2019年9月30日月曜日

鎌倉 鶴岡八幡宮の彼岸花 2019-09-30

9月30日、曇のち晴れ
鎌倉、鶴岡八幡宮の彼岸花。
神社東側(向かって右側)側面と源氏池の石碑前。
(石碑前のものは今年初めて気付いた)

ゴメンナサイね、既に英勝寺で圧倒的な彼岸花を堪能しているので、感動薄め。

鎌倉駅では「試運転」と書かれた列車が停車していた。
ググったところ、このところ横須賀線で試運転が繰り返されている215系という車輛とのこと。既に他で運転されていた車輛で、横須賀線では初めてということでの試運転らしい。

今月の総平均歩数10,259歩/日。1月~9月の累計総平均10,459歩/日。
取敢えず目標は達成。







【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その2)「このようにして、毎日、東京で在日朝鮮人ばかりでなく、朝鮮人にまちがえられた日本人、朝鮮人を助けようとしだ日本人までが殺されるという数々の悲劇がつくりだされたのである。現に、私がのちに下宿した蛇窪の農家の主人は、自警団員として、日本人をまちがえて殺してしまった。このことで数か月の刑を受けたのである。彼はその後の生活が自暴自棄となり、家族たちまでがながく不幸を背おわされることになった。」   

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その1)「朝鮮人の来襲の話はデマだということが分かったが、横浜方面から避難してきた朝鮮人は容赦なく自警団の手で殺された。この事変で重傷を負い、あるいは無残にも殺された朝鮮人が続々と品川警察署へ担架で引き取られ、あるいは引張られて行くのを見て、私は悲壮の感に打たれた。.....途中で人が黒山になって騒いでいるのに出あった。何かと見ると、朝鮮人が2人電柱に縛りつけられているのであった。」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;渋谷区〉
田島ひで〔政治家、婦人運動家〕
〔1日夜、代々木初台で〕そのうち「朝鮮人の襲撃がある」「鮮人が放火をしている」「井戸に毒を入れた」などということが伝えられた。男という男は一人残らず、なんでも手もとにある武器を持って家の外に立つようにとのこと、女、子供は家の中で待機すること、というふれである。家の中にはいれば余震におびやかされる、家の外に出れば朝鮮人の襲撃がある、というので人々は戦々兢々として身のおき場のない思いだった。
〔略〕私が留守居を頼まれた家の主人は近衛師団の若い将校だったので、2、3日すると、兵隊が2人、家の番をかねて食糧をもってやってきた。その日のことである。朝鮮人を捕えた群衆が、兵隊がいるというので私たちの家に連れてきた。見ると、1人の男を武器を持った群衆がとりまいている。人々の言うには、その男の身なりが朝鮮人そっくりだというのである。彼は白い立縞の洋服をきて、水筒をかけ、一見、朝鮮人というより中国人を思わせるものがあった。彼は自分が日本人であることを一生懸命弁解しているが、群衆はきこうともしない。双方が興奮している。「交番につれていったがお巡りではよう殺さんので、兵隊がいるこの家に連れてきた、水筒には毒がはいっている」というのである。東京のまん中の出来事として、まことにうそのような事実である。
捕えられた男は、これから田舎にゆくところで、自分は日本人であること、水筒に毒などはいっていない、といって、私たちの目の前で水筒の水をのんでみせた。しかし、彼の言葉はデマゴキーにたけりたった群衆の耳にはいりそうもない。いろいろな武器を手にした自警団員という群衆は、殺気だっている。私は、ともかく兵隊と話し、まずなによりこの人の言う、家族に知らせねばならないということになった。さいわい、この騒ぎをききつけて家族の人がとび込んできた。
