2011年1月31日月曜日

東京 北の丸公園の花 五景 カンザクラ カワヅザクラ ボケ ウメ ロウバイ

今日(1月31日)の北の丸公園
公園に咲き始めた花々
あと一つ、スイセンが咲いていますが、その花の前で寝袋で生活されている方がおられます。
とてもカメラを向けられない。
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▼カンザクラ
どんどん花の数が増えてきています。

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▼カワヅザクラ
開化の進度は遅いです。
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▼ボケ
まだまだ小さい蕾が開きかけているところ
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▼ウメ
この写真だけ、都合により1月28日のものです。
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▼ロウバイ
どんどん咲いて絶好調です。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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今日の富士山 2011-01-30

今日の富士山。
(1月30日の富士山ですが、ブログ用写真格納エリア拡大手続きが必要なため、掲載は1日遅れの今日になりました。
ちなみに、ブログ開始から2年3ヶ月で写真容量が1Gを越えたとのこと)
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▼朝9時40分
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▼午後5時15分
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▼上と同じ午後5時15分、太陽が没した伊豆の山々

2011年1月30日日曜日

永禄元年(1558)8月~12月 優勢に立つ三好長慶、将軍義輝と最終的和睦  [信長25歳]

永禄元年(1558)8月
山科言継、伊勢へ公務出張(儀礼費用30貫上納)。
しかし朝廷から旅費が出ず、路銀10貫は早瀬民部丞の奔走で西定坊という土倉より借りる(「言継卿記」永禄元年8月6日条)。
供衆は大沢出雲以下7人。
義輝軍が勝軍山城を占領しており(6月7日、8日条)、今路を避け清閑寺(東山区)より渋谷越にて山科・大津に出る。
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大津馬場から乗船、矢橋(草津市矢橋町)の港に渡り、陸路を乙ツケ津(未詳)の宿に着く(13日条)。
ここから伊勢道は前年の帰路と同じ、ただ関から亀山に寄らず楠原(三重県安芸郡芸濃町楠原)~トイク野(豊久野)で前年の帰路に合流、一身田の専修寺に到着。
ここで駿河から上洛の権大納言三条西実澄に邂逅、翌々17日専修寺を出発、
前年同様、魚見の宏徳寺に2泊、伯母の許で休息(17日条)。ここから道を西に取り、櫛田川を遡りイサワ(松阪市射和町、3男以継ユキツグの養子先)・大石(大石町)を通り、多気に到着(19日条)、北畠氏の雑色次木新右衛門邸に泊。
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伊勢国司北畠氏の「禁酒令」。
18日に魚見で伝聞した記録に「去年八月以来南伊勢は酒を停止すと云々」とある。
この年8月20日の多気の宿での記事に「亭主白酒と雖も隠蜜(密)を以て銚子これを出す」、22日条には「去年八月より当国酒商売停止の処、蜜(密)々を以てこの間これを売る者、今日十二三人闕所と云々。その内一人生害すと云々。」とある。
ところが、禁酒施行後1年目の8月25日、「今日酒商売すべきの由あい触ると云々。」と、にわかに禁令が解かれる。
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9月5日ようやく見参許可を得、登城(北畠氏館、同村下多気北畠神社境内)すると、具教は咳気本復せず謁見なく、北島少将具房へ目通り。すぐ酒宴が催され、つい先頃までの禁酒令の形跡は全く見られない。
公卿大名らしく猿楽・音曲等も催され、言継は太刀と青毛の馬を拝領。
翌日は具教自らも言継の宿舎へ来臨、30貫の惣用上納も首尾よく約束相成る(8日条)。
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9日多気を出発、夕刻に曾禰(ソニ、奈良県宇陀郡曽爾村)の長福寺に到着。帰路は南朝の軍用路沿いに西に向かい、峠3つを越えて奥津(三重県一志郡美杉村奥津)・菅野(奈良県宇陀郡御杖村)を通過したと推定。
大和宇陀郡は、早く興福寺の一国支配を離れ、正長年中(1428~29)頃は北畠氏の分郡になり(「満済准后日記」正長元年9月22日条)、戦国期には北島氏被官の沢・秋山氏らの勢力圏。
曾邇からさらに峠を越えて西へ向かい、10日正午、室生寺に着き昼休み。その夜は牟山(宇陀郡室生村無山)に1泊。
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牟山からは福隅(天理市福住町)・別所(別所町)・五ケ庄(奈良市五ケ谷)を経て筒井城(菩提山城)を過ぎ、上野(未詳)を経て11日昼下がり、南都(奈良)に到着。奈良に2日滞留し、13日中の下刻(午後4時過ぎ)京に参着。
ただちに参内し女官長橋局・上臈大典侍局(オオスケノツボネ)に復命、正親町天皇への内奏を依頼し勤めを終える。
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・毛利軍、小笠原長雄を温湯城(邑智郡)に破る。
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・武田晴信の信濃の戸隠神社に捧げた願文。
信濃12郡掌握と越後との融和交渉停止の是非を占ったところ、「坤之卦」がでた。
越後との融和はやめて居所を信濃に移すと宣言。
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・ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、カトリーヌ・ド・メディチに上京を求められ、後、ブロワの離宮に迎えられる。
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8月4日
・三好長慶の援軍来着。この日、三好義賢の先鋒康良(元長の弟、長慶の叔父)が勝瑞から尼崎に着岸。
18日、義賢が兵庫浦に到着。
9月3日、安宅冬康と十河一存が堺に着。
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8月9日
・不破光治、美濃瑞雲寺へ陽運寺との懇意を促す(「瑞雲寺文書」)。
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9月
・蜂須賀小六、信長より尾張国内関所を時刻かまわず無貫で通行できる権利得る。
