2023年6月30日金曜日

「週刊現代」人事混乱に「偉くなりたかったら、女になった方がいい」発言 講談社No.3常務が辞任した(週刊文春); 「週刊現代」人事混乱に「偉くなりたかったら、女になった方がいい」発言 講談社No.3常務が辞任した

 

河野太郎「次の更新でマイナンバーカードという名前をやめた方がいいのではないか」; 現場だけのせいにしたり、民主党のせいにしたり、名前のせいにしたり。次はなんだろう。(武田砂鉄) / 松尾貴史さん 「河野デジタル相は『責任は大臣である私にある』と言っておきながら、国民の抵抗が大きくなったら、『民主党のせい』とは、はあまりにも幼稚で、こんな人物が時期首相候補だというは誰が言い出したのだろう。健全に彼の批判をしてこなかったマスコミ各社の責任も大きいのではないか」 / 「お前が始めたんだろ」発言は真っ当なのか…河野太郎氏の言い分を検証した マイナ制度のトラブル批判に反論(東京); ◆「民主党政権が作った制度」は本当か? ◆番号制度の構想はもっと以前の自民政権でも ◆住基ネットの失敗、そして「消えた年金」 ◆任意取得だったはずなのに、事実上義務化 ◆名前の漢字とカタカナを照合できないって… ◆「河野切り」で保険証廃止を延期?                  

 



 

仙台高検・辻検事長辞職へ 黒川氏定年延長協議の次官(共同); 検察官の定年延長問題で安倍政権が勝手に法解釈を変えた際の責任者と思われる人物が、大阪地裁で証言しろと言われたら、仙台高検の検事長を辞職してしまった。そんなに後ろめたいのか。    

【防衛大現役教授が実名告発】自殺未遂、脱走、不審火、新入生をカモにした賭博事件…改革急務の危機に瀕する防衛大学校の歪んだ教育(集英社オンライン);「教授や准教授といった立場で防大に補職されても……さらには安直な陰謀論に染まることもある。自分が担当する授業の枠内で、学外から招いた怪しい右翼系論客に学生たちに対する講演をさせるケースまであり……」     



 

〈藤原定家の時代407〉元久2(1205)年3月1日~2日 後鳥羽院、定家・家隆・俊成卿女の歌を『新古今』各巻巻頭に置くようにと指示 〈俊成卿女のこと Ⅰ〉 ■俊成長女の子として誕生 ■源通具との結婚と離縁、その後         

 



〈藤原定家の時代406〉元久2(1205)年2月21日~29日 『新古今』恋部・釈教部の部類終る 定家、和歌所の饗宴を設ける(伊勢物語の故事にちなむ趣向) 定家、兼実より『源氏物語』の話を聞く より続く

元久2(1205)年

3月1日

・法輪寺に参じ、地蔵講を修す。(『明月記』)

3月2日

・定家、当世歌人の歌を歌人別に能書に書き出させ、後鳥羽院に進上。

院は、巻頭の歌、大略故人の歌が多いが、定家・家隆・俊成卿女の歌を置くようにという。俊成卿女は、悲運に逅う身、ひとすじに歌を以て仕えているので、面目をほどこす。

日の出づる以前に、(嵯峨にて)阿弥陀講を修し、騎馬して京に入り、二条大路にて車に乗る。巳の時計り、院に参ず。

人々いう、当世の人の歌、多少をしろしめさず。先ずこれを注出して、御覧を経べし。増減せしめんがためなりと。能書の人を以て、これを書かしむ。定家、ただ雑の部の三巻を見て詞等を直す(或人の進むる所の歌、非分の事多きによりてなり)。又仰せていう、巻の始め、大略故人を以てこれを置く。然るべからず。定家・家隆・俊成卿女等三人をもって、各々一巻の始めに立つべしと。又これを継ぎ直す。家隆をもって秋下の部の始めとなし、俊成卿女の歌を以て恋の二の始めとなす。定家の歌を以て、恋五の始めとなす。身の事たるにより、わざわざ末に入るべしとしたのであったが、この仰せ、もっとも面目となす。ただし、当時の如くば、三十一字を連ねる人、未だ知らざる者多くこれに入る。又昨今の末生等、十首に及ぶ。予が歌四十余り、家隆二十余りと。今の仰せ、すこぶる人を撰ぶに似たり、如何。夕に退出す。(『明月記』)

〈俊成卿女のこと Ⅰ〉

■俊成長女の子として誕生

俊成卿女は、俊成と加賀の長女八条院三条と藤原盛頼との間の子(俊成の孫)であるが、7歳の時、父盛頼(成親の弟)が鹿ヶ谷の変(1177年)に加わって失脚したため、俊成の庇護を受け養子となり、俊成・加賀夫妻の鍾愛を受けて育った。年齢は定家よりほぼ10歳年下。のちに女流歌人として名を成し、鴨長明『無名抄』には「昔にも恥ぢぬ上手」と評される。

■源通具との結婚と離縁、その後

俊成卿女が九条家の政敵源通親の子、源通具と結婚した経経は詳かでない。二人の間には具定(ともさだ)建久元年(1190)に生まれている。この縁で定家と通具は院御所などで言葉をかわす仲となり、それなりに親しかった様子が『明月記』からも読み取れる。

しかし、通具が土御門天皇の乳母として権勢を誇る従三位典侍(ないしのすけ)按察局(あぜちのつぼね)藤原信子(しんし)と結婚したため、通具と俊成卿女は10年余りで離縁する。按察局は、通親の養女となって後鳥羽院の後宮に上った宰相君源在子(さいしょうのきみみなもとのざいし、承明門院)の異母妹で、通親を柱とする当時の権勢の中心にいた女房。

だが、この二人は、それで縁が切れたわけではなく、定家は複雑な思いでこの二人を見ている。

正治2年(1200)2月20日、俊成卿女は母(五条の上・八条院三条)を失う。定家は日記に、亡くなったのはこの長姉が最初であると記し、初めて直面した同母の姉の死を深く悲しんでいる。3月9日の四十九日法要に俊成や成家と参加した定家は、女婿として出席していた通具から挨拶を受けている。

半年後の9月28日、定家は通具邸で行なわれた歌会の判者をしたが、最も良かった歌について、これは恐らく室家(しつか、妻の俊成卿女)が詠じたものであろう、と記す。彼女が定家も認める歌の上手だったことが知られるとともに、この時期二人はまだ夫婦であったことが分る。
しかし翌建仁元年(1201)12月28日条には、既に二人が離縁していたことを示す話が記されている。この日、院の石清水八幡宮歌合に参加し講師を務めた定家は、夜宿所で通具と心閑かに雑談をしているが、日記には「新妻の事など、且つこれを語る。誠に当初の本意を失すと雖も、旧室更に離別すべからざるの由、会釈(心づかいを込めたあいさつ)の詞等あり。若しくは実議(実際のこと)たるか。又内府(通観)の例なり。恨みを為すべからざるか。近代の法、唯権勢を先と為す。何をか為さんや」と記す。この時道具は俊成卿女と別れ、父通親の命により承明門院在子(ざいし)の妹信子(後鳥羽院女房)と結婚していた。定家はその辺の事情を察し、近頃は権勢を優先する、どうしようもないものだと書く。また、ただ通具が語った、旧妻とは離別すべきではなかったという告白は、通具の本心であろうと思い、彼を恨むべきではないとも思っている。

恐らく通具の言葉は本音であり、通具は、俊成卿女への愛情を捨て去ることはできなかった。
『明月記』には、そんな通具の心根を語る場面がいくつか見られる。

建仁2年(1202)2月1日条では、この日定家は、参院ののち押小路万里小路にの新宰相中将(通具)の上(俊成卿女)の許(伯宅=神祇伯仲資王宅)に向うと、そこには俊成が来ており、通具も同席していた。俊成卿女を含めた4人は清談に時を過し、定家は夕方帰っている。離縁しても前妻のところに通具が訪ねていることが知られる。


つづく

2023年6月29日木曜日

〈藤原定家の時代406〉元久2(1205)年2月21日~29日 『新古今』恋部・釈教部の部類終る 定家、和歌所の饗宴を設ける(伊勢物語の故事にちなむ趣向) 定家、兼実より『源氏物語』の話を聞く

 


〈藤原定家の時代405〉元久2(1205)年1月1日~2月20日 「遠州(時政)椀飯並びに御馬・御劔以下を献らる。」(「吾妻鏡」1月1日条) 定家、和歌所での撰歌等の作業に毎日参ずべき由命じられる。 より続く

元久2(1205)年

2月21日

・藤原親経、撰集真名序を奏覧する。

和歌所に参ず。晩、家長又杯酌。左大弁、撰集の序を持ちて参ず。今日奏覧。(『明月記』)

2月22日

・恋部、釈教部の部類を終る

巳の時、和歌所に参ず。宗宣・家長・具親・秀能これを切り継ぐ。良経参ず。障子を開きて御覧ず。この間、院神泉苑に御幸。良経退出。具親破子を取り出す。酒を巻物の如き竹筒に入る。秉燭に退出す。

今日、恋の部、釈教の部を終る。雑の部多きの間、人数多きの時を相待つ。神祇の部を取り出す。予、喪中の身にて憚るにより、この部恐れある由、家長に示す。神の歌、甚だ多し。又神の歌の次第、もっとも測り難し。一旦の沙汰をなすといえども、万代の証拠に備うべし。暗に神の御名字を列する、恐れ極まりなし。よって手を交えず。(『明月記』)

2月23日

・定家、酒肴を儲ける(和歌所に酒肴を持参)。25日に定家が担当する饗宴の準備(和歌所から食器類を借りている)。20日に家長が、22日に具親が、夫々担当して実施した。

今日、院中御神事の由、昨日これを聞く。籠居せんと欲するの間、午の時、家長、御神事延引参ずべき由を示す。家隆・総州・宗宣等あり。又切り継ぐ。小暗ありて大炊殿に御幸、御鞠と。

