軍の器量を説き、先ず次将を派遣すべきでないかと諌める)が、義経はこれを断って、屋島の平家本陣を一気に攻めることを再度法皇に告げるよう懇願(命を捨てる覚悟と語る(「吾妻鏡」)。この頃、京都は義経統率下にあり、義経が出陣すると、都の平安が崩れる危険が潜在しているため(「玉葉」)。この日酉の刻(午後6時頃)、軍船200艘、大波に揉まれて修理する舟が続出、港に留まることになる。

〈『玉葉』と『吾妻鏡』の日付のズレ〉

『玉葉』の義経の報告によれば、16日に出航し、17日に阿波に着き、18日に屋島に着いたとある(『玉葉』3月4日条)。それ以前にも16日に出航したことが伝わっている(『玉葉』2月27日条)。

一方、『吾妻鏡』の義経の報告によれば、17日に渡辺を出航し、翌日卯刻(午前6時前後)に阿波に着き、19日に屋島に向かったとある(『吾妻鏡』3月8日条)。

「関東の軍兵、平氏を追討せんが為讃岐の国に赴く。廷尉義経先陣として、今日酉の刻纜を解く。大蔵卿泰経朝臣彼の行粧を見るべしと称し、昨日より廷尉の旅館に到る。而るに卿諫めて云く、泰経兵法を知らずと雖も、推量の覃ぶ所、大将軍たる者、未だ必ず一陣を競わざるか。先ず次将を遣わさるべきやてえり。廷尉云く、殊に存念有り。一陣に於いて命を棄てんと欲すと。則ち以て進発す。尤も精兵と謂うべきか。平家は陣を両所に結ぶ。前の内府讃岐の国屋嶋を以て城郭と為す。新中納言知盛九国の官兵を相具し、門司関を固む。彦島を以て営に定め、追討使を相待つと。今日武衛山沢を歴覧するの間、藍澤原に於いて参州に付き{思慮を}廻らし、季重を以て御書を遣わさる。また御書を北条の小四郎殿・齋院次官・比企の籐内・同籐四郎等に下さる。これ平家を征するの間、各々同心すべき由なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

「伝聞、大蔵卿泰経卿御使として渡辺に向かう。これ義経が発向を制止せんが為と。これ京中武士無きに依って御用心の為なりと。然れども敢えて承引せずと。泰経すでに公卿たり。此の如き小事に依って、輙く義経が許に向かうこと、太だ見苦しと。」(「玉葉」同日条)。

評定で、義経と梶原景時の「逆櫓(さかろ)論争」。梶原景時は、船の進退が自由にできるように逆櫓を付けることを主張。義経は、初めから逃げる支度をするとは何事だと反対し、景時と義経の間に険悪な空気が流れる。

しかし、この時、景時は範頼軍に参加していて、義経とは行動を共にしていない。これは「平家物語」が、渡航前に高階泰経が義経の大将軍の器量を説いた事実を脚色したものと推測できる。

〈『平家物語』巻11「逆櫓」〉

「同(おなじき)十六日、渡辺、神崎両所にで、この日ごろそろへける舟ども、ともづなすでにとかんとす。をりふし北風木を祈ッてはげしう吹きければ、大浪に、舟どもさむざむにうち損ぜられて、いだすに及ばず。修理のために其の日はとどまる。渡辺には、大名小名寄りあひて、「抑(そもそも)舟軍(ふないくさ)の様(やう)はいまだ調練せず。いかがあるべき」と評定す。」

渡辺(大阪市東区京橋辺)・神崎(兵庫県尼崎市)は船着場。この両所から出そうと勢揃えしていたが、ものすごい北風が襲ってきて、揃えてあった船はさんざんにこわされ、出発は一日延期することになる。渡辺では大名・小名たちが寄りあい、源氏は船軍になれていない、この危機をどう乗りきるか、の評定(戦術会議)を開いた。