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・朝倉義景、後奈良天皇即位費用100貫を献金。
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9月1日
・秀吉任官
木下藤吉郎(秀吉)、狩りに来た織田信長に直訴して仕官。
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9月3日
・トスカナ大公コジモ・デ・メディチ娘イザベッラ・ローラモ、パオロ・ジョルダーノ・オルシーニ(ジロラーモ・オルシーニとフランチェスカ・スフォルツァの子)と結婚。
イザベッラが16歳になるまで実質的結婚は行わず。
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9月3日
・尼子晴久、毛利氏の石見銀山要所・石見国山吹城を攻略。
銀山城落城・刺賀長信自刃。晴久は益田藤兼に尼子家への鞍替えを説得、藤兼は断る。 
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9月4日
・勧修寺尹豊(ただとよ)・万里小路惟房に依頼されて、吉田兼見が勝軍山城の義輝を参礼。兼右発病のため嫡子兼見が代る(「兼右卿記」)。
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9月15日
・信長(25)、尾張恒川氏へ津島辺内の興雲寺領10貫文・堀之内公文名20貫文、計3千疋を扶助。
17日、前野長康へ野々村大膳分20貫文・高田中務丞分20貫文、計40貫文を扶助。  
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9月16日
・本願寺教如、誕生。
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9月18日
・三好長慶、将軍義輝との和睦に関して堺で評定。長慶の嫡男義興(18)も参加。
義賢・一存・冬康3兄弟は和睦反対。結果、義輝との和睦となる。
翌々日、三好軍は和泉の大津、佐野等主要都市を打廻し、長慶、久秀らは摂津の芥川・滝山各城に戻る。
阿波・讃岐・淡路3ヶ国軍は、堺に留まり和睦の成り行きを見届ける。
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9月21日
・退位していたカール5世(58)、スペイン・エストレマズラ地方サン・ユステ修道院で没。
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9月25日
・武田晴信、善光寺如来を甲斐府中へ移す。
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9月29日
・京師で地震。阿蘇山に新穴出来る。
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10月27日
・無縁墓所の初見。足利義輝、京都阿弥陀寺境内に無縁所として檀那土葬を許可(「阿弥陀寺文書」)。
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11月17日
メアリー1世(42)、病没。
多くの新教派を処刑し「流血のメアリー」と呼ばれる(1516~1558、位1553~1558)。
14日にカトリック信仰維持を条件に、異母妹エリザベスの王位継承を認める。
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11月中旬
・上杉輝虎、鳥居峠越えで上州へ入り、平井に入城、11月中頃新田から北広沢山に陣を張り、金山城(由良成繁)を攻める。金山城は降伏。続いて桐生城(桐生祐綱)・小俣城(渋川相模守義勝)降伏。  
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11月21日
・三好長慶、東寺へ礼銭支払催促使を派遣し威嚇。
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11月27日
将軍足利義輝・三好長慶和睦成立
足利義輝、六角義賢の斡旋により三好長慶と和睦して、京都勝軍山城より5年4ヶ月ぶり京都相国寺入り。
三好長慶は、細川氏綱・伊勢貞孝ら5年前に将軍を裏切った奉行衆・奉公衆らを率い義輝を迎える(「兼右卿記」同日条)。
義輝権力回復。
12月3日、妙覚寺へ移動。
細川晴元(45)、義輝陣営を去る。
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一連の戦闘では三好方が押し気味に戦局を主導しており、武力で京都奪回は不可能と見た六角義賢が三好長慶に和談を持ちかける(「言継卿記」)。
一方、三好氏も将軍と戦うという名文上の不利がつきまとい、9月、和議に応じることになる。
また、翌永禄2年に上洛する信長・長尾輝虎(上杉謙信)が、上洛の理由を将軍の帰京祝いや将軍権威の復興を見届けるなどし、長慶らを牽制。長慶はこれらの軍事力を警戒。
更に、長慶が自らの権威を高めるため将軍を迎えたとする説あり。
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11月30日
・河内守護畠山高政、守護代安見直政に脅かされ高屋城抜出し堺へ逃亡。
安見は根来衆と通じている。翌年5月~、三好長慶・松永久秀が介入し河内へ出兵。
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遊佐長教暗殺後、後を継いだ守護代安見直政は、対抗馬である萱振一族を抑え込み、完全に領国の実権を握り守護畠山高政をないがしろにする。
高政は直政を除こうとするが、有力国人を引込むことができず、また機密が直政に漏れる。
直政は、野尻丹後守、草部肥後守に指示して高政暗殺計画を立てる。
この謀略が高政に通報され、遂に高政は堺へ逃亡。
その後、高政主従は紀伊に向うが、根来寺には安見氏の手が回っており、高政は海路有田郡まで逃げ、かつて父祖尚順らが拠った広城(和歌山県有田郡広川町広)に入る。
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12月
・信長、尾張白坂雲興寺へ全5ヶ条の禁制を下す(「雲興寺文書」)。
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12月5日
・吉田兼右、義輝座所の妙覚寺を訪問。三好義興・細川藤考・清原枝賢・奉公衆結城忠政と同座する
(枝賢・忠政は初期キリシタンで、両名ともビレラから永禄6年洗礼を受ける)。
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12月18日
・三好長慶・松永久秀、京より摂津芥川城へ帰り、三好之康らは和泉堺より四国へ帰る。
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「★信長インデックス」 をご参照下さい
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自宅近くのウメ

