■天文5(1536)年(3) [信長3歳]*
今回は天文法華の乱に絞り込んでの掲載とします。
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7月27日
・天文法華の乱。
比叡山延暦寺(天台宗)僧兵と同調する近江・六角氏の軍勢、早朝、四条口から京へ乱入、各所に放火。洛中の法華宗(日蓮宗)の21本山が全て炎上。
あおりを受けて、上京一帯が焼け、革堂行願寺、百万遍知恩院、誓願寺(浄土宗)も炎上(「御湯殿上日記」同日条)。この頃、誓願寺近辺には、千本釈迦堂末寺の末寺の栢尾閻魔堂引接寺(浄土宗)再興のための勧進所(募金集め場所)があり、これも類焼。
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京都の町衆に日蓮宗が流行し、この年3月の宗論では洛中で叡山の天台僧が日蓮僧に説破され、叡山など
旧仏教側の日蓮宗への反撥強まる。
一条烏丸観音堂での山門に属する華王房の説法に法華宗松本新左衛門久吉が宗論を申し懸け、華王房を論破(松本問答)。これを契機に、延暦寺は三院集会を開き、洛中の法華寺院退治を決議。
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一方、この前後、町衆は大規模な
地子不払い運動を展開。
茨木長隆らは、山門衆徒・近江六角軍に檄を飛ばし、山僧は諸権門に働きかけ、
権力側による日蓮衆徒包囲戦線を結成。
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京都の都市住民は、一方で細川晴元政権に妥協しつつも洛中から荘園領主権力を排除し、新たな都市共和制とでもいうべき自治体制を模索。
しかし、
①度重なる一向一揆殺戮・郷村焼打ちによって周辺農村から全く孤立し、
②洛外代官請・洛中地子末進等により諸荘園領主、ひいては晴元政権の猜疑を受け、
③この年3月の宗論によって旧勢力挙げての大弾圧を受ける。
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以降、町組・町衆による自検断・在地裁判権行使はなくなる。
晴元政権崩壊の天文18年までは、
茨木長隆ら晴元の奉行人や山城守護代
木沢長政、山城下5郡郡代高畠長信・同甚九即、幕府侍所開闔松田頼康・同盛秀らが洛中の検察にあたる。
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「四(ヨツ)の時分に、三条のきぬ屋(ヤ)破れて下京悉く焼く。東よりも出で、声聞師村焼きて、報恩寺に陣取る衆逃げうせて皆討たるゝ。悉く落居してめでたしめでたし。武家より・・・日蓮退治めでたきよし申さるゝ。」(「御湯殿上日記」この日条)。
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8月19日
・将軍義晴、本願寺証如(光教)と和睦。寺領山科を還付(「石山本願寺日記」)。
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8月29日
・細川高国の部将三宅国村、摂津天王寺に於いて細川晴国を自刃に追い込む。
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9月24日・
細川晴元、芥川城より京都入り。将軍義晴に謁し、名実ともに幕府執政となり、管領に相当する政治的地位を継承。翌年8月、右京大夫に任ぜられ、足利義晴の偏諱を受けて晴元を名乗る。
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大永7年(1527)、堺に上陸して以来、おおむね畿内の政治的実権を掌握していたが、ここに至って初めて中心地京都に座をすえ、将軍を擁する安定的位置を占める。
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晴元政権の政策変更。
一向一揆は沈黙し、法華一揆も崩壊し、畿内の動乱は小康状態に入り、晴元政権の基盤となる諸勢力のうちでは木沢長政・茨木長隆らに代表される畿内、とくに摂・河・泉の国衆の比重が大きくなる。
入京前の晴元政権は、京都近郊の軍事拠点獲得のため、欠所とした権門の所領を家臣団に宛行い、戦国大名化の政策をとっていた。
荘園制は解体の最後の段階にきているが、入京後は、晴元および国衆らは荘園の全面的解消を抑え、京都の諸権門を一定度保護・温存する政策を採用。これにより、大徳・妙心・竜安寺などの禅院は、加地子得分を集積し、近世的禅寺へ成長して行く。
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①茨木長隆:
