2024年5月31日金曜日

所詮は政策活動費を「自由に」使いたい思惑が一致したということ(岸田さんとしては、二段構えの「連立」が構築できた) ⇒ 岸田首相と維新代表「政策活動費」10年後に領収書公開で合意(NHK) / 政策活動費、10年後に公開で自維党首が合意 維新は自民案に賛成へ(毎日) / 29日にはこんなこと言ってたのに! → 維新・藤田幹事長「公明党には、もうちょっと頑張ってほしかった」(朝日) / 「怪気炎を上げていた公明党も、なにも意味のない改善案で謎の妥協。裏金問題を解決する気はまったくなく、自民党と仲良く同じ穴のムジナでした。」(おときた) / 規制法、パー券5万円超&政活費10年後公開で6・3採決にネット「抜け道だらけ」「1円から公開しなよ」(スポニチ)         




 

【悲報】山上徹也さん、平均11ヶ月の勾留が間もなく脅威の3年目へ / 「これでは「被疑者が死ぬのを待っている」と邪推されてもしかたがないですよね。自殺するか、衰弱死するか。どうして早く裁判を始めないのかについて、誰かに合理的な説明をする責任があると思います。法務大臣の仕事かな。」(内田樹)

 

大杉栄とその時代年表(147) 1895(明治28)年4月23日~30日 三国干渉 「三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては一歩も譲らざるべし」(陸奥「蹇々録」) 「敷嶋のやまとますらをにえにして いくらかえたるもろこしの原」(一葉)   

 


大杉栄とその時代年表(146) 1895(明治28)年4月14日~22日 日清講和条約(下関条約)調印 森鴎外(33)陸軍軍医監 一葉日記「うき世にはかなきものは恋也。さりとてこれのすてがたく、花紅葉のをかしきもこれよりと思ふに、いよいよ世ははかなき物也。、、、我れはさはたれと定めてこひわたるべき。」 より続く

1895(明治28)年

4月23日

陸奥外相、休養中の播州舞子(須磨・明石の中間)より、青木駐独公使の報告を受けて、伊藤首相に「一歩も譲らざる決心を示すほか策なし」と打電。伊藤首相は、旅順の樺山・川上両中将に対し、露独仏英4国が纏まり艦隊派遣の恐れありと警告。

4月23日

三国干渉

露公使ヒトロヴォ・独公使グットシュミット・仏公使アルマン、外務省(外務次官林董)を訪問。遼東半島占領は、清国首都を危うくし、朝鮮独立を有名無実にし、極東永久平和に障害とし、放棄を勧告する覚書。伊藤首相は、24日早朝の御前会議招集、回答引延ばしを決定。病床の陸奥は、一旦勧告を拒否し、勧告の深さと国内世論を見極めるよう返電。ロシア・ドイツは極東の艦隊を動かし始める。

「露国皇帝陛下の政府は、日本より清国に向て求めたる講和条約を査問するに、其要求に系る遼東半島を日本にて所有することは、常に清国の都を危うくするのみならず、之と同時に朝鮮国の独立を有名無実となすものにして、右は将来永く極東永久の平和に対し、重ねて其の誠実なる友誼を表せんが為め、茲に日本国政府に勧告するに、遼東半島を確然領有する事を放棄すべきことを以てす」(「大日本外交文書」)。

4月24日

御前会議。3国干渉の拒否・受入れを議論。列国会議で列国と共に処理する結論。

会議後(25日早暁)、伊藤首相・松方蔵相・野村(靖)内相が病床の陸奥外相を訪問。陸奥は列国会議には反対(召集に時間的余裕ない、新たな干渉をまねく)。3国の勧告の全部又は一部の受入れと3国には譲歩するが清国には一歩も譲らぬと結論。この夜、野村が天皇に報告、裁可。

陸奥は、5月8日の批准交換まで余裕あり、3国に勧告撤回または軽減を働きかけることと、英米伊3国の「強援」を誘引して露独仏3国牽制を図る。加藤高明駐英公使・栗野駐米公使に訓令。アメリカは局外中立に矛盾しない範囲での援助を告げる。イギリスは日本に協力する事もある種の干渉であり、一切干渉しないと回答。イタリアも最も好意的と思われていたが、「語調」を変更。英米伊3国による牽制案は崩壊

「然れども広島の御前会議は(当時広島に滞在する者伊藤総理の外山県西郷陸海二大臣のみ)固より余が再度の電報を待つ迄に猶予すべきに非ざれば、其商議を進行し、而して当日伊藤総理提議の要領は、{第一}仮令新に敵国増加の不幸に遭遇するも此際断然露・独・仏の勧告を拒絶する乎、{第二}茲に列国会議を招請し遼東半島の問題を該会議に於て処理する乎、{第三}此際寧ろ三国の勧告は全然之を聴容し清国に向ひ遼東半島を恩恵的に還付する乎、の三策の中其一を選むべしと云ふに在り。出席文武各臣は孰れも反履丁寧に討論を尽したる末、伊藤総理の第一策に就ては、当時我征清軍は全国の精鋭を悉して遼東半島に駐屯し、我強力の艦隊は悉く澎湖島に派出し内国海陸軍備は殆ど空虚なるのみならず、昨年来長日月の間戦闘を継続したる我艦隊は固より人員軍需共に既に疲労欠乏を告げたり、今日に於て三国聯合の海軍に論なく、露国艦隊のみと抗戦するも又甚だ覚束なき次第なり、故に今は第三国とは到底和親を破るべからず、新に敵国を加ふるは断じて得策に非ずと決定し、次に其第三策は意気寛大なるを示すに足る如きも、余りに言ひ甲斐なき嫌ありとし、遂に其第二策即ち列国会議を招請して本問題を処理すべしと廟議粗々協定し、伊藤総理は即夜広島を発し、翌二十五日暁天余を舞子に訪ひ御前会議の結論を示し、尚ほ余の意見あらば之を聴かむと云へり。・・・

然れども伊藤総理が御前会議の結論として齎らし来れる列国会議の説は、余の同意を表するに難しとしたる所たり。其理由は今茲に列国会議を招請せむとせば、対局者たる露・独・仏三国の外少とも尚ほ二三大国を加へざるべからず。而して此五六大国が所謂列国会議に参列するを承諾するや否や、良しや孰れも之を承諾したりとするも、実地に其会議を開く迄には許多の日月を要すべく、而して日清講和条約批准交換の期日は既に目前に迫り、久しく和戦未定の間に彷徨するは徒に事局の困難を増長すべく、又凡そ此種の問題にして一度列国会議に付するに於ては、列国各々自己の適切なる利害を主張すべきは必至の勢にして、会議の問題果して遼東半島の一事に限り得べきや、或は其議論枝葉より枝葉を傍生し各国互に種々の注文を持ち出し、遂に下ノ関条約の全体を破滅するに至るの恐なき能はず。是れ我より好むで更に欧州大国の新干渉を導くに同じき非計なるべし、と云ひたるに、伊藤総理、松方、野村両大臣も亦余の説を然りと首肯したり。然らば如何に此緊急問題を処理すべきかと云ふに至り、広島御前会議に於て既に方今の形勢新に敵国を増加すること得計に非ずと決定したる上は、露・独・仏三国にして其干渉を極度迄進行し来るべきものとせば、兎に角我は彼等の勧告の全部を承諾せざるを得ざるは自然の結果なるべし。而して我国今日の位置は目前此露・独・仏三国干渉の難問題を控へ居る外、尚ほ清国とは和戦未定の問題を貽し居る場合なれば、若し今後露・独・仏三国との交渉を久しくするときは、清国或は其機に乗じて講和条約の批准を放棄し、遂に下ノ関条約を故紙空文に帰せしむるやも許られず、故に我は両個の問題を確然分割して彼此相牽連する所なからしむべき様努力せざるべからず、之を約言すれば三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては一歩も譲らざるべしと決心し、一直線に其方針を追ふて進行すること目下の急務なるべしとの結論に帰着し、野村内務大臣は即夜舞子を発し広島に赴き右決議の趣を聖徳に達し尋で裁可を経たり」(「蹇々録」)。

4月24日

子規、金州で河東秉五郎(碧梧桐)からの4月14日付け手紙により従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。


「春や昔古白といへる男あり」(「陣中日記」4月24日)