JR東戸塚駅の近くに白旗神社があります(Wikiはコチラ)
(紳士服専門の大規模チェーン店の本店のすぐ近くです)
その裏山への入口に紅白のウメが咲いています。
▼写真は、昨日(1月29日)に撮ったもの。




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「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年1月27日木曜日

昭和16年(1941)1月28日 「支那は思ふように行かぬ故、今度は馬来人を征服せむとする心ならんか。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

今月は三回に分けて、昭和16年1月の永井荷風「断腸亭日乗」をご紹介してます。
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昭和16年(1941)1月28日
一月念八。
夕方物買ひにと銀座に行くに春近き冬の室猶暮れやらず尾張町あたりの人出祭日の午後の如し。
街頭宣伝の立札このごろは南進とやら太平洋政策とやら言ふ文字を用ひ出したり
支那は思ふように行かぬ故、今度は馬来(マレー)人を征服せむとする心ならんか
彼方(あちこち)をあらし、此方(あちらこちら)をかじり、台處(だいどころ)中あらし回る老鼠(ろうそ)の悪戯(いたずら)にも似(に)たらずや。
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なかなか鋭く正しい状況認識です
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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2011年1月26日水曜日

東京 江戸城 カンザクラが咲き始めた 梅林坂のウメ

今日(1月26日)昼休みに、江戸城東御苑にゆきました。
お目当ては、北の丸公園で咲き始めたカワヅザクラ
ところが、残念、こちらのカワヅザクラはまだ来週でも開花しないと思われるほどでした。
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▼しかし、カンザクラは咲き始めていました。

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▼ミツバチが、人目も憚らず(当たり前か?)、お尻まる出しで食事中。
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▼全体はまだ下のような状態。
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▼すぐ近くのフユザクラ
こちらはピークを過ぎて、アップの写真を撮るにはちょっとかわいそう。
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▼ついでに、梅林坂にも立ち寄りました。
全体としては、まだまだこれからですが、満開の木もピークを過ぎた木もあります。



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「★東京インデックス」  「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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明治6年(1873)11月5日~15日 内務省設置(初代内務卿大久保利通) 西郷の帰郷 ボアソナアド、横浜に到着 [一葉1歳]