細川氏の奉行人であると同時に、春日社領摂津国垂水西牧南郷(豊中市)の給人を兼ね、また大徳寺領洛中土御門四町町の代官職をも入手するなど、一面では代官職・名主職を通じて荘園制的収取機構に寄生する性格も併せ持つ。
晴元政権の性格は、摂津国衆と在京権門の連合政権と定義づけられる。
②三好長慶:
阿波国人の出身ながら父祖之長・元長らが畿内に扶殖した地盤を引き継ぎ晴元に帰参し、重んじられ、越水城(西宮市)に居城し摂津下郡の守護代に補任されたと推定される。
③木沢長政:
天文元年以来山城守護代であるほか、天文10年の史料によれば山城上3郡・河内半国でも守護代職を帯び、大和の一部でも守護代に準ずる地位にあったと推定される。従って、三好長慶・木沢長政は、勢力相桔抗し、いずれは反目・対立せざるをえない運命にある。
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閏10月7日
・細川晴元政権による日蓮宗残党追求。
法華宗徒の集会、洛中洛外徘徊、還俗転宗を厳禁(「本能寺文書」)。晴元の管領代飯尾元通の下知。
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「定
一、日蓮党衆僧幷集会(ジョウエ)の輩、洛中洛外徘徊に於ては、御意を得成敗を加うべし。彼僧を還俗せしめ或いは他宗に相紛るゝ族あらば、同罪たるべし。然る上は、彼等許容に於ては罪科せらるべき事。
一、日蓮午王(ゴオウ)幷推札家の事、隣三間開所(ケッショ)に行なわるべき事。
一、日蓮衆諸党諸事再興停止の事。 右条々、違犯の輩有らば罪科に処せらるべき者なり。仰せに仍て下知件の如し。
天文五年閏十月七日 上野介(飯尾元連)三善朝臣在判」(「本能寺文書」)
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11月28日・堅田本福寺の明宗と子の明誓、山科・大坂の防衛などに活躍するが、下間頼盛に同心したとの理由で破門に処せられ通告を受ける。
本願寺と六角氏の和平条件の一つ、追放した下間頼盛に同心という表面的な理由を附して、その犠牲に供される。
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前年、軍事的に不利となった本願寺の滅亡を避けるため証如は、
主戦派の下間頼秀・頼盛を追放し、興正寺蓮秀の主導権のもとに細川晴元と和議を結ぶ。
また、翌年11月12日、六角氏との和議が成立するが、この条件に
近江門徒の追放の問題があり、証如は、六角氏と講和し近江の通路を開くことの重要性を優先させ、止むなく近江門徒の追放を承認し、12月1日に六角定頼に書状を送る(「天文日記」)。
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破門、そして長・年老による寺ないし惣有財産の差押えというなかで、明宗は1540(天文9)年に餓死、子の明誓は、「田地ヲ買ツケントオモハゝ、他村ノ他宗ニアツケラルヘシ」とし、本福寺に背反した長・年老を批難。
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▽[ここに至るまでの経緯]①
細川晴元政権内部の摂津国衆(茨木氏)と阿波国衆(三好氏)の権力闘争に、
②それらに利用される
一向一揆(教団内部の闘争を孕みつつ)と
③
法華一揆(自立を志向する京都町衆)との対立・抗争が絡む。
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[一向一揆を利用した摂津国衆(茨木長隆)の阿波国衆(三好元長)追い落とし]享禄4年(1531)、大物崩れの戦いで細川高国という共通の敵を亡ぼして以後、摂津国衆と阿波国衆を代表する茨木長隆・三好元長の対立が表面化。
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兵粘線が延び切って糧道確保に苦しむ阿波軍は、京都近郊で劫掠し、これは京都町衆の抵抗を招き、荘園体制維持を前提に京都支配を目ざす茨木長隆ら摂津国衆との離反を深める。
長隆にとって、三好元長ある限り山城郡代を配下に納めえず、荘園領主に対する奉書発給の報酬(礼銭=賄賂)を中間で搾取されることになる。
しかし、摂津国衆は単独では三好軍に対抗しえず、2万或いは20万騎(「言継卿記」)と称される一向一揆を引き込む事を画策し、本願寺坊官下間氏と姻戚関係にある茨木長隆や摂津守護代家の長塩氏らの口人でこれに成功。
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享禄5年(1532)6月、一行衆門徒10万は河内の飯盛城に畠山義堯(ヨシタカ)攻め亡ぼし、6月20日、堺の顕本寺に三好元長を包囲、自刃させる。阿波国衆はあらかた敗死し、将軍跡目足利義維、元長の幼子千熊丸(20年後に畿内を制覇する三好長慶)らは阿波へ逃れる。