此の間、予、酒肴等を儲く。即ち参じて、これを取り据える。家長、清範等帰り来りてこれを見る。饗応の詞を加え、取り破らず、院の見参に入るべき由、相議す。予、左右を答えず。遂に破らずしてこれを置く。長檀一。酒肴の様、土高器を小さき折敷に据える。柏を敷き、海松を盛って柏を覆う。其の柏に、(わだつみのかざしにさすといはふもも)の歌を書く。又折敷に絵かきて盃を据う。瓶子、紅の薄様を以て口をつつみ、実には鳥の汁を入れる。花橘を小さき外居(ほかい)に入れ、外居の紙立(こうだて)に、〈昔の人の袖の香〉の歌を、文字木にて書く。その下を三重、中を分けて菓子六種を入れる。ひじきを又外居に入れる。ひじきの物には、袖をの歌を書き、その下に魚島六種を菓子の如くに入る。青き瓶は口をつつまず、藤の花をさす。これは糸を以て結び、その房、殊に長し。件の瓶に酒を入れる。下絵を描いた檀紙を立文に作りて、その中に箸を入れる(表書に、武蔵あぶみと書く)。外居に飯を入れ、その上に錺(かざり)ちまきを積み入れて、飯をかくして見せず。以上を取り据えた。この外、密々に土器酬等を相具し、閑所に置きて取り出さず。伊勢物語の内の物なり。昏黒、雑の上の部、切り入れ終りて、各々退出す。此の間に、院還御と。(『明月記』)

定家の酒肴は、まさしく趣向にて、風流を尽くしたものである。非常に繊細な美しい儲け様である。撰歌も、この様な息抜きの遊びがあってこそ、長期に捗って進められたのであろう。

〈堀田善衛による現代語訳〉

「・・・饗応の品々は長櫃(ながびつ)一箇に入っている。その中の酒肴の様子、以下の如し。

土の高器(たかつき、坏=脚つきの台)を小さな折敷(をしき、檜の片木で作った角盆)の上に置き、そこに柏の葉を敷き上に海松(みる、海藻の一種)を盛って、伊勢物語中の「わたつみのかざしにさすといはふ藻も」の歌(海神が冠に飾るために清め守っている藻を客のために惜しまずにわけてくれた))を書いた柏の葉で覆った。また折敷に絵を書いて、盃を置いた。瓶子(へいじ、口の小さい徳利様の器)は紅の薄様の紙でその小さな口をつつみ、中に鳥の汁を入れた。肴である花橘の実を小さな外居(ほかい、三つの脚つき円筒型塗り物の調度)に入れ、これの飾りの折り紙には、木を燃した炭状のもので、「昔の人の袖の香」(伊勢物語六十段)の歌を書いた。花橘を外居の懸子(かけご、外居の内側に入れ外の縁に懸けてつり下げる箱)の上に置き、その下を三重に分けた。一番上に菓子六種、次に「ひじきものには袖を」の歌を書いたひじきを入れた(ひじき、海松などの海産物はありふれたものではなく、歌は伊勢物語三段の「思ひあらば葎(むぐら)の宿に寝もしなむひじきもの(引敷物、夜具)には袖をしつつも」という歌)。其の下にまた魚島六種を菓子のように敷いた。青瓶は口はつつまないかわりに、藤の花を指した。藤は糸で固定し、藤の房はことのほか長く垂れている。この瓶に酒を入れた(伊勢物語百一段、在原行平の家に良酒があり、宴を催した際、瓶(かめ)に藤の花をさしてもてなしたが、その花の垂れた房が三尺六寸ばかりあったとの故事による)。下絵を描いた檀紙(だんし、上質の和紙)を、書状形式に作って箸入れとした。その表書に、「武蔵あふみ」と書いた(伊勢物語十三段、武蔵に住みついた男が京の女のところへ、便りをするも恥ずかしく、せぬのも苦しいとて、上書に「武蔵鐙(あぶみ)」と書き送った故事による)。他の外居に飯を入れ、その上に飾りちまきを置いて飯をかくした(ちまきもまた同物語五十二段に故事をもとめている)。そのほかに土器酬(かはらしう、酒をくみかわす重ね盃らしい)等を密々にそなえ、これらのものを閑所に置いて(廿三日は)取り出さなかった。以上の飾り付けは伊勢物語から採ったものである。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)

2月24日

・定家、清原良業より『尚書』を授けられる。兼実より『源氏物語』の話を聞く

巳の時許りに、大外記良業真人来り、尚書の祝を受ける。黄牛を送る。

兼実の召しにより、昏黒、法性寺殿に参ず。御前に召して、源氏物語のことを仰せられる。

ついで女院、良経の許に参じ、見参移漏。夜半を過ぎて帰り、又女院に参じ、女房に謁する。暁鐘以後、家に帰る。(『明月記』)

2月25日

・巳の時許りに、和歌所に参ず。かれこれ語りていう、一昨日の定家儲けの酒肴、御前に取り出したところ、皆召し入れられ、柏の高器ばかりを、和歌所に返し給うと。籠居凶服の者初めての出仕、事に於て恐れをなすの間、かくの如き事、いささか以て安堵す。御気色の程を知るか。慈円参ず。家隆と切り継ぎを見る。暮に、雑の下を切り継ぎ終る。昏黒に退下。

吉富の百姓、門外に来て愁訴、召し籠むべき由、文義に下知す。(『明月記』)

2月26日

・巳の時許りに、和歌所に参ず。家隆参入。雑の下の部を切り継ぎ直す。恋の一二の部、今日又少々切り継ぎ直す。人定めて悪気に処するか。恋の部は、極めて優なるべし。存外に又多し。よって憚りを忘れて直すの間、日暮れる。有家又読み出すところの巻々を見る。各々退出す。家長を以て、仰せ事にいう、神祇の部、神に次第を立つるは、熊野の御列次、その恐れあり、よって春の部を先となし、四季に立つべしと。神の歌の事、惣じて事の恐れあるによって、事を身の憚りに寄せ、これを知らず。夜に入り、招請により、通具邸に向う、清談、亥の時、家に帰る。(『明月記』)

2月27日

・巳の時、良経の許に参ず。相ついで、和歌所に参ず。有家・家隆参入す。家長を以て仰せていう、撰びつかわす歌、なお見落すところあるか、なお所存あれば、挙げ申すべしと。今日又少々これを継ぎ直し、小々見合す。秉燭に帰る。(『明月記』)

2月29日

・定家、嵯峨に行き舎利講を修す

未の時許りに嵯峨に行き、黄昏仏前に入る。(『明月記』)


つづく


2023年6月28日水曜日

〈藤原定家の時代405〉元久2(1205)年1月1日~2月20日 「遠州(時政)椀飯並びに御馬・御劔以下を献らる。」(「吾妻鏡」1月1日条) 定家、和歌所での撰歌等の作業に毎日参ずべき由命じられる。

 


〈藤原定家の時代404〉建仁4/元久元(1204)年12月1日~28日 慈円、大懺法院を建立 俊成葬送 服喪 定家、連日写経 初七日から四十九日まで兄弟姉妹が順次担当して沙汰 坊門信清の娘、実朝との結婚のため鎌倉へ出発 より続く

元久2(1205)年

1月1日

・北条時政、垸飯(おうばん)を源実朝に献上。

「遠州椀飯並びに御馬・御劔以下を献らる。」

3日「千葉の介椀飯を献る。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月1日

・定家、亡母十三年遠忌料として法華経を写経。~11日。

1月3日

・土御門天皇、元服。

1月3日

・定家喪中にて終日写経。(『明月記』)

1月4日

・俊成法事。(『明月記』)

1月5日

「将軍家正五位下に叙せしめ給う。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月8日

・定家、方違えのため、嵯峨に行く。雪、紛々たり。(『明月記』)

1月11日

・定家、仏師を呼び、地蔵の像を造るべく依頼。又千手観音画像もあつらえる。去年七月、宇治で母加賀の夢を見る。わが罪障心中悲しみを増し、この事をいとなむ。(『明月記』)

1月13日

・俊成法事、成家修す。(『明月記』)

1月14日

・定家、金光明経を書写

1月17日

・吉田社の南に、院の御所を建てられるため、諸人の領を押し召されると、定家、竜寿御前に聞く。(『明月記』)

1月18日

・俊成四十九日仏事。

俊成法事、雪殊に甚だし。(『明月記』)

1月20日

・後鳥羽院水無瀬御幸。~27日。

1月20日

・良経の子の道家、従三位に叙せられる。(『明月記』)

1月21日

・定家、越部荘より運上の船が沈む

1月22日

・慈円より歌を贈られる。(『明月記』)

1月23日

・定家、為家を公経・八条院・宜秋門院・良経に参らせる

1月24日

・定家、仏事のため妻子とともに嵯峨に滞在。~2月20日。

1月29日

実朝、右近衛権中将

「去る月二十九日の除書到着す。将軍家右中将に任ず。加賀の介を兼ねしめ給う。善信この聞書を御前に持参す。」(『吾妻鏡』2月12日条)

1月30日

・後鳥羽院水無瀬御幸。2月12日。


2月9日

・定家、海慧僧都を呼び、嵯峨の持仏堂に安置した地蔵木像、千手観音画像の開眼供養を営む。兄・姉妹参列。

1月12日

・定家、永代の繁栄のために修二月会を修す。先祖四代夫妻の忌日仏事を嵯峨の堂にて修することを決める

先祖四代とは、長家・忠家・俊忠・俊成を指し、仏事を御子左家(みこひだりけ)の祖長家からとするところに、定家が和歌の家を強く意識したことを思わせ、忌日仏事を「恒例の事となし、不退転となす」(『明月記』)と記し定家の決意のほどを感じさせる。

嵯峨からの帰京後は、翌日より毎日参院し、和歌所での新古今の編纂の仕事を熱心にこなしている。

1月13日

・定家の亡母の十三回忌忌日仏事

1月16日

・もと白拍子石、丹波の局、凞子内親王を生む。簾を編むものの女、被差別部落出身である。(『明月記』)

1月17日

・北条義時(43)、実朝に供奉して鶴岡宮に参宮。

2月19日

・定家、和歌所での撰歌等の作業に毎日参ずべき由命じられる。以降連日和歌所で撰集作業。~27日。

日の入る以後、院に参ず。家長・秀能・宗宣、和歌所に在りて呼び入る。この日来、撰歌の詞を書き、切り継ぎ殊に急がれる。毎日参ずべしと。夜に入りて退出し、嵯峨に行き宿す。風病更に発る。(『明月記』)

2月20日

雪飛ぶ。早旦、嵯峨を出て冷泉に帰る。巳の時許りに院に参ず。終日、日﨟。具親・宗宣・家長等、この事を沙汰す。家長・盃酌を行う。去年、予この事に接せず、所役を果すべきの由、各々これを示す。なまじいに領状す。(『明月記』)