明治6年(1873)11月5日
・司法省急進派司法大輔福岡孝弟・三等出仕樺山資綱・司法大丞(警保頭兼大検事)島本仲道、辞表提出。
10日、受理。
「警保寮奏任官一同」(警保権頭丁野遠影・警保助川路利良・大警視国分友諒・同田辺良顕)、正院へ京都府参事槇村正直の拘留を解く「特命」への説明を求める「上書」提出。
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10月10日
 ・内務省設置
初代内務卿大久保利通(29日就任)。
勧業・警保・戸籍・駅逓・土木・地理の6寮(警保を司法省から移す)。
明治7年1月、内務省職制布告。
人民の戸籍、地方行政、警察、産業指導を一手に操る絶大な権力をもつ。
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内務省の管轄は、警察、勧業、衛生、運輸通信に至る内政全般にわたり、権限は非常に強力。
大久保の地位は三条太政大臣・岩倉右大臣の下位にあるが、重要な政策決定は最終的に大久保の決断に委ねられることが多く、大久保を中軸に大蔵卿大隈重信・工部卿伊藤博文が両脇を固める形で主流派が形成。  
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国内行政の総合推進の任務は、内務省に委ねられ、政府の形式上の首班は太政大臣であるが、衆目のみるところ、大久保政権となる。
大久保暗殺に際し、イギリスの新聞は日本の首相暗殺と報じたほど。
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10月10日
・陸軍大将に留任させられた西郷隆盛、鹿児島着
桐野利秋、篠原国幹〈いずれも陸軍少将)ら薩摩出身の近衛将兵600人が従う。
天皇の親衛隊としての近衛兵は存立が危ぶまれ、板垣退助が土佐出身の近衛兵を引き止める。しかし、武市熊吉(陸軍少佐)ら40数人が辞職。
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10月10日
・司法卿大木喬任、辞職した島本仲道の後任に、司法大丞河野敏鎌(29、土佐)を警保頭兼大検事に任命。
河野は、明治5年4月、同郷の先輩島本仲道とはかり司法省改革のために左院副議長江藤新平を司法卿に迎える。後、江藤の推挙で欧州留学、一時帰国の大久保と同じ船で出発。出発時は司法少丞(五等官)、帰国後同大丞(四等官)。
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10月11日
・軍艦「春日」、台湾近海測量出動。
また、この月、美代清元(ミシロキヨモト)中尉ら8人、語学研修のため清国派遣。
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10月15日
ボアソナアド、名村泰蔵と共に横浜着。
29日、ボアソナアド、プスケ、法律編成見込書・法学教授見込書を司法卿大木喬任に提出。
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【経緯】
 明治4年10月、司法省は正院に対し、ナポレオン法典を基本として語法典編纂を推進するため、フランスからから教師を雇い入れたい、と伺い出る。
理事官として岩倉遣外使節に同行して欧米を巡歴しパリに到着した司法大輪佐々木高行は、河野敏鎌らの司法省派遣団と落ち合い、江藤司法卿が「専門教師雇人ノ儀」について「可相成(アイナルベク)上等ノ人」を雇い入れるよう厳命していることを知る。
直ちに鮫島公使に江藤司法卿の意を伝え協議した結果、ボワソナアドが適任と判断し交渉を開始。*
しかし、ポワソナアドは1年半分の俸給前渡しや家族引越料などを条件とし、日本側はこれを「過当之望」と判断し一旦は破談となる。
明治6年4月8日付けで、江藤司法卿に宛てて人選遅延を報告。
しかし、その後も計画は思うように進まず、たまたまロシア出張の鮫島公使お帰仏後、再度ボワソナアドと交渉し、彼の日本招聘に成功する。
本国からの訓令を得た後、6月24日、御雇条約(契約)全15条を結ぶ。
契約では、ボワソナアドは家族の旅費を得ているが、給料前渡額は3ヶ月分に譲歩している。
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ポワソナアドが翻意した理由:
彼の恩師オルトラン(刑法及び比較刑事法制講座正教授)死去にともない、5月24日、法学部教授会で後継正教授候補者が選出されるが、その結果はポワソナアドの正教授就任の見込みを将来にわたって消滅させるような惨憺たるもの。
文部大臣に推薦する後継候補者名簿には第1位と第2位の候補者を記載するが、ボワソナアドは第2位候補者でしかも2名が同順位に並記されることになった(2回の投票ともに同票)。
第2位のもう一人は26歳で初めて教授資格試験を受験し首位合格を果たした俊秀(ポワソナアドは、39歳の時に3回目の受験で最下位の8位合格)。
このことは、次回に正教授ポスト競争では、ポワソナアドは飛び越される可能性が大きいことを意味する。
この精神的に絶望的打撃により、彼は新しい天地に自らの運命をかける気持ちになったと推測できる。
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ポワソナアドは、司法省で法学教育を行う旨の口頭の約束をとりかわし、別にそれに対する相当の報酬を受け取る取り決めになっていたが、東京に到着してみると、先任の法律顧問プスケが、事実上主任教師として、フランス語担当のリブロオル及び通訳のガリイと共に、明治5年秋から、明法寮の募集した生徒を対象として講義を始めていた。
ポワソナアドは期待を裏切られ、プスケとの関係も初めのうちはぎくしゃくする。
 司法省は、両者の調停を通訳ガリイに依頼し、その仲裁で2人の不和は一応解消し、「遂ニ両氏互ニ共和スルニ至リ殆ンド親友ノ如クニ」なった。
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そして11月29日、2人は連名で、法律編成についての見込書と法学教授に関する見込書を司法卿に提出。
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10月15日
・植木枝盛(16)、東京発、土佐へ帰郷。
明治8年、再上京するまでの約1年間は郷里で過ごす。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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2011年1月25日火曜日

東京 北の丸公園 カワヅザクラが咲いた カンザクラも咲いた メジロがそれをついばむ

▼北の丸公園のカワヅザクラが開花しました。
写真は今日(1月25日)昼の状況です。
写真を撮っていたら、ご同様に開花を待っていたと思われるサラリーマンが声をかけてきました。







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▼カンザクラも咲き始めました。
花の数はカワヅザクラよりも多い。

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▼まだ小柄なメジロが3羽、しきりに花をついばんでいました。

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場所は、カワヅザクラ、カンザクラとも吉田茂像の後ろ辺りです。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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明治44年(1911)1月24日 幸徳秋水ら処刑の日の前後 石川啄木「頭の中を底から掻き乱されたやうな気持」 大石誠之助 堺利彦 徳富蘆花  

■石川啄木
明治44年(1911)1月23日
・石川啄木(25)、自宅にて1日中幸徳秋水事件関係記録を整理。
24日、夜~12時迄「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」の纏め。
25日、平井修より幸徳・菅野・大石等の獄中書簡を借りる。
26日、深夜迄、平出修の自宅で、7千枚17冊の特別裁判の「訴訟記録」のうち初めの2冊と管野に関する部分を読む。  
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○啄木日記より
一月二十三日 晴 温
休み。
幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。
夜、母が五度も動悸がするといふので心配す。
[受信欄]荻原藤吉といふ人より。

一月二十四日 晴 温
梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香ひがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
社へ行つてすぐ、「今朝から死刑をやつてる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、ああ、何といふ早いことだらう。さう皆が語り合つた。印刷所の者が市川君の紹介で会ひに来た。
夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。
薬をのましたせゐか、母は今日は動悸がしなかつたさうである。

