尹東柱の生涯(1)1917年12月30日 北間島明東村に生れる 「彼(東柱の父)は「詩的気質の人物」だったといい、とりわけ教会で公衆祈祷をするとき、彼の言葉はいかにも詩的だったという。」
より続く
尹東柱の生涯(2)
1922年 尹東柱5歳
明東学校の復旧と日本語教育
1921年、中国の監獄から金躍淵が、足掛け3年ぶりに出獄。金躍淵は再び校長になり、学校の借金返済のために東奔西走した。また、彼は北間島に来ていた日高丙子郎(へいしろう)という日本人の「大物」と会って交渉し、「日本軍が焼いてしまった明東学校のレンガ校舎を、日本が元どおり原状復旧せよ」と要求した。
日高丙子郎は、「明東学校で日本語を正規科目として教えねばならぬ」との条件を付けたが、金躍淵はその条件を受け入れた。こうして日本政府の金で日本人によってレンガ校舎が、以前あった場所に火災前とまったく同じ姿で復旧された。
そして、二代目の日本語教師として赴任してきたのが韓俊明(ハンジュンミョン)であった。彼は明東小学校卒業後、龍井にある恩真中学校(四学年)に入った。そこを1926年4月に卒業し、9月から母校の明東小学校の日本語教師となった。
これらのことを、学校校舎の復元のために日本語を教え習わせよという要求に屈服したとばかりはみることはできない。
1932年に尹東柱が龍井の恩真中学校に進学したとき、そこの教科書は全て日本語のものだけになっていた。つまり、日本語を学ばなければ上級学校への進学がまったく不可能というのか当時の教育界の実情だった。従って、レンガ校舎復元ばかりでなく、日本語強要の構造全体を考えた、現実的な対応をせざるを得なかった妥協の結果とみるのが正しい。
1923年9月
父の尹永錫が東京に留学中、関東大震災に遭遇。
1924年12月 尹東柱7歳
妹の尹恵媛ユンヘウォン、出生。
1925年4月4日 尹東柱8歳
明東小学校に入学。同学年にいとこの宋夢奎、文益煥、父のいとこ尹永善、母方のいとこ金禎宇らがいた。
金禎宇キムジョンウの回想
尹東柱の家は学校村にあって、いい暮らしをしているほうだった。当時、米づくりをする家というとその大きな村に何戸かあるだけだったが、そのいくつかの家の中に東柱の家も含まれていた。
彼の家は学校村の入り口の最初の家だった。柏の木が茂った低い丘のすそに教会堂があって、その横にふた棟の家がある、その手前の家だ。彼の家は真南向きの大きな瓦葺の家で、背面と左右にはそんなに大きくない果樹園があり、・・・
家の大きな大門を出て左へ回り広い道に向かうと、東側の犬岩の上へ追いかけてきた陽光が、生い茂った柏の上方、教会堂の鐘楼の十字架を照らしている光景を、彼はいつも見ただろう。その十字架はキリストの十字架の釘のように彼の心にしっかりと刻まれたのだろう。・・・(「十字架」)
明東小学校4学年のとき担任の先生だった韓俊明牧師の回想
尹東柱は気性がとても穏やかでした。ひじょうにすなおで。だからよく泣いたし…・
誰かがちょっとでもとがめたらすぐ目に涙がじわっとにじんだんです。友達が嫌な声を出してもそうだったし・・・。ははは! もともと才能のある子でしたよ。勉強もよくできるほうでした。それでもたまたま問答するときに答えが出ないと、すぐに涙がじわっと浮かぶんだ。宋夢奎は、そのときの名前は韓範ハンボムといっていたが、こいつはいつもロが達者でびっくりするようなことをする奴だったね。東柱と韓範はいつも一つの机に並んで座っていましたよ。容姿となると文益煥がいちばん男前だった……。
東柱のお祖父さんがその村でいちばん裕福でした。畑が多かったから。家にいつも馬を飼っていて、出かけるときにはそれに乗っていきましたよ。息子に東京留学もさせたし・・・・・
1927年 尹東柱10歳
第1次間島共産党事件
1927年12月
弟の尹一柱ユンイルジュ、出生。
1928年9月
第2次間島共産党事件
1928年 尹東柱11歳
ソウルで刊行された子ども雑誌『子ども生活』の長期購読を始める。
宋夢奎は『こども』を購読。
彼らが読んだあと村の子どもたちが回し読みした。
級友たちと『新しい明東』という謄写版雑誌をつくる。
1929年4月 尹東柱12歳
明東小学校が「教会学校」の形態から「人民学校」になったが、9月には中国当局によって中国の公立学校に強制変更、延吉の教育局管轄下に入る。以降、中国人巡査が銃をもって学校を見張るようになる。
『朝鮮日報』1929年9月14日付、「延辺(北間島)朝鮮人学校、いっせいに公立に編入、応じなければ『私校入案条例』に依拠〔して処罰〕」と報道
明東小学校が「教会学校」から「人民学校」に変わっていく過程で小学生だった宋夢奎が父、宋昌義(教師)に従って演説を行ったとの、金信黙ハルモニの回想。
母方の叔父・金躍淵、平壌長老教会神学校に入学。
1930年 尹東柱13歳
明東学校を取られた金躍淵は、1年間の修学後、牧師になり、明東教会に赴任。
明東で共産テロ盛んになる。
明東の財産家や民族主義者たちは明東を離れ、都会へ出て行った。
尹東柱は明東のこの状況を見ながら、「ついにマルキシズ自体に対しては完全に嫌気がさしてしまったようだ。
それは彼の親友・宋夢奎の場合を見ればより鮮明に証明できる。宋夢奎は「人民学校への接収」のために、幼い年で大人たちを相手に演説までしてまわるぐらい積極的だった。しかしその後の事態に接して、マルキシズムをそのまま「卒業」してしまった。彼が一九三五年に洛陽軍官学校に行ったとき、その中には無政府主義派をはじめとしたさまざまな派閥があったが、彼はもっとも民族主義者であった金九派に所属したし、その後、一生を通じてふたたびマルキシズムに首を振りむけることはなかった。
尹東柱の徹底した民族主義志向の内面には、このように明東でむやみにおこなわれた共産テロが引き起こした恐怖と血のにおいが、追憶のように隠れているのである。」
1930年3月
第3次間島共産党事件
同5月
第4次間島共産党事件(「間島五・三〇暴動」)
1931年3月20日 尹東柱14歳
尹東柱、明東小学校を卒業。明東から約4km南にある大拉子ダーラーズの中国人小学校6学年に転入学(1年間修学)。宋夢奎・金禎宇らも一緒。
つづく