「陣中日記」を『日本』に連載。

4月24日

一葉の許に、馬場孤蝶来訪。


「午後馬場君来訪、本町にておもしろからぬ事ありしけにや、ものいひいとど激したるやう也。夕げ共にしたためて更るまで語る。雨俄かに降出ぬるにかさを参らす。駒下駄にては如何と、女ものにてをかしけれど、それをも参らすれば、笑ひてはきゆく。」

孤蝶は、雑誌の経営を第一とする星野天知の現実主義と合わずに争いがあった様子。一葉は孤蝶の立場を支持している。

4月25日

一葉のもとに、孤蝶が昨日の下駄を返しに来る。禿木と一緒に来ようとしたが、禿木は身のふり方が決まってないのが恥ずかしいのか来たがらなかったという(間もなく師範学校に入学する)

この日付け日記にある歌


「新領地

敷嶋のやまとますらをにえにして

    いくらかえたるもろこしの原」

4月25日

高野房太郎乗船マチアス号、長崎寄港。

4月26日

早朝、一葉のもとに大橋乙羽が「ゆく雲」と略歴の校正刷りを持って来訪。長く話す。

4月27日

子規「陣中日記」より。この日、子規は金川城の東門を出て、杏の花の咲く一山村を独り訪ね、そこで出会った子供たちと言葉を交わしたときのことを、次のようにレポートしている。


「城郭の上を散歩す。めづらしく空打ち曇りで雲は大和尚山を呑みつ吐きつ其勢すさまじ。

     古城や菫花さく石の間

城中の杏花城外の楊柳に眼をうつしつゝ壁上を廻りて東門のほとりに来れば正面九山の谷間に紅緑打ちまじりて雲か花かと見ゆるものあり。心そゞろにうれしくて城を下りてそなたと許り野道辿り行けば半里許りにて志す処に着きぬ。遠く望みたるにも違はず山の端のけはしき岨陰に家二三軒並びて一渓は只楊柳と杏花とを種ゑたり。しばらくは詩も歌も浮まで只柳暗花明又一村とのみぞ口ずさまれける。

     一村は杏と柳ばかりかな

むれ遊ぶ小児の我を見て逃げ行くもあるを儞来と呼べば尽く集まり来りて頻りに何事をか話しあへり。試みに此の白き花は何ぞと問へば彼等は異口同音に梅なりといふ。梅の木とおぼしきもあれど多くは杏の花なるを此のあたりにてはおしなべて梅と称ふるにやあらん。帰り来る道すがら五つ六つ許りなる児の二三人葉摘めるを何処の子ぞと立ちよれば各館をさし出だして葉を買はんやといふ。不要といへば又うつむきて菜を摘む手のみいそがはし。此国の人は天性商買(ママ)にさかしきものなるべし。」

4月27日

大本営、広島から京都に移る。講和条約発効後も、復員せず。

台湾民主国との戦争及び朝鮮・遼東半島・威海衛の駐留兵力を指揮する為でもあったが、最大の目的は三国干渉に対抗すること。三国干渉は背後に武力を控えた真の干渉であって、ウラジオストク要塞は戦闘準備にはいり、同地は戦争状態宣言のもとにあった。別の非公式情報は、ロシアが軍隊を東アジアに移動中で、艦隊は合戦準備に入ったと伝える。

4月27日

一葉、萩の舎の稽古。

4月28日

久米桂一郎「裸体は美術の基礎」(「国民新聞」)。黒田清輝擁護。

4月28日

一葉、朝、護国寺で花を見る。夕暮に野々宮菊子が来訪、弟子への教授法などを教えてもらう。夜に孤蝶来訪。昨日も近くまで来たが、そう度々訪ねるのもどうかと思って遠慮したとのこと。夜更けまで話し込む。

兄虎之助に、援助してくれるという約束に礼状を出し、来月2日に母たきが訪ねることを伝える。

4月29日

一葉のもとに、午后、徳田初音が「徒然草」の講義を聞きに来る。次からは、毎週日曜ということにする。

4月30日

閣議、三国干渉部分受入決議(金州庁を除く遼東半島放棄、代償として相等金額支払いなど)。3国へ通告。


つづく

2024年5月30日木曜日

小池百合子都知事のヤラセ工作バレる ⇒ 小池知事へ出馬要請 5区市の住民が反発 説明と撤回求める(東京) / 「知事サイドという意味がよく分かりませんけど はっきり申し上げると私からの依頼はしていない」 ← 「知事サイド」と「小池知事」はイコールなんだけど / 小池百合子氏「首長に支援依頼はしていない」 日野市長の「知事側から依頼」発言を否定 都知事選巡り(東京) ← 日野市長は「知事が」とは言っていない。「知事側から」だ。従って、小池氏も「私は」ではなく「私側から」で否定しないとダメです。微妙に小池っぽいイヤらしい逃げ道がある。 / なぜか「出馬要請」になっていた…元々は「小池百合子都知事からの『応援依頼』だった」と日野市長が明かす【一問一答】(東京) / 東京都内52首長が小池都知事に出馬要請 ;「選挙で当選したとはいえ、それは相対多数の結果に過ぎず、当該地方自治体の市民にも様々な住民がいることを考えると、ある自治体の長が上位自治体の長や議員に出馬要請をすること自体にも大きな疑問があります。、、、仮に出馬要請に市民の税金である自治体の経費、職員を使ったなら、違法支出すら疑われる事態です。」(紀藤正樹) / 「 小池知事から、都内の市長会、区長会に小池知事宛の出馬要請文に名前を連ねるように、依頼があったそうです。 ある自治体の市長は、賛同しなかった場合の報復を恐れて、受け入れざるをえないと。まさに踏み絵です。」        



 

「人権機関の創設を」国連部会、LGBTQや女性への差別・暴力を懸念。アニメ・アイドル業界にも「深刻な問題」と指摘 国連の作業部会は報告書で、男女の賃金格差をはじめとした職場でのジェンダー不平等、LGBTQI+当事者や先住民族らへの差別の実態のほか、ジャニー喜多川氏の性加害問題なども取り上げた。(ハフポスト日本版) / 神宮外苑再開発 “人権に悪影響の可能性”国連の作業部会 公表(NHK) / 除染多重下請けに是正勧告 国連報告書(共同) / 旧ジャニーズ性加害問題は未解決、日本に「人権後進国」の烙印…国連調査報告書の衝撃中身(日刊ゲンダイ)        

大杉栄とその時代年表(146) 1895(明治28)年4月14日~22日 日清講和条約(下関条約)調印 森鴎外(33)陸軍軍医監 一葉日記「うき世にはかなきものは恋也。さりとてこれのすてがたく、花紅葉のをかしきもこれよりと思ふに、いよいよ世ははかなき物也。、、、我れはさはたれと定めてこひわたるべき。」    

 


大杉栄とその時代年表(145) 1895(明治28)年4月11日~13日 子規、遼東半島に上陸、金州に入る 「たまたま路の傍に一二軒の破屋がある。屋根も壁もめちやめちやにこはされてある。戦争の恐しさは今さらいふ迄も無いが此等の家に住んで居た人のゆくへを考へて見ると実に気の毒なものぢや」(「我が病」) より続く

1895(明治28)年

4月14日

一葉、昨日の大橋乙羽からの手紙に返事を出す。略歴に関し〈特になにも書くべきことがなく、ただ、生まれと私立小学校に少し通ったこと、中島歌子に師事したことだけで、あとはよろしいように〉と述べる。

4月14日

「韓山近事(四月六日発)」(『日本』4月14日)

署名者「長白坊」は,東学の「乱後」,地方の「惨状は更に乱時より甚きもの」があり、それは「政治の腐敗」だとする。

昨年来東徒の反乱により兵火打続き近日漸く鎮定に帰したりと雖ども乱後の惨状は更に乱時より甚きものあり。其は何といふに政治の腐敗是れなり。

「右二道(引用者注:全羅道・忠清道) の地は到処家は焚れ人は殺され甚しきは□□全く尽き煙火数条数里人絶ゆるの所さへありて目も当てられぬ有様」であり,それは「政治の腐敗」,とりわけ「地方官吏の暴汚」によるものだと,問題を東学殲滅作戦の外に置く。東学農民運動の参加者だとして殲滅作戦の過程で捕えられた人々も,朝鮮の地方官吏が恣意的に処分しているとして,朝鮮の政治体制や官吏の問題にすり替え,日本の立場を善良化させていく。そこで想起されたのは日本の西南戦争だった。記事はこう記す。