一月二十五日 晴 温
昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載つた。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割つた――その事が劇しく心を衝いた。
昨日十二人共にやられたといふのはウソで、菅野は今朝やられたのだ。
社でお歌所を根本的に攻撃する事について渋川氏から話があつた。夜その事について与謝野氏を訪ねたが、旅行で不在、奥さんに逢つて九時迄話した。与謝野氏は年内に仏蘭西へ行くことを企ててゐるといふ。かへりに平出君へよつて幸徳、菅野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大に憤慨してゐた。明日裁判所へかへすといふ一件書類を一日延して、明晩行つて見る約束にして帰つた

一月二十六日 晴 温
社からかへるとすぐ、前夜の約を履んで平出君宅に行き、特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、一冊の厚さ約二寸乃至三寸づつ。十二時までかかつて漸く初二冊とそれから菅野すがの分だけ方々拾ひよみした
頭の中を底から掻き乱されたやうな気持で帰つた
印刷所三正舎から見積書が来た。釧路から小奴の絵葉書をよこしたものがあつた。
[受信欄]釧路の斉藤秀三氏より。三正舎より。
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■大石誠之助
明治44年(1911)1月23日

大石誠之助の平出修宛て手紙(処刑前日)。
「・・・。陳ば過去三ケ月に亘り私共被告連の為一方ならぬ御心労に預り何とも御礼の申様も無之侯。あれだけの御骨折下候以上は其結果の如何について今更何も言ふべき限りには無之事と存候。
・・・。
尚ほ今回の事件は、之を法律の上より政治学の上より果(ママ)た犯罪学の上より研究する人は弁護土中他にも之あるべく侯へども、特に我が思想史の資料として其真相をつきとめ置かるるの責任は、貴下を措いて他に何人も之にあたる人無之、此事は法廷において我々を弁護せられたる責任よりも遥に重大なる事と存侯」
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堺利彦
明治44年(1911)1月24
・幸徳秋水(41)以下11名に死刑執行。
ここで日没となったため、翌25日、管野すが子(31)に死刑執行
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黒岩比佐子「パンとペン」より
24日、堺利彦が朝10時頃に面会に行くと、今日は面会できないと断られた。
東京監獄では極秘にしていたが、面会できない理由を尋ねても返事がなく、ただならない様子から、堺は死刑執行と察する。
吉川守圀によれば、入口の看守が気の毒そうに「実は執行命令が来て、今頃はもう四人目あたりをやってゐると息ひます」と教えてくれたという。同情した看守がつい口を滑らせたらしい。
堺はその日何をしたかを自分では書いていないが、彼はすぐに各地の処刑された人々の家族や親族に悲しい電報を打っている。

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1月25
・堺利彦、この日と翌26日の両夜、同志たちの死体を引き取りに行き、白木綿に包まれた骨箱を堺宅に安置する。
堺は、それらを遺族に引き渡し、引取人がいないものは供養をし、遺品を分配する。のちに、幸徳秋水の遺稿『基督抹殺論』を出版。
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25日午前11時頃、堺、大杉、石川、吉川ら数人と、処刑者の一部の親族たちとが東京監獄へ遺体引き取りに行く。
『東京朝日新聞』記者の松崎天民(本名・市郎)と『報知新聞』記者の毛呂正春が、これについて記事を書いている。
この日、東京監獄は看守・警官約80人がこれを取り囲むという厳重な警戒態勢。
この日夕方、ようやく幸徳秋水ら6人分の棺だけが引き渡された。監獄北側にある不浄門から6つの棺が運び出されると、堺らはそれを荒縄で縛り、丸太棒を通して担いで落合火葬場まで運んだが、途中で何度も警察官や私服刑事に行列を止められ、身体検査をされるなどの妨害を受ける。
落合火葬場にも警官10数人が配置され、30分以上歩いて堺たちが到着すると、その場にいる者を全員検束して新宿署まで連行した。
検束の理由は、逆徒の火葬にこんなに大勢が参加するのは穏当ではない、ということ。
連行の前に、堺は、疲れきっていることを理由に、新宿署へ出頭しろというなら公費で人力車を用意してほしい、それでなければ一歩も歩けないと抗議したため、警察は数台の人力車を集める指示を出す。
人力車が揃うまで時間を稼いだ堺は、火葬する前に棺の蓋を開けさせて、親友の幸徳秋水と最後の別れをした。結局、新宿署に連行された堺らが解放されたのは深夜2時だった。
*
 26日夕方にも、堺、大杉らは残った遺体引き取りに東京監獄に向かう。典獄と相談し、遺族と連絡のとれない遺体は監獄内に置き、菅野すがら4人の棺を引き取る。
この日もものものしい警戒で、落合火葬場に着くと、死体引取人になっていた堺の妻・為子だけを火葬場に残して、あとは全員が新宿署へ同行を求められる。
為子はたった1人で深夜の火葬場に残り、火葬が終わると骨を拾って、27日明け方、遺骨を抱いて帰宅。 12人の遺骨は引取人に渡され、それぞれの事情に応じて埋葬された。
だが、当局の干渉で、墓石を立てることを禁じられ、目印としてわずかに小石を置いただけの墓もあった。
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堺利彦の遺家族慰問の旅
3月31日~5月8日、堺は遺家族の慰問の旅に出る。