〔略〕このようにして、毎日、東京で在日朝鮮人ばかりでなく、朝鮮人にまちがえられた日本人、朝鮮人を助けようとしだ日本人までが殺されるという数々の悲劇がつくりだされたのである。現に、私がのちに下宿した蛇窪の農家の主人は、自警団員として、日本人をまちがえて殺してしまった。このことで数か月の刑を受けたのである。彼はその後の生活が自暴自棄となり、家族たちまでがながく不幸を背おわされることになった。このときの朝鮮人の犠牲者は3千人とも6千人ともいわれた。夕方、代々木の原を1人の男が死にもの狂いで逃げてゆく、その後から、わぁ-つ!と叫んで武器を手に追いかけてゆく群衆、それを見ている人々が、朝鮮人だ、朝鮮人だと、憎しみをこめて騒ぎたてているのを、私はこの目で見た。
〔略〕このころは新宿あたりでも井戸水を使用している家が多かった。友人の家を訪ねると、その家の井戸に白ぼくでしるしがつけられており、人々が集まって「このしるしの井戸には朝鮮人が毒を入れた」といって騒いでいた。
(田島ひで『ひとすじの道 - 婦人解放のたたかい五十年』ほるぷ総連合、1980年)
田山花袋〔作家〕
そこには自動車が行く、荷馬車が行く、鈴生の電車が行く、大きな包みを持った避難者が行く、巡査が行く、兵士が行く、キラキラと日に光る銃剣が行く、かと思うと、余程抵抗したと想像される同志の男が、血にまみれたまま3人も4人も数珠つなぎになって引張られて行く - 四谷見付のところにほんのわずか立っていた間にすら私は眼も眩めくような動揺を総身に感じた。
〔略。3日、代々木に帰宅すると妻が〕「どうしたも、こうしたもありやしませんよ。物騒で、物騒で、何をやるかわかりやしないんですもの。外だッて滅多に通れないッていうじゃありませんか?〔略〕何でもいろいろな噂がありますよ。そういうものが100人も堀の内にいて、それが此方にやって来るっていう話ですよ。」
〔略〕1日の夜よりも2日の夜が騒がしく、2日の夜よりも更に3日の夜の騒がしかったことを私は思起した。3日の夜は、いかにのんきな私でも、家の中に入って寝てしまうことが出来なかった。私達は得体のわからぬ人達からいろいろの警告を受けた。ある人は裏から入って来て、「今、大きな揺り返しが来ますから、皆な外へ出ていて下さい」と言った。またあるものは、「私は町の自警団ですが、市ヶ谷の監獄を開いて罪人を釈放したそうですから、皆さんてんでにお気をつけ下さい」 こう表口から怒鳴って行った。いろんなことが刻々に私達を圧迫して来た。益々私達は不安になって行った。
〔略〕もう日がくれかけて、人の顔もはっきりとは見えない頃であったが、俄かに裏の方でけたたましい声がして、「・・・人?叩き殺せ?」とか何とか言って、バラバラ大勢が迫かけて行くような気勢を耳にした。慌てて私も出て行って見たが、丁度その時向うの角でその・:・・人を捉えたとかで、顔から頭から血のだらだら滴っている真蒼な顔をした若い1人の男を皆なして興奮してつれて行くのにぴったり出会した。私はいやな気がした。いずれあの若い男は殺されるだろうと思った。気の毒だとも思った。
(田山花袋『東京震災記』博文館、1924年)

平野忠雄〔日本橋小舟町3丁目で被災〕
3日朝、飯田橋より九段、三番町、三宅坂、赤坂見附、飯倉、一ノ橋、天現寺橋と歩いて広尾にさしかかっだとき、大通り前方から数千の人がこちらへ向かって歩いてくる。聞けば、朝鮮人2千人くらいが日本人を殺しながら押し寄せて来、途中、井戸に毒を投入しているという。私たち親子は先頭となって逃げ、久邇宮邸へなだれ込んだ。
(品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)"