宜しく我西南の役後に於ける如く巨魁を除く外一切之を宥赦すること肝要なり。

実に鮮やかに,朝鮮民衆の怒りを朝鮮政府の地方官吏へと振り向けていくかを記した報道である。

東匪の巨魁全捧準の審判は既に略結了し今は他の大院君と関係如何に就き取調中なれば不日罪案の宣告あるべし。従来の例典より言へば彼等は則ち所謂謀反人にして大逆不軌の罪人なれども此度よりは大に其例を改め全く彼等を待つに文明流の国事犯を以てし之を判決する由にて彼が一命も為めに全かるべしとの説真なるが如し。左れば末派一味の輩を大赦するは当然の事といふべし。(『日本』4 月14日)

『日本』同日付の「全捧準(ママ)の罪案」は記者「長白坊」によるもので,全琫準の処分について死一等を減じるのではないかという観測を書き続ける。「長白坊」記者は,『日本』4月21日付にも,「其刑の適用は国事犯と見做して死一等を許すなるべしとの事」と書いている。改革派のナショナリストである東学のリーダー像が反映している。

4月16日

この日の子規『陣中日記』(『日本』5月9日)


「軍に従ふて未だ戦を見ず空しく昨日の戦況を聞く。雄心勃々禁ずる能はず却つて今後の事を思へば忡々(ちゆうちゆう)として楽まざる者あり」


4月16日

漱石、神田乃武に宛てて手紙。

石川一男に貴意を伝えた、石川一男は17日に、石川県の新設中学に転任することになり、明日出発の予定である、赴任以来4人が転勤し驚いている、と伝える。愛媛県尋常中学校で教え始めて1週間もたたぬのに交際に時間を費やすことが多く、勉強もできぬし、先日話のあった洋行の貯蓄もできぬのではないかと洩らす。

4月16日

一葉、日記(「水の上日記)再開。この日、田中みの子と伊東夏子を訪問。次に、大橋乙羽の頼みで萩の舎の中島歌子のところに行く。大橋は、博文館の出版物『日用百科全書第一編 和洋礼式』の題字題詠を、「爵位高き人々に」依頼して欲しいという。歌子は、前田侯爵の「禮」の字と侯爵夫人の和歌を手配する。

2時頃帰宅。西村きくが来ていたので一緒に昼飯を食べる。夜、号外が来て、平和談判が整ったという。


「春雨ふりて今日はいとつれづれなり、なすべきことゞも一わたりはてゝ、身のいとまやうやう得らるゝに、田中とじがもと、伊東の夏子ぬしなどとはゞやと家を出づ」(4・16)

また、日清戦争の講和条約調印への関心も示す。

「平和談判とゝのへり、委細はあとよりとあり」(同日)

「いまだ談判の後報来らず」(翌日)"

4月17日

日清講和条約調印(下関条約)

朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲(アジアではじめて植民地を持つ国となった)、賠償金2億両支払、欧米なみの通商条約締結、威海衛保障占領など。日清戦争の死者・廃疾者1万7千人、軍費2億。20日、天皇批准。5月8日、批准書交換。

日清戦争の軍事的意義:軍国主義と軍事的天皇制イデオロギー確立。

海上:大艦巨砲の有効性(日本の包囲攻撃でも「定遠」は沈没せず)。機動力の重要性(速射砲搭載の軽艦隊の勝利)。艦隊運動に便利な単縦陣の優越性。

陸上:兵站組織・防疫・衛生設備の整備(出征中の入院者17万、うち戦傷4519のみ、うち内地後送6万7600)。攻撃力偏重で長期持久思想に乏しい反省。歩兵の突貫攻撃の重要性。

外交上の意義:日清拮抗、英露対立の枠組みが崩壊。中国・朝鮮の領土保全・現状維持の政策が不可能となる。中国分割が現実のものとなる(中国周辺から本土へ関心が移る。清国の賠償金支払いのための露仏借款とこれに対抗する英独借款。借款の後は、利権と租借の大軍。

4月18日

一葉のもとへ、安井てつ(後に東京女子大学学長)来訪、入門する。毎週木曜日、「源氏物語」の講義を聴きに通い始める。安井哲子「教壇の半生」によれば、樋口家の家系を助けるためでもあった。

禿木に、来訪か葉書でもほしいと手紙を出す。

田中みの子より、翌月2日か3日くらいまでに借金返済するよう求められる。"

4月19日

「東京日日」(書記官長伊東巳代治主宰)・「時事新報」、講和8条件を完全に報道。

東西「朝日」は翌日の紙面で、出所を明記して講和条件の内容を転載する屈辱をなめた。16日付「大阪朝日」社説「俗吏の私便百年の胎禍」は、政府が縁故ある新聞にだけ流した不公正さを攻撃

4月19日

早朝、一葉に宛てて禿木から手紙の返事。「たけくらべ」を称賛し、一葉を「女西鶴」と呼ぶ。孤蝶が来訪、一日中話し込む。

4月19日

米、議会、スペイン開戦決議。

4月20日

一葉のもとに大橋乙羽が来訪。萩の舎に稽古へ。日没近くに帰宅。久佐賀義孝が来訪。夜遅くまで語り、60円の借金を申し込む。5月1日、久佐賀から断りの返事が来る。以後、彼との交渉は不明となる。

4月20日

ドイツ、マルシャル外相、青木公使に対して「日本は旅順口を領有するにおいて障害をうくべし」「世界は決して日本国の希望又は命令によって動くものに非ず」と述べる。

4月21日

森鴎外(33)、陸軍軍医監となる。

4月22日

一葉の日記より

「うき世にはかなきものは恋也。さりとてこれのすてがたく、花紅葉のをかしきもこれよりと思ふに、いよいよ世ははかなき物也。等思三人、等思五人、百も千も人も草木もいづれか恋しからざらむ。深夜人なし。硯をならして、わが身をかへりみてほほゑむ事多し。

にくからぬ人のみ多し。我れはさはたれと定めてこひわたるべき。

一人の為に死なば恋じにといふ名もたつべし。万人の為に死ぬればいかならん。しる人なしに怪しうこと物にやいひ下されん。いでそれもよしや。」

(同じ思いをする人が三人、五人いるとしても、百人も千人も草も木もどれか恋しくないものがあろうか。)

ようやく桃水の呪縛から開放されたのであろうか。「憎からぬ人多し」、「一人の為に死なず、万人の為に死なん」と言う。

孤蝶など複数の男性と近しくなったせいか、「たけくらべ」発表によって、名声が揚ってきたせいか、どうか。

桃水からの完全な離脱とはまだ断定し難い。


つづく

2024年5月29日水曜日

空が燃えた日:1945.5.29 横浜大空襲(神奈川新聞); 「1945(昭和20)年5月29日未明、米第21爆撃機集団所属のB29爆撃機(スーパーフォートレス)の編隊517機が太平洋のマリアナ諸島の基地を発進し、北上。午前9時20分ころに横浜上空に達し、約1時間にわたって総数43万8000個余り(2,569トン)の大量の焼夷弾を、地上に投下しました。、、、、、この大空襲による被害は、直後の公式発表によれば死者3,650人とされましたが、実際には8,000人以上になるともいわれています」

 

鎌倉アジサイ散歩 浄智寺 小ぶりのアジサイがひっそりと イワタバコ オトギリソウ ユキノシタ 八重ドクダミ 2024-05-29

 5月29日(水)はれ

明月院のあと、かなり久しぶりに浄智寺へ。

鎌倉アジサイ散歩 明月院のアジサイ まだ2~3分咲き 2024-05-29

浄智寺のアジサイは、ヤマアジサイなんでしょうか。みんな、小ぶりでひっそりと咲いている。







▼イワタバコ(群生)
昨日の風雨のために落花してるのも多かった。たまたま近くにおられた方によると、先週はまだ咲いていなかった、まだ咲き始めなのにこんなに散ってしまって残念、とのこと。


▼オトギリソウ(咲き始め)

▼ユキノシタ(群生)

▼八重ドクダミ(群生)


「壊すものを造って、批判を浴びとる。万博は、もっと夢があるもんやと思ってた」工事業者が語った「士気の上がらない現場」 リングやパビリオン建設の下請け経営者や作業員の本音(共同);「万博は、もうちょっと夢があるもんやと思ってた。でも、『子どもを連れて行きたい』って人が、工事の関係者内には現状、誰もおらんのがこの万博の現実を示しとるような気がするんですよ」  

 

