2020年11月30日月曜日

東京紅葉散歩(Day1) 日比谷公園・北の丸公園・東京駅前 2020-11-30

 11月30日、はれ

今日は東京の黄葉・紅葉を観に行った。

JR有楽町~日比谷公園~メトロ日比谷から神保町(三田線)~北の丸公園~東京駅のルート。総歩数は2万歩。

《2020紅葉散歩》

東京散歩 東京駅~和田倉噴水公園~皇居東御苑~北の丸公園~東京国立近代美術館~竹橋 銀杏の黄葉が進んでいる 2020-11-11

横浜散歩 横浜駅~みなとみらい~赤レンガ倉庫~山下公園~横浜公園~関内駅 横浜美術館周辺のメタセコイア、モミジバフウ、ケヤキの紅葉 山下公園のイチョウ黄葉が見頃 2020-11-13

鎌倉散歩 大巧寺~妙本寺~安国論寺~長勝寺~五所神社~光明寺~材木座海岸 安国論寺の黄葉・紅葉ともに始まっている 大巧寺の椿「花大臣」 2020-11-17

鎌倉散歩 一条恵観山荘と浄明寺 紅葉が始まっている 2020-11-18

鎌倉の紅葉 覚園寺と鎌倉宮 紅葉始まる 2020-11-21

鎌倉紅葉散歩 円覚寺~海蔵寺~寿福寺~妙本寺 コメダで休憩 2020-11-26

東京紅葉散歩(Day2) 小石川植物園 メタセコイアが真っ赤に紅葉 東大本郷は立入禁止だった お昼は神田の人気店「天ぷら なかざわ」 2020-12-01

鎌倉散歩 鶴岡八幡宮 長谷寺 坂ノ下海岸 2020-12-04


▼日比谷公園

お目当ては雲形池。

モミジの赤(紅)がまだ少しの感じだが、ほぼ予想通りだった。







▼北の丸公園
紅葉、予想より遅い感じかも?
橋の辺りは、黄と赤のグラデーションになってて欲しかったけど、、、
この分だと、見頃は来週かも、デスね。





▼東京駅前
イチョウは終わりかけているが、この晩秋の感じ、なかなか悪くなかった。




関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ16)「いまわのきわにも、律は付き添う鼠骨に、「寒川さん、もう連れて帰ってください。家へ帰って養生しましょ」といいつづけたという。律が頼りにしたのは、加藤家から養子に入って正岡の家を継いだものの、性格のあわない義母を避けるように学校も仙台と京都を選んだ忠三郎ではなく、最期まで鼠骨であった。」   

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ15)「明治四十四年八月四日、鼠骨が発案した江戸川べりでの旧友の会合には、子規十年忌を前に、子規庵と子規遺族のために善後策を練る狙いがあった。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ16)

日暮里駅には四方太、秀真もきていた。あらかじめ知らせた時刻の汽車には、上野から鳴雪と飄亭が乗っていた。悪天候にもかかわらず全員がそろった。・・・・・

川甚の席は江戸川へ突き出した涼桟敷であった。・・・・・

(略)

・・・子規庵を捨てて、律と八重が松山に帰るのを可とする説は、やはり出なかった。・・・・・子規庵保存会設立の合意を見た。

保存会は川甚につどった九名を発起人とし、地主の前田家と交渉して土地を譲ってもらう、先方が応じない場合は近所に土地をもとめて旧庵と同形の家を新築して遺物をおさめ、家族に住んでもらうと決めた。

二千五百円内外と見込んだ経費は、寄附を広くつのって当てることとした。一口一円、十円以上の寄附者には「俳句分類」の肉筆稿一枚進呈する。・・・・・

「ホトトギス」誌上に告知した寄附金は順調に集った。歌碑建立を目的としたそれ以前の寄附分を繰り入れると三千円に遷した。

飄亭が、かねがね親交のあった近衛家に前田家との仲介を頼み、鳴雪と碧梧桐が前田家家令と交渉した。しかし前田家は明治四十五年夏、根岸一帯は祖先伝来の土地であるから一部分でも売却はできない、と回答してきた。ただし土地は永久貸与するとした。

保存会は寄附金を銀行預金して基金とし、その利子分月十四円五十銭を遺族への補助にまわすことにした。以後、子規庵保存と遭族の心配は、鼠骨の担当となった。

大正に入ると、子規門子規旧友にもぽつぽつと物故する人があらわれる。

大正二年(一九二二)七月、左千夫が四十九歳で死んだ。大正四年二月には節、三十六歳。大正五年十二月には漱石が、まだ四十九歳の若さで死んだ。ついで六年五月、四方太、四十四歳。七年二月、秋山真之、五十歳。十一年七月、鴎外、六十歳。同年十月、蕨真、四十六歳。

(略)

加藤拓川が六十四歳で亡くなったのは大正十二年三月二十六日、子規没後二十一年である。

その直前の大正十二年二月十三日、子規旧友が日本橋亀島町の料亭に集った。死んだ左千夫、四方太にかわって、紅緑、中村楽天、佐藤肋骨が加わって十人、肋骨は日清戦争で負傷、隻脚(せつきやく)となったがのちに陸軍少将となる人である。

このときの話題の中心は、やはり正岡家の経済であった。律が共立の教職を前年に退いたのは、老齢の八重を置いて外出できなくなったからである。律は家で裁縫塾をひらいて暮らしを立てるというが、それでは不足だ。そこで旧友会一同が一人毎月五円ずつ援助することに決した。ただし、楽天のみが貧窮を理由にはずれた。

九人分で月に四十五円、虚子の「ホトトギス」からの十円を加えると五十五円になるが、時は第一次世界大戦バブル経済後の物価高である。現在の価値にして二十万円以下では、律の裁縫塾の月謝を加えても苦しい。