「梶原申しけるは、「今度の合戦には、舟に逆櫓(さかろ)をたて候はばや」。判官、「逆櫓とはなんぞ」。梶原、「馬はかけんと思へば、弓手(ゆんで)へも馬手(めて)へもまはしやすし。舟は、きツとおしもどすが大事に候。艫舳(ともへ)に櫓をたてちがへ、わいかぢをいれて、どなたへも、やすうおすやうにし候はばや」と申しければ、判官宣ひけるは、「いくさといふものは、一(ひと)ひきもひかじと思ふだにも、あはひあしければ、ひくは常の習(ならひ)なり。もとよりにげまうけしては、なんのよかるべきぞ。まづ門出のあしさよ。逆櫓をたてうとも、かへさま櫓をたてうとも、殿原(とのばら)の舟には百挺千挺もたて給へ。義経は、もとの櫓で候はん」と宣へば、梶原申しけるは、「よき大将軍と申すは、かくべき処(ところ)をばかけ、ひくべき処をばひいて、身をまッたうして、かたきをほろぽすをもツて、よき大将軍とはする候。片趣(かたおもむき)なるをば、猪のしし武者とて、よきにはせず」と申せば、判官、「猪のしし、鹿のししは知らず、いくさは、ただ平攻(ひらぜめ)にせめて、かッたるぞ心地はよき」と宣へば、侍ども梶原におそれて、たかくはわらはねども、目ひき鼻ひき、ぎぎめきあへり。判官と梶原と、すでに同士軍(どしいくさ)あるべしと、ざざめきあへり。」

このとき梶原景時が、「このさい船に逆櫓を立てよう」といいだす。義経は、「逆櫓とは何だ」と尋ねる。梶原は、「船は馬のようには、急に方向をかえることができぬ。艫(船尾)にも舳(船首)にも櫓をつけ、その脇に梶を揃えて、前にも後ろにも、らくらくと押し出せるようにしたいのだ」と答える。これを聞いた義経は、「はじめから逃げ支度するなど縁起でもない。立てたい者は、百ちょうでも千ちょうでも逆櫓とやらを立てるがよい。義経は、いままでの櫓でやっていく」という。梶原は、「そんな大将を猪武者というのだ」といい返すと、義経は、「猪のししか鹿のししかしらぬが、戦は、ただ平攻めに攻めたてて勝つのが気持ちよいのだ」といいきった。そばにいた侍たちは、目つき鼻つきで梶原を笑いあって、ざわめいたので、義経と梶原とは、すんでのことに同士討ちするかと思われるほどであった。

深夜、義経は暴風の中、船に武器と兵粮米を積みこみ、「すぐさま船を出せ」と命じる。船頭たちは、「こんな大風に、どうして船出ができよう」と尻ごみするが、義経が、「この風は向かい風ではない、追い風だ。船を出さぬ奴らは、みな射殺せ」と命じたので、船頭たちは同じ死ぬならと、二百余艘のうち五艘だけ、丑刻(午前2時頃)、ついに命がけで走り出した。


つづく



【ダーティー五輪】 組織委、「受注候補一覧」を作成 電通側に表の完成を依頼 五輪談合(朝日) / 博報堂など4社を新たに家宅捜索 業界全体で談合か 五輪テスト大会(朝日) / 五輪本大会、平均3割増で受注 落札9社 テスト大会と関連か(産経) / 五輪談合、ほとんどの入札で参加企業1社だけ 受注調整の結果か(毎日) / 五輪談合、組織委にも捜索のメス…JOC元参事「ブラックボックスぶり改めて露呈」(読売) / 五輪テスト大会談合疑惑、独禁法違反で強制捜査へ…電通など落札 / 五輪組織委、官製談合か テスト大会業務で「割り振り表」作成(朝日) / 広告大手ADK、公取委に「五輪テスト大会の入札で談合」…課徴金減免へ自主申告(読売) ← 素直に白状すると恩典あるのか 



 

自民党が今やっている「統一教会問題への対応」は全て「統一教会と創価学会が許容できる範囲で作られたもの」。つまり馴れ合いの茶番劇。でなければ細田氏や萩生田氏はとっくに役職を外れている。 彼らが居座り続けているということは、辞任させられない力があるということ。 / 萩生田氏と細田氏が、それぞれ自民党政調会長と衆議院議長の地位を保っている現状は、これ自体が全国の統一教会信徒に向けた「状況はまだそれほど悪くない」というメッセージ(山崎雅弘)               

