治承3(1179)
4月
・この月にも多くの貴族が厳島に詣でる。
「この日、中御門左府(なかみかどさふ)も参り給ひけり。三条左大臣入道その時大納言なり。六条の太政大臣の中将にて侍(はべ)りけるもおはしける伴ひ申されけり。この度の事にや。中将かの島の宝前にて太平楽の曲をまはれけるが面白かりける事也。」(『古今著聞集』)
東宮傅の左大臣藤原経宗(中御門左府)や大納言藤原実房(三条左大臣入道)、中将藤原頼実(六条の太政大臣)なども厳島を訪れたという。花山院忠雅も清盛に勧められ、5月2日に参詣する約束をしており、仁和寺の守覚法親王も勧められていた(『玉葉』)。
4月11日
・高倉天皇第3皇子惟明親王、誕生。母は少将局。
4月16日
・後白河院の第八皇子が出家。のち、仁和寺二品(にほん)、道法(どうほう)法親王。
「内々猶予の儀ありて出家を抑留」していた第八皇子の、「東宮降誕の後」の出家は(『山槐記』)、彼を天皇の跡継ぎに立てる必要がなくなった結果である。
4月18日
・高倉天皇第3皇女潔子内親王、誕生。母は按察典侍。
4月21日
・平維盛(23)、賀茂祭において東宮使を務める。
5月14日
・清水寺の悪僧、祇園社大衆と合戦、八坂の塔を焼き払う。
5月19日
・検非違使別当平時忠(53)、強盗12名の右手首を切る。
5月25日
・平重盛、病により出家。
重盛は2月の東宮の百日(ももか)の祝に出席した後、病によって籠居するようになり、3月に熊野へ詣でて、「後世」のことを神に告げた。その後やや回復したかに見えたが、「不食」(ふじき)に陥り、ついにこの日、出家。父子並んでの出家の例には摂関家の忠実・忠通の場合があると『山槐記』は記す。
5月28日
・夜地震。
6月
・宋銭流入で物価混乱。貨幣経済に不馴れな京都大番役の関東武士達は平家不支持へ。一部の貴族から宋銭停止論。
・前太政大臣藤原忠雅、厳島参詣。
・後白河上皇、山科山荘に行く。
「上皇山科新御所に移徒(いし)す。本是(もとこれ)雅宝僧都の領なり。故建春門院に進(まいら)せらる。飛泉あるによってなり。去年造営せらる」(「百錬抄」6月条)。後白河没後、冷泉教成はこの山科山荘跡地に御影堂を建立。
6月7日
・清盛、延引されていた忠雅の厳島詣に同行し、経供養を行い、巫女の内侍による田楽などを楽しむ。
6月15日
・藤原定家(18)、祇園臨時祭の使を勤める(「玉葉」)。
6月17日
・故藤原基実室平盛子(24、清盛の女、東宮の准母(じゆんぼ))、没。
後白河法皇(53)、その所領(もと摂関家所有)をが没収、院領(「内(うち)の御沙汰」)とし、その倉預かりに前大舎人頭平兼盛を任命。兼盛は院北面藤原能盛(よしもり)の弟で、2月にはその邸宅において天皇と藤原信隆の娘との間の皇子が生まれたばかり。なおこの第二皇子(のちの後高倉院)はすぐに平知盛が乳父となって養育することとされていた。この時の所領の処理は、右大臣兼実でさえ「過怠」(過ち」)と評するほどの行き過ぎ。
これまで、反平氏の動きの黒幕でありながら、表面はさりげない態度をとっていた後白河が、いよいよその仮面をぬぎ捨てた。鹿ヶ谷事件前後からくすぶっていた法皇と清盛との対立がいよいよ深刻となり、その関係がきわめて険悪となった。11月クーデタ(後白河院幽閉)の引き金の一つとなる。
『百錬抄』には、この頃に天下上下に病が流行しており、それは「銭(ぜに)の病」と称されたという。平氏が日宋貿易によって中国からもたらした大量の銭が引き起こした物価の高騰などに関連づけられての命名であろう。