それから半年余りのち、関東大震災が襲った。子規庵は倒壊・焼失を免れた。だがなにしろ三十年あまり前に移築した古家である、だいぶガタがきた。旧友会の面々もみな大小の被害をこうむり、申し合わせた援助金を出すのがむずかしくなった。鼠骨は会にはかって、それまでの月ごとの利子分に加え、月四十円を基本金から取崩して援助することにした。


だがこの年末、事態は大きくかわる。前田家が根岸の土地すべてを売却して駒場に移ることになったのである。

永代貸与の約定は反古にされた。子規庵を買うなら、棟つづきの隣家とその土地も買わなくてはならない。前田家との交渉に肋骨があたった結果、古家の代金は免除となったが、隣家立退料千二百円は避けられない。その分は近衛家の若当主文麿に援助してもらう話を鼠骨がつけた。だが土地は全部で百坪、一万二千六百円という。

その資金を捻出する手段は、多く子規遺稿に頼った。「俳句分類」の原稿がまだ六十枚ほど残っていたので、表装したものを一枚五十五円で頒布した。法隆寺「柿くへば」の歌碑拓本を五円、秀真作の銅印を二円から十円で売りに出すとよく売れ、合計六千円になった。これに子規庵保存会基金を崩して加えた。

不足分は震災前から話のあった『子規全集』十五巻の印税を一時保存会が借用して埋めることにしたのは、出版界の隆盛が幸いしたのである。全集編集委員には碧梧桐、虚子、秀真、鼠骨の四人が名を運ねたが、実務作業は鼠骨と若い宵曲(しようきよく)柴田泰助が献身的に行った。

・・・・・柴田宵曲は、このとき二十七歳であった。同年夏から鼠骨が主宰した榎本其角「五元集」輪講につらなって記録をとり、その誠実な仕事ぶりが見込まれた。この席で宵曲は二十七歳年長の三田村鳶魚(えんぎよ)を知り、昭和二十七年(一九五二)、鳶魚が八十二歳で没するまで彼の江戸風俗研究の仕事に並みなみならぬ力を貸す。その生前を知らぬ弟子として子規山脈に連なった宵曲は、後半生を子規の文業整理にささげることになった。

正岡八重が死んだのは昭和二年五月十二日、八十二歳、子規没後二十五年であった。

子規庵でひとり住まいになる律を気づかい、昭和三年、鼠骨は子規庵隣家を保存会事務所と居宅を兼ねるべく改築して、一家をあげて移り住む。宵曲の仕事場もつくる。しかし鼠骨家族がその引越しに反対であったのは、元浅井忠のアトリエの居住環境が良好であったという理由のほか、律との事実上の同居を敬遠したからであろう。

同年、保存会は財団法人となり、折からの円本ブーム、全集ブームが保存会の財政基盤を固める。この頃、すでに保存会と鼠骨の人格は分かちがたいものとなっており、これがのちに正岡忠三郎と鼠骨の行違いの原因ともなる。

八重の死の前年、大正十五年二月には鳴雪が死んでいる。鳴雪は明治四十年、六十歳まで常盤会舎監をつとめ、あとを秋山真之の兄好古に託したのちは麻布笄(こうがい)町に自適して七十九歳で死んだ。碧梧桐と飄亭は、ともに昭和十二年に死んだ。碧梧桐六十四歳、飄亭六十六歳であった。中村楽天は昭和十四年、七十四歳で死んだ。

正岡律は昭和十六年五月二十四日に死んだ。子規没後三十九年、七十一歳であった。律に丹毒の症状が出て帝大病院小石川分院に入院したのは五月二日深夜で、一時好転したものの二十三日に急変した。・・・・・

いまわのきわにも、律は付き添う鼠骨に、「寒川さん、もう連れて帰ってください。家へ帰って養生しましょ」といいつづけたという。律が頼りにしたのは、加藤家から養子に入って正岡の家を継いだものの、性格のあわない義母を避けるように学校も仙台と京都を選んだ忠三郎ではなく、最期まで鼠骨であった。


つづく

菅首相「誠実に行ってきた」 桜を見る会、過去の答弁に(朝日);「菅義偉首相は30日の参院本会議で、負担を否定した過去の自身の国会答弁について「安倍前首相が国会で答弁された内容につき、必要があれば安倍前首相に確認し、誠実に行ってきた」と述べ、問題はないとの認識を改めて示した」 / 「桜を見る会」安倍氏の国会招致、菅首相は慎重姿勢(東京)      

 

安倍氏は知ってた? 916万円どこから? 「桜」の謎(朝日);「秘書が1年間も事実を説明しないとは信じがたい。普通、こういう問題があれば真っ先に議員に説明する」 ← だから検察にまで手を突っ込んだんだね    



 

2025年大阪・関西万博に橋下徹氏「松井さんが安倍さんにお酒を注ぎ倒して実現した」(スポーツ報知)

2020年11月29日日曜日

年末恒例の家族忘年会 2020-11-28

 11月28日(昨日)

ちょっと早めだけど、年末恒例の義兄夫妻との家族忘年会を開催した。

今年は、幼児2人を抱えた長男家族が参加しやすいようにと品川で。

、、、が、このところ連日報道されているコロナ感染拡大により、念のためにと長男家族は急遽欠席となった。これは仕方ないね。

会には参加しないけど、長男家族には会場に来てもらって、マゴちゃんへのプレゼントなどの受け渡しをした。

会はいつものように賑やかに進行、私は焼酎、義兄は日本酒、次男はビールと夫々グビグビ、よく飲みました。




【野田、石破、岸田が安倍に対して物言いを】 “桜前夜祭”、自民幹部からも安倍前首相に説明求める声(TBS) / 「安倍氏が自らの言葉で説明責任果たすべき」 野田聖子・自民幹事長代行、桜前夜祭 — 毎日新聞 / 「安倍前総理が賢明な判断を」桜問題めぐり石破氏— 朝日新聞 / 安倍氏説明努力が大事 「桜」夕食会問題で自民・岸田氏 - 産経ニュース  