つづく


2023年6月27日火曜日

〈藤原定家の時代404〉建仁4/元久元(1204)年12月1日~28日 慈円、大懺法院を建立 俊成葬送 服喪 定家、連日写経 初七日から四十九日まで兄弟姉妹が順次担当して沙汰 坊門信清の娘、実朝との結婚のため鎌倉へ出発       

 


建仁4/元久元(1204)年

12月

・この月、四度も天台座主に任じられ、後鳥羽院の護持僧となった慈円は、保元の乱以来の戦死者を供養し鎮護国家を祈念するために、師覚快法親王から譲られた三条白河の地に二字の御堂を建立する。法華懺法の祈願所としての〈順教堂)と、大熾盛光法勤行(だいしじようこうほうごんぎよう)のための祈願所としての〈真言堂〉である。

慈円はこれを後鳥羽院に捧げ、院はこれを御願寺として阿闇梨一口を置くことを許されたが、懺悔によって反省をし慎みの思いをもって怨霊の恨みを散じ、それを転じて国家の鎮護としたいというその趣旨から、その主要道場を(大懺法院(だいせんぽういん))と呼んだ。

ところが、後鳥羽院はこの三条白河の地に、鎌倉幕府討伐のための祈願所として最勝四天王院を建立しようと考え、これを進上するよう求めたため、慈円はやむなく洛東吉水に御堂を移すことにし、翌元久2年6月16日に上棟の儀がとりおこなわれた。

『華頂要略』によれば、8月10日に移徒、12月8日この新造の大懺法院において法華法が修せられた。

ここには鎮魂のために顕密僧・修験者・説教師などとともに、声明・音曲に堪能な僧も集められていたという。卜部兼好(うらべのかねよし、吉田兼好)『徒然草』には、「慈鎮(慈円)和尚、一芸あるものをば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しようぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり」(第二百二十六段)とあり、『平家物語』の作者といわれる信濃前司行長が、慈円に挟持されていたことが記されている。『平家物語』の成立を行長という個人の営為に求めることはできないが、慈円が鎮魂のために建立した大懺法院が、『平家物語』成立の重要な基盤であったと考えられる。"

12月1日

・俊成葬送

遺言状を持ち来る。三ケ日の間に葬送せよとあり、入棺する。墓所は、加賀の墓の辺りと決める。埋葬終る。(『明月記』)

「天明ト共ニ山中ニ入リ、彼ノ墓所ヲ見ル。故御前(俊成妻)ノ御墓ノ辛(かのと)ノ方ナリ。石ヲ丸ニ合セ、置カシメ給フ。近習ノ物等、此所ノ由ヲ申ス。成実朝臣来タリテ見ル。即チ、彼ノ従者等ヲ以テ行事ヲナシ、穴ヲ掘ルベキ由、下知シ了リテ帰リ入ル。(中略)紙ヲ以テ御衣ヲ作ル。又敷物アリ。覆フ物アリ(梵字ヲ書ク)。皆紙ナリ。」

「・・・・・次デ僧達寄リ、御衣等ヲ着セシメ奉ル(只、覆フナリ)。次デ又、梵字ヲ書ク紙ヲ覆フ。次デ蓋ヲ覆フ。次デ釘ヲ打ツ゚。釘十ト云々。石ヲ以テ之ヲ打ツ(釘毎ニ只一打)。(略)次デ四人ノ者綱ヲ取リ、穴ノ内ニ安ンジ奉ル。僧達之ヲ行フ。次デ、三品(兄の成家)鋤ヲ以テ、三度土ヲ入レ給フノ後、雑人等ヲ以テ埋メ出サシム。」

葬儀を済ませて寺に戻ると、成美の妻の老者(成家の乳母)が、一人で寺の妻戸の中で待っていた。定家は、この老女が暗くて人のいない場所で怖れずに待っていてくれたことに感謝している。そして、風雨の煩いもなく、予定通りに葬儀を終えられたことを皆で喜び、宿所に帰ったと記す。

12月2日

・この日より着服(喪の服を着て服喪すること)。

定家は、朝臥寝所を出る時、めまいがする。(『明月記』)

12月6日

・俊成の初七日、遺言により阿弥陀迎接の法華を、健御前の沙汰にて供養。成家・祇王御前・健御前・愛寿御前・斎院女別当・定家参入。(『明月記』)

この日の初七日から翌元久2年1月18日の四十九日まで、兄弟姉妹が順次担当して沙汰し、これに他のきょうだいも集まり読経をするという形で、皆で協力する。

12月9日

・定家、連日写経。~月末。

この日から法華経を書写。引き続き無量寿経、普賢経などを書写すると共に、1月11日には仏師に地蔵像を造り千手観音像を描いてもらうよう依頼。これは、前年(元久元年)7月に宇治で母加賀の夢を見たこと、そしてこの年(元久2年)が加賀の十三回忌に当ることから、父母の深恩に感謝し供養することを決めたことによる。また、これらの仏を安置するため、嵯峨に持仏堂を建てる。

1月10日

・坊門信清の娘、実朝との結婚のため鎌倉へ出発。行列は、卿三位藤原兼子の岡崎邸から出立し、院も法勝寺西の大路に桟敷を設けてこの行列を見学した。実朝の婚儀は、後鳥羽院と実朝の親密な関係を誇示する一大イベントであった。

「今日巳の時信清卿の娘関東に下向す。卿三位が岡前の家より出立す。上皇の御桟敷、法勝寺西大路鳥居西、増圓法眼これを作る。馬の助(亡者)、大刀、去る比仏師に施與す。件の大刀銭三十貫を以て買い取る。御引出物に献ずと。来迎の武士二十人の中、二人(馬の助・兵衛の尉)死去す。その替わり親能入道が子を加うと雖も、今一人猶欠く。前陣の侍九人、各々水干・小袴・行騰錦繍に非ず。次いでヒスマシ二人騎馬、直垂・小袴を着す。次いで雑仕二人、袙のつま見・ムシ笠。次いで女房六人ムシ笠、繍指貫。次いで主人輿。力者十六人、紺(星文)・亀甲袴を着す。次いで仲国・秀康、その體侍の如し。次いで少将忠清・私侍十人、次いでまた関東の侍十人(前後合せ十九人)。忠清の先女房輿六。」(『明月記』)

「各々華麗過差、喩(たとへ)ヲ取ル物無シ。金銀錦繍ニアラザルハ無シ。泣キテ沙塞ヲ尋ネ、家郷ヲ出ヅルカ。天下ノ経営、只此ノ事ニ在リト云々。見物堵(かき)ノ如シ。」(『明月記』)

実朝からの申出に、後鳥羽上皇は卿二位藤原兼子と謀り坊門前大納言信清(七条院の弟)の女を選定。婚儀調度品は在京廷臣全部に命じて整えさせ、「天下の経営ただこの事に在り」(「明月記」)と評されるほど。幕府内部への公家勢力浸透の機会と考える。この婚姻により、公家社会の風が鎌倉に入り、実朝は武芸より和歌・蹴鞠を好むようになる。

承元3(1209)年11月、大江広元(政所別当)・北条義時(政子の弟)は実朝に弓馬の道を棄ててはならないと進言。

建保元(1213)年9月長沼宗政は、実朝は歌鞠をもって業となし、武芸は廃せられたと放言。御家人の実朝に対する信頼は薄い。

実朝は、政子の勧める足利義兼と政子の妹の娘でなく、坊門信清の娘を選ぶ。坊門信清は、後鳥羽の母方の叔父で、信清の子の忠信は牧の方の婿平貫朝雅の娘を妻としており、この婚姻には、牧の方が介在しているとの推測ができる。しかし、実朝にとってのこの婚姻の意味は、政子の束縛に対する反発、政子の背景にある北条氏ら東国武士社会で相対的に独自性を保つ為に、その一掃のしがらみを回避することにある。政子は、実朝がもはや自分の言いなりになる傀儡ではなくなったことを自覚したはずである。

12月10日

・文義が、信清卿の女が、実朝の妻として関東下向、卿三位の家から出立つという。定家は写経にいそしむ。(『明月記』)

12月13日

・閉王御前が遺言によって地蔵を供養。祇王・健・竜寿・成家会合す。延寿、経一巻を供養。(『明月記』)

12月20日

・延寿御前、虚空蔵供養。(『明月記』)

12月22日

・御台所(実朝の妻)に仕える男女数人が地頭職を拝領。

12月27日

・地震あり。29日にも。

12月27日

・竜寿御前、不動を供養。(『明月記』)

12月28日

・井水が涸れたので、妻が九条に沐浴に来る。(『明月記』)


つづく

2023年6月26日月曜日

「安倍元首相を神として祭りたい」 世界遺産の宮司が語る神社建立計画(デイリー新潮) / この宮司さんらしいです → 中国はゴキブリ、韓国はダニ!安倍首相がヘイトスピーチ連発の宮司を大絶賛(リテラ2014.11.14)        

 

〈藤原定家の時代403〉建仁4/元久元(1204)年11月26日~30日 藤原俊成(93,定家父)の危篤から臨終まで 「此ノ天明ノ程ニ仰セラレテ云フ、しぬべくおぼゆト。此ノ御音ヲ聞キ、忩ギ起キテ御傍ニ参ズ。申シテ云フ、常よりも苦シクオハシマスカト。頷カシメ給フ。申シテ云フ、さらば念仏して、極楽へまいらんと思食せト。」

 


建仁4/元久元(1204)年

11月26日

・実朝、京都の画工に将門合戦絵12巻を描かせる。この日、京都よりこれが到着(「吾妻鏡」同日条)。

11月26日

・明け方、定家は、父俊成と同居する兄成家から俊成危篤と聞き、騎馬して成家の六角邸にかけつける。俊成の希望により、俊成を法性寺邸に移す。

俊成、二十五日より御病の気あり、事のほか危急の告げあり、驚いて病を扶けて馳せ参ず。俊成は、急いで法性寺に渡りたいという。御病の事、誠に恐るべし。御身すこぶる熱し。又右顔、すこぶる腫れる。俄にかくのごとき状態にて、飲食も通じない。法性寺へ渡ること、遠路不便ながら、止めようがない。九十一歳の身、この度はもはやたのみ少ない。

定家は、未明以前に一旦家に帰る。巳の時、すでに法性寺に移った由を聞き、暁に鳥羽より帰ったばかりの健御前と同車し法性寺に行く。見れば、遠路にて、ほとんど前後不覚の状態である。定家と健御前と近習の小男が抱き下ろし臥す。堂はもとより荒廃していて、冷気烈しい。兄の成家も来ている。言葉は交わせないが、意識ははっきりしている。定家は、日来病悩、冷気堪え難く九条に帰る。(『明月記』)