2022年11月26日土曜日

〈藤原定家の時代191〉元暦2/文治元(1185)年1月1日~25日 頼朝、範頼書状を受け取り、兵粮米を積んだ兵船を送ると約束 義経、平家追討院宣を願い出る 範頼以下39人の大将が豊後に渡る    

 


〈藤原定家の時代190〉寿永3/元暦元(1184)年12月1日~29日 藤戸合戦(範頼軍、四国攻略の準備として児島攻略) より続く

元暦2/文治元(1184)年

この年から、中世国家の骨格形成の3過程の第3過程(後白河院政末期~後鳥羽親政・院政の時期)。

京都の王朝権力(「公家」「寺家」)と鎌倉の幕府権力(「武家」)が政治的分業と協業をもとに国家権力を構成する時期。

1月1日

・範頼、赤間関到着。渡海しようとするが船・兵糧なく諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。

1月1日

・佐々木義清、出雲・隠岐の守護となり、富田に入る。

1月1日

・頼朝、鶴岡八幡宮参詣(「吾妻鏡」同日条)。

1月1日

・検非違使となった義経が使庁へ初出任した時のことを記す『大夫尉義経畏申記(だいふのじようよしつねかしこまりもうすき)』元暦2年(1185)正月1日条には、武蔵国御家人である大井実春(さねはる)が、「因幡の目代」として垸飯(おうばん)を勤めたという記事が見える。「因幡」は因幡守(大江)広元のことと考えられ、この大井実春は、広元の代官として義経の動向の監視役を任されていたことになる。

1月6日

・頼朝、範頼書状を受け取り、2月10日頃に東国から兵粮米を積んだ兵船を送ることを約束し、九州の在地武士を動員して、四国の平氏軍に対する包囲態勢を慎重に整えるよう命じる。その際、三種の神器ならびに安徳天皇・平時子らを安全に迎えるよう繰り返し述べる。文中で武田信光・小笠原長清を褒め、秋山光朝を非難する。

「平家を追討せんが為西海に在るの東士等、船無く粮絶えて合戦の術を失うの由、その聞こえ有るの間、日来沙汰有り。船を用意し兵粮米を送るべきの旨、東国に仰せ付けらるる所なり。その趣を以て、西海に仰せ遣わされんと欲するの処、参河の守範頼(去年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏するの間、軍士等一揆せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。その外鎮西の條々これを申さる。また乗馬を所望せらると。この申状に就いて、聊か御不審を散ずと雖も、猶雑色定遠・信方・宗光等を下し遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月8日

・義経(27)、範頼軍が撤退すれば西国における平氏の勢力がいっきに拡大するとして、法皇に対して、平家追討院宣を出すことを、法皇近臣の大蔵卿高階泰経を通じて願い出る(「平家物語」)。

高階泰経が、権中納言吉田経房に義経出陣の是非を問うと、「義経の申状、もつともその謂(いわれ)有り、(略)しからば今春義経発向して、もつとも(平家と)雌雄を決すべきか」と経房は私見を述べる(「吉記」)。

当時、朝廷では前年の元暦元年の乱で逃走した伊藤忠清が京中に潜んでいるとの晦が流れており、義経の出陣に反対する意見もあったが、義経による短期決戦での戦争終結を望む意見も強かった。長引く内乱で荘園・国衙領支配に大きな打撃を受けていた貴族社会では、頼朝の終戦構想とは異なり、早期決霜を期待する声の方が大きかった。

「大府卿院に於いて示して云く、廷尉義経四国に向かうべきの由申す所なり。而るに自身は洛中に候すべきか、ただ郎従を差し遣わすべきかの由、申さるる人有り。且つはこれ忠清法師在京中の由風聞す。定めて凶心を挿むかと。二三月に及ばば兵粮尽きをはんぬ。範頼もし引き帰さば、管国の武士等猶平家に属き、いよいよ大事に及ぶかの由、義経申す所なり。予申して云く、義経が申し状、尤もその謂われ有り。大将軍下向せず、郎従等を差し遣わすの間、諸国の費え有りと雖も、追討の実無きか。範頼下向の後この沙汰に及ぶか。然れば今春義経発向し尤も雌雄を決すべきか。忠清法師の事に於いては、沙汰に及ばざるか。但しその身を搦め進すべきの由、尤も宣下せらるべきか。義経下向すと雖も、猶然るべきの輩は、差し分け京都に祇候せしむべきの由、尤も仰せ合わさるべきなり。」(「吉記」同日条)。