 

松原耕二さん⇒北九州は100万人近い人口だが感染をほぼ抑えている。それは無症状にも広く検査をし感染を抑えたから。いまだに政府から出てくるのは、手洗い、マスク、3密だけ。北九州のような対策を打つことが医療を守り、経済をまわすことにつながる。(サンデーモーニング)   

#排除する政治~学術会議問題を考える 新しい形態の学問弾圧「菅首相は歴史に名前が刻まれる」 木本忠昭・日本科学史学会会長(毎日);「学問的に認められて会員に選ばれたにもかかわらず、そこに入れないということは、学問を発展させ社会に貢献する機会をも奪われたことになるわけです。本人の学問活動が妨害されるだけでなく、学術会議の学問の自由、自立性の侵害につながることは否定しようがないでしょう」 / #排除する政治~学術会議問題を考える 「まるでモラハラのよう」 矛盾だらけの「改革」論議 名大・隠岐さや香教授      

 

【国民に説明しない口実ばかりが量産される政権】 人事に関することだからお答えを差し控える、仮定の話だから、個別の案件だから、捜査中だから、裁判になると公判中だから..... / 菅政権、国会軽視も継承 「桜」夕食会補填疑惑、事実と異なる安倍氏の答弁33回判明 首相は再調査を拒否(北海道新聞);「立命館大の桜井啓太准教授が国会会議録検索システムで1970年からの国会で出た「お答えを差し控える」との答弁数を調べたところ、過去は年100件前後だったのが第2次安倍政権以降に急増し、17~19年は年500件を超えた」   

 



 

橋下氏、安倍氏「議員辞職もやむなし」 桜を見る会「確認すれば分かる」(デイリースポーツ) ;「これが事実なら、残念だけど議員辞職もやむなしだと思ってます」と.....

これ(Nikeの公式動画)いいなぁ → "動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting. | Nike" / 「ありのままに生きられる世界、待ってられないよ」。アスリートへの差別、いじめを描くナイキの動画が胸を打つ(ハフポスト日本版)   

 

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謎多き首相の資金集め 頻繁にパーティー、購入者は誰?(朝日);〈1回の規模を1000万円未満に抑えて数多く開催、パー券購入者は一人も記載されていない…27日朝から横浜市内のホテルで開かれた政党支部恒例の「経済人朝食会」には地元の経営者らが参加、会費は2万円で弁当が出た。講師は田崎史郎氏、本人は姿を見せずビデオで挨拶した〉

 



 


 

「菅語」を考える:論理的でない受け答え「首相の器ではない」 上西充子法政大教授 - 毎日新聞 ; 「菅さんが『先ほどから申し上げている通り』と言って聞かれたことと違うことを繰り返すのは、立憲民主党の枝野幸男代表が言ったように『壊れたレコード』です」 / 「菅語」を考える:小田嶋隆さんが読む首相の「恐怖政治断行」宣言 「小さな部屋の王様」の恫喝          

2020年11月27日金曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ15)「明治四十四年八月四日、鼠骨が発案した江戸川べりでの旧友の会合には、子規十年忌を前に、子規庵と子規遺族のために善後策を練る狙いがあった。」    

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ14)「八重は虚子を見て、鷹見夫人にこういった。 「のぼは清さんが一番好きであった。清さんには一番お世話になった」 それから八重は泣き伏した。隣室の四畳半から、気丈な律の泣き声が聞こえた。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ15)

終章 「子規山脈」 その後


明治四十四年(一九一一)は子規没後九年である。

その年の八月四日、子規旧知の者たちが親睦と相談を兼ねての納涼会を催した。行先は東京郊外葛飾、江戸川に面した柴又の旗亭川甚で、肝煎の寒川鼠骨が声をかけたのは、内藤鳴雪、中村不折、伊藤左千夫、五百木飄亭、坂本四方太、河東碧梧桐、高浜虚子、香取秀真の八人であった。

しかし、あいにくその日は朝から強い風雨の悪天候だ。・・・・・この時期、鼠骨は子規庵に近い上根岸の、かつて浅井忠のアトリエだった家に住まいしていた。浅井忠はすでに明治四十年十二月、五十一歳で死んでいる。・・・・・

午前十時、虚子がずぶ濡れの姿で鼠骨宅にきた。・・・・・

このとき鼠骨も虚子も師匠の年齢を追い越して、三十七歳の男盛りである。ふたりで子規没後のあれこれを語りながらビールを飲むうち、左千夫がきた。子規より年長であった左千夫は四十七歳、長老格鳴雪の六十四歳につぐ年かさである。

雨が小やみになったので左千夫が不折を迎えに行き、鼠骨と虚子は、これも近くに住む碧梧桐宅へ行った。連れ立って日暮里駅へ向かう碧虚両人の、わだかまりなく談笑する姿が鼠骨にはうれしい。

というのは、子規没後一年の明治三十六年、碧梧桐の「温泉百句」を虚子が批判していたからだ。それまでは雑誌の編集方針をめぐっての違和であったが、俳句そのものも相容れぬことを示した最初の事件であった。


・・・・・明治三十七年秋、留学帰りで一高と東京帝大文科大学で教える漱石に、虚子は「ホトトギス」に載せる散文を頼んだ。漱石は自らのノイローゼ治療の一環として引受けた。できあがった原稿を虚子が子規庵定例の「山会」で朗読すると、座は明るい笑いに満ちた。漱石に続稿を促したのも、『猫伝』とあった題名を、冒頭の一文からとって『吾輩は猫である』とするよう勧めたのも虚子であった。

明治三十八年一月号に始ったこの小説には月ごとに読者がつき、「ホトトギス」の売行は向上した。漱石の「発見」といい、題名の選択といい、虚子には編集者としての眼力が備わっていた。のんびりしているように見えて出版業を成功させる手腕を併せ持つ虚子と漱石は、昔からウマの合う間柄であった。

