天正10年(1582)5月
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6月1日
・信長、博多の豪商島井宗叱(室)・神谷宗湛らを招き本能寺の書院で茶会を開く。
茶道具38種や名物を安土から持参し参集した者達に披露。
権大納言甘露寺経元・勧修寺晴豊、正親町天皇・誠仁親王勅使として信長に面会。
信長は村井貞勝を通じ、面会はするが進物は受け取らないと伝える(「晴豊公記」)。同席の山科言経は進物を出したが返される(「言経卿記」)。
信長は、「4日に西国に出陣するが、いくさは造作もないことだ」(「天正十年夏記」(勧修寺晴豊日記「日々記」))と上機嫌で話し、晴豊は「なかなかの聞き事である(よく云うことよ)」と書く。
三職推任について返答せず。
信長は12月に閏を設けたいと述べるが、晴豊は皆も反対していると返答したと記す。
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その他の公家衆も各自挨拶に出向き村井貞勝を通じて信長に面会。
この日は宮廷における皇族を除く関白以下全員と五摂家(摂政・関白に任ぜられる家柄。近衛・九条・二条・一条・鷹司)を筆頭にほぼ全員の堂上公卿(昇殿を許された四位以上の公卿)40数人が顔を揃える。
信長は、持参した数々の名物茶器を彼らに披露し、茶菓子を出して歓談。
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○公家衆(公卿(参議又は従三位以上)の殆どが本能寺に伺候:
関白兼左大臣藤原内基、太政大臣近衛前久、右大臣兼内大臣近衛信基、前関白九条兼孝、前内大臣二条昭実、鷹司信房 聖護院道澄 今出川晴季 徳大寺公維 飛鳥井雅教 庭田重保 四辻公遠 甘露寺経元 西園寺実益 三条西公国 久我季通 高倉永相 水無瀬兼成 持明院基孝 山科言経 庭田黄門 勧修寺晴豊 正親町季秀 中山親綱 烏丸光宣 広橋兼勝 東坊城盛長 五辻為仲 花山院家雅 万里小路充房 冷泉為満 西洞院時通 四条隆昌 中山慶親 土御門久脩 六条有親 飛鳥井雅継 中御門宣光 唐橋在通 竹内長治
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「其外僧中、地下少々有之、不及記(そのほか僧侶や町人などの地下人が少々いたが、記述するほどではない)」(「言継卿記」)。。身分の低い者たちは記載していないが、50人超の人数であると窺える。
また、信長は、彼らが持参した進物を受領しなかったと、言継は記す。
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□6月1日付け信長の祐筆楠長諳が鳥居宗室に宛てた「御茶湯道具目録」(「仙茶集」)によれば、信長は安土から持って来た秘蔵の名物茶器を披露。
九十九茄子・珠光小茄子・紹鴎白天目・小玉澗の絵、薫なしの花入、宮王釜など38種の名物茶道具。
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九十九茄子:
永禄11(1568)年9月、信長への服属を表明するために松永久秀が献上。
もとは、佐々木道誉が足利義満に献上し、足利将軍家の家宝「東山御物」とされた。千利休の弟子山上宗二の記録によれば、御物からはずれて市場に出回っていたのを越前の朝倉教景が購入し、難を避けて京都に戻っていたところを松永久秀が入手したという。
本能寺の変後、焼け跡から発見され秀吉の手に渡り、さらに数奇な運命を経て、現在は静嘉堂文庫美術館に収蔵されている(安土城の「天守指図」も同じ場所にある)。
また、玉澗の「枯木絵」(宗室宛て書簡の「古木と小玉澗」)は、神屋宗湛が持ち出す。
宗室は空海の千字文を持ち出したという。
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また、「珠光小茄子」のエピソードとして、滝川一益がこの年の武田攻めの恩賞として欲しい物は何かと訊ねられ、「珠光小茄子」と答えたと云う。
しかし、信長はその願いを容れず、一益に上野1国と信濃の一部を与えたと云う。
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▽信長誘き寄せ説:
(吉田兼見が)、完成した本能寺御殿の披露も兼ねて、信長所有の茶器・名物を公家衆に見せてはどうかと村井貞勝に提案し、信長を上洛させたとの説。兼見の裏には誠仁親王?