鎌倉アジサイ散歩 明月院のアジサイ まだ2~3分咲き 2024-05-29

 5月29日(水)はれ

鎌倉、明月院のアジサイ、全体的な感じではまだ2~3分咲きという段階でしょうか。

花の数も発色もまだまだです。

入口もまだ一ヶ所だけで、待ちの長さも10人内外でドンドンはけてる感じです。

でも、境内はそこそこ混雑していて、丸窓の待ちは20~30人ほど。

このあと、浄智寺に行きましたが、これは別記事にて。

鎌倉アジサイ散歩 浄智寺 小ぶりのアジサイがひっそりと イワタバコ オトギリソウ ユキノシタ 八重ドクダミ 2024-05-29








大杉栄とその時代年表(145) 1895(明治28)年4月11日~13日 子規、遼東半島に上陸、金州に入る 「たまたま路の傍に一二軒の破屋がある。屋根も壁もめちやめちやにこはされてある。戦争の恐しさは今さらいふ迄も無いが此等の家に住んで居た人のゆくへを考へて見ると実に気の毒なものぢや」(「我が病」)   

 

大杉栄とその時代年表(144) 1895(明治28)年4月8日~10日 ロシアなどの対日干渉の予兆 漱石、松山に赴任 子規、宇品出航 より続く

1895(明治28)年

4月11日

漱石、帝国大学の事務方に、在学中の貸与金(奨学金)の返済猶予を依頼する手紙を書く。在学中に月15円の貸与金を受けており、それを月7円50銭ずつ返すことになっていたが、その金がないという。松山赴任に際しても旅費・支度金が足らず友人に50円借りている。

この頃すでに、養家塩原家からの金銭上の要求があったのかも知れない。

この日夕方、漱石は中学校の歴史教師中村宗太郎の紹介により、旅館城戸屋から、松山地方裁判所裏手、城山中腹にある骨董商(いか銀)津田安吉の持家の愛松亭(後に久松伯爵別邸、現在愛媛県所有の万翠荘 松山市一番町三丁目二番地)に移る。6月下旬までいる。愛媛県尋常中学校へは徒歩20分である。(金子元太郎・山木孝太郎(数学)も住んでいた)に移る。


4月11日、漱石の清水彦五郎に宛て手紙を送り、

「小生在学中の貸費本月より早速御返済可申上筈の処始めて赴任の折色々の都合にて手元不如意につき両三月間御猶予相願度」と奨学金返還猶予を願う。清水からは猶予承諾の返事があった。

しかし、毎月7円の返済が3ケ月たっても返せず、清水から督促がきた。

6月25日、「申し出候期限も既に経過致候に付ては其中何とか致す心得に有之候処忽ち貴書を拝受し慚愧の至に不堪仰の通り追々両三月中より月賦にて御返済可致候」と返信(2、3ケ月中に月賦で返済すると約束)。

4月11日

一葉のもとに大橋乙羽来訪。雑誌「太陽」への原稿の催促をされる。

4月11日

ロシア、極東問題に関する第3回特別会議。ウィッテ蔵相の見解が採用され、日本に南満州占領地域の放棄を勧告する決定。日本の南満州占領は黒竜江州への脅威とみなし、かつ列強の中国分割の引き金になることをおそれ干渉に乗出す。16日、御前会議で決定。17日、ロシアはドイツに正式に干渉を提議。

4月12日

伊藤首相、西駐露公使より電報うける。ロシア陸海軍協同委員会が日本軍の北京侵入阻止の手段を検討、露仏連合艦隊により阻止できるとの結論に達した。

4月12日

漱石、教え子真鍋嘉一郎が書生として同宿させて欲しいと言ってきたが、図画教師高橋半哉と同宿することになったとその申し出を断わる。生徒が教員の居候になるのは当時の慣行で、漱石も熊本五高に移ってからは複数の五高生を置いている。


■愛媛県尋常中学の生徒

当時の愛媛県尋常中学の生徒は441人、1学年だいたい90人で、それぞれ2クラスあった。生徒中にはのちのちまで漱石に親しんだ真鍋嘉一郎、松根豊次郎(東洋城)のほか、桜井忠温、片上伸がいた。

片上伸は後年早稲田大学の教授となった。同性愛者で、学生であった井伏鱒二に迫ったことで知られる。桜井忠温は尋常中学から陸軍士官学校13期に進む。明治37年、25歳で旅順攻城戦に参加して負傷、後送される。明治39年、その体験を『肉弾』の題名で出版しベストセラーとなった。

桜井忠温は、道後温泉でたびたび漱石を見た。漱石が温泉に行くのはおもに日曜日だが、明治28年8月に一番町から道後へ、城山の北側を通って古町へ至る軽便鉄道が開通すると、より繁く通うようになった。

松根東洋城は、漱石の出勤姿 - まだ自動車も走らない時代で、二番町の大通りは広々としているのに、わざわざ道の端の溝ぎりぎりを、飛ぶように歩いて行く、なにかしら奇異な歩きかた - 記憶している。

安倍能成は明治29年4月入学なので熊本に去った漱石とは入れ違いになった。しかし、松山の繁華街大街道の芝居小屋で、子規と共に照葉狂言を見る漱石を目撃したという。安倍能成のような少年まで帝国大学出の学士である漱石を知っていた。本人は、ただ人々に意味もなく注視される、見張られていると認識していた。

4月12日頃

一葉「ゆく雲」完成

4月13日

子規、大連湾入り

4月15日 柳樹屯から遼東半島に上陸し、金州に入る。

この日、子規は一般民家に宿泊し、「支那の一老翁」と同じ部屋に寝るが、その匂いに辟易する。

子親が最初に目にした中国。海域丸が大連湾に入り、停留している間に船のうえから見たはげ山が連なる大連の自然風景、小さな船に乗って海域丸の周囲に集まり、敵国である日本の軍隊を運ぶ船に物乞いをする現地民の姿。


「行先遥かに山を見る漸く近づくに幾多の邱陵兀(は)げ並びて姿のけはしからぬさすがに大国の風あり。砲台に昨日の戦を忍びつゝ○○湾に碇を技ずれば乞食にも劣りたる支那のあやしき小舟を漕ぎつけて船を仰ぎ物を乞ふ。飯の残り筵の切れ迄投げやる程の者は皆かい集めて嬉しげに笑ひたる亡国の恨は知らぬ様なり。舟の形は画に見つる如く中部低く両端に高くして雅致多きものから不潔言はん方なければ悪疫の恐れありとて近づけざるもあはれなり。」(陣中日記)


現地人を「乞食にも劣りたる」とさげすみの者としてのまなざしは、森鴎外や夏目漱石のまなざしとも基本的に共通するもの。

たとえば、明治33(1900)年9月8日、ドイツ船プロイセン号に乗って横浜を出港した夏目漱石は、9月25日:シンガポールに寄港したさい、船のうえから見た光景を、「土人丸木ヲクリタル舟二乗リテ、船側ヲ徘徊ス。船客銭ヲ海中二投ズレバ海中二躍り入ツテ之ヲ拾フ」と記している。

漱石はさらに、10月1日、セイロン(現スリランカ)のコロンボ港に着き、上陸して仏教寺院を見学したときのこととして、「路上ノ土人花ヲ車中二投シテ銭ヲ乞フ且Japan、Japan叫ンデ銭ヲ求ム甚ダ煩ハシ仏ノ寺内尤モ烈シ一少女銭ハ入ラヌカラ是非此花ヲ取レト強乞シテ已マズ不得已之ヲ取レバ後ヨリ直グニ金ヲ呉レト逼ル亡国ノ民ハ下等ナ者ナリ」とも記している。ここでの「亡国ノ民ハ下等ナ者ナリ」という漱石のさげすみの意識は、子規が、大連湾に着いた船のうえから現地人を見下ろして、「亡国の恨は知らぬ様なり」と記した意識と通じるものである。

子規たち従軍記者は、柳樹屯に上陸したその日、金州まで進み、金州城内で一泊している。柳樹屯から金川までおよそ三里(約十二キロ)、途中目にした風景や人々の生活風俗を、子規は、上陸して初めて異国の現実に触れたことで新鮮に感じたのであろう、かなり微細に観察の目を働かせ、「陣中日記」に記述している。


「左に折れて金州へと志し戦後の破屋を見つゝ一町許りにしてはや村を外れたり。家も壁も皆石もて積み屋根は多く瓦にて葺き或は藁めきたるを用ゐたるもあり。郊外に凹凸形の壁あり兵営なりとぞ。門側の壁二三問許り白壁にて塗り其の上に獅子めきたる動物を画き色彩を施したり。山も畑も道も家も皆赭赤色を現はしたる中に独り此画の調子外れて色漉きを異なりと許しながら行けば大道一路多少の高低あれど眼に障る者なければ行先は五町も十町も見え渡りて織るが如き往来は七分通り日本人なり。靴痕車轍路かと見れば麦畑の中を横ぎり平野と見れば田圃皆山腹にあり。山巓低くして山脚長きがためなり。」