「白川准后 盛子、入道前相国女、故中院摂政室家、一所資財庄園、皆件の人の領なり、生年廿四、去んむる夜薨去すと云々、・・・天下の人謂う『異性の身を以て藤氏の家を伝領す、氏の明神これを悪み、遂にこの罰を致す』と云々。余思う所は、若し大明神この事を咎めば、いずくんぞ十四年の間、その罰を与えざらん。何ぞ況んや、この後かの資財所領等、豈に藤氏に付けられん乎。計らいおもへらく公家の沙汰歟、・・・仮に伝領するの人、已に亡没す。この時に至り、財主出来すべき歟。宗たる所、氏長者に付せらるべし。その外の所々、理に任せて尤も配分せられるべきなり。理の当たるところ、未だ処分せざるの地なり。故摂政、男女子息その数あり。尤も配分せらるべし。二品亜相已に成人の息たり。宗たる文書庄園、伝領せらるべきの仁なり。而るにこの事さらに叶うべからざる歟。公家、伝領せらるるごとき歟。ここを以て万事沙汰の趣、愚推するところなり。・・・悲しき哉、この時、藤氏の家門、滅び尽くし了ぬ」(「玉葉」6月18日条)
7月7日
・地震。21日にも地震。
7月20日
・この頃から、重盛の病状悪化。
7月25日
・山門追討の宣旨が下る。
山門の衆徒・堂衆の争い
治承元年(1177)の山門攻めは、鹿ヵ谷事件によって回避できたが、その後、山門で内部抗争が始まり、再び平氏に追討が命じられた。
この延暦寺の内部分裂は、叡山の学侶方(学問僧)勢力と堂衆(下級僧侶)勢力とが対立し、しだいに堂衆の主導権が強化されていったため、学侶方と親密な関係にあった平氏の立場が微妙となり、清盛としても、堂衆の不穏な動きへの対応に苦慮せざるを得なかったのである。法皇の公然たる挑戦(10月人事)も、あるいはそうした平氏の苦境を見た上での行動であったとも思われる。
『平家物語』によると、抗争の発端は、越中国に下っていた衆徒の叡俊(えいしゆん)が釈迦堂の堂衆義慶(ぎけい)の関与していた土地を奪ったことから、義慶が叡俊を敦賀津で襲ったことにある。これによって両者がそれぞれ衆徒と堂衆に訴えて、衆徒と堂衆が争う衆徒・堂衆合戦が起きたという。衆徒は叡俊が大将軍として大納言岡(だいなごんおか)に城郭を、堂衆は東湯坊に城郭をそれぞれ構え、ついに合戦に及んだ。これが、前年の治承2年(1178)10月で、堂衆は「八人しころを傾て城の木戸口へ責寄」せ、迎え撃った叡俊を討ち取った。
堂衆について『平家物語』は「学生(がくしよう)の所従なりける童部が法師になりたるや。若は中間法師原にてありける」と記し、「三塔に結番(けちばん)して、夏衆(げしゆう)と号して仏に花まいらせし者共なり」と語るように、堂を守護し仕える身分の低い僧であった。山門では西塔・東塔・横川の三塔に所属して散在し、「借上出挙(すいこ)」などの高利貸し活動で富裕になったとされている。
この合戦の後、東湯坊を退き近江国三ヵ荘に下った堂衆は、「古盗人、古強盗・山賊・海賊」などの「悪党」を呼び集め、近江国だけでなく摂津・河内・大和・山城などの「武勇の輩」を広く集め、再び登山して早尾坂(はやおざか)に城郭を構えた。
この年、治承3年6月、両者が勝負を決するとの噂が流れ、ここに衆徒が朝廷に訴えたことから、追捕の宣旨が出されることになった。
山門堂衆追討の命令
宣旨は、官軍を派遣して近江三ヵ荘とその近くに住む堂衆を追い払い、横川・無動寺(むどうじ)に立て籠る堂衆を攻め落とすこと、検非違使に命じて京中に潜む堂衆を搦め取り、さらに諸国に逃れるものは国司が追捕することという内容であったが、その際に派遣される官軍は清盛が計らい定めることとされた。
再び平氏に追討が命じられたが、清盛はなかなか追討使を派遣しなかった。宣旨が出された直後に重盛が亡くなったことや、伊勢神宮に公卿勅使を派遣することなどがあり、また山門との合戦は避けたかったからである。
7月29日
・深夜、清盛の長男(前内大臣)重盛(42)、没。時子の長子宗盛が嫡子の地位を継承。
重盛の知行国であった越前国を、清盛に断ることもなく後白河が没収(10月9日、院近臣の藤原季能が越前守に任じられる)。
小松家は重盛の長子権亮少将維盛が後継と言われているが、、、