11月27日

・定家、俊成と和歌について話す。定家の姉妹、見舞に訪れる

俊成、今日は話が出来、和歌のことなど語る。食事は不通。顔はやはり腫れている。俊成卿女が、旧夫通具(みちとも)と共に馳せつける。今は別居しているが、危急の場合にて、年来の如く同車して来た。姉の閉王御前、上西門院五条の局・竜寿御前・愛寿御前も集まる。昏に及びて、大変苦しむ。(『明月記』)

11月28日

・俊成の気色、同じ状態にて、殊に身体が痛む。(『明月記』)

11月29日

・俊成、静快より受戒。雪を喜び食する

呼ばれて最勝金剛院の兼実の許に行くと、兼実は「臨終のことは一生に一度の大事であるから、秘計を廻し注意して事にあたるように」と言う。骨の痛みには、湯船に馬の食するものを入れて、温湯を入れ、上に蓆(むしろ)をしいて蒸すのがよいと教えられる。

俊成は、病気になってからしきりに雪をもとめる。文義(定家の家司)が北山から求めてくる。咽喉がしきりに鳴る。

六角尼上が息子の侍従敦通(あつみち)と来る。公仲(きみなか)侍従の妻(俊成卿女の妹)も見舞いに来た。昏に静快参入、授戒する。意識はたしかである。

夜に入って、冷病又術なく、九条に静快と同車して帰る。夜半、留めて置いた青侍が来て、今夜はしずかであるが、咽喉の鳴る事は増すという。しきりに雪など冷たいものを欲するのは、咳病のためであろうか。今夜は、竜寿御前もついている。(『明月記』)

11月30日

・俊成(93)、念仏して臨終

周章して馳せ参ず。念仏の声高く聞え、すでに終息。開眼すれど、まだ呼吸がある。

健御前の言によれば、雪を殊によろこび、しきりにこれを召し、〈めでたきものかな。なほえもいはぬものかな〉といい、又〈おもしろいものかな)と。人々しきりに恐れをなし、雪をとり隠す。又夜半ばかりに召す。なお尋ねて雪を求める。志ある由、俊成はしきりに感謝する。その後御寝。この間、小僧念仏の声を断たず。

「此ノ天明ノ程ニ仰セラレテ云フ、しぬべくおぼゆト。此ノ御音ヲ聞キ、忩(いそ)ギ起キテ御傍ニ参ズ。申シテ云フ、常よりも苦シクオハシマスカト。頷(うなづ)カシメ給フ。申シテ云フ、さらば念仏して、極楽へまいらんと思食(おぼしめ)せト。」

起きたいのですかと問うと、又うなずくので抱き起す。事のほか苦しげに見えるので、小僧を近寄せ、念仏を勧める。念仏して、やすらかに終った。見ている中に、遂に息絶え、臥す。まことに正念見事な大往生であった。(『明月記』)

この日の『明月記』には、漢文の中に父の言葉としての和文が入ってくる。

雪をもとめて、「殊令悦喜給、頻召之、其詞、めでたき物かな。猶えもいはぬ物かな。猶召之。おもしろいものかな。人々頻成恐、取隠之。」

一代の歌人俊成にふさわしい風雅幽玄の終命の言葉である。

遺言状が六角にあり。今夜、籠りの僧のことを大略定めて、隣の小屋を借りて宿す。加賀(定家の母、俊成の妻)の折の籠憎が臨終に祇候している。(『明月記』)


つづく

2023年6月25日日曜日

世界競争力ランキング 日本は“過去最低”35位 / 「G7男女共同参画相会合」の集合写真見たら、日本だけが男性大臣 / 男女格差、日本は125位 過去最低、政治経済両面で深刻(共同) ;「先進7カ国(G7)では79位のイタリアにも大きく引き離され、東アジア・太平洋地域でも最下位だった。」 / ジェンダー平等 日本125位に後退 政治参加の分野で格差大きく / 男女格差、直視の時 政治138位・経済123位 / 報道の自由度ランキング70位 / 1人当たりGDPはG7で最下位。アメリカの半分以下        

 

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〈藤原定家の時代402〉建仁4/元久元(1204)年11月3日~24日 畠山重忠の嫡男重保と平賀朝雅の「諍論」 北条政範(時政と牧の方の子)没 源空(法然)起請文 定家、良経・八条院に吉富荘(卿三位に横領された定家の荘園)の窮状を訴える

 


建仁4/元久元(1204)年

11月3日

「将軍家聊か御不例。」(『吾妻鏡』)

11月3日

・定家、石清水行幸に供奉。4日も。

石清水行幸の日。良経より、黒い小馬を賜っていたが、吉富庄から招来した、川原毛の馬の方がよいと思われたので、これに乗って供奉した。(『明月記』)

11月4日

・京都六角西洞院の平賀朝雅亭で酒宴の際、畠山重忠の嫡男重保は平賀朝雅に対して何らかの悪口を吐き、両者は「諍論」となった。このときは同席していた者たちに宥められたというが、このことが翌年の畠山重忠の乱に繋がる一つの契機となる。

「故遠江左馬の助が僮僕等京都より帰着す。去る六日東山の辺に葬ると。また同四日、武蔵の前司朝政が六角東洞院の第に於いて酒宴の間、亭主と畠山の六郎と諍論の儀有り。然れども会合の輩これを宥めるに依って、無為に退散しをはんぬの由、今日風聞すと。」(『吾妻鏡』11月20日条)

11月5日

・義時の弟政範(時政と牧の方との間の子)、京都で没。

「遠江左馬の助、去る五日京都に於いて卒去するの由、飛脚到着す。これ遠州当時の寵物牧の御方腹の愛子なり。御台所御迎えとして、去る月上洛し、去る三日京着す。路次より病悩し、遂に大事に及ぶ。父母の悲嘆更に比ぶべき無しと。」(「吾妻鏡」13日条)。

時政にとって、長子宗時はすでに亡く、次子義時は江間姓をもって分立させ、三子時房を嫡子に立てたものの、時政38歳にして誕生した政範が、おそらく枚方によって後継者に位置づけられたものと思われる。その政範を失った時、とくに牧方にとって、義時・時房という先妻の子を後継に据えることは認めがたかったのではないだろうか。そこで、政範にかわる後継者はだれかと考えた時、女婿の一人朝雅こそ、清和源氏の血筋を引く立場もあって有力候補であった。

11月7日

源空起請文。源空(法然)、天台座主真性に起請文を送る。

元久の法難(「浄土宗大辞典」より)

げんきゅうのほうなん/元久の法難

元久年間に起こった、南都北嶺が座主や朝廷に法然の専修念仏の禁止を求めた一連の動きのこと。三大法難の一つ。此岸での平等をも説く法然の専修念仏の思想は、その革新性のゆえに、また法然の教えを曲解した弟子の活動のために、北嶺延暦寺や南都興福寺から危険視されていた。それまでにも南都北嶺の衆徒が専修念仏の停止(ちょうじ)を求めて蜂起するかもしれないという噂があったが、ついに元久元年(一二〇四)の冬、延暦寺東塔・西塔・横川(よかわ)の三塔の衆徒らが大講堂前の庭に集まった。『四十八巻伝』三一では、鐘楼の鐘の音を合図に、四方から手に手に武器を持った裹頭頭巾かとうずきんの衆徒らが大講堂前に集まり幾重もの円陣が組まれている様子が描かれている。ここで衆徒らは天台座主真性に専修念仏の停止を訴えることを決めた。この動きに対し法然は一一月七日、法然から座主へ『送山門起請文』を送り偏執が本意でない旨を弁明した。また同日には門弟らに七箇条にわたる制誡を示し、それに弟子らは署判を添えた。これを『七箇条制誡』といい、署判者は信空をはじめとして一九〇名に及ぶ。聖光はこのときすでに京都を離れていたのでその名はない。『四十八巻伝』では、九条兼実が座主真性に手紙を送ったことでようやく衆徒の訴訟が止んだことが記されている。『送山門起請文』には、法然がこれまでにも比叡山に「起請」を送っていたことが記されており、この問題が根深いことを示している。ここで法然は「黒谷沙門」と名乗っているように、基本的には天台宗内部の問題であったが、専修念仏停止要求の動きは南都ヘも拡がった。(後略)

「近日の風聞にいはく、源空偏に念仏の教をすヽめて、余の教法をそしる。諸宗これによりて陵夷し、諸行これによりて滅亡す云々。・・・此等の子細先年沙汰の時、起請を進畢。其後いまだ変せず。かさねて陳ずるにあたはずといへども、厳誠すでに重疉のあひだ、誓文又再三にをよぶ。・・・伏乞、当寺の諸尊満山の護法、證明知見したまへ。源空敬白。 元久元年十一月七日 源空」

11月8日

・定家、安井殿行幸に供奉

11月8日

「将軍家御不例平癒の後、御沐浴の儀有りと。」(『吾妻鏡』)

11月9日

・定家、和歌所で有家とともに部類を行う。後鳥羽院御製を切り入れる

和歌所に於て、家隆と、部類に御製を切り入れる。明日春日の歌合、衆議判、巳の時に参ずべしと。毎日出仕、筋力の疲れ極めて甚だしく、堪え難し。(『明月記』)

11月10日

・『春日社歌合』。定家、講師、判詞執筆も勤める。当座歌合、判者を勤める

未の時、良経の許に参じ、御供して院に参ず。程を経ずして出でおわします。召しにより、和歌所に参ず。予召しにより、又講師を勤仕し、又勝負の字を付く。形の如くに判詞を書く。なまじいに右筆して、これを注し付く。四十五番、評定終りて退く。又三番の題、当座にこれを詠ず。此の間に燭を掌る。作者を隠して番を結ぼる。持ちて参ずるの後、又召しによりて参上し、これを読み勝負を付く。天気殊に快然、入興の御気色あり。通具・有家・保季・雅経・丹後、別に御教書を以て感じ仰せらるると。面々これを捧ぐ。自愛堪能の歌仙、境を得るの秋なり。深更に御退出。窮屈度を失す。(『明月記』)

