2010年2月27日土曜日

京都 嵐電(らんでん)に乗って(3) 太秦広隆寺から嵐山へ 嵐山界隈 嵯峨野の野々宮神社

太秦広隆寺駅から嵐山に向う。
駅ホームに民家が直結?!
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左側に先ほど参拝した広隆寺が見える
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ちょっと変わった駅名が続く
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ベタな嵐山風景
写真を撮った辺りを中之島といったはずで、この左右側どちらかに昔、「日中不再戦」の碑があったと思ってましたが、ざっと探しても見付かりませんでした。
家に戻ってネットで調べたら、まだ有ったんですね。この写真の右側(後ろ側)、阪急「嵐山」駅の近くです。
残念。
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光秀が愛宕百韻を挙行した愛宕山。
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向いに見えるのが比叡山。
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小学生の頃はこの場所で泳いでいました。
でも、ひと夏に何人かは水死していて、学校からは桂川水系での水泳厳禁のお達しが出たような記憶があります。
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美空ひばり座
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天龍寺は時間の関係で通過
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竹林の道を抜けて野宮神社へ
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ところで・・・、
場所は変われど、嵯峨野の野宮だけが野宮ではないのである。
下は、実家近くの野宮神社(野々宮神社)。
子供の頃、かくれんぼ、ドングリ拾いをした場所ではある。
その頃は、「野々宮さん」と呼んでいた。
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嵯峨野の野宮がどの斎宮か不詳なのに比べ、わが実家近くの野宮は、醍醐天皇の皇女で朱雀天皇の時の斎宮である雅子内親王の野宮と伝えられている。
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また、嵯峨野の野宮は、光源氏が六条御息所を訪ねる場面の舞台と云われるが、これまた不詳である、・・・云々ともいわれる。
でも、これはこれでいいんじゃないかな。
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「ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居どもは、さすがに神々しう見えわたされて、・・・」(「源氏物語)。
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野々宮は嵯峨野巡りの起点。
次回以降、嵯峨野巡りの数か所をご紹介します。
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「★京都インデックス」 をご参照下さい
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治承4(1180)年6月2日~3日 福原遷都 「入道相国、人臣の身としてうつされけるぞおそろしき」(「平家物語」)

治承4(1180)年6月2日
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・福原遷都。
2日、どうして福原へ行くのか噂が飛び交い、遷都説が有力となる。京に留まる者は罪科を蒙るとの噂さえ飛ぶ。人々が不安気に見守るなか、数千騎の武士の護衛により遷幸の一行は福原に向かう。

3日、荒田の平頼盛邸が内裏とされ、安徳天皇は頼盛邸へ、高倉上皇は平野の平清盛邸雪御所へ、後白河法皇は平教盛邸へ、摂政は安楽寺の別当安能の房に、一旦は落ち着く。
4日、高倉上皇、平頼盛邸へ移る(6月4日~7月28日。後、平重衡邸へ)。安徳天皇、平清盛邸雪の御所(本皇居)へ移る。
11日、遷都の議定を行う。

 九条兼実は「仰天の外他無し」と驚く。
また、3日の予定が2日に早まり、付き添う公卿も2~3人、殿上人は4~5人に限るとされる。乱世に生まれ合わせ、このようなことを見るのは宿業である、と兼実は記す。
兼実は、福原に供をする人物は清盛の意中の人物だけであるとを知ってはいたが、前日、赴くべきかどうかを清盛に尋ねると、寄宿する所がないので遠慮するように、との返事。

「卯の刻、入道相国(清盛)の福原別業に行幸す。法皇(後白河)・上皇(高倉)同じく以て渡御す。城外の行宮、往古その例有りと雖も、延暦以後すべてこの儀無し。誠に希代の勝事と謂うべきか。敢て由緒を知らんとする人無し。疑うらくは南都を攻めらるべき〈大衆猶蜂起す。敢て和平無しと云々。〉の間、不慮の恐れ有るべきか。
・・・或る説、遷都有るべしと。」(「玉葉」同日条)。