堀直輔「日銀職員関東大震災日記」
〔2日、幡ヶ谷で〕夕方、浜を外界の状況を見聞きさせるため外出させると、鮮人が石油缶を持って数名各所に放火して回っている、警官が抜剣して数名幡ヶ谷の通りを代田橋の方向へ駈け過ぎた、などということを聞いてきた。後ろの広場に避難の用意をする。15歳以上の男は集れというので集合。鮮人防御警備をするという。それから部隊を作って徹夜任務につく。何もなさそうなので大抵は家に戻る。
〔略。3日〕今晩は軍隊と消防隊とにまかせ、吾等の夜警は一時見合わす。ただし銘々で気をつけ、もし事あるときはお互いに叩き起こすこととした。と、12時になって桶だか何だかを叩き起きろ起きろと、どなり散らしているので皆驚き起きた。銘々手に手に武器をもって警戒することにした。時々ワイワイと走り騒いでいたが、それもしばらくするとおさまって、隣の工藤氏と相談、寝ることにした。ところが又も起こされ、笹塚の方から自動車に人が一杯乗ってあたかも何かを追跡しているような風で、何が何だか一向様子がわからぬ。馬鹿馬鹿しくなって僕も寝た。
(青木正美『古本屋控え帳(303)・大震災と書斎書庫(3)」『日本古書通信』2011年9月号、日本古書通信社)

和辻哲郎〔哲学者、千駄ヶ谷で被災〕
〔2日〕不安な日の夕ぐれ近く、鮮人放火の流言が伝わって来た。我々はその真偽を確かめようとするよりも、いきなりそれに対する抵抗の衝動を感じた。これまでは抵抗し難い天災のカに慄え戦いていたのであったが、この時に突如としてその心の態度が消極的から積極的へ移ったのである。自分は洋服に着換え靴をはいて身を堅めた。米と芋と子供のための菓子とを持ち出して、火事の時にはこれだけを持って明治神宮へ逃げろといいつけた。日がくれると急製の天幕のなかへ女子供を入れて、その外に木刀を持って張番をした。
〔略〕夜中何者かを追いかける叫声が所々方々で聞えた。思うにそれは天災で萎縮していた心が反発し抵抗する叫び声であった。
〔略。3日〕自分の胸を最も激しく、また執拗に煮え遅らせたのは同胞の不幸を目ざす放火者の噂であった。
自分は放火の流言に対してそれがあり得ないこととは思わなかった。ただ破壊だけを目ざす頽廃的な過激主義者が、木造の都市に対してその種の陰謀を企てるということは、極めて想像し易いからである。が今にして思うと、この流言の勢力は震災前の心理と全然反対の心理に基いていた。震災前には、大地震と大火の可能を知りながら、ただ可能であるだけでは信じさせるカがなかった。震災後にはそれがいかに突飛なことでも、ただ可能でありさえすれば人を信じさせた。〔略〕そのように放火の流言も、人々はその真相を突きとめないで、ただ可能であるが故に、またそれによって残存せる東京を焼き払うことが可能である故に、信じたのである。(自分は放火爆弾や石油揮発油等の所持者が捕えられた話をいくつかきいた。そうして最初はそれを信じた。しかしそれについてまだ責任ある証言を聞かない。放火の例については例えば松坂屋の爆弾放火が伝えられているが、しかし他方からはまた松坂屋の重役の話としてあの出火が酸素の爆発であったという噂もきいている。自分は今度の事件を明かにするために、責任ある立場から現行犯の事実を公表してほしいと思う。)
いずれにしても我々は、大震、大火に引きつづいて放火の流言を信じた。
(「地異印象記」『思想』1923年10月号、岩波書店)

つづく




63回もの改正を重ねてきたドイツ基本法 ですが、その中には絶対に改正できない条項があります。第1条「人間の尊厳、基本権による国家権力の拘束」、そして第20条「国家秩序の基礎、抵抗権」は改正できないと永久条項(第79条第3項)に定めらています。— ドイツ大使館 / ドイツは60回も憲法改正してるから日本も…が詭弁である理由 (憲法道程)    