11月12日

定家、良経・八条院に吉富荘の窮状を訴える

11月13日

・定家、賀茂行幸に供奉

11月16日

・良経、左大臣辞任。12月14日、太政大臣

11月20日

・去る4日、六角東洞院の朝雅邸における酒宴席で朝雅と畠山重保が口論したことが、今日伝わった。周囲のとりなしで大事にはいたらなかったが後の大事件の伏線となった。

11月24日

・明日、良経宇治におわします。宜秋門院の女房、同じく参ず。頻りに催しをこうむるといえども、所労術なきの由を申す。

「衰老ノ愁人、寒天ノ遠路ニ出仕、更ニ以テ興無シ。」。又出車を献ず。(『明月記』)


つづく

2023年6月24日土曜日

〈藤原定家の時代401〉建仁4/元久元(1204)年9月1日~10月19日 なげやりな定家 「近日和歌ノ部類、日毎ニ催スト雖モ、所労術無キ由、披露ス。万事ニ興無シ。交衆甚ダ無益ナリ」 「暮レニ雨。病気減無シ。金商已ニ尽ク。」(『明月記』)

 


〈藤原定家の時代400〉建仁4/元久元(1204)年8月1日~29日 実朝と前大納言坊門信清の娘との縁談 五辻殿初度十五夜歌会 定家、「讒言」を被る より続く

建仁4/元久元(1204)年

9月1日

・今夜健御前有馬の湯に下向。(『明月記』)

9月3日

・定家、源顕兼の亡父宗雅仏事に参列

9月7日

・俊成猶子源隆保室没

9月13日

・健御前、今夜帰洛。(『明月記』)

9月14日

・実朝、義時邸に入る。

9月16日

・月蝕皆既。(『明月記』)

9月17日

・定家、宜秋門院懺法に参仕

後鳥羽院、熊野御幸。~10月6日。

今日、院御進発。(『明月記』)

9月23日

・定家、宜秋門院懺法に参仕。八条院舎利講に参仕

咳病に悩む。(『明月記』)。これ以降翌月初頭まで咳病を病む。

9月24日

「吉富ノ事、日ヲ逐ヒテ逼迫す。無縁ノ者、更ニ其ノ計無シ。将(は)タ奈何(いかにせん)ヤ。近日和歌ノ部類、日毎ニ催スト雖モ、所労術(ずち)無キ由、披露ス。万事ニ興無シ。交衆甚ダ無益ナリ」。道心なきを以て、なまじいに旬日を送る。ただ恥辱を増すあるか。(『明月記』)

9月30日

「暮レニ雨。病気減無シ。金商已ニ尽ク。」(『明月記』)


10月

・延暦寺衆徒、天台座主真性に専修念仏停止を訴える。

10月6日

・亥刻大地震(「吾妻鏡」同日条)。

10月14日

・実朝の妻に坊門信清の娘を迎えるため、容儀華麗の壮士を選出して、北条政範(16)以下、結城朝光・畠山重保(重忠の子)・千葉常秀ら多くの御家人が上洛。

坊門家は、信清の姉七粂院殖子(たねこ)が後鳥羽院の母であり、信清の娘坊門局(実朝の妻の姉)も後鳥羽の寵愛を受けるなど、院近臣の筆頭に位置しており、後鳥羽院の乳母として権勢を誇った卿局藤原兼子(のち卿二位と呼ばれた)がこの縁談を進めた。

「坊門前の大納言(信清卿)息女、将軍家御台所として下向せしめ給うべきに依って、御迎えの為人々上洛す。」(「吾妻鏡」同14日条)。

10月18日

・幕府、諸国の荘郷保地頭の違乱につき戒告。

「諸国荘園・郷・保の地頭等、事を勲功の賞に寄せ、非例を構え所務を濫妨するの由、国司・領家の訴訟出来するの間、今日その沙汰有り。名田と云い所職と云い、本下司の跡に任せ沙汰を致すべし。御旨に背かば、改職すべきの旨仰せ下さると。仲業・清定奉行すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月19日

・上皇、河陽におわします。伝え聞く、女房尾張(寵女)実快の房に於て逝去すと。(『明月記』)

尾張は、法眼顕清の子で、道覚法親王を生んでいる。この死を深く悲しんだ院は、水無瀬に御堂を造り、翌年10月20日に供養があった。


つづく

2023年6月23日金曜日

〈藤原定家の時代400〉建仁4/元久元(1204)年8月1日~29日 実朝と前大納言坊門信清の娘との縁談 五辻殿初度十五夜歌会 定家、「讒言」を被る   

 


〈藤原定家の時代399〉建仁4/元久元(1204)年7月14日~30日 定家、後鳥羽水練を見る 宇治御幸歌会(定家、講師を勤める) 頼家(23)殺害 「新古今」春・夏部の部類終る より続く

建仁4/元久元(1204)年

8月1日

・九条家の漢学特訓

中納言の許に参ず。良業真人参会す。左伝第一巻を受けしめ給う。九条に入り、叉良経に参じて退下、九条に宿す。(『明月記』)

8月3日

・定家、日野滞在中の兼実に参る

日野に参ず。二十三日より、兼実この寺におわします。御前に参ず。仰せを承り、小饌にあずかる。申の時、京に帰る。九条に休息し、又冷泉に帰る。(『明月記』)

8月4日

・源実朝、足利義兼の娘との縁談を断り、京の公卿の娘(前大納言坊門信清の娘)との縁談を進める(「吾妻鏡」同日条)。

「将軍家御嫁娶の事、日来は上総の前司息女たるべきかの由その沙汰有りと雖も、御許容に及ばず。京都に申されすでにをはんぬ。仍って彼の御迎え以下用意の事、今日内談有り。供奉人に於いては、直の御計らいとして人数を定めらる。容儀花麗の壮士を以て選び遣わさるべきの由と。」(『吾妻鏡』)

足利氏は、実朝との婚姻によって次期将軍の外祖父になりえたため、頼家の婚家比企氏の例がある以上、両者の結びつきに北条氏が不安を抱いた。第二の比企氏をつくり出さぬ方策として、京都の公卿の娘が選ばれた

実朝の室となる坊門信清の娘の姉は後鳥羽院の後宮にあって坊門局と称する人物であったため、婚姻関係上、後鳥羽院と実朝は義兄弟となる。

また翌2年3月に奏進された『新古今和歌集』は、9月には鎌倉に届けられており、両者の関係が円満であったことがうかがわれる。とくに和歌を通じた関係は密接であり、「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふた心わがあらめやも」の実朝詠歌は、彼の勤王の志を表現したものとされ、この歌を含む実朝の家集『金槐和歌集』は和歌史上高い評価を受けている。

8月4日

・出で行かず。(『明月記』)

8月7日

・部類あるべき沙汰あるも、皆病と称して参ぜず。『春秋左氏伝』の荒本を入手し、日夜校合。欠巻朽損の巻を補写

巳の時許りに、良経の許に参じ、御供して院に参ず。部類の沙汰あるべきの由、昨日催すといえども、皆病を称して参ぜずと。未の時、御幸終りて退出す。(『明月記』)

8月8日

・五辻殿落成、後鳥羽院移徒

召しにより良経の許に参ず。束帯して、良経の御供して、院に参ず。五辻の新御所に御移徒。(『明月記』)

8月15日

・五辻殿初度十五夜歌会。当座歌会。

夜より雨降る。未後にようやく晴れる。深更に月明かし。昏黒の程、日来所労出仕しなかったが、やっと良経の許に参ず。今夜、院十五夜の御会によるなり。

戌終許りに、御供して五辻の新御所に参ず。やや久しきの後、御巽の方、子午の廊に出でおわします。和歌所に別当以下、召しにより御前に参ず。別当、序を書く。殿上人仰せにより、下より歌を置く、具親・雅経(家長・秀能二人の歌、これに付く)義隆・経通・予・有家・隆衡(今夜初めて参ず。所望と)・通光・頼実・良経置かしめ給う。講師有家を召す。大臣読師。人々近く参ず。五首を講ぜられ終る。各々退下し、本座に復す。

ついで、当座の会。硯紙を置く。火を打ちたるが如し。良経、すなわち置かしめ給う。歌一首なり。各々退出す。(『明月記』)

8月18日

・信濃前司行長(「源氏物語」作者といわれる)、八条院の石清水八幡宮御幸を奉行。定家も供奉。行家と定家は八条院という共通の場を持つ。

8月22日

・定家、訪ねた公経から「讒言」のことを聞かされる(8月22日条)。定家が院の「御点」(歌評)をそしり歌の善悪は自分が一番よく知っているなどと誇っている、と和歌所の年頭家長が語り、それを聞いた隆房も、定家は和歌に自慢の気がある、などと言ったというもので、それが院の耳に入り、不快を招いているというもの。

左金吾亭に向う。「近日家長等讒言(ざんげん)シ、天気不快ノ事等多ク、告ゲ示サル。予、御点ノ歌等ヲ謗(そし)リ、歌ノ善悪一身ニ弁(わきま)ヘ存ズルノ由、誇張ノ気有リト云々。新大納言(公房)之ヲ聞キテ云フ、彼ノ身、和歌ニ於テ自讃ノ気色アリ。猶以テ奇怪ニ処セラル。世上恐ルベシト云々。」(『明月記』)

8月24日

・催しにより、院に参ず。和歌を部類し、晩に退出す。(『明月記』)

8月29日

・二階堂行光に前年与えられていた16ヶ所の荘園、若狭忠季に返される。

8月29日

・杲云(かううん)逮捕流刑

「他僧また二人召し出さると。一人中門廊の西面に在り。後聞、検非違使三人参り、各々下部を以て引っ張り退出す。これ日来不当を聞こし食し置くの間、遂に生涯を失うか。遠流の由宣下せらると。また法眼と(鎌倉並びに卿三位寵人、近代権門)。忽ち時政朝臣申すに依って遠流せらる。堂罪の計を失い、この僧の結構より源出す。また堂衆滅亡の時、その住宅資財等多く運び取る。穢物を論ぜず王子宮彼岸所に安置す。此の如き積悪神慮に背く。叡聞に達すと。」(『明月記』)

8月29日

・例の和歌部類あり、良経の御供して、院に参ず。(『明月記』)