翌明治三十九年の「ホトトギス」は、さらに小説づいた。一月、左千夫の可憐な『野菊之墓』、四月は漱石『坊っちゃん』二百二十枚を巻末付録に一挙掲載、五月には漱石が推薦した鈴木三重苦の小説第一作『千鳥』を載せた。

漱石が教職を辞して東京朝日新聞の社員作家となった明治四十年、これも漱石が推した野上八重子(弥生子)の第一作『緑』が、明治四十一年には長塚節初の小説『芋掘り』が「ホトトギス」に載った。虚子自身もこの年、最初の小説集『鶏頭』を漱石の序文つきで刊行し、徳富蘇峰の「国民新聞」に『俳諧師』を連載した。虚子は蘇峰に招増され、明治四十一年秋には国民新聞社の文芸部長となった。

だが、漱石が東京朝日にしか書かなくなると「ホトトギス」の部数は急減した。虚子は明治四十三年九月に国民新聞社を退社、明治四十四年秋からは「ホトトギス」を本来の句誌に戻して、その頽勢挽回に全勢力を傾けることにした。だがそれは、少年時代以来「よく親しみよく争」った碧梧桐との、決定的な別れにつながった。

やがて大正年間に入ると碧梧桐はこんな句をつくるようになる。


曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ  碧梧桐

菊がだるいと言つた堪へられないと言つた

菜の花を活けた机をおしやつて子供を抱きとる


季題は残るものの、完全な自由律の方向へと進む碧梧桐と虚子は、ついに相容れない。


この間、子規の故郷というべき新聞「日本」も事実上消滅している。

子規の死の翌年、明治三十六年六月から三十七年一月までヨーロッパ視察旅行に出た陸羯南は、その旅途結核を発病した。弱小ながら政論紙の立場を崩さなかった「日本」だが、日露戦争前後からさらに売行が落ちたうえに自らも病床について万策尽きた感のある羯南は、明治三十九年六月、新聞を売却した。

だが、新社主の編集方針に強く反発した社員らは、明治三十九年十二月、連袂退社、明治四十年一月、三宅雪嶺が主宰し、南方熊楠が常連執筆者であった雑誌「日本人」に合流、誌名を「日本及日本人」と改めた。羯南はその年の九月、鎌倉で死んだ。五十歳であった。

子規の短歌の仕事を受継いだ伊藤左千夫の身辺も変転した。
左千夫は明治三十六年六月、歌謡「馬酔木」を創刊したが、四十一年一月をもって廃刊した。この時期の左千夫は小説に集中し、また急速に仏教に傾斜した。明治三十八年九月からは子規の命日につどう「十九日会」をつくつたが、それは歌会ではなく、趣味と信仰を語りあう会であった。
「馬酔木」廃刊の翌月からは歌誌「アカネ」が三井甲之(こうし)を中心に発刊された。
三井甲之は子規のもっとも晩年の弟子で、子規が没したときは十九歳、まだ東京帝大国文科の学生であった。左千夫が、自分の見込んだ甲之と間もなく疎遠となったのは、左千夫が鴎外主宰の観潮楼歌会に招かれ、かつて子規と対立した与謝野鉄幹、佐佐木信綱と同席したことを甲之が「アカネ」誌上ではげしく攻馨したためであった。
甲之と「アカネ」を見限った左千夫は、下総に帰った子規門の蕨真が明治四十一年十月に創刊した「阿羅々木」に加わり、明治四十二年秋には発行元を東京の左千夫宅に移して「アララギ」と改名した。子規門でこの雑誌に残ったのは、左千夫、蕨真、長塚節、森田義郎だけであった。しかしやがて島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫(ちから)、中村憲吉、土屋文明ら、有望な若い歌人たちがつどった。
左千夫自身の歌は、搾乳業が壊滅的打撃を受けた明治四十三年八月の大洪水や、あいつぐ近親の不幸に見舞われた末に、晩年悲愁の色を濃くしてゆく。

濁水(にごりみず)の池を八十(やそ)たび悔いめぐり嘆(なげ)き見しかどはきものも無く  左千夫
今朝(けさ)の朝の露ひやびやと秋草や総べて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光

三十三歳から共立女子職業学校で三年間学んで母校の事務員となり、ついで本科の裁縫教員となっていた正岡律は、明治四十四年には四十一歳になっていた。
子規死後も正岡家には「ホトトギス」から月十円の援助がつづけられ、さらに子規旧友十人が一円ずつ拠出して月に十円、これと律の給料が子規遺族の暮らしを支えていた。だが、不景気なのに物価は上昇する日露戦争後の社会で、暮らしは楽ではない。律は、これ以上は子規庵を維持しかねるから東京をたたんで松山へ帰ろうかと思う、と鼠骨に相談をかけた。
明治四十四年八月四日、鼠骨が発案した江戸川べりでの旧友の会合には、子規十年忌を前に、子規庵と子規遺族のために善後策を練る狙いがあった。

つづく


菅義偉は疲労の極に達している。主な要因はコロナ対策と経済回復を同時にやろうとする菅を忖度しない尾身茂分科会会長だ。官邸スタッフは「政府の組織なのだからこっちの意向に沿って発言しろ、と。ところが尾身さんは無視して危機を訴える。総理は怒っていますが、下手に圧力をかければ学術会議の二の舞になるのでイライラが募っている」という(元木昌彦の深読み週刊誌)   

 

「なぜGoToに触れないのか」「緊急事態宣言は」「会見しましょうよ」 ; 菅首相はメモを読んだあと、一部総理番記者からの質問を無視して立ち去りました(11/26) / 共産・志位和夫委員長 「新型コロナウイルス感染拡大がこれだけひどいのに、記者会見を1回もやっていないのも、どういうことなのか。不安が国民に広がっているのに、政治のリーダーから責任ある声が聞こえてこないのは異常なことだ」     