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これが、第1次石山戦争、天文法華一揆の序幕となる。
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[第1次石山戦争]晴元政権から阿波国人色が一掃され、茨木長隆と、三好一族の中で比較的穏健派で京都の権門にも通じる三好政長が大きな勢力を持ち、本拠を堺から京都に移す構えを見せるが、この前に大きな障害、地上に法王国を築こうとする熱烈な信仰心に燃えた真宗門徒(一向一揆の農民たち)が立ちはだかる。
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一向一揆勢は、山科に本山を構える法主証如光教ら
上層の意向と関わりなく急進化し、各地で
国衆・荘園領主に対する農民闘争を展開。
享禄5年(1532)7月17日、奈良の富裕な町衆を中心とする一向一揆により、菩提院等の興福寺塔頭が炎上(「後法成寺尚通公記」同日条、「二水記」同日条)。
ついで同年(改元され天文元年)8月5日、本願寺門徒は摂津池田城を包囲(「細川両家記」)。
門主証如(17)は、国衆を中心とする武士等の世俗領主との対抗方針を採用しないが、過激化した門徒エネルギーの抑制は不可能となり、山科から大坂石山道場に出張して指揮をとり、摂・河・泉の門徒を動員。
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晴元政権は、京都代官として在京の茨木長隆が急遽堺に下向し、河内守護代木沢長政に堺近郊の真宗浅香道場を焼き打ちさせ、一方、証如光教自ら号令する一向宗徒の堺攻撃(「経厚法印日記」「後法成寺尚通公記」「二水記」)に対抗して、現地で諸宗僧徒を動員。
また、朽木谷の足利義晴からも京都の日蓮宗寺院へ檄が飛ぶ(「本満寺文書」)。
一向一揆の手を借りて畠山義尭・三好元長打倒を画策した管領代茨木長隆白身も、彼らの鋒先が自分たち権力層に向けられるようになり、あらゆる階層の支配勢力を動員してその弾圧に狂奔する。
長隆は「諸宗滅亡この時たるべきか」と自らの周章を語り、京都の公家たちは、「風聞の如くんば、天下は一揆の世たるべしと云々。漸く然るが如きか。末世の躰たらく、嘆くべし嘆くべし」(「二水記」)、「天下はみな一揆のままなり。愁嘆愁嘆」(「言継卿記」)と、その感慨を記す。
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[町衆の自治]一方、大永7年(1527)秋頃から、近江に亡命中の足利義晴・細川高国らが入京し、京都は洛中支配に乗り出す足利義維・細川晴元らの堺公方軍との勢力伯仲状態となり、堺公方軍と公家・町衆の間でトラブルが生じていた。
この時点では、公家・町衆は親幕府の立場をとり、共同して堺公方府の軍事行動に対応。
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町衆の結束の典型は、同年末の
一条畳屋襲撃事件。
東寺に布陣の義晴・高国連合軍に対峙して洛中を支配下に置く柳本・波多野・三好ら堺公方側の軍兵は、この年11月、高国与同の公家衆庶の第宅を闕所処分にするため乱入を繰り返し、11月26日、刑部卿入道某の宿所に波多野稙通の軍兵が押し入る(「実隆公記」同日条)。
公家・町衆は、釘貫や「かこい」を築き堺軍の乱入に対し防衛措置を施すが、同月29日、三好元長の軍勢は一条烏丸の畳屋を襲撃する。この時、近辺の町衆2~3千が群集して三好軍を撃退する。
また同日夕刻、堺の軍勢は武者小路の下級公家である行方(ユキカタ)の宿所に押し入る。この時もまた、町衆は結束を固めて阿波軍を追い返す。翌日には、大軍が報復に押し寄せるとの噂が流れ、山科言継らは「ちゃうのかこい」や「つし(辻子)の口ニかまへ」をますます厳重にする(「言継卿記」12月1日条)。
その後も堺方の諸家押入は止まないが、町衆らは革堂(コウドウ)の早鐘をつき、鬨の声をあげて、上下京の町人を糾合して三好・柳本軍に抵抗。
このような町衆の軍事的行動は、
永正8年7月、上京町人が「打廻」と号して示威行進するまでに至る(「実隆公記」7月18日条)。
享禄2年(1529)正月と7月にも、柳本新三郎や柳本修理・松井某らが違乱を加えるが、正月の場合、町衆数百人が柳本の兵士を包囲し、土蔵衆の高屋弥助らが放った矢によって柳本軍の兵3人死亡・8人が負傷。この時、公家衆は20家以上200人が駆けつける。この様に、町衆の自衛的団結が次第に形成されてゆく。
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その後、晴元政権の畿内支配が洛中にしだいに浸透してくると、町衆は晴元の京都代官木沢長政らの指揮下に軍事行動を起こすようになり、享禄3年(1530)未頃には、洛中を抑えている木沢指揮の軍隊を、公家は「下京衆」と呼ぶようになる(「宣胤卿記」享禄4年正月2、21、28日条他)。