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■徳富蘆花
1月25

・徳富蘆花、幸徳助命について思い悩み、「天皇陛下に願い奉る」を書き東京朝日新聞編集局長池辺三山に「至急親展書留」で送り新聞掲載を依頼。
これを送付後、前日処刑されたことを知る。
蘆花は「今更何をか言はん」と取消しの手紙を三山に出し、三山は意見も述べずにこれを返送。
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これより前、21日、蘆花は兄蘇峰を通じて桂首相に幸徳減刑を願う(蘇峰は仲介したか、桂に願いが届いたか不明)。
22日、一高生の河上丈太郎・鈴木憲三が2月1日の講演依頼、蘆花は快諾し「謀反論」を予定。
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「彼等も亦陛下の赤子、元来火を放ち人を殺すただの賊徒には無之、平素世の為人の為にと心がけ居候者にて、此度の不心得も一は有司共が忠義立のあまり彼等を虐め過ぎ候より彼等もヤケに相成候意味も有之、親殺しの企したる鬼子とし打殺し候は如何にも残念に奉存候」
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2011年1月24日月曜日

今日の富士山 2011-01-24

昨年2月に亡くなった父親の一周忌のため、1月22日~24日、京都に帰って来ました。
新幹線からの富士山には、往復ともに、雲がかかっていました。
雲のかかっている富士山もまた、なかなかいいもんです。
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▼新幹線からの富士山(1月24日午後3時頃)

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▼新幹線からの富士山(1月22日午前9時頃)
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「千の風になって」の最初の3行を思い出しました。
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また、ちょっとだけ京都散歩記を掲載します。
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昭和16年(1941)1月25日 「政府はこの窮状にも係はらず獨逸の手先となり米國と砲火を交へむとす。 笑ふべく亦憂ふべきなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

永井荷風「断腸亭日乗」より
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昭和16年(1941)1月13日
一月十三日。寒菊漸く厳しくなりぬ。昏暮南鏓子と共に芝ロの牛肉屋今朝に飰す。
米不足なりとて一人の客は門口にて断りて入れず、また七時頃より米飯の代りに饂飩を出すなり。
余は去年の夏頃より女中に淺草興行物の切符または祝儀をやりゐたれば断られし事もなく、また必米飯を持来れり。
いつの世になりでも金が物言ふことばかり更にかはりなきこそうたてき限と云ふぺけれ
歸途寒月皎々たり。
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「うたて」
嘆かわしい、情けない、の意
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1月25日一月廿五日。暮方より空くもりて風俄にさむし。やがて雪ならん歟。
人の噂にこの頃東京市中いづこの家にても米屋に米すくなく、一度に五升より多くは賣らぬゆゑ人数多き家にては毎日のやうに米屋に米買ひに行く由なり。
パンもまた朝の中一二時間にていづこの店も売切れとなり、饂飩も同じく手に入りがたしと云ふ。
政府はこの窮状にも係はらず獨逸の手先となり米國と砲火を交へむとす。
笑ふべく亦憂ふべきなり
白米不足の原因は之を獨逸に輸出する為なりと云ふ。
日本の漆(うるし)も大砲の玉を塗る時は湿気の露を防ぐとてこれも獨逸へ送らるること夥しきものなりと云ふ。
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1月26日一月廿六日 日曜日 晴天。底冷する日なり。
午後町會の爺會費を集めに来りて言ふ。三月より白米も切符制となる筈にて目下其仕度中なり。労働者は一日一人につき二合九勺普通の人は二合半。女は二合の割當なるぺしと。むかし捨扶持二合牛と言ひしことも思合はされて哀れなり。
夜物買ひにと銀座に行く。日曜日の人出おびたゞしきが中に法華宗の題目かきたる幟二三流押立てゝ人中を歩み行くものあり。
怪しき愛国者なるぺし。
蜀山人の随筆 名は忘れたり に和蘭陀と法華宗とは将来我國に害あるものなりと言ひしことも思合さるゝなり。

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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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2011年1月21日金曜日

東京 北の丸公園 カワヅザクラ(開花は来週か?) ロウバイ ウメ

今日(1月21日)お昼頃の北の丸公園。
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▼カワヅザクラの開花は来週になりそうです。
今日で3日間連続して見に行きましたが、必ず見知らぬ誰かと出会います。
開花が気になるのはワタクシだけではないらしい。
写真は全て今日のものです。



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▼ロウバイ(シソンロウバイ)

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▼ウメ
かなり花の数が増えてきました。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年1月20日木曜日

東京 「一日一善」 母の恩愛 笹川良一

過日、六本木へ永井荷風の「偏奇館」跡に行った帰りに、反対側の江戸見坂を下り、虎ノ門から新橋まで歩いたことがあります。
途中、虎ノ門辺りで、昔よくテレビCMで見ていた「一日一善」の母子像を見付けた。
初めて見たので嬉しくなって写真をとりました。
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ところが、今日、これに関する他の皆さまのブログを拝見したところ、この像は船舶振興会関連のビルの前には必ずあるとのこと。
やれ、ここにもあそこにもと・・・。
嬉しがってソンした。
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参考までに、一番マトを得た記事を書いておられると思ったブログはコチラです
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善行(の押し売り)は不善の反動で・・・、と書かれています。
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永禄元年(1558)5月~7月 三好長慶と将軍義輝、勝軍山周辺で戦闘するも一旦和睦  信長の浮野の戦い  [信長25歳]