この日卯刻(午前6時頃)、安徳天皇(3)の輿には、乳母の帥典侍(時忠の妻)が同乗、中宮徳子・後白河法皇・高倉上皇以下が八条邸を出立。
八条通から南下して草津(伏見区横大路)に至り、そこから舟で淀川を下り、この日は大物浦(尼崎市)泊、翌朝福原に赴く。
「玉葉」「山槐記」によれば、炎旱のため川の水が干上がり、船や筏が停滞して思うにまかせなかったという。
福原での宿所は、内裏には頼盛邸が、上皇は清盛の別荘(雪見御所)、法皇は敦盛邸があてられ、摂政基通は安楽寺別当の安能房があてられたという。頼盛はその賞により正二位となる。しかし、その他の者は、「道路に立つ(座す、とも)が如し」という。
「平家物語」巻五「都遷(ミヤコウツシ)の事」には、法皇の御所は、四面を板塀で囲み、入口は一つだけで、三間(正面が柱間三つの建物)の板屋を作って押籠め、守護の武士に原田大夫種直ばかりが伺候したので、蔭では「籠(ロウ)の御所」と呼ばれたとある。
清盛は高倉宮の謀反に激怒し、一度は解放した法皇を再度監禁する。
「玉葉」によると4日夜には安徳天皇は頼盛邸より清盛の別荘に移る。その割注に「太上皇御所也、則ち居替り給う云々」とあり、それまで清盛邸にいた高倉新院(「玉葉」はこれを太上皇=後白河法皇とするが聞き誤りと推測できる)と入れ替ったということになる。
「山槐記」7月28日条に、頼盛邸の新院が逐日憔悴のためこの夜重衡の宿所に移るとあり、新院が頼盛邸に移っていたことが判る。

□「平家物語」(巻5)では・・・
「都遷(みやこうつり)」:
遷都は、平氏悪行の極まり、滅亡への先触れとされる。
「一天の君、万乗のあるじだにもうつしえ給はぬ都を、入道相国、人臣の身としてうつされけるぞおそろしき」。

月見(つきみ):
6月9日新都造成起工式。8月10日棟上げ(11月15日安徳天皇遷幸)。この頃、福原では、人々は月の名所を訪れるが、徳大寺左大将実定は旧都に戻り、近衛河原の大宮(太皇太后多子、実定の妹)の御所を訪ねる。旧都は荒れ果てている。
月あかりの下、「待宵の小侍従」という女房と今様を謡いかわすありさまに、涙せぬ人はなかった。

物怪之沙汰(もつけのさた):
遷都以来、平家の人々は夢見も悪く、怪異現象が続く。
なかでも清盛の眼前には、「ひと間にはゞかる程の物の面」や「死人のしやれかうべ」が出現するが、清盛に睨まれ消え失せる。
源中納言雅頼に仕える青侍(せいし)は、平家が滅び源氏に移り、その後藤原に天下が移る夢を見る。(物語としては、都を中心に平家の悪行を見てきた読者の目を東国の頼朝に向け、源平合戦の第2段階へ入る舞台廻しの位置にある)。

□「方丈記」では・・・
「又、治承四年水無月の比(コロ)、にはかに都遷り侍き。いと思ひの外なりし事なり。
おほかた、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実(ゲ)にことわりにも過ぎたり。
されど、とかくいふかひなくて、帝よりはじめたてまつりて、大臣・公卿みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官・位に思をかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ世に余(アマ)されて期する所なきものは、愁へながら止まり居り。軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮び、地は目のまへに畠となる。人の心みな改まりて、たゞ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし。西南海の領所を願ひて、東北の庄薗を好まず。

その時、おのづから事のたよりありて、津の国の今の京にいたれり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて、条里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海近くて下れり。波の音常にかまびすしく、しほ風殊にはげし。内裏は山の中なれば、彼木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて優なるかたも侍り。日々にこぼち、川もせに運び下す家、いづくにつくれるにかあるらむ。なほむなしき地は多く、つくれる家は少し。古京はすでに荒て、新都はいまだならず。ありとしある人は、皆浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所にをるものは、地を失ひてうれふ。今移れる人は、土木のわづらひある事を嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠・布衣なるべきは、多く直垂を着たり。都の手振里たちまちに改まりて、たゞひなたる武士に異ならず。世の乱るゝ瑞相とかきけるもしるく、日を経つゝ世中浮き立ちて、人の心もをさまらず。民のうれへ、つひにむなしからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給にき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、悉くもとの様にしもつくらず。