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2019年9月29日日曜日

こんな夜更けにミスドかよ 2019-09-28

9月28日(昨日)
昔の会社の同期会があった。
以前ならば宴会後も元気元気、二次会行こうなんてなってたはずなんだけど、昨日はなんとミスドへ。
古稀4人、こんな夜更けにミスドかよ。

会場は戸塚だったので、東戸塚の自宅から歩いた。
7千歩弱と少なく、意外だった。

ちなみに今年はワタクシが同期会幹事を務めた。


9月29日
確か、予報は曇り/雨のはずだったんだけど、朝のうちはなるほど曇りがちだったけど、昼前から午後にかけてはすっかり晴れてきた。
午後、予定外に自宅周辺を散歩した。
秋の空の変化は見ていて飽きない。

今月も1万歩/日は達成できそうだ。


「優秀なインド人が日本から流出している」江戸川区議に初当選したよぎさんが語る在日インド人のリアル ;「いま、日本人から人気を集めている、インド系スクールに通う子どもたちは卒業後どこを目指すと思いますか?彼らは非常に優秀ですが、みんなインドや欧米の大学に進学しています。せっかく日本に来たのに。こうして、もうすでに日本から優秀な頭脳の逆流出が発生しています」



一方、よぎさんは「優秀なインド人の日本離れが進んでいます」と危機感を抱いているといいます。

「インド人が、『日本で働いて仕送りを送り、老後は母国に帰る』という時代ではなくなってきました。

うちの息子は日本の学校に通わせたのですが、中学の時に先生からいじめを受けました。私は彼をイギリスの学校に転入させて、彼は今もイギリスに住んでいます。

また、いま、日本人から人気を集めている、インド系スクールに通う子どもたちは卒業後どこを目指すと思いますか?彼らは非常に優秀ですが、みんなインドや欧米の大学に進学しています。せっかく日本に来たのに。こうして、もうすでに日本から優秀な頭脳の逆流出が発生しています」。



海外勢の日本株投資、アベノミクスを「売り越し」: 日本経済新聞 ; 「日銀が主に相場下落時に買い入れる日本株の上場投資信託(ETF)の累計購入額は26兆円規模に膨らんだ。ピーク時の外国人買い24兆円が丸ごと置き換わった構図だ」   


(略)

注目するのは海外投資家による日本株の累積の売買代金だ。日本株の「買い」と「売り」を相殺したネットの「買い越し」「売り越し」の動向を見てみると、アベノミクス相場下で一貫して買い越しだった海外勢の投資スタンスが最近売り越しに転じたことがわかる。

(略)

アベノミクス相場の起点を12年11月第3週とし、週間データを積み上げると海外勢の日本株の買越額は15年5月に24兆円超まで膨らんだ。それが19年8月第2週に初めて「売り超」となり、8月末では約800億円の売り越しだった。

(略)

海外勢のアベノミクスへの評価が剥落する一方、代わってメーンプレーヤーとしての存在感が増しているのが日銀だ。

日銀が主に相場下落時に買い入れる日本株の上場投資信託(ETF)の累計購入額は26兆円規模に膨らんだ。ピーク時の外国人買い24兆円が丸ごと置き換わった構図だ。

いつか日銀が「売り越し」に転じる時、誰が代わって日本株の買い手となるか――。アベノミクスの帰結はまだみえない。



「ヤベェ本を買ったぞ…」地元にひっそり置かれていた本を紹介、バズる→出版社の電話が鳴り止まない!重版決定!→著者がお礼のためにTwitter始めました - Togetter / 八條忠基『有職故実大全』(平凡社)   