 

《高級ホテルで「1500円でできるのでしょうか」。この問いに菅氏は答える必要があります》「桜」と同じ構図 / 菅首相の開催パーティー収支が「不記載」 週刊誌報道(朝日) / 菅首相の2500人パーティー 政治資金報告書に不記載だった(NEWS ポストセブン) ;〈地元のパーティー企画運営会社「ソフトドリンクとスナック菓子だけで1時間だとしても、お客さんの誘導などのスタッフは必要ですから1人5000円くらいが相場です。会費1500円なんて当社には絶対無理です」〉   



 

2020年11月26日木曜日

鎌倉紅葉散歩 円覚寺~海蔵寺~寿福寺~妙本寺 コメダで休憩 2020-11-26

 11月26日、はれ

今日は鎌倉を散歩。

JR北鎌倉駅~円覚寺~亀が谷坂経由~海蔵寺~寿福寺~コメダで休憩~大巧寺~妙本寺~JR鎌倉駅のコース

総歩数1万7千歩

円覚寺の紅葉、まだ少し早いのかな? イマイチのように感じた。

総門右側のイチョウはかなり散ってるように見えたので、早いということはないかも知れない。

今日は久しぶりに国宝鐘楼と漱石が参禅した帰源院を見てきた。

▼円覚寺







▼明月院への道

▼海蔵寺への道


▼寿福寺

▼妙本寺

▼コメダで休憩


田崎史郎氏、安倍前首相の「桜を見る会」疑惑は「国会で答弁されたのは、ご本人ですから、きちんとけじめはつけなきゃいけない」(スポーツ報知);「安倍総理と秘書のやりとりは我々にはまったく分かりませんよね。でも、それを秘書のせいにしてはいけないんだと思います。国会で答弁されたのは安倍総理ご本人ですから。きちんとけじめはつけなきゃいけないと思います」

 

GoTo、強気の菅首相 効果に自信、「元凶説」否定 予算委(時事);「『トラベル』が主要な原因だというエビデンス(証拠)は存在しない」。首相は衆院予算委で、「Go To事業を見直さず、感染を広げた反省はあるか」とただした共産党の宮本徹氏にこう反論。一連のキャンペーンは今回の感染拡大と「直結していない」と主張した。 / 首相がGoTo縮小反対? 「失敗」認めたくないから? 専門家の警告にも動き鈍く - 毎日        

 

参院予算委11/25 田村智子議員 「理由もわからずに、権力から突然排除されることの恐ろしさ」 学術会議の推薦した候補6人をなぜ任命拒否したのか? その理由を菅総理がいまだ説明しないことへの、本質的な問いかけ (動画)   

 

2013年に、桜前夜祭の政治資金収支報告書への記載方法を、安倍氏側が問い合わせ、総務省は支出があれば記載する必要があると回答をしていたとのこと(読売)    

 

桜を見る会 前夜祭の “補てん領収書” 安倍氏側が廃棄か(News23動画) / 安倍前首相側、ホテルが発行した領収書廃棄か 「桜を見る会」前夜祭(毎日) / ホテルの領収書の宛先は、後援会ではなく安倍前首相の資金団体でした。しかも受領後に廃棄された疑いも(東京)   



 

2020年11月25日水曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ14)「八重は虚子を見て、鷹見夫人にこういった。 「のぼは清さんが一番好きであった。清さんには一番お世話になった」 それから八重は泣き伏した。隣室の四畳半から、気丈な律の泣き声が聞こえた。」   

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ13)「虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。 「子規逝くや十七日の月明に」 虚子の口をついて出たのは、この一句であった。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ14)

虚子が子規庵に戻ると、月光におよばぬランプの黄色い光に照らされた三人の女性が、死者のそばに座していた。

八重は虚子を見て、鷹見夫人にこういった。

「のぼは清さんが一番好きであった。清さんには一番お世話になった」

それから八重は泣き伏した。隣室の四畳半から、気丈な律の泣き声が聞こえた。彼女はひっそりとそちらに移っていたのである。

やがて羯南がきた。碧梧桐、鼠骨がきた。羯南夫人がきた。

(略)

若い三人と羯南とで葬式の相談をし、土葬、東京近郊の寺、質素に、ということで一致した。新聞広告は出さない。松山の親戚はわざわざ上京の要なし。諸方連絡のうえ、「ホトトギス」に死亡通知を載せる。それらも四人で決めた。

次第に人がつどった。一度帰宅した羯南夫人が長女まきを連れてきた。まきは子規と親しかった。碧梧桐夫人繁栄と静がきた。

その頃夜が明けた。虚子は「ホトトギス」に死亡通知を急遽挿入するべく去り、鼠骨は各所に電報を打つため子規庵を出た。

八重と律が子規の姿を直した。蒲団からはみ出していた脚を戻し、左に傾いた体を正しく仰臥させようと死者の肩を起こした八重が、「サア、もう一遍痛いというてお見」と語りかけた。その言葉に碧梧桐は粛然とした。

(略)

・・・・・午後四時頃から沛然たる雨となり、雷鳴がとどろいた。その豪雨の中をふたり(*滝野川の大竜寺に行っていた鳴雪と碧梧桐)が帰った頃、茨城県から長塚節が出京してきた。・・・・・

通夜は二日に分けて行うこととした。この日九月十九日の当番は、左千夫、四方太、義郎、秀真、蕨真、紅緑であった。・・・・・

翌九月二十日の午前十時頃、虚子、碧梧桐、鼠骨、鳴雪が子規庵にきた。・・・・・

二十日の通夜の当番は虚子ら四人と飄亭、麓であったが、俳人、歌人たちのほか「日本」の社員ら二十余名が列席、「談笑平生の如くあるべし」という子規の遺言どおりとなった。「ホトトギス」第五巻十一号の見本があがったのはこの日夕刻で、ページを繰ってみると、子規最後の原稿「九月十四日の朝」の文末半ページに、虚子が挿入した「通知」が載っていた。