1月11日

・藤原隆季(59)没

1月12日

・範頼、赤間関(あかまがせき、下関市、下関の古名)に赴くが、船が確保できず。この時、豊前宇佐八幡宮司一族の臼杵惟隆・緒方惟栄兄弟、範頼の味方となり、範頼、彼らに兵船の用意を命じる。

26日、兵船82艘が源氏側に提供(周防の宇佐那木遠隆(うさなぎとおたか)は食料を提供)、範頼以下39人の大将が豊後に渡る(「吾妻鏡」)。足利義兼・千葉介常胤(孫の千葉常秀を従え)、同行。

この時、下河辺行平は、持参していた戦費も兵粮も尽き、甲冑を売って船を買い、豊後国に渡ったという(「吾妻鏡」)。範頼が「絶粮」と言うように、従う御家人たちの困窮も限界に来ていた。範頼は、周防国の留守を三浦義澄に預けて博多進攻を開始。

「参州周防より赤間関に到る。平家を攻めんが為、その所より渡海せんと欲するの処、粮絶え船無く、不慮の逗留数日に及ぶ。東国の輩、頗る退屈の意有り。多く本国を恋う。和田の小太郎義盛が如き、猶潛かに鎌倉に帰参せんと擬す。何ぞ況やその外の族に於いてをや。而るに豊後の国の住人臼杵の次郎惟隆・同弟緒方の三郎惟栄は、志源家に在るの由、兼ねて以て風聞するの間、船を彼の兄弟に召し、豊後の国に渡り、博多の津に責め入るべきの旨儀定有り。仍って今日三河の守周防の国に帰ると。」(「吾妻鏡」同日条)。

「惟隆・惟栄等、参州の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜を解き、豊後の国に渡ると。同時に進み渡るの輩 北條の小四郎 足利蔵人義兼 小山兵衛の尉朝政 同五郎宗政 同七郎朝光 武田兵衛の尉有義 齋院次官親能 千葉の介秀胤 同平次常秀 下河邊庄司行平 同四郎政能 浅沼の四郎廣綱 三浦の介義澄 同平六義村 八田武者知家 同太郎知重 葛西の三郎清重 渋谷庄司重国 同二郎高重 比企の籐内朝宗 同籐四郎能員 和田の小太郎義盛 同三郎宗實 同四郎義胤 大多和の三郎義成 安西の三郎景益 同太郎明景 大河戸の太郎廣行 同三郎 中條の籐次家長 加藤次景廉 工藤一臈祐経 同三郎祐茂 天野の籐内遠景 一品房昌寛 土左房昌俊 小野寺の太郎道綱

この中常胤は衰労を事ともせず、風波を凌ぎ進み渡る。景廉は病身を忘れ相従う。行平は粮尽き度を失うと雖も、甲冑を投じ小船を買い取り最前に棹さす。人怪しみて云く、甲冑を着けず、大将軍の御船に参らしめ、全身戦場に向かうべきかと。行平云く、身命に於いては本よりこれを惜しとせず。然らば甲冑を着けずと雖も、自身進退の船に乗り、先登に意を任せんと欲すと。将帥纜を解く。爰に三州曰く、周防の国は、西は宰府に隣し、東は洛陽に近し。この所より子細を京都と関東に通し、計略を廻らすべきの由、武衛兼日の命有り。然れば有勢の精兵を留め、当国を守らしめんと欲す。誰人を差すべきやてえり。常胤計り申して云く、義澄精兵たり。また多勢の者なり。早く仰せらるべしと。仍ってその旨を義澄に示さるるの処、義澄辞し申して云く、意を先登に懸けるの処、徒にこの地に留まるは、何を以て功に立てんやと。然れども勇敢を選び敢えて留置せらるの由、命ずる所再三に及ぶの間、義澄陣を防州に結ぶと。」(「吾妻鏡」同26日条)。