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□「信長、尾張より起り、常に四方を平定するを以て志となす。虚美(きょび)を喜ばず。延臣或は征夷大将軍たらんことを勧む。信長曰く、『吾れ何んぞ室町の故号襲ぐをなさんと』」(「日本外史」)
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□フロイスの証言。「毛利(氏)を征服し終えて日本の全66カ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた」(「フロイス日本史」3)
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▽暦の問題。
信長は東国で用いられる「三島暦」(天正10年12月の次に「閏12月」がある)を採用するよう主張。
「京暦」では、閏月をどこに入れるかは、朝廷の陰陽師土御門家が決めており、天正11年正月の次に「閏正月」が入ることになっている。勝手に暦を変えると、朝廷では行事など様々な日程が混乱し、権威も失墜(一方の信長の権威は上昇する。
信長の横暴に憤った公家衆などが密かに謀略を企てたとする説がある。
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「十二月閏の事申し出、閏ある可きの由申され候。いわれざる事なり。これ信長無理なる事と、各申ことなり」(勧修寺晴豊の日記)。
この日、彼は並みいる公家たちに対し改めてこの間題を持ち出したものの、公家たちの粘り腰に負けて、発言を撤回したという。
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この時、本因坊算砂(サンサ)を招いて囲碁の御前対局。「三劫(サンコウ)」という劫が同時に3ヶ所に現れる非常に珍しい展開となり、打ち止め無勝負となる。後日、この三劫が変事の前兆だったのではと公家たちが噂したという。
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信長の供回りはわずかに小姓衆20~30人。馬廻衆は京都市中の町屋に分散して宿泊。
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6月1日
・徳川家康・梅雪一行、堺で、朝は今井宗久、昼は津田宗及、夜は松井友閑から茶の湯の接待を受ける。
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「六月一日朝、宗久にて茶湯朝会。昼、宗牛(及)にて同断。晩ハ宮内法印にて茶湯。其後幸若ニ舞をまはせられ酒宴有之。徳川殿に、案内者として城介殿よりハ杉原殿。上様よりハお竹ヲそへられ訖。彼両人も座敷被出云々。堺南北の寺庵に寄宿」(「宇野主水日記」)。
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今井宗久:
信長が義昭を奉じて上洛するといち早く近づき、堺五ケ庄の代官職や、信長の直轄領但馬の生野銀山経営を任され、また鉄砲などの生産・販路にも携わる。
5月29日、家康が堺に下ると、早速家康を訪れ、家康から服などを贈られ、返礼として6月3日の自邸での茶会に招く(実現せず)。
6月1日朝、本願寺門跡の顕如を招いて茶会を行い、夜は堺代官松井友閑の屋敷に赴き、家康饗応の席に相伴(「宇野主水日記」)。
「変」報に接するのは当日夕方。「今井宗久茶湯日記抜書」は、「六月二日夕 今朝、於京都 上様惟日(惟任日向守の略)カ為ニ御生害ノ由、友閑老ヨリ申来候」と記す。
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津田宗及:
信長の茶頭で政商。
一方、光秀とは茶会などを通じて昵懇の間柄で、光秀が信長から茶会を許された後、天正6年(1578)から毎年正月の茶会に招かれる。
この年の正月7日、坂本城の光秀の茶会に山上宗二と共に招かれる。「宗及他会記」では、その茶室の床に「上様(信長)の御自筆之御書カケテ」とある。
また正月25日の茶会にも光秀は、「上様より御拝領」の「風炉平釜」を初めて使用した、とある。この頃(天正10年初頭)は、未だ信長に対して逆心を抱いてないようにも見える。或は、擬態を演じたのかも知れない。
5月17日朝、安土での松井友閑の茶会に招かれ、そのまま安土に留まる。
5月19日、信長の招きで上洛した家康饗応の席に相伴。
5月27日、京都の薬師竹田法印の茶会に赴く。21日に安土から入京した家康と行動をともにした可能性が強い。
5月29日、家康が堺に下ると宗及ら堺衆は代官松井友閑の指示により交替で接待役をつとめ、翌6月1日に自邸で家康招待の茶会を開く。
「変」に関する「宗及他会記」の記事は、「上様御しやうかひ也。惟任日向守、於本能寺御腹ヲキラせ申候。家康モ二日ニ従堺被帰候。我等も可令出京と存、路次迄上り申候。天王寺辺にて承候。宮法(松井友閑)モ従途中被帰候、」。
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「★信長インデックス」ご参照下さい。
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