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天文元年(1532)、一向一揆が勃発すると、これら町衆の軍事行動は法華一揆に代表されるようなる。
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法華一揆の初見は、「六条本国寺今日柳本徒党その外京中町人等相率い打廻これあり。その勢三四千人と云々。惣別(ソウベツ)一向衆として今度法華衆に発向すべきの由風聞、よって本国寺用害馳走、奇異の事なり。」(「二水記」天文元年8月7日条)とされる。
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また、石山本願寺攻撃後、天文元年9月26日、山崎で一向一揆と戦った際の状況は、
「六角堂の鐘、撞き候。何事どもか知らず。今夜、山サキの彼方、ヤク候ツル。残リ候法華町人トモ、東寺のアタリマテ、ウチマハリシ候。」(「祇園執行日記」同日条)、
「この間、山崎辺において一揆と合戦これあり。薬師寺備後は小勢なり。よって京勢、少々合力す。しかりといえども、一揆衆の猛勢、恐怖なりと云々。町人、日々集会の鐘を打つ。上京は革堂の鐘、下京は六角堂なり。終夜終日、耳に針す。」(「二水記」同日条)、
とある。
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このように、
法華一揆は、大永7年(1527)以来続く町衆の自治的軍事活動に注目した
幕府・晴元政権(畿内武士勢力)が、一向一揆弾圧に利用するために日蓮宗の師檀関係によって結成させた政治・軍事的組織といえる。
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[石山本願寺滅亡]こうして糾合された反一向一揆連合(叡山衆徒、近江守護六角氏、洛中の法華寺院など)は、天文元年8月23日、山科本願寺を包囲。
翌24日、一宇も余さず焼き払い(「祇園執行日記」「経厚法印日記」、これにより「寺中広大無辺、荘厳只だ仏国の如し」(「二水記」)と称された一向一揆の本拠山科の寺内町は姿を消す。
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しかし、真宗門徒らはこれにも屈せず、
本拠を大坂石山に移して戦闘を続行、摂津下郡(伊丹・豊中市付近)一帯は戦場と化す。
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天文元年12月、摂津国衆は反撃を開始、摂津上郡(高槻・茨木市付近)の国衆は富田道場一帯を焼き払い、同日、下郡では池田・伊丹両氏が下郡の全ての真宗道場を悉く放火という。この為、大物崩れの戦い(1531年)以来、淀川中下流~武庫川流域一帯が焦土と化し、近辺に所領を有する公家には遁世する者まで現れる(「実隆公記」)。
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以後天文2年まで続く全支配階層と農民一揆の対決の中で、
晴元政権は法華一揆に結集した京都町衆のエネルギーを利用する。
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滅亡後の山科本願寺の遣領は、一向一揆弾圧に参加した諸勢力に恩賞として与えられる(「経厚法印日記」天文元年8月28日条)。
また、義晴・晴元の和睦も成り、天文元年11月には、中絶していた室町幕府は再興され、茨木長隆は初めて「室町幕府管領代」となる。
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[天文法華一揆と町衆]石山に立て籠った一向宗門徒は頑強に抵抗し、天文2(1533)には形勢は逆転、殉教の意気に燃える真宗門徒は大坂から晴元の駐屯する堺に進出し攻撃。
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細川晴元・茨木長隆らは、支えきれず、2月10日淡路島へ脱出。以降、晴元が再び上陸し、摂津池田城に入城する4月7日(「細川両家記」「本満寺文書」)までは、畿内は無政府状態となり、洛中は少数の木沢長政(河内守護代、茨木長隆被官)の軍が駐留するほかは、
町衆を主体とした法華一揆(日蓮宗門徒)の自検断が支配。
京都が真に自由都市になった期間は、この天文2年2~4月の間といえる。この間、町衆は市内において真宗僧侶を逮捕し、一向一揆のスパイとして死刑に処す(「実隆公記」同年2月14、15日条)など、完全に京都の警察権を掌握。
「今日、町人、下京を打ち廻わり、時の声を揚ぐ。昨今、法華衆、同じく檀那等、諸道具をまた持ち運ぶと云々。はなはだもって物惣(ブッソウ)なり。」(「二水記」天文2年2月13日条)。