1月19日

・文覚、陣参に対する僧徒の自覚に関し神護寺衆徒に諭す(「神護寺文書」同日付け僧文覚起請文)。国法の埒外に立ち得るとの特権の自覚。

「私威を以て合戦を企て、勝負を決する」こと、「臣下に追従して、賄賂を致す」ことなどをすべて悪として斥け、降参のみをとるべき唯一正当の手段とする。「末代大事の訴訟出来のときは、大衆陣参して天聴を驚かすべきなり、もし裁許を蒙らざるときは、陣庭に立ちながら一生を尽すべきなり。」

1月20日

・源(久我)通親、権中納言となる。

1月21日

「武衛御宿願に依って、栗浜明神に参り給う。御台所同じく伴わしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月22日

「出雲の国安楽郷を以て、先日鴨社神領に寄付せしめ給いをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月22日

・義経、和泉春木庄内観音寺住僧などの住房を安堵し、武士の狼藉を禁止。

1月25日

・この日早暁、右大臣兼実の息、三位中将良経が末曽有の夢(その内容は分らない)を見たというので、未刻(午後2時ころ)父子で東方の天をなが勃ていたところ、黒雲が東から西へ走った。これを見て兼実は、これはきっと天道が平氏を伐(う)たしめ給うによってこの雲があったにちがいない、と占う。一方では、兼実は同日、「伝え聞く、平氏強々と云々」、との噂が流れてはいるが、平氏の命運はいくぱくもないであろう、というのが、都の人々の抱く実感であったと思われる。

1月25日

・北条義時(23)、豊後国に渡る


つづく


2022年11月25日金曜日

〈藤原定家の時代190〉寿永3/元暦元(1184)年12月1日~29日 藤戸合戦(範頼軍、四国攻略の準備として児島攻略) 

 


〈藤原定家の時代189〉寿永3/元暦元(1184)年11月2日~24日 「参河の守範頼(去年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏するの間、軍士等一揆せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。」(「吾妻鏡」) より続く

寿永3/元暦元(1184)年

12月1日

・頼朝、平家没官領の若狭遠敷郡玉置郷を園城寺に寄進(「吾妻鏡」同日条)。

12月2日

「武衛御馬一疋(葦毛)を佐々木の三郎盛綱に遣わさると。盛綱平家を追討せんが為、当時西海に在り。而るに折節乗馬無きの由言上せしむに依って、態と雑色を立て、これを送り遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月3日

・北条時政、頼朝の園城寺帰依を義経に伝える(「吾妻鏡」同日条)。

12月5日

・藤姓足利(佐野)成俊、没。

12月6日

・この年の冬は5、6年ぶりに雪がよく降った。この日、前夜より雪が降り、兼実が未明に戸を開けて外を見たところ、5、6寸積っていたという。そこで兼実は、雪は豊年の瑞である。明年は天下が治まるの祥瑞であろう、と記している。雪は21日、24日にも降り、4、5寸積った。今年は連日のように雪が降り、寒さは例年に超えているが、巷ではこれをもって吉瑞となしている、と「玉葉」は記す。 

12月7日

・藤戸合戦。『吾妻鏡』によれば、備前児島に城郭を築いた平行盛の攻撃に向った佐々木三郎盛綱と郎等7人が、沖合からしきりに招く行盛が、船には乗らず、馬にまたがって藤戸の海路、三丁ばかりを渡って行ったのを追うて討ったという。

但し、『平家物語』巻10「藤戸の事」では平行盛は登場しない。ここでは盛綱が夜分、浦の男と語らい、味方にもないしょで浅瀬の様子を知ったうえで、翌日小舟に乗って招く平家方目指し、郎等と7騎で海にうち入って追跡したので、源氏の武士もこれに続いたという話になっている。

佐々木盛網の活躍で平家は再び屋島へ去り、盛網は、行盛を追伐したことで頼朝より感状を与えられる。

能の「藤戸」は、盛綱が浅瀬の情報を聞いた浦人を情報漏れを防ぐため殺害し、その男の怨霊に責められ苦しむという粗筋だが、『平家物語』でも語り本系に見られ読み本系には見られない。

また、日付の問題も残る。『吾妻鏡』は12月7日とするが、『平家物語』諸本の「藤戸」は盛綱の渡海を9月23-25日としている。しかし、9月時点での児島での合戦を伝える信頼できる史料はない。