「先づ途上眼に触れたる地理風俗の一斑を示さんに気候は稍々暖く外套を要せず。路傍の畑は皆麦を種ゑて葉の長さ猶一寸許りそれさへも有るか無きかに痩せたり。耕作は総て牛馬の力を借りて人自ら鍬を把りたる者を見ず。柳樹屯全州間を往来する荷車の幾輛と無く続きたるを見るに多くは一事に驢馬四頭を用う。一頭前に在りて車を牽けば他の三頭は其の前に頭を並べて牽く腕車の綱引に似たり。車はさしたる変りもなけれど車輪の中は「キ」の字の如く木を組み立てたるを支那人一人車の前に坐し一間余の長鞭を取りで之を御す。をッをッをッあたあたあたと呼ぶ鴃舌(げきぜつ)解すべからず。」


子規は、「陣中日記」では「路傍の畑は皆麦を種ゑて葉の長さ猶一寸許りそれさへも有るか無きかに痩せたり」と記しただけの麦畑が広がる田園風景を、「我が病」では次のように丁寧に描写している。


「街道は極めてなだらかな禿山の半腹を繞つてついて居て両側には麦畑がある。実は麦畑の中へ勝手に街道をつけたのである。山といふも勾配が非常に緩い故に平地と同じやうな処もあつてそこには麦畑があるのであるが、その麦畑といふも日本のやうに畦や畝の高低が無いから何処でも踏む処が道になる訳なのだ。麦は今僅に芽が出て居るばかりで遠く見れば矢張禿山と同じ色だ。右の方に見える大和尚山の麓に少しばかり家のある村があるのを見下す外は殆ど家は無い。たまたま路の傍に一二軒の破屋がある。屋根も壁もめちやめちやにこはされてある。戦争の恐しさは今さらいふ迄も無いが此等の家に住んで居た人のゆくへを考へて見ると実に気の毒なものぢや

子規が金州に入った日(15日)、子規たちは第二軍付従軍記者用の宿舎に一泊するが、子規は、中国人の家屋の居室が手狭で、就眠用のスペースがないということで、中国人の老人と同じ部屋に寝ることを余儀なくされている。


「支那の家は六畳敷位の一間が半分は土間で半分が床になって居るから寝る場所が少い。

「誰か一人隣のチャンの室へ往て一処に寐てもらはねばならぬ。

と二軍附の人がいふから

余「僕が徒かう。

といへば

「君、チャンは臭いよ。それでもかまはなけりやさうしてくれ給へ、気の毒だけれど。

余は臭い位は橘はないから往て寝た。支那語の分る人が来てチャンに余と同宿するやうに命じたのでチャン(は)恐れ入った様で横の方へよって小くなって寝て居る。チャンは五十ばかりの男で蒲団も何も著て居らぬ。成種思ふたよりも臭いのでしばしは寝られなんだが、昼の疲れでいつの間にやら眠ってしまふた。」


その後、子規は、日数を経るにつれて、その臭気にも次第に慣れ「にんにく臭き土人の臭気もやうやうに鼻に馴れたり」と受け入れ、サソリやノミ、シラミに悩まされる現地の家屋での寝泊りを苦にしなくなっている。

4月13日

李鴻章、直隷作戦部隊の遠征を本国に伝える。14日、「日本の要求をいれれば京師なお保つべきも、しからざれば事意想の外に出づべし」と発電。清国の主戦論者は沈黙。総理衙門は日本の修正案を無条件で承諾する決定。

4月13日

竹越三叉「世界の日本乎、アジアの日本乎」(「国民之友」)。「世界の日本」を縮めて「亜細亜の日本」にするなと強調。

4月13日

愛媛県尋常中学校で送別会。橋本好蔵(習字・漢学)・石川一男(博物。帝国大学理科大学卒)・山木孝太郎(数学)・石川桓年(図画)の4人の送別会を梅の舎で催す。

4月13日

一葉に大橋乙羽より、「ゆく雲」原稿受領の礼状。また、雑誌掲載の慣例に基づき、一葉の略歴を送るよう求められる。


つづく


2024年5月28日火曜日

火事でもラーメン食べ続ける客が…「ラーメン二郎」で火事も「火と煙の中で普通に営業」アブラに引火か?(FNN)

 

自民党のカネの汚さ、果てしない(機密費=公金=裏金)。全貌解明しない限り政治刷新あり得ない。 ⇒ 【証言・官房機密費】選挙の陣中見舞いとして渡された機密費は報告書に記載されず… 自民党派閥の裏金処理と同じ構図(NEWSポストセブン) / 使途非公表の機密費 かつて沖縄の知事選で投入された疑惑も(中国新聞デジタル) / 官房機密費「盆暮れ対策で一定額が届く」 元衆院議長秘書が暴露(毎日) / 歴代官房長官の機密費支出「確認する考えない」 答弁書を閣議決定(毎日) / 「国政選挙で機密費から100万円」元官房長官が証言 陣中見舞いに現金(中国新聞) / 安倍氏、2013年参院選で候補者に現金100万円 「裏金」か(中国新聞);「(13年の参院選は)参院で野党が多数を占める「ねじれ国会」が解消されるかが最大の焦点で、自民党は圧勝し、ねじれを解消した」  「複数の元政権幹部は、使途が公表されない内閣官房報償費(機密費)が使われた可能性があるとの見方を示した…政治資金規正法違反(不記載)などに当たる可能性も」      






大杉栄とその時代年表(144) 1895(明治28)年4月8日~10日 ロシアなどの対日干渉の予兆 漱石、松山に赴任 子規、宇品出航 

 

新潮社日本文学アルバム 夏目漱石

大杉栄とその時代年表(143) 1895(明治28)年4月1日~7日 星亨、朝鮮政府の日本人顧問官となる 与謝野鉄幹(22)、「乙未義塾」日本語教師となる 第4回内国勧業博覧会、黒田清輝「朝妝」が騒がれる 樋口一葉「軒もる月」 漱石、松山に向かう 子規に出動命令 子規の従兄弟古白がピストル自殺 より続く

1895(明治28)年

4月8日

下関講和会議。伊藤、李経方(鴻章負傷で7日付で全権昇進)と非公式に会見。日本の「武員」は休戦を中止し北京侵攻を求めているとして、早急の妥協を勧告。事実、直隷作戦準備は進行中。

4月8日

ロシア外相ロバノフ、列国に対し、日本の旅順取得中止を主張する旨通牒。ドイツ・フランスはロバノフ通牒に賛成。17日、対日共同干渉決定

4月8日

英、「タイムズ」、日本の講和条件は英の利益に脅威ない、かえって増進するだろうと述べる。この日、イギリス政府閣議はロシア外相ロバノフの提議を退ける。日本はロシアの南下の防壁の位置づけ。

4月9日

近衛・第4両師団、宇品発。~13日。18日迄には大連湾に集結。講和交渉が進む中、直隷平野決戦の兵力大輸送。

4月9日

漱石、愛媛県尋常中学校(松山中学校)嘱託教員に任命され英語科教師として赴任。

俸給(月額80円)は、前任者の米人教師カメロン・ジョンソンの給与枠をそのままひきついで、校長よりも20円高いという破格の待遇。生徒に 真鍋嘉一郎 松根豊次郎(東洋城)ら。

この日、漱石は、午後、三津浜港着。伊予軽便鉄道で外側(とがわ、松山市)停車場着。明治25年夏に帰省する子規とともに松山を訪ねたとき泊った旅館城戸屋に投宿。城戸屋は漱石を下宿者用の「竹の間」に入れたが、翌日の新聞で、漱石が「学士」で「月給八十円」であると知ると、新館一番の部屋へ移した。

4月10日

下関講和会議。伊藤、9日に提出された中国側修正対案をみて、譲歩案を提出。遼東半島割譲地域の縮小、戦費賠償減じる(3億両5年賦→2億両7年賦)、北京など開市削除、保障占領地から奉天を除き威海衛のみとする。決裂させない、陸軍に直隷作戦を実行させない、列強の干渉を排除する、などを考慮。天皇も伊藤に同意