韓国 ; (10/5) 韓国MBCニュースは今日「検察改革」を要求するソウル市にある大検察庁前でのロウソク集会の映像を撮ろうと50mクレーンを設置、300万人が参加と発表。四方へ、いくつもの駅にまたがる範囲に人が溢れた。昨日は大邱テグでも、きは釜山プサンでも大規模なロウソク集会があった。  / (9/28) 「検察改革」「チョ・グク守護」瑞草洞ろうそく集会…主催側「200万人参加」 ; 週末(28日)の文在寅支持集会。日本のテレビはこういうことは伝えないんだろうな。— 中沢けい / 日経、出ました → 韓国法相支持で大規模集会 検察改革を要求(日経新聞) / 韓国法相支持で大規模集会 検察改革要求、通り埋める(共同);「チョ氏に対し家族の疑惑を理由に辞任を求める保守派もデモを開いたが小規模にとどまった」    













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2019年9月27日金曜日

横浜散歩 アメリカ山~港の見える丘公園~山下公園~日本大通り 2019-09-27

9月27日、はれ
久しぶりに横浜、港の見える丘公園へ。
アメリカ山~港の見える丘公園~山下公園~日本大通り
(フランス山は先の台風15号による倒木処理のため立ち入り禁止になっていた)

そろそろバラが.....と期待していたが、まだまだだった。
写真的にはコスモスが主流だったかな。

今日の歩数は1万3千歩。昨日も同じく1万3千歩だった。










関電報告書の詳細判明 1億円超受領でも厳重注意のみ;受領額が最も多かったのは鈴木聡常務執行役員で約1・2億円。現金で約7800万円、3・5万米ドル、金500グラム、スーツ14着など。豊松秀己元副社長も約1・1億円を受け取り、内訳は現金約4100万円、商品券2300万円、7万米ドル、金杯1セットなど / 「一時保管していた」(←ケイサツいらない) / 関電、20人が3.2億円受領 岩根社長は辞任否定(日経) / 〈岩根社長は、今年6月に大手電力10社でつくる電気事業連合会の会長に就任したばかり。八木会長も、11年4月から16年6月まで電事連会長を務めた。八木会長は27日朝、自身の金品の受け取りについて報道陣に問われ、「個人的なことについては一切答えない」とだけ答えた〉 / 「お世話になっている」政治家にも億単位でカネが流れたと考えるのが自然          









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▼こういうこともあった


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藤井聡(元官房参与)「資産を形成するには…、月々の給料が上がる事が必要、にも関わらず、我々の給料は消費増税によって低減。…(中略) …戦後の総理大臣で12%も賃金を下げた総理はいない。ゆゆしき事態だと国民の皆さんに知っていただきたい。」


























2019年9月26日木曜日

鎌倉 英勝寺の彼岸花(曼珠沙華) 白花は満開、赤花は三分咲き 2019-09-26

9月26日、はれ
今日は鎌倉の英勝寺に行った。
彼岸花、白は満開、赤は三分咲きくらいかな。










恥ずかしげもなく....あ....誰も聞いてないのか(自身のインスタ写真でさえ会場スカスカ) → 第74回国連総会における一般討論 安倍晋三「私の国では、長く続いた経済の不調が国民の関心を内に向かせた時期は、過去のものとなりました」












2019年9月25日水曜日

ニンジンの皮もおいしく! 増税に勝つ食べ切り術(日経) / 7月の実質賃金、確報値1.7%減 速報値の0.9%減から下振れ(日経) / 消費増税に節約で勝つ 日常生活品にこそ削る余地あり(日経) / ニンジンの皮食べて増税に勝て”?/「日経」記事が炎上/「アベノミクスの正体バラした」「今は戦時中?」 / 日経「ニンジンの皮もおいしく! 増税に勝つ食べ切り術」(togetter) / 【共産党を怒らせた】日経電子版「ニンジンの皮食べて増税に勝つ」騒動 気分は国民精神総動員で大炎上 まるで日経は「安倍政権の広報紙」と言わんばかり 増税賛成で国民に我慢を強いるとは、この国を代表する経済専門紙は消費不況を容認する気なのか(日刊ゲンダイ)     

