永禄元年(1558)5月
・岩倉城主織田伊勢守信安、子の信賢に追放される。ついで信賢、美濃の斎藤義龍と結び信長に反旗をひるがえす。
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・パリ、フランスで最初の新教の「教会会議」開催。
ユグノー4千人が数夜に亘り詩編を歌い続ける。
「教会」⇒「宗務局」⇒「教務会」⇒頂点「教会会議」を形成。
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5月3日
・将軍足利義輝と細川晴元軍勢3千、竜華から更に南下、坂本本誓寺入り。
ここで六角義賢の援軍・晴元残軍と合流。
13日頃から、足軽が瓜生山辺に出没。    
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「今日午の時大樹(義輝)坂本石河の本誓寺へ御座を移さると云々。細川前右京兆晴元御共と云々。但し則ち堅田へ打ち帰らると云々。
香西(元成)・三好下総守(政勝)等志賀に陣取りと云々。人数の事坂本に於いて見物の者伝説す。
香西六百廿五人・三好下総守三百十五人・粟津の西坊二百人・前右京兆二百人・使節衆・奉公衆都合二千余人と云々。」(「言継卿記」5月3日条)。
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5月4日
・三好長慶方の松田盛秀邸、義輝軍の足軽に焼かれる。
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5月7日
・三好長慶方より、東寺へ明後日の出陣、各将の布陣状況を事前に通知。
東寺は、三好方へ多額の礼銭を支払い、三好方も人夫徴発・武具調達に東寺を利用。
東寺は三好長慶方の兵站基地の役割を果す。  
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5月9日
・松永久秀(49)・長頼・三好長逸、入京。
足利義輝・細川晴元迎撃のため吉祥寺・梅小路・七条千乗寺・六条中堂寺に布陣。
12日、久秀、勧修寺晴秀を通じ京都警護は別儀無きことを奏聞してもらうよう申請。
19日、久秀軍1万5千、京都市中を打廻し示威(威嚇巡察)。将軍義輝を牽制。  
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5月11日
・若狭守護武田信豊、小浜へ下向した吉田兼右から「八雲神詠口決」「猿楽翁大事」などの神道関係の諸秘事を伝受(「兼右卿記」同日条)。
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5月12日
・ロシア・ポーランド戦争 (1558~1582)。
イヴァン4世(雷帝)のリヴォニア侵入。ナルヴァ陥落。住民の大半虐殺。
(リヴォニアのドイツ騎士団の分枝の領土が戦場となり、没落)。      
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5月13日
・フランス、プレ・オ・クレール事件。プロテスタントの宣言。新教徒の示威行進。貴族も参加。
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6月
・北條氏康、房総に軍勢を遣わす。
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・毛利氏2万、門司城を攻撃、奪回。城将として仁保右衛門大夫(仁保隆慰)が入る。
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6月2日
・三好長逸ら、勝軍地蔵山(瓜生山)頂に城を築き将軍足利義輝の上洛を妨げる。
この勝軍山築城の衆の中に、のちに長逸らと三好三人衆と云われる石成(イワナリ)友通がいる。
石成氏は、一説に大和石成の出身とも伝えられ、強力に因んで主税介と称す。
天文20年(1551)11月、堺での天王寺屋宗達の茶会記にその名がみえ、長慶の越水在城時代か芥川初期に随身したとみられる。
戦陣でその名が現われるのは、この永禄元年の瓜生山占領が始めて。
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6月4日
・将軍義輝方三好政勝・香西元成、5千となり、志賀越と雲母坂・瓜生山方面を警戒する三好方の意表をついて、近江兵らと坂本から如意嶽(如意嶽城)占領、麓の鹿ケ谷・浄土寺辺りを放火。
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7日、北白川勝軍山(瓜生山)の三好軍(三好長逸・松永久秀・長頼(弟)ら1万5千)は、白川谷を隔てて対戦、出撃し鹿ヶ谷で戦った後、瓜生山を自焼し三条・四条辺りに退く。
将軍方は勝軍山城を占領。~11月27日迄、義輝が在城。
8日、松永久秀・三好長逸らは如意嶽に上り将軍方残留兵を追い出し、援軍の摂津の伊丹・池田兵が神楽岡(吉田山)に布陣。
9日、両軍は白川口で激戦。
義輝軍数千、六角軍の後詰めを得て松永久秀主力の万を越す三好軍を破り、北白川勝軍地蔵山を占拠。
鉄砲装備・兵糧など兵站線で義輝側が有利に展開。
しかし、武力での京都奪回は不可能と見た六角義賢は使僧妙観院を長慶の許へ派遣し和睦交渉を行う(「言継卿記」6月12日条)。
閏6月7日、義輝勢、退却。9月、和睦。    
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将軍義輝・細川晴元と三好長慶、慈照寺付近で戦い、銀閣寺の建物が銀閣と東求堂を除き殆ど焼かれる
銀閣寺背後の中尾山城や勝軍山城をめぐる天文19年の争乱の中である程度残っていたもの。
銀閣寺背後の大文字山を中心に南北に連なる左京区東山連峰にある山城は、近江以東の守護大名の洛中への侵略を防止する防衛ラインの拠点で、特に、雲母坂から穴太(あのう)方面に向かう白鳥越と北白川から大津に向かう志賀越の通過する山麓は重要な要衛である。
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6月20日
・ギーズ公フランソワ(39、1519~1563)、チオンヴィルを奪回、皇帝軍を追い払う。カトリーヌ・ド・メディシス従兄弟ピエーロ・ストロッツィ戦死。
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閏6月
・北条氏康、伝馬制度を確立。
軍事物資の輸送や情報の伝達などを敏速に行うため、拠点ごとの町を伝馬宿として定め、そこに住む。住人に伝馬役を課す  
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・武田晴信、上野の市田茂竹庵に対し、信濃陣への援軍として出陣したため敵が退散したとして贈物をする。  
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閏6月20日
・伊勢貞孝、飯尾尭連の取成しで将軍と和談、帰参する。他の離脱組も義輝に帰参。
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閏6月26日
・若狭守護武田義統、柿本人麻呂の詠んだ和歌の勅筆を依頼(「惟房公記」同日条)。
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7月
・若狭守護武田義統、父信豊と隱居料をめぐり争い(1556には家督相続争い)。
信豊は近江の六角氏を頼って出国し、態勢を整えて遠敷郡へ攻め込む事態となる。    
 この内紛は、信豊個人に仕えてきた近習の永元寺・宇野・畑田・笠間氏らと、武田惣領家譜代で義統を推す山県・上原氏らとの、信豊・義統の家臣間の対立を背景とし、義統が家督継承後、新たに武田元光の「隠居分」知行を巡る争いに形を変えて再燃。
領国支配の中心の遠敷郡でも、もはや武田氏による家臣統制力は失われ、家臣の分裂が生じている。
丹波・丹後へ出兵している大飯郡の武士たちは、内紛に巻き込まれるのを避け小浜へ「出頭」しなくなる。
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・山科言継、太宰権帥に任ぜられる(13、15日条)。
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・将軍義輝と三好長慶の戦い、六角義賢の斡旋で講和が進展。
長慶は、交渉を有利にするべく阿波・淡路軍の上洛を手配する。      
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7月3日
・フィレンツェ、トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ娘ルクレツィア(父コジモに殺されたマリーア・ルクレツィア妹)、姉の婚約者フェラーラ公エルコーレ1世長男アルフォンソ・デステ(のちアルフォンソ2世)と結婚。3ヶ月後、アルフォンソは約束通りフィレンツェを去る。  
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7月12日
浮野の戦い
信長(25)、清須から北上、犬山城主織田信清(信長従兄弟)と共に尾張岩倉城織田信賢を攻撃。
浮野(一宮市)で信賢軍勢3千と対戦。信長勝利、信賢側戦死1250。
1559年春、再び岩倉城攻撃。2~3ヶ月包囲後、開城。岩倉城は破却。
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岩倉城の内紛:
岩倉織田家では守護代(尾張上4郡支配)織田伊勢守信安と子の信賢(ノブカタ)とが争い、この年5月、信賢が信安を追放して実権を掌握。
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7月13日
・グラヴリーヌの戦い
エグモントのフランドル軍、スペインに味方してフランス軍を破る。
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7月14日
・三好長慶、京都市内から地代として地子銭(じしせん)を徴収。松永久秀が奉行する。
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7月18日
・イヴァン4世(雷帝)のリヴォニア侵入。ドルバート陥落。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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2011年1月19日水曜日