つづく

沖縄がまた戦争に一番近い島に 池澤夏樹さん 慰霊の日に思うこと(朝日); 『平和の礎(いしじ)』の沖縄戦で死んだ人々の名。「その名を読んでいくと、本土の名前はみんな男です。アメリカ人の名前も男ばかり。どちらも死んだのは兵隊だからです。でも、沖縄は、半分が女なんです。自分が住んでいるところが戦場になるというのは、そういうことです」 (辺野古では軟弱地盤での工事がぐずぐずと続く)「では、誰が工事を続ける決定をしているのか。.....『大東亜戦争』と同じで、誰も止める人間がいないのでしょう。あれほど予算を投入し、反対を押し切ってここまで来た以上、今更やめるとは言えない。これは、ほとんどメンツの問題ですよ。工事が進めば進むほど止めにくくなる点も、戦争と同じです」 / 沖縄 きょう戦後78年の「慰霊の日」 時代の曲がり角、平和の願い一層強く(琉球新報) / 沖縄戦、新版教科書は集団自決の日本軍関与触れず 市民団体調査(毎日)           

2023年6月22日木曜日

〈藤原定家の時代399〉建仁4/元久元(1204)年7月14日~30日 定家、後鳥羽水練を見る 宇治御幸歌会(定家、講師を勤める) 頼家(23)殺害 「新古今」春・夏部の部類終る     

 


〈藤原定家の時代398〉建仁4/元久元(1204)年6月2日~7月13日 後鳥羽院、得王を追放 定家、後鳥羽院宇治御幸に参仕 定家、宇治平等院の宝蔵を見る より続く

建仁4/元久元(1204)年

7月14日

「未の刻、将軍家俄に以て痢病を患わしめ給う。諸人群参すと。」(『吾妻鏡』)

7月14日

・定家、後鳥羽水練を見る。

院に参ず。院は、「水練ノタメ、川上ニオハシマス(去ル十日、又此ノ如シ)。諸人裸形ニテ、平等院ノ前庭ヲ渡ル。又裸ニテ馬ニ乗ル(鞍ヲ置カズ)。行列ノ躰、密カニ目ヲ驚カス。」。大府卿と後戸の方に隠れて、伺い見る。「窃(ひそか)ニ嘆息ス。」。夢の如し。冥鑒(みようかん)如何。礼仏して宿所に入る。今夕平等院に御幸の由。聞くといえども、程なく参ずるあたわず。私に橋の辺りに出づ。礼軽からず。(『明月記』)

7月15日

「将軍家御不例。猶御平癒の儀無し。仍って鶴岡宮に於いて真読大般若経を始行せらる。当宮の供僧等これを奉仕す。駿河の守季時御使いとして宮寺に参る。三箇日中に結願すべきの由仰せ下さるる所なり。」(『吾妻鏡』)

7月15日

・院に参ずる。今日宝蔵を御覧。笠懸あり。予、推参を恐れて見ず。日没するの程、還りおわします。すなわち退出す。又左金吾の宿所に出で向う。謁するの後に、良経の許に参ず。深更に退下す。(『明月記』)

7月16日

・宇治御幸歌会。定家、講師を勤める

下の袴を着し、巳の時、良経の許に参ず。午の時、御供して御所に参ず。未の時許りに出でおわします。各々召しに応じて参入す。歌を置き終る。仰せにより、定家講師。「ナガラノ橋ノ橋柱(はしばしら)ノ木ヲ、文台(ぶんだい)ニ作ラル(是レ院ノ御物ナリ)。今日、始メテ和歌所ニ出サル」。一座の講終って退下す。すなわち日来の狩衣を改め着す。次いで還御。京極殿より退下す。(『明月記』)

「長柄(ながら)の橋柱の朽ち残りによる文台」についての含蓄ある解釈については、堀田善衛『定家明月記私抄』を参照のこと。ここでは割愛。

7月18日

源頼家(23)、修善寺で北条時政の手の者に入浴中を襲われ殺害。政子はこの時48歳。

「伊豆国ノ飛脚参着ス、昨日(十八日)左金吾禅閤、当国修禅寺ニヲイテ薨ジタマフノ由、コレヲ申ス」」(「吾妻鏡」)。

「修善寺にて、また頼家入道をば指ころしてけり。とみにえとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取などしてころしてけりと聞えき。人はいみじくたけきも力及ばぬことなりけり。ひきは其郡に父の党とて、みせやの大夫行時と云う者のむすめを妻にして、一万御前が母をばもうけたるなり。その行時は又兒玉党にしたるなり。」(「愚管抄」)。

「正治元年ノコロ、……景時国ヲ出テ京ノ方へノポリケル道ニテウタレニケリ。子供一人ダモナク、鎌倉ノ本体ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガ不覚ニ人思ヒタリケルニ、ハタシテ今日カゝル事(暗殺)出キニケリ」と記し、梶原一族の滅亡を見過ごしたことが、頼家自らの破滅につながったという見方を取っている。

「左金吾禅閤の御家人等、片土に隠居し謀叛を企つ。縡(コト)発覚するの間、相州金窪の太郎行親已下を差し遣わし、忽ち以てこれを誅戮せらる。」(「吾妻鏡」7月24日条)。

7月19日

・気比社の再建がなり、遷宮日が定まる。

7月22日

・和歌所にて撰歌、部類始。この日、定家はこの勅撰集に続古今集の名を与えることに反対し、新撰古今集とすることを主張

『新古今和歌集』「撰歌」作業に加え、「部類」の仕事が始まる。撰ばれた歌を、春夏秋冬・恋・旅などといった部類に分ける作業。

今日、撰歌の部類を始めらるべき由、和歌所に参ずべき由、一昨日催しあり。よって参入す。酉の時許りに良経の御供して退出。家に帰って日没。(『明月記』)

7月23日

「将軍家御病悩平癒するの間、沐浴し給う。」(『吾妻鏡』)

7月23日

・歌の部類、留守に付けらる。よって河陽に参ぜず。ただし家長・清範を尋ねるに皆参ずと。(『明月記』)

7月24日

・頼家の家人謀叛を企つ。北条義時(42)、金窪行親を派遣して鎮圧す。

7月26日

・実朝、政治始め。実朝、安芸国壬生荘地頭職をめぐる山形為忠と小代八郎の争論を直々に沙汰。

「これ将軍家直(じか)に政道を聴断せしめ給うの始めなり」(『吾妻鏡』)。

7月27日

・春部上下の部類を終える

家長、昨夜京に帰る。その告げにより和歌所に参ず。大理・大府卿雅経・羽林・家長会合す。歌の箱を開きて部類す。羽林執筆。相構えて、春の上下、形の如くに功を終る。夕に退下す。家長杯酌破子(わりご)をすすむ。(『明月記』)

7月28日

・夏部の部類を終える。和歌所にて遊興、削氷を食べる

早旦、良経の許に参ず。御供して、五辻・新御所に向う。御覧じ廻らす。午の時に還りおわします。途中より和歌所に参ず。昨日の如く、家隆朝臣参合す。大理櫃二合を取り寄せられる(銘、代々勅撰の上下)。破子・瓜・土器・酒等あり。又寒氷あり。大理自ら刀を取り、氷を削らる。入興甚だし。納涼の中といえども、外人なきにあらず。堪能と称してこれを削る。白き布巾を以て、氷をつつみて、左手にこれをたたく。皐陶(こうよう)の職、頗る軽々たり。各々饗応してこれを食す。

今日、夏の部を終う。七夕の歌、又これを書く。取り置きて退出す。夜に入り、春宮に参じて陪膳を勤む。(『明月記』)

見事な、氷削りの芸である。当時、公卿は、みずから包丁と箸をとって魚も料理した。晴には、料理もまた、男の仕事であった。

7月30日

・夜に入り、北野社に参じ、通夜。(『明月記』)


つづく


これがポチの「聞く力」 → バイデン大統領 日本の防衛費増額へ「日本の指導者を3回説得した」(TBS) / 日本の防衛費増額「私が説得した」、バイデン氏が岸田首相への働きかけ示唆(読売);「米国のバイデン大統領は20日、カリフォルニア州で開いた支持者集会で、日本の防衛費増額を巡り「私は3度にわたり日本の指導者と会い、説得した。彼自身も何か違うことをしなければならないと考えた」と述べた。自ら岸田首相に増額を働きかけたことを示唆したものだ。」

 

▼ポチが喜んでる

 

 

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2023年6月21日水曜日

統一教会から北朝鮮への送金問題について、昨年10月の予算委員会で「点検しなければならない」と答えた岸田総理。8ヶ月経って何が分かったかと真正面から問うと、何も答える事ができなかった。北朝鮮への日本人の渡航数も不明。(参議院議員 田島まいこ)

マイナンバーカード問題で判明。Google日本元社長が嘆く“一線を超えた”日本の大崩壊(辻野晃一郎) ; マイナンバーも入管法も。完全に機能不全に陥った国会 河野太郎を厳しい立場に置いておきたい岸田 政権に飼い慣らされた大手メディアの責任放棄  

 

「不信感そのもの」「あんた考えが足らん」 維新町長らが町議を“つるし上げ音声”入手 ハラスメント被害を党に申告(週刊文春)

 

〈藤原定家の時代398〉建仁4/元久元(1204)年6月2日~7月13日 後鳥羽院、得王を追放 定家、後鳥羽院宇治御幸に参仕 定家、宇治平等院の宝蔵を見る

 


〈藤原定家の時代397〉建仁4/元久元(1204)年5月1日~26日 この月、定家、断続的に籠居 「病と称して倒れ臥し出で行かず」 より続く

建仁4/元久元(1204)年

6月2日

・定家、若宮(寛成親王)五十日に参仕

大雨未だ止まざるの程に門を出て鳥羽殿に参ず。(『明月記』)

6月5日

・定家、日吉社に参詣

6月6日

・中納言中将殿の許に参ず。吉富の禍事を申す。(『明月記』)

6月9日

・今日、院、得王を追放される。院の女房を奸(おか)すのゆえである。その女房は、皇女の母であり、これもまた追放された。得王は法眼実快の子で、院の寵童である。保家・実快等は、一条能保に親近していた。能保の猶子として、院に初参、弓馬の芸、抜群の者である。今日明日にも元服して、英華の器たるべきものだった。(『明月記』)

「真面目な、あるいはクソ真面目な文体(漢文)で記されている明月記を読んでいても、ときには吹き出し笑いに笑い出させられることがある。元久元年六月九日の記である。煩を避けるために私の文章に直してしまうと、


今日後鳥羽院は得王なる者を追い出された。院の申されるには、「保家卿に返せ、本父には返すな」と。保家は得王と同車して退出した。天下の幸人(得王)、今かくの如しだ。(得王が院の)女房を犯したからだ。この女がまた、院の皇女を生んでいたのだ。この女も追放された。この童子(得王)は、法眼実快の子で、保家と実快が一条禅門(源能保)のところに居候をしていたことから、能保の養子ということで初参させたものだ。これが外嬖(グワイヘイ)の寵、すなわち院の男色用に可愛がられ、弓馬のの芸も抜群であった。今日明日にも元服して、内裏の英華の器になる筈であったのに、今此ノ如シ。