【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その1)「朝鮮人の来襲の話はデマだということが分かったが、横浜方面から避難してきた朝鮮人は容赦なく自警団の手で殺された。この事変で重傷を負い、あるいは無残にも殺された朝鮮人が続々と品川警察署へ担架で引き取られ、あるいは引張られて行くのを見て、私は悲壮の感に打たれた。.....途中で人が黒山になって騒いでいるのに出あった。何かと見ると、朝鮮人が2人電柱に縛りつけられているのであった。」

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その4) 江東区/亀戸/亀戸警察署/深川/丸八橋・新開橋の証言 「亀井戸警察署の練武場.....。このとき指揮者は、銃声がきこえると附近の人に恐怖感を与えるから、銃の代りに刀で殺せと命令した。そこで軍人たちはいっせいに刀を抜いて83名を一時に殺した.....」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;品川区/荏原・戸越〉
米川実男〔当時21歳〕
〔3日〕朝鮮人の来襲の話はデマだということが分かったが、横浜方面から避難してきた朝鮮人は容赦なく自警団の手で殺された。この事変で重傷を負い、あるいは無残にも殺された朝鮮人が続々と品川警察署へ担架で引き取られ、あるいは引張られて行くのを見て、私は悲壮の感に打たれた。
食うものは全くなくなった。隣の人に頼まれて、若者ばかり数人連れで、平塚村戸越のとある米屋へ2俵の玄米をとりに行くことになった。途中で人が黒山になって騒いでいるのに出あった。何かと見ると、朝鮮人が2人電柱に縛りつけられているのであった。(1924年8月稿)
(「避難民の一人として」関東大震災を記録する会編、清水幾太郎監修『手記・関東大震災』新評論、1975年)

〈1100の証言;品川区/大井町・蛇窪〉
竹内重雄〔画家。当時13歳。大井町1105で被災〕
その翌日〔3日〕は余震も少なくなり、みんな線路より家に戻ったが、夕方になって川崎方面より朝鮮人が2千人攻めて来て、井戸には毒薬を投入しているという。その情報に住民は恐怖におののき、戸を閉め、男はみんな鉢巻をし、家伝の太刀や薙刀、トビ口、ピストル等を持って警戒した。私は13歳でも男、サイダー壜を投げるつもりで用意して待った。しかしその日は夜になっても何も起こらなかった。翌日、血みどろになって、民衆に縄でしばられた鮮人が捕って交番(旧国道北浜川)に引き立てられて行く。何も知らない、言葉の疎通の善良な鮮人であろうが、殺気立った民衆の犠牲であった。
(品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