「子規子逝く 九月十九日午前一時遠逝せり」

九月二十一日は日曜日の葬儀であった。午前九時出棺。

会葬者は百五十余名におよび、子規庵前の狭い鶯横町は人で身動きもならぬありさまとなった。少し遅れて到着した秋山真之は、人混みのいちばんうしろから一礼して去った。

(略)


虚子と碧梧桐連名でロンドンの漱石に、子規終焉のようすを知らせる手紙を書いたのは十月三日であった。

漱石はすでに「ホトトギス」の九月二十日発行分で子規の死を知っている、という前提で手紙は書かれていた。また子規辞世三句はその後の新聞に掲げられたので、それも承知だろうとしながらも、いちおうあらためてつたえた。・・・・・

子規の臨終の模様は、このように書かれた。


(九月十九日)午前一時頃、余り静かなりとて不図(ふと)手を握り見しに已(すで)にこと切れ居りしといふ有様にて、殆ど薬も間に合はず死去せし有様に候。到底は覚悟致居候ひしも、かく急な事にはとも存ぜざりし者多かりしに、実に何人も悲痛驚愕の外無之(ほかこれなく)候。(・・・)

先日浅井(忠)先生帰朝、一度御尋ね被下候て、大兄の御近状をも聞きたる様子に候。実は御帰朝の日を待ち焦れ居りしものならんと、何事も悲しみの種と相成申候。


筆者はおそらく碧梧桐であろう。

漱石がクラバム・コモンの下宿でこの手紙を読んだのは十一月下旬であった。十一月三十日、漱石は北向きの寒い部屋のストーブのかたわらに座し、「倫敦にて子規の訃を聞きて」と題して句作した。


手向(たむ)くべき線香もなくて暮の秋   漱石

霧黄なる市に動くや影法師

ぎりぎりすの昔を忍び帰るべし


(略)

・・・・・碧・虚両名の見込みとは異なり、まだ「ホトトギス」誌上の計報も見ず、辞世三句も知らずにいた漱石は、子規長逝の報に接したとき、英国滞在中はじめてすんなりと句ができた。子規が漱石に、日本の風土と友情を思い出させたのである。

漱石は、十二月一日付高浜虚子宛の手紙に書いた。


小生出発の当時より、生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但し、かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方、或は本人の幸福かと存候。


(略)


「同人生前の事につき何か書けとの仰せ、承知は致し候へども」と漱石がつづけたのは、碧梧桐と連名の手紙を追ってすぐ、虚子からの執筆依頼が届いていたからであろう。


文章などかき候ても、日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。又西洋語にて認め候へばくるしくなりて日本語にし度なり、何とも始末におへぬ代物と相成候。


だから当面は勘弁してくれというのである。

漱石が帰国の途についたのはこの四日後、十二月五日であった。ロンドンのアルバート埠頭から博多丸に乗った。・・・・・

(略)

シンガポール発は明治三十六年一月十二日、長崎着一月二十日であった。一月二十二日真夜中に長崎を出航、二十三日昼、神戸に上陸した。旅館で小憩したのち、夕方六時の夜行急行に乗り、翌二十四日午前、新橋に着いた。

矢来町の家に帰った漱石は、一月二十七日、大竜寺の子規の墓に参った。虚子とはそれから間もなく、神楽坂で会食した。


スコットランド旅行から帰ったばかりの漱石がまだロンドンにいた明治三十五年十一月六日、子規四十九日忌の追悼句会が子規庵で催された。参会四十一人と盛況で、すわる場所にも苦労した。この句会の成果を含んだ「ホトトギス 子規追悼集」は虚子の手で編まれ、子規百ヵ日にあたる十二月二十七日に出た。

明治三十六年三月、虚子は子規の母八重をともない、三週間あまり京阪神に遊んだ。・・・・・


つづく



松沢哲郎「懲戒の知らせを受けて」を読んだ。新聞報道だけでは知らされていないことがあるんだ。

菅首相「事実と違えば私にも責任」 桜めぐる安倍氏答弁(朝日) / 官房長官時代の「桜」対応、「安倍前首相に確認して答弁」(読売) / 「桜」疑惑、向き合わぬ首相 「答弁控える」25回/安倍氏へ確認応ぜず / 「捜査機関の活動に関わるので」首相繰り返す     



 

2020年11月24日火曜日

財務金融委員会(11/24) 「赤木ファイル」提出についての階猛議員の質問に、麻生太郎が「森友学園問題の全容は未だに明らかになっておりません」と答弁。慌てた官僚が、勝手に出てきて答弁中の麻生大臣に言い直させる。              

「朝鮮学校にエアコンを」CFに1000人から800万円超 韓国からも、児童喜び (京都新聞)  / ドミノピザ、朝鮮学校(千葉、愛知)に無料でピザを配る 「朝鮮学校が『高校無償化』除外と言う差別の中、保護者の方々の苦労と、そんな中でも逞しく勉学に励む愛知朝鮮中高級学校の生徒さんに暖かい声援を込めて」支援を決定

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ13)「虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。 「子規逝くや十七日の月明に」 虚子の口をついて出たのは、この一句であった。」   

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ12)「ヘチマの葉が、あるかなきかの風にひらひらと動く。そのたびに肌に秋の涼しさがしみこむようだ。苦極(くきわま)って暫時病気を感じぬ気分となった。そのことがありがたくて、文章にしてみたくなった。口述し、虚子が筆記した。それが『病牀六尺』の短文を除けば、子規最後の原稿となる「九月十四日の朝」である。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ13)

子規逝くや


明治三十五年九月十六日、「日本」紙上の『病牀六尺』は休載となった。五月十一日以来のことである。

九月十七日、その百二十七が掲載された。それは、九月十二日以来『病牀六尺』の稿が短いことを詫びた、七十字あまりのやはり極端に短い一稿であった。

子規は自らを、身動きのとれぬ「達磨(だるま)」に擬して、「達磨儀も盆頃より引籠(ひきこも)り、縄鉢巻にて筧(かけひ)の滝に荒行中、御無音(ぶいん)致候」としるした文末に、「俳病の夢みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか」の一首を添えた。結果として、これが最終回となった。

九月十七日の子規は、朝から痰が切れない。一度粥を少量食したのちは、レモン水を口にしたばかりである。子規が母八重に、四国松山の大原家へ電報を打とうかといったのは、自らの終焉が遠くないと覚ったからであろう。

(略)

この日、正岡家では子規の誕生日を祝い、赤飯を炊いた。例年なら、十月中旬から下旬の旧暦九月十七日に祝うのだが、あえて新暦の同月同日にしたのは、翌月まではもたぬと見切ったからである。赤飯は陸家にも届けられたが、祝宴のない静かな誕生日であった。

九月十八日は朝から容態がおかしかった。宮本医師を、陸家の電話を借りて呼んだ。異変を知った羯南がやってきた。午前十時すぎ碧梧桐がきた。

子規のようすを見た碧梧桐が律に、虚子は呼んだかと尋ねた。いえ、まだ、と答えた律の声に、子規が、「高浜も呼びにおやりや」と小さな声でいったので、十一時頃、碧梧桐が再び陸家の電話を借りに行った。


戻った碧梧桐と律が介添えして、病床の子規の眼前に画板を掲げた。子規の手に、墨汁をふくませた筆を持たせた。辞世の句を書かせようとしたのである。

子規は、画板に貼った唐紙の中央に、

「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」

と書き、筆を投げた。

顔をとって四、五分後、最初の句の左側に、

「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

と書いて再び筆を捨てた。

さらに四、五分、苦しい気息を整えて、逆側に、

「をととひのへちまの水も取らざりき」

と書くと三たび筆を捨てた。落ちた筆の穂先が、敷布を少し染めた。この間、子規は終始無言であった。

へちまの水は旧暦の八月十五日にとろのをならいとする。それに従えなかったのが無念、といっている。

痰の切れる薬を持参した柳医師が、親戚に連絡せよというのとほぼ同時に、子規は昏睡に入った。到着した虚子と碧梧桐が相談のうえ、在京する親戚にはハガキで報ずることにし、急ぎしたためた。

夕方五時前、目覚めた子規が苦悶のようすを見せたのでモルヒネを与えたが効果はない。五時半頃、宮本医師が来訪して胸部に注射すると、子規は再び昏睡した。羯南の長女まきと加藤拓川夫人がきた。

六時すぎ、碧梧桐が去った。「ホトトギス」五巻十一号を校了にするためであった。この時期、俳書の刊行に力を注ぐ虚子にかわって、碧梧桐が雑誌実務を担っていた。七時すぎ、寒川鼠骨がきた。碧梧桐の姉静がきた。

八時前に子規は目覚め、コップ一杯の牛乳をゴムの管で吸った。この朝、陸家から届けられたおも湯を、わずか口にして以来であった。

「だれだれが来ておいでるのぞな」と子規が尋ねた。

「寒川さんに清(きよ)さんにお静さん」と律がこたえた。

それが、子規の生前に発した最後の言葉となった。子規は、そのあとただちに昏睡に入った。

虚子が松山の大原恒徳に手紙を書いているとき、午前中に出されたハガキを夕方の配達で受けとった松山以来旧知の鷹見夫人がきた。・・・・・

・・・・・

十一時をすぎた。八重と鷹見夫人が子規のかたわらに侍し、律と虚子は一応就床して半夜で交替することにした。

・・・・・

八重の、「のぽさん、のぽさん」と呼びかける声に虚子は起こされた。鷹見夫人も唱和するその声には切迫感がある。律も病間隣りの四畳半から起き出してきた。

時々うなっていた子規が、ふと静かになった。鷹見夫人と昔話をしていた八重が手をとってみると、冷たい。呼びかけにも反応しない。顔をやや左に向け、両手を腹にのせて熟睡しているかに見えるが、額は微温をとどめるのみであった。子規の息は、母親が目を離した隙に絶えていた。

旧暦ではまだ八月十七日、新暦では明治三十五年九月十九日になったばかりの午前十二時五十分頃であった。子規の生涯は満三十四年と十一ヵ月余りであった。

律は陸家に走った。家人を起こし、電話を借りて宮本医師に報じた。

虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。

「子規逝くや十七日の月明に」

虚子の口をついて出たのは、この一句であった。


つづく




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2020年11月23日月曜日

お寿司屋さんで次男と一杯 2020-11-22

 11月22日(昨日)

3連休(11/21~23)、次男が戻って来たので、初日はウチ呑み、2日目の22日は自宅近くのお寿司屋さんで一杯やった。

塩竃のお酒、浦霞が優しい味でおいしかった。

意外にもお店が混んできて、2時間ちょっとでお開き、あとは焼酎「佐藤」でウチ呑みに。







関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ12)「ヘチマの葉が、あるかなきかの風にひらひらと動く。そのたびに肌に秋の涼しさがしみこむようだ。苦極(くきわま)って暫時病気を感じぬ気分となった。そのことがありがたくて、文章にしてみたくなった。口述し、虚子が筆記した。それが『病牀六尺』の短文を除けば、子規最後の原稿となる「九月十四日の朝」である。」   

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ11)「子規は狂喜した。そして翌日から二日間、「渡辺のお嬢さん」なる美女を主人公とした物語を『病牀六尺』に掲げた。 (略) この「渡辺のお嬢さん」の物語は八月二十四日の分だけで原稿用紙八枚半分もあり、『病牀六尺』中の最長編となった。」

続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ12)

八月二十七日、パリから帰国した浅井忠が訪ねてきた。痛みはあっても子規の機嫌はよかった。つぎは漱石だ。運がよければ不折にも再会できる。

だが、その直後から容態がおかしくなった。下痢がはげしい。あれほどの健啖ぶりをしめした子規なのに、なにを食べてもまずい。日に日に衰弱する。

九月はじめ、子規の足の甲が腫れていることに気づいたのは律であった。しかし本人には感覚がない。それが水腫なら終焉は近い。律は子規には知らせずにいた。

しかし九月八日の夜から足の腫れは一気にすすんだ。九月九日に医者に見せたが、血液の循環障害だといわれた。治療の手だてはない。われとわが脚を眺めた子規は、「甚だ不気味なものじゃな」とつぶやいた。


(略)


子規門のおもだった面々が、毎日看病当番にあたることにかわりはなかったが、泊りは夏のあいだやめていた。今度こそ宿直を復活せざるを得ない段階だと衆目は一致した。

さらに数日、水腫は脚部全体、腿の上部までおよんだ。まさに丸太である。それまでもほとんど動かすことができなかった脚だが、このたびは様子が違う。律の手がかすかに触れても痛む。おのれが微動させるだけでもおそろしい痛みを生ずる。


(略)


九月十三日、碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、虚子、それに長塚節が子規庵につどった。子規、病重篤の報がまわされたのである。

その夜、泊ったのは虚子であった。午前一時頃、子規は蚊帳のなかで眠った。それをたしかめた隣室の虚子も眠った。

夜中、「おいおい」と律を起こす声が聞こえた。不分明な濁った声であった。「大便を掃除しておくれ」

すでに意志的には排泄できない身の上となっている子規は、おむつのような布をたくさんあてていて、用が生じたら律が始末をする。昼も夜もそれはかわらない。

強い臭気が隣室の虚子のもとに届いた。虚子はそれを厭うというより、そんな状態に立ち至った子規を思って、ひそかに泣いた。まさに暗涙であった。

九月十四日朝、子規は六時に目覚めた。と同時に律を呼んだ。虚子も起きた。雨戸をあけ、蚊帳をはずす。

子規は起き抜けの渇きを癒し、口中の不快を消すために、枕元に置かれた甲州葡萄を十粒ほど食べた。何ともいえぬうまさだ。病間の窓の外には三メートルほどの高さにかけた竹の棚があり、日よけの葦簀(よしず)を載せてある。そこから入ってくる空気の、なんとさわやかなことだろう。もう秋だ。


登りかけて居る糸瓜(へちま)は十本程のやつが皆痩せてしもうて、まだ棚の上迄は得取りつかずに居る。花も二三輪しか咲いていない。正面には女郎花(おみなえし)が一番高く咲いて、鶏頭は其よりも少し低く五六本散らばって居る。秋海棠は尚(なお)衰えずに其梢(こずえ)を見せて居る。余は病気になって以来今朝(けさ)程安らかな頭を持て静かに此庭を眺めた事は無い。嗽(うが)いをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆亮が来た。(「九月十四日の朝」)


納豆を律に買いにやらせたのは、食べたいからではなかった。旧加賀藩の貸家群が並ぶこのあたりは袋小路ばかりで、滅多に物売りが入ってこない。だから、たまに入ってきた納豆売りの「奨励」のためである。めずらしい売り子の声に、小路のあちこちから声がかかる。みな似たような気分なのである。

ヘチマの葉が、あるかなきかの風にひらひらと動く。そのたびに肌に秋の涼しさがしみこむようだ。苦極(くきわま)って暫時病気を感じぬ気分となった。そのことがありがたくて、文章にしてみたくなった。口述し、虚子が筆記した。それが『病牀六尺』の短文を除けば、子規最後の原稿となる「九月十四日の朝」である。

虚子は原稿を持ち帰り、すぐに「ホトトギス」に掲載すべく印刷所に入れた。だが、「ホトトギス」第五巻十一号の発行は明治三十五年九月二十日、子規の死の翌日である。


つづく




「京都は感染拡大地域外」府知事が認識示す GoToトラベル対象外の基準に当たらないと主張 — 京都新聞

 

「困窮支援相談員」の呆れるほどに悲惨な待遇 「ハローワークの内側」も貧困の巣窟だった(藤田和恵 東洋経済);「生活困窮者自立支援制度の元相談員の方の話です。コロナ禍で新規相談件数は前年同期比で5倍に増えた窓口もあると聞きましたが、最前線の相談員の待遇は依然として「手取り16万円」の水準です」(藤田和恵)   

「イージス・アショア」選考過程で不正か ロッキード社優遇、特捜部も捜査(週刊新潮11月19日号掲載)   

大阪で最多490人感染 陽性率が上昇 経路不明76%(テレ朝) / 検査数2611件 陽性率18.9% / 20日に対策本部で想定したワーストケースよりも既に悪化(22日の日曜日に) / 大阪府で病床使用率90.0% 人口呼吸器装着数も全国最多

 



 

「桜を見る会」懇親会 安倍前首相の周辺関係者 一部負担認める ← 公職選挙法違反と政治資金規正法違反を認めたと言うこと / 「桜を見る会」の懇親会 領収書は安倍前首相代表の団体宛て / 安倍前首相秘書ら任意聴取 「桜を見る会」前夜祭巡り 東京地検特捜部(日経) / “安倍前首相側 800万円以上負担”示す内容 ホテル側領収書に(NHK)/ 安倍前首相の秘書を東京地検が事情聴取と読売が報道!「桜を見る会」前夜祭問題で→安倍首相「桜を見る会前夜祭」で会費を払っていない有権者が複数! 公選法の「買収罪」に相当、少額・少人数でも議員逮捕のケース(リテラ)       

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