4月10日

漱石、愛媛県尋常中学校に初出勤。漱石は、顔の疱瘡の痕から「鬼瓦」という仇名をつけられた。


「四月十日(水)、愛媛県尋常中学校嘱託教員任命の辞令発令される。新学年の授業が始る。嘱託教員なので、学級の担任や宿直などの雑務はない。教室でも職員室でも、俳句集を手離さぬ。(真鍋嘉一郎)同僚の教師たちと親しく話すことはなく、超然としている。(渡部政和)横地石太郎に、「学校にどんな本があるのですか」と聞き、書庫へ案内され、藩校時代の『陶淵明集』(二冊)を借り出す。(横地石太郎)(教壇での服装については、洋服という説と和服という説がある。四年生と五年生は、Washington Irving (アーヴィシグ、1783-1859)の The Sketch Book (1819-20)を教える。(真鍋嘉一郎「漱石先生の思ひ出」日本医事新報 昭和十五年六月十五日)同級生の村井宰は、Milton(ミルトン)の伝記を習ったという。また、Longman Readers を教えたとも伝えられる。Dixon (ディクソン)の Composition を読むように繰り返しいう。) 真鍋嘉一郎.松根豊次郎(東洋城)・桜井忠温・片上伸・今井嘉幸ら在学している。桜井忠温は、時々遊びに来る。(伊藤整)生徒数四百四十一人。」(荒正人、前掲書)

■漱石が松山行きを決意した原因


「少し前の漱石研究では、赴任するに至った裏には子規の斡旋が預って力あるもの - 例えば鶴本丑之介「俳人漱石と松山」など - とあり、その動機は、松山には同臭の旧友子規・虚子等がいたことが、大に与って力があったと思われる、と松山中学で漱石の同僚、校長だった横地石太郎「坊ちゃん時代の漱石」で述べている。漱石の弟子森田草平も、子規との交遊、一八九二(明治二五)年七月に松山に帰省中の子規を訪ねていることなどが、松山中学に赴任するような気持になったのも、こんな処に胚胎しているらしい(『夏目漱石』)と述べている。

妻鏡子は、女性の問題で悩んだ結果、持ち前の偏屈さと、一生つきまとった神経病または精神病から起こった突発的な出来ごとだ(『漱石の思い出』)という。

伊藤整は、漱石は前年春に血痰を見て、結核で死んだ兄の運命と同様になるのではないか、と怖れたこととか、講師の高等師範学校が教師をうるさく束縛するので、とかいろいろな学的精神的な悩みなどが原因で、「言わば東京から何もかも棄てる気で逃亡」したのだ(『夏目漱石』)と。

今西順吉も似たような、次のような見方をされている。とくに、松山赴任前年前後の漱石は、寄宿舎で大塚(小屋)保治と一緒だったり、狩野亨吉、菅虎雄が引きとったり、再就職の相談に乗ったりで、大変な迷惑と心配をかけていた時期である。この三人が当時の漱石について固く口を閉ざしているのは、とうてい世間の理解を得られそうもない問題が、漱石の一身上に起こっていたからであろう(『漱石文学の思想』一部)。


「誰が漱石を松山中学に紹介したのか、については、漱石の学生時代からの親友菅虎雄が、「”坊っちゃん”由来を語る」の中で、愛媛県書記官の浅田とかいう人が来て、松山中学に英語の先生が欲しいという。漱石に話をすると行ってもよい、と言う。そこで坊っちゃん先生が赴任した訳です。と語っていることから、漱石を松山中学へ紹介したのは菅虎雄である。菅(一八六四-一九四三)は、ドイツ語学者、五高、一高、三高の教授を歴任したが、五高、一高では漱石の同僚でもあった。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』)

「極めて曖昧で、直矩は失恋説を取る。小宮豊隆はそれを否定している。漱石は自分は何もかも棄てる気将で松山に行ったのだと語っている。直矩は法蔵院に毎日のように通い、松山に行くことを止めたが、聞き入れられない。(赤木桁平)嘉納治五郎や直矩、伝通院の和尚(直矩からも依頼)なども引き留める。前述の失恋説は、鏡も漱石と結婚した後に、断片的に聞いたらしい。それを漱石の追跡症と結びつけて解釈したもので、俄かに信用し難い。」(荒正人、前掲書)


「学校を出てから伊予の松山の中学の教師に暫くいつた、あの『坊ちやん』にあるぞなもしの訛を使ふ中学の生徒はこゝの連中だ、僕は『坊ちやん』見たよなことはやりはしなかつたよ、しかしあの中にかいた温泉なんかはあつたし、赤手拭をさげてあるいたことも事実だ、もう一つ困るのは松山中学にあの小説の中の山嵐といふ綽名の教師と寸分も違はぬのがゐるといふので漱石はあの男のことをかいたんだといはれてるのだ、決してそんなつもりぢやないのだから閉口した。」(談話「僕の昔」)


しかし漱石は、自身の教師としての適性に疑いを抱いていた。


「余は教育者に適さず、教育家の資格を有せざればなり、其不適当なる男が、糊口の口を求めて、一番得易きものは、教師の位地なり、是現今の日本に、真の教育家なきを示すと同時に、現今の書生は、似非教育家でも御茶を濁して教授し得ると云う、悲しむべき事実を示すものなり」(「愚見数則」)

4月10日

子規(29)、宇品出港,近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で森鴎外を訪問。この従軍は子規の病状を一層悪化させることになる。

子規のこのときの高ぶる心魂と出港のさいの光景(最初の従軍記事「羽林一枝」(「日本」4月25日))


「此大戦争の結果は巳に今日に於て我日本帝国の上に幾多の光栄を添へ幾多の名声を博し今迄は白雲漠々の間に埋没せられたりと思惟せし欧米人が思はぬ空に冨獄の高きを仰ぐに至りたり。此名誉を購ひ得たる者は何ぞ神州武士の紅血と帝国臣民の赤心とに外ならず。而して吾人身を筆硯に委する者特に社会の耳目となり国民元気の幾分を鼓舞せずして可ならんや。(中略)大盤鯨鯢(げいげい)の如く動き初めて徐ろに万檣林裡(ばんしやうりんり)を出づ。暮色蒼然芸備の山脈烟靄の間に没し去れば唯我船の波浪を破る音のみ微かに聞えたり。壮快言ふべからず。」

この日は朝から晴れ上がり、桜の花が満開だった。手品に向かう途中、桜の美しきに心惹かれながら、子規は、「陣中日記」に「道すがらの桜花桃花紅白に乱れて風流ならぬ旅路さすがに心残るふしなきにもあらねど一たび思ひ定めたる身のたとひ銃把る武士ならぬとも再び故国の春に逢はん事の覚束なければ」として、


行かば我れ筆の花散る処まで

出陣や桜見ながら宇品まで


と、二句詠んでいる。

子規の乗った輸送船海城丸は、800トンの小さな船だが、それでも子規の目には山のように映ったらしく、「やごとなき貴人の御召船と聞えければ船体山の如く客室など夥しう列りたるさま更に海の上に浮びたるものとは見えず」(「陣中日記」)と記している。

ここに「やごとなき貴人」とあるのは、北白川官能久親王のことで、親王は近衛師団長として出征するものの、下関条約の締結を受け、台湾が日本に割譲されることに台湾現地民が反対し、抗日運動に立ち上がったのを受けて、その鎮圧のため台湾を転戦、途中マラリア熱にかかり、行軍中に死去してしまう。

期待を大きく膨らませて船に乗り込んだ子規だったが、その期待はすぐに裏切られ、子規は、日本の軍隊の酷薄な実体に直面する。従軍記者用として案内された船室のあまりの狭さと汚さに驚き、辟易させられた。


「我等は舳の方甲板の下に棚を釣りたる処に導かれたり。辛じて棚の上に坐を定む。坐狭く兵士と共もに並べり。頭は頭に接し肘は肘に触れ立てば首を俛し寝ぬれば脚を屈む。五尺の身を二尺四方に縮めて手荷物の陰に息を殺せども猶恐ろしき事ども多かり。我室の向ひには鉄網を張りて中に牛肉野菜など総て食料を貯ふ。其傍に階子(ママ、梯子)あり之を下れば馬厩にして輸卒馬卒等は馬と共に起臥せりとぞ。」