〈1100の証言;品川区/品川・北品川・大崎〉
山岡芳子〔当時6歳。北品川6丁目で被災〕
〔3日、半鐘が鳴る〕表の通りから夥しい人の駆ける音がしてきた。私達は、直ちに表に出た。果して大勢の人の群が、我家の塀すれすれに走って行く。大方、火事の現場から避難してきた人達であろうか。しかし、余りにも人数が多すぎる。半鐘は更に烈しく鳴り続けている。〔略〕「奥さまッ」勝手口から、慌しくねえやが駆け込んできた。顔が真っ青で息を切らしている。「大変ですッ、朝鮮人が大勢してここに攻めてくるそうですッ」「何んだってッ」〔略〕泣声をたてながら至急逃げる支度に取りかかった。武装した朝鮮人の大軍が、たった今、品川沖から上陸し、大挙してまっしぐらに、こちら目指して、攻撃しにやってくるとの事。〔略〕「裸足のままでッ」母の叱咤する声が背後を突いた。一同は家の戸締りもせずに表の通りに出ると、怒涛のような人の渦の中に素早く割り込んだ。群衆は皆、心身を凍結させたまま石のように無言で走り続けている。それはさながら死の行進そのものであった。「さっさっさっ」足音だけが、無気味な沈黙の中で、地鳴りのようにひびかせている。
〔略〕北白川宮邸(現在の高輪プリンスホテル)の正面の鉄の大きな扉が、この日大きく開かれていた。その両脇のところに、ここも又、武装を凝らした兵隊達が、剣付鉄砲の鉾先を向けたまま、門内に入る群集の一人一人に、厳しい目を当てながら検閲している。〔略〕「只今、門の扉をしめ終りました。後の事は自分達にまかせて、一応安心して居て下さい」兵隊の中の主だった一人が、メガホンを口に当てて、大声で知らせた。〔略〕「震災で折角命拾いをしたのに、朝鮮人に殺されるなんて何と因果を事であろう」 母は、更にくどくどと言い続けている。
〔酪〕長剣を腰に下げた将校の一人が一段と高い所に立ち、「皆さん」 メガホンを口に当てて、全員に呼びかけた。「今日のところは、安心して家に帰って下さい。ただし、今晩からは家の戸締りを一層厳しくし、夜が明けても鍵を外してはいけません。なお、女や子供の外出は一切固く禁じます」〔略〕(朝鮮人は、至る所にひそみ、女や子供にまでも、危害を加えようとしています)あの時の将校の言葉が、幼い私にも忘れられず、母の袂をしっかりと握りながら、只、ひたすらに群衆と共に、家路に急いでいた。
我家に着いた時、父は私達の事を気遣いながら、待っていた。直ちに雨戸、板戸、格子等に鍵をかけ、更に釘づけにする。重要書類や日用品等を荷造りし、又、家族が何時でも逃げ出せるよう、各自が物々しい服装に身を固め、足袋をはいて寝る事にした。〔略〕父は、武家時代の家宝として秘蔵していた日本刀を、枕の下に置いて寝ていた。
(「流言蜚語に惑わされて」『東京に生きる 第12回』東京いきいきらいふ推進センター、1996年)

〈1100の証言;渋谷区〉
江馬修〔作家〕
〔3日、自宅のある初台で〕提灯をぶらさげて、ものものしい様子で絶えずそこらを警邏している在郷軍人によって、さっきの警鐘の意味も程なく伝えられてきた。
「富ヶ谷の方で朝鮮人が12、3人暴れたんです。〔略〕何でも初めパン屋の店先へ行ってパンを盗もうとしたところを見つけられて、それから格闘が起こったんです。10人ほどはすぐみんなして、ふん縛ったんですが、2、3人は猛烈に抵抗して暴れるので、とうとうぶっ斬ってしまったのです。この奥の渡辺栄太郎という騎兵軍曹は、 - 私もよく知っている人ですが、- 馬上から1人の朝鮮人を肩から腰の所へかけて見事袈裟斬りにやっつけたといいますよ。随分腕のきく人ですね」
この話は直ちに一般の人々に伝えられ、そして深い衝撃を与えた。ここに説明しておく必要があるが、少なくとも自分と話し合った限りの人々は、前夜来の朝鮮人の暴動を少しも疑っていなかった。それどころか、前夜東京での朝鮮人の騒ぎが想像以上に凄惨なものだったことを知って、ゆうべよりも皆が緊張していたくらいだった。郊外とても暴動1件で脅かされた事は市内と少しも変わらなかったが、以上の理由でその殺気立った警戒ぶりは前夜よりも真剣であり、酷烈であった。
(江馬修『羊の怒る時』聚芳閣、1925年→影書房、1989年。実体験をもとにした小説)
鈴木茂三郎〔政治家。当時『東京日日新聞』記者。代々木幡ヶ谷在住〕
9月3日戒厳令が布かれた。その頃から、朝鮮人問題に関する流言がまことしやかに、計画的であるかのように伝えられるようになった。多摩川の川を隔てて川向うまで押寄せて来た朝鮮軍と、それを防戦する日本側の土手に散兵した軍隊の間に激戦が行なわれているとか、荒川の囲みが破れて朝鮮人がなだれこんだとかいうように。
私の同じ隣組の人が新宿から息も絶え絶えに駆け込んできて「朝鮮人が今、淀橋のガスタンクに火をつけた。爆発するからすぐ逃げよう」とわめくように言った。夜警台の私たちは2、3間走り出した。そこで私は足を止めた。「淀橋のガスタンクに火をつけたというのに、そこからここへ走って来るまでに爆発しなかったのだから、これも流言だ」というと、皆一斉に緊張した顔をほころばせて笑いながら夜警台に帰った。
(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)