京都 名和長年戦死之地の碑 聚楽第址の碑

大宮中立売上ル東側に、今は児童公園となっているところに、南北朝時代の南朝の忠臣、名和長年戦死之地の碑があります。
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昭和前期の「皇国」日本の匂いが残る場所です。
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名和長年は伯耆の国の名和という所で海運業を営んでいたそうですが(諸説あり)、後醍醐天皇が隠岐から脱出したのを期に、これに従い忠臣「三木一草」の一人と呼ばれるようになった。
三木一草は、楠木正成、伯耆(名和)長年、結城親光、千種忠顕のこと。
建武3年6月30日、戦死。
名和長年が戦死することで「三木一草」の全てが姿を消す(全員がこの年、建武3年に戦死)。
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戦死の地は、「太平記」では大宮、「梅松論」では三条猪熊となっているそうです。
押小路猪熊説もあるとのこと。
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鳥居が建っていますが、戦前は玉砂利が敷かれた「神聖な」場所だったようです。

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▼この碑は昭和11年のもの
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▼こちらは昭和14年

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▼昭和10年、従一位を贈られる(600年前の忠臣に叙勲)。
これを記念して昭和14年に建立。
碑文は海軍大将有馬良橘。
(海運業を営んでいたという経歴からか、海軍が肩入れしているようです)
デカイ(約3m)!
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▼名和長年に授けられた家紋
(やはり船です)
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▼明治19年、正三位を贈られた時の記念碑。太政大臣三条実美とある。
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▼井戸があったんではないかと思います。
国防婦人会の方々がきれいに清掃されていたんでしょう。

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▼聚楽第址の碑
名和長年の碑に行く途中の大宮中立売の北西角にあります。
大内裏及び聚楽第東濠跡とあります。
秀吉の聚楽第は、平安京の内裏の跡地に重なります。

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▼「名和長年公思慕」の碑
これが何処にあったものか失念しました。
京都の町をぶらついていて見つけたもの。
もう一つの戦死の地と伝えられる三条猪熊だったかもしれません。
それにしても、ナンデ金網なんでしょうか?
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「★京都インデックス」 をご参照下さい。
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