伝へ聞く、いにしへの賢き御世には、あはれみを以て国を治め給ふ。すなはち殿に茅ふきて、その軒をだにとゝのへず、煙の乏しきを見たまふ時は、限りあるみつぎ物をさへゆるされき。是、民を恵み世をたすけ給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。」(「方丈記」第二段)。

△中山忠親の福原での邸宅建設の場合。
家ができるまで別の宿所にて、その宿所から給地(班給された宅地)に出かけて家作を監督。一旦、京都で家屋を造り、これを分解して堀川~淀川で運び福原で組立てる。また、そのために大工を連れて福原に下向。
そして、やっと出来上ると、京都への還幸が言われ始める。

「八月十三日、卯刻輪田原を歴覧し、家人らを居らしめんがため、小松原二、三町ばかりを点ず。」
「二十三日、給地に向い歴覧し、丈尺を打たしむ。」
「二十四日、今日巳刻始めて給地を曳かしむ。」
「二十五日、卯刻給地に向い見回る。」
「二十七日、早旦給地に向い歴覧す。」
(二十八日帰洛)
「九月六日、福原宿所の棟門一字を旧都において造りおわんぬ。今日堀川より下しおわんぬ。」
(十月五日福原に下る)。
「十月七日、辰刻給地に向い、宿所を木作せしむ。このたびは工(大工)十余人を相具すところなり。」
「十日、給地に向い作事を見る。」
「十一日、早旦給地に向い作事を見る。」
「十三日、今日福原宿所上棟なり。」
「二十一日、早旦新造の宿所に向う。今夜この新造の宿所に移徒のことあり。旧都より将軍方に当るによりこの地を井戸次郎長房に譲与す。よってかの所今夜渡るところなり。」。
(十一月二十四日還都-上洛)。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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2010年2月26日金曜日

本能寺の変(4) 天正10年(1582)6月1日 「変」前日、信長は京都で、家康は堺で茶会 九十九茄子の運命

天正10年(1582)5月
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6月1日
 ・信長、博多の豪商島井宗叱(室)・神谷宗湛らを招き本能寺の書院で茶会を開く。
茶道具38種や名物を安土から持参し参集した者達に披露。
権大納言甘露寺経元・勧修寺晴豊、正親町天皇・誠仁親王勅使として信長に面会。
信長は村井貞勝を通じ、面会はするが進物は受け取らないと伝える(「晴豊公記」)。同席の山科言経は進物を出したが返される(「言経卿記」)。
信長は、「4日に西国に出陣するが、いくさは造作もないことだ」(「天正十年夏記」(勧修寺晴豊日記「日々記」))と上機嫌で話し、晴豊は「なかなかの聞き事である(よく云うことよ)」と書く。
三職推任について返答せず。
信長は12月に閏を設けたいと述べるが、晴豊は皆も反対していると返答したと記す。
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その他の公家衆も各自挨拶に出向き村井貞勝を通じて信長に面会。
この日は宮廷における皇族を除く関白以下全員と五摂家(摂政・関白に任ぜられる家柄。近衛・九条・二条・一条・鷹司)を筆頭にほぼ全員の堂上公卿(昇殿を許された四位以上の公卿)40数人が顔を揃える。
信長は、持参した数々の名物茶器を彼らに披露し、茶菓子を出して歓談。
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○公家衆(公卿(参議又は従三位以上)の殆どが本能寺に伺候:
関白兼左大臣藤原内基、太政大臣近衛前久、右大臣兼内大臣近衛信基、前関白九条兼孝、前内大臣二条昭実、鷹司信房 聖護院道澄 今出川晴季 徳大寺公維 飛鳥井雅教 庭田重保 四辻公遠 甘露寺経元 西園寺実益 三条西公国 久我季通 高倉永相 水無瀬兼成 持明院基孝 山科言経 庭田黄門 勧修寺晴豊 正親町季秀 中山親綱 烏丸光宣 広橋兼勝 東坊城盛長 五辻為仲 花山院家雅 万里小路充房 冷泉為満 西洞院時通 四条隆昌 中山慶親 土御門久脩 六条有親 飛鳥井雅継 中御門宣光 唐橋在通 竹内長治  
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「其外僧中、地下少々有之、不及記(そのほか僧侶や町人などの地下人が少々いたが、記述するほどではない)」(「言継卿記」)。。身分の低い者たちは記載していないが、50人超の人数であると窺える。
また、信長は、彼らが持参した進物を受領しなかったと、言継は記す。
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□6月1日付け信長の祐筆楠長諳が鳥居宗室に宛てた「御茶湯道具目録」(「仙茶集」)によれば、信長は安土から持って来た秘蔵の名物茶器を披露。
九十九茄子・珠光小茄子・紹鴎白天目・小玉澗の絵、薫なしの花入、宮王釜など38種の名物茶道具。
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九十九茄子:
永禄11(1568)年9月、信長への服属を表明するために松永久秀が献上。
もとは、佐々木道誉が足利義満に献上し、足利将軍家の家宝「東山御物」とされた。千利休の弟子山上宗二の記録によれば、御物からはずれて市場に出回っていたのを越前の朝倉教景が購入し、難を避けて京都に戻っていたところを松永久秀が入手したという。
本能寺の変後、焼け跡から発見され秀吉の手に渡り、さらに数奇な運命を経て、現在は静嘉堂文庫美術館に収蔵されている(安土城の「天守指図」も同じ場所にある)。
また、玉澗の「枯木絵」(宗室宛て書簡の「古木と小玉澗」)は、神屋宗湛が持ち出す。
宗室は空海の千字文を持ち出したという。
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また、「珠光小茄子」のエピソードとして、滝川一益がこの年の武田攻めの恩賞として欲しい物は何かと訊ねられ、「珠光小茄子」と答えたと云う。
しかし、信長はその願いを容れず、一益に上野1国と信濃の一部を与えたと云う。