小松家は全体としての停滞斜陽のなかで、後継者をめぐって抜きつ抜かれつのシーソーゲームを繰り返していた。維盛は嫡子でなかったし、「嫡子」化してもその地位はすぐ不安定な状態になった。ところが『平家物語』、とくに語り本系では、ことあるごとに重盛-維盛を平家嫡流と強調する。そして、内乱が頼朝の完勝に終わったのち、頼朝は平家の公達を根絶やしにしようと執拗な追及を続けた。嫡流の最後である維盛の子六代も、文覚必死の助命嘆願や出家によりかろうじて永らえていたが、ついに斬られたことを述べ、「それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ」という文章で結んでいる(覚一本巻十二「六代被斬」)。語り本の八坂系ではこれが全巻の結語ですらある。
従来『平家物語』研究は、維盛が嫡子であるのを当然の前提とし、平家一門の重盛-維盛-六代の系統の物語を、その骨格の全体ではないが、すくなくとも一部であるとみなしてきた。しかし、それが史実でないとすれば、そういう構成になっているのはいったいなぜか、という疑問が浮上するだろう。維盛の陰にかくれて見えなくなった小松家の歴史に光をあてる研究が出始めているいま、『平家物語』の研究者ならずとも、興味ある設問である。
(「平家の群像」)
『言泉集(ごんせんしゅう)』という表白の模範文例集には、死の直前に行なった逆修(ぎゃくしゅう、生前、自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ること)に際し、澄憲(ちょうけん、信西の子)につくらせた表白の一節が載っている。それによると「十痊(せん、十全カ)の医療も及ばず、三宝の霊験も至ること無く、遂に飾(かざ)り(頭髪)を落とし、衣を染めて、家を出、道(仏道)に入る」とある。体調は前年の冬から悪かったらしく、七月に入ってもはや命旦夕に迫るを深く自覚していた。重盛は形の上とはいえ平家の代表者だった。その彼が没してしまえば、小松家の前途には暗雲が垂れこめる。そのなかでいち早く後白河にすり寄っていったのが資盛だったと思われる。(「平家の群像」)
重盛を嫌っていた兼実は「今暁、入道内府薨去と云々、或る説、去る夜と云々」と簡単に記し、相つぐ清盛の子の死は西光法師の怨霊によるものであるという片仮名書きの落書が内裏に置かれていたと記す。
『愚管抄』は、重盛が「心ウルハシクテ、父入道カ謀反心アルトミテ、トク死ナハヤ、ナト云卜聞コへ」たと記しており、高く評価している。
『平家物語』も「文章うるはしくて心に忠を存じ、才芸正しくて詞に徳を兼ねたり」とその性格を称え、常に清盛を諌めていたが、一門の栄華はつきてやがて平家は滅ぶことであろうことを予感し、大国で修善を行えば、亡くなった後も絶えることはなかろうということで、家人の平貞能に命じて中国に2200両の金を寄付して医王山(いおうさん)での祈祷を行ってもらうように託した話など、多くの逸話を載せている。
『百練抄』も、武勇は人に優れており、心操は穏やかであった、と指摘する。
医師問答(いしもんどう、「平家物語」巻3):
重盛は熊野詣の際、清盛が自分の諫言に従わない、栄華が父1代限りで終わるのなら、自分の命を縮めて来世の苦しみを助けて欲しいと祈る。熊野から帰って数日後、重盛は病気になるが、熊野権現が願いを聞き入れてくれたと考え治療もせず。清盛は心配して越中守盛俊を使者にして治療を受けるよう勧めるが、その返事は諫言。
無文(むもん、「平家物語」巻3):
重盛は、嫡子維盛に、葬儀に使う無文の太刀を与えたことがあった。前もって悟っていたかのようだ。
灯炉之沙汰(とうろのさた、「平家物語」巻3):
重盛は信仰心が篤く、来世での幸不幸を心配して、東山の麓に阿弥陀48願になぞらえて48間の御堂を建て、1間に一つずつ48の灯籠をかける。人はこの人を灯籠大臣と呼ぶ。
金渡(かねわたし、「平家物語」巻3):
また大臣は3千両を宋へ運び後世を弔ってもらえるようにしている。
つづく