後鳥羽院にいったい何人の女がいたか、それはもう数えがたい。天皇のための侍寝職(すなわち寝る役職である)として令制にあるものだけでも、皇后一、妃二、夫人(ぶにん)三、嬪四、計十人、令制はこの時代には実態とかなり異なってきているとはいえ、これに女御、更衣などぞろぞろといて、年に二人から四人くらいの子供が生まれているのであるが、これだけではなくて、後鳥羽の場合、遊女や舞女、白拍子などを引き入れたり、向こうから押しかけて来たりで、(略)女の数も子供の数もとても数えられぬ有様である。

そこへもって来て男色までが加わり、(後略)」(堀田善衛『定家明月記私抄』)

6月13日

・定家、大内行幸に供奉

6月15日

・熊野の行遍法橋来談、歌人である。(『明月記』)

6月22日

・早旦、中納言殿の許に参ず。良業真人、尚書を授け奉る。申終許りに、良経の許に参ず。今日、御作文あり。去る十二日詠史あり。詩の序、清撰。時々この如き普通の事あり。諸儒等を召すべきの由、儒教等申し行うと。よって採用なきの輩、皆もって参入す (実は御入興なきか)。予又その事に接す。殿下御絶句と。(『明月記』)

6月26日

・院、御不例、殊のほかに御増加と。(『明月記』)

6月27日

・院に参ずると、御悩、事の外重く、奏する事など、通ぜずという状態である。(『明月記』)

6月28日

・夜前今朝、車馬奔走す。院の御悩重い由、人々告ぐ。早旦に馳せ参ず。去る夜今朝、種々の御祈あり。御温気熾盛、供御のもの全く通ぜず。近臣集会す。暑気堪え難きにより退出す。後に聞く、物忌の良経も参入したと。(『明月記』)

6月29日

・早旦、良経の許に参じ、御供して院に参ず。今日すこぶるよろしくおでますと。天下の慶びなり。(『明月記』)

7月1日

・巳の時許りに院に参ず。去る夜今朝、事のほか無為。大略御減かと。八条院に出車を進む。(『明月記』)

7月2日

・定家、鳥羽殿での八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕

7月10日

・日来、所労快からず。腹痛術なしといをも、申の時許りに、相扶けて良経の許に参ず。すなわち出でおわします。深草の辺りに於て、車に乗る。御船を以て河を渡り、宇治の新御所につく。今夜事なし。ただ経営するのみ。深更、宿所に退く。(『明月記』)

7月11日

・定家、後鳥羽院宇治御幸に参仕。~16日。

辰の時許りに参上す。緇素(しそ)集会奔走す。儲けらるもの、装束など一間の所に取り置く。未の時に御幸。公卿・殿上人、かくの如き旅の御供に参ずる輩、一人も残さず。有家朝臣・予等これに加わる。皆布衣なり。しばらく釣殿におわします。入りおわしますの後、公卿水干を着す。殿上人に直垂を給う。予の如き、ことさらに早く出づ。今日御笠懸あり。良経御見物に参ぜられる。(『明月記』)

7月12日

・院の御所に参ず。御狩という。太政大臣直垂を着して、御狩に参ずと。退出するの後、経蔵に参ず。良経以前におわします。有家朝臣衣冠、御経蔵を開くためなり。種々の珍しき物あり。今日の御狩、雨によって還御。(『明月記』)

7月13日

・後鳥羽院狩猟の間、定家、宇治平等院の宝蔵を見る

院に参ず。御狩おわしますの間、列居するの後、宝蔵に参ず。又種々の珍しき物を見る。(『明月記』)


つづく


2023年6月20日火曜日

米国・ブリンケン国務長官 「我々は台湾独立を支持しない」 ; 「一つの中国」「台湾独立は支持しない」というアメリカの姿勢は1972年の上海コミュニケ以来何一つ変わっていない。別にブリンケンが特別のことを言ったわけじゃない。特別なのはアメリカ軍産複合体に踊らされて台湾有事があると思い込みバカな防衛費2倍をやった日本人たち! — 佐藤 章

 




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維新、下地幹郎氏の除名を撤回か IR問題巡る処分、党紀委で見直しを協議 下地氏は衆院選対応で会見の用意 - 琉球新報デジタル

【動画】中国深圳の端午節で披露されたドローンの見事な動き

 

〈藤原定家の時代397〉建仁4/元久元(1204)年5月1日~26日 この月、定家、断続的に籠居 「病と称して倒れ臥し出で行かず」 

 


〈藤原定家の時代396〉建仁4/元久元(1204)年4月11日~29日 定家、昇進の希望叶わず奉公無益と悲嘆 より続く

建仁4/元久元(1204)年

5月1日

・定家、後鳥羽院鳥羽御幸に参仕

鳥羽殿に参ず。明日御狩、伏見の山鹿を駆り、鳥羽の山に追い入れらるべしと。近習の人皆参ず。京に帰る。(『明月記』)

5月2日

・定家、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕

中納言中将殿の許に参ず。御雑熱、減気あり。(『明月記』)

5月3日

・九条に在りて、出で行かず。(『明月記』)。4日も。

5月5日

・明日、五節の遊びを行わるべし、近習の公卿以下、殿上人六位となすと。乱舞遊宴あるべしと。無骨の者、召されず。もっとも然るべし。(『明月記』)

5月6日

・以後三ケ日、籠居。(『明月記』)

5月8日

・幕府、国司の訴えにより山海狩猟などの国衙の所役および国司・地頭の得分を定める。

「・・・山海の狩漁国衙の所役に従うべき事。塩谷の所当三分の一を以て地頭分と為し、抑留の儀を止むべき事。節料の焼米国司の得分たるべき事。以上三箇條、且つは国宣に随い、且つは先例に任せ、沙汰を致すべきの旨、地頭等に仰せ付けらる。左衛門の尉義村・左京の進仲業奉行たりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月10日

・幕府、山内首藤経俊の守護を剥奪。代わって平賀朝雅を伊賀・伊勢両国の守護に補任(「吾妻鏡」同日条)。

「伊勢平氏等追討の賞の事、その沙汰有り。廣元朝臣・問注所入道等これを奉行す。朝雅伊勢の国守護職を補任す。また彼の輩の私領水田を給う。件の両国守護は経俊が本職なり。而るに平氏が片時の権威を恐れ逃亡するの間、改補せらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月10日

・今度安井殿に行幸。所労を申して冷泉に帰り、倒れ伏す。(『明月記』)

5月11日

・以後、病と称して倒れ臥し出で行かず。(『明月記』)

5月15日

・最勝講。兼実の御子息両人の御所作、殊勝と (良田法印・良快僧都)。

5月20日

・後鳥羽院、春日社三十首を奉納

5月22日

・定家、後鳥羽院鳥羽御幸に参仕。以後、6月にかけてしばしば参仕

籠居の後、初めて鳥羽殿に参ず。九条に帰り、良経の許に参ず。(『明月記』)

5月26日

・良経の許に参ず。御不例、事のほかにむつかしくおわしまし、出でおわしまさず。(『明月記』)


つづく


2023年6月19日月曜日

鎌倉アジサイ散歩 極楽寺(境内の紫陽花はまだまだ元気。萩も少し咲き始め) 成就院(紫陽花は終盤、ハンゲショウ) 収玄寺(紫陽花は終盤) 2023-06-19

6月19日(月)晴れ

今日は、鎌倉の極楽寺~成就院~御霊神社~収玄寺を歩いた。
ざっくり言って、極楽寺以外の紫陽花はもう終盤、お疲れの色濃い様相であった。

そろそろ紫陽花も終盤だし、土・日曜日にたっぷりと人出があった月曜日、多少はマシかと思ったけど、とんでもない!、行きの横須賀線も江ノ電も満員だった。
 
▼極楽寺
予想以上に、紫陽花はまだ元気だった。門前の萩も少し、咲き始め。   

 






▼成就院
こちらの紫陽花は、終盤、かなりお疲れの模様だった。
ハンゲショウが咲いていた。




▼御霊神社
境内は「神域」なので撮影不可(←どういう理屈なのか?イマイチ理解できない)。
境内は、多分、前年までのは無かった鉢植えの紫陽花がきれいに整列されていた。

下↓の写真は、鳥居の外なので一枚だけ撮ったけど、やっぱり、これ「神域」かな?

▼収玄寺
こちらも大半の紫陽花は既に終盤だった。


米カジノ設計者が「大阪IRは間違い」と断言! 「行政が中毒になって収拾がつかなくなる」(日刊ゲンダイ);「デトロイト(ミシガン州)は「街がボロボロ」、フィラデルフィア(ペンシルベニア州)は「カジノの近くには危なくて行けない」と言い、「都市にできたカジノが10年、20年経てどうなっているか。『失敗例』を見に行くべき」とアドバイス。」

 



 

〈藤原定家の時代396〉建仁4/元久元(1204)年4月11日~29日 定家、昇進の希望叶わず奉公無益と悲嘆 


 〈藤原定家の時代395〉建仁4/元久元(1204)年3月21日~4月10日 定家、吉富荘を横領される 定家、良経への奉公も詮なしと思う 「奉公更ニ詮無シ」 三日平氏の乱(伊勢・伊賀の平家の残党が挙兵、鎮圧される) より続く

建仁4/元久元(1204)年

4月11日

・良経の若君(典侍の腹、母は宜秋門院女房の左馬助政綱女か)、今日はじめて慈円の御房に参じ給う。中納言中将殿御同車と。御供の催しありといえども、障りを申して参ぜず。この若君母儀の所行、甚だ甘心せず。迎送の志なし(この若君の誕生、御一門の遺恨か)。(『明月記』)

4月12日

・祭除目あるが、定家の所望叶わず、奉公無益と悲嘆

祭の除目。両方の所望、更に許容なし。奉公甚だ無益。今日出でゆかず。(『明月記』)

4月13日

・定家(43)、この月の除目にも望みは叶えられず(蔵人頭に任じられず)。

藤原盛経が右少弁、北条時政の子で実宣の妻の兄弟の藤原政憲が左馬助になり、「在朝の中将皆非人、あるいは放埒の狂者、尾籠白痴(びろうはくち)、凡卑の下臈、上臈を超ゆべからず。上臈の器に非ずして昇進の道理なきの由評定と云々、毎除目にあまつさえ五十人を加う、末代の中将疋夫(ひっぷ)に異らず」と罵倒、盛経や兼定に対して、「漢字を書かず、商賈(しょうか)の力によって造作の勤仕を加う」と非難。この時、定家は中将(正四位下左近衛中将)で、その次を狙う。