竹久夢二〔画家。淡谷区宇田川で被災〕
3日の夜あたりから本当に自然の暴威と天災の怖ろしさをやっと感じ出したように思う。誰が宣伝したのか、宣伝の目的が何であったか私は知らないが、また実際そんな事実があったことも、私は見ないから知らなかったが、3日の夜の如きは、私もやはり空地へ出て、まだテント生活をしている人と同じ心持で、何か知らない敵を仮想していた。川崎の方から✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖、✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖。✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖、新宿のタンクへ向っているというのだ。2、3町先の駅の近くでは、群集のただならぬ騒ぎや叫び声が、はっきり聞える。軍隊の自動車が幾台か坂の上の方からまっしぐらに走って下りる地響きがする。その中にピストルの音がした。それにつれて悲鳴があがる。
「おい、灯を消せ」誰かが言った。テントの中でも、立っている人も提灯の灯を消した。息をこらして、本能的にみな地の上に伏した。後できくと大地に穴を掘って、妻子を埋めた人もあったそうだ。
私は何の武器も持っていないから、敵を殺す気もなかった。だから殺されもすまいときめて、垣根の所へ腰かけて、遠くの叫喚を聞いていた。それは、幾百人の群集が入り乱れて戦っているかと思われるのだった。
だが何事もなくその夜は過ぎた。
流言蜚語の第一報が人から人へ伝わった時間が、西は、浜松あたりから、東は川崎、目黒、駒込、千葉あたりまで、ほとんど同時間であったことも、その地方から来た人にきいて、いまでも不思議に思っている。
(「荒都記 - 赤い地図第二章」『女性改造』1923年10月号、改造社)

つづく






核兵器製造会社への投融資 「日本の金融8社 実施」;「日本では、三菱UFJフィナンシャル、みずほフィナンシャル、SMBCグループなど8社、計256億ドル(約2.8兆円)。18年版より1社、金額も約70億ドル増えた。」




“薄味の水っぽいスープ……「佐野らーめん」が失墜した日《佐野SAスト39日間の軌跡》 / 《佐野SA再出発へ》“解雇部長”も現場復帰、自費1500万円も協議へ / 【佐野SAスト終結!】39日目の逆転劇で全従業員が復帰、社長は退陣、”解雇部長”は……(文春オンライン) / 佐野サービスエリアのストライキが終了 元部長「長く苦しい戦いでした」 / 佐野SAストライキの「深層」…39日間の闘争が明らかにしたこと    



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<佐野SA ストライキ終了宣言>
 
私たち佐野サービスエリア労働組合は、2019年9月22日午前6時、職場に復帰しました!
 
大変急な話だったので、口頭による合意のみによる復帰です。
 
両者の認識が合致しているかどうか、最終的な合意内容のすり合わせは、これからということになります。

(略)


















2019年9月24日火曜日

急に思い立って伊豆熱川温泉に行ってきた 24日早朝の日の出バッチリでしたよ 2019-09-23、24

9月23、24日、はれ
急に思い立って伊豆熱川温泉に行ってきた。

23日は台風17号の影響で天候は良くないと諦めていたが、なんだか予報は大外れ、やや不安定ではあったが総じて晴れのお天気。
熱川は温泉街としては小さい方で、ま、ただただ温泉に入っているだけの小旅行であった。
宿はオーシャンビューだったので、24日は朝5時前からずっと日の出を眺めていた。
温泉と海の眺め、それで大満足であった。









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