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▽信長誘き寄せ説:
(吉田兼見が)、完成した本能寺御殿の披露も兼ねて、信長所有の茶器・名物を公家衆に見せてはどうかと村井貞勝に提案し、信長を上洛させたとの説。兼見の裏には誠仁親王?
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□「信長、尾張より起り、常に四方を平定するを以て志となす。虚美(きょび)を喜ばず。延臣或は征夷大将軍たらんことを勧む。信長曰く、『吾れ何んぞ室町の故号襲ぐをなさんと』」(「日本外史」)
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□フロイスの証言。「毛利(氏)を征服し終えて日本の全66カ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた」(「フロイス日本史」3)
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▽暦の問題。
信長は東国で用いられる「三島暦」(天正10年12月の次に「閏12月」がある)を採用するよう主張。
「京暦」では、閏月をどこに入れるかは、朝廷の陰陽師土御門家が決めており、天正11年正月の次に「閏正月」が入ることになっている。勝手に暦を変えると、朝廷では行事など様々な日程が混乱し、権威も失墜(一方の信長の権威は上昇する。
信長の横暴に憤った公家衆などが密かに謀略を企てたとする説がある。
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「十二月閏の事申し出、閏ある可きの由申され候。いわれざる事なり。これ信長無理なる事と、各申ことなり」(勧修寺晴豊の日記)。
この日、彼は並みいる公家たちに対し改めてこの間題を持ち出したものの、公家たちの粘り腰に負けて、発言を撤回したという。
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この時、本因坊算砂(サンサ)を招いて囲碁の御前対局。「三劫(サンコウ)」という劫が同時に3ヶ所に現れる非常に珍しい展開となり、打ち止め無勝負となる。後日、この三劫が変事の前兆だったのではと公家たちが噂したという。
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信長の供回りはわずかに小姓衆20~30人。馬廻衆は京都市中の町屋に分散して宿泊。
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6月1日
・徳川家康・梅雪一行、堺で、朝は今井宗久、昼は津田宗及、夜は松井友閑から茶の湯の接待を受ける。 
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「六月一日朝、宗久にて茶湯朝会。昼、宗牛(及)にて同断。晩ハ宮内法印にて茶湯。其後幸若ニ舞をまはせられ酒宴有之。徳川殿に、案内者として城介殿よりハ杉原殿。上様よりハお竹ヲそへられ訖。彼両人も座敷被出云々。堺南北の寺庵に寄宿」(「宇野主水日記」)。
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今井宗久:
信長が義昭を奉じて上洛するといち早く近づき、堺五ケ庄の代官職や、信長の直轄領但馬の生野銀山経営を任され、また鉄砲などの生産・販路にも携わる。
5月29日、家康が堺に下ると、早速家康を訪れ、家康から服などを贈られ、返礼として6月3日の自邸での茶会に招く(実現せず)。
6月1日朝、本願寺門跡の顕如を招いて茶会を行い、夜は堺代官松井友閑の屋敷に赴き、家康饗応の席に相伴(「宇野主水日記」)。
「変」報に接するのは当日夕方。「今井宗久茶湯日記抜書」は、「六月二日夕 今朝、於京都 上様惟日(惟任日向守の略)カ為ニ御生害ノ由、友閑老ヨリ申来候」と記す。
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津田宗及:
信長の茶頭で政商。
一方、光秀とは茶会などを通じて昵懇の間柄で、光秀が信長から茶会を許された後、天正6年(1578)から毎年正月の茶会に招かれる。
この年の正月7日、坂本城の光秀の茶会に山上宗二と共に招かれる。「宗及他会記」では、その茶室の床に「上様(信長)の御自筆之御書カケテ」とある。
また正月25日の茶会にも光秀は、「上様より御拝領」の「風炉平釜」を初めて使用した、とある。この頃(天正10年初頭)は、未だ信長に対して逆心を抱いてないようにも見える。或は、擬態を演じたのかも知れない。
5月17日朝、安土での松井友閑の茶会に招かれ、そのまま安土に留まる。
5月19日、信長の招きで上洛した家康饗応の席に相伴。
5月27日、京都の薬師竹田法印の茶会に赴く。21日に安土から入京した家康と行動をともにした可能性が強い。
5月29日、家康が堺に下ると宗及ら堺衆は代官松井友閑の指示により交替で接待役をつとめ、翌6月1日に自邸で家康招待の茶会を開く。
「変」に関する「宗及他会記」の記事は、「上様御しやうかひ也。惟任日向守、於本能寺御腹ヲキラせ申候。家康モ二日ニ従堺被帰候。我等も可令出京と存、路次迄上り申候。天王寺辺にて承候。宮法(松井友閑)モ従途中被帰候、」。
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「★信長インデックス」ご参照下さい。
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2010年2月25日木曜日