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しかし、京都の周囲は一向一揆の農民軍が取り巻いている。
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4月、京都町衆が法華一揆として晴元軍と呼応し、摂津に進出すると
戦線は膠着、細川晴元・茨木長隆らは池田から摂津上郡の要害芥川城に入り、淀川を挟み中島・石山の一向一揆と対峠。
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この頃から徐々に晴元の権力が再び京都に浸透し始めるが、晴元軍側に立つ京都の日蓮宗徒(法華一揆)の軍事力は、侮りがたく、政権内において
日蓮宗徒=町衆の勢威は上昇。
天文2年末には、室町幕府は京都の防衛を法華宗寺院に命じ、京都の権門は日蓮宗(特に本能寺)の干渉を恐れ(「実隆公記」)、天文元年末には先例を破り、日蓮衆徒が禁中に参内(「実隆公記」)する事態にもなる。
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だが、法華一揆の勢力は、洛中に限られ、洛外の農村は一向門徒の農民も多く、法華町衆の上層部は、洛外農民が一向一揆を組み、土一揆となって町を襲撃する恐怖を抱いている。富裕な町衆(大森・角倉んどの豪商)は高利貸しとして土倉を営んでおり、徳政を要求する農民の一揆に怯えている。
故に、
日蓮宗寺院上層は木沢長政・茨木長隆ら権力層に接近し、洛外の農村や被差別民集落を攻撃し、権門による分裂支配の呪縛から抜け出ることができていない。彼らは
反農民的で、
晴元政権に協力して農民闘争を弾圧している。
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[地子不払いと法華一揆壊滅]石山攻撃の主力となり、一向一揆の猛威から晴元政権を救ったのは法華一揆であるとの自負が京都市民のに広がり、下層町衆を中心に大規模な地子不払い運動が広まる(「鹿王院文書」ほか)。
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地子は元来、荘園領主に納入するもので、幕府や晴元政権には地子免除権限はなく、従って地子未進は必ずしも反権力闘争とはいえないが、大がかりな地子不払いは荘園体制崩壊を招く恐れがあり、なお荘園制に依存寄生する摂津国衆や茨木長降ら支配層の好むところでない。
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ここに至り、
晴元政権は法華一揆排除を決意。天文5年(1536)3月、日蓮宗と天台宗の間の宗論がおこり、叡山を中心とする旧仏教側の日蓮宗に対する反発が高まる。
これを奇貨とした茨木長降らは、山門衆徒・近江六角軍などに檄を飛ばし、今度は
反日蓮宗戦線を結成、7月27日、大挙京都に侵入、日蓮宗寺院を悉く焼き払い、法華信徒を虐殺、京都の町街は大部分が灰燼に帰す。
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このように晴元政権に対抗しうる諸勢力は、茨木長隆の巧妙な策謀により、次々と抹殺され、対抗勢力が抹殺された天文5年秋、細川晴元は芥川城から京都に入り、将軍義晴に謁し正式に管領となる。日蓮宗以外の一般寺院に対しても、その門前検断権の衰退に乗ずるように、管領代の圧力が強化されてゆく。
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[茨木氏]
15世紀初期、細川氏が摂津を領国として以来の根本被官で、地理的にも摂津の中核に位し、春日社や興福寺領の荘園の給人(代官)を兼ね、荘園領主の受けもよく、細川高国の時代にも長隆の父祖は管領に内衆として仕える。
長隆は大永7年(1527)2月に柳本賢治軍が優勢になるや時流に逆らわずいち早く堺の晴元に帰参(「細川両家記」)し、三好政長ら阿波軍参謀に見込まれ管領代に抜擢される。
元来、管領代は文明年間以来、飯尾・斎藤氏ら伝統的な幕府奉行人の家系から選任されているが、初めて奉行人とは無関係の摂津国人茨木氏が管領代に列したことになる。
以後、長隆は若年の晴元を補佐し、天文18年(1549)の晴元政権崩壊に至るまで20余年間、京畿の中心的武将として活躍する。
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[その後の法華寺]天文8(1538)年9月、堺の法華宗が幕府に京都還住を請うが拒否される。
天文11(1542)年11月14日、後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、同15年から諸寺が帰洛をはじめ、15本寺が再興。
to be continued