子規は、翌明治29(1896)年1月13日から「日本」に連載した「従軍紀事」の中で、従軍中の待遇について実例を挙げて記している。

子規の怒りは次の四つに向けられている

① 「小石の如き飯はあり余れども三椀と喰ふに堪へず。菜は味噌、梅干、佃煮の如き者一種にてそれさへ十人の食に足らず」と食事のあまりに粗末なこと。

② 睡眠用に作られたスペースがあまりに狭く、窮屈で寝られないこと。

③ 従軍記者に指示を与える曹長の言葉が「牛頭馬頭の鬼どもが餓鬼を叱る」ように粗暴で、態度が横柄なこと。

④ 神官と僧侶には優遇的待遇を与えるなど、従軍記者を意図的に差別していること。


食事は、「飯は砂のやうな堅い飯で、菜は梅干か高野豆腐かの類にきまって居る」 (「我が病」)と、あまりにひどくてまずい。くわえて、茶わんや箸は洗わないので、飯粒がこびりついていたりして不潔極まりない。新聞記者も当番制で一般兵卒に交じって食料を受け取りに行かなければならない。その際の混雑と、われ先にとひしめき合うほかの班の兵には足蹴にされ、食券を配る曹長や炊事担当の兵卒からは、罵言雑言を浴びせられ……。


4月10日

スウェーデン探検家スェン・ヘディン、タクマラカン探検のためメルキット出発。5月6日、遭難。従者3人など失い助かる。


つづく

2024年5月27日月曜日

グザヴィエ・ドラン、カンヌで、、、審査委員長を務めたある視点部門の閉会式。映画祭の現実逃避的側面を指摘し、「パレスチナ人であれ、ユダヤ人の人質であれ、母や娘であれ、中東の姉妹たち、兄弟たちへの連帯をここで表明しなければ僕は責務を怠ったことになります」   

 

大杉栄とその時代年表(143) 1895(明治28)年4月1日~7日 星亨、朝鮮政府の日本人顧問官となる 与謝野鉄幹(22)、「乙未義塾」日本語教師となる 第4回内国勧業博覧会、黒田清輝「朝妝」が騒がれる 樋口一葉「軒もる月」 漱石、松山に向かう 子規に出動命令 子規の従兄弟古白がピストル自殺    

 

黒田清輝『朝妝』

大杉栄とその時代年表(142) 1895(明治28)年3月16日~31日 小屋保治と大塚楠緒子が結婚 澎湖島占領 下関講和会議始まる 李鴻章、狙撃され重傷 「大刀会」成立 日清休戦条約調印 一葉「たけくらべ」(七)~(八)発表 より続く

1895(明治28)年

4月

星亨、井上公使の斡旋により、この月、法部衙門顧問官に任命され、朝鮮内政改革に携わることになる。他にも、陸軍、大蔵省、警察などに日本人顧問官が配置。

星は第4回総選挙(27年9月)で再選され自由党に復帰するが、除名後に、党内主流から外れている。また、第3回総選挙で旧大日本協会系の対立侯補と激戦し、選挙戦で借金は増え続け、資金的にも窮地に陥る。この年1月、失意の中で朝鮮に渡航。前年10月、駐朝鮮公使として着任している井上馨は星に朝鮮内政改革への参加を勧め、星もこれを受け入れる。星は一旦帰国し、3月、配下の壮士を伴って再び朝鮮に渡る。

後、三国干渉により日本の非力が露呈すると、事大党は親露派として再び勢いづき、6月、井上公使が事態打開の政府との協議に帰国すると、ロシア公使と提携し親日派を失脚させ、政権に返り咲く。星ら朝鮮政府内の日本人顧問官はこの間なすすべもなく、朝鮮王室とロシアの権謀術数に翻弄。井上は改革の業績を残すまもなく帰国し、後任に陸軍予備役中将三浦梧楼が任命。三浦は周囲を国権派で固め、星を重んじようとしなかった。

4月

陸相山県有朋「兵備ヲ設クルニ付テノ奏議」。陸軍兵力倍増を主張。

「従来ノ軍備」を「専ラ主権線ノ維持ヲ以テ本トシタルモノ」とし、「進ンデ東洋ノ盟主トナラント欲セパ必ラズヤ又利益線ノ開張ヲ計ラゲル可カラザルナリ」。「主権線ノ維持」の為には「利益線」(=朝鮮)の「保護」(=支配・侵略)が必要とし、攻撃的軍事力の飛躍的増強の必要性が的確に認識される。こうして、6師団(及び近衛師団)を12師団(及び近衛師団)に倍増して装備を改良し、更に広大な大陸での戦闘に適した独立騎兵2旅団と強力な重砲を有する独立砲兵2旅団を新設する陸軍拡張計画が作成され、議会承認を得ることになる。

4月

与謝野鉄幹(22)、「二六新報社」退社、京城に渡っていた鮎貝槐園(落合直文の弟)の招きで朝鮮政府設立の学校「乙未義塾」(いつびぎじゅく)(槐園が総長・校長)に、日本語教師として招かれる。

5月、新体詩「凱旋門」。隣国を夷狄から解放し日本文化を定着させるという国士的思想。

7月、腸チフスで漢城病院に60日間入院。領事館補堀口九萬一(大學の父)が見舞い、その枕元で閔妃暗殺の打合せ。

10月、閔妃殺害事件取調べを受け、腸チフスで入院中であったことから広島に護送されて帰国。この間、詩集「東西南北」を纏める。

4月

後藤宙外「ありのすさび」、島村抱月「悲劇論」(「早稲田文学」)

4月

泉鏡花「夜行巡査」

4月

この月の一葉「しのぶぐさ」に、

「一人の為に死なば、恋しにしといふ名もたつべし。万人の為に死ぬればいかならん。」(明治二十八年四月)

4月1日

下関講和会議。陸奥外相、講和条約案を手交。李鴻章は本国に打電、米人外交顧問フォスターの意見により英露仏3国公使に対し、朝鮮自主、奉天周辺・台湾・澎湖割譲、償金のみ開示し、承服できない内容であると説明するよう指示。また、3日、会議は前途多難と報告。

4月1日

第4回内国勧業博覧会、岡崎公園。黒田清輝の裸体画「朝妝(ちょうしょう)」に対して、展示の賛否両論。~7月31日

4月2日

石川啄木(9)、盛岡高等小学校(現下橋中学校)に入学。この日、同校4年生の金田一京助と知り合う。

4月3日

政府、英米仏露4国に、6日、独伊2国に、講和条件の全部を通告。4日、ドイツ外相マルシャル、ロシア駐在大使に反対の意思を伝える。

4月3日

一葉「軒もる月」(『毎日新聞』3日、5日)。3月末、毎日新聞の戸川残花(「文学界」客員)の依頼を受けて

〈あらすじ〉

上野の鐘が九時を知らせるのを聞きつつ、袖は夫の帰りを案じざるを得ない。子供たちのために残業をしている夫の身体を心配しつつ、彼女は軒ばの月に眺め入り、ため息をもらすのである。

彼女の脳裏には、かつて小間使いとして仕えていた桜町の殿の面影がやきつて離れない。自分を愛し、職工のの妻となった今でも、幾たびも手紙で愛を求めてやまない殿のことが忘れられないのである。

もちろん、袖は律義で子煩悩な夫や幼い乳のみ児を妻や母として愛しており、手紙をひらくことすらしていない。

しかし、袖は殿の面影を消し去らないのでは、二心の不貞の女子と言われても仕方がないと思い悩む。

ついに彼女は手紙を読むことで自分の心の清濁をはっきりさせようとする。

激しい愛の言葉に眼をさらしつつ、袖はしだいに放心状態におちいっていく。

殿も夫も子供も私にとっていったい何だというのか、と彼女は虚無的に高く笑い、淡々と手紙をちぎり、炭火に投げ入れる。

そんな彼女を軒もる月光が清々しく照らしだすのである。

出典;樋口一葉小説 第十三作品「軒もる月」のあらすじ


ラストの部分

「女は暫時(しばし)悾惚(うつとり)として、そのすゝけたる天井を見上げしが、蘭燈(らんとう)の火(ほ)かげ薄き光を遠く投げて、おぼろなる胸にてりかへすやうなるもうら淋(さび)しく、四隣(あたり)に物おと絶えたるに霜夜の犬の長吠(とほゞ)えすごく、寸隙(すきま)もる風おともなく、身に迫りくる寒さもすさまじ。来(こ)し方(かた)往(ゆ)く末(すへ)、おもひ忘れて夢路をたどるやうなりしが、何物ぞ、俄(にはか)にその空虚(うつろ)なる胸にひゞきたると覚しく、女子(をなご)はあたりを見廻して高く笑ひぬ。その身の影を顧り見て高く笑ひぬ。「殿、我(わが)良人(をつと)、我子(わがこ)、これや何者」とて高く笑ひぬ。目の前に散乱(ちりみだ)れたる文(ふみ)をあげて、「やよ殿、今ぞ別れまいらするなり」とて、目元に宿れる露もなく、思ひ切りたる決心の色もなく、微笑の面(おもて)に手もふるへで、一通(いつゝう)二通(につう)八九通(はつくつう)、残りなく寸断に為(な)し終りて、熾(さか)んにもえ立つ炭火の中(うち)へ打込(うちこ)みつ打込みつ、からは灰にあとも止(とゞ)めず、煙りは空に棚引(たなび)き消ゆるを、「うれしや、我(わが)執着も残らざりけるよ」と打眺(うちなが)むれば、月やもりくる軒ばに風のおと清し。」