北の丸公園 マンサク サンシュユ カンザクラ カワヅザクラ ウメ 馬酔木

北の丸公園をざっと一周した。
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マンサク。
5ヶ所くらいに色の異なるのもがある。
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サンシュユ、というらしい(中国の漢字名を音読みしたそうだ)。
もう少し花が開くはずである。
ハルコガネバナともいうそうだ。
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千鳥が淵のカンザクラ
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吉田茂像の後ろのカンザクラは下のようになっている。
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何度もご紹介しているカワヅザクラ。満開である。
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ウメ。
これからだ。
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馬酔木(あせび)
馬が食べるとフラフラになったことから名付けられたそうだ。
これから開花すると思う。
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「★四季のうつろいインデックス」  「★東京インデックス」をご参照下さい
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2010年2月24日水曜日

江戸城東御苑 ウメ カワヅザクラ カンザクラ 沈丁花 シナマンサク ミツマタ 馬酔木 (2010-02-23、24)

ほぼ10日ぶりに江戸城東御苑を散歩。
2日かけて梅林坂、本丸、大手門付近を廻った。
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梅林坂のウメは見頃といってもいい頃ではないでしょうか。
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諏訪の茶屋脇のウメ
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大手門休憩所近くのウメ(鹿児島紅白梅)
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本丸跡のカワヅザクラ
(これは、北の丸公園の方が「勝ち」かな)
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本丸跡のカンザクラ
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大手門休憩所近くの沈丁花
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富士見櫓前のシナマンサク
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大手門休憩所前のミツマタ
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大手門休憩所前の馬酔木(あせび)
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「★四季のうつろいインデックス」   「★東京インデックス」をご参照下さい
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