したがって、範頼軍は児島を置き去りにして、先へ進み、12月になって四国攻略の準備として児島攻略に出た解釈できる。

「平氏左馬の頭行盛朝臣五百余騎の軍兵を引卒し、城郭を備前兒島に構うの間、佐々木の三郎盛綱武衛の御使として、これを責め落とさんが為行き向かうと雖も、更に波濤を凌ぎ難きの間、浜の干潟に轡を案ずるの処、行盛朝臣頻りにこれを招く。仍って盛綱武意を励まし、乗船を尋ねるに能わず。乗馬しながら藤戸の海路(三町余)を渡す。相具する所の郎従六騎なり。所謂志賀の九郎・熊谷の四郎・高山の三郎・與野の太郎・橘三・橘五等なり。遂に向岸に着かしめ、行盛を追い落すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月16日

「吉備津宮の宮仕、今日鎌倉に参着す。供僧行實解状を捧げる所なり。その趣、本宮長日の法華経の免田、並びに二季彼岸の仏聖田等、西海合戦の事に依って没倒す。関東の御沙汰として、元の如く奉寄せらるべきの由なり。武衛子細を相尋ね、成敗すべきの由、御消息を件の解状に相副え、實平の許に遣わさると。實平当時備前の国に在りと。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月16日

・後白河法皇、平頼盛の八条邸桟敷から摂政近衛基通の春日大社参詣行列を見物。

12月20日

・義経より西国所領沙汰付の請文、頼朝に到着(「吾妻鏡」同日条)。

12月20日

・平頼盛、権大納言辞任。平光盛を左近衛少将に任じられるよう請う。屋島に仮住む平家一門を思いやり、内心の後ろめたさ、両親の呵責を感じる。

12月21日

・実厳阿闍梨が兼実にひそかに語る。人相見で有名な少納言入道宗綱が昨夜関東から帰っての話に、頼朝は、「右府殿(兼実)のことを京下りの輩(京都から鎌倉に下った者)に尋ねると、彼らは一様にそのよさを称し、悪いことを聞いたことがない。それで兼実が社稷(しやしよく)の臣であることが分った」とたいへん感心していたという。どうやら音信を通じない(兼実から頼朝へ)のが、頼朝の信用を得る根本理由になっていたらしい。(「玉葉」同日条)

12月25日

「鹿島社神主中臣の親廣・親盛等、召しに依って参上す。今日営中に参り、金銀の禄物を賜う。剩え当社御寄進の地、永く地頭の非法を停止し、一向に神主管領せしむべきの旨仰せ含めらる。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月29日

・義経、伝法院領の兵糧米・万雑公事の停止を重ねて命じる。


つづく




2022年11月24日木曜日

広島県教育長のタクシー代、1年間で100万円超 片道100キロの視察を何度も(中国新聞)

 

鎌倉 浄妙寺の大イチョウの黄葉が見頃 松久寺のモミジの紅葉がキレイ 2022-11-24

 11月24日(木)はれ

一条恵観山荘のあと、松久寺と浄妙寺に立ち寄った。

鎌倉 一条恵観山荘(重文)の紅葉がすっかり見頃 2022-11-24

▼浄妙寺

大イチョウの黄葉、見頃ではあると思うが、まだ完全な黄色に発色していないと思う。もう少し散り始めるともっとキレイかもしれない。







▼白西王母(しろせいおうぼ)

▼松久寺 
初めての拝観。ベンチはたくさん配置されているのに、拝観者はたった一人。何となく、居心地の悪い拝観になってしまった。
紅葉の発色がキレイ!だった。





鎌倉 一条恵観山荘(重文)の紅葉がすっかり見頃 2022-11-24

 11月24日(木)、はれ

鎌倉の一条恵観山荘(重文)の紅葉、すっかり見頃だった。

紅葉も綺麗だが、庭の小川の流れ、苔、花手水の配置と彩りに暫し釘付けになった。

この後、松久寺と浄明寺にも立ち寄ったが、こちらは別記事にて。

鎌倉 浄明寺の大イチョウの黄葉が見頃 松久寺のモミジの紅葉がキレイ 2022-11-24











▼ここは正面入り口

▼侘助

▼花手水、小川の流れ、苔など





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