樋口一葉『軒もる月』(青空文庫)


4月3日

「黄海道の残賊征討」(『東朝』4月3日付)と「黄海道の残賊追討」(『日本』4月4日付)、

仁川守備隊から抽出された予備隊が、3月30日黄海道の海州付近の東学1,500名と戦い撃退した戦闘報告で,米穀200石を押収したが運搬困難なため「悉皆焼棄」したという高井兵站監(在仁川) から大本営への報告文。

『東朝』と『日本』で掲載された東学との戦闘記事はこれがほぼ最後。

4月5日

下関講和会議。李鴻章、伊藤に長文の覚書。清国領土割譲は清国の復讐心を高め将来の日清協力を困難にする。日清間の紛争は東アジアに対する列強の侵略を誘起する。日本の国計・民生は、日清両国の親睦に依存するところ大であり、日本は講和条件を緩和すべきである。陸奥は国内世論に配慮してこれを無視。

4月7日

漱石(28)、愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任のため東京を出発。漱石の俸給は校長よりも高く月額80円という破格の待遇。

4月7日

子規の属する近衛師団に出動命令下る。

子規、4月10日に海城丸に乗船せよとの命を受ける。"

4月7日

午前、子規の従弟、藤野潔(古白、東京専門学校在学中)が湯島切通しの親戚の家でピストル自殺を図る。弾丸は前額に撃ちこまれたが、即死ではなかった。医科大学附属病院で摘出手術を受けたのち、12日に絶命。


参考記事

日下徳一『子規山脈 師弟交友録』(古白と鼠骨)(メモ1)「子規は大学予備門の受験準備を始めるため、古白の通っていた須田学舎へ入学し、しばらくの間であったが、十三歳の古白と十七歳の子規が同じ塾舎で学ぶことになったのである。さらに、その年の十月には、友人の清水則遠といっしょに神田中猿楽町の古白の父藤野漸の家の二階に下宿することになり、一年足らず、子規は古白と文字通り寝食を共にした。」

日下徳一『子規山脈 師弟交友録』(古白と鼠骨)(メモ2)「常識からいえば、無名の一青年の処女作が世に容れられなくても、死を選ぶほどのことはない。しかし、明治という時代の反映なのか、その頃、文学や哲学を志す若者の間で自殺する者も多く、古白の死の前年の五月には、北村透谷も二十七歳で自殺している。 古白の自殺の原因についても.....古白の自尊心の強い病的な性格が原因だったと見るのが妥当なようだ。」

日下徳一『子規山脈 師弟交友録』(古白と鼠骨)(メモ3)「死の前年、明治三十四年十月十三日の『仰臥漫録』・・・子規は誰ひとりいない病床でしゃくり上げて泣き出すのである。それから、死の誘惑を払いのけるがのように枕元の小刀と錐をスケッチし、「古白曰来」(古白来レト曰フ)の四文字を書き添えた。」


つづく

維新・中条きよし参院議員、公式YouTube動画制作に税金から500万円支出 チャンネルでは「ネコと戯れるだけの動画」も(newsポストセブン5/27) / 「高利貸し」疑惑に反論の中条きよし議員 「金利60%で1000万円」契約書が物語る“義理人情”とは思えない貸し付けの実態(NEWSポストセブン) / 維新・中条きよし議員の『金利60%』貸し付け疑惑…事務所側が否定『契約書に利子記載なく…無利子で貸し付け』(TBS) / 「誰も注意できない」中条きよし議員“違法貸し付け”疑惑 政治生命はおろか「タレント生命もアウト」(Friday) / 中条きよし参院議員に松井一郎氏が通告「潔く辞職すべき」「違法金利はダメ」(東スポ) / 中条きよし参院議員「金利60%で知人に1000万円」高利貸し 「出資法違反の疑い」との指摘も / 中条きよし・維新参院議員 芸能活動引退のはずが「カラオケ大会」で“おひねり営業”の現場 / 過去にはコレも ⇒ 維新・中条きよし氏、国会質疑で新曲PR 発言取り消しを検討(朝日) / 35年間“年金未納 中条きよし議院 深く反省  

 



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またまた維新! → 年金保険料“未納”報道 中条きよし議員「記憶にない」(日テレ) / 「僕は噓をつきませんから」維新・中条きよし議員 年金未納報道に対して「事実関係を確認して報告する」(TBS) / 「もらう気ないから払わない」中条きよし議員が750万円“年金未納”か 党代表も「政治家として非常識」(FNN) / 中条きよし参院議員「年金保険料750万円未納」報道に《議員資格なし》と怒りの声が殺到!(日刊ゲンダイ)






 



 

2024年5月26日日曜日

長徳2年(996)4月 伊周・隆家に流罪の決定 検非違使が二条邸を包囲(長徳の変)

東京 北の丸公園
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長徳2年(996)
3月4日
・夜、妊娠中の中宮定子は宮中から退出して二条邸に入った。
中宮のお産退出には多くの公卿がお供するのが常例であるが、この日の退出に従ったのは、縁の深い3人だけ、他の公卿は差し支えがあるといって姿を見せなかった。
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3月27日
・東三条院詮子は病気の気味であったが、この日になって、俄かに重くなった。
そして、これは呪詛によるものだ、女院の寝殿の床下から、厭物(ようもつ、人形のようなもの、まじないの物)が掘り出されたなどという噂が立った。
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4月1日
・伏見の法琳寺から、伊周が私(わたくし)に大元帥法(だいげんのほう)を行なわせているとの密告があった。
大元帥法とは密教の修法で、最も重大な秘法であり、臣下がこれを行なうことは絶対に許されないものである。伊周の逃れる術はなくなった。
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4月24日
・暁、宮中の諸門は閉じられ、召集を受けた公卿が参内。
その間、道長は天皇の前で除目を行ない、伊周を大宰権帥に、隆家を出雲権守に左遷すると発表。
直ちに流罪の宣命(詔勅)が作られる。
高階信順(さねのぶ)・道順(みちのぶ)も伊豆と淡路の権守に流された

罪状は、
一、花山法皇を射たこと、
二、東三条院を呪詛したこと、
三、大元帥法をおこなったこと、
の三箇条である。

固関使派遣の手続きがとられ、検非違使に犯人の逮捕・護送の役が割り当てられた。

宮中には朝から馬寮の馬が用意をととのえ、平維叙(これのぶ)・源頼光(よりみつ)などの高名な武者たちも召されて詰めている。東三条院にも近衛府の兵が警備に派遣された。

検非違使は直ちに二条邸を包囲
二条邸には、伊周の妹の中宮定子、伊周、隆家、母の高階貴子、伯父の高階信順(さねのぶ)、道順(みちのぶ)が寝殿に篭っている。信順、道順も、それぞれ伊豆、淡路へ流されることに決している。
二条邸包囲の指揮官、当時第一の法律家、検非違使惟宗允亮は、邸内入って宣命を読み上げ、伊周に出て来るように促す。
中からは病気で動けないとの返事があり誰も出て来ない。
家の戸は全て厳重に閉ざされている。
相手は身分の高い貴人であり、ことに中宮がいるというので、検非違使も踏みこんで行けない。

允亮は使いを走らせて内裏にこの由を報告すると、折り返し、早く捕えよとの命令が来る。
その間、変を聞き、伊周護送の光景を見ようとするやじうまで、二条大路は黒山の人だかり。
処分決定から4日を経ても検非違使は動けなかった
中宮が伊周の手を取って離れないので、手がつけられない。
邸内には検非違使の手下はもとより、やじうままで入りこんで待ち構えていたが、屋内から泣き声が絶えず聞こえ、人々は涙を催した。
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