除目の聞書を見る。「在朝ノ中将皆非人、或ハ放埓ノ狂者、尾籠ノ白痴。凡卑ノ下﨟、上﨟ヲ超エペカラズ。非器ノ上﨟、昇進ノ道理ナキノ由、評定スト云々。除目毎ニ、剰へ五十人ヲ加フ。末代ノ中少将、疋夫ニ異ラズ。両全ノ所望、遂ニ以テ許サズ。兼定・盛経・成業、業ヲ成スニアラズ、漢字ヲ書カズ。商賈ノ力、造作ノ勤メニ依り加任。為長ノ弁官、世驚クべシ。盛経ハ父ノ子ナリ。兄ノ弟ナリ。理運ノ由、賢者等挙ゲ申ス。又母后ノ懇切卜云々」(『明月記』)

4月15日

・暁鐘の後、召しにより良経の許に参ず。東殿の若君の御方に於て、物の気を追われた。夕、賀茂の祭使の少将のもとに、摺り袴を贈る。(『明月記』)

4月18日

・北条義時(42)、若殿観音堂に向かう実朝に供奉す。

4月21日

・1日付けで院の昇殿を仰せられた、定家の長男光家が拝賀の装束を整えて参院し、舞踏(丁寧な挨拶)をした後、定家と共に越中内侍に謁して退出。

4月22日

・定家、仁和寺上乗院での藤原実明猶子灌頂に参仕

4月21日

・平賀朝雅より伊賀・伊勢の平氏残党追討が完了したとの報告が鎌倉に届く。

4月23日

・後鳥羽院、鳥羽・宇治・水無瀬御幸。~8月5日。

慈円、一昨日法住寺殿に渡り給う。この事、かねて沙汰あり。大善事を始めらるべしと。しかも、昨日逐電し、彼の御所を出で給う。周章極まりなしと。その由を知らず。天狗のなす所か。彼の御辺、かくの如き事連々又あり。驚奇するに足る。(『明月記』)

(慈円は、出家の身で更に荒い修行をしたいと、時々逐電をすることがある)

4月24日

・門戸を出でず。(『明月記』)

4月25日

・籠居す。(『明月記』)

4月26日

・定家、後鳥羽院鳥羽御幸に参仕。27日も。

4月29日

・中納言中将殿、又雑熱の事御坐す、よって参上。(『明月記』)


つづく

〈音声入手〉被害者に“口封じ”、“つるし上げ音声” 維新はハラスメント天国だった(週刊文春) / 議員以上の影響力?“維新の入道”高石康氏は何者か? 記者の直撃に語った“恫喝の言い訳”(週刊文春) / 「辞めてまえ」維新支部幹事長、女性府議に威圧的言動か 党内で調査:朝日新聞デジタル / 〈音声入手〉維新吉村知事巨漢SP 女性府議への恫喝音声(週刊文春)




 



 

2023年6月18日日曜日

〈藤原定家の時代395〉建仁4/元久元(1204)年3月21日~4月10日 定家、吉富荘を横領される 定家、良経への奉公も詮なしと思う 「奉公更ニ詮無シ」 三日平氏の乱(伊勢・伊賀の平家の残党が挙兵、鎮圧される) 

 


〈藤原定家の時代394〉建仁4/元久元(1204)年2月12日~3月20日 定家、越中内侍から所望(昇進)叶い難いと聞き悲嘆 八条院姫宮(以仁王女)没 義時(42)従五位下相模守 山内首藤経俊が伊賀・伊勢の叛乱鎮圧に失敗したとの報告 より続く

建仁4/元久元(1204)年

3月21日

・この日の院御所議定の決定に基づいて、平賀朝雅は追討使だけでなく伊賀国知行国主にも任じられ、翌22日、200騎ばかりを率いて下向した。この措置は、国衙を掌握して人員や兵粮などの軍需物資を確保できるように、朝廷側が追討活動の便宜をはかったものであり、朝雅は美濃国を迂回して伊勢・伊賀両国に侵攻し、4月10日から12日にかけての3日間の戦闘によって反乱をほほ平定した(そのため「三日平氏」の名がある)。

3月21日

・この一両日、伊勢平氏謀反のこと噭々の由、その聞えあり。その勢千人に及ぶと。(『明月記』)

3月23日

・定家、八条院の美福門院月忌仏事に参仕

3月24日

・歯痛む。心神冷然たり。出仕せず。(『明月記』)

3月25日

・定家、吉富荘のことにつき八条院に訴える。定家が吉富の荘園で使っていた悪僧杲云(かううん)が、卿三位兼子と共謀して定家の吉富荘を横領。

吉富庄、卿三位の庄となし、押入らる。解状を八条院に持参し、これを申し入れる。御腰のことにより、御灸治とのこと.(『明月記』)

3月27日

・夕、嵯峨に行く。静快の庵室に宿る。方違えのためなり。(『明月記』)

3月28日

・定家、良平著陣に扈従

3月29日

・定家、後鳥羽院の御修法結願に参仕

3月29日

・伊勢・伊賀両国に進発した朝政から報告がなく、大江広元は、京幾の御家人たちが朝政の下知に随って現地へ出動するよう命じた。

「伊賀・伊勢両国の平氏謀叛の事、その後左右を申さざるの間、頗る御不審無きに非ず。仍って今日昼夜雑色等を遣わさる。武蔵の守朝雅が下知に随い発向すべきの旨、重ねて京畿御家人の中に仰せらると。廣元朝臣これを奉行す。」(『吾妻鏡』同日条)

3月30日

・定家(43)、良経を歯がゆく思う。官位の推挙なければ、良経への奉公も詮なしと思う。

「所望ノ事、更ニ御吹挙(推薦)ノ御心無シ。奉公更ニ詮無シ。(中略)余命幾バクナラズ、何(いづ)レノ日ヲカ期セン。」(『明月記』)


4月1日

・実朝、駿河・武蔵・越後の検注を令ずるも遵行されず。

「駿河・武蔵・越後等の国々、重ねて内検を遂ぐべきに依って、宣衡・仲業・明定等を下し遣わさるべきの由その沙汰有り。廣元朝臣・清定奉行たり。」(「吾妻鏡」同1日条)。

「駿河以下三箇国内検の事、先日決定せしむと雖も、重ねてその沙汰有って延引す。これ去年御代始故、撫民の御計らい有るべきに依って、有限の乃貢、猶員数を減ぜられをはんぬ。今年その節を遂げらるるに於いては、民戸定めて休み難きか。然れば善政を行われざるが如し。暫く閣かるべきの由と。」(「吾妻鏡」4月16日条)

4月1日

・良経男教家元服。定家の長男光家、院の昇殿を仰せられる。4月21日、拝賀の装束を整えて参院し、舞踏(丁寧な挨拶)をした後、定家と共に越中内侍に謁して退出。

辰の時京を出て、日吉に参詣。申の時宮過り、通夜。今日、良経の若君御元服と。従五位上に叙せられ昇殿と。(『明月記』)

4月2日

・暁、京に帰る。夜に入り、中納言中将殿の許に参ず。二十七日より、この殿、雑熟とのこと、その後、連々相障りて参ぜず。よって今夜参ず。今日減気と。(『明月記』)

4月7日

・物忌みの由を称し、籠居。(『明月記』)。8日も。

4月10日

・三日平氏の乱。

平賀朝雅軍、攻勢に出て、若菜五郎盛高を関の小野で討つ。基度・盛光・四郎・九郎を誅殺、河田刑部大夫を捕縛。雅楽助三郎盛時、逃亡。12日、叛乱鎮圧。

伊勢平氏の叛乱は、まず元暦元年(1184)7月、出羽守平信兼を中心に伊勢・伊賀両国の平家一族が蹶起し、伊賀守護大内惟義の率いる鎌倉勢によって鎮圧され、富田家助(資)、平家継、平家清(頼朝を除名した宗清の子)等は討ちとられ、信兼や藤原忠清らは姿を晦した。叛乱は一応鎮定されたけれども、伊勢平氏や伊賀平氏の根は、広く深く伸びており、この程度の追討では払拭されるものではなかった。

「三日平氏の乱」は、元暦の叛乱を企てた、伊勢・伊賀両国の平家の残党が雌伏20年の後に企てた一揆で、彼らは将軍頼家の廃除をめぐる幕府の内訌を好機として、挙兵した。

「武蔵の守朝雅が飛脚到着す。申して云く、去る月二十三日出京す。爰に伊勢平氏等鈴鹿の関所を塞ぐ。険阻を索めるの際、縦え合戦を遂げずと雖も、人馬これを通り難きに依って、美濃の国を廻り、同二十七日伊勢の国に入る。計議を凝らし、今月十日より同十二日に至り合戦す。先ず進士三郎基度(もとのり)が朝明(あさけ)郡富田の館を襲い、挑戦刻を移す。基度並びに舎弟松本の三郎盛光・同四郎・同九郎等を誅す。次いで安濃郡に於いて岡の八郎貞重及び子息・伴類を攻め撃つ。次いで多気郡に到り、庄田の三郎佐房・同子息師房等と相戦う。彼の輩遂に以て敗北す。また河田刑部大夫を生虜る。凡そ狼唳両国を靡かすと雖も、蜂起三日を軼(す)ぎず。件の残党猶伊賀の国に在り。重ねてこれを追討すべしと。」(「吾妻鏡」4月21日条)。

「朝雅が飛脚重ねて到来す。去る月二十九日伊勢の国に到る。平氏雅楽の助三郎盛時並びに子姪等、城郭を当国六箇山に構う。数日相支えると雖も、朝雅武勇を励ますの間、彼等防戦に利を失い敗北す。凡そ張本若菜の五郎城郭を構える処所、所謂、伊勢の国日永・若松・南村・高角・関・北野等なり。遂に関・北野に於いてその命を亡ぼすと。度々の合戦次第・軍士の忠否等、分明にこれを註し申す。山内首藤刑部の丞経俊・同瀧口の六郎等、始めは平氏の猛威に怖れ逐電せしむと雖も、後は朝雅に行き逢い、相共に征伐を励むの由、同じくこれを載すと。」(「吾妻鏡」5